留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、186… 留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、1866年(慶応2年) - 1900年(明治33年)4月30日)は留岡幸助の前妻。社会福祉活動家。現在の岡山県出身。 1866年(慶應2年)、備中国川上郡下切村(のち、倉敷県川上郡下切村→深津県川上郡下切村→小田県川上郡下切村→岡山県川上郡玉川村、現・高梁市玉川町下切大成)の森峰定五郎と妻・むめの11番目の末っ子として誕生した。1879年(明治12年)養子・留岡幸助の嫁になるため、夏子が13歳のとき留岡金助の養女として引き取られた。同年、幸助が座敷牢に入れられているのを助け出し、幸助は四国の今治へ逃れた。その後、留岡家を出て夏子の実家に帰るが、再び高梁の須藤英江医師のもとへ奉公に出た。
福田 英子(ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年1… 福田 英子(ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和2年(1927年)5月2日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての社会運動家。婦人解放運動のさきがけとして知られ、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称された。旧姓は景山。
謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈186… 謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈1865年11月16日〉 - 明治41年〈1908年〉10月29日)は、沖縄の社会運動家、自由民権運動家。帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)卒業。沖縄県初の農学士。東風平村(現:八重瀬町)出身。 東風平間切(現在の八重瀬町)の農家の出身。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院中等科に入学。中江兆民の教えを受ける。1885年(明治18年)から東京山林学校で学び、1891年(明治24年)に帝国大学農科大学を卒業。沖縄初の農学士となった。 卒業後、鹿児島県等の県外出身者が多数を占めていた沖縄県庁に技師として入り、沖縄の農政改革に務める。
窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年… 窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1946年10月6日)は、日本の内務官僚、法学者、社会事業家。法学博士、行政裁判所長官、枢密顧問官。 岡山藩学師範教授・窪田善之の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業した。内務省に入省し、後藤新平のもとで日本の保健衛生制度の確立に尽力。伝染病予防法、癩予防法などの制定を推進した。医者ではない事務官として初めて衛生局長に就任した。また後藤の影響から、狭義の衛生政策のみならず社会問題・社会政策全般に関心を抱き、社会政策学会が発足するとその会員となった。
二階堂 保則(にかいどう やすのり、1865年(慶応元年9月… 二階堂 保則(にかいどう やすのり、1865年(慶応元年9月9日)- 1925年8月4日)は、江戸時代幕末の尊攘運動家。明治時代から大正時代の医師、統計学者。諱は良碩。号は如瓶。 越後国蒲原郡古寺村(現在の新潟県新発田市)に生まれる。幼名は菊太郎。中之島村の医師・三浦宗仙の養子となる。幼い頃から医学を学び、漢学者の若月元輔と共に江戸に行き、松崎慊堂や林復斎に教えを受け、田原藩に招聘された。故郷に戻り、子弟を教育していたが、三島郡瓜生村の金子邸で勤皇の同志と交わる。戊辰戦争が起こるや松田秀次郎や高橋竹之助などと草莽隊の方義隊を結成し、新政府軍の道案内を務めた。隊の解散後は家を義弟の宗潮に譲り、本姓の二階堂氏を名乗る。
宮崎 民蔵(みやざき たみぞう、慶応元年5月20日(1865… 宮崎 民蔵(みやざき たみぞう、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 昭和3年(1928年)8月15日)は、明治・大正期の社会運動家。号は巡耕。後に中華民国を建国することとなる孫文を支援した熊本県荒尾市の宮崎家の本家筋当主。 肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)出身。兄の八郎、弟の弥蔵・寅蔵(滔天)とともに「民権兄弟」として知られる(特に民蔵・弥蔵・寅蔵を「宮崎三兄弟」と呼ぶこともある)。 宮崎政賢・左喜夫妻の六男に生まれるが、兄・八郎が西南戦争で戦死し、他の兄も既に没していたため、1880年(明治13年)に民蔵が16歳で宮崎家の当主となる。 八郎と同様に自由民権運動の影響を受けて上京し、中江兆民の仏学塾に入ったものの、病気のため帰郷する。
