三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月2… 三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1981年〈昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡高田村(能美町を経て現:江田島市)で生まれる。広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位/149名の好成績で卒業。1912年(大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。 1916年、海軍大尉に進級。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8… 原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8日 - 1947年(昭和22年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士22期、陸大28期。 愛媛県鵜足郡土居村(香川県那珂郡丸亀町を経て現丸亀市土居町)で生まれる。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を卒業し陸軍士官学校に進んだ。 1927年(昭和2年)末、大使館附武官として中国大陸に赴任。1931年(昭和6年)8月から一年間南京にて同職をつとめ、この間、混合委員会共同委員として上海停戦協定に尽力した。 日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として大陸に駐屯し、1939年(昭和14年)1月梁鴻志の懇請により中華民国維新政府の最高顧問に就任。
迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 … 迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 - 1953年(昭和28年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 鹿児島県姶良郡、のちの加治木町(現姶良市)出身。陸軍経理学校第4期主計候補生として1910年(明治43年)5月24日に卒業した。1934年(昭和9年)6月28日に陸軍省経理局監査課長に就任し、8月1日に陸軍一等主計正に進級した。1937年(昭和12年)8月に第1軍経理部長に就任し、日中戦争に出動した。 1938年(昭和13年)7月に陸軍主計少将に進級し、1939年(昭和14年)8月に関東軍倉庫長に転じた。1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、12月1日に陸軍経理学校長に就任。
河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月2… 河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月29日 - 1949年(昭和24年)2月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1888年(明治21年)に広島県福山市で生まれ、1890年(明治23)に福山誠之館を卒業。陸軍士官学校第23期卒業。1936年(昭和11年)8月に輜重兵第2連隊長(第2師団)に就任し、満州に駐屯した。1937年(昭和12年)8月に陸軍輜重兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)7月に自動車第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に輜重兵科教育を行う唯一の予備士官学校である久留米陸軍予備士官学校の初代校長に就任した。 1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級し、7月28日に北支那方面軍司令部附を経て、8月8日に第3野戦輸送司令官(南方軍・第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月… 倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月13日 - 1937年(昭和12年)8月29日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将(戦死特進)。 1888年、東与賀村立野で、元佐賀藩士の袋武辰の次男として生まれる。兄は戦後酪農の振興や旧佐賀競馬場の開設に尽力した袋正美。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校(陸士23期)、陸軍大学校(陸大34期)に進んだ。なお陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。 陸大卒業後、第59連隊中隊長、第20師団、第11師団参謀、陸軍歩兵学校教官を経て、1935年(昭和10年)歩兵大佐に昇任。
細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6… 細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6月24日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階は従三位。 農業、細萱伊勢吉の四男として長野県南佐久郡桜井村(現佐久市)に生まれる。野沢中学を経て、1908年(明治41年)11月海軍兵学校(36期)を卒業し、1910年(明治43年)に少尉任官。1914年海軍水雷学校高等科を卒業後、駆逐艦「樺」乗組、第1特務艦隊参謀、佐世保鎮守府副官などを歴任。1920年(大正9年)、海軍大学校(甲種18期)を卒業。以後、第4戦隊参謀、軍令部第2班第4課参謀、「夕張」副長、「日向」副長、呉軍需部第1課長、「鳥海」艦長、軍需局第1課長、佐世保工廠造兵部長、「陸奥」艦長などを歴任し、1935年(昭和10年)海軍少将に進級。
飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20… 飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、栄典は従三位勲一等。茨城県出身。陸士21期次席。 総力戦研究所所長として研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。 この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。 自著「続兵術随想」によると、当時陸軍大臣であった東条英機は、殆ど毎日机上演習を見学した一方で、主戦派の塚田攻参謀次長は一度も見学せず、主戦派が大勢を占める参謀本部からは数人の部員だけ見学に来たとのことである。
梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 19… 梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 1976年5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍軍医中将。医学博士。 宮城県大崎市出身。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1914年、東京帝国大学医学部卒業。その後陸軍軍医学校を卒業し、東京帝国大学伝染病研究所で細菌学・血清学を学ぶ。1924年3月29日、論文「スパスカヤに於けるパラチフスB型菌性食中毒検索例 : 竝原因食(オムレツ)の菌毒汚染動機に関する実験的研究」で医学博士号取得。1939年、満州関東軍軍医部長。1940年、陸軍軍医総監。 731部隊を統括・監督する立場にあったことから戦後ソビエト連邦軍の捕虜となる。
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月2… 高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 福島県出身。相馬中学を経て1908年(明治41年)、海軍兵学校36期を卒業。席次は入校時192名中5番。在校中2学年とも学術優等章を授与され、191名中10番で卒業した。同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美らがいる。 高橋は海軍砲術学校を修了した砲術専攻士官で、戦艦「石見」砲術長を務めた。海軍大学校17期を卒業後、2年間英国に駐在している。ロンドン海軍軍縮会議では随員を務め、帰国後は海軍省副官となる。会議後の帝国議会では海軍政務次官経験者が海軍造艦政策に対する追求を行ったが、艦政本部での経験を活かし、海相安保清種を補佐した。
岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月… 岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月14日 - 1981年(昭和56年)1月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海兵37期。最終階級は海軍少将。酸素魚雷と特殊潜航艇(甲標的)の開発を成功させた。実兄は岸本信太海軍中将(海軍機関学校10期)。岳父は豊辺新作陸軍中将。 岡山県出身。岡山一中を経て海軍兵学校(37期)を卒業。席次は179人中23番。岸本は海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科、同特修科を修了した水雷専攻の士官で、「夕暮」駆逐艦長、「長良」水雷長、「霧島」水雷長、海軍水雷学校教官、呉海軍工廠魚雷実験部員、第九駆逐隊司令などを歴任した。 他に、第五戦隊参謀、海軍兵学校教官、第三艦隊参謀、連合艦隊参謀などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍大佐に進級。
高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月… 高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月8日 - 1951年(昭和26年)9月24日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医中将。 秋田県出身。小学校教員・高橋隆忠の長男として生まれる。郁文館中学校(現郁文館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業。1915年(大正4年)2月、獣医少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1916年(大正5年)12月、陸軍獣医学校に乙種学生として入校した。 1918年(大正7年)9月、伝染病研究所勤務となり、1919年(大正8年)4月、獣医中尉に昇進。1920年(大正9年)9月、獣医学校教官に就任し、臨時検疫所員、獣医学校副官兼教官、イギリス駐在、獣医学校教官を務め、1925年(大正14年)8月、三等獣医正に進級し獣医学校付となる。
若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8… 若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県薩摩郡、のちの下東郷村(川内市を経て現薩摩川内市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、福知山連隊区司令官に就任し、1938年(昭和13年)に歩兵第45連隊長に転じた。 1939年(昭和14年)8に陸軍少将に進級し、歩兵第30旅団長に就任した。1941年(昭和16年)3月に独立混成第16旅団長に転じ、日中戦争に出動、汾陽に駐屯し、治安警備に当たった。1942年(昭和17年)2月3日に予備役に編入された。
岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月… 岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡兵庫村(現佐賀市)出身。最終階級は陸軍中将。 1888年生まれ。佐賀中学校から陸軍士官学校(陸士23期)に進み卒業後歩兵少尉に任官。麻布連隊区司令官、第6守備隊長(大佐)から少将に昇進し歩兵第29旅団長、第29歩兵団長、独立混成第17旅団長を歴任。1945年(昭和20年)3月中将に昇進し第63師団長として終戦を迎えた。 その後はシベリアに抑留され、さらに中国に引き渡され撫順戦犯管理所に収容された。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。所謂中国抑留者で4人いた師団長の一人(ほかは第39師団長・佐々真之助中将、第59師団長・藤田茂中将、第117師団長・鈴木啓久中将)で、抑留中の1954年収容所にて病死。
冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月… 冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月23日 - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍大将。 東京都出身。冨永政利陸軍中佐の息子として生まれる。早稲田中学、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業。 日中戦争勃発後には、第21師団の第21歩兵団長として徐州に駐屯し治安維持に当たる傍ら蘇北作戦などにも参戦。次いで1940年(昭和15年)12月から第27師団長として天津に駐屯。 1942年(昭和17年)12月に第19軍司令官に補されインドネシアのアンボンに赴任するが現地で発病、1943年(昭和18年)11月9日に亡くなる。死去に際しては祭資が、葬送に際しては勅使が派遣されて幣帛が下賜された。
堀 三也(ほり さんや、1888年〈明治21年〉3月19日 … 堀 三也(ほり さんや、1888年〈明治21年〉3月19日 - 1959年〈昭和34年〉9月1日 、旧姓・阿部)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲兵大佐。軍需国策会社昭和通商社長。 兄は『三太郎の日記』等で知られる哲学者・美学者の阿部次郎。弟に動物学者の阿部余四男、日本史学者の竹岡勝也らがいる。動物生態学者の阿部襄は甥。 本籍山形県。阿部富太郎・ゆき(旧姓・竹岡)夫妻の三男。後に母ゆきの実弟の医師・堀礼治の婿養子となり堀姓となる。妻の九重は、兄・次郎の婚約者であったが破談となっていた。 東京市小石川区の旧制豊山中学(現日本大学豊山高校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。
