平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12… 平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)は、日本画家、歌人。 画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。 幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。 1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。
宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)1… 宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)11月14日 - 1938年(昭和13年)4月3日)は、日本の小児科医、歌人である。 愛知県額田郡本宿村に医家の子として生まれる。後に上京し東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、1912年(明治45年)には文京本郷にて小児科病院を開設して、乳幼児の診療にあたった。後に竹柏会に参加し、佐佐木信綱や窪田空穂、若山牧水に師事し和歌を学び、鋭い現実との結んだ作風を取り入れた。没後は多磨霊園に葬られた。門人に杉田つるらがいる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 19… 沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 1927年7月19日)は、明治・大正期の国文学者・俳人・右翼。本名は武夫(たけお)。名古屋市出身。
喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12… 喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12日 - 1968年(昭和43年)12月20日)は、日本の俳人。曹洞宗華嶽山梅林寺住職、28世慈門良哉大和尚、曹洞宗権大教師。東京府出身。 1877年(明治10年)に浅草区(現在の東京都台東区東部)浅草馬道で生まれる。16歳で曹洞宗の僧籍に入り、曹洞宗高等学林(現在の駒澤大学)や哲学館(現在の東洋大学)に学び、1897年(明治30年)に下谷区(現在の台東区西部)の梅林寺住職となる。そのころから俳句を詠み始め、日刊紙『二六新報』の中村楽天が主宰する「二六吟社」同人になったのを皮切りに『ホトトギス』や『日本俳句』などに定形俳句を投句、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、碧梧桐の門人となる。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6… 小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、日本のジャーナリスト、民俗学研究家、歌人、俳人。名は「ぞん」とも読む。号は粲楼(さんろう)、粲楼学人、烏啼(うてい)。新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)出身。 1877年、小林祐保・ミン夫妻の末子として生まれる。小林家は代々、新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めた素封家で、郡内の有力地主の一つであった。横越小学校・亀田高等小学校を経て上京し、第一高等学校への進学を目指すが失敗し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学、坪内逍遥に学んだ。また、同校在学中の1894年に蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂双紙』を発刊した。
塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30… 塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30日 - 1940年(昭和15年)12月8日)は、日本の俳人。本名は熊蔵、のちに宇平。別号に芋坪舎、華園など。農業。岐阜県稲葉郡鏡島村(現在の岐阜市)出身。 岐阜県鏡島村の裕福な地主の家に生まれる。塩谷宇平の長男。1898年、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科(現在の政治経済学部)卒業。農業を営む。俳句は中学から詠み始め、当初は正岡子規に師事しホトトギスに投句するも、新傾向俳句に移行していった河東碧梧桐に陶酔し、碧梧桐の門人となる。自身の句誌『壬子集』と合併する形で、碧梧桐が主宰する海紅に参加、自由律俳句を詠むようになる。海紅同人とともに、郷里の岐阜でも『鵜川』『俳薮』などの俳誌を次々と発行、とくに1913年に発行した個人誌『土』は生涯に渡って続けられた。
矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日… 矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日 - 1956年(昭和31年)4月13日)は、日本の女流歌人である。本名はたか。 兵庫県の篠山町(現在の丹波篠山市)にて、篠山藩士だった矢沢一貫とその妻のてるとの間に長女として生まれた。幼くして父から漢詩や和歌を学び、大阪府立堂島高等女学校(現在の大阪府立大手前高等学校)に入学する。その後中退し、1893年(明治26年)に留学のため上海に移住し、東洋学館にて英語等を学んだ。その後帰国し、1896年(明治29年)には20歳の若さで妻の父の次男と結婚した後に小学校の教員として活動する。 教職を引退した直後に新潮社に入社し、自身が詠んだ歌を同社が出版する「スバル」に寄稿し発表した。
西山 泊雲(にしやま はくうん 1877年4月3日 - 19… 西山 泊雲(にしやま はくうん 1877年4月3日 - 1944年9月15日)は、兵庫県出身の俳人。本名亮三。 兵庫県竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り家出や自殺未遂を経験。また家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名し、「ホトトギス」に何度も広告を出して再興を助けた。 鈴木花蓑と並び「ホトトギス」沈滞期を代表する作家で同誌巻頭を28回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている(『定本現代俳句』「鈴木花蓑」の項)。
岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - … 岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - 1951年〈昭和26年〉9月7日)は、歌人、書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名・三郎。書号・三谷(さんこく)、俳号・傘谷(さんこく)。 徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく、17歳のとき香取秀真に一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのはこれまで自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。
田中 寒楼(たなか かんろう、1877年2月16日 - 19… 田中 寒楼(たなか かんろう、1877年2月16日 - 1970年3月12日)は、日本の俳人・歌人。 明治10年(1877年)、因幡国(鳥取県東部)の河原町小畑に生まれる。中学在学中より俳句に親しみ、新聞『日本』の投稿などで正岡子規より「因幡に寒楼あり」と注目された。小学校代用教員から校長になるも、その奇行と放浪癖から退職となる。京都で同郷の画家中島菜刀との共同生活を始めてから全国を転々と漂浪して奔放な哲学的人生を生き、晩年は鳥取市で過ごし昭和45年(1970年)、93歳で歿した。特異な宇宙観から時空を語り、俳句をはじめ短歌・書画など多岐に渡る作品を数多く残す。 年譜は村尾草樹『生きている寒楼』掲載の年譜を抄録、一部加筆した。
若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月1… 若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月14日 - 1961年(昭和36年)12月1日)は、日本の俳人。日本画家。新聞記者。土佐文人研究者。本名は庄吾。雅号は葭厓。 1877年(明治10年)、高知県吾川郡弘岡下ノ村(現在の高知市春野町)に生まれる。生家は富裕な郷士の家であった。1889年(明治22年)、高知尋常中学校に入学。中学時代の親友に森田正馬がいた。 1894年(明治27年)、京都の第三高等学校に入学。三高在学中の1896年(明治29年)、永田青嵐とともに寒川鼠骨より日本派の俳句の教えを受け、同年9月、鼠骨らと京阪満月会を発足させた。 1897年(明治30年)、三高から仙台の第二高等学校に転学。
島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月1… 島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月16日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。 長野師範学校を卒業後、小学校教員を務める傍ら、1903年に歌誌「比牟呂」を創刊、やがて伊藤左千夫の門下となった。 1909年には「比牟呂」を「アララギ」に合流させ、以来、斎藤茂吉、土屋文明らと並ぶアララギ派の有力歌人として活躍。左千夫と長塚節なきあとは上京し、「アララギ」の編集責任者となった。 1876年(明治9年)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)に旧諏訪藩士・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれる。
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日… 太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の日本の歌人・国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首の和歌を教えられる。 広丘高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山、浅井洌、高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。
金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1… 金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1951年3月30日)は、日本の歌人。
吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1… 吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1954年11月5日)は、日本の国語学者、国文学者、歌人。
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月2… 尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学、一高を経て、東京帝国大学文科大学に進み1901年に卒業。哲学館(現・東洋大学)講師、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年–1907年度)。
蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月2… 蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月20日 - 1922年〈大正11年〉10月14日)は、日本の歌人・造林家。号は蕨真(けっしん)、礎山(そざん)。 上総国武射郡埴谷村(現在の千葉県山武市)出身。五代続く林業家で、県内有数の大山林地主であった。 東金の漢学者・吉井宗元の漢学塾「南総斯文学会」に学ぶ。1901年(明治34年)、同じ武射郡出身で友人であった伊藤左千夫の紹介により、正岡子規の門下生となる。子規没後の1903年(明治36年)、根岸短歌会の機関誌『馬酔木』の編集委員となる。真一郎は『馬酔木』創刊にあたっての有力な経済的支援者だった。1906年(明治42年)に埴岡短歌会を設立し、地元歌人の作品を『馬酔木』上で紹介するようになった。
