白仁 宝一(しらに ほういち、1895年(明治28年)2月2… 白仁 宝一(しらに ほういち、1895年(明治28年)2月25日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 佐賀県佐賀郡春日村大字尼寺(大和村、大和町を経て現佐賀市)に生まれる。1927年(昭和2年)3月、早稲田大学法学部を卒業し、1929年(昭和4年)7月、渡台し台湾総督府税関監吏を拝命する。同年10月、高等試験行政科に合格。府税関監視・台北支署兼監視部勤務となり、1930年(昭和5年)11月には高等試験司法科に合格した。1931年(昭和6年)7月、台南州属に転じ、同州勧業課長を経て、1935年(昭和10年)3月、同州北門郡守に就任。その後、台中州勧業課長、新竹州警察部長を経て、陸軍司政官に任じた。
駒井 重次(こまい じゅうじ / しげつぐ、1895年(明治… 駒井 重次(こまい じゅうじ / しげつぐ、1895年(明治28年)2月23日 - 1973年(昭和48年)11月12日)は、日本の大蔵官僚、税理士、公認会計士、政治家。立憲民政党衆議院議員(4期)。 東京市に駒井重格の三男として生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)から第四高等学校を経て、1920年東京帝国大学経済学部商科卒。大蔵省に入り、前橋、亀戸、神田橋各税務署長、銀行検査官などを務め、1932年に退官。同年の第18回衆議院議員総選挙で初当選し、以来4回当選した。戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年と1953年の総選挙で改進党公認で東京1区から立候補したが、いずれも落選した。
武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7… 武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7日 - 1966年(昭和41年)8月16日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。地理調査所長を経て初代国土地理院長を務めた。 埼玉県本庄市出身。1915年(大正4年)旧制埼玉県立熊谷中学校卒業後、第八高等学校から大学予科第二部乙類を経て1922年(大正11年)3月31日東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同年9月11日山形高等学校教授に任官(高等官七等)。陸軍工兵曹長を経て、1925年(大正14年)5月18日陸地測量師に任官し陸地測量部付となる。1926年(大正15年)3月31日陸軍工兵少尉に昇進し、1930年(昭和5年)4月1日後備役編入となる。
遠山 信一郎(とおやま しんいちろう、1895年2月1日 -… 遠山 信一郎(とおやま しんいちろう、1895年2月1日 - 1979年6月14日)は、日本の内務官僚。 千葉県印旛郡八街村(現・八街市)生まれ。第四高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治科卒業。 1920年 内務省に入省。長野県配属。1931年 静岡県内務部地方課長。1932年3月 富山県学務部長。学務部長という職にありながら農村報徳運動の普及に力をそそぎ、飛行場建設にも幹事長として重要な役割を果たし、影のプロモーターといわれた。富山県新興報徳社など各地の報徳社の設置にも携わる。1935年1月18日 埼玉県経済部長。なお、1936年2月26日から1941年2月27日まで大日本報徳社の参事を兼ねており、1936年12月26日に設立された報徳経済学研究会では実行委員を務めていた。
三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日… 三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日 - 1948年(昭和23年)12月15日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事。 神奈川県津久井郡三ケ木村(現・相模原市緑区)出身。明治書院創業者・三樹一平の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、岡山県理事官、長野県理事官、臨時震災救護事務局事務官、復興局経理部会計課長、内務書記官、大臣官房会計課長、滋賀県書記官・内務部長、群馬県書記官・総務部長、兵庫県書記官・総務部長、大阪府総務部長などを歴任。 1937年2月、島根県知事に就任。
山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)… 山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)1月5日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。第三高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。朝鮮総督府試補、事務官、京畿道地方課長、同審査課長、咸鏡南道財務部長、全羅南道財務部長、専売局庶務課長、同製造課長、殖産局商工課長、農林局農産課長、総督官房審議室勤務を歴任。1938年(昭和13年)、慶尚南道知事に就任し、さらに農林局長に転じた。 1942年(昭和17年)に退官した後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮鉱業振興株式会社理事、朝鮮電業株式会社監事を務めた。