清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日… 清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日 - 1971年(昭和46年)5月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
山本 三男(やまもと みつお、1888年(明治21年)2月2… 山本 三男(やまもと みつお、1888年(明治21年)2月22日 - 1969年(昭和44年)3月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・浜田(濱田)。1925年(大正14年)2月25日、山本に改姓した。 熊本県下益城郡豊野村(現・宇城市)出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1920年(大正9年)4月、歩兵大尉に昇進し歩兵第23連隊付となる。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し第2師団兵器部長に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵第84連隊長に発令され日中戦争に出征。1939年(昭和14年)6月、陸軍少将に進級し歩兵第1旅団長に就任。
永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 19… 永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 1971年3月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 永見松太郎陸軍大尉の長男として東京で生まれる。小田原中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付仰付(南京駐在)を経て、1925年(大正14年)3月、歩兵少佐に昇進。1926年(大正15年)5月、参謀本部員となり、馮玉祥顧問、参謀本部付仰付(漢口駐在)を歴任し、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級。
石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月… 石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月18日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 高知県土佐郡神田村(鴨田村大字神田を経て現高知市)で、石本正直、菊枝の長男として生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、9月に歩兵第1連隊留守隊長に就任した。1938年(昭和13年)に台湾歩兵第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に陸軍少将に進級し、留守第11師団司令部附となった。 同年10月に第40歩兵団長に転じ、日中戦争に出動。宜昌作戦に参加した。1940年(昭和15年)に第4歩兵団長に転じ、1941年(昭和16年)に第62独立歩兵団長を経て、1943年(昭和18年)に釜山要塞司令官兼釜山陸軍軍需輸送統制部長に就任した。
松永 寿雄(まつなが ひさお/としお、1888年1月15日 … 松永 寿雄(まつなが ひさお/としお、1888年1月15日 - 1955年12月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1888年(明治21年)、香美郡山田村(現在の香美市)に生まれた。海南中学校を経て、1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、1910年(明治43年)12月、海軍少尉任官。1921年(大正10年)11月、海軍大学校(甲種19期)を卒業。 1921年12月、海軍少佐に昇進し横須賀海軍航空隊附兼臨時航空術講習部部員に就任。1922年(大正11年)11月、霞ヶ浦海軍航空隊教官となり、横須賀鎮守府参謀、軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局局員(一課)などを歴任。
安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月1… 安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1950年〈昭和25年〉8月14日)は、日本陸軍の軍人。陸士21期。最終階級は陸軍大佐。帝国陸軍におけるユダヤ問題の専門家として知られる。 旧松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男として現在の秋田県秋田市中通4丁目で生まれた。安江が生まれた家は、平田篤胤の生家であった。 京華中学校、陸軍中央幼年学校予科(のちの東京陸軍幼年学校)、陸軍中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期、同期には石原莞爾(陸軍中将)、樋口季一郎(陸軍中将)がいる)を卒業し、陸軍歩兵将校となった。 1918年、シベリア出兵に出征し、シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接しているうちに、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義の古典の存在を知り、日本に帰国後同書を翻訳。
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1… 両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1月4日 - 1963年(昭和38年)9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県諏訪郡湖東村[要出典](現茅野市)出身。諏訪中学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。同連隊中隊長などを経て、陸軍歩兵学校で甲種学生として学んだ。 以後、陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。
大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月1… 大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月19日 - 1970年(昭和45年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。毒ガス兵器の研究者。 佐賀県出身。農業・大島幸三郎の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1913年(大正2年)11月、陸軍砲工学校高等科(19期)を優等で卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用科学科で学び、1917年(大正6年)7月に卒業した。 1917年12月、近衛野砲兵連隊大隊副官に就任。