加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2… 加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2月7日) - 1923年(大正12年)8月5日)は、戦前日本の政治活動家、実業家、教育者。 本名は加藤 正雄(かとう まさお)。石見国安濃郡(現・島根県大田市)出身。波根東村上川内本加藤家13代目当主。 明治期に石見地方で展開された自由民権運動において、明治自由党石陽部に加わり、小原鉄臣、堀哲三、米田和一らと活動を共にした。 波根八幡宮の偽党撲滅会は、社殿の中央に演台を設け壇上には緋毛布を敷き白地に赤文字で偽党撲滅怪社退治と記した幕を、社殿中は 一面に商燈を点じ聴衆数百人に演説を促がしたものであった。 『第一席には、多久礼造が偽党撹滅去の組合という題にて改進党が偽党であることを弁じ立憲改進党を撲滅するは今日の急務であると演じた。
林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日… 林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月24日)は、日本の教育者、キリスト教の社会事業家。 越前国大野(現在の福井県大野市)に、大野藩士林長蔵の長女として生まれる。 1877年(明治10年)に石川県(現在の福井県)第三女子師範学校(後に石川県第三女子小学師範学校と改名)に第1期生として入学する。明治天皇の巡幸の折は名代として来校した大隈重信参議の前で日本外史の一節を講義し、金一封をもらう。1880年(明治13年)に卒業後、大野町の有終小学校で勤務する。 小学校教員時代に歌人布川正沖に和歌を学ぶ。当時あこがれの女性は下田歌子だった。
石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年… 石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年(慶應元年) - 1895年(明治28年)9月12日)は、石井十次の最初の妻であり、社会事業家である。岡山県出身。 岡山県生まれ。1881年に同い年の石井十次(16歳)と品子(15歳)は結婚した。十次は品子と結婚した頃には教職や巡査の職に就いており、結婚後、十次の出身地である宮崎から品子の実家のある岡山へ活動拠点を移す。 その後、十次は医師を志すようになる。その間、品子は京都に機織の勉強に行き、岡山に帰ってからは、1885年(明治18年)高梁の順正高等女学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学している。品子がキリスト教の洗礼を受けるのは、この高梁の地である。
小野田 鉄弥(おのだ てつや、元治元年11月19日〈1864… 小野田 鉄弥(おのだ てつや、元治元年11月19日〈1864年12月17日〉 - 1948年)は、明治時代の社会事業家。小橋勝之助らとともに日本で最も古い児童施設の一つである博愛社(現在の社会福祉法人博愛社)を創設し、勝之助の弟・小橋実之助、林歌子らと孤児の養育に尽力したほか、石井十次と岡山孤児院の運営を行った。 1864年(元治元年)、現在の茨城県古河市に生まれる。その後、東京・築地の立教大学校(現在の立教大学)で修学した。 1890年(明治23年)に兵庫県赤穂郡矢野村(現在の相生市)で、貧しい家庭の子供たちを育てる施設として『博愛社』を小橋勝之助、小橋実之助(小橋兄弟)、沢田寸二、前田英哲らとともに創設し、林歌子らの協力者と孤児の養育に尽力する。
発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元… 発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元年10月5日〉- 1936年〈昭和11年〉2月28日)は、日本の教育者、実業家、社会事業家。埼玉・笠幡村の大地主・発智家の27代目当主で埼玉県多額納税者。黒須銀行頭取、霞ヶ関村村長、埼玉育児院院長のほか、武州銀行(黒須銀行後身)、武州貯蓄銀行、日米生糸の役員などを務め、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設者でもある。 埼玉の黒須村(現入間市)で代々名主役を務めた豪農商・繁田家の12代繁田武平(満義)の長男・亀太郎として生まれ、親戚の発智家の養嗣子となり、埼玉県師範学校高等師範科卒業後、黒須高等小学校を設立し校長となる。 日本弘道会の西村茂樹の講演に触発されて、弟の13代繁田武平(翠軒)と同会の支部と黒須信用組合を1894年に設立、1898年には霞が関村支部も設立して西村の唱える「道徳と経済」の調和と活性化を図り、弘道会の全国集会では「農民の道徳」と題した演説も行なった。
広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、… 広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、1864年10月13日〈元治元年9月13日〉 - 1896年〈明治29年〉10月22日)は、明治期の日本の鉄道技術者、自由民権運動家。 仙石貢らとともに東京市街高架鉄道(現在の山手線および京浜東北線の上野駅・浜松町駅間の高架線区間)および中央停車場(現在の東京駅)の計画、設計をおこなった。広川は計画設計作業従事中に倒れ、32歳で死去した。 越後国三島郡飯塚村(現在の新潟県長岡市飯塚)に、広川甚左衛門とちやの次男として生まれる。[要出典]父は小さい頃に死別し、母のもとで育てられる。1878年(明治11年)、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学した。
坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年… 坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年7月1日〉 - 1949年〈昭和24年〉12月29日)は、日本の篤農家、政治家(奈良県南葛城郡会議員)、社会運動家。部落解放運動家阪本清一郎の従兄弟。 奈良県南葛城郡掖上村柏原(現・御所市)の被差別部落出身。掖上村柏原北方区長を務める。 自由党に入って自由民権運動をおし進める。融和事業に取り組み、1912年、松井庄五郎の大和同志会結成に参加し、副会長となる。 柏原や奈良県内の自主的部落改善運動の中心を担った。 寺田蘇人著『部落の人豪』には、奈良県南葛城郡の部落の人豪として清俊の名前が挙げられている。 阪本清一郎は坂本清俊の影響を大きく受けている。
佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治… 佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治元年5月10日〉 - 1940年〈昭和15年〉8月16日)は、明治・大正・昭和時代に日本・中国(当時の関東州を含む)・朝鮮・台湾で、主に児童の養育・救援に尽力した、日本の社会福祉活動家。藍綬褒章受章者。 1864年、土佐国幡多郡下田竹島(現在の高知県四万十市竹島)に、父宮村源左衛門、母佐雄の4男として生まれる。7歳のときに親戚の佐竹家に養子にやられたので名字は佐竹となるが、13歳のときに養父母の離婚により生家に戻って育つ。 1881年に村の小学校の助手となり、1886年に東京府下巣鴨尋常小学校長に就任するも1年後には校長を辞し、神田の明治法律学校(明治大学の前身)を経て、1890年に本郷湯島の医学専門学校済生学舎(日本医科大学の前身)に学んだ。
有馬 四郎助(ありま しろすけ、1864年3月9日(文久4年… 有馬 四郎助(ありま しろすけ、1864年3月9日(文久4年2月2日) - 1934年(昭和9年)2月4日)は、日本の刑務官、社会事業家。 監獄改良と行刑制度の確立に努め、少年釈放者の保護事業として家庭学園(横浜家庭学園)を設立。 現在の鹿児島県鹿児島市荒田町に生まれる。鍛冶を営む益満家の4男で、1869年(明治2年)に士族・有馬家の養子となる。1879年(明治12年)に鹿児島師範学校付属小学校訓導補助、1881年(明治14年)には京都府二等巡査となり、1885年(明治18年)には鹿児島県刑務補。翌1886年(明治19年)、北海道集治監での看守募集に応募し、看守長兼書記となる。 1898年(明治31年)、東京都港区赤坂の霊南坂教会で牧師の留岡幸助から受洗し、「クリスチャン典獄」と呼ばれた。
鎌田 勝太郎(かまだ かつたろう、諱・正康。号・淡翁、186… 鎌田 勝太郎(かまだ かつたろう、諱・正康。号・淡翁、1864年2月29日〈元治元年1月22日〉 - 1942年〈昭和17年〉3月28日)は、戦前日本の実業家、政治家、社会事業家、資産家、醤油醸造家(堺屋)、香川県多額納税者、地主。貴族院多額納税者議員(4期)。衆議院議員(当選1回)。従五位勲三等。族籍は香川県平民。 坂出塩業の振興につとめ「讃岐坂出塩業の父」とも称される。貴族院政治史上最多の当選回数(4選)の保持者でもあり、貴族院の重鎮としても君臨した。 醤油醸造を業とする家に生まれた。鎌田正平の長男。2歳、あるいは3歳の時、父親が死亡し、祖父母と母親の手で育てられた。1876年8月、家督を相続した。
天川 恵三郎(あまかわ けいさぶろう、1864年〈元治元年〉… 天川 恵三郎(あまかわ けいさぶろう、1864年〈元治元年〉 - 1934年〈昭和9年〉4月5日)は、アイヌの民族活動家。旭川の近文で、第7師団の移転に伴うアイヌの土地の詐取的な取り上げに対する返還要求運動に関わり注目され、金田一京助らから「アイヌの佐倉惣五郎」と呼ばれる。アイヌ名はイサラ。 現在の北海道小樽市の領域にあたるオタルナイにて生まれ、1873年(明治6年)、量徳小学校に第1期生として入学する。勉学に秀でていた天川は、小学校を視察した大隈重信、西郷従道、白仁武らの目に留まる。特に大隈は、「成長して東京へ出たら必ず寄れ」と言うほどであった。のち石狩支庁の浜益村に移住し、農業を営んだ。 旭川の近文には、アイヌへの給与地が存在した。
上野 富左右(うえの とみぞう、元治元年(1864年) - … 上野 富左右(うえの とみぞう、元治元年(1864年) - 1889年(明治22年)2月10日)は明治時代の自由民権運動家。現栃木県小山市出身。一時期小口姓。地元で自由民権運動に参加し、自由党急進派として大阪事件に関与、『西哲夢物語』を秘密出版して検挙され、獄中で病死した。 元治元年(1864年)下野国都賀郡高椅村に上野八五郎の二男として生まれた。1874年(明治7年)延島村下等小学第六級を修了し、茨城県小塙町に移り増田慈教に漢籍を学んだ。1878年(明治11年)高椅村小口音治養子となった。 1880年(明治13年)4月栃木県四等巡査となるが、11月辞職し、高椅村役場に勤めた。 1881年(明治14年)頃自由民権運動に参加し、3月13日下都賀中節社副会長小林枡吉の呼びかけで延島村学校での集会に参加した。
小橋 勝之助(こばし かつのすけ、1863年4月12日〈文久… 小橋 勝之助(こばし かつのすけ、1863年4月12日〈文久3年2月25日〉 - 1893年3月12日)は、明治時代の社会事業家。日本で最も古い児童施設の一つである博愛社(現・社会福祉法人博愛社)を創設し、小野田鉄弥、弟・小橋実之助、林歌子らと孤児の養育に尽力した。 1863年(文久3年)、播磨国赤穂郡瓜生(現・兵庫県相生市)に庄屋(地主)の小橋亀次郎の長男として生まれる。 竜野中学に入学し、儒学者の矢野真吾に学ぶ。神戸医学校予科(現・神戸大学医学部)を卒業後に上京し、高瀬真郷の心学や感化事業に影響を受ける。 1887年(明治20年)、東京での修学中に結核にかかり、英国の実践者J.ミューラーとの出会いをきっかけに洗礼を受けて聖公会の信徒となり、チャニング・ウィリアムズ主教(立教大学創設者)から薫陶を受けた。