大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日… 大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市長。 佐賀県佐賀市寺町(現・佐賀市唐人)に生まれる。1914年(大正3年)3月に佐賀県立佐賀中学校を卒業後に渡台し、新竹庁財務課に奉職。 ついで新竹州官房税務課、桃園税務出張所州税係長、台北州税務課州税係長、府財務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月に地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に就任した。のち1939年(昭和14年)7月、台中州大甲郡守を経て、1941年(昭和16年)1月に彰化市長に就任した。
下飯坂 元(しもいいざか はじめ、1895年〈明治28年〉1… 下飯坂 元(しもいいざか はじめ、1895年〈明治28年〉1月 - 1959年〈昭和34年〉11月23日)は、朝鮮総督府官僚。岩手県水沢町長。父は衆議院議員を務めた下飯坂権三郎。 岩手県胆沢郡水沢町(現在の奥州市)出身。1919年(大正8年)、中央大学専門部法科を卒業。1922年(大正11年)、朝鮮総督府専売局雇となる。1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、警視、理事官・京畿道地方課長、事務官・忠清南道財務部長、江原道警察部長、咸鏡北道警察部長、全羅南道内務部長、農林局米穀課長、同糧政課長を歴任。1942年(昭和17年)、平安南道知事に就任した。1944年(昭和19年)に退官した。
青山 勝一(あおやま かついち、1895年 - 1977年)… 青山 勝一(あおやま かついち、1895年 - 1977年)は、日本の内務官僚、政治家。 島田大井川農業水利事業所事務官、静岡県小笠郡菊川町長などを歴任した。 1895年、静岡県城東郡(のちの小笠郡)六郷村にて生まれた。上京して東京帝国大学に入学して農学を学び、1920年に卒業した。当時の東京帝国大学は分科大学制から学部制に移行する端境期であり、卒業する一年前の1919年には東京帝国大学の農科大学が農学部に改組されている。 大学卒業後は、内務省に入省する。内務省では地方小作官を経て、のちに農地開発営団主事を務めるなど、主として農政分野に携わった。太平洋戦争終結後は農林省にて農林技官を務め、島田大井川農業水利事業所事務官などを歴任した。
何 庭流(か ていりゅう、1895年 – 没年不明)は、中華… 何 庭流(か ていりゅう、1895年 – 没年不明)は、中華民国の官僚。なお、何庭鎏表記もある。白堅武らと共に日本の特務機関と連携し、華北で攪乱工作を展開した人物である。親日政権の中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)にも参加した。 第一高等学校予科、第六高等学校を経て、 1924年(大正13年)4月に東京帝国大学経済学部を卒業、経済学士を取得した。留学中から親日派留学生グループの指導者と目されている。また、クリスチャンとして神田区の東京YMCAで事務にあたり、安部磯雄や賀川豊彦に師事したとされる。 帰国後は、まず呉佩孚の軍で外交科長に任命され、更に斉燮元の軍で参議となっている。済南事件に際しては、親日派と見なされて蔣介石軍から逮捕状を発せられたという。
張 心沛(ちょう しんぱい、1895年 – 没年不明)は、中… 張 心沛(ちょう しんぱい、1895年 – 没年不明)は、中華民国の教育官僚・哲学者。字は犀海。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の教育部門で要職をつとめた。また、汪兆銘政権最末期に北京大学図書館館長となる。 青年時代に日本へ留学している。1920年(民国9年/大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科に入学し、1924年(民国13年/大正13年)3月卒業、工学士の称号を取得した。同年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、少なくとも同年中は在学している。帰国後は国立北平大学女子文理学院教授、国立北京大学文学院講師、私立中法大学文学分院哲学系主任を歴任し、また、長く私立中国学院哲教系講師を兼ねた。
山田 武雄(やまだ たけお、1895年(明治28年) - 1… 山田 武雄(やまだ たけお、1895年(明治28年) - 1987年(昭和62年)3月7日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事。 兵庫県出身。第六高等学校を卒業。1922年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、東京府総務部庶務課長、山形県書記官・学務部長、富山県書記官・警察部長、石川県書記官・警察部長、新潟県書記官・経済部長、群馬県書記官・総務部長などを歴任。1941年1月、愛知県書記官・総務部長に就任。 1943年8月、島根県知事に就任し終戦を迎えた。1945年8月24日未明、松江騒擾事件が発生し、県庁が焼き討ちされたが暗殺を免れた。