空閑 昇(くが のぼる、1887年〈明治20年〉12月8日 … 空閑 昇(くが のぼる、1887年〈明治20年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉3月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 佐賀県佐賀市水ヶ江町出身。地裁監督書記・空閑正尚の長男として生れる。空閑家は龍造寺家の血を引き、代々鍋島藩の槍術師範を務めた家柄で、父・正尚は佐賀の乱に参戦した経歴がある。高等小学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月歩兵少尉に任官し歩兵第69連隊付となる。青島守備歩兵第3大隊付、歩兵第69連隊付などを経て、シベリア出兵に従軍。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵学校甲種を卒業。
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈… 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任し、憲政史上唯一の皇族内閣を組閣した。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施したが、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。
松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12… 松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12月3日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士22期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・松井勘太郎の三男として生れる。東筑中学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊付となる。1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業。 以後、1918年8月、第12師団副官としてシベリア出兵に参加。参謀本部員(支那課)、関東軍司令部附、浦塩派遣軍参謀、朝鮮軍司令部付(ウラジオストク駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、陸軍省新聞班、関東軍参謀、陸軍技術本部付、近衛歩兵第2連隊付、大阪連隊区司令官、独立歩兵第12連隊長、支那駐屯軍司令部附(北平特務機関長)、北支那方面軍司令部附、関東軍司令部附(張家口特務機関長)などを歴任し、1937年11月、陸軍少将に進級。
村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 … 村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 - 1958年1月26日)は、日本の陸軍軍人。1934年に満洲で起きた人質事件の解決に貢献したことで知られる。 愛媛県越智郡津島村(現今治市吉海)に生まれた。小学校卒業後は農業に従事し、徴兵で18年間軍隊生活を送り、1925年奉天守備隊員を最後に除隊。その後、旅順や大連でも働いた。 吉林省の事務官時代の1934年8月30日に、ハルビン発新京行きの夜行列車で匪賊の襲撃に遭遇し、乗り合わせた外国人2人を含む9人が人質となって監禁されたときに、救助の日本軍捜索隊の「日本人はいるか?」の呼び声に、匪賊は人質たちに答えるなと命令したが、村上は「日本人ここにあり」と叫び、それを聞いて捜索隊が突入し全員が救助された。
菊池 慎三(きくち しんぞう、1887年(明治20年)11月… 菊池 慎三(きくち しんぞう、1887年(明治20年)11月30日 - 1943年(昭和18年)4月11日)は、日本の内務官僚、陸軍司政長官。官選秋田県知事、地方行政の専門家。 愛媛県西宇和郡二木生村(現・西予市)出身。同村長・菊池俊逸の長男として生まれた。小学校卒業後、独学で普通試験に合格。さらに1911年11月、文官高等試験行政科試験、同年12月、弁護士試験に合格。1912年4月、内務省に入省し内務属・大臣官房秘書課勤務となる。 以後、佐賀県理事官、静岡県理事官、軍需局書記官、国勢院書記官、拓殖局書記官・第二課長、内務省参事官、福井県警察部長、帝都復興院調査課長などを歴任。1921年5月から1922年4月まで欧米に出張した。
本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月… 本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。陸士19期恩賜・陸大27期恩賜。 太平洋戦争においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは連合国にも知られていたが、バターン死の行進における部下の行為の責任を問われて戦後銃殺刑に処された。 本間賢吉の長男として新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野)に生れる。佐渡中学を経て陸軍士官学校に進んだ。1907年(明治40年)、陸軍士官学校(19期)を恩賜(歩兵科2位)で卒業。1915年(大正4年)には陸軍大学校(27期)を恩賜(3位)で卒業。
秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)… 秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)11月20日 - 1951年(昭和26年)6月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 1887年(明治20年)に岡山県吉備郡神在村(現:総社市)で生まれた。陸軍士官学校第20期、陸軍大学校第29期卒業。フランス駐在を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に陸軍技術本部附となった。1932年(昭和7年)4月11日に第12師団司令部附となり長崎医科大学に配属されたが、5月30日に配属を解かれて第12師団司令部附となった。同年8月8日に長崎要塞司令官に就任し、1936年(昭和11年)8月1日に陸軍少将に進級して待命となり、8月28日に予備役に編入された。
島本 正一(しまもと まさいち、1887年(明治20年)11… 島本 正一(しまもと まさいち、1887年(明治20年)11月16日 - 1967年(昭和42年)4月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県土佐郡初月村(現・高知市)出身。島本宗次郎・志賀の息子として生まれる。海南中学校(現高知県立高知小津高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)7月、参謀本部付勤務となり、同年10月、浦塩派遣軍司令部付に発令されシベリア出兵に出征。同年11月から12月までイルクーツク特務機関に勤務。
