山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1… 山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1964年11月19日)は、日本の教育者。駿台グループの創業者でもある。 1878年(明治11年)7月18日、鳥取県で生まれる。1902年(明治35年)に東京外国語学校を卒業後、高岡市立商業学校などで教鞭を執った後に米国へ留学する。リベラル・アーツ・カレッジとして有名なアマースト大学やハーバード大学などで学び、イェール大学大学院で英語学・英文学を修める。帰国後は明治大学教授となり、1918年(大正7年)に東京高等受験講習会(駿台グループ)を神田錦町に設立する。 受験勉強で心身を消耗する学生を憂え、知識や能率的な教育法による才能の開発を始めた。
倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈… 倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈明治11年〉7月 - 1942年〈昭和17年〉2月4日)は、日本の教育家。学習院名誉教授。族籍は鳥取県平民。位階は正三位、勲等は勲二等。 島根県簸川郡上津村大字上島字和久輪(現・出雲市上島町和久輪)・渡部桑右衛門の四男、渡部金三郎の弟。松江生まれ。 松江中学校、第四高等学校を卒業。東京帝国大学に入り、在学中鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)・倉敷岩太郎の養子となる。1904年に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。1925年に家督を相続する。 宮城県立第一中学校教諭を経て後学習院教授に任じ、教務課長を命ぜられる。秩父宮、高松宮、三笠宮などの教育に当る。
坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 19… 坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥。号は孤景(こけい)。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。 愛知県名古屋市花車町に生まれる。泥江小学校、津島高等小学校から愛知中学校、早稲田大学英語専門部を経て1899年、早稲田大学文学部を首席で卒業。1年間志願兵として従軍後、詩人として身を立てようと考えたが自立しろと実家の仕送りを止められたため、友人の勧めで旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)の教員となる。しかし「田舎教師もほとほと嫌になり、何とか工夫して都の空に舞い戻りたく心矢の如くに候」と同校での教員生活を捨て、やはり詩人として身を立てようと1903年に上京。
田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 196… 田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 1961年7月4日)は、日本の洋画家、絵画教育者。 千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)などで図画の教鞭をとりながら、学校の所在する千葉県松戸市に住み、同地の農村風景画から海や船舶のある風景画作品を多く残す。 油彩画の他に、日本画風の絵画も描いた。 愛媛県宇和島に、彦根藩士であった田中文二の次男として生まれる。父は井伊家のお抱え絵師だったとされるがはっきりしない。一家は明治維新後郵便局を営んでいたが、1985年に大阪に転居し、書店を開業している(現・合資会社田中青柳堂書店)。 絵画を寅三はまず1894年大阪で山内愚僊に学ぶ。当時の山内門下には山本森之助、赤松麟作らがいた。
田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 197… 田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 1972年9月3日)は、日本の薬剤師、陸軍軍人、教育者。階級は陸軍薬剤中将。 東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任した。 日本の陸軍で活躍した薬剤師である。陸軍衛生材料廠のトップを経て、陸軍薬剤総監に就任した。静岡女子薬学専門学校で校長を務めるなど、後進の育成にも尽力した。 1878年(明治11年)2月24日に生まれた。誠之小学校を経て、東京府尋常中学校で学んだ。第一高等学校を卒業し、さらに東京帝国大学に進学した。当時の東京帝国大学は分科大学制を採っており、東京帝国大学の下に設置された医科大学の薬学科にて学んだ。
岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月1… 岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月16日 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は 、日本の作曲家 、教育者 、オルガニスト。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 鳥取県邑美郡古市村(現在の鳥取市)に、士族 岡野平也の子として生まれ、幼少期に実父を亡くし、貧困の中で育つ。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)へ進学。同校には日本の音楽教育家・作曲家田村虎蔵も学年違いで在校していた。 1892年、キリスト教徒として鳥取教会(現在:日本基督教団)で洗礼を受け、翌年、岡山の教会で宣教師からオルガンの演奏法を習った。 東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第2代校長である同郷の村岡範為馳が1892年に鳥取で行った講演に影響され、1895年には岡山の薇陽学院を中退し、上京して東京音楽学校に入学、1900年に専修部を卒業した。
坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 … 坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 - 1969年12月16日)は、日本の陸軍軍人、教育者、関東学院院長。学校法人関東学院の基礎作りに貢献した。 旧会津藩士の父・中村富造、母ミエの二男として、秋田県鹿角郡大湯村(現・鹿角市十和田大湯)で生まれる。母方の祖父は白虎隊士中二番隊長の日向内記。両親は斗南藩領(現・青森県むつ市)に移ったものの困難な生活を余儀なくされ、廃藩後に大湯村に永住することとなった。一家の生活は苦しく、1892年(明治25年)毛馬内小学校高等科(現・鹿角市立十和田小学校)第3年で中退し、大湯村の不老倉銅山で働いた。しかし、勉学の志止みがたく、1896年(明治29年)故郷を出て東京に向かい、東京、横浜、浦賀などを転々としたが、最後は足尾銅山で1898年(明治31年)まで働いた。
田中 一元(たなか かずもと、1878年(明治11年)2月2… 田中 一元(たなか かずもと、1878年(明治11年)2月2日 - 1942年(昭和17年)2月12日)は、日本の教育者。 福岡県遠賀郡折尾町(現在の北九州市八幡西区)出身。池田作右衛門の二男として生まれ、田中寥誉の養子となった。1899年(明治32年)、浄土宗高等学院(現在の大正大学)を卒業。1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、さらに研究科を修了した。芝中学校教頭、奈良県立郡山高等学校教頭、奈良女子高等師範学校教授・庶務主幹、島根県立松江中学校校長などを歴任した。1927年(昭和2年)、東京府女子師範学校校長・東京府立第二高等女学校校長となり、1938年(昭和13年)に退官した。
好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23… 好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23日-1973年(昭和48年)4月14日)は、日本の教育者、研究者、キリスト教思想家、宗教家である。 視覚障害当事者として、イギリスの制度を日本に輸入し視覚障害者の権利向上のため尽くした。日本盲人の父と称される。 大阪市東区瓦町に生まれる。幼少期から網膜色素変性症のため弱視であった。 大阪府立第一中学校を卒業。 1898年前後(明治31年) 内村鑑三の聖書研究会に参加し、キリスト教徒となる 1900年(明治33年)東京高等商業学校を卒業。 1901年(明治34年)オックスフォード大学ジーザス校に留学。 1902年(明治35年)日本に帰国後、『真英国』を著す。
赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月… 赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月20日または10月11日 - 1953年〈昭和28年〉11月24日)は、日本の洋画家、教育者。 赤松良子は3女である。 現在の岡山県津山市本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。 小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。
伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - … 伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - 1964年2月26日)は、日本の商学者、法学者、教育者。立教大学経済学部元教授、早稲田大学元教授、東洋大学名誉教授。専門は交通論、商店経営。 山形県酒田市穂積の生まれの政治家、伊藤重治郎(1869年-1939年)とは異なる。 兵庫県明石市出身。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。1903年(明治36年)早稲田大学英語政治科を卒業後、早稲田大学講師となる。1905年(明治38年)アメリカに留学し、シカゴ大学を経て、1906年(明治39年)にペンシルベニア大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業。大学では交通論、商業学を専攻し、博士号(Ph.D.)を取得。
小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月… 小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の社会学者・教育者。 大阪府出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。佛教大学(現在の龍谷大学)教授を務めるかたわら、京都帝国大学法科大学・文科大学大学院で学んだ。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校教授に任命され、翌年から東京帝国大学文科大学講師を兼ねた。1911年(明治44年)、教育学・社会学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学し、パリ大学・ベルリン大学で学んだ。留学中にロンドンで開催された万国人権会議と、ハーグで開催された万国道徳会議に出席した。1914年(大正3年)、帰国し、1917年(大正6年)に東京女子高等師範学校附属高等女学校となった。
