小平 邦彦(こだいら くにひこ、1915年〈大正4年〉3月1… 小平 邦彦(こだいら くにひこ、1915年〈大正4年〉3月16日 - 1997年〈平成9年〉7月26日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。学位は理学博士(東京大学・1949年)。 東京帝国大学理学部数学科卒。同大学で博士号取得。日本人初のフィールズ賞およびウルフ賞受賞者となった。 農政官僚だった小平権一の長男として東京に生まれる。東京府立第五中学(現:東京都立小石川中等教育学校)、第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学理学部数学科および物理学科卒。東京大学理学博士(1949年)。 フィールズ賞を1954年に日本人として初めて受賞(調和積分論、二次元代数多様体(代数曲面)の分類などによる)。
小松 勇作(こまつ ゆうさく、1914年1月2日 - 200… 小松 勇作(こまつ ゆうさく、1914年1月2日 - 2004年7月30日)は、日本の数学者。 石川県金沢市出身。旧制金沢医科大学、東京帝国大学理学部数学科卒業。東京工業大学教授、のち名誉教授。医学博士、理学博士。 はじめ旧制金沢医大にて学び、のち東大数学科に転じる。数学では等角写像論などの研究が名高い。 多くの優れた数学書を執筆し、百科事典の数学項目においても、小松による執筆のものが数多く見られる。 小松は数学者の矢野健太郎の義弟にあたる。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
福田 治郎(ふくた じろう、1913年10月 - 2005年… 福田 治郎(ふくた じろう、1913年10月 - 2005年6月19日)は、日本の数学者(幾何学)。岐阜大学名誉教授。従四位勲三等旭日中綬章。岐阜県出身。 その他、数学学会誌Mathematicsなどへの投稿多数
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
吉田 徳之助(よしだ とくのすけ、1913年7月25日 - … 吉田 徳之助(よしだ とくのすけ、1913年7月25日 - 2010年2月10日)は、日本の数学者。教育者。 1913年(大正2年)京都府に生まれる。1933年(昭和8年)京都師範学校、1936年(昭和11年)東京高等師範学校を卒業後、東京文理科大学数学科に入学。1939年(昭和14年)に卒業後、東京高等師範学校講師を務める。第二次世界大戦中は岡村博を責任者とした航空力学の研究にも携わった。 1945年(昭和20年)京都工業専門学校教授、1952年(昭和27年)京都工芸繊維大学教授、後に大阪工業大学教授を経て1978年(昭和53年)京都工芸繊維大学学長に就任。 兄の吉田梅次郎は、半導体工学の第一人者として芝浦工業大学教授などを務めた。
占部 実(うらべ みのる、1912年12月2日 - 1975… 占部 実(うらべ みのる、1912年12月2日 - 1975年9月4日) は、日本の数学者。専門は数値解析。(簡易) ニュートン法に対する収束定理・誤差評価や非線形微分方程式に対する占部-Galerkin法などの業績がある。 福岡県出身。1940年に広島文理科大学卒業、同大学の助手・講師・助教授を経て、1952年に教授に就任。1953年「不動点をもつ正則変換」により理学博士の学位を取得。1963年、九州大学に転任。1966年、京都大学数理解析研究所教授に就任。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 196… 中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 1964年6月5日)は、日本の数学者(環論・表現論)。名古屋大学教授在職中に逝去。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学を卒業。1937年から2年間、プリンストン高等研究所に滞在。1941年、大阪帝国大学より博士号を取得。1944年、名古屋大学教授。1954年に日本学士院賞を受賞。1963年日本学士院会員。名古屋数学雑誌(NAGOYA MATHEMATICAL JOURNAL)の創刊、編集に尽力した。代数学における中山の補題で有名。1964年に結核のため死去。晩年、理学部A館4階の研究室まであえぎつつ階段を昇る博士のために置かれたという「中山先生の椅子」の話はいまでも語り継がれている。
桂田 芳枝(かつらだ よしえ、1911年〈明治44年〉9月3… 桂田 芳枝(かつらだ よしえ、1911年〈明治44年〉9月3日 - 1980年〈昭和55年〉5月10日)は、日本の数学者。数学の分野で日本初の女性博士号取得者であり、北海道大学(旧北海道帝国大学)で最初の女性教授、女性名誉教授である。日本国外でも、スイスの数学者であるハインツ・ホップ(英語版)との共同研究「リーマン空間の閉曲面の合同定理」で、高い評価を受けた。 1911年(明治44年)、北海道余市郡赤井川村で誕生した。父は余市郡余市町の小学校の校長であり、「子供は大きな夢を持ってのびのびと育つべき」という、当時としては先進的な考えの持ち主だった。芳枝は北海道の大自然を駆け回って育つ一方、学校では算術に夢中になった。
角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月2… 角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月28日 - 2004年(平成16年)8月17日 )は、日本の数学者。イェール大学名誉教授。娘は日系アメリカ人文芸批評家のミチコ・カクタニ(角谷美智子)。関数解析や確率論の研究で著名。 大阪市生まれ。旧制甲南高等学校文科を経て、1934年東北帝国大学理学部数学科卒業。大阪帝国大学助教授、1940年、アメリカのプリンストン高等研究所に留学。太平洋戦争中も同研究所で研究を続けるが、1942年に母親の意志を受けて帰国。1948年、再びプリンストン高等研究所に戻る。1949年イェール大学准教授、1952年同教授。1982年、定年退職。 コネティカット州ニューヘブンにて死去。
