千野 皓司(ちの こうじ、1930年12月17日 - 202… 千野 皓司(ちの こうじ、1930年12月17日 - 2022年12月)は、日本の映画監督、脚本家。 1967年に「喜劇 東京の田舎っぺ」で監督デビュー。70年代初頭から80年代半ばはテレビドラマを手がけた。社会の底辺でしぶとく生き抜こうとする人々や、戦争によって人生を翻弄された人々の悲哀を描くことが多い。 妻は舞踏家の谷口登美子。長女は画家の千野渓子。次女はボリショイ劇場付属バレエ学校を卒業した国立ロシアバレエの初の日本人プリマであるバレリーナ、千野真沙美。 東京都新橋烏森の花柳界を得意先とする半襟呉服商の長男として生まれるが、実母が4歳の時死去、数人の継母によって育てられる。 通称「天ぷら屋河内屋のミツちゃん」-本名小村井光三郎-のち講談師神田伯龍が大森海岸に住む町内の子供達を集め、レストランの主人が書いた脚本で料亭「松浅本店」の大広間の舞台で芝居を上演、その時主役をつとめたことから演劇に興味を抱きはじめた。
菅野 昭彦(かんの てるひこ、1930年12月7日 - 19… 菅野 昭彦(かんの てるひこ、1930年12月7日 - 1974年12月12日)は、日本の脚本家、歌人。 宮城県仙台市出身。1945年、短歌雑誌のぬはり社に入り、菊池知勇に師事した。1953年東京大学文学部国文学科卒業。 脚本家として、松竹配給の映画やテレビドラマを多数手掛けた。 1974年12月12日、脳溢血のため死去。44歳没。 ※『ユートピア』以外松竹配給作品
木俣 和夫(きまた かずお、1930年11月23日 - )は… 木俣 和夫(きまた かずお、1930年11月23日 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。青年期に手がけた連続テレビ映画『海底人8823』(1960年)、『快獣ブースカ』(1967年)、『炎の青春』(1969年)、『チビラくん』(1970年)等の監督として知られる。 1930年(昭和5年)11月23日、静岡県浜松市に生まれる。 学歴等は不明であるが、第二次世界大戦後に大映東京撮影所に入社、助監督を経て、1959年(昭和34年)3月7日、満28歳のときに同社が製作して放映を開始した連続テレビ映画『海の非常線』で監督に昇進する。同社のテレビ映画製作セクションは「テレビ製作室」といい、前1958年(昭和33年)10月に発足している。
若槻 文三(わかつき ぶんぞう、1930年10月3日 - 1… 若槻 文三(わかつき ぶんぞう、1930年10月3日 - 1993年)は、日本の脚本家。本名は金本明。大阪府生まれ。関西学院大学出身。 1966年、TBSのドラマ『月曜日の男』でプロデューサー、脚本、監督を務めていた飯島敏宏の誘いで『ウルトラマン』の脚本を執筆。これをきっかけに円谷プロ作品の常連脚本家として活躍。同社の作品については、テレビシリーズ18番組・長編テレビ映画3作・新撮劇場映画2作(他に再編集物が2作)という、群を抜いて最多参加の脚本家であった。テレビドラマデビュー作でもあり、1958年から関西ローカル局で長期間放送された刑事ドラマの『部長刑事』では多くの脚本家の中で、最も長きに渡って執筆を担当した一人でもあり、原作を担当したこともある。
須川 栄三(すがわ えいぞう、1930年〈昭和5年〉9月8日… 須川 栄三(すがわ えいぞう、1930年〈昭和5年〉9月8日 - 1998年〈平成10年〉10月2日)は、日本の映画監督、脚本家。代表作に『野獣死すべし』『君も出世ができる』『蛍川』など。 大阪府大阪市西区新町で石綿(アスベスト)製造販売業の家に生まれ、旧制大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)、旧制姫路高等学校(現・神戸大学)を経て、1953年(昭和28年)東京大学経済学部を卒業し、東宝に入社。映画界入りのきっかけは、終戦直後の日本に大量に輸入された外国映画の洗礼を受けたことだった。 助監督時代に執筆したシナリオ『危険な英雄たち』が、1957年に鈴木英夫監督、石原慎太郎主演によるピカレスク(悪漢小説)・ドラマ『危険な英雄』として製作・公開され、シナリオも書ける助監督の有望株として評価を受ける。
内田 栄一(うちだ えいいち、1930年7月31日 - 19… 内田 栄一(うちだ えいいち、1930年7月31日 - 1994年3月27日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家、脚本家、演出家、映画監督。 岡山県出身。実家は岡山市内の古書店。鎌倉アカデミア中退。 若い頃には安部公房に師事。新日本文学会に入会して小説家としてデビューする。1974年には金子正次らとともに、劇団東京ザットマンを旗揚げするなど、アングラ演劇の活動も盛んに行っていた。 1930年(昭和5年)、岡山市に生まれる。生家は老舗の古書店。1945年、中学三年生のとき、高射砲の弾を作る工場に動員される。岡山大空襲で家を失い、愛媛県などに疎開。15歳の夏に終戦。戦後は、高校に通いながら、詩作と小説執筆に熱中。
