10代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1891年(明治2… 10代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1891年(明治24年)12月5日 - 1969年(昭和44年)2月28日)は、日本の洋画家、実業家、政治家。衆議院議員、佐藤喜八郎家10代当主、幼名・恭次郎。 島根県松江市で9代・佐藤喜八郎の長男として生まれる。1920年、東京美術学校西洋画科を卒業。1923年、絵画研究のため英米仏に留学。一年後に帰国し、家督を継承し喜八郎を襲名した。 1927年以降、片倉製糸監査役、勝浦川電力社長、大連株式取引所理事などを務めた。また、父が創立した克堂会の会長、立憲民政党島根支部長、折づる幼稚園主なども務めた。 1930年2月、第17回衆議院議員総選挙で島根県第二区から立憲民政党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務め、その間、商工大臣秘書官となった。
耳野 卯三郎(みみの うさぶろう、1891年〈明治24年〉1… 耳野 卯三郎(みみの うさぶろう、1891年〈明治24年〉11月12日 - 1974年〈昭和49年〉3月15日)は、洋画家、日本芸術院会員。 大阪府大阪市出身。1907年東京葵橋洋画研究所に入る。1916年東京美術学校西洋画科卒。文展、帝展に出品、1933年光風会会員。1934年帝展特選。1942年文展審査員。戦後は日展に出品、1956年同運営会参事。1958年同評議員。1962年日本芸術院賞受賞。1967年日展理事、芸術院会員、勲三等瑞宝章受章。『耳野卯三郎静物画集』(美術工芸会、1964)がある。児童書の挿絵も多く手がけた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
松田 義之(まつだ よしゆき、1891年11月9日 - 19… 松田 義之(まつだ よしゆき、1891年11月9日 - 1981年9月9日)は、版画家、教育者。 愛知県北設楽郡出身。号は芳雪。1917年東京美術学校図画師範科卒。青森高等女学校(現青森県立青森高等学校)教員、三重県で公立学校教師となり三重県立神戸中学校(現三重県立神戸高等学校)教員、1920年東京美術学校助教授、40年教授。51年東京藝術大学教授、59年定年退官、名誉教授。文部省教科書編集委員など。銅版画では、1932年から帝展、日本版画協会展などに出品した。
小栗 忠七(おぐり ちゅうしち、1891年11月 - 196… 小栗 忠七(おぐり ちゅうしち、1891年11月 - 1964年)は、日本の都市計画家。内務省の建設官僚として、「都市計画法規類集」及び「土地区画整理の歴史と法制」の編さん出版を始め都市計画の指導、発展に多大な功績を残す。また内地及び日本統治下の台湾などで制度の立案・運用に関わった。 「疎開」という日本語の生みの親の一人でもある。 静岡市に生まれる。1911年3月、旧制静岡県立静岡中学校を卒業後、静岡県に奉職したが、後に東京府を経て、1927年に内務省大臣官房都市計画課に勤務する。 1937年に内務省を退官して、名古屋市に奉職し駅前土地区画整理事業を事務所長として遂行した。1939年からは満州国交通部都邑計画司事務官として法規改正を担当し、同国において交通部事案に大きな業績を残した。
小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10… 小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 - 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。「詩情の画家」と呼ばれる。 埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。 17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。
清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日… 清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日 - 1954年(昭和29年)1月29日)は、洋画家、童画家。 東京都文京区本郷に生まれた。旧制京華中学校(現・京華高等学校)卒業、同級生で友人に日本美術研究家の丸尾彰三郎がいた。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒業。黒田清輝、藤島武二に師事する。在学中に文部省美術展覧会(現在の日展)に入選。 大正の初め頃から挿絵を描く。鈴木三重吉が1918年(大正7年)7月に創刊した童話雑誌『赤い鳥』の挿絵を創刊号から描いた。特に表紙の絵は全196冊のうち163冊を描き、同誌のイメージを視覚的に広めるという大きな役割を果たした。 この他、児童雑誌『コドモノクニ』でも多くの作品を見ることができる。
藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 194… 藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 1943年5月28日)は、日本の版画家。 福岡県久留米市生まれ。白馬会原町洋画研究所に入り、東京美術学校予備科西洋画科志望に入学後、1914年に田中恭吉や恩地孝四郎とともに版画誌『月映』を刊行した。東京美術学校をその2年後に卒業し、福岡で中学校の教師を務めた。1922年に『詩と版画』の同人となり、1937年から日本版画協会の常任理事・事務を担当した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7… 長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7… 恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。
亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 195… 亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 1954年12月26日)は、日本の洋画家。東京都出身。 1891年6月30日、東京府東京市赤坂区青山に生まれる。父は陸軍工兵中佐・従五位・勲四等の亀岡為定。陸地測量部課長等を歴任し、大正9年12月3日没。祖父は幕臣の亀岡平次で、曽祖父の樋田豊治も幕臣であった。母は旧幕臣・上田登代。父方の従兄に陸軍中将・杉原美代太郎、陸軍中将・黒澤準がいる。また母方の従兄に海軍中将・上田宗重がいる。 府立一中を経て東京美術学校卒業。岡田三郎助、黒田清輝の門下。在学中に中村彝と知り合い交遊を結ぶ。彝の名作「友の像」のモデルとなる。第1回より欠かさず二科展に出品。
岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 … 岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年… 不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年2月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本画家。 1891年(明治24年)6月16日、東京・小石川の光円寺住職であった不染信翁の子として生まれる。本名は哲治。のち哲爾に改める。別号に鉄二。「不染」の名字は、平民苗字必称義務令にあたり父・信翁自らが名乗ったものだという。当時一般には僧侶の妻帯を認められておらず、母との関係はふせられたまま不染は光円寺で育てられた。 こうした複雑な境遇から、不良少年とみなされていたという。小学4年の春に千葉県富浦の西方寺で修行させられた後、芝中学校、攻玉社中学校、大正大学などで学ぶ。画を志し、山田敬中に師事。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月… 保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月13日 - 1965年(昭和40年)2月14日)は、日本の画家、彫刻家である。和歌山県竜門村(現:紀の川市)出身。彫刻家の保田春彦は息子、西村浩幸は孫婿である。 1891年(明治24年)、那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。 名は重右衛門、龍門と号した。旧制粉河中学校(現・和歌山県立粉河高等学校)を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決める。太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45年)東京美術学校西洋画科に入学する。
本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1… 本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 19… 奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 1975年11月23日)は、三重県出身の洋画家。浦和画家の一人。示現会代表。瑞宝章受章者。 三重県上野村(現:伊賀市)に生まれ、画家を目指して上京。太平洋美術学校の教授になった。帝展にて連続して特選を受賞し、1929年には審査員となった。1931年には埼玉県浦和市に移住し、終生居住したことから浦和画家として知られている。戦後は山岳風景画を多く残している。新光洋画会や槐樹社、示現会の結成者の一人。蕨画塾講師。勲四等瑞宝章のほか埼玉新聞社から埼玉文化賞が贈られている。
永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 197… 永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 1978年3月8日)は、日本の版画家、画家。茨城県出身。大正初期の時代から昭和にかけて旺盛なる創作活動を続け、版画や油絵により、自分の信ずる「美の世界」を表現するために、様々な手法を試み社会に問い続けた。また、著書「版画を作る人へ」はその後の版画家たちへ影響を与えた。 茨城県西茨城郡北那珂村入野(現在の桜川市)に生まれる。土浦中学時代より絵画に興味を持ち始め、熊岡美彦、矢口達、高田保らと知り合う。1904年に創刊された美術雑誌『みずゑ』に水彩画を応募し、画家になることを本格的に意識し始める。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科に入学するもすぐに中退。
