武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 … 武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉10月25日)は、日本の教育者。元明治大学野球部長、元明治大学学長・総長。札幌大学学長。日米大学野球選手権大会の創設など学生野球の普及、発展に長年尽力した。広島県広島市出身。 広島県出身。第四仏教中学(現:崇徳学園)卒業後、明治大学へ進学。商科の学生だった1920年(大正9年)、大学レガッタの惨敗などで大学混乱の中、牛尾哲造・越智七五三吉と共に大学校歌として著名な「白雲なびく駿河台」(作詞:児玉花外・作曲:山田耕筰)制定に奔走。1923年(大正12年)卒業。 1936年(昭和11年)から明大商学部教授。1941年(昭和16年)明治大学体育会ヨット部初代部長 の他、硬式庭球部長に就いていたが、1952年(昭和27年)から監督就任した教え子島岡吉郎に請われ、島岡を支える硬式野球部長となる。
栗林 元二郎(くりばやし もとじろう、1896年 - 197… 栗林 元二郎(くりばやし もとじろう、1896年 - 1977年)は、北海道の農業教育者。農業専門学校『八紘学園(はっこうがくえん)』の創設者。 1896年、秋田県雄勝郡川連村の農家に生まれる。1919年、22歳のとき、80人ほどの北海道移住団の団長を引き受ける。移住先は、十勝支庁芽室町上美生である。200haほどの土地の開墾に成功する。北海道庁により功労賞が授与される。 1924年、北海道庁の移民招致係の嘱託となる。北海道移住の宣伝映画を、制作費1800円で製作する中心人物となる。 農業教育の必要性を感じ、独学で教員資格を入手し、札幌の日本殖民学校農学科の主任講師となる。講師として経験を積むうち、農業専門学校の創立を考えはじめる。
黎 世蘅(れい せいこう、1896年 – 1977年)は、中… 黎 世蘅(れい せいこう、1896年 – 1977年)は、中華民国・中華人民共和国の経済学者・教育者・官僚。字は子鶴。経済学者として活動した一方、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)において官僚をつとめたことがある。 日本に留学し、1919年(民国7年/大正7年)、京都大学経済学部に入学した。1922年(民国11年/大正11年)、同学部を卒業、経済学士を取得したと見られる。帰国後、1922年(民国11年)、国立北京大学経済系講師兼私立民国大学校長となる。1925年(民国14年)2月17日、教育部編審処編審員に任命された。1928年(民国17年)、国立北平大学法学院教授となる。1930年(民国19年)から1937年(民国26年)まで北平成達初級中学校長兼中法大学院教務主任をつとめた。
樫葉勇(かしば いさむ、1896年-1978年12月11日)… 樫葉勇(かしば いさむ、1896年-1978年12月11日)は、童話作者、幼児教育者。和歌山県生まれ。和歌山師範学校卒、日本大学卒、1921年から30年にかけて、東京下町で貧児の教育に携わる。1937年童話教育会を創立。機関誌『童話教育』を発行。口演童話の研究と普及に尽力。樫の実幼稚園園長、白梅学園短期大学教授。
菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 197… 菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 1972年9月23日)は、日本の神学者、教育者、翻訳家。 立教大学名誉教授、立教大学文学部長、立教学院理事、立教高等女学校(現・立教女学院中学校・高等学校)校長、立教女学院小学校校長、立教女学院院長・理事、世界キリスト教協議会理事長、日本聖公会司祭。 1895年、京都府で生まれた。父の菅寅吉は日本聖公会の聖職者で、岸和田聖保羅教会で牧師を務めた人物である。主教であるチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)は、寅吉一家と一時期京都で生活を共にしたこともあり、その後も一家と深く親交した。寅吉の3人の子供たちは、洗礼名として長男の円吉から順にウィリアムズ、チャニング、ムーアとそれぞれウィリアムズの名前からとって名づけられ、ウィリアムズも子供たちを可愛がった。
福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4… 福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4日 - 1966年(昭和41年)8月28日)は、大正から昭和期の地主、農業経営者、著述家、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、山口県都濃郡福川町長。 山口県都濃郡福川村(福川町(第1次)、徳山市、福川町(第2次)、南陽町、新南陽市を経て現周南市)で福田秀夫の五男として生まれ、素封家福田民平の養子となる。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 農業を営む。著述業にも従事し、雑誌『新思潮』を経営。その後、徳山実業実践学校講師、徳山商業学校教諭を務めた。政治家道源権治の後継者と目され、都濃郡農会長、同教育会長の後任に推薦されて就任。
郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4… 郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4月18日)は、日本の教育者、ボート選手。
小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 19… 小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 1994年12月14日)は、日本の法学者で、教育者。明治大学法学部の部長を務めた後、明治大学学長を勤めた。岡山県新見市出身。 生誕地は新見市中心部より約4km北に離れた地で、幼少期は中心部にある小学校まで毎日徒歩で通学したという。また農閑期に演じられる備中神楽を愛好し、自身も演じるに至った。 旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、縁戚の者の家に下宿して通学した。中学卒業後は旧制第一高等学校に進学した。一高進学の理由について、小出自身は小学校OBで進学した先輩からの影響と語っているほか、教え子の一人は小出の入学前に一高校長を務めていた新渡戸稲造への憧れがあったと記している。
武岡 鶴代(たけおか つるよ、1895年(明治28年)9月1… 武岡 鶴代(たけおか つるよ、1895年(明治28年)9月18日 - 1966年(昭和41年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。国立音楽大学の創立メンバーの一人。 岡山県東南条郡林田(はいだ)村(現在の津山市川崎)にて、米問屋の父・安次郎、母・澤のもと、六人姉妹の六女として生まれる。岡山県津山高等女学校卒業後、1913年(大正2年)東京音楽学校予科入学。1914年(大正3年)東京音楽学校本科声楽科入学。ハンカ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。1917年(大正6年)卒業、上真行奨励賞受賞。研究科に進み、1919年(大正8年)修了。同年5月御前演奏会に出演。同年10月、東京音楽学校「秋季演奏会」に出演、公式に楽会にデビュー。
野口 明(のぐち あきら、1895年(明治28年)5月17日… 野口 明(のぐち あきら、1895年(明治28年)5月17日 - 1979年(昭和54年)9月3日)は、日本の官僚・教育者。お茶の水女子大学初代学長などを歴任した。 1895年、東京府東京市麹町区下六番町で陸軍に奉職する獣医・野口次郎三の子として生まれる。 番町学校、旧制暁星中学校、旧制第二高等学校(宮城県仙台市)文科独法(1916年卒)を経て、1919年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 同年、文部省に入省し、高等文官試験に合格。長崎県警務課長(1922年)、神奈川県警務課長(1923年)を経て、文部省普通学務局第三課長(1924年)、同庶務課長。 1925年に一木喜徳郎大臣の秘書官として宮内省入省。
小村 捷治(こむら しょうじ、1895年〈明治28年〉5月1… 小村 捷治(こむら しょうじ、1895年〈明治28年〉5月15日 - 1972年〈昭和47年〉2月9日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院侯爵議員。 外交官・小村壽太郎、マチ夫妻の二男として生まれる。兄小村欣一が死去して3年後の1934年(昭和9年)1月15日、侯爵を襲爵して貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 東京帝国大学文学部を修了。財団法人国士舘講師、東京朝日新聞記者、大阪朝日新聞記者などを務めた。1938年(昭和13年)以降、司法制度調査委員会委員、内閣委員、経済関係罰則調査会委員などを歴任。 戦後は外務省研修所講師、明治大学講師を務めた。
牧野 キク(まきの キク、1895年〈明治28年〉4月12日… 牧野 キク(まきの キク、1895年〈明治28年〉4月12日 - 1996年〈平成8年〉6月27日)は、日本の教育者、学校経営者。北海道の学校法人藤女子学園理事長、藤女子大学初代学長を務めた。藤女子学園創成期の札幌藤高等女学校(後の藤女子中学校・高等学校)時代から、同校2代目校長のクサヴェラ・レーメと共に、女子教育に尽力した。戦中は軍からの圧力に耐えて学校を守り抜き、戦後は藤女子専門学校の設置、新教育制度の施行に伴う藤女子短期大学や藤女子大学の設置など、生涯を女子教育への発展に尽くした。「女子教育の先達」「北海道女子教育の先駆者」とも呼ばれる。富山県富山市越前町出身。 1895年(明治28年)に、富山市越前町で、10人兄妹の第4子として誕生した。
竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉… 竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉4月9日 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の経済学者、教育者。立教大学商学部教授・経済学部教授、国士舘大学教授。 1895年4月9日生まれ。慶應義塾大学理財科を卒業したのち、三井銀行に入行。 同行で4年間の勤務のあと退職し、慶応義塾大学教授のトーマス・E・ジョンの元で研究助手を務め、同大学大学院で経済学および人口論を専攻する。1920年(大正9年)3月、同大学理財科大学院を修了。 1925年(大正14年)に立教大学商学部(現・経済学部・経営学部)教授に就任。経済原論や銀行論を講じる。 1937年(昭和12年)に立教大学スキー部が創設されると、初代部長を務めた。