深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 200… 深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 2003年1月12日)は、日本の映画監督・脚本家。愛称はサクさん。茨城県緑岡村出身。 6人兄弟姉妹の次男(第5子)として生まれる。茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、日本大学芸術学部卒業。1953年(昭和28年)に東映へ入社。 1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち23作品でコンビを組み、ヒットを連発していく。千葉を主演に据え置き演出した『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、『キイハンター』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した。
芦沢 俊郎(あしざわ としろう、1930年6月26日 - 2… 芦沢 俊郎(あしざわ としろう、1930年6月26日 - 2020年10月20日)は、日本の脚本家。東京都府中市出身。 1952年に早稲田大学文学部を卒業、松竹大船撮影所脚本部に入部し、斎藤良輔に師事。1959年にフリーの脚本家となる。後に「芦沢俊郎のシナリオ研究塾」を開講した。 2020年10月20日、肺梗塞のため死去。90歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
押川 國秋(おしかわ くにあき、1930年4月24日 - … 押川 國秋(おしかわ くにあき、1930年4月24日 - 2025年10月14日)は、日本の脚本家、小説家。 宮崎県児湯郡川南町出身。実家は結婚式場兼料理店を経営。高鍋高等学校、中央大学法学部卒。 元々脚本家という仕事をよく知らず、漠然と小説家を志していたことはあったが、大学生時代に野田高梧の『シナリオ構造論』を読んだことがきっかけで脚本家を志す。 本人は人間の問題として安楽死に興味があった。24歳の時に亡くなった父親が「もし俺が倒れて半身不随になったり口が利けなくなったら、殺してくれ」と良く言っていたということで、この自身の体験を結び合わせて書いた『罪』という作品で日本新人シナリオコンクールにて佳作入選。
小川 英(おがわ えい、1930年3月10日 - 1994年… 小川 英(おがわ えい、1930年3月10日 - 1994年4月27日)は、日本の脚本家。本名:小川英二。別名:江里 明。 東京出身。旧制鎌倉中学校(現鎌倉学園)、中央大学法学部卒業。脚本家・池田一朗に師事し、主に日活のアクション映画を執筆。1960年代の日活アクション映画の黄金期を支えた一人である。1970年頃からはテレビドラマに活動の主軸を移し、『太陽にほえろ!』では、番組開始から終了まで関わり、主としてシナリオの監修・手直しをする役割を務めた。これと並行して、アクション、サスペンス、時代劇など、幅広いジャンルで数多くのドラマ作品の脚本を執筆している。 1960年代末には、坪島孝、田波靖男、岩内克己らと映像制作プロダクション「ジャック・プロダクション」を設立。
岡本 克己(おかもと かつみ、1930年2月3日 - 200… 岡本 克己(おかもと かつみ、1930年2月3日 - 2002年4月11日)は日本の脚本家。作家。エッセイスト。大学卒業後放送局と契約し、ラジオドラマの脚本や番組の企画に携わる。その後は数多くのテレビドラマの脚本を執筆し、1980年代からは主に2時間サスペンスの脚本を多く手掛けた。作詞家の岡本おさみは実弟。 鳥取県米子市に生まれる。1953年、早稲田大学卒業時に早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の戯曲募集で自作「木枯」が入選する。1954年から5年間ニッポン放送と契約し、番組の構成やラジオドラマの脚本を手掛け、1959年にフジテレビ開局前の試験放送ドラマ『億万長者』でテレビドラマの脚本家としてデビューする。
小山内 美江子(おさない みえこ、本名:笹平 美江子(ささひ… 小山内 美江子(おさない みえこ、本名:笹平 美江子(ささひら みえこ)、1930年(昭和5年)1月8日 - )は、日本の脚本家である。代表作には、TBSのテレビドラマ『3年B組金八先生』やNHKの大河ドラマ『徳川家康』『翔ぶが如く』などがある。
藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023… 藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023年5月28日)は、日本の映画監督・プロデューサー、脚本家、落語作家。 東京都港区赤坂出身で、実家は青果問屋の家系。先々代藤浦周吉(三周)が初代三遊亭圓朝一門を経済的に支援した縁から「圓朝」の名跡を預かることになり、「三遊派宗家」を名乗る。 祖父は藤浦周吉(三周)、父は東京市会議員も務め東京中央青果株式会社(現在の東京シティ青果株式会社)の初代社長で三遊亭圓朝関連の著書も多数出版した藤浦富太郎。 1952年早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学大学院国文科を中退し、読売新聞記者を経て、1954年、日活入社。助監督となり、伊藤大輔監督を師と仰ぐ。
窪田 篤人(くぼた あつんど、1929年12月10日 - 1… 窪田 篤人(くぼた あつんど、1929年12月10日 - 1998年5月16日)は、日本の脚本家。東京都出身。趣味は旅行。所属団体は日本放送作家協会、日本脚本家連盟 少年時代は現在の浜松市へ疎開して暮らす。1947年に浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)を卒業後、東京の大学を受験するも失敗、ぶらぶらしながら小説家になろうか、映画監督になろうかと思っていた1948年、ふと新宿を通りかかって目についたという劇団ムーラン・ルージュ文芸部に入り、処女作「桃色の宿題」を発表。解散後は脚本家として活動。脚本家として駆け出してしばらくは映画監督の川島雄三が経済的な面倒をみて、ムーラン・ルージュ時代の師匠でもあった中江良夫が大映のプロット作家を紹介してくれた。
稲垣 俊(いながき しゅん、1929年12月10日 - )は… 稲垣 俊(いながき しゅん、1929年12月10日 - )は日本の映画監督、脚本家。本名は稲垣公一。東京都出身。 1954年に東京大学文学部社会学科を卒業と同時に松竹大船撮影所演出部に入社し助監督として小林正樹監督につく。1966年に松竹と契約し1967年からフリーとなり稲垣俊のペンネームで活躍。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
向田 邦子(むこうだ くにこ、1929年〈昭和4年〉11月2… 向田 邦子(むこうだ くにこ、1929年〈昭和4年〉11月28日 - 1981年〈昭和56年〉8月22日)は、日本のテレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞を受賞。 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。 父親の転勤で全国を転々とするが、本人は鹿児島時代が文学の原点と語った。実践女専国語科を卒業後、映画雑誌の記者を経て、ラジオ・テレビの台本・脚本を書く。『七人の孫』『寺内貫太郎一家』等、自分の実感をもとに庶民の生活を温かくかつその暗部をも描いて「ホームドラマの旗手」といわれた。 1980年短編連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』(後に作品集『思い出トランプ』に収録)で直木賞を受賞した。
北沢 杏子(きたざわ きょうこ、1929年11月23日 - … 北沢 杏子(きたざわ きょうこ、1929年11月23日 - )は、日本の脚本家・性教育研究家。アーニ出版共同代表、性を語る会代表。 埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。実践女子大学国文科、舞台芸術学院、東京綜合写真専門学校卒業。2007年現在、東京都世田谷区在住。 日本放送作家協会会員として、演劇・ミュージカル・テレビドラマなど多くの脚本を手がけ(ウルトラQ 第22話「変身」〈原案は金城哲夫〉・第25話「悪魔ッ子」〈原案は当時の円谷プロのプロデューサー・熊谷健〉・未発表作「怪しき隣人」の脚本に参加している)、1960年、「アーニクーニの歌」で東京都児童演劇祭最優秀賞を受賞。1965年より性教育を中心とする言論出版活動を展開する。
山崎 巌(やまざき がん、1929年11月4日 - 1997… 山崎 巌(やまざき がん、1929年11月4日 - 1997年3月8日)は、日本の脚本家、小説家である。 1929年(昭和4年)11月4日、神奈川県横浜市に生まれる。 第二次世界大戦終了後、明治大学専門部文科を卒業し、化粧品をセールスしたり、通訳を務めたり、 1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争で設立された特需会社、あるいは相互金融会社に勤務した。 1955年(昭和30年)、同年下村明が発表した小説『黒帯三国志』の映画化に参加、松浦健郎、谷口千吉とともに脚色した。同作は、谷口が監督、東宝が製作して、翌1956年(昭和31年)1月29日に公開され、映画脚本家としてデビューした。デビュー第2作は、同年、ひきつづき松浦とともに宮本幹也の小説『大学の石松』を脚色、伊賀山正徳が監督し、東映東京撮影所が製作、東映が配給して同年5月18日に公開された。