平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - … 平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - 1969年5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。
安藤 忠一郎(あんどう ちゅういちろう、1887年〈明治20… 安藤 忠一郎(あんどう ちゅういちろう、1887年〈明治20年〉11月9日 - 1954年〈昭和29年〉1月11日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校卒業(士候21期)。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。 歩兵第32連隊留守隊長などを経て、1939年(昭和14年)10月、第106師団隷下の歩兵第147連隊長に着任し、日中戦争に出征した。その後、熊本連隊区司令官等を歴任し、1941年(昭和16年)3月、陸軍少将に昇進。1942年(昭和17年)3月、第9独立守備隊長に補せられ、1944年(昭和19年)7月、独立混成第60旅団長に転じた。
早淵 四郎(はやぶち しろう、1887年(明治20年)11月… 早淵 四郎(はやぶち しろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1957年(昭和32年)5月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県桑原郡、のちの姶良郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に歩兵第3連隊留守隊長に就任し、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級し、6月8日に独立守備歩兵第14大隊長に着任。1938年(昭和13年)3月9日に関東軍歩兵第1下士官候補者隊長に転じ、1939年(昭和14年)3月9日に第4国境守備隊長に就任した。 同年8月1日に陸軍少将に進級、1941年(昭和16年)3月に歩兵第26旅団長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。
後藤 英次(ごとう えいじ、1887年(明治20年)11月5… 後藤 英次(ごとう えいじ、1887年(明治20年)11月5日 - 1967年(昭和42年)11月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 秋田県仙北郡高梨村(現・大仙市)出身 。後藤英之助の長男として生まれる。秋田中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校普通科、海軍水雷学校普通科で学ぶ。 以後、「安芸」分隊長、「常磐」分隊長、水雷学校教官、「弥生」「吹雪」「樅」の各駆逐艦長、砲艦「隅田」「鳥羽」「堅田」の各艦長、「龍田」水雷長、「第5号駆逐艦」(春風 [II])・「第41号駆逐艦」(薄雲 [II])の各駆逐艦長、「浅間」副長などを歴任。
桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月… 桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月26日 - 1975年(昭和50年)6月5日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月… 黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月25日 - 1954年(昭和29年)4月30日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中将。功三級。 太平洋戦争時の第14方面軍司令官。戦後A級戦犯容疑者として逮捕された。 福岡県柳川市の福岡県立中学伝習館を卒業し、1909年、陸軍士官学校卒(21期)。同年12月歩兵少尉、1913年、歩兵中尉となる。1916年、陸軍大学校を卒業(28期)し歩兵第47連隊中隊長となる。1917年から1918年にかけてシベリア出兵に従軍し、大尉となる。1922年、イギリス駐在、1923年、歩兵少佐となり、翌年帰国。 1928年3月、歩兵第57連隊大隊長となり、歩兵中佐となる。
酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18… 酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18日 - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。のち、このときの虐殺事件で戦犯となり死刑となる。 広島県賀茂郡原村(現・東広島市)出身。神戸一中(現・神戸高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て 、1908年(明治41年)陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年歩兵第38連隊付少尉に任官した。1916年(大正5年)には陸軍大学校(28期)も卒業している。 1924年(大正13年)少佐。1928年3月の済南事件では、済南で日本人280人が虐殺されたとのデマ報道が日本で一時流れたが、これは当時済南で駐在武官となっていた彼が日本軍の大量出兵を目論み、画策したものではないかとの見方がある。
斎藤 元宏(さいとう もとひろ、1887年10月10日 - … 斎藤 元宏(さいとう もとひろ、1887年10月10日 - 1916年5月25日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。 山形県飽海郡南平田村(現酒田市)に生まれ、英次郎(後に元宏と改名)といった。鶴岡の荘内中学校(現鶴岡南高等学校)を中途退学して陸軍幼年学校へ進み、明治42年に陸軍士官学校を卒業(第21期生、石原莞爾と同期)。 卒業後旭川歩兵第26連隊に配属され、朝鮮虎島守備隊に派遣されるが、連隊の推挙により陸軍大学校へ進学。在学中青柳勝敏(大尉)等との交友関係から、中国大陸における袁世凱打倒の第二革命運動に関心を持ち、粛親王善耆(清朝太宗の長子豪格に始まる世襲親王家の第10世)が川島浪速等と図って結成した宗社党運動に共鳴。
田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月… 田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将、従三位、勲一等瑞宝章、功三級金鵄勲章。 子息には光祐(陸士46期)、俊資(48期)、祐輔(51期)、静雄(53期)がおり、いずれも陸軍少佐(終戦時)であった。また、第三次ソロモン海戦にて戦艦「比叡」艦長として戦った海軍大佐西田正雄(海兵44期)は義弟である。田中、西田両名とも陸大・海大の軍刀組であったことから、『郷土龍野の誉れ』と地元の新聞にその逸材ぶりを報道された。 1887年(明治20年)10月1日、田中菊太郎の次男として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。
岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)… 岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)9月30日 - 1946年(昭和21年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大将。北支那方面軍司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 広島県広島市袋町(現中区袋町)に於いて、陸軍書記を務めていた岡部栄次郎の三男として生まれる。1899年(明治32年)に崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入学。その後、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)と進み、陸軍大学校(27期)卒業。陸士同期生には山下奉文、藤江恵輔、阿南惟幾、山脇正隆、安井藤治、小松原道太郎らがいる。陸大卒業後、1918年(大正7年)にハバロフスク特務機関(砲兵大尉)、1922年(大正11年)にポーランド公使館附武官(砲兵少佐)。
城倉 義衛(しろくら よしえ、1887年(明治20年)9月2… 城倉 義衛(しろくら よしえ、1887年(明治20年)9月27日 - 1945年(昭和20年)9月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1887年(明治20年)に長野県で生まれた。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校第20期を優等で卒業し、12月25日に歩兵少尉任官。その後歩兵科から憲兵科に転科し、1927年(昭和2年)に東京帝国大学法学部法学科卒業。1934年(昭和9年)に陸軍憲兵大佐に進級、憲兵司令部警務部長に就任し、二・二六事件の処理に当たった。1936年(昭和11年)に京城憲兵隊長、1937年(昭和12年)に関東憲兵隊総務部長を歴任。 1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し、7月に関東憲兵隊司令官に就任。
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23… 下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 本籍地は高知県。旧土佐藩士で、陸軍中佐・金沢聯隊区司令官の下村定辞の長男として石川県金沢市に生まれる。 金沢第一中学校、名古屋陸軍幼年学校を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校第20期を皇族を除いた6番/273名の成績で卒業する。砲兵科では、橋本群(陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第1部長を歴任、のち中将)に次いで2番の成績であった。
阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8… 阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8日 ‐ 1939年(昭和14年) 11月7日)は、日本陸軍の軍人。陸士19期。最終階級は中将。正四位勲一等功三級(追贈)。 日中戦争にて八路軍との交戦中に戦死し、中将としては帝国陸軍の創設以来初の戦死者となった。 青森県旧北津軽郡七和村羽野木沢(現五所川原市)出身。衆議院議員・阿部武智雄の次男。就学前から一つ上の兄について行って小学校に出入りしており、教師の計らいで二年生に中途入学扱いとなる。そのため、兄と同学年として青森県立第一中学(現:青森県立弘前高等学校)に進学した。弘前では中士士族の鎌田家に下宿し、城陽館で剣道に打ち込んだ。 1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校を卒業。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(… 牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。 日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として漢口及び南京攻略戦に参加。沖縄戦においては第32軍を指揮し、最期は自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。 牛島満は1887年7月31日、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に四男として生まれた。
三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月2… 三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月27日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県生まれ。1905年(明治38年)3月、金沢第一中学校(12回)を経て、同級生の役山久義らとともに陸軍士官学校(陸士)へ合格。同級生83名から陸海軍の軍人を選んだものが、20名に及ぶ。 1907年(明治40年)5月、陸士(19期)歩兵科を卒業。19期は、日露戦争における下級将校の不足を補うため、一般中学から大量採用された珍しいクラスである。このクラスから後に5人の大将(塚田攻、今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一)が誕生する。三浦の卒業成績は62番/1,068名。
値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25… 値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・前田。 山形県、現在の山形市で、前田保の二男として生まれ値賀勇雄の養子となる。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となった。1926年(大正15年)8月、航空兵中佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員に就任。
沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月1… 沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月17日 - 1939年(昭和14年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正四位勲一等功二級。茨城県那珂郡額田村(現在の那珂市)出身。 教育総監部高級課員として陸軍軍隊教育の改革を先導、特に戦闘綱要の改正編纂を行った。また、東京帝国大学の配属将校を務め、軍隊教育関係の著作を発表するなど、軍隊教育の発展に努めた。