志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 194… 志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 1946年1月17日)は、日本の国文学者・俳人。学位は、文学博士(1937年)(学位論文「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」)。元東洋大学教授。連歌俳諧研究、説話研究、歌謡研究、辞典の編纂など、多方面に業績を残した。 富山県上新川郡出身。旧姓は藤井。俳号は素琴。富山中学校[要出典]、第四高等学校を経て[要出典]、1903年東京帝国大学文学部国文科卒。第六高等学校教授、1925年旧制成蹊高等学校教授、東洋大学教授。1937年「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士の学位を取得。日本で初めて俳文学によって文学博士の学位を取得した[要出典]。
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月… 永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、兵庫県三原郡長田村(現:南あわじ市倭文長田)出身の日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。 長男は自由民主党衆議院議員の永田亮一。 初代倭文村村長を務めた永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。 三原高等小学校卒業後、進学校の1つだった姫路中学校を受験するが不合格となる。
白仁 秋津(しらに あきつ、1876年 - 1948年)は、… 白仁 秋津(しらに あきつ、1876年 - 1948年)は、日本の歌人。本名、勝衛。 三池郡岩本村(現大牟田市岩本)に士族の長男として生まれる。 熊本県立済々黌高等学校を卒業。1902年(明治35年)、北原白秋、田中紫江、杉森秋華ら6人と同人誌 『常盤木』を刊行する。『常盤木』には短歌だけでなく、社会矛盾との戦いの重圧といった苦しみを表した文章も掲載されている。 翌1903年(明治36年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻に師事し、北原白秋、吉井勇、石川啄木、高村光太郎らと共に明星派に名を連ねる。 1904年(明治37年)3月に北原白秋が白秋の父に無断で県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)を退学して上京する際に、秋津とは密かに別れの挨拶を行っているが、その際に秋津から白秋に蒲原有明の詩集『独絃哀歌』を贈っている。
寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3… 寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。 元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)と八重(旧姓水野)との三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという。1888年、番町小学校から県立松山中学校に入った。1893年(明治26年)(18歳)、三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上である。3人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた。
竹村 秋竹(たけむら しゅうちく、1875年9月 - 191… 竹村 秋竹(たけむら しゅうちく、1875年9月 - 1915年12月27日 )は、日本の俳人。本名:竹村 修。別名:修竹。 愛媛県松山市生まれ。明治27年(1894年)旧制三高入学、制度変更のため翌年四高に転入、同33年東京帝国大学英文科卒。島根県杵築中学、新潟県長岡中学、福井県小浜中学に勤め、小浜中学在任中に没。 俳句は早くより正岡子規に学ぶ。四高在学中『北辰会雑誌』『北國新聞』に俳句、俳論を発表。特に新聞紙上で客観写生俳句の主張と月並俳句攻撃の論陣をはり、旧派中条屋居石と論戦をかわす。 明治29年5月より北國新聞俳壇選を担当。同30年4月『北声会』を結成、北陸俳壇に大きな影響を与えた。 明治34年、子規の選句を無断で収録した『明治俳句』を発行。
大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年(明治8… 大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年(明治8年)8月9日 - 1910年(明治43年)11月9日)は明治末期に活躍した歌人、作家。夫は美学者の大塚保治(入婿)。本名:大塚久寿雄。別名:久寿雄子・楠緒・楠緒子。才色兼備で夏目漱石が恋した人として知られる。 東京控訴院長・大塚正男の長女として東京市麹町区一番町で生まれる。麹町の富士見小学校出身。東京女子師範附属女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業後、佐々木弘綱・信綱の元で和歌を学んだ。1895年、小屋保治と結婚(保治は大塚姓になった)。夫が留学中、英語を明治女学校で学ぶほか、絵画を橋本雅邦に師事、ピアノや料理なども学んだ。
林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 … 林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 - 1947年〈昭和22年〉2月20日)は歌人、作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現東洋大学)教育学部卒。 林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である。林家の次男として東京神田に生まれる。 幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったという。 10歳の時に父を失って以来、池上本門寺に入って修行。さらに哲学館(現東洋大学)に入学すると国漢を学んだ。漢詩に非凡な才を見せたが、一方で新体詩のグループを作っては積極的に活動を始めた。卒業後、同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから「達磨さん」と呼ばれて慕われたという。
川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日… 川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は日本の俳人、俳書収集家。本名は徳三郎。 兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県立神戸商業高等学校卒業後、鉄材商を営む。俳句は河東碧梧桐に師事。俳誌「阿蘭陀渡」を創刊。句集に「和露句集」がある。碧梧桐主宰の俳誌『海紅』に創刊号から参画した。
柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1… 柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1955年6月19日)は、日本の大正から昭和時代前期にかけて活動した歌人、作詞家。鳥取県出身。 1875年(明治8年)、鳥取市藪片原町に生まれる。1896年(明治29年)に鳥取県尋常師範学校を卒業後、県内各地の小学校訓導を経て東京高等師範学校国文科へ入学し、1903年(明治36年)に卒業する。 旧制都城中学校で教諭を1年間務めた後、1904年(明治37年)に岐阜高等女学校へ転任。和歌や長詩を嗜み、1908年(明治41年)に文部省が懸賞募集した新体詩で第一部二等に入賞する。1915年(大正4年)11月に執り行われた大正天皇の御大典記念事業として京都市が歌詞を募集した「京都市歌」で応募作が二等に入賞したが、一等は「該当作なし」となったため柏木の応募作が採用となり、1951年(昭和26年)に現行の市歌へ代替わりするまで歌い継がれた。
大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明… 大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明治8年)3月22日 - 1933年(昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者・俳人。本名は正信。 島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。 1892年(明治25年)、京都の第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2… 加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2日 - 1932年(昭和7年)11月24日)は、静岡県出身の日本の俳人。別号に清白之舎、千里坊など。本名は孫平。 1875年(明治8年)静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。静岡師範学校(現在の静岡大学)在学中に俳句を始め、正岡子規に入門。高浜虚子、河東碧梧桐とともに、早くから子規門となった若手俳人として注目される。また静岡師範学校の仲間を中心に俳誌『芙蓉』を主宰、同誌を発行する「芙蓉会」は松島十湖、藤田紫亭、渥美渓月、久保田九品太らが集い、静岡における日本派の拠点となった。 静岡師範卒業後、教員となった後も俳句を続けたが、子規亡き後は次第に自由律俳句に傾倒。
久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月2… 久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月26日 - 1939年(昭和14年)11月12日)は、日本の医学者・歌人・俳人。医学博士。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学、現・九州大学)教授。 明治7年12月26日、陸奥国二本松藩の藩士久保常保の子として現在の福島県二本松市に生まれる。戊辰戦争の当時、猪之吉は6歳、実兄たちは、二本松藩士久保長一郎常保(父親と同名のため父親と誤認されるが、実兄である)、二本松少年隊の久保鉄次郎13歳と久保豊三郎12歳として知られる。猪之吉は兄の豊三郎と共に二本松の戦いに参加したいと母親に懇願したが、懐妊中の母は猪之吉を無言で抱き締めていたと伝わる。
岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(… 岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(明治7年)7月30日 - 1936年(昭和11年)9月22日)は、日本の俳人。 石川県大聖寺町(現・加賀市)本町生まれ。1894年高等商業学校(現・一橋大学)中退。俳句を正岡子規、高浜虚子に学んだ。 三井物産に入社し、1905年から三井物産台湾支店長として台湾に赴任。初の台湾俳誌『相思樹』の選者となり、1906年から『相思樹』主筆。 三井物産専務理事を経て、1918年大本教に入信。総務や出版局(現・天声社)局長、大正日日新聞編集局長、第一天声社社長、統理補などを務めたが、大本事件で、1936年に獄死した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日… 佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六 1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、旧弘前藩士の父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生。 父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』『陸奥評話』『津軽のしるべ』などの著書も著し、森鷗外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。 1890年東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(後の青森県立弘前中学校 現・弘前高校)に入学。
高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874… 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 - 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の日本の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体: 高濱 淸)。旧姓は池内。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。 愛媛県温泉郡長町新町(現:松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。兄の池内信嘉は能楽研究家である。
香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954… 香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。 帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。 千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。
橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18… 橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月31日)は、日本の音楽家、敎育者、歌人。 1873年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年に教授を辞した後は1939年に亡くなるまで嘱託講師(時間講師)として勤務した。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。また、1931年(昭和6年)に来日したレオニード・クロイツァーの講習会を受講した記録もある。
石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日… 石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日) - 1928年(昭和3年)9月18日)は、日本の俳人。本名は祐治。 秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男として生まれる。幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた。祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた。少年時代はとにかく読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り本を借りてきて読んでいたという。高麓小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった。また、12歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた。 1888年(明治21年)秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い3年で退学。
岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日… 岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日 - 昭和24年(1949年)5月)は、日本の俳人。本名は鉄蔵。 鳥取県法美郡宇倍野村奥谷(現鳥取市国府町奥谷)に、秋田治三郎の二男として生まれる。 明治20年(1887年)、気多郡鷲峰村(現鳥取市鹿野町鷲峰)の岡田権九郎の養子となる。 明治21年(1888年)から俳句を始め、明治24年(1891年)に俳誌「鹿野苑」を創刊。明治25年(1892年)には上京し、阿心庵永機に師事して華峰庵機外と号した。 明治27年(1894年)に立机を許され、その後、俳誌「稲葉の光」を創刊したり、鷲峰吟社を主催するなど、数多くの俳誌の選者として全国的に活躍した。
堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - … 堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - 1932年2月1日)は、山梨県巨摩郡大八田村(現・北杜市長坂町)出身の教育者・俳人。出生名は堀内 常太郎(ほりうち つねたろう)であり、柳南は号である。 1873(明治6)年4月20日、山梨県北巨摩郡秋田村(現・北杜市長坂町大八田)に生まれる。父親は堀内与右衛門。10代後半、自由民権派新聞「峡中日報」編集長を通して俳句と出会う。山梨尋常師範学校卒業後、南都留郡谷村尋常小学校を初任地として33歳まで山梨県内で教鞭を執る。この間、25歳で結婚、28歳で校長職。俳句への思いを断つことができず33歳で職を辞して上京、自由律俳誌「層雲」の同人となるが、同年妻きくを鉄道事故で失い、上京生活1年で郷里へ帰る。
河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)… 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。 正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。 伊予・松山藩士の五男として生まれる。父は正岡子規の漢学の師。高浜虚子とは中学時に同級であり、後に子規の門下生となるまで、行動をともにした仲の良い友人であった。 子規没後、虚子は「ホトトギス」の経営を、碧梧桐は新聞「日本」の俳句欄を担当。やがて新傾向運動を展開し、季題趣味と定型を打ち破った自由なリズムによる俳句を推進した。1906年から3年間の全国行脚で多くの賛同者を得たが、大正期に至って、虚子が俳壇に復帰し、守旧派の立場から激しい攻撃を浴びせた。
大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872… 大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872年12月19日) - 大正2年(1913年)10月12日)は、俳人、医師。明治時代の大蒐書家として知られる。 弥富村 (熊本県)出身、本名は豊太。7歳より東京で育つ。一高を経て、東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事。 一高時代に正岡子規に誘われ句会に入り、東大在学中の明治27年(1894年)、佐々醒雪、笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。 大学卒業後に性病専門の大野病院を京橋にて開業し、患者が門前に群れを成すほど繁盛した。
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈18… 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。 明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。父は和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年… 佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。正三位。勲六等。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 一時は桂園派に連なる歌を詠んだが、和歌改良の風潮に接して革新の気風を抱き、1897年(明治30年)頃から独自の歌境をうち立て、有望な新星として注目された。「ひろく、ふかく、おのがじし」をモットーとし[要出典]、新詩社系、根岸短歌系双方との交流を深めた。 国文学者としての実績も豊富で、特に『万葉集』の研究で有名。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれる。