岩間 芳樹(いわま よしき、1929年(昭和4年)10月31… 岩間 芳樹(いわま よしき、1929年(昭和4年)10月31日 - 1999年(平成11年)6月13日 )は、日本の脚本家、作詞家。日本放送作家協会理事長。静岡県出身。 静岡県で生まれ、父の転勤で福島県に移る。福島県立福島高等学校を経て、早稲田大学第一文学部に入学するも、学生時代にNHKラジオドラマで脚本家としてデビュー。1952年に中退し脚本家に専念。民放ラジオやテレビ放送が始まるに合わせ脚本家として活躍する。 ドキュメンタリーを得意とし、社会派ドラマを次々と生み出し、『マリコ』(原作柳田邦男・NHK)で第32回芸術選奨放送部門大臣賞、1983年に日仏合作ドラマ『ビゴーを知っていますか』(NHK・アンテンヌ2)でエミー賞国際優秀賞、1993年11月22日放送の『定年、長い余白』(TBS)で第12回向田邦子賞受賞するなど数々の賞を受賞。
野村 耕三(のむら こうぞう、1929年〈昭和4年〉10月1… 野村 耕三(のむら こうぞう、1929年〈昭和4年〉10月14日 - 2001年〈平成13年〉10月15日)は、日本の作詞家、放送作家、脚本家である。日本作詩家協会理事を歴任した。本名同、ペンネームに山野 良夫(やまの よしお)がある。 1929年(昭和4年)10月14日に生まれる。明治大学政治経済学部を卒業後、大蔵事務官に任官(昭和26年)、東京国税局 国税調査官などとして働いた経歴を持つ。 1960年(昭和35年)、西河克己監督、児井英生プロデュースの映画『俺の故郷は大西部』に本名で原作を提供、翌1961年(昭和36年)の野口博志監督、児井プロデュース作『早討ち無頼 大平原の男』以降、「山野良夫」名義で原案・原作を提供する。
鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 20… 鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 2005年11月26日)は、日本の脚本家。岐阜県高山市(旧・吉城郡国府村大字広瀬)出身。 父親は警察官で、岐阜県内で転校を繰り返し、父は退官時は高山警察署の署長であった。旧制岐阜二中(現・岐阜県立加納高等学校)の二学年下に篠田正浩がいたが、在学中に面識はない。同中学から日本大学藝術学部に進み、大学卒業後、1954年東映に入社。同期に東映京都撮影所に配属された高岩淡ら。東映東京撮影所の助監督となるが、同スタジオの埃が原因で、気管支炎を患い、一番仲良しだった深作欣二は引き留めてくれたが、やむなく1955年、本社企画本部脚本課に転属し脚本家となる。
桂 千穂(かつら ちほ、1929年8月27日 - 2020年… 桂 千穂(かつら ちほ、1929年8月27日 - 2020年8月13日)、日本の脚本家、小説家、翻訳家、映画評論家。男性。岐阜県出身。別名義に宇治 英三、リチャード・ピータース。本名は島内 三秀である。 父は高知県出身の陸軍将校。読書家だった母の影響と病弱だったことから、読書に耽る少年時代を送った。1943年(昭和18年)、志願して名古屋陸軍幼年学校に入学し、ここで終戦を迎える。退校直前に幼年学校の映画会で古川緑波主演の喜劇を観て、映画の魅力に取り憑かれた。 1954年(昭和29年)、早稲田大学文学部卒業。1955年(昭和30年)にTBSに入社。編成局連絡課に配属されるが、激務のために高校時代に患った結核が悪化して6ヶ月で退社。
大藪 郁子(おおやぶ いくこ、1929年〈昭和4年〉8月13… 大藪 郁子(おおやぶ いくこ、1929年〈昭和4年〉8月13日 - )は、日本の脚本家。 本名は斎藤郁子。出身地は旧朝鮮京城(現ソウル)。 香川県立丸亀高等学校、東京女子大学英米文学科卒業。大学では、有吉佐和子と同級だったという。 学生時代から芝居好きであった。大学卒業後にアメリカ人の秘書を務めるが、会社の近くでテレビドラマ研究所のポスターを見つけて惹かれ、そこの第一期生として入所。同研究所の卒業制作として自ら制作した韓国人差別問題を扱ったストーリー『船着き場』が雑誌に掲載され、それがテレビ局関係者の目に留まり、脚本家デビューのきっかけをつかむ。1962年にNHK教育テレビで放送された創作劇場『うわさ島』で脚本デビュー。