市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 19… 市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 1963年11月28日)は日本の郷土史家、教育者。 長野県下伊那郡米川村(現飯田市)生まれ。1902年長野県師範学校講習課修了後、県下の小学校等で教諭を歴任し、1919年山本尋常小学校の校長に就任。1921年から1932年まで旧制飯田高等女学校の教諭を務めた。 1912年に下伊那郡役所から松尾多勢子に関する研究を嘱託されたのを皮切りに、長野県や県下各教育会の依頼を受けて、史論の執筆や調査研究に従事し、「信濃史料」「伊那史料叢書」「長野県史」「下伊那史」等の編纂に携わる傍ら、飯田図書館副館長を務めた。研究対象は考古学、史跡、建築、仏教美術等、多岐にわたる。
厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年… 厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年)は、日本の俳人、教育者。本名、厨川肇。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)校長、山口県立山口図書館初代館長を歴任。 島根県浜田市出身。旧制島根県立第二中学校(現在の島根県立浜田高等学校)に在学中の頃から俳句を習う。熊本県の旧制第五高等学校(現在の熊本大学教養部)在学時代は、当時、旧制五高で教鞭を執っていた夏目漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)を寺田寅彦、蒲生紫川らとおこし、夏目漱石から俳句を学ぶ。五高時代、千江が髪を切って夏目漱石の自宅を訪れた事があったが、散髪後のさっぱりとした頭を見た漱石が「秋風や今そりたての頭より」という句を即興で詠み、とても感動したというエピソードがある。
福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年〈明治11年〉 - … 福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年〈明治11年〉 - 1969年〈昭和44年〉12月27日)は、昭和期に活躍した教育者、郷土史家。邑楽館林地方の郷土史研究のため尽力した。群馬県邑楽郡富永村(現在の邑楽郡千代田町)出身。 1899年(明治32年)に群馬師範学校を卒業後、館林町、西谷田村(現板倉町)の小学校教師を歴任。1913年(大正2年)、多々良村の多々良尋常高等小学校(現館林市立第八小学校)校長となる。1916年(大正5年)には北甘楽郡視学となり、その後は佐波郡豊受村、邑楽郡小泉町、多々良村、館林町の尋常小学校長を歴任した後、1933年(昭和8年)3月に退職した。同年の12月には初代の館林町立図書館館長に就任し、1946年(昭和21年)3月まで同職を務めた。
守屋 源次郎(もりや げんじろう、1877年(明治10年)1… 守屋 源次郎(もりや げんじろう、1877年(明治10年)12月27日 - 1939年(昭和14年)10月30日)は、日本の官僚、教育者。政友会系官選茨城県知事(25代)。 京都府で守屋萬次郎とスマの長男として生まれる。第二高等学校を経て、1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し専売局属兼大蔵属となる。1903年10月20日、文部省外国留学生として欧州へ出発し経済学を3年間学んだ。1906年12月12日に帰国。長崎高等商業学校教授に転じた。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年10月20日、外務省に移り参事官に就任し、政務局第三課兼第一課勤務となる。 1913年3月8日、鉄道院に転じ総裁秘書兼同院参事に就任。
日田 権一(ひた ごんいち、1877年(明治10年)12月2… 日田 権一(ひた ごんいち、1877年(明治10年)12月27日 - 1966年(昭和41年)12月25日)は、日本の教育者、文部官僚。 山口県厚狭郡厚南村(現在の宇部市)にて士族の日田熊之進の長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した。京都府師範学校教諭・附属小学校主事、東京府女子師範学校教諭を務めた。1920年(大正9年)、東京高等師範学校修身教育専攻科を修了。その後、東京高等師範学校教授・附属小学校主事を務め、1928年(昭和3年)にアメリカ合衆国に留学した。1934年(昭和9年)より文部事務官・督学官となり、宗教局・教育調査部勤務、教育調査審議課長を歴任した。
葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)1… 葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)12月3日 - 1960年(昭和35年)10月7日)は、日本の教育者。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。私立尋常中学猶興館中退、私立日本中学校、旧制一高を経て1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学独逸文学科を卒業。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任した。1922年(大正11年)、文部省督学官に転じ、翌年から学校制度研究のためドイツ・イギリス・アメリカ合衆国に出張した。帰国後、山形高等学校校長となり、1930年(昭和5年)に第七高等学校造士館館長に転じた。1933年(昭和8年)に大阪外国語学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に退官した。