太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久… 太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久3年2月8日)- 1886年(明治19年)2月19日)は、明治時代の自由民権運動家である。 三河の幡豆郡一色村(現在の愛知県西尾市)に豪商の家系の子として生まれる。若くして自由民権運動に参加し、内藤魯一らと共に国会の開設に携わった。その後は自由党に入党し同党の本部で様々な活動の補佐に携わり、1880年(明治13年)には政治活動をまとめた著書である『政法論』を執筆する。 翌1881年(明治14年)には『自由権理論』の出版にも携わり、後に東京や横浜を中心に日本各地で演説活動や新聞および雑誌といったマスメディアに論説を発表することにも力を入れた。
海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年… 海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年11月6日) - 1952年(昭和27年)3月4日)は、海老名弾正の妻で、キリスト教会の婦人活動家である。 横井小楠と後妻つせ子の娘として、熊本郊外の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に生まれる。戸籍上は熊本県士族・伊勢平四郎の長女。1869年に小楠が暗殺されると熊本に転居し、リロイ・ランシング・ジェーンズの妻から英語を学ぶ。1875年に母方のいとこ徳富初子と共に洋学校への編入を認められる。 1876年、兄時雄や海老名喜三郎(弾正)らと一緒にキリスト教への入信を誓う。1877年に京都に移り、同志社に入学する。1882年、新島襄から洗礼を受ける。
楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文… 楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文久2年6月17日)- 1938年(昭和13年)1月7日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知県香美郡大楠植村長。初名・馬太郎。 土佐国香美郡楠目村(高知県香美郡大楠植村大字楠目、土佐山田町を経て現香美市土佐山田町楠目)で、楠目久米作、兼の長男として生まれる。小学校、旧制中学校を卒業。農業を営む。 1882年(明治15年)から自由民権運動に加わり、1887年(明治20年)政談演説会弁士として活動した。同年、香美郡63カ村総代として三大事件建白運動で上京し、保安条例違反として退去命令を受けたが拒否したため投獄された。
有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文… 有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文久2年4月21日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革貿易商)・政治家・慈善家。有本商店店主。大阪市南区会議員。 和歌山県有田郡御霊村字庄(のち吉備町、現・有田川町)の農家に生まれる。15歳の時に大阪に出て、奉公先に住み込み、25歳の春までよく主家に勤める。独立して皮革貿易店を開業する。 家業に精励し成功する。博愛慈善に傾倒する。1892年に赤十字社終身社員に加入し、1905年に金200円を寄付し特別社員に推薦される。赤十字社特別社員としてよく奉公の義務を尽くす。日露戦役に際して殊に恤兵の事に意を用いて各種の公共的団体に金品を投じる。 中国及び朝鮮と特約貿易を行い、仁川、木浦、群山、京城、馬山等より原料を輸入し、これを精製して南北清の各要地、即ち天津、大連、上海、営口、香港等に取引を開始する。
岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年… 岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年1月20日)- 1922年(大正11年)2月14日)は、明治から大正期の弁護士、公証人、実業家、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知市会議長。 土佐国土佐郡、のちの高知県土佐郡初月村(現高知市)で、土佐藩士・岡崎賢七の長男として生まれる。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。1885年(明治18年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1887年(明治20年)3月、公証人となる。同年9月、代言人試験に合格し、同年11月、高知市で代言人(弁護士)を開業した。講法館、法学館の講師を務めた。自由民権運動に加わり、三大事件建白運動にも参加。
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2… 内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。 万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる。慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎知藩事の大河内輝声は罷免された。