早坂 暁(はやさか あきら、1929年〈昭和4年〉8月11日… 早坂 暁(はやさか あきら、1929年〈昭和4年〉8月11日 - 2017年〈平成29年〉12月16日)は、日本の脚本家、小説家。 本名、富田 祥資(とみた よしすけ)。 愛媛県温泉郡北条町(現松山市)生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。 戦後の日本を代表する脚本家のひとりである。 愛媛県温泉郡北条町(後の愛媛県北条市、現在の松山市北条)で、遍路道の大商家に生まれ育ち、幼少の頃からお遍路さんに接した。 旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を経て、海軍兵学校在学中に終戦。海軍兵学校からの復員途中に広島で一夜を明かし、被爆直後の広島の惨状を目撃した。旧制松山高等学校(現在の愛媛大学文理学部の構成母体)卒業後、東京大学医学部に合格するも、医業に疑問を持ち入学せず[信頼性要検証]、日本大学芸術学部演劇学科に進学し同校卒業。
川井 秀幸(かわい ひでゆき、1929年7月21日 - 20… 川井 秀幸(かわい ひでゆき、1929年7月21日 - 2016年6月16日)は、元宝塚歌劇団所属の演出家、脚本家、翻訳家。兵庫県神戸市出身。関西大学法学部卒業。 1955年、宝塚歌劇団に入団、白井鐵造に師事する。1959年にはカナダ・アメリカ公演の、1965年にはフランス公演の舞台監督を務める。英語が堪能で「オクラホマ!」や「回転木馬」・「ミー・アンド・マイガール」・「キス・ミー・ケイト」などブロードウェイミュージカルの企画・交渉・翻訳・通訳などに携わる一方、郷土芸能研究会において「鯨」「ユンタ」などの日本の伝統文化を題材にした作品の脚本、演出も手掛ける。長年にわたり機関誌「歌劇」で主にブロードウェイミュージカルを紹介したエッセイ「ミュージカル」を掲載する。
太田昭和(おおたしょうわ、1929年5月12日 - )は、日… 太田昭和(おおたしょうわ、1929年5月12日 - )は、日本の映画監督・演出家・脚本家。 1929年福岡県に生まれる。京都大学に入学後、映画部に所属する。同部員の同僚に映画監督となった土井茂と松尾昭典がいた。1954年京都大学を卒業後、大映京都撮影所に入社。監督のみならず演出・企画・脚本など多方面の仕事をこなした。時代劇の撮影現場に幅広く精通しているからこそ、通り一遍で撮影されがちな作品群に苦言を呈している。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
大西 信行(おおにし のぶゆき、1929年5月8日 - 20… 大西 信行(おおにし のぶゆき、1929年5月8日 - 2016年1月10日)は、日本の劇作家、脚本家、演芸研究家。正岡容の門下。同門には小沢昭一、永井啓夫、3代目桂米朝、都筑道夫、加藤武、小島貞二らがいる(小沢昭一、加藤武とは、麻布中学・早稲田大学を通じての友人)。俳号は獏十。
牧 衷(まき ちゅう、1929年4月8日-2015年10月1… 牧 衷(まき ちゅう、1929年4月8日-2015年10月13日)は岩波映画製作所の脚本家。「科学教育映画体系」や「たのしい科学シリーズ」などの多くの科学教育映画の企画と脚本をはじめ、企業PR映画や官庁制作の映画、大学の研究成果の紹介映画などの脚本を手がけ、その作品は多くの賞を受賞している。仮説実験授業研究会の最初期からの会員で板倉聖宣の仮説実験授業の理論を取り入れた科学教育映画も何本か作った。また、大学時代の学生運動の経験から社会運動の実践的理論も研究した。後に岩波映画の取締役となり、組合との交渉に尽力した。 1929年4月に東京府荏原郡蓮沼(現在の東京都大田区蓮沼)で5人兄弟の4番目の次男として生まれた。
蓬萊 泰三(ほうらい たいぞう、1929年3月28日 - 2… 蓬萊 泰三(ほうらい たいぞう、1929年3月28日 - 2018年11月5日)は、日本のテレビドラマ脚本家。児童合唱をメインとした作詞家。
高橋 玄洋(たかはし げんよう、1929年3月24日 - )… 高橋 玄洋(たかはし げんよう、1929年3月24日 - )は、日本の脚本家、劇作家。島根県松江市出身。 松江生まれだが先祖伝来は広島県。松江市立内中原小学校2年のとき、父親が40歳になって大学へ入り直すため一家で広島市に移り、広島市立袋町小学校に転校。父親は教育者で、のち広島県尾道市助役を務めた。4年後父が大学を卒業し朝鮮へ赴任したため、平壌、釜山、新義州と少年時代を外地で過ごす。朝鮮船橋里小学校、平壌第一中学校、釜山中学校(現・釜山高等学校)と転校を繰り返し、新義州中学校4年のとき、海軍兵学校最後の78期生として入学。1945年8月6日原爆投下の日には、広島市郊外で勤労奉仕中で、当日市内に救援に入った。
