岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(… 岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(1912年)1月15日)は、明治時代の日本の大日本帝国陸軍官吏・軍人。陸軍主計として会計・監督畑を歩み、日清戦争に出征した。最終官等は陸軍二等監督(中佐相当官)、位階は従五位、勲等は勲三等である。 岡村は信濃国東筑摩郡松本南深志町(現長野県松本市)の士族の出身である。明治7年(1874年)頃、中山信吉・中村宗則・浅田恭郷らとともに陸軍軍吏に任じられ、正七位を叙せられた。 同年、陸軍大尉として佐賀の乱に出征している。明治8年(1875年)には司契副に転じ、仙台鎮台司契課長を兼ね、さらに工兵第二方面本署監督課会計官を務めた。 明治10年(1877年)には二等司契に昇進し従六位となり、その後二等副監督に転じた。
麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明… 麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明治40年(1907年)4月27日)は、明治時代の日本の教育者、海軍軍人。最終階級は海軍機関大佐。旧名弼吉。 明治前半期に海軍操練所、海軍兵学寮、海軍兵学校、海軍機関学校で機関官養成にたずさわり、10年にわたり機関学校の事実上の校務責任者である校長心得および次長を務めた。 豊前国宇佐神宮社司に生まれる。 元治2年(1865年)4月に慶應義塾に入塾。1869年(明治2年)に出版された『奇機新話』(西洋の機械の紹介)など科学技術の啓蒙書や理科教科書を福沢・小幡などと共に数多く執筆。同年、海軍操練所に出仕し、海軍兵学中教授を経て海軍省六等出仕となり、海軍始に明治天皇が行幸した時に「ピョートル大帝海軍創立ノ事」と題する御前講演を行った。
川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年… 川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、日本の警察官・陸軍軍人。幕末から明治初期の薩摩藩士、内務官僚。階級は大警視(後に旧警視長を経て現在の警視総監)、陸軍少将(臨時)。位階は正五位。勲等は勲二等。 初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した事実上日本の警察の創設者にして、「日本警察の父」とも言われている。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を率いて抜刀隊を指揮して西郷軍に大きな打撃を与えた。 名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名した。
高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – … 高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – 明治14年(1881年)1月20日)は、幕末から明治初期にかけて活動した日本の武士、陸軍軍人。陸軍大佐。従五位・勲四等旭日小綬章。幼名は熊太郎。号は重陰。 高橋勝政は、常陸国新治郡下青柳村(現・茨城県石岡市)に生まれた。高橋平衛門の長男。幼少時は手に負えぬ性格であったが、成長すると文武に優れたという。17歳頃に家督を姉に譲り、医師を志したが、幕末の動乱を目の当たりにして尊皇攘夷運動に身を投じることを決意した 当初は水戸藩に赴いたが、当時の藩内は内紛が激しく活動は困難であったため、同志とともに上京して長州藩の有志に加わった。熱意は来島又兵衛らに認められ、遊撃隊568人の一隊の隊長に抜擢される。
津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日… 津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日) - 明治38年(1905年)6月2日)は、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。 弟は初代和歌山県知事の正臣。 紀州藩士(300石)の津田信徳(三郎右衛門)の長男として現在の和歌山県和歌山市に生まれる。津田家は河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期に紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。山林を多数所有する豪家でもあった。 蘭学・徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤めたが、幕末の藩内抗争に関係して幽閉される。 明治維新後に藩主徳川茂承より小姓頭・井田民男を介して和歌山藩大参事へと大抜擢される。
巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉… 巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉 - 1900年〈明治33年〉5月24日)は、日本の裁判官・陸軍軍人。肥前国武雄出身の佐賀県士族。号を玄龍という。巌谷竜一。 天保元年12月(1831年)、肥前国武雄に生まれる。幼少より武雄の医師・清水宗庵に師事して医学を志すが、のちに脱藩して京都へ上り、苦学のかたわら夜陰に按摩や阿呆陀羅経を語って学資を得たという。京都の町で高杉晋作と行き逢って意気投合し、のち長州に赴いて井上馨らと交わり、大村益次郎に蘭語を学んで洋式兵学を研鑽したと伝わる。 幕末に帰郷し、領主鍋島茂昌により身教館の監督と洋式兵術の指南を命ぜられる。戊辰戦争では茂昌に従い、武雄軍団参謀として秋田方面に出征し武雄藩の軍功に寄与した。
入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 18… 入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 1831年7月18日(天保2年6月10日) - 1874年(明治7年)1月10日)は、幕末・明治初期の在野の洋方医教育者、陸軍軍医。 幼名は恭助、字は尊典、号は松塢。初代東京帝国大学医学部綜理(初代の東京大学医学部長に相当)である池田謙齊の兄。入沢達吉は息子。 越後国蒲原郡中之島村西野(現・新潟県長岡市)に生まれる。蘭方医学者が縁戚に複数いたことで医学を志した(弟の池田謙斎も同様)。江戸に出て蘭医学者の戸塚静海と土生玄昌に教えを受ける。その後、万延元年(1860年)に長崎に赴いて、ポンペから医学を教授された。この長崎滞在中に記した日記が残されている。
十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 … 十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 - 1892年12月2日)は、江戸時代幕末から明治時代の武士、軍人、勤皇家。 肥前国大村藩士の稲垣主計の三男として大村に生まれる。通称は巳之助。諱は勝見。幼くして同藩の十九采記俊彬の養子となる。尊王を唱え、大村藩三十七士の1人として数えられ、藩の用人となり勤皇に導いた。戊辰戦争では東北に従軍し、参謀から大隊長となり、賞典禄八石を賜る。1871年、藩の歩兵中隊長に任じられ、熊本鎮台の副官となった。翌年官を退いた。東京に移り、小石川区小日向武島町の自宅で死去。享年63歳。1912年、従五位を追贈された。墓所は池上本門寺。
武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文… 武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文政10年9月15日)- 1880年(明治13年)1月28日)は、日本の武士(伊予大洲藩士)、科学者、教育者、陸軍軍人。函館時代までは斐三郎、明治政府時代からは成章(しげあきら)の名を使った。竹塘(ちくとう)と号す。 緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年(1874年)3月、陸軍大佐。陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。 文政10年(1827年)、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)にて誕生。先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に仕えたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともある。
井上 八郎(いのうえ はちろう、1816年11月5日(文化1… 井上 八郎(いのうえ はちろう、1816年11月5日(文化13年9月16日) - 1897年(明治30年)4月2日)は、江戸時代の武士・剣客・幕府軍人。名は清虎(きよとら)、号は延陵(えんりょう)。 延岡藩藩士井上主膳の子として日向国東臼杵郡延岡に生まれる。 1828年(文政11年)、江戸へ出て千葉周作(北辰一刀流)の道場・玄武館に入門。 1851年(嘉永4年)、飛騨郡代・小野高福に招聘され飛騨高山(現 岐阜県高山市)に赴く。同地で高福の子の小野鉄太郎(後の山岡鉄舟)に剣術を教える。 幕末期に幕臣となり、講武所剣術師範役並、遊撃隊頭取、歩兵奉行を歴任。 明治維新で静岡へ転じ、浜松城代、中泉奉行等を務める。