林 信夫(はやし のぶお、1894年(明治27年)12月24… 林 信夫(はやし のぶお、1894年(明治27年)12月24日 - 1972年(昭和47年)11月16日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 和歌山出身。林治の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1919年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、兵庫県印南郡長、長崎県理事官、埼玉県参事官、山形県書記官・学務部長、青森県書記官・警察部長、警視庁書記官・保安部長、岡山県書記官・総務部長、東京府書記官・総務部長などを歴任。 1937年1月、茨城県知事に就任。県民の負担増の抑制のため財政の立て直しと、緊急事業の実施に尽力。
成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月… 成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。兵庫県知事(官選第28代)、石川県知事(官選第36代)、台湾総督府総務長官、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。成田喜十郎の長男として生まれる。広島高等師範学校を経て、1920年(大正9年)、京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、埼玉県属となる。埼玉県児玉郡長、警視庁警視、内務省社会局事務官、社会局労働部労務課長、同庶務課長、資源局事務官などを歴任。 1936年(昭和11年)、内務書記官兼内務大臣秘書官となり、大臣官房人事課長、社会局労働部長、厚生省労働局長などを務める。
森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12… 森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12月17日 - 1956年(昭和31年)6月9日)は、大正から昭和前期の法制官僚、政治家、弁護士。貴族院勅選議員、法制局長官。 現在の三重県桑名市で、伊藤伊右衛門の三男として生まれ、森山兵介の養子となる。1914年(大正3年)7月、第八高等学校一部丙を首席で卒業。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、同月、内務省に入り内務属・土木局工営課に配属された。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科試験に合格。 その後、兼警察講習所教授、埼玉県視学官、帝都復興院計画局制度課、復興局事務官・長官官房計画課などを歴任。
小河 正儀(おがわ まさのり、1894年〈明治27年〉12月… 小河 正儀(おがわ まさのり、1894年〈明治27年〉12月2日 - 1977年〈昭和52年〉1月7日)は、日本の内務・警察・拓務官僚、弁護士。官選県知事、樺太庁長官、海軍司政長官。 山口県山口町今道町(現山口市)出身。第五高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し和歌山県属となる。 以後、内務属・警保局図書課勤務、静岡県警視、関東庁事務官兼同参事官、関東庁警視、朝鮮総督府秘書官、同事務官・殖産農務課長、拓務省書記官・朝鮮部第一課長、台湾総督府事務官、拓務省大臣官房会計課長などを歴任。 1936年10月、青森県知事に就任。腸チフス流行への対処などを行う。
東谷 傳次郎(伝次郎、とうたに でんじろう、1894年〈明治… 東谷 傳次郎(伝次郎、とうたに でんじろう、1894年〈明治27年〉12月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月15日)は、大正・昭和期の官僚。会計検査院長を務めた。位階は従三位。 広島県安佐郡福木村(現広島市東区)で農業・東谷保五郎の三男として生まれた。専検に合格し旧制第四高等学校を卒業。1921年(大正10年)4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。1922年(大正11年)2月、会計検査院に入院し同書記に任官、第三部第三課に配属された。 以後、官房総務科長、第四部第一課長、第二部第三課長、第一部第一課長、第三部第三課長などを歴任。 1942年(昭和17年)5月、南方軍司令部附に発令。
安達 勝清(あだち かつきよ、1894年〈明治27年〉12月… 安達 勝清(あだち かつきよ、1894年〈明治27年〉12月 - 1965年〈昭和40年〉1月)は、昭和時代の司法官僚。検察官。弁護士。陸軍司政長官。 正井儀之丞の二男として島根県に生まれ、同県安達駿三郎の養子となる。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部英法科を卒業し、神戸大阪各地方裁判所検事、大阪保護観察所補導官、司法書記官・行刑局第一第二各課長を経て、1942年(昭和17年)7月、陸軍司政長官に就任した。 戦後は和歌山県弁護士会会長を歴任した。