西原 儀一(にしはら ぎいち、1929年2月28日 - 20… 西原 儀一(にしはら ぎいち、1929年2月28日 - 2009年8月16日)は、日本の映画監督、脚本家、プロデューサー、俳優。別名義に関谷四郎、千葉隆志などがある。 1960年代から1970年代にかけて制作された、葵映画での低予算、扇情主義のピンク映画で知られる。「日本で最も低俗な映画作家」、「ヤクザ映画ファンの間でカルト的人気者」と呼ばれた。 1929年2月28日大阪府大阪市に生まれ、愛媛県新居浜市で育つ。1945年に野口拳闘クラブに入門。プロボクサーとして活躍し、1946年には日本フェザー級西日本チャンピオンになる。1947年の佐伯幸三監督の大映映画『鉄拳の街』でボクサー役を演じたこのことがきっかけで1949年大映東京撮影所の助監督試験を受けて合格。
五社 英雄(ごしゃ ひでお、1929年(昭和4年)2月26日… 五社 英雄(ごしゃ ひでお、1929年(昭和4年)2月26日 - 1992年(平成4年)8月30日)は、日本の映画監督、脚本家、演出家。本名の読みは「ごしゃ えいゆう」。明治大学商学部卒業。ニッポン放送プロデューサー、フジテレビ映画部長、五社プロダクション社長を務めた。テレビ業界出身の映画監督第1号である。 時代劇の殺陣において、竹光でなくジュラルミンの刀身を採用して俳優の迫真の演技を引き出し、刀と刀がぶつかる際の金属音や、人が斬られる時の効果音を音響スタッフと共に独自に開発したことで知られる。アウトローを主人公にした作品を一貫して手がけ、滅びに向かって走る人間の情念のきしみや美学を描くことを信条としていたその代表作には、『三匹の侍』、『御用金』、『人斬り』、『雲霧仁左衛門』、『鬼龍院花子の生涯』、『極道の妻たち』などがあり、丹波哲郎、仲代達矢、平幹二朗、安藤昇、夏八木勲、夏目雅子、岩下志麻、かたせ梨乃、名取裕子らの新たな魅力を引き出した。
大和久 守正(おおわく もりまさ、1929年2月25日 - … 大和久 守正(おおわく もりまさ、1929年2月25日 - )は、日本の脚本家である。1962年(昭和37年) - 1968年(昭和43年)の時期に連続テレビ映画『特別機動捜査隊』の各話を数多く執筆し、劇場用映画においては、高倉健が主演した『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)あるいは『新網走番外地 吹雪の大脱走』(1971年)の脚本家として知られる。 Smartザテレビジョン、allcinema等での読み「やまと くままさ」、テレビドラマデータベースで併記される「大和守久正」は、いずれも誤りである。 1929年(昭和4年)2月25日、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)に生まれる。「大和久」姓は江東区大島の大和久煉炭工業(現在のシャイニングサービス)創業者・大和久十郎、元墨田区議会議員・大和久常雄ら、同地区にみられる姓である。
鳥海 尽三(とりうみ じんぞう、1929年2月1日 ‐ 20… 鳥海 尽三(とりうみ じんぞう、1929年2月1日 ‐ 2008年1月17日)は、日本の男性脚本家、小説家。シナリオサークル鳳工房主幹、早稲田シナリオ義塾講師、代々木アニメーション学院講師、日本シナリオ作家協会会員、日本放送作家協会会員。 主にテレビアニメの脚本を執筆。『昆虫物語 みなしごハッチ』『科学忍者隊ガッチャマン』『新造人間キャシャーン』など、アニメ制作会社タツノコプロの草創期から1970年代まで黄金時代のほぼ全ての作品を企画文芸の中核として支えた。また、1970年に師匠である脚本家・陶山鉄の長男で、日活企画室に勤務していた陶山智、同じく日活で陶山の上司だった陣野修、SF作家の広瀬正をタツノコプロへ招聘して、人材面でも大きな役割を果たした人物でもある。
佐治 乾(さじ すすむ、1929年1月13日 - 2001年… 佐治 乾(さじ すすむ、1929年1月13日 - 2001年2月7日)は、日本の脚本家。 兵庫県出身。関西大学文学部英文学科卒業。主に映画、テレビドラマなどを手掛けた。生前は脚本家事務所・ラグス所属。 大学在学中より官能小説を中心とした投稿作家として多額の賞金を稼ぎ、卒業後、脚本家の八木保太郎に師事。 1954年、映画『ママの日記』でデビュー。1955年、日活と契約。1959年、東映に移り、50年代は日活、60年代は主に東映アクション、サスペンスものを多数執筆した。 珍しい名前のため、最初に名前を聞いた者からは、誰かの変名かペンネームかと思われたという。特に『恋と太陽とギャング』(石井輝男監督)、『誇り高き挑戦』(深作欣二監督)など現代ギャングものに才能を発揮し、1970年には日活ニューアクションの傑作『反逆のメロディー』を執筆。
大津 皓一(おおつ こういち、1929年 - )は、日本の脚… 大津 皓一(おおつ こういち、1929年 - )は、日本の脚本家・放送作家。熊本県山鹿市大字山鹿出身。全州公立尋常小学校、全州公立南中学校、熊本県立鹿本中学校、文化学院大学部美術科卒業。