和田 久馬(わだ きゅうま、生年不明 - 1944年(昭和1… 和田 久馬(わだ きゅうま、生年不明 - 1944年(昭和19年)2月19日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争においてグリーン諸島に逆上陸し、守備部隊指揮官として戦死した。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 和田は米沢中学を経て、1938年(昭和13年)3月に海軍兵学校を卒業した海兵65期生である。重巡「鈴谷」、戦艦「長門」での艦船勤務を経て、1939年(昭和14年)10月に佐世保鎮守府第八特別陸戦隊附となって以降は陸上勤務が続いた。配置は海南島根拠地隊司令部附、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊分隊長、横須賀海兵団分隊長兼教官である。1941年(昭和16年)11月に横須賀鎮守府附となるが、和田は海南島勤務以来三日熱マラリアに悩まされており、郷里や水交社で療養している最中に開戦を迎えた。
折笠 重康(おりかさ しげやす、生年不明 - 1944年〈昭… 折笠 重康(おりかさ しげやす、生年不明 - 1944年〈昭和19年〉11月11日)は、日本の海軍軍人。第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将が座乗する旗艦「阿武隈」航海長としてキスカ島撤退作戦の成功に貢献。のち駆逐艦「若月」砲術長として戦死した海軍中佐である。 福島県出身。会津中学を経て、1937年(昭和12年)3月海軍兵学校を卒業。席次は160名中22番。折笠は海兵64期である。海軍中尉時代に教官として海兵72期の分隊監事を務めた。 海軍大尉時代に軽巡洋艦「阿武隈」航海長に補職され、キスカ島撤退作戦に参加。「阿武隈」は第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将が率いる作戦部隊の旗艦で、艦長は渋谷紫郎大佐、水雷長(のち通信長)と航海士は戦後海上自衛隊の海上幕僚長となる石田捨雄と大賀良平である。
風間 万年(かざま まんねん、生年不明 - 1945年(昭和… 風間 万年(かざま まんねん、生年不明 - 1945年(昭和20年)1月3日または1月4日)は、日本の海軍軍人。神風特別攻撃隊旭日隊の指揮官であり、特攻により戦死したが、その作戦行動については資料によって異同がある。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 風間は福島県出身で、旧制福島県立喜多方中学校を経て海軍兵学校に進んだ。海兵72期生の一人であり、校長新見政一、草鹿任一、井上成美の指導を受ける。教官の折笠重康と他の一人が同郷の先輩であった。1943年(昭和18年)9月に625名中126番の席次で卒業する。戦時の少尉候補生は311名が飛行学生となり、翌年の7月に第41期飛行学生を卒業した。海兵72期の41期飛行学生は202名が戦死しており、戦死率は66%である。
高畑 辰雄(たかはた たつお、生年不明 - 1943年(昭和… 高畑 辰雄(たかはた たつお、生年不明 - 1943年(昭和18年)4月7日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。太平洋戦争において582空艦爆隊長として「い号作戦」に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 福島県喜多方町出身。喜多方中学を経て、1937年(昭和12年)3月海軍兵学校を卒業。高畑は海兵64期で、同期生に美濃部正、石田捨雄、折笠重康がいる。席次は160名中100番。高畑は艦上爆撃機搭乗員となり、宇佐空では教官として実用機教程を指導した。 1942年(昭和17年)11月、ガダルカナル島の戦いで戦力を消耗していた2空に対し、南西方面を担当していた31空、33空、35空、40空などから艦爆搭乗員が増強された。
宇津木 秀次郎(うつぎ ひでじろう、生年不明 - 1943年… 宇津木 秀次郎(うつぎ ひでじろう、生年不明 - 1943年〈昭和18年〉8月4日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。太平洋戦争において伊号第一七八潜水艦長として戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。
柴田 文三(しばた ぶんぞう)は、日本の海軍軍人。最終階級は… 柴田 文三(しばた ぶんぞう)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