武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月… 武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、教育者。最終階級は陸軍少将、兵庫県立赤穂中学校(現:兵庫県立赤穂高等学校)の初代校長。 福島県安積郡福良村出身。父は旧会津藩藩士で県会議員の武川定八。安積中学から陸軍士官学校に進み、1897年(明治30年)卒業(9期)。1898年(明治31年)歩兵少尉に任官。陸軍大学校在学中に歩兵第27連隊の中隊長として日露戦争に出征。旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。 戦後陸大(18期)を卒業し、教育総監部課員、歩兵第57連隊大隊長、第13師団、東京衛戍総督部の各参謀を経て歩兵第3連隊の連隊長に就任する。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2… 河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2月11日)は、日本の女性教育者。元日本YWCA同盟総幹事、恵泉女学園の創立者。クリスチャン。世界恐慌から第二次世界大戦に到る中で平和主義を掲げ、戦後に昭和天皇への戦争犯罪訴追が回避された動きにも大きく関わった。三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。
古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)… 古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)は、日本の教育者。 福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身で、古賀生三の子。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)、1899年7月第五高等学校文科を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力。
藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 195… 藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 1955年1月18日)は、日本の体育教育者。 香川県阿野郡坂出村(現・坂出市)出身。病気で東京女子高等師範学校を中退。その後、1902年に体操で健康を取り戻し、1904年に体操科教員の文部省検定試験で女性初の合格者となる。同年に東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)に就職し、1908年に校長となる。1915年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学し、1920年卒業。1928年から1931年まで海外を視察し、帰国後にはドイツの体育教師G・ワルターとK・ブラントを招聘し、ドイツ体操を奨励した。 1950年に東京女子体育短期大学で初代学長となる。
小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11… 小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11日 - 1930年(昭和5年)9月5日)は、長野県の教育者。長野県上田中学(現長野県上田高等学校)、長野県諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、長野県松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)校長を務めた。 長野県諏訪郡米沢村(現在の茅野市大字米沢にあたる)の鋳物師屋に笹岡初右衛門、わかのの二男として生まれる。 武平は6尺の大男でどこでも大変目立った。彼の教え子の一人元東京地方裁判所判事の樋口和博はそのエッセイ『峠の落し文』の中で、「六尺豊かな体で、街を歩かれる姿は実に威風堂々、頼もしい限りであった」と評している。しかし、気持ちはたいへん細やかで、優しいひとでもあった。
森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 … 森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 - 1939年(昭和14年)7月12日)は、日本の教育者。 石川県金沢市に岐阜訓盲院創設者森巻耳の長男として生まれた。第四高等学校を経て、1904年(明治37年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。第一高等学校嘱託として、清国留学生の英語授業を担当した。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任し、1922年(大正11年)から翌年にかけて欧米に在留した。1927年(昭和2年)、松本高等学校校長となり、1929年(昭和4年)には第一高等学校校長に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、法政大学文学部長・同高等師範部長を務めた。
伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 19… 伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 1930年4月19日)は、日本の教育者。東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の初代校長として大正自由教育運動(欧米では「新教育運動」)を担い、当時としては画期的な教育を次々と打ち出した型破りの教育者として知られる。 明治10年(1877年)4月13日、長野県諏訪郡四賀村五八五七番地(現・諏訪市四賀普門寺)で、富農の伊藤孫右衛門の三男として生まれる。母は河西兵四郎の長女・りか。長七が3歳のときに母が死去したため、祖母のなかに育てられた。 幼少より神童と囃され、入学年齢よりも1年早く就学した。上桑原学校初等科を経て、1888年、郡立諏訪高等小学校3年に編入。
江部 敦夫(えべ あつお、1877年4月 - 1923年12… 江部 敦夫(えべ あつお、1877年4月 - 1923年12月4日)は、日本の教育者。旧制高知高等学校(現・高知大学)の初代校長を務めた。 新潟県北蒲原郡嘉山(現・新潟市北区)で生まれる。尋常小学校卒業後寺院に入ったが、後に京都市の真宗大学(現・大谷大学)に進学した。 1898年、早稲田中学校に転学、5年生に編入される。第一高等学校に進み、卒業時は川田順と同窓であった。1902年、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)社会学科に入学した。 東京帝大卒業後は文部省に入省、第五高等学校 (旧制)の教授や督学官などを歴任した後、1922年に創立(開校は翌年)した高知高等学校の初代校長に就任した。当時満46歳だった江部は、全国で最年少の高等学校長だった。
額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日… 額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日 - 1972年(昭和47年)7月29日)は、日本の医師・医学者(内科学)・教育者。東邦大学共同創立者。日本大学医学部医学科初代医学科長。日本大学名誉教授。 1878年(明治11年)、岡山県邑久郡に医師の長男として生まれた。上京して獨逸学協会学校中等部、旧制一高に通い、東京帝国大学医学科に入学した。大学在学中はボート部で活躍し、大学を休みがちであったがドイツ語の原書を読んで補った。 大学卒業後の1907年(明治40年)にドイツへ3年間私費留学する。留学中にドイツ女性に感銘を受け、女性を対象とした教育を使命と考える。 帰国後に医学博士の学位を取得する。
杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 … 杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 - 1943年(昭和18年)7月6日)は、日本の教育家である。 神奈川県に生まれ、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に入学する。卒業後は留学のため渡米し、カリフォルニア大学にて教育学および心理学を学んだ。帰国後は静岡師範学校(後の静岡第一師範学校、現在の静岡大学教育学部)で教鞭を執り、1916年(大正5年)には長野師範学校(現在の信州大学教育学部)に転勤する。 翌1917年(大正6年)には同学校附属の小学校の研究学級の教師にあたり、実験心理学を元に新教育の促進に携わった。これによって1925年(大正15年)には新教育の研究会から「研究学級の経営」として杉崎が研究した成果の発表にあたった。
森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10… 森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。
增田 又右衞門(ますだ またえもん、1877年〈明治10年〉… 增田 又右衞門(ますだ またえもん、1877年〈明治10年〉2月8日 - )は、日本の教育者。位階は従六位。勲等は勲六等。姓の「增」は「増」の旧字体であり、名の「衞」は「衛」の旧字体であるため、增田 又右衛門、増田 又右衞門、増田 又右衛門、とも表記される。 北浜高等女学校校長、静岡県小笠郡視学などを歴任した。 静岡県出身の教育者である。北浜高等女学校の校長に就任し、小笠郡女子青年団の団長を務めるなど、静岡県の女子教育の発展に尽力した。 1877年(明治10年)2月8日、增田甚藏の長男として生まれた。松芳学舎の門を叩き、国学や漢学を学んだ。さらに静岡県師範学校に進学し、これを卒業している。また、皇典講究所においても学んでいる。
角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月… 角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月28日 - 1964年〈昭和39年〉11月29日)は、群馬県出身の日本文化の研究者・教育者。コロンビア大学に日本文化研究所を設立し、日本研究コレクションのキュレーターを務めた。日本文学研究者ドナルド・キーンの師として知られる。 1877年(明治10年)1月28日、群馬県勢多郡津久田村(現・群馬県渋川市赤城町津久田)の農家に、父庄作、母ぎんの次男として生まれた。5歳の時父をコレラで失い、祖父の金造と母ぎんに育てられた。1890年4月、群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学したが、1893年10月に退学。 上京して東京専門学校(現・早稲田大学)文学科に入学し、坪内逍遙、アーサー・ロイドの教えを受けた。
皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - … 皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - 1949年(昭和24年))は、日本の英文学者、翻訳家、教育者。雅号は真拆。 1877年(明治10年)、福島県会津(現在は新潟県東蒲原郡阿賀町)に生まれた。皆川家は、土地の旧家で総鎮守西村八幡宮の神宮を務めていた大地主であったという。 1900年(明治33年)、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科に入学。 在学中、小泉八雲の講義を2年半受けた。正禧が八雲の講義を筆記したノートが10冊残されており、1904年(明治37年)11月の『帝国文学』で追悼特集(八雲は9月に逝去)が組まれたとき、正禧は「蓬莱」という追悼文を寄せている。 1903年(明治36年)、最上級生のとき、八雲の後任として夏目漱石が赴任し、卒業までの3ヶ月間、「文学の一般概念」という講義を受けた。
渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉… 渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉 - 1939年〈昭和14年〉)は、日本の教育者、経済学者。松山高等商業学校第2代校長。 1877年(明治10年)、愛媛県下浮穴郡田窪村(後の温泉郡重信町、現・東温市)に生まれる。 1897年(明治30年)に松山中学校を卒業し、文部省中等教員検定試験に合格して松山中学校の教員となった。 自学の志が高く、東京に出ると、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。しかし、1903(明治36年)に東京英語専修学校が閉校すると、同年、早稲田大学に編入して、翌1904年(明治37年)に大学部政治経済学科を卒業する。 同年、留学のためアメリカに渡り、1905年(明治38年)にイェール大学に入学すると、1907年(明治40年)に経済学を修めて大学院を卒業し、修士(MA)の学位を取得した。
椙山 今子(すぎやま いまこ、1877年 - 1965年4月… 椙山 今子(すぎやま いまこ、1877年 - 1965年4月13日)は、岐阜県生まれの名古屋市の教育者。椙山女学園を夫である椙山正弌と共に設立した。旧姓・中村、本名・いま。 岐阜県師範学校卒業後、女子技芸教育改善を志し当時評判のよかった、裁縫教育先駆けの東京裁縫女学校(現、東京家政大学)に入学する。椙山正弌とは、東京裁縫女学校での修行時代に出会い、故郷を同じくし共に岐阜師範学校同窓生と共通点があり、意気投合して出会って3年後の1905年(明治38年)に結婚した。明治38年2月、椙山正弌・今子は中京の地へ戻る。 女子教育・人間性開発の教育をかかげて、夫と共に名古屋裁縫女学校(現、椙山女学園大学)を設立する。
安藤 秋三郎(あんどう あきさぶろう、1876年(明治9年)… 安藤 秋三郎(あんどう あきさぶろう、1876年(明治9年)12月28日 - 1962年(昭和37年)3月11日)は日本の教育者。大正時代から昭和中期にかけて、尾張地方の人材教育に尽力した。 1876年(明治9年)12月28日、愛知県丹羽郡重吉村(現:愛知県一宮市丹陽町重吉)で出生。生家は農業を営んでいた。地元の高等小学校を卒業後、尋常小学校の代用教員となる。その後愛知県尋常師範学校、東京高等師範学校を卒業後、明治37年(1904年)に北海道庁立上川中学校(現:北海道旭川東高等学校)生物科教員。上川中学に在籍中の明治40年、小泉秀雄含め教諭ら5人と高校生らのグループで初めての大雪山の植物収集調査を行う。
稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉… 稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉12月22日 - 1949年〈昭和24年〉4月1日)は、日本の神学者、聖職者、教育者、翻訳者。聖公会神学院校長、日本聖公会の司祭。 1894年(明治27年)和歌山聖救主教会で、アイザック・ドーマン宣教師から受洗。同年9月、開設された立教学校(現・立教大学)専修科に入学する。この時、信仰復興運動の中心となる永野武三郎(1877‐1898)も立教学校の3年に編入している。 翌1895年(明治28年)、稲垣、永野、池澤駿太郎(1876‐1956)らで、雑誌『廿八年』を発行して「十字同盟」を結成したことをきっかけに、寄宿舎の一室で祈祷会が朝夕開かれるようになり、盛んに伝道活動が行われた。
須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 -… 須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 - 1956年10月2日)は、日本の経済学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授。 1894年(明治27年)、立教学校(現・立教大学)卒業。同期には木村重治(立教大学元学長)がいる。 1897年(明治30年)にアメリカに留学し、ペンシルベニア大学に入学。1900年(明治33年)に同大学を卒業。 その後、母校である立教大学の教員となり、経済学部教授を務める。 1932年(昭和7年)9月に、杉浦貞二郎の後任として木村重治が立教大学学長に就任し、経済学部長を兼任すると、経済学科長に河西太一郎、商学科長に須藤吉之祐が着任した。 1936年(昭和11年)7月、立教大学学長(事務取扱)に就任し、翌年3月まで務めた。
菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)… 菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)12月15日 - 1963年(昭和38年)12月26日)は、明治時代から昭和時代の日本海軍軍人、教育者。西海学園高等学校の創立者である。 旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸(現平戸市)に生まれる。兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた。 兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍。 1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、佐世保市助役に推されたが辞退し当時佐世保に無かった男子の進学できる私立普通中学の創設を志した。退官翌年の1925年(大正14年)、「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校。
禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)… 禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)12月12日 - 1927年(昭和2年)5月13日)は、明治から昭和初期の教育者・弁護士・政治家。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 鹿児島県大島郡赤尾木村(龍郷村を経て現龍郷町)で、禱朝衡、みよ の長男として生まれた。沖縄師範学校を卒業し、1898年(明治31年)、沖縄県国頭小学校校長となり、1905年(明治38年)には東京市東陽小学校校長に就任した。その後、日本大学に入り、1909年(明治42年)に卒業した。同年、司法官試補となったが、翌年に退官し、東京で弁護士を開業した。 帰郷して1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙(鹿児島県第8区、立憲政友会公認)で当選。
江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 … 江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 - 1928年(昭和3年)4月27日)は、広島県出身の教育者、政治家。衆議院議員。
堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940… 堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940年6月25日)は、日本の教育者である。東京商科大学(後の一橋大学)の発展を支えた。商業大学必要論を著し、東京商業学校の商科大学昇格に貢献した。日本で初めて海運学を創設した。 1876年(明治9年)、長崎県で元島原藩士石河光英の三男として生まれた。画家・石河光哉は弟。長崎市立商業学校に入り、上京、東京商業学校に入学した。1902年(明治35年)卒業後、同校の講師となった。 欧米帰国後、堀は直ちに「商業大学必要論」を執筆する。同著の中で、堀は「吾人が商業大学の設立を望む所以のものは、徒に大学という名称に拘泥するが故にあらず、名実兼備せる商業大学の制度を確立しこれを設置するに在り。
坂下 仙一郎(さかした せんいちろう、1876年(明治9年)… 坂下 仙一郎(さかした せんいちろう、1876年(明治9年)11月20日 - 1947年(昭和22年)2月9日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、雄踏町長。 静岡県敷知郡宇布見村浅羽(現浜松市中央区雄踏町宇布見)で、鍛冶屋・坂下仙蔵の長男として生まれる。1896年、静岡県師範学校講習所を卒業。雄踏尋常小学校、入野尋常小学校で訓導として教鞭をとった。その後政界に入り、雄踏町会議員、静岡県会議員を務めた。1932年2月から1944年5月まで雄踏町長に在任。 1936年2月、第19回衆議院議員総選挙において立憲民政党所属で静岡県第三区から出馬して当選し、その後第21回総選挙まで連続三回の当選を果たした。
秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 … 秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 - 1937年(昭和12年)7月1日)は、日本の教育者。 福岡県出身。中村芳平の四男に生まれ、秋吉格平の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。真宗京都中学校教諭、島根県立第三中学校教諭、福岡県立中学明善校教諭、福岡県立朝倉中学校校長、大阪府立市岡中学校校長、台湾総督府高等女学校校長、鹿児島県立第一中学校校長を歴任し、1921年(大正10年)から福岡高等学校校長を務めた。現職のまま死去。1937年(昭和12年)7月1日、死去。死去に際し、天皇より祭資を下賜された。同年7月7日の葬送には勅使として福岡県知事が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた。