松木 ひろし(まつき ひろし、1928年11月16日 - 2… 松木 ひろし(まつき ひろし、1928年11月16日 - 2016年9月19日)は、東京市神田区(現・東京都千代田区)出身の脚本家。本名は松木 弘。 東京府立第五中学校での友人に澁澤龍彥がいる。旧制東京高校を卒業後、大学受験に失敗。鎌倉アカデミア夜間講座映画科で学ぶ。 自身の劇団を作って活動をしたのち、1950年に明治座の文芸部に入社、企画宣伝を担当。明治座時代に舞台を観ていいなとおもったのは、菊田一夫や飯沢匡の芝居だったと話していたことがある。 1954年のニッポン放送の開局とともに同社に入社してラジオ番組の制作にたずさわる。同社に勤務しながら村田正雄、旭輝子、池田昌子、三田佳子らと劇団「現代劇場」を立ち上げる。
高垣 葵(たかがき まもる、1928年11月10日 - 20… 高垣 葵(たかがき まもる、1928年11月10日 - 2015年10月1日)は、日本の脚本家。 東京都出身。北海道大学文学部卒。戦後、民間放送発足時から、ラジオ・テレビ・舞台の数多くの作品を発表。代表作は『1丁目1番地』『空中都市008』など多数。のち、若手俳優養成劇団「劇団ノルテ」を結成したほか、ドキュメンタリーも数多く手がけており、 1993年、ラジオ『死刑の構図』(ニッポン放送)では各賞を受賞。2015年10月没。父は児童文学作家・小説家の高垣眸、長男は音楽家の高垣薫。 1928年(昭和3年)11月10日、東京都青梅市で生まれる、本名高垣克。1949年(昭和24年)4月北海道大学文学部国文科に入学、1951年(昭和26年)NHK札幌放送劇団に1期生として入団。
安倍 徹郎(あべ てつろう、1928年(昭和3年)8月29日… 安倍 徹郎(あべ てつろう、1928年(昭和3年)8月29日 - 2016年(平成28年)2月23日)は、日本の脚本家・放送作家。安部徹郎、阿倍徹郎とも表記される。 現在の東京都中野区の生まれ。 1948年に日本共産党に入党、入党当初は党の名誉回復運動を行っていたということや、1952年5月1日に発生した血のメーデー事件の時には現場に居合わせていたという一面も持つ。 1951年、早稲田大学第一文学部英文科卒業。カストリ雑誌『りべらる』編集部に入るが2年で倒産、それから約3年間、岩谷書店『宝石』など数社の出版社、編集部を転々としたのち大映脚本家養成所入所。ここにて池波正太郎の指導を受け、以後脚本においても池波作品を得意とするようになる。
田口 耕三(たぐち こうぞう、1928年8月11日 - )は… 田口 耕三(たぐち こうぞう、1928年8月11日 - )は日本の脚本家。東京都中央区京橋出身。 生家は、祖父が当時京橋にあった大根河岸と呼ばれる青果市場に構えていた問屋を経営していた。子供の頃からその祖父に連れられて歌舞伎や新派の芝居を観に行き、その舞台裏までも見聞き出来たという。暁星中学校に在学した後、海軍兵学校舞鶴校に77期として入学。海軍兵学校入学後約半年で太平洋戦争の終戦を迎える。慶應義塾大学文学部仏文科卒業後1951年に大映に入社しプロデューサーや脚本を担当。大映倒産前にフリーとなりテレビドラマを中心に活躍。その後逸見稔が立ち上げた創作作家集団SHP・葉村彰子を柴英三郎、大西信行、櫻井康裕らと担当。
太田 浩兒(おおた こうじ、1928年8月8日 - 1988… 太田 浩兒(おおた こうじ、1928年8月8日 - 1988年10月13日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。 1928年(昭和3年)8月8日、神奈川県横浜市に生まれる。 東京市大森区調布嶺町(現在の東京都大田区鵜の木)の旧制・東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業して旧制・東京高等師範学校に進学、同校は1949年(昭和24年)5月に設立された新制・東京教育大学(現在の筑波大学の母体)に包括されたため、同学哲学科に在籍、1953年(昭和28年)3月に同学を卒業した。「好きな映画で生活していこう」と考え、同年4月2日、定期採用第2期生として東映に入社した。企画本部に配属され、東京撮影所演出部に配転された。
野上 龍雄(のがみ たつお、1928年3月28日 - 201… 野上 龍雄(のがみ たつお、1928年3月28日 - 2013年7月20日 )は脚本家。東京都出身。
花登 筺(はなと こばこ、1928年〈昭和3年〉3月12日 … 花登 筺(はなと こばこ、1928年〈昭和3年〉3月12日 - 1983年〈昭和58年〉10月3日)は、日本の小説家、脚本家。本名は、花登 善之助(はなと ぜんのすけ)。 1928年(昭和3年)滋賀県大津市上北国町(現・長等1丁目)の近江商人の家に生まれる。旧姓名・川崎善之助。花登家へ嫁いだ姉・八重の養子となり、花登姓に改めた。滋賀県立大津商業学校を経て、同志社大学商学部に進学。 1947年(昭和22年)北国町青年団の一員として演劇活動を始める。1948年(昭和23年) 大津で自主劇団人間座の結成に参加。その後「文芸座」を設立し、地元の芝居小屋や大津市中央公民館などで文芸作品を上演する。1951年(昭和26年)同志社大学商学部卒業。