高山 忠三(たかやま ちゅうぞう)は、日本の海軍軍人。最終階… 高山 忠三(たかやま ちゅうぞう)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
山田 盛重(やまだ もりしげ)は、日本の海軍軍人。最終階級は… 山田 盛重(やまだ もりしげ)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
若色 伊三郎(わかいろ いさぶろう、- 1944年)は、日本… 若色 伊三郎(わかいろ いさぶろう、- 1944年)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
北郷 格郎(ほんごう かくろう、生年不詳 - 1982年(昭… 北郷 格郎(ほんごう かくろう、生年不詳 - 1982年(昭和57年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。 沖縄戦において、米軍に多大な損害を与えた歩兵第32連隊の連隊長として知られる。最終階級は陸軍大佐。 宮崎県出身。横須賀中学校を経て、1915年(大正4年)5月25日、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月25日、歩兵少尉に任官。 第5国境守備隊、第15軍高級副官等を歴任。1942年(昭和17年)8月1日、陸軍大佐に昇任し、独立歩兵第24大隊長に就任。1942年(昭和19年)3月1日、歩兵第32連隊長に就任。 1944年(昭和19年)7月、歩兵第32連隊を含む第24師団主力は沖縄戦へと転用され第32軍隷下に配属された。
栗原 幸衛(くりはら ゆきえ、生年不明 - 1920年(大正… 栗原 幸衛(くりはら ゆきえ、生年不明 - 1920年(大正9年)1月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は騎兵大佐。日露戦争では秋山支隊 騎兵第一旅団司令部に所属。奉天会戦などに参戦した。 静岡県田方郡韮山町(現伊豆の国市)出身。1895年(明治28年)、静岡県尋常中学校卒業。1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校10期卒業。1899年(明治32年)、6月27日任官。 1903年(明治36年)8月3日、陸軍大学校入校。1904年(明治37年)2月9日中退、日露戦争を戦った後、1906年(明治39年)3月20日に陸大に復校。1908年(明治41年)11月30日、陸大20期卒業。大尉。
大西 瀧治郎 は、日本の海軍軍人。海兵40期。神風特別攻撃隊… 大西 瀧治郎 は、日本の海軍軍人。海兵40期。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。
宇野 亀雄(うの かめお、生年不明 - 1944年〈昭和19… 宇野 亀雄(うの かめお、生年不明 - 1944年〈昭和19年〉6月24日)は、日本の海軍軍人(海兵53期卒)。大東亜戦争(太平洋戦争)中に実施された第五次遣独潜水艦作戦において、「伊52」潜水艦長として戦死した。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 宇野は福岡県出身の海兵53期生である。海軍青年士官運動の中心人物となる藤井斉ら62名が同期生で、うち10名が特高警察が作成したブラックリストに掲載されているが、宇野の名はない。1925年(大正14年)7月、海軍兵学校を卒業し、遠洋航海に向かう。53期生の遠洋航海は装甲巡洋艦「磐手」のみの編成であり、艦長の枝原百合一が指揮を執り、高須四郎、戸塚道太郎、渡名喜守定らの幹部のもと、浦塩斯徳や、豪州への航海で実務訓練を受けた。
富田 義信(とみた よしのぶ)は日本の軍人。最終階級は陸軍大… 富田 義信(とみた よしのぶ)は日本の軍人。最終階級は陸軍大佐。熊本県生まれ。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)を経て、陸軍士官学校(31期)を大正8年に卒業した。 その後、陸軍歩兵少尉に任官した。 累進して陸軍中佐となり、太平洋戦争が始まると、新たに編成された南海支隊の参謀附副官となった。 小田健作少将の下で軍務(ポートモレスビー作戦)に従事した。 南海支隊幹部が撤退に失敗すると、小田健作少将と共に自決した。 死後、陸軍中佐から陸軍大佐に昇任した。
坂東 正明(ばんどう まさあき)は日本の海軍軍人。最終階級は… 坂東 正明(ばんどう まさあき)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)を経て、海軍兵学校を卒業した。(海兵56期) その後、海軍少尉、海軍中佐となり、海軍航海学校を卒業した。 開戦時は第二艦隊の気象長。 その後、新たに編成された第七六二海軍航空隊の気象長を経て、海軍航海学校教官などを歴任し、終戦を迎えた。 終戦後は、海軍省軍務局に勤務し、戦後処理に従事した。