浦 敬一(うら けいいち、万延元年4月4日(1860年5月2… 浦 敬一(うら けいいち、万延元年4月4日(1860年5月24日) - 1889年(明治22年)失踪)は明治時代の政治活動家、スパイ、大陸浪人。平戸藩出身。専修学校を卒業、大阪内外新報、長崎鎮西日報等で記者を務めた後、清に渡り、清国改造を唱える漢口楽善堂に参加、ロシア帝国の南下を防ぐため新疆偵察に向かい、消息を絶った。 万延元年(1860年)4月4日、平戸藩士坂本琢左衛門と澄子の次男として平戸島西ノ久保の母の実家に生まれ、事前の約束通り浦貞元の養子に出された。貞元の京都、壱岐赴任中は養母道子一人に育てられ、藩儒片山尚絅に学業の監督を受けた。 井上寅之助に読書習字を学んだ後、藩校維新館に入学、藩学寮値賀亘塾にも学び、明治5年(1872年)の廃校後は山県勇三郎等と楠本瑞山に学んだ。
織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安… 織田 信福(おだ のぶよし/しんぷく、1860年3月1日(安政7年2月9日) - 1926年(大正15年)1月13日)は日本の民権運動家。高知県最初の歯科医でもある。 万延元/安政7年(1860年)2月9日、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)にて誕生した。父は土佐藩士族の織田大八、母は安。初名は羽田馬三郎。慶応4/明治元年(1868年)には宿毛の伊賀家の家臣として仕えていた。1873年(明治6年)12月28日には、羽田信福が幡多郡宿毛村第208番小学下等小学第七級を卒業していたことが判明している。 1880年(明治13年)に高知に転居し、医師・山崎立生の「鼎立義塾」門下生となったが、翌年12月に立生は死没した。
湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2… 湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2月14日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月13日)は、明治時代の社会事業家。徳富蘇峰・蘆花の姉で、衆議院議員・湯浅治郎の後妻となった。同志社総長や国際基督教大学初代学長を務めた湯浅八郎は息子。 徳富一敬・久子の四女として、安政7年1月23日(1860年2月14日)肥後国水俣(現・熊本県水俣市)に生まれる。姉が3人いる上、夫妻は姪も養女としており、5人目には男子の誕生を望んでいたが女子であったため、失意の一敬はどういうわけか初と名づけた。その後に生まれた男子が猪一郎(蘇峰)と健次郎(蘆花)である。 12歳の時、熊本に住む叔母・横井つせ子(横井小楠の未亡人)のもとへ預けられることとなり、いとこの時雄・みやと一緒に暮らし始めた。
保多 駒吉(やすだ こまきち、1860年(万延元年) - 1… 保多 駒吉(やすだ こまきち、1860年(万延元年) - 1886年(明治19年)10月5日)は自由民権運動家。常陸国下館(現・筑西市下館地区)出身。苗字は「保田」とも記される。 元下館藩士。1881年(明治14年)に隣県・栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)にある栃木県立栃木中学校に入学。当時の栃木町は田中正造など自由民権運動家の活動拠点として知られており、保多も栃木町にて開かれていた自由党の政談演説会に参加し薫陶を受ける。 その後、保多は栃木中学校を中退し政治家になるために上京。そこで大井憲太郎を通じて同郷の富松正安と知り合う。1884年(明治17年)、自由党員として活動していた保多は加波山事件に参加し逃亡。
片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年1… 片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年12月3日) - 1933年(昭和8年)11月5日)は、日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。 美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。 1877年(明治10年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。安達清風の私塾で学んだのち、1880年(明治13年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌1881年(明治14年)に退学して上京。
新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12… 新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12月14日〉 - 1902年〈明治35年〉11月24日/25日?)は、明治時代の民権運動家・政治家。衆議院議員(3期)、勢多郡会議員、黒保根村議会議員。国民協会所属。 安政5年(1858年)、上野国勢多郡下田沢村字鹿角(群馬県勢多郡黒保根村を経て現・桐生市黒保根町下田沢)に、新井乙瓢(佐吉)の第四子として生まれる。初名は筆吉。 明治5年(1872年)横浜に出て英語を川村敬三とドクトル・ブラオンに学ぶ。さらに慶應義塾や共慣義塾で勉学に励む。卒業後の1876年(明治9年)、「英学校静知社」を創立し校長となる。東京で雑誌『與論新誌』や『東京政談』を発刊し、「東京政談演説会」を主宰。