上原 六郎(うえはら ろくろう、1894年〈明治27年〉11… 上原 六郎(うえはら ろくろう、1894年〈明治27年〉11月30日 - 1964年〈昭和39年〉2月3日)は、日本の地方官僚、政治家。北海道札幌市長、札幌観光協会長。位階は正四位。勲三等瑞宝章受章。 実家は札幌郡平岸村(現・札幌市豊平区平岸)のりんご農家。北海道庁属から内務省へ出向し、日本大学法科に学んだ。1920年(大正9年)卒業。帝都復興院事務官となり、主計課長、理事等を歴任。1937年(昭和12年)、東京市収入役となり、その後、1939年(昭和14年)に同市市民局長、1940年(昭和15年)に総務局長を歴任した。1945年(昭和20年)8月14日、札幌市長に就任。1946年(昭和21年)11月12日、札幌市長を退任した。
近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日… 近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日 - 1977年8月15日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 長野県埴科郡屋代町(現:千曲市屋代)において、農業・旅館業、近藤万五郎・たか夫妻の長男として生まれる。4歳で母と死別。県立長野中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格。1920年(大正9年)8月、内務省に入り鳥取県属となり内務部に配属。以後、鳥取県警視・警察部勤務、奈良県警察部保安課長、青森県警察部保安課長、北海道庁土木部土地改良課長を歴任。北海道庁在任中の1927年(昭和2年)6月、文官分限令第11条第1項第4号により休職を命ぜられ帰郷した(逸話を参照)。
大金 益次郎(おおがね ますじろう、1894年〈明治27年〉… 大金 益次郎(おおがね ますじろう、1894年〈明治27年〉10月28日 - 1979年〈昭和54年〉3月11日)は、昭和期の日本の官僚。 栃木県出身。大田原中学、二高を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。 大阪府保安課長・京都府地方課長などを経て、1927年(昭和2年)宮内省に移る。宮内大臣秘書官・侍従・総務局長などを歴任した後、1945年(昭和20年)宮内次官。翌1946年(昭和21年)戦後初の侍従長に就任。昭和天皇の信任厚く、神奈川県を皮切りに始まった全国巡幸では、宮内大臣の松平慶民・宮内次官の加藤進とともに、巡幸の企画・立案・随行の中心人物として活躍した。
稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治… 稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治27年)10月19日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設事務次官、参議院議員。 三重県に生まれる。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省神戸土木出張所に入り、神戸高等工業学校講師を兼任する。1935年(昭和10年)大阪府土木部河港課長に転じ、前年の室戸台風の災害復旧として河川の防潮工事などを進めた。1942年(昭和17年)青島埠頭常務取締役に就任し、青島港の整備に当たり、終戦を迎えると兵庫県土木部長、建設技監を経て、1952年(昭和27年)建設事務次官に就任した。
平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月1… 平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月16日)は、日本の農商務・農林官僚。内務官僚・平岡定太郎の長男。作家・三島由紀夫の父。少年時代の三島の執筆活動に大反対し、あえて悪役を買って出たことで、三島の反骨精神を目覚めさせて作家としての成長を間接的に助けた。息子・三島の死後は、その毒舌的なシニカルさや、ブラック・ユーモアの入り交ざった回想録『伜・三島由紀夫』を著し、貴重な三島資料を残したことで知られる。 1894年(明治27年)10月12日、東京府東京市赤坂区の日枝神社参道入口付近の家で、父・平岡定太郎(内務官僚)と母・永井なつ(東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女)との間の長男として誕生。
佐々木 芳遠(ささき よしお / よしとお、1894年(明治… 佐々木 芳遠(ささき よしお / よしとお、1894年(明治27年)10月 - 1949年(昭和24年)10月20日)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選県知事。 宮城県出身。佐々木茂三郎の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、岐阜県加茂郡長、徳島県理事官、神奈川県警視、復興局事務官、岩手県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、東京府書記官・経済部長、同総務部長などを歴任。 1938年6月、秋田県知事に就任。戦時下の体制整備、田沢疏水開墾事業、秋田飛行場建設工事などを推進。