太田 謙吉(おおた けんきち、1891年 - 1963年)は… 太田 謙吉(おおた けんきち、1891年 - 1963年)は、日本の造園家、都市計画家。官庁の造園技師として、都市計画における公園緑地行政と、都市近郊の農林業用地の用途向上理論を究明した。 滋賀県に生まれる。1917年(大正6年)東京帝国大学農科大学農学科卒業後、明治神宮造営局に入局。神宮の造営にあたる。 1919年から都市計画官制が設けられた際、中央委員会の技手として内務省に入る。1933年から1938年にかけて東京緑地計画協議会技師、1938年から都市計画神奈川地方委員会技師兼地方技師として活躍する一方で、母校帝大農学部の講師として公共緑地学を園芸第二講座において講じた。 緑地計画協議会時代に努力して指定をみた神奈川県大桶山景園地の施設計画及び施工に着手するいっばう、湘南海岸公園の都市計画決定をみるなど、広域緑地計画に大きな功績を残した。
上林 大韶(かんばやし だいしょう、1891年 - 1979… 上林 大韶(かんばやし だいしょう、1891年 - 1979年?)は、日本画家、レタリング作家。本名、上林重徳。 日本の近代デザイン史において、杉浦非水と山名文夫の端境期に活躍した。 1908年4月、東京美術学校日本画科専科入学。本郷千駄木林町に住み、同年5月末に斜め向かいに引っ越してきた東京美術学校の教師鶴田機水の家に通ううちに門人となる。千駄木林町の上林の家は四軒続きの二階長屋で、二階東側に小出楢重、一軒おいて同じ二階に熊谷守一も下宿していた。この長屋の周囲には、小出の友人の信時潔をはじめ、高村光雲、中條精一郎、高村光太郎、結城素明、蔦谷龍岬、石井柏亭などが住んでおり、芸術家が多く集まっていた。
山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は… 山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は、日本の木版画家。 1891年、長野県上伊那郡美篶村(現・伊那市)に生まれ、15歳で上京し木版彫刻家、武藤李吉に師事。やがて師匠に代わり読売新聞社に勤めるようになり、挿画を彫り木版の腕を磨くと同時に、黒田清輝率いる葵橋洋画研究所で美術を学んだ。 1926年には、文部省より欧米における版画についての調査を託され渡航。各国で視察と版画の実技を行いながら、後に着手するシリーズ『世界百景』の写生を進める。帰国後は、絵を描き、版を彫り、紙に刷るまでを単独で行う"創作版画"に取り組むいっぽう、横山大観や石川寅治ら画家の作品を版画にするなど精力的に活動した。
内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)1… 内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)12月19日~1987年(昭和62年)4月10日)は、庄内町名誉町民、元日本水彩画会理事長の画家。 1890年(明治23年)12月19日、山形県東田川郡余目町大和村古関(現庄内町古関)の寺院・玄通寺の二男として生まれる。1913年(大正2年)山形県師範学校本科第一部卒業。22歳で小学校の教師となるも25歳で上京し、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。しかし、生活苦により中退。東京で教師として務めるながら、画家の石井柏亭、石川寅治に師事する。 1927年(昭和2年)美術および美術教育を研究するためにヨーロッパへ留学。1928年(昭和3年)パリに渡り、画家のアマン・ジャンやオットン・フリエスに師事する。
牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月1… 牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月15日 - 昭和21年(1946年)10月18日)は、日本の洋画家である。現在の新潟県上越市西城町1丁目に生まれた。父は藤一郎、母は兼。 父・藤一郎は、虎雄が生まれたころ東京府東京市下谷区役所に単身で勤務していた。虎雄が5歳のときに土木請負「久米組」の社員となり、今の渋谷区代々木で一緒に暮らすようになった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大久保 作次郎(おおくぼ さくじろう、1890年〈明治23年… 大久保 作次郎(おおくぼ さくじろう、1890年〈明治23年〉11月24日 - 1973年〈昭和48年〉2月28日)は、洋画家、日本芸術院会員。 旧姓は氏原。大阪府泉北郡山滝村(現在の岸和田市内畑町)に生まれ、大阪市で育つ。旧制岸和田中学校(現在の岸和田高等学校)に入学するが、3年のとき、母が亡くなったため大阪市に戻り、桃山中学校に転入する。1911年に叔父の大久保家を継いだ。 東京美術学校西洋画科で黒田清輝に学ぶ。同級に鍋井克之がいた。在学中に文展に初入選。卒業後も同校研究科に進み、1918年修了。1916年-1918年文展特選。1923年には渡仏して以後4年間をヨーロッパで過ごす。1935年多摩美術大学教授。
服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10… 服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10月9日 - 1957年(昭和32年)11月24日)は、大正・昭和期の日本画家。愛知県名古屋市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授。主に歴史人物画を得意とした。日展審査員。本名は謙一。
矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8… 矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8日 - 1965年(昭和40年)4月17日)は、日本画家。愛媛県越智郡(現今治市)出身。本名一智、別号「知道人」。晩年、日本南画院の設立に関わった。 1890年(明治23年)9月8日、愛媛県越智郡に生まれる。大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う。その後南画家を志し永松春洋へ師事し、右手一本で創作活動を行う。 1914年(大正3年)、第8回文展にて「湖山清暁」が褒章を受賞。1919年(大正8年)、直木三十五、福岡青嵐らと「大阪文化の抜本的改革を提唱する美術・文学・哲学などを文化総体として捉えた研究団体」として主潮社を結成、毎年東京と大阪で個展を開催する。
赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 195… 赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 1954年8月22日)は、日本の都市計画家、土木技師。 福岡県生まれ。1919年京都帝国大学工学部土木工学科卒業。在学中の1917年9月から1919年7月まで、京都市の私立京都商工学校土木科で講師を務める。 その後三井鉱山を経て、1922年から1926年まで埋築技師として熊本県海面埋築事務所勤務。県営新地の干拓事業に従事。 1926年(大正15年)から内務省に転じ、1936年(昭和11年)まで、都市計画地方委員会富山地方委員会技師。1931年から富山県都市計画課技師を兼任、1928年に決定された富山市都市計画立案と施行の責任者となる。 主な実績に、東岩瀬港から富山駅北までの富岩運河開削で掘ったときの土砂で神通川の廃川地埋立て、廃川地処分を運河新設と同時に行う新市街地造成計画立案など。
大屋 霊城(おおや れいじょう、1890年8月15日 - 1… 大屋 霊城(おおや れいじょう、1890年8月15日 - 1934年6月10日)は、日本の造園家・都市計画家。都市における公園および緑地の計画に多くたずさわったほか、大阪・藤井寺の宅地開発、都市生活の研究、児童の遊び場および公園遊具の研究でも知られる。 1890年(明治23年)福岡県柳川市出身。養福寺住職の三男として生まれる。長兄は、仏教学の分野で旧仏教、新仏教の呼称を定着させた大谷大学の仏教学者大屋徳城。1909年(明治42年)に第五高等学校 (旧制)に進学、農学を志す。1915年(大正4年)に東京帝国大学農科大学農学科卒業、明治神宮造営局に奉職。同年、大阪府史蹟名勝天然記念物調査委員。 1917年(大正6年)、大阪府立農学校(旧大阪府立大学生命環境科学域・大学院生命環境科学研究科、現大阪公立大学農学部・大学院農学研究科)の教諭に赴任する。
髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年… 髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)は、大正 - 昭和時代の画家。本名は彌壽(やじゅ)、字は光雄。 東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館で初の回顧展が開かれ、再評価が進んだ。 福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家である髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学(27期生)に進む。
鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969… 鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。
亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1… 亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1日 - 1955年(昭和30年)2月9日[要出典])は、日本画家(美人画)。山口県下関市出身。[要出典]鏑木清方門下。[要出典]本名五郎。[要出典] 帝展入選、聖徳太子奉賛美術展覧会、ベルリン日本画展覧会(外務省)に出品。鏑木清方門下らによる郷土会、目黒雅叙園、梨本宮家、浅草柳橋料亭二葉などで多くの絵画を手がけた。独特の、美人と所作と構図、滲み出る人物の精神性や内面性、繊細な色彩と形の組み合わせの自在さ、に特徴がある。画号は、寒雷楼吾郎、寝石、八千房、亀永霊泉。 度重なる戦災に遭い帰郷するも、その後も東京と郷里を往復しつつ、制作に取り組んだ。
中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - … 中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - 1969年11月20日)は、日本画家。静岡県下田市生まれ。本名は恒吉。芸術院会員。毎日芸術大賞・朝日文化賞受賞。文化功労者。文化勲章受章。 1890年(明治23年)3月10日、現在の静岡県下田市旧岡方村で中村筆助、俊夫妻の間に、九人兄姉の末弟、三男として生まれる。下田尋常高等小学校卒業後上京、実姉・コウの嫁ぎ先であった医家に寄宿しながら、本所表町の明徳尋常高等小学校に入学。1902年(明治35年)、池田孤邨門下の野沢堤雨に入門して琳派を学ぶが、慣れぬ都会暮らしで脚気を患い、一旦の帰郷を余儀なくされ、その間に父と堤雨を亡くす。次いで1904年からは土佐派の川辺御楯に師事し、同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選して画壇デビュー、翌年には御楯の別号である「花陵」より一字を譲り受けた画号「岳陵」を名乗り始める。