内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 197… 内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 1979年5月23日)は、日本の鋳金家、工芸家、教育者。東京美術学校教授、東京藝術大学名誉教授。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。 岩手県盛岡市に生まれる。少年期に釜師有坂安太郎に入門し、のち南部鋳金研究所で松橋宗明に学んだ。その後上京し、香取秀真に師事した。 1920年に東京美術学校に入学し、1925年に鋳造科を卒業した。研究科修了後の1928年、同校助手となった。1926年には高村周豊らと「旡型」を結成し、昭和初期の新工芸運動に参加した。 1927年、第8回帝展に美術工芸部が新設されると「壁画への時計」を出品して入選した。
多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日… 多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日 - 1951年(昭和26年)7月14日)は、日本の歯科医師であり教育者である。東京女子歯科医学専門学校(現:神奈川歯科大学)教授。岡山県津山市出身。 1895年(明治28年)に岡山県勝田郡勝加茂村(現:津山市)の多胡又次郎の三男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)に同校を卒業し、東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)へ進学。1919年(大正8年)東京歯科医専を卒業し、24歳で直ちに同校の助手となる。 東京歯科医専の助手として勤務していたが、1921年(大正10年)12月に離職して、渡米する。
鄭 重燮(チョン・ジュンソプ、朝鮮語: 정중섭、1895年3… 鄭 重燮(チョン・ジュンソプ、朝鮮語: 정중섭、1895年3月6日または1898年3月6日 - 1978年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、警察官、政治家。第3・4代韓国国会議員。 咸鏡南道利原郡出身。京城高等工業専門学校(朝鮮語版)応用化学科卒、在学中は独立運動に関与して数回拘束された。東洋大学東洋倫理哲学科卒または3年修了。間島で東興中学校を設立し、教員・校長を務め、左翼団体である平友同盟にも参加したが、5・20間島暴動により避難し帰国した。その後は高城警察署刑事部長、北青工業学校教員・校長、北青産業学校・北青中学校教員、木浦工業学校(朝鮮語版)校長、光州西公立中学校(現・光州第一高等学校(朝鮮語版))校長、木浦商業学校(現・全南大学校)校長、全南大学校商科大学学長、全羅南道学務課長・教育局長、全南教育会創立初代会長、民主党中央委員、株式会社ラジオ木浦発起人・初代代表理事、初代木浦MBC社長、新民党中央委員会議長、共和党常任委員を務めた。
淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2… 淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2月13日 - 1979年4月30日)は、日本の心理学者、社会学者、教育者。立教大学名誉教授・初代社会学部長、東京帝国大学教授・航空研究所教授。心理学および労務管理学の権威で、立教大学社会学部の創設者である。労働、通産、文部各省の審議会委員も歴任し、日本労務研究会理事長や雇用問題研究会会長なども務めた 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部心理学科を卒業した。その後、大学院に学び、1925年(大正14年)からドイツに留学し、ベルリン大学、ハンブルク大学で学ぶ。 1927年(昭和2年)、立教大学教授に就任。1929年(昭和4年)に東京帝国大学助教授、1939年に(昭和14年)教授となった。
松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月2… 松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月25日 - 1980年12月27日)は、日本の歌人、教育者である。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町羽場)生まれ。長野県立諏訪中学校を経て、1914年長野県師範学校(現・信州大学)を卒業。上伊那郡七久保小学校を振り出しに県内各地で教職に携わる。高遠国民学校、高遠拓殖青年学校、高遠実科高等女学校の校長を歴任。 1917年、「アララギ」入会。島木赤彦、土屋文明、土田耕平と相識り、歌は「アララギ」一筋によりながら、1947年には歌誌「流域」を主宰して、上伊那地域の人々の短歌指導にあたった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1… 高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1932年(昭和7年))は弁護士であり教育者。関西大学法学部教授、社会運動家。岡山県高梁市出身。 岡山県に生まれる。地元に近い旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾がいる。このうち西雅雄、宇野弘蔵とは中学卒業後も親交があった。1915年(大正4年)に同校を卒業し、宇野と同じ第六高等学校文科丙類へ進学する。1918年(大正7年)同校を卒業、京都帝国大学法学部法律学科へ進学する。