松浦 九州男(まつうら くすお、? - 1950年)は、日本… 松浦 九州男(まつうら くすお、? - 1950年)は、日本の軍人。最終階級は陸軍少佐。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校、陸軍士官学校卒業。陸士卒業後、終戦時は関東軍暗号課長だった。満洲に侵攻して来たソビエト軍の捕虜となった。 1946年にA級戦犯を裁く東京裁判のソビエト側の証人として、満州国総務長官・武部六蔵、瀬島龍三陸軍中佐と共に証言台に立たされた。主に日本軍の人体実験についての証言であった。 1950年に死去(自殺)した。
蔡 鍔(さい がく)は、清末民初の軍人。中華民国の初代雲南都… 蔡 鍔(さい がく)は、清末民初の軍人。中華民国の初代雲南都督。袁世凱による帝制実施を阻止するため、護国戦争を発動したことでも知られる。原名は艮寅、字は松坡。
胡 景翼(こ けいよく)は、清末民初の軍人・革命家。中国同盟… 胡 景翼(こ けいよく)は、清末民初の軍人・革命家。中国同盟会に属した革命派人士。中華民国が成立した後は、北京政府、直隷派、国民軍の軍人となった。一時は靖国軍として南方政府(護法軍政府)に属したこともある。字は励生、笠僧、立生。号は中山。
許 崇智(きょ すうち)は清末民初の軍人・政治家。主に初期の… 許 崇智(きょ すうち)は清末民初の軍人・政治家。主に初期の中国国民党における有力な軍指揮官であった。字は汝為。祖父と父は福建省で通判をつとめ、一族の許応騤は、清末の閩浙総督である。親族には、堂兄(父方の従兄)で軍人・政治家の許崇灝、堂弟(父方の従弟)で国立中山大学校長などをつとめた教育者の許崇清などがいる。
藍 天蔚(らん てんい)は清末民初の軍人。北洋系に属し、同時… 藍 天蔚(らん てんい)は清末民初の軍人。北洋系に属し、同時に革命派の士官として知られる。字は秀豪。
盧 金山(ろ きんざん)は清末民初の軍人。北洋系の軍人で、後… 盧 金山(ろ きんざん)は清末民初の軍人。北洋系の軍人で、後に北京政府、直隷派に属した。字は貢庭。
香田 清貞 は、昭和前期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍… 香田 清貞 は、昭和前期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。二・二六事件で反乱軍を指揮した青年将校の一人で、軍法会議により死刑判決を受け、処刑された。
和田 勁 は、日本の陸軍軍人。甘粕正彦とともに関東軍外部から… 和田 勁 は、日本の陸軍軍人。甘粕正彦とともに関東軍外部から満州事変に関与したのち、満州国で活動し、満州国陸軍中将、満州国協和会監査部長、東亜連盟同志会代表などを務めた。石原莞爾の片腕といわれていた人物である。
吉見 精(よしみ せい、生年不明 - 1901年1月)は、日… 吉見 精(よしみ せい、生年不明 - 1901年1月)は、日本の陸軍軍人。旧大日本帝国陸軍鉄道大隊の初代大隊長。旧佐倉藩士。千葉県出身。
安田 銕之助 は、大正から昭和にかけての軍人、国家主義者。
久山 多美男 は、日本の海軍軍人(造兵科士官)、応用物理学者… 久山 多美男 は、日本の海軍軍人(造兵科士官)、応用物理学者、音響技術者。防衛大学校名誉教授。理学博士(東京大学)。最終階級は海軍技術大佐。
和田 秀来 は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。正四… 和田 秀来 は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。正四位勲三等功五級。津軽要塞司令官
藤吉 晙 は、日本の海軍軍人。海兵31期、海大甲種14期。最… 藤吉 晙 は、日本の海軍軍人。海兵31期、海大甲種14期。最終階級は海軍中将。福岡県出身。
松本 倭文雄 は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍法務中… 松本 倭文雄 は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍法務中将。福岡県出身。
手塚 省三 は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。満洲国立… 手塚 省三 は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。満洲国立大学哈爾濱学院院長。宮司。
竹田 六吉 は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。福… 竹田 六吉 は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。福岡県出身。