小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5… 小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5日 - 1965年〈昭和40年〉4月4日)は、群馬県出身の洋画家。浦和画家のひとり。赤城山の風景を好んで描いたことから「赤城絵かき」とも称された。 群馬県大間々町(現・みどり市)に生まれる。群馬県立前橋中学校卒業後、上京し白馬会研究所に入り黒田清輝、長原孝太郎らに師事した。風景画を主体とする。関東大震災後、埼玉県浦和町(現さいたま市)に居住。第一美術協会を創設した。光風会審査員、埼玉県展運営委員・審査員。実践女子大学講師。 志賀直哉の小説『焚火』に「画家S」として登場する。
石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2… 石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2月11日 - 1936年(昭和11年)3月25日)は、大正-昭和時代前期の日本画家。本名は石川寅寿。 1890年(明治 23年)2月11日栃木県那須郡黒羽町大字北野上(現:栃木県大田原市北野上)石川渉・カネ夫妻の次男として生まれる。本名の虎寿は、干支にちなんでいる。黒羽尋常小学校、大田原中学校を卒業後、1909年(明治42年)に19歳で上京、郵便局員として働くかたわら太平洋画会研究所に通って洋画を学び、その一方で佐竹永邨に日本画を習う。1910年(明治43年)肺炎を患い、夏の徴兵検査に不合格。1911年(明治44年)帰郷・結婚し、代用教員として勤務するかたわら、頃から西那須野の雲照寺に参禅し、釈戒光の感化を受け、「寒巌」の道号を与えられる。
石丸 一(いしまる はじめ、1890年 – 1990年)は、… 石丸 一(いしまる はじめ、1890年 – 1990年)は、日本の画家。 現在の徳島県小松島市立江町出身。父は漢方医であった。徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)を経て京都帝国大学医学部を卒業し、大阪市内で医院を開業し、さらに信濃橋洋画研究所で洋画を学んだ。全関西洋画展会に1927年の第1回から1943年の第30回までほぼ毎回作品を出品した。1929年の第3回展においては朝日賞を受賞した。同時期に1928年から1943年までほぼ毎年二科展にも作品を出品しており、1942年には会員に推挙された。1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画部門に絵画を出品した。1931年のロボット洋画協会や1938年の九室会の創立に参加している。
榧木 寛之(かやのき ひろゆき、1890年 - 1956年)… 榧木 寛之(かやのき ひろゆき、1890年 - 1956年)は、日本の都市計画家。土木技術者。内務官僚。教育者。 1890年、旧東京市下谷区(東京都台東区)生まれ。第一高等学校を経て1916年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。卒業後は官営八幡製鉄所に勤務。 1919年、都市計画法制定に伴って内務省に都市計画課が創設されたが、1920年、招かれて内務省に入り都市計画技師として東京地方委員会に所属。1922年に都市計画調査のため東南アジアへ出張。 1923年に発生した関東大地震により、その復興事業を管轄する帝都復興院が設置され、復興事業に全力を傾注したために内務省の機構も縮小されたが、植木は本省に留まって揺籃期の全国の都市計画の指導と啓慶にあたった。
井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭… 井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭和42年〈1967年〉)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 尾形月耕の門人で本名は宗市。耕宗と号す。鳥取県勝谷村今市(現在の鳥取市鹿野町今市)に井江藤三郎の子として生まれる。明治36年(1903年)、14歳のときに上京し月耕の内弟子となり、美人画や人物画を学んだ。月耕から風景、花木、鳥獣の写生をするよう勧められ、西日本各地を回る。昭和2年(1927年)から昭和5年にかけては朝鮮京城(現ソウル)に滞在し画家としての生活を送った。その後東京に帰ったが、再び朝鮮や中国、九州、鹿野など各地を漫遊しながら絵を描く。昭和30年(1955年)ごろ鹿野町に滞在し、絵筆を振るったのが画家生活の終わりであったといわれる。
神津 港人(こうづ こうじん、1889年(明治22年)12月… 神津 港人(こうづ こうじん、1889年(明治22年)12月21日 - 1978年(昭和53年)4月7日)は、日本の洋画家。 長野県北佐久郡志賀村(現佐久市志賀)出身。神津豊助の次男。1912年、東京美術学校卒業。1915年、第9回文展で「電車」が初入選、官展に出品を続ける。 1920年、農商務省の海外実業生として渡欧、ロンドンのロイヤル・アカデミー・スクール、パリのアカデミー・ジュリアンで商業美術を学ぶ。 1928年、構造社に参加、絵画部主任となる。1932年、オリンピックの日本選手団オリンピック芸術競技派遣役員として渡米する。1939年、緑巷会を組織、1950年、創芸協会と改称、代表者となる。