大野 靖子(おおの やすこ、1928年1月30日 - 201… 大野 靖子(おおの やすこ、1928年1月30日 - 2011年1月6日)は、日本の脚本家。 東京市麻布区出身。本名は大野靖(オオノヤス) 。1945年、東京都立第三高等女学校卒業。 さまざまな職を転々としながら、演劇活動に熱中。三好十郎に師事。児童劇団の脚本が青江舜二郎に評価されたのが縁で、子ども番組「お父さんの職場」の構成に携わる。以降、1962年からフジテレビ、NHK、テレビ朝日など各局でテレビドラマの脚本を手がけた。 時代劇から現代劇まで幅広く手掛け、向田邦子、橋田壽賀子らと共に女流脚本家の地位を確立した。 特にフジテレビでは、五社英雄ディレクターと組んで「三匹の侍」「眠狂四郎」などの時代劇や、岡田太郎ディレクターと組んでメロドラマ、森川時久ディレクターとは社会派の「若者たち」と、多様なジャンルで活躍。
長野 卓 (ながの たかし、1927年12月22日 - 19… 長野 卓 (ながの たかし、1927年12月22日 - 1998年4月4日)は日本の映画監督、脚本家。 静岡県浜松市生まれ。1947年に日本大学を卒業。1950年、東宝で助監督を務め、映画監督に就任した。1960年代と1970年代に多くのテレビシリーズを監督した。 1998年4月4日、東京都で肺梗塞のため死去。 ※のみ監督、他は助監督
中沢 昭二(なかざわ しょうじ、1927年 (昭和2年) 1… 中沢 昭二(なかざわ しょうじ、1927年 (昭和2年) 12月9日 - )は、日本の脚本家、放送作家。 高知県出身。海南中学校(現・高知小津高等学校)卒業。日本放送作家協会会員。
森﨑 東(もりさき あずま、1927年11月19日 - 20… 森﨑 東(もりさき あずま、1927年11月19日 - 2020年7月16日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1927年11月19日、長崎県島原市に生まれる。京都大学法学部を卒業。 1956年、松竹京都撮影所に入社する。 1965年、大船撮影所に移籍し、野村芳太郎監督や山田洋次監督の助監督、脚本を手がける。 1969年、『喜劇 女は度胸』で監督デビュー。以降、『男はつらいよ フーテンの寅』をはじめとする喜劇を撮り続ける。 1971年、一連の作品により、芸術選奨新人賞を受賞する。 1974年、フリーとなる。 1977年、居酒屋で口論となった学生の伊藤裕一を『黒木太郎の愛と冒険』の脚本製作に誘い、映画監督を目指す青年「伊藤銃一」役としても起用し、制作。
舛田 利雄(ますだ としお、1927年〈昭和2年〉10月5日… 舛田 利雄(ますだ としお、1927年〈昭和2年〉10月5日 - )は、日本の映画監督、脚本家である。兵庫県神戸市出身。 1944年に兵庫県立第一神戸中学校(現:県立神戸高校)から、新居浜工業専門学校(現:愛媛大学工学部)に進学するも、1945年7月に同学校が行う軍事教練に反発し[要出典]退学処分になる。その1ヶ月後に終戦を終え、大阪外国語大学ロシア語学科(現:大阪大学外国語学部)。へ入り直す。当時の舛田は、大の軍人嫌いの少年だったという。 大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)ロシア語学科卒業。大学卒業後は教師になるつもりであったが、名作フランス映画の再上映を観て感動し映画に関心を持つ。映画監督を目指し、大学卒業後に上京。
下飯坂 菊馬(しもいいざか きくま、1927年8月22日 -… 下飯坂 菊馬(しもいいざか きくま、1927年8月22日 - 2008年4月10日)は、日本の脚本家。 東京都世田谷区生まれ。父は裁判官の下飯坂潤夫。子供の頃、父の転勤に伴って鳥取県へ転校するも、その後再び東京へ戻る。 旧制麻布中学校、東京外国語大学ロシア語科卒。大学4年生の時から約4年間結核を患って闘病生活をしていた。役所勤務、ロシア語教師を経て、大学の同窓生の脚本家・山内久の勧めで大映シナリオ作家養成所に入所。1955年大映シナリオ作家養成所卒業(同所の同期に野上龍雄、安倍徹郎らがいる)、5年間専属ライターとして勤務の後フリー。女を主人公としたアクション映画、やくざ映画などを得意とした。映画のほか、テレビドラマのシナリオも多数執筆した。
安藤 日出男(あんどう ひでお、1927年8月3日 - 20… 安藤 日出男(あんどう ひでお、1927年8月3日 - 2002年3月20日)は、日本の脚本家。 東京出身。東京大学卒業。2002年3月20日、肝硬変のため東京都文京区の病院で死去。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。