後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月3… 後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月30日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。住宅営団理事。 愛知県出身。1919年(大正8年)、高等試験に合格し、翌年に京都帝国大学法学部英法科を卒業した。千葉県属、同警視、和歌山県理事官、同事務官、新潟県事務官、石川県書記官・学務部長、北海道庁学務部長、佐賀県書記官・警察部長を歴任。1939年(昭和14年)より三重県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長、北海道庁総務部長を務めた。 1941年(昭和16年)に退官した後は、住宅営団理事・大阪支所長となった。 戦後は京都市助役を務めた。
山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16… 山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚、政治家。内務三役(警保局長、警視総監、内務次官)を経て政界入りし、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任した。正三位。勲一等。農林大臣・逓信大臣の山崎達之輔は実兄。 福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。
中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8… 中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8月24日 - 没年不明)は、日本の内務・警察官僚。弁護士。官選県知事。旧姓・住田。 滋賀県出身。第三高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し大阪府属兼大阪府警部となる。 以後、島根県書記官・学務部長、群馬県書記官・警察部長、福井県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、内務書記官兼警察講習所教授、警保局警務課長、神奈川県書記官・総務部長、内務省土木局河川課長などを歴任。 1937年11月、福井県知事に就任。戦時体制の整備、結核撲滅に尽力。1939年4月、内務省神社局長兼造神宮副使に転じた。
藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月… 藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月19日 - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 奈良県宇智郡北宇智村近内(現在の五條市)出身。北宇智村長・藤岡長二郎の三男として生まれる。奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。 1920年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、警視庁警視、広島県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、東京府総務部長、警視庁警務部長などを歴任。 1938年2月、香川県知事に就任。
石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8… 石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の逓信官僚、政治家。朝鮮総督府逓信局長、愛知県議会議員(5期)、朝鮮石炭株式会社社長などを歴任した。 愛知県丹羽郡犬山町(現在の犬山市)出身。1914年(大正3年)、逓信官吏練習所を卒業し、通信書記補、逓信属を務めた。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格し、翌年に朝鮮総督府属となった。同理事官、平安北道地方課長、同秘書課長、林野調査委員会事務官、江原道警察部長、平安南道警察部長、慶尚南道警察部長、殖産局鉱山課長を歴任。1938年(昭和13年)、平安南道知事に就任し、さらに厚生局長を経て、1942年(昭和17年)に逓信局長となった。
工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 -… 工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 - 1977年10月13日)は、日本の官僚、実業家。日本興業銀行大阪支店長、大蔵省物価部長、復興金融金庫理事長、東京都民銀行頭取、経済同友会代表幹事などをつとめた。従三位勲一等瑞宝章。 1894年 徳島県 徳島市に生まれる。旧制徳島中学校、 第六高等学校を経て1921年に東京帝国大学法学部卒業。卒業後、日本興業銀行に入行、参事、調査部長、融資第四部長と昇進し、終戦時は大阪支店長であった。 1945年 大蔵省物価部長に転じ、翌年2月16日から相次いで実施された預金封鎖、財産税徴収、国家補償の全面打ち切り、米の強制供出、隠退蔵物資の強制買い上げ、失業対策など一連の非常措置の実施を主となって行い、成果を上げた。
白松 篤樹(しらまつ あつき、1894年(明治27年)7月2… 白松 篤樹(しらまつ あつき、1894年(明治27年)7月21日 - 1941年(昭和16年)7月9日)は、日本の内務官僚。官選大分県知事。旧名・喜久代、1932年6月に「篤樹」と改名。 静岡県出身。白松六治郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属となる。 1920年11月、大分県理事官・内務部地方課長に就任。以後、大阪府理事官、臨時震災救護事務局事務官、大阪府地方事務官、復興局事務官・整地部施業課勤務、同局書記官・経理部会計課長、内務事務官兼同書記官、警保局図書課長、衛生局医務課長、大臣官房都市計画課長を歴任。