安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年1… 安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年10月6日) - 大正10年(1921年)12月10日)は、日本の社会教育家、政治家、自由民権運動家、日本基督教団高知教会長老、板垣伯銅像記念碑建設同志会・初代理事長。板垣退助の遊説に同行し、岐阜遭難事件に際して「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を直接聞いた人物の一人。坂本龍馬の親族。「愛山」と号した。 安藝家の遠祖は、長宗我部氏に滅ぼされた安藝國虎の次男・安藝三郎左衛門家友で、土佐郡十六村成山(現・伊野町)に居をかまえ、土佐和紙を創始した。山内一豊の土佐入領に際し、自製の七色紙を献上。その功により給田一町歩と幡多郡代官役、並に御用紙方役に任命され、製紙の技法向上に務めた。
渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3… 渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3月5日) - 1938年(昭和13年)10月26日)は、日本の慈善家・女性活動家。名前は多満、玉子あるいは多満子とも。明治後期 - 昭和初期の横浜市において、多くの慈善事業団体の立ち上げや運営に関わった。正六位。 現在の群馬県碓氷郡松井田(現安中市)に、回送業を営む大河原太右衛門の次女として生まれる。大河原家は地元の名家であり、代々総社の神官を務めていた。 父太右衛門の兄新次郎は江戸の海産物商明石屋七代目渡辺治衛門に見込まれ、渡辺家の入り婿となり、八代目を襲名していた。太右衛門も明石屋との関係を深め、7代目明石屋治右衛門とともに開港にともなって、主に石炭を商うために出店した横浜の明石屋(明石屋平蔵商店、後に石福商店)の経営に当たった。
奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月… 奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会運動家。 自由民権運動で活躍し、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人だった。 1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日)に土佐国土佐郡布師田村(現:高知県高知市布師田)で生まれる。父親の奥宮慥斎(1811 - 1877)は土佐藩のなかでも一流の陽明学者で、山内容堂の侍講だった。健之は11~12歳で東京へ向かい、三菱へ入社したが自由党が結党されると間もなく退職して入党した。党内では馬場辰猪と共に「土佐の二俊秀」と称された。 1882年(明治15年)に嚶鳴会と対決するものとして、馬場・大石正巳・西村玄道らと「国友会」を結成した。
金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月1… 金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月15日〈1857年10月2日〉 - 昭和20年〈1945年〉3月4日)は、日本の牧師、伝道者、宗教家。別名はポール・カナモリ。明治初期の日本のプロテスタント派の3つの源流の1つである熊本バンドの中心メンバーの一人であった。晩年は湘南の嶺山に隠居し、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた。 第102代内閣総理大臣・石破茂の母方の曾祖父である。 肥後国玉名郡小天村(現・玉名市天水町小天)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、理由は分からないが一家は託麻郡本山村(現・熊本市中央区本山)に移り住んでいる。 明治4年(1871年)、日新堂に入塾。
村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年… 村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年3月27日) - 昭和14年(1939年)4月11日)は、日本の政治家、キリスト教伝道者、社会事業家。 藩校成章館(現愛知県立成章高等学校)で伊藤鳳山から儒学を学ぶ。16歳で上京。東京外国語学校ロシア語学科に入学。レフ・メーチニコフの門下生となる。板垣退助の思想に影響を受け、帰郷後、鈴木孝之助、広中鹿次郎たちと「恒心社」を結成。 自由民権運動に加わり、私擬憲法「日本国憲法草案」を起草、愛岐日報に発表した。飯田事件により投獄されたが、1889年大赦により出獄した。 下宿先の娘きみと結婚後、1894年(明治27年)自由党から衆議院選挙に立候補するが落選。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年… 北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年6月5日)- 1903年(明治36年)11月8日)は、代言人(弁護士)、自由民権運動家、民権結社「発陽社」社長。憲法草案『日本憲法見込案』の起草者。 安政3年6月5日(1856年7月6日)、土佐藩士(四人扶持切符15石)・北川貞詮(忠蔵)の次男として、高知城下に生まれる。幼名は「熊治」。 初め藩校・致道館、廃藩置県以降は共立学舎英学校に学ぶ。東京に遊学して、明治9年(1876年)、代言人(弁護士)の免許を取得した。 自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)、「立志社」の下部組織として民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)を興す。