王 謨(おう ぼ/おう も、1895年 - 1958年)は、… 王 謨(おう ぼ/おう も、1895年 - 1958年)は、中華民国の教育者・地理学者・政治家。字は献芻。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。 民国初期に日本へ留学し、1919年(民国8年/大正8年)3月に東京高等師範学校理科第三部乙班を卒業している。次いで東京帝国大学理学部地理学科に入学し、1922年(民国11年/大正11年)3月に卒業、理学士の称号を取得した。 帰国後は、国立武昌大学、国立北京師範大学、国立清華大学、国立北京大学女子文理学院などの地理学系教授や講師を歴任し、北京政府時代には参議院議員もつとめた。1942年(民国31年)まで北京師範学院院長をつとめ、その後に北京師範大学教授をつとめる。
藤本 捨助(ふじもと すてすけ、1894年〈明治27年〉12… 藤本 捨助(ふじもと すてすけ、1894年〈明治27年〉12月12日 - 1963年〈昭和38年〉9月11日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員を5期つとめた。 1894年(明治27年)12月香川県大川郡引田町(現東かがわ市)生まれ。1917年(大正6年)香川師範学校卒業、1922年(大正11年)東京高等師範学校卒業、1928年(昭和3年)東北帝国大学法学部卒業後、高松高等商業学校教授。 1936年(昭和11年)に第19回衆議院議員総選挙に立候補するが落選。1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙で香川1区から初当選、1942年(昭和17年)に第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)で再選を果たす(翼賛政治体制協議会推薦)。
張 徳秀(チャン・ドクス、1894年12月10日 - 194… 張 徳秀(チャン・ドクス、1894年12月10日 - 1947年12月2日)は、朝鮮の政治家、教育者、独立運動家。本貫は結城張氏、号は雪山。東亜日報の初代主筆。 黄海南道載寧郡出身。1910年代に早稲田大学に留学し、在学中は朝鮮人留学生のリーダーとして活躍した。「新亜同盟党」で、大陸中国や台湾の留学生と交流したほか、茅原華山の雑誌「第三帝国」にも寄稿した。1918年に上海に渡り、呂運亨とともに「新韓青年党」を組織した。1919年2月に朝鮮に戻り逮捕された。同年11月の呂運亨の訪日の際には通訳を務めた。1920年「東亜日報」創刊とともに主筆を務め、金明植らと高麗共産党(朝鮮語版)上海派の国内支部を組織した。
長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1… 長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1973年2月9日)は、日本語教育者。 1894年11月16日、群馬県伊勢崎市近郊に長沼宗雄の三男として誕生。1915年6月、21歳の時に東京高等商業学校(一橋大学の前身)入学。隣人のアメリカ人の依頼で日本語教師の代行をしたことをきっかけに、「日本語教育」の道を歩んだ。ハロルド・E・パーマーとの出会いを機に、「英語教授研究所」に関わってパーマーを援け、その後、米国大使館で主任教官として米国陸海軍から送られたアメリカ人将校への日本語教育を担当した。日米開戦が近づき米国大使館の日本語教室は閉鎖され、文部省内に日本語教育振興会が設立されると、その理事としてアジア地域(大東亜)への日本語普及事業にも携わり、戦後は、財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校を創立、生涯を日本語教育に尽力した。
鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8… 鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8月3日)は、昭和期の北海道の教育者。北海道文教大学短期大学部初代学長。 新潟県出身。越後国藩士の家に生まれる。1908年、新潟県立新潟高等女学校(現・新潟県立新潟中央高等学校)卒業。1908年より1917年まで新潟県内の小学校教諭。1912年、帝国女子専門学校(現・相模女子大学)卒業。北海道へ渡り、1917年、成美女学校(現・せいとく介護こども福祉専門学校)専任教諭。1942年6月、北海道女子栄養学校を設立し、校長に。1960年4月、北海道栄養学校校長に就任。1963年4月、北海道栄養短期大学を設立し、初代学長に。1963年12月、学校法人鶴岡学園初代理事長で夫の鶴岡新太郎が急逝し、2代理事長に就任。
尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 194… 尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 1944年1月4日)は、日本の実業家・教育者。刀江書院創業者で、同社長、埼玉銀行頭取、日本技術教育協会会長、日本児童社会学会会長などを務めた。 秋田県で尾高次郎の長男として生まれる。母は渋沢栄一の娘。埼玉県出身。妻豊子は、最後の岸和田藩主で司法大臣などを務めた子爵岡部長職の三女。娘の泰子は、最後の鳥羽藩主稲垣長敬の孫で子爵稲垣長賢の弟・稲垣重兼の妻。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。武州銀行副頭取、埼玉銀行頭取などを歴任し、多数の会社の役員も務めたが、1925年出版業を通じて日本の文化向上を図るため刀江書院を創業、社長を務める。 郷土教育連盟や日本児童社会学会を設立して前者の代表、後者の会長を務め、また日本技術教育協会会長なども務め、戦間期の日本の民族教育において、文部省などに対し指導的役割を果たした。
岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月… 岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月20日 - 1967年3月14日)は、昭和期に活躍した日本の心理学者、教育者。東京大学教授、立教大学教授、国際基督教大学教養学部教授、上智大学文学部教授。幼少教育の先駆者であり、教育心理学の分野で多くの業績をあげた。 長野県北佐久郡春日村(現・佐久市)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。同年、同大学助手となり、女子英学塾(現・津田塾大学)、立教大学の各講師を兼務する。 1930年(昭和5年)、東京大学助手を辞め、立教大学教授に就任。教育学、教育史を講じ、心理学演習を担当した。1935年(昭和10年)からは、東京大学に戻り助教授となり、1948年(昭和23年)に東大教授となった。
大久保 教尚(おおくぼ のりたか、1894年(明治27年)6… 大久保 教尚(おおくぼ のりたか、1894年(明治27年)6月3日 - 1959年(昭和34年)11月26日)は、大正から昭和期の宮内官、教育者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大久保教正の長男として生まれる。父の死去に伴い、1900年(明治33年)9月24日、子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)東京帝国大学経済学部、1923年(大正12年)同大法学部をそれぞれ卒業し、さらに同大大学院で社会法学を研究した。 1925年(大正14年)宮内省に入省し宮内属に任官。宗秩寮勤務、式部官などを務めて1933年(昭和8年)に退官した。その後、東京商工学校講師、東京農業大学講師、日本西班牙協会理事、東京日本洪牙利協会理事などを務めた。
鶴田 常吉(つるた つねきち、1894年4月10日 - 19… 鶴田 常吉(つるた つねきち、1894年4月10日 - 1988年9月29日)は、日本の教育者。国文学者。四国女子短期大学(現四国大学)初代学長。徳島県三好市出身。広島高等師範学校卒業。 三好郡三野町(現在の三好市)出身。広島高等師範学校(現在の広島大学)卒業。 徳島師範学校学長、新制徳島大学学芸学部初代学部長、四国女子短期大学(現四国大学)初代学長等を歴任。また1964年から1972年までは徳島大学渭水会会長を務めた。 また徳島市立川内北小学校、三好市立池田小学校、三庄中学校(現東みよし町立三加茂中学校)等の校歌の作詞も手掛けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - … 川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - 1930年5月17日)は、日本の教育者。大正自由教育運動への弾圧事件である川井訓導事件の当事者として知られる。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。父は旧松本藩士であったが幼い頃に亡くなり、小学校准教員であった母のもとで育つ。長野県師範学校を卒業し、小学校勤務を経た後、広島高等師範学校学校教育学科に学び、1920年に松本女子師範附属小学校の訓導となる。1924年9月5日、いわゆる川井訓導事件により休職を命じられ、退職願により退職。その後、旧制中学校教師の資格を取るため広島高等師範学校研究科で再度学び、広島県内の女学校の教頭などを務める。
森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は… 森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は、日本の造園家、作庭家、造園教育者。 造園指導者として人材育成にあたる傍ら、多くの造園作品を残す。大別して住宅庭園や公園緑地(遊園地等)庭園、学校庭園等が多いが、設計のほか施工監督指導等になるものも含めると作品数は多数に及ぶ。 佐賀県唐津市生まれ。 1914年(大正3年)、千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)卒業ののち、一時、当時宮内省出入の植木師として名のあった東京府下戸塚の小川重次郎方に徒弟として造園実務にたずさわった。1915年、恩師本郷高徳の推挙で大阪府吏員となり、大屋霊城と共に府営住吉公園改良工事に従事することとなる。
宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の… 宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の教育者、小説家。
成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月… 成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月15日 - 1945年(昭和20年)10月29日)は、秋田県出身の日本の作曲家 、教育者。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教授。 秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)にて、役場職員の息子として生まれる。1909年(明治42年)、鷹巣准(準の古字)教員準備場を卒業、秋田県師範学校に入学。1913年(大正2年)に同校を卒業後、鹿角郡毛馬内町(現、鹿角市十和田)の毛馬内小学校で教鞭を一年間執る。1914年(大正3年)、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。
外山 ハツ(とやま ハツ、1893年〈明治26年〉11月29… 外山 ハツ(とやま ハツ、1893年〈明治26年〉11月29日 - 1983年〈昭和58年〉4月23日)は、日本の教育者。北海道函館市の函館大妻高等学校の前身となる函館大妻技芸学校の設立者。函館の女子教育の先覚者とされる。 函館区蓬来町で誕生した。幼少時より、父の「これからの女は、何か一つ手に職を持っていなければならない」との教えのもとに、遊びよりも働くことを教えられて育った。1910年(明治43年)に函館裁縫女学校に入学、その手先の器用さを発揮した。 海産業の男性と結婚して二児をもうけたが、1917年(大正6年)に離婚した。生活のために同1917年(大正6年)、蓬来町に家塾を開設し、裁縫と手芸を教えた。
一志 茂樹(いっし しげき、 1893年11月12日 - 1… 一志 茂樹(いっし しげき、 1893年11月12日 - 1985年2月27日)は日本の郷土史家、教育者。
犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - … 犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - 1931年9月3日)は、大正から昭和期の日本の弁護士、法学者、教育者、立教大学教授。 富山県東礪波郡出身。早稲田大学卒業。大正から昭和にかけて弁護士を務めた。 1925年(大正14年)には衆議院議員選挙法(普通選挙法)改正によって男子普通選挙が実現されたが、この際、犀川は同改正法のほか、改正貴族院令及び同時に制定された治安維持法の解説書を出版するなど、法律学に関する執筆活動も行った。 大正期には立教大学経済学部教授を兼務し、細野三千雄とともに民法と刑法を講じた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月1… 今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月14日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家、教育者。 片倉製糸紡績株式会社取締役、財団法人片倉学園理事長、片倉磐城製糸株式会社代表取締役、昭和興業株式会社取締役、株式会社美篶商会取締役、日東紡績株式会社取締役、長崎製糸株式会社取締役、昭和絹靴下株式会社取締役、片倉米穀肥料株式会社取締役、東邦石油株式会社取締役、富国火災海上保険株式会社監査役、極東化学工業所社長(初代)、片倉合名会社出資社員、埼玉県大宮市長(初代・第4代)、片倉工業株式会社取締役、東亜ゴム工業株式会社社長(第2代)、トーテックス株式会社社長(初代)などを歴任した。
三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 197… 三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 1978年7月20日)は、日本の法学者、弁護士、裁判官、教育者。 1893年(明治26年)、香川県に生まれる。1919年京都帝国大学法学部卒業。東京地方裁判所、東京控訴院の判事や秋田地方裁判所所長などを務めた後、1948年より弁護士として活動。東洋大学で博士号を取得後、同大学で教授となる。1967年に東洋大学学長に就任。学生運動の最中ということもあり、学生の強い反発を受ける中で教養課程の川越キャンパスへの移転、図書館、学生会館建設の問題収拾にあたった。1969年に学長を辞任した。 1978年7月20日、老衰のため東京都大田区の自宅にて死去。84歳。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