早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)… 早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)12月20日 - 1956年(昭和31年)12月23日)は、日本の民俗学者・画家。 愛知県南設楽郡長篠村(現・新城市)出身。画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、1930年『花祭』を刊行。農山村民俗の実地調査を行った。
広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(… 広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(明治22年)11月23日 - 1951年(昭和26年)12月16日)は、徳島県徳島市出身の日本画家。香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校日本画科(現東京藝術大学)卒業。 徳島県徳島市に生まれる。1907年(明治40年)に香川県立工芸学校を卒業。1909年(明治42年)に白馬会洋画研究所に入り、後に画家の萬鉄五郎らとアブサント会を興す。1912年(明治45年)に東京美術学校日本画科を卒業。その後、長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。 第1回帝展、第2回帝展で特選になり名が知られるようになる。帝展審査員、新文展審査員などを歴任した。
生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)… 生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)11月22日 - 1978年(昭和53年)3月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 菅楯彦と北野恒富の門人。本名、生田稔(みのり)。始め花朝と号し、のちに花朝女と号した。1889年、大阪市天王寺区上之宮町で生まれており、現在は生誕地の碑が建っている。父は国学者の生田南水。父に俳句、藤沢黄波に漢学、近藤尺天に国学を学ぶ。大阪第一師範学校附属小学校を卒業後、喜多暉月に四条派を教わる。1912年、菅楯彦に師事してまず大和絵と有職故実を学んでいる。1921年に北野恒富に預けられ、白耀社にも所属した。1925年の第6回帝展に出品した「春日」が初入選を果たした。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11… 小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。 当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。
川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月… 川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の童画画家、挿絵画家。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれた。大正期の童話・童謡運動(雑誌『赤い鳥』を中心に巻き起こった童話や童謡を巡る児童文学運動。童心主義も参照)の影響を受けて、児童向けの絵画の芸術的地位を高めるため、「童画」という言葉を作り、振興に努めた。このことから、「童画の父」「日本童画の父」とも呼ばれる。 1889年(明治22年)11月16日、新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)の豪農であった父・川上半四郎(屋号「川半」、井上円了の従兄弟)と母ヨシの四男として生まれる。
池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 19… 池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 1950年12月30日)は、日本の漫画家、洋画家、挿絵画家、俳画家。京都府出身。大正期から昭和20年代にかけて活躍した。 1889年、京都市木屋町生まれ、大阪育ち。 本名は池田永治。1928年以降は(妹繁子の死を悲しみ)池田永一治(読みはエイジのまま)と称した。他の画名に永一路、牛、牛歩、田牛(たのもう)などで、これらは丑年うまれにちなむ。 父直次郎の木版印刷業を継がずに上京して、太平洋美術学校を卒業、同校教授となる。珊瑚会に加わり、太平洋画会を中心に活動し、1910年第4回文展褒状「牧場」から1946年日展入選「鳥渡る」まで、日展(帝展、文展)関係の褒状2回、招待2回、無鑑査4回、入選16回に及び、風景画を得意とした。
奥村 博史(おくむら ひろし、1889年(明治22年)10月… 奥村 博史(おくむら ひろし、1889年(明治22年)10月4日 - 1964年(昭和39年)2月18日)は、日本の洋画家、工芸家。妻は社会運動家の平塚らいてうである。 1889年(明治22年)、藤沢市に奥村市太郎の長男として生まれる。藤沢小学校、逗子開成中学校を卒業。 1909年(明治42年)、画家を志すことを父に伝えるも許されず、家出をして上京した。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学。1911年(明治44年)に大下が亡くなると油絵に転向した。 1912年(明治45年)、巽画会に油絵『青いリンゴ』を出品した。 1914年(大正3年)に婦人運動家の平塚らいてうと恋愛結婚し話題となる。第一回二科展に油絵『灰色の海』を出品し入選した。