野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 … 野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 - 1949年)は、明治・大正・昭和の外交官・教育者・社会活動家。名は茂温、別号は三山。外務省留学生及び外交官として中国で各事案に対処し、後に奉天居留民会長として現地の顔役となった。 新潟県北蒲原郡佐々木村(現:新発田市)に生まれる。実家は代々里正の家柄で、農業を営みながらも士分待遇であったという。1892年(明治25年)に上京し、三島中洲の漢学塾・二松学舎で学びながら、早稲田東京専門学校でも法律・政治を修学した。1896年(明治29年)、二松学舎尋常科を卒業し、中等学校漢文教師の資格を得た。 まもなく野口は外務省留学生試験を受験し、1897年(明治30年)、在北京留学生を命じられ、中国語を修学する。
森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11… 森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11日-1953年4月23日)は、明治-昭和期の物理学者・教育者。 高知県香美郡野市村(現在の香南市)出身。1892年高知尋常中学校を卒業後、第三高等学校・第二高等学校を経て1899年に東京帝国大学理科大学を卒業する。 卒業後、新潟県立長岡中学校教諭になるが、1901年に第三高等学校教授に迎えられる。 「森総」の愛称を持ち、多くの物理学の著書を著したことから、その著書は”森総の物理学"の異名を得た。また、教育者としても湯川秀樹や朝永振一郎などを物理を教えて彼らに大きな影響を与えたとされる。 1935年、同じ高知県出身でもある前任の校長・溝淵進馬の急逝を受けて第三高等学校校長に就任する。
赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5… 赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5月10日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、文部官僚、教育者。錦鶏間祗候。 福島県令・検事の赤司欽一の長男として東京に生まれる。東京府立一中[要出典]、旧制第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、内務省に勤めた。翌年、文部省に移り参事官に任ぜられた。1902年(明治35年)から2年間、教育制度と行政法の研究のため欧米留学を命じられた。1911年(明治44年)、維新史料編纂会事務局長に就任した。1916年(大正5年)に普通学務局長に昇進し、1922年(大正11年)からは文部次官を務めた。その間、臨時教育行政調査会や教育評議会の委員となった。
齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876… 齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876年5月9日) - 昭和37年(1962年)3月13日)は、日本の教育者、文化人。渥美半島における文化交流に寄与した。 愛知県渥美郡畠村(現・田原市福江町)に間瀬伴蔵、里うの次男として生まれる。1883年(明治16年)、7歳のときに母の実家、畠村の齋藤重左衛門の養子となる。 1899年(明治32年)に清田尋常小学校(現・田原市立清田小学校)の教員となり、1920年(大正9年)には亀山尋常小学校(現・田原市立亀山小学校)校長として1927年(昭和2年)の退職まで務めた。その後は、福江町助役や愛知県民生委員、亀山保育園長を務めた。 専吉は、文化人としても活躍し、俳句、短歌、郷土史、考古学にも興味を持ち、地域の歴史や民族に関する研究を行った。
栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 196… 栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 1967年8月26日)は、日本の英語教育者、キリスト教学者、翻訳家。 1876年、宮城県仙台生まれ。第二高等学校、仙台ホサナ教会でアニー・S・ブゼルにキリスト教を学び、東京帝国大学文学部英文科に進んだ。大学では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の教えを受ける。1901年に大学を卒業。 卒業後、1902年より広島高等師範学校教授。1912年、京都YMCA主事、第三高等学校教授に就任。1930年に三・一五事件との関連により退官した。その後は同志社大学、尚絅女学院大学で教えた。
喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月… 喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月10日 - 1955年(昭和30年)12月22日)は戦前日本の英語教育者、雑誌編集者。新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員。長年『英語青年』編集を引き受け、引退後は「河畔通信」「鵠沼通信」を連載した。 1876年(明治9年)1月10日愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)の豪農の長男として生まれた。早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年(明治19年)米湊村の高等小学校に編入した。 伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校し、『文学之栞』編集に参加した。1889年(明治22年)私立伊予尋常中学校に進学し、1892年(明治25年)卒業した。