深尾 弘(ふかお ひろし、? - 明治13年〈1880年〉)… 深尾 弘(ふかお ひろし、? - 明治13年〈1880年〉)は、日本海軍軍人。草創期の海軍にあって英国に留学した海軍少尉補である。 陸奥国・会津に生まれた会津藩士である。戊辰戦争の敗戦により斗南に移住したのち、同藩の雪下熊之助とともに海軍生徒兵学校に進む。 在校中に生徒から2名が英国留学を命ぜられたが深尾はその選に入る。ともに選ばれたのは、薩摩藩士・伊集院五郎で、両名の選抜理由は"学業進歩ニ付"である。1877年(明治10年)11月27日、深尾と伊集院は横浜から出帆した。しかし深尾は在英中に病に冒され帰国を考慮する事態となる。一度は全快と判定され伊集院とともに英国太平洋艦隊旗艦「トライアンフ」 (Triumph) に乗組んだが、ほどなく病が再発し帰国。
大河平 才蔵(おこひら さいぞう、生年不明 - 1894年(… 大河平 才蔵(おこひら さいぞう、生年不明 - 1894年(明治27年)5月18日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍大技監。従五位。 1882年(明治15年)東京築地海軍兵器製造所内において、日本初の近代洋式製鋼技術により鋼の生産に成功。鋼の化学分析の創始者。日本の近代洋式製鋼技術の礎を築いた。キリスト教徒。 才蔵は1855年前後、都城(現宮崎県えびの市)で薩摩藩士族・大河平実次の子として生まれた。大河平家は古くは日向国の士族であるが、江戸時代後期には薩摩藩島津家に代々仕え島津家の要職を務めており、才蔵の父は島津家の祐筆であったと言われている。後の海軍元帥東郷平八郎は従兄弟にあたる。東郷は大河平より年長だが、二人は親しく交際し、大河平の人生に少なからず影響を与えた。
沢本 盛弥(さわもと もりや、旧字体: 澤本 盛彌、生没年不… 沢本 盛弥(さわもと もりや、旧字体: 澤本 盛彌、生没年不詳)は、江戸時代末期の武士、日本の陸軍軍人。 盛弥は仮名(通称)、諱(実名)は幸則「ゆきのり」。土佐藩士。 迅衝隊士六番隊銃手として戊辰戦争に従軍。後に大日本帝国陸軍軍人となる。文献によっては沢本守也と表記。北光社の沢本楠弥は同族。 沢本氏(澤本氏)の祖は彦右衛門といい、戦国時代に大津城 (土佐国) 城主天竺孫四郎に仕えていたが、細川氏の庶流天竺氏は長宗我部国親に滅亡させられた。江戸時代になり、4代目藩主山内豊昌から土佐藩に仕えた一族と伝わる。それ以外の一族末裔は全国に拡散した。 土佐国長岡郡介良村出身。 会津戦争の二本松陣営にて、沢本盛弥(以下沢本)を含めた新政府軍の兵士三人が民家で飲酒をしてしまい、軍法違反となった。
風間 馨(かざま かおる、生年不明 - 没年不明)は、日本の… 風間 馨(かざま かおる、生年不明 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中佐、酒田風間氏分家・東美系の一族。
風間 彦五郎(かざま ひこごろう)は、日本の陸軍軍人。最終階… 風間 彦五郎(かざま ひこごろう)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉、酒田風間氏宗家第九代当主。
風間 満季(かざま みつき)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸… 風間 満季(かざま みつき)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐、酒田風間氏宗家第十代当主。旧姓:大村。 陸軍士官学校(30期)卒業、以後歩兵第9連隊にて長年勤務。 山口県立宇部工業学校に配属将校として赴任中、日露戦争で戦死した酒田風間氏第九代当主風間彦五郎の娘・豊と結婚。婿養子として風間家を継承した。 独立守備歩兵第1大隊中隊長を経て、太平洋戦争では南方戦線に赴き、独立混成第27旅団(長:馬淵逸雄少将)隷下の独立歩兵第151大隊長としてスマトラ島にて終戦を迎える。戦後しばらくもバタビヤの治安警備に留まった。
榎本 武揚 は、日本の官僚・海軍軍人。海軍中将正二位勲一等子… 榎本 武揚 は、日本の官僚・海軍軍人。海軍中将正二位勲一等子爵。
原田 輝太郎(はらだ てるたろう)は、日本の軍人。陸軍大佐。… 原田 輝太郎(はらだ てるたろう)は、日本の軍人。陸軍大佐。正五位・勲三等・功三級に至る。
小鷹狩 元凱(こたかり もとよし)は明治時代の軍人、政治家、… 小鷹狩 元凱(こたかり もとよし)は明治時代の軍人、政治家、郷土史家。号は預園、後に弘洲。旧広島藩士。維新後陸軍に出仕して徴兵事務に携わり、大尉まで進むも、薩長による藩閥に反発して立憲改進党に入党し、自由民権運動に携わった。帝国議会開設後、度々衆議院議員総選挙に出馬するも苦戦し、一期務めたのみで引退、晩年は芸備協会での育英事業に専念し、また広島の藩政時代等についての事跡を書き残した。