板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年… 板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年2月5日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の版画家、収集家。孔版画を日本に普及させた。 鳥取県西伯郡東長田村(現南部町)の生まれ。本名は板愈良(いた まさよし)。父は板房太郎。1904年から1945年まで鳥取県内の小学校教員を歴任した。以降、鳥取県の法勝寺村役場に勤務した。大正から没年にわたって孔版画を制作している。独学によって謄写版(ガリ版)を利用した孔版画を制作、つぶし孔版、切り抜き孔版を自ら創案した。また、1917年から『珍道楽』という趣味の団体に参加し、料治熊太など30名の収集家と交流を深めた後、1919年に三田平凡寺の『我楽他宗』に参画し、第二十番十徳山竜駒寺と号して富士山に関する物やこけしなどの郷土玩具、民具、菓子のラベル、ポスターなどを収集し、自らそれらを題材にした絵暦、絵草紙、蔵書票などを制作して同好の士と交換を行った。
国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 195… 国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 1953年5月14日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市中出石町(現・岡山市北区出石町一丁目)出身。 20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。
野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月… 野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月17日 - 昭和39年(1964年)3月31日)は、和歌山県出身の日本画家。国画創作協会の創立メンバーとして大正時代の日本画界で活躍した。 和歌山県西牟婁郡近野村(現:田辺市中辺路町近露)に資産家の三男として生まれる。本名、弘男。初め蘆秋と号する。 明治36年(1903年)14歳で大阪に出て、円山派の中川蘆月のもとで4年間基礎を学び、その後京都の谷口香嶠塾に移る。 明治42年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学(同級に小野竹喬、土田麦僊ら)。2年目には授業に出席せず(翌々年退学)、秦テルヲや竹久夢二をはじめとする進歩的な若い芸術家たちとの交流を深めた。
河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958… 河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958年4月23日)は、大正・昭和期の日本の画家(童画・商業美術)。愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身。初山滋、岡本帰一、川上四郎、武井武雄らとともに「童画の第一世代」のひとりである。父は教育者の河目正平。 1889年(明治22年)8月6日、愛知県碧海郡刈谷町大字熊字本屋敷(旧・碧海郡熊村、現・刈谷市八幡町)に生まれた。父親の河目正平は碧海郡熊村出身であり、刈谷藩の藩校である文礼館の教員を務めていた。母親の徳丸あやは刈谷藩江戸屋敷に生まれ、10歳の時に刈谷に移住していた。悌二は次男であり、兄1人と姉2人がいる。兄の河目揆一は小高原尋常小学校(現・刈谷市立小高原小学校)などで校長を務めた教育者である。
地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月1… 地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月12日 - 1975年(昭和50年)11月26日)は、日本の洋画家。 1889年、地主正次の次男として山形県鶴岡最上町(現:鶴岡市)に生まれる。 1905年に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)に進むも中退。検定試験に合格し小学校教諭となる。 1913年、画家坂本繁二郎の作品を見て、感銘を受け、弟子となる。 その後、図画教諭の検定試験に合格。秋田県師範学校、山口県女子師範学校、鶴岡中学校(現:鶴岡南高等学校)で教鞭を執った。また1950年には鶴岡の美術団体「白甕社」会長に就任。庄内の芸術文化の発展にも尽力した。 1954年に健康を害したことから、転地療養も兼ね、友人である真田祐太郎が居住する神奈川県中郡二宮町に移る。
菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 … 菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 - 1988年(昭和63年)7月8日)は、日本の洋画家。宮城県黒川郡大衡村生まれ。東京美術学校を卒業し、戦前は二科で、戦後は河北美術展などで活躍した。「蔵王の画家」と呼ばれる。 昭和万葉の森の敷地内にある「大衡村ふるさと美術館」は、作品の一部を常設展示している。 1889年(明治22年)7月12日、宮城県黒川郡大衡村に生まれる。1910年(明治43年) 宮城県師範学校卒業。1911年(明治44年) 東京美術学校に入学。1915年(大正4年) 東京美術学校卒業。 1925年(大正14年) 二科展に入選。1931年(昭和6年) パリに留学。