牛島 滕六(うしじま とうろく、1872年〈明治5年6月24… 牛島 滕六(うしじま とうろく、1872年〈明治5年6月24日〉 - 1952年〈昭和27年〉9月11日)は、明治から昭和にかけての日本の俳人。本名は虎之助。 俳誌『時雨』の主宰として、戦前の北海道俳壇における重鎮の地位にあった。 1872年(明治5年)、福岡県久留米市に生まれる。 1891年(明治24年)、屯田兵として東永山兵村へ移住する。 1897年(明治30年)、北海道庁の鉄道敷設事業手として旭川へ赴任する。このころから雪村の雅号で河東碧梧桐選の俳誌『活文壇』に投稿していた。 1900年(明治33年)、札幌の吉見香漣・祝鱸江らとともに俳誌『白雪』を発行するが、8号で廃刊となる。 1902年(明治35年)、俳句結社「若葉吟社」を興し、俳誌『若葉』を4号まで発行する。
佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6… 佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6月11日) - 大正6年(1917年)11月25日)は、日本国文学者・俳人である。本名は佐々政一(さっさ まさかず/せいいち)。 京都に生まれ、明治29年(1896年)東京帝国大学文科大学卒。在学中の明治27年(1894年)に俳句結社・筑波会を結成し、雑誌『帝国文学』に『連俳小史』を連載した。旧制第二高等学校や旧制山口高等学校で国文学を教えた。また、明治大学でも教鞭を執った。 明治34年(1901年)12月に山口高校を依頼退官した後、書店・金港堂に入社し、雑誌『文芸界』を編集した。明治39年(1906年)に東京高等師範学校教授に就任した。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年… 内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年5月1日) - 昭和10年(1935年)12月7日)は、神奈川県出身の国文学者、歌人。号は月杖(げつじょう)。 神奈川県生まれ。獨逸学協会学校、第一高等中学を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学国文科を卒業。早稲田大学等の講師を経て1904年、明治大学講師に就任、後に教授。また、落合直文の短歌結社「浅香社」に参加し、歌人としても活動した。 『平家物語』や『方丈記』などの注釈書を著しており、特に『徒然草』を兼好の「一大趣味論」とした『徒然草評釈』で知られる。 1910年に明治大学硬式野球部が創設されると同時に部長を務めることになった。
水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年… 水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年3月11日) - 1919年(大正8年)4月10日)は、日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭。大阪府出身。 1872年(明治5年)に大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院(現・ 関西大学)で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで3番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興す。京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか1年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。
篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年… 篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日)は、俳人、小説家。 1872年(明治5年)、熊本県宇土郡宇土町(現・宇土市)に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮(現・龍谷大学)に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する「國民新聞」に勤め活躍した。 その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年(大正11年)、俳誌「土上(どじょう)」を嶋田青峰らと共に刊行した。俳句は「温籍高雅」の作風で、虚子編「新歳時記」には27句が採用されている。1926年(大正15年)、55歳で脳溢血により没した。
数藤 五城(すどう ごじょう、1872年2月2日(明治4年1… 数藤 五城(すどう ごじょう、1872年2月2日(明治4年12月24日) - 1915年(大正4年)8月21日)は、日本の俳人、教育者。第一高等学校教授、正岡子規の門人。本名は斧三郎、短歌での筆名は小野三郎。 1872年2月2日(明治4年12月24日)、島根県に生まれる。10歳の頃、数藤家の養子となり、島根県尋常中学校(現島根県立松江北高等学校)、東京大学理科大学講習科を卒業する。第一高等学校の数学教授として勤務し、俳句を正岡子規に学び、短歌を斎藤茂吉に師事する。子規から『著き進歩を現したる者』として『東京に五城あり、越後に香墨あり、大阪に青々あり』とし、『五城亦昨年始めて之を見る。錬磨不撓、一日一日より進む。
筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(… 筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(明治4年10月16日) - 1925年(大正14年)3月29日)は、石川県出身の日本の俳人、俳画家。別号に北雪、四石、此君、雪の村人、松杉窟など。旧姓は向田、本名は虎次郎。長男は歌人の筏井嘉一。 1871年(明治4年)に石川県金沢市で旧加賀藩士の子として生まれる。地元の新聞社、北陸新報に文選工として勤務しながら(当時の同僚に室生犀星がいる)、正岡子規の日本派に影響されて俳句を始める。1892年、富山県高岡市に転居すると、子規の『日本』俳壇に投句。また綿糸商を営んでいた筏井家の婿養子に入り、姓を向田から筏井と改める。1897年、子規門で新傾向俳句の河東碧梧桐が高岡を訪れた際に碧梧桐と会い傾倒、寺野守水老、山口花笠などと共に句会『越友会』を立ち上げる。