森 秀次(もり しゅうじ、旧姓・西岡、1855年11月1日〈… 森 秀次(もり しゅうじ、旧姓・西岡、1855年11月1日〈安政2年9月22日〉 - 1926年〈大正15年〉9月9日)は、日本の部落解放運動家、政治家、会社役員。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選4回)。大阪府会議員。族籍は大阪府平民。従五位勲四等。 和泉国南王子村(後の大阪府泉北郡八坂町、現在の和泉市)出身。西岡惣市郎の二男。豊島郡古江村(のちに合併して細河村、現在の池田市)の森家に養子として迎えられた。医学を修めた。1878年、分家して一家を創立する。医業に従事し、のち農業を営んだ。 大阪府会議員、同議長等を務めた。硫酸肥料監査役、阪神土地取締役、大阪朝報社常務取締役を務めた。1903年、第8回衆議院議員総選挙に立候補、初当選。
池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2… 池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2年5月3日〉 - 1926年〈大正15年〉8月14日)は、明治・大正時代の神奈川県会議員、自由民権運動家。武蔵国橘樹郡池上新田村(現在の神奈川県川崎市川崎区池上新町)出身。池上新田を開拓した池上幸豊の子孫。 1855年(安政2年)、武蔵国橘樹郡池上新田村の名主・池上家に生まれる。祖先の池上幸豊は大師河原村の名主だったが、宝暦年間に池上新田を開拓すると姉の子を養子にして大師河原村の名主を継がせ、自らは池上新田村の名主となった。 15歳のときに池上新田大島村新組名主役となる。神奈川県では1872年(明治5年)に名主・年寄に代えて戸長・副戸長を置くこととなり、17歳で戸長になる。
桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853… 桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853年4月19日) - 大正9年(1920年)8月18日)は明治時代の自由民権運動家。 諱は武貞。飯田事件の首謀者の一人。 信濃国佐久郡東長倉村(現長野県北佐久郡軽井沢町)の柳沢家に生まれ、19歳で姉の嫁ぎ先である桜井家に相続入籍した。 幕末、横浜に出て勝海舟に師事するとともに写真技術を修め、1882年に飯田の憲兵屯所跡地に写真店を開業し、売薬の行商も営む。1883年、自由民権運動の政治結社「愛国正理社」を設立。愛知県の村松愛蔵、八木重治らと政府転覆のための挙兵を計画するが、事前に発覚して逮捕される。禁固3年半の実刑となり、のち大日本帝国憲法発布の大赦で出獄した。
島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月… 島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月15日)- 1914年(大正3年)5月2日)は、幕末の土佐藩士、明治期の政治家・自由民権運動家・実業家。衆議院議員、高知県会議長。 土佐国吾川郡秋山村(高知県吾川郡秋山村、平和村、春野村、春野町を経て現高知市春野町秋山)で、土佐藩士・島田佐一、亀の長男として生まれる。藩校致道館で学んだ。 1868年(明治元年)致道館砲術取立役に就任し、次いで藩兵小隊司令となる。1875年(明治8年)区会議員となり、同議長、区長兼学区取締を歴任。1880年(明治13年)高知県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。1887年(明治20年)三大事件建白運動で上京して保安条例違反として退去命令を受けた。
高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しん… 高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しんきょう)、嘉永6年(1853年)-大正13年(1924年)11月17日)は、明治時代から大正時代にかけてのジャーナリスト、社会事業家、刀剣研究家。幼名・政吉。号は羽皐隠史、往生庵、菊亭静、茂顕、茂卿など。ほかに、高瀬真之助(介)、高瀬松吉、高瀬恭助、高真卿、高瀬鉄窓、高瀬紫峯、鉄窓学人、天賜苑、東台隠士、柳窓外史、茂湿、春雨、春雨静、藤原静、藤原茂、藤の舎茂、高瀬真藁、高瀬巳之吉、佐野尚、近藤東之助、春秋堂、萩村など、約30もの筆名を使った。 茨城県水戸市下市に米穀炭商・高瀬儀平次の長男・政吉として生まれ、水戸学派の川崎巌雄、庄司春村の塾で漢籍を学ぶ。
千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(185… 千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(1852年8月2日) - 明治16年(1883年)11月13日)は、日本の教育者、自由民権運動家。私擬憲法「日本帝国憲法」(通称:五日市憲法)の起草者として知られる。 1852年(嘉永5年6月17日)8月2日、仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村(現・宮城県栗原市志波姫、北緯38度46分35.1秒 東経141度5分55.7秒)に仙台藩の下級士族である千葉宅之丞と妾のちかの長男として生まれる。3歳のときに母親が千葉家を去り、義母に育てられる。11歳で仙台藩藩校・養賢堂(北緯38度16分6秒 東経140度52分16秒 / 北緯38.26833度 東経140.87111度 / 38.26833; 140.87111 (仙台藩藩校・明倫養賢堂(跡地は宮城県議会議事堂)))にて大槻磐渓に師事。