東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 … 東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 - 1947年(昭和22年)1月9日)は、日本の商工官僚。実業家。 鹿児島県出身。旧制郁文館中学、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学経済学部を卒業、同年に高等試験に合格。農商務属、農商務省統計官、農商務事務官、商工省統計官、商工事務官、特許局事務官・登録課長、商工書記官・通報課長、臨時産業合理局事務官・大臣大臣官房会計課長、東京鉱山監督局長、商工省商務局長、同鉱山局長を歴任。1937年(昭和12年)、企画院産業部長となり、さらに商工省工務局長・臨時物資調整局事務官、同総務局長・機械試験所長事務取扱、燃料局長官を歴任した。
北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2… 北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2日 ‐ 1989年(平成元年)6月7日)は、日本の労働官僚・経済学者。國學院大學名誉教授。北岡伸一の大叔父。 奈良県吉野町出身。旧制第一高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学政治科卒業。農商務省に入省し、内務省の外局として社会局が設置されると同事務官に就任した。1929年(昭和4年)社会局労働部監督課長、1936年(昭和11年)国際労働機関(ILO)事務所長などを歴任。1939年(昭和14年)に退官すると同時に、東京帝国大学経済学部教授に着任する。1941年(昭和16年)には住宅営団研究部長・理事に就任する。 戦後は1946年(昭和21年)経済安定本部第4部長を皮切りに、1948年(昭和23年)東宝取締役に就任。
藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975… 藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975年3月18日)は、大正、昭和期の逓信官僚。電源開発総裁。位階は従三位。広島県深安郡山野村(現福山市山野町)出身。 広島県立福山中学(現福山誠之館高校)、旧制第三高等学校を経て1921年、京都帝国大学法学部法律科卒業。逓信省入省。1927年札幌逓信局規画課長、1932年郵務局規画課長。この時期を通して郵便配達方法の改善に着目、郵便戸番制の採用など独創的な方策を樹立し、これらは後に新住居制度や郵便番号制度の普及に役立ったとされる。満州事変から1か月半後の1933年4月、満洲電信電話設立の要務を帯びて関東庁逓信局長に任命され大連に赴任。旧満州国の電力サイクルの統一等に尽力。
沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月2… 沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月24日 - 1979年(昭和54年)5月9日)は、大正から昭和時代の土木工学者、鉄道官僚。 鳥取県に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道院総裁官房研究所に入る。同研究所および鉄道省教習所の講師を務めたのち、1926年(大正15年)同省神戸改良事務所に転じ、1928年(昭和3年)から2年間、在外研究員として欧米へ留学した。1933年(昭和8年)鉄道大臣官房研究所に戻り、第四科長、1942年(昭和17年)鉄道技術研究所第二部長兼東京帝国大学第二工学部教授、1945年(昭和20年)鉄道技術研究所長を歴任し、同年退官した。
郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月… 郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月23日 - 1987年(昭和62年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選長野県知事、海軍司政長官。旧姓・山本。 石川県金沢市出身。山本久房の二男として生まれ、郡山富次郎の養子となる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し長野県属となる。 以後、長野県警部、同警視、佐賀県書記官・警察部長、鹿児島県書記官・警察部長、岡山県書記官・経済部長、福岡県経済部長、岐阜県総務部長、大阪府書記官・学務部長、内務書記官などを歴任。1941年6月から1943年1月まで海軍司政長官・海南島海軍特務部経済局長を務めた。
谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月1… 谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月18日 - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本銀行副総裁。
荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 198… 荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 1984年2月5日)は、日本の内務官僚。県知事、台湾総督府警務局長。 兵庫県出身。荒木矩の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1919年京都帝国大学法学部法律学科卒業。伊藤忠に入り、1921年、内務省特殊財産管理局嘱託となる。1922年11月、高等試験行政科試験に合格し内務属となる。 以後、福井県警視、鹿児島県・福井県の各地方事務官、三重県工場監督官、山梨県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、大阪府書記官・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。 1939年9月、徳島県知事に就任。1940年12月に退任し、台湾総督府に転じ警務局長となる。
相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14… 相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、戦前日本の大蔵官僚。日本銀行理事・監事、日本出版販売会社社長。 山形県出身。特定郵便局長相田広吉の二男として生まれた。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。大蔵省に入省し大蔵属に任官し銀行局に配属された。 以後、財務書記・米国駐在、司税官・千葉税務署長、幸橋税務署長、大蔵事務官・銀行局配属、銀行検査官などを歴任。帝人事件で検挙され1934年(昭和9年)5月に休職したが、冤罪事件のため1937年(昭和12年)12月に無罪判決を受けて復職。
森部 隆(もりべ たかし、1894年(明治27年)5月27日… 森部 隆(もりべ たかし、1894年(明治27年)5月27日 - 1965年(昭和40年)4月10日)は、日本の内務・台湾総督府官僚、弁護士。官選島根県知事。 福岡県出身。森部隆三の四男として生まれる。第五高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。東洋拓殖株式会社を経て、内務省に入省し社会局に配属された。 以後、岩手県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、社会局書記官・労働部労政課長、ジュネーヴ国際労働会議政府代表顧問(1936年出張)、愛知県総務部長などを歴任。 1939年4月、島根県知事に就任。山林造林計画の策定、干ばつへの対策などに尽力。
山内 逸造(やまうち いつぞう、1894年(明治27年)5月… 山内 逸造(やまうち いつぞう、1894年(明治27年)5月21日 - 1979年(昭和54年)2月14日)は、日本の内務・警察官僚。官選奈良県知事。従四位。勲三等瑞宝章。 岐阜県出身。山内謙次郎の息子として生まれる。1922年、京都帝国大学法学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、三重県警視・地方事務官、福島県・埼玉県各勤務、島根県書記官・警察部長、秋田県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、内務事務官、東京府総務部長、内務省計画局都市計画課長、内閣総理大臣秘書官などを歴任した。 1940年11月、奈良県知事に就任。
竹内 新平(たけうち しんぺい、1894年5月7日 - 19… 竹内 新平(たけうち しんぺい、1894年5月7日 - 1945年4月1日)は、大正・昭和期の大蔵官僚。 静岡県相良町(現牧之原市)出身。東京帝国大学法学部独法科卒業後、大蔵省に入省し、主税局勤務を振り出しに長野税務署長、高崎税務署長、大阪北税務署長などを歴任。阿波丸事件で遭難死した。
留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 19… 留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 1981年5月3日)は、日本の内務官僚、実業家。官選秋田県知事、警視総監、北海道庁長官。 岡山県高梁市出身。社会事業家・牧師、留岡幸助の三男として生まれる。早稲田中学、第二高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、兵庫県属となり内務部地方課に配属。以後、兵庫県加東郡長、石川県理事官兼警察部工場課長、同県視学官、京都府内務部庶務課長、栃木県書記官・学務部長、香川県書記官・警察部長、千葉県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁部長・総務部長などを歴任。
藤野 恵(ふじの めぐむ、1894年(明治27年)4月16日… 藤野 恵(ふじの めぐむ、1894年(明治27年)4月16日 - 1949年(昭和24年)10月9日)は、日本の内務・文部官僚。官選県知事、文部次官。 広島県出身。藤野玖三の四男として生まれる。広島県立福山中学校、第六高等学校を卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 1920年10月、群馬県多野郡長に就任。以後、静岡県理事官・内務部社会課長兼調査課長、臨時震災救護事務局事務官、内務省社会局事務官、兼社会局書記官・社会部福利課長、同部保護課長などを歴任。 1935年1月、香川県知事に就任。 1936年6月、文部省実業学務局長に転じ、さらに同普通学務局長を務めた。