加藤 成之(かとう よしゆき、1893年(明治26年)9月6… 加藤 成之(かとう よしゆき、1893年(明治26年)9月6日 - 1969年(昭和44年)6月30日)は、大正から昭和期の音楽教育者、音楽学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。日本での音楽史研究、音楽美学の開拓者の一人。 医師・加藤照麿の二男として東京で生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)11月2日、男爵を襲爵した。 1920年(大正9年)東京帝国大学文学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までフランス、ドイツに留学する。帰国して、東京美術学校講師、東京高等音楽院講師、女子美術専門学校講師、東北帝国大学法文学部講師などを務めた。
太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 193… 太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 1930年12月4日)は、日本の農学者、教育者。菜種の新品種「六ツ美種」の開発者として知られる。 愛知県碧海郡糟海村大字土井(現・岡崎市土井町)に生まれる。中井村立中井尋常高等小学校を卒業。しばらく村役場書記や小学校準教員をしていたが、愛知県第二師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)へ進学する。同校卒業後10数年は、棚尾・依佐美・富士松・桜井等の尋常小学校の訓導として教鞭をとった。謄写印刷のパンフレット式の教科書を作り、農業関係の科目を熱心に教えたという。 1927年(昭和2年)、六ツ美村立農業補修学校の長谷川一男校長の招きにより、同校の教頭に就任。
清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1… 清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉12月8日)は、日本の外交官、書家、教育者。書画家として号を東翠。兄は画家の清水登之。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)出身。1915年東亜同文書院政治科卒。1919年東亜同文書院教授(中国語担当)。1929年外務省嘱託、1933年外務省翻訳官、1943年中華民国大使館一等書記官。1946年同大使館参事官、1955年中華民国台北大使館公使、1956年外務審議官。1959年外務省退官、その後は外務省、日本クラブなどで書画を教えた。
中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月3… 中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月30日 - 1999年(平成11年))は、日本の農林官僚であり教育者でもある。農林省に勤めた後、戦後、茨城大学教授を経て明治大学教授となった。初代日本食肉科学会会長。子の中原逸郎は陸軍大尉。岡山県倉敷市出身。 1893年(明治26年)に岡山県に生まれる。その後、1914年(大正3年)、20歳で旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、同年、名古屋市にある第八高等学校へ入学し、1917年(大正6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学農学部へ入学、1920年(大正9年)7月、27歳で同大学を卒業し、東京毛織会社へ技師農学士として就職した。
及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26… 及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、大正から昭和期の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺町、江刺市を経て現奥州市)で生まれる。岩手師範学校を経て、1917年(大正6年)東京高等師範学校(のち東京教育大学)を卒業。 岩手県師範学校教諭、島根県立杵築中学校(現島根県立大社高等学校)教諭を歴任。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格。神奈川県視学官に就任。その後、横浜市で弁護士を開業し、横浜弁護士会副会長も務めた。その他、私立本牧中学校(のち現在の横浜中学校・高等学校に合併)校長兼理事長となった。
世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月3… 世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月30日 - 1965年〈昭和40年〉4月27日)は日本の教育者・政治家。衆議院議員(8期)、経済企画庁長官(第2次岸内閣)、学校法人近畿大学理事長などを歴任した。位階は従三位。 和歌山県東牟婁郡敷屋村(現・新宮市)に中農・世耕佐七の五男として生まれる。一旦は材木店に丁稚奉公をするが、その後苦学して1918年専門学校入学者検定試験に合格、日本大学予科に入学。1923年、日本大学法文学部卒業。日大の政治経済海外研究員としてベルリン大学に5年間留学。帰国後の1931年に日本大学教授。1944年に日大と関係の深い大阪専門学校の校長と大阪理工科大学長に就任。
佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1… 佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1977年3月7日)は、日本の地理学者、教育者、教育学者。第二次世界大戦直後の学習指導要領改訂などに携わり教育界の発展に寄与した。奥州大学(現富士大学)教授を歴任。
八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15… 八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15日 - 1980年(昭和55年)6月9日)は、日本の教育者・植物研究家。教員として愛媛県師範学校に長年勤務し、多くの優秀な理科教員を養成するとともに、愛媛県理科教育研究会の会長として愛媛県の理科教育に貢献した。また、教員として勤務するかたわら、牧野富太郎に師事して地元の植物研究に打ち込み、オキチモズクやツバキカンザクラなどを発見したことでも知られている。 1893年(明治26年)1月15日、愛媛県野間郡波方村樋口(現今治市波方町樋口)に生まれた。農家の父・鶴吉と母・ハルの間の11人兄弟の10人目であった。1908年(明治41年)に波方尋常高等小学校(現今治市立波方小学校)高等科を卒業すると、越智郡岩城村の岩城尋常高等小学校(現上島町立岩城小学校)に代用教員として勤務しながら愛媛県師範学校を目指し、1910年(明治43年)に同校に合格、入学した。
大塚 豊美(おおつか とよみ 1893年-1978年)は、日… 大塚 豊美(おおつか とよみ 1893年-1978年)は、日本の医学博士、歯科医師、教育者。配偶者の須磨は星野元治の五女。 1893年、群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市)に生まれる。1913年、東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業。はじめ静岡県で歯科医師として活動を開始し、後に山梨県に移り山梨県歯科医師会長に就任した。その後ドイツに留学し、クルップ社の開発した歯科金属材料技術、ウイプラ(Wipla)床圧印を同社とのライセンス契約に基づいて日本に導入した。1929年には日本歯研工業株式会社の前身である大日本歯科技術研究所を東京都品川区大崎本町(現品川区西五反田)に開設。1972年には東京歯科大学の協力の下に歯科技工士養成のため東京歯科技工専門学校を開校。
阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不… 阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不詳)は、日本の数学者、教育者。立教大学予科教授、立教大学学生主事。立教大学体育会水泳部の部長としてプールの建設に尽力し、多くのオリンピック選手を育てるなど「立教水泳の恩人」と知られ、熱心なクリスチャンでもあった。 1893年生まれ。1924年、東北帝国大学理学部物理学科卒業。 1927年、立教大学予科に着任し、予科教授として数学を講じた。 1929年に立教大学体育会水泳部部長に就任。部長となった阿部はプールの建設のため、建築費の資金調達に水泳部OBの本井の協力も得て尽力した。建築費3万円のうち1万円は校友からの募金で得られ、残り2万円は銀行から借入れし、阿部と水泳部OBの野村憲夫らが保証人となって調達された。
帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965… 帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965年)は、日本の教育者。立教大学学監、旧制立教中学校校長、立教学院理事。立教を廃校にしようと画策した配属将校や軍部の迫害から立教を護った人物として高く評価されている。北辰一刀流の剣豪、千葉周作の曾孫、旧名は千葉秀三郎。 1893年、北辰一刀流の開祖である千葉周作の曾孫、千葉秀三郎として生まれる。 父・千葉周之介之胤(玄武館第5代宗家)は東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教員として撃剣及び剣道の師範を務めた。 兄が旧制立教中学校で学んだことから、1909年に同じく旧制立教中学校に入学。 1913年、立教大学文科(現・文学部)に入学。
齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) -… 齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年)4月6日)は、日本の教育者。藤島町教育委員会教育長、山形県東田川郡校長会長、山形県連合小学校長会評議員、栄典・称号は、従五位・勲五等・双光旭日章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)