川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年… 川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年) - 明治24年(1890年)1月)は、明治時代の篤志家、自由民権運動家。静岡監獄副典獄(副刑務所長)。政治犯として入獄していた際に金原明善と出会い、後に明善とともに出所者の保護事業に参画し、近代日本における更生保護の発展に寄与した人物として知られる。 1852年(嘉永5年)、中津藩の下級武士の子として生まれる。国学者・水戸学者である渡辺重石丸が主催する私塾・道生館にて、後に国学者となる増田宋太郎らとともに学び、尊王攘夷思想を持つようになる。増田とは終生の盟友であり、明治維新後も自由民権運動に共に携わることとなる。 自由民権運動では増田とともに1874年(明治7年)に政治結社『共憂社』を創設し、1875年(明治8年)には大阪の愛国社会議にも出席していた。
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11… 井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11月1日) - 昭和8年(1933年)5月22日)は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 井田義枝の次男として生まれた。 慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた。 明治7年(1874年)長崎養生所を出た。明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔号」軍医として朝鮮に派遣され、朝鮮人の診療に活躍した。 帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(18… 平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(1851年7月21日) - 明治39年(1906年)10月24日) は、日本の政治団体玄洋社初代社長、自由民権運動家。
湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年… 湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年11月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月7日)は、日本の明治から昭和戦前期にかけての政治家(衆議院議員、群馬県会議員)・実業家・社会運動家。雅号は雲外。同郷の新島襄から洗礼を受け、中村栄助、大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた。 弟は詩人の湯浅吉郎(半月)、妻は徳富蘇峰・蘆花の姉・初子、子に画家の湯浅一郎や同志社総長・国際基督教大学学長の湯浅八郎など。海老名弾正、山室軍平、深井英五らと親交があった。 嘉永3年10月21日(1850年11月24日)、上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる。
永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - … 永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - 1897年(明治30年)1月28日)は、日本の武士(中津藩士)、自由民権運動家。 中津藩士・永田源右衛門の長男に生まれる。幼名は兼太郎。1871年(明治4年)、藩主奥平昌邁に続いて慶應義塾に入塾した。廃藩置県のため中津市学校の教員となるが、まもなく退任して義塾に戻り1875年(明治8年)卒業。1877年(明治10年)7月から高知の立志学舎に英学教師として派遣され、傍ら自由民権運動に没頭。1880年(明治13年)に愛国社に加わった。愛国志林記者、愛国新誌記者、山陽新報主筆、日本立憲政党新聞記者などを経て1882年(明治15年)には福井の杉田定一に招かれ北陸自由新聞主筆となり、1884年(明治17年)東海暁鐘新報の主筆となり、海南新聞、北陸公論、江湖新聞、東海新報、岡山日報を歴任。
古屋 満寿(ふるや ます、1850年〈嘉永3年〉 - 190… 古屋 満寿(ふるや ます、1850年〈嘉永3年〉 - 1907年〈明治40年〉3月19日)は、日本の商人・慈善家。東京都銀座の百貨店である松屋の前身の1つ、鶴屋呉服店を、夫の古屋徳兵衛(1849年〈嘉永2年〉4月10日 - 1911年〈明治44年〉7月30日)と共に創業し、松屋の黎明期を支えた人物の1人である。出生名は牛山 とみ。甲斐国巨摩郡(後の山梨県)下教来石村出身。東北地方が飢饉に見舞われた際、白米を入れた袋を「同情袋」と名付けて多数送るなど、慈善事業を行なった。 下教来石村の村長である牛山半左衛門(牛山慶長)の長女として誕生した。1869年(明治2年)2月、隣村の巨摩郡上教来石村出身の古屋徳兵衛と、質素な祝言を挙げた。