上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29… 上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 福岡県三井郡味坂村(現在の小郡市)出身。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。朝鮮総督府試補、同事務官を経て、1924年(大正13年)に全羅北道財務部長となった。1926年(大正15年)からは専売局庶務課長、同製造課長、同事業課長、殖産局鉱山課長・同商工奨励館長を歴任し、1930年(昭和5年)に欧米に出張した。帰国後、総督官房人事課長・中枢院書記官、鉄道局理事、官房審議室事務官を歴任した。1936年(昭和11年)に慶尚北道知事となり、内務局長を経て、1941年(昭和16年)11月に殖産局長に就任した。
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)… 植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 - 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。 経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。 東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。父の仕事の関係で、幼少期を札幌で過ごす。札幌区創成尋常小学校、慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月… 土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月11日 - 1976年(昭和51年)4月1日)は、日本の内務官僚。官選県知事、東京新聞副社長。旧姓・三宅。 和歌山県出身。三宅進一郎の二男として生まれ、1916年に土岐嘉平の養子となる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、東京府属、内務属、栃木県河内郡長、岐阜県理事官、東京府理事官、帝都復興院事務官、静岡県学務部長、愛知県書記官・学務部長、三重県書記官・警察部長、復興局書記官、復興事務局書記官、山梨県書記官、山形県書記官・内務部長、大阪府部長・総務部長などを歴任。
米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月… 米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月6日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 神奈川県愛甲郡林村(現・厚木市林)に生まれる。 1914年(大正3年)3月、奈良県丹波市町(現・天理市)の私立天理中学校を卒業し、1919年(大正8年)9月に台湾総督府に奉職する。高雄州属、府属を経て、1939年(昭和14年)3月、地方理事官に進み、高雄州旗山郡守に就任した。
島田 昌勢(しまだ しょうせい、1894年〈明治27年〉2月… 島田 昌勢(しまだ しょうせい、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1975年〈昭和50年〉1月2日)は、日本の拓務官僚。台湾総督府官僚。弁護士。 高知県安芸郡室戸村(現在の室戸市)出身。第三高等学校を卒業。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、同年10月高等試験行政科に合格した。新潟県工場監督官補・新潟県属、同警視、鳥取県理事官、内閣書記官・内閣官房記録課長、拓務省書記官・拓務局第一課長、同奨励課長、同南洋課長を歴任。1936年(昭和11年)、台湾総督府文教局長に転じた。 1940年(昭和15年)に退官した後は、南洋拓殖株式会社理事・管理部長に就任した。戦後に公職追放となった。
安倍 源基(あべ げんき、1894年〈明治27年〉2月14日… 安倍 源基(あべ げんき、1894年〈明治27年〉2月14日 - 1989年〈平成元年〉10月6日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。山口県出身。 1894年(明治27年)、山口県熊毛郡曾根村(現平生町)に生まれた。山口県士族安倍半次郎の長男。 山口県立山口中学校、山口県立徳山中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部入学。 1920年、東京帝国大学法学部法律学科卒業、内務省入省(警保局配属)。 1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党スパイ査問事件を通じて「赤狩り安倍」の名 が付いた。安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多)、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。