亀谷俊司(かめたに しゅんじ、1910年7月11日 - 20… 亀谷俊司(かめたに しゅんじ、1910年7月11日 - 2010年4月2日)は、日本の数学者。 東京に生れる。1936年東京帝国大学理学部卒業。45年「ハウスドルフ測度と一般化された容量に就いて其の函数論への応用二,三」で理学博士。多賀高等工業學校教授、東京女子高等師範学校教授、1949年お茶の水女子大学助教授、教授、1976年定年退官、名誉教授。99歳で没、没後正四位。
佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年… 佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年不明)は、日本の数学者。信州大学名誉教授。専門は微分積分学。 長野県東筑摩郡塩尻町(現・塩尻市)出身。旧制松本第二中学(現・長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1932年(昭和7年)東北帝国大学卒業。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)教諭を経て1938年(昭和13年)京城高等工業学校教授。1944年海軍兵学校教官。1946年松本高等学校教授、1950年信州大学文理学部助教授、1966年理学部教授を務めた後、1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授。 佐倉の名「直男」は「ただお」ではなく「なおお」と読む。彼の教え子の一人で、信州大学文理学部最後の入学生でもある猪岐(いのまた)英夫は、信州大学理学部同窓会報の中で佐倉の想い出をこう記している。
北川 敏男(きたがわ としお、1909年10月3日 - 19… 北川 敏男(きたがわ としお、1909年10月3日 - 1993年3月13日)は、日本の統計数学者、情報科学者。 推測統計学、品質管理で顕著な業績を上げた。また、「情報学」、「情報科学」を提唱し、『制御』『栄存』『創造』の三座標軸を提案した。 大阪帝国大学助教授、九州大学教授、同理学部長、富士通国際情報社会科学研究所所長、日本学術会議会員、日本情報処理学会会長を歴任。理学博士。 北海道小樽市出身。1934年東京帝国大学理学部数学科卒。大阪帝国大学講師を経て、1939年九州帝国大学助教授。1943年九州帝国大学教授。1963年附属図書館長、1965年基礎情報科学研究施設長。1968年理学部長、1973年退官。
遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 197… 遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 1979年9月11日)は、熊本県下益城郡(現・宇城市)出身の日本の数学者。数学教育の分野でよく知られる。
小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993… 小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993年6月11日)は、日本の数学者。 東京府生まれ、長野県育ち。父は教育者の小松武平、兄は哲学者の小松摂郎。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)卒、旧制松本高等学校(現:信州大学人文学部・理学部)卒、1932年東京帝国大学理学部数学科卒、1941年「複体の変換論」で大阪帝大理学博士。大阪帝国大学助教授をへて、京都大学理学部教授、1973年定年退官、名誉教授となる。専門は位相幾何学。
淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - … 淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - 1986年10月25日)は、日本の数学者。専門は代数学。 愛媛県松山市生まれ。東北帝国大学卒。1945年東北帝国大学教授、後に東北学院大学教授を務めた。ポントリャーギン双対性をコンパクト群へ拡張した淡中-クラインの双対定理で著名。 この定理はグロタンディークによる淡中圏の概念へと発展した。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、「数学雑談」という連載記事の執筆を1960年(昭和35年)から晩年まで担当していた。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 200… 稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 2006年1月6日)は、日本の数学者。専門は微分幾何学。第10代東海大学学長、第3代国際武道大学学長を務める。熊本県熊本市出身。 東海大学水泳部初代主将 東海大学付属本田記念幼稚園、第3代園長も務めた。東海大学名誉教授、理事。1987年、勲二等瑞宝章受章。
穂刈 四三二(ほかり しさんじ、1908年3月28日 - 2… 穂刈 四三二(ほかり しさんじ、1908年3月28日 - 2004年1月2日)は、日本の数学者。旧・東京都立大学名誉教授、元城西大学学長 元中央ゼミナール校長 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
本部 均(ほんぶ ひとし、1908年1月22日 - 2005… 本部 均(ほんぶ ひとし、1908年1月22日 - 2005年5月9日)は、日本の数学者。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。専攻は微分幾何学。多数の学習参考書、受験参考書の執筆、編著でも知られる。 石川県出身。第四高等学校を経て、1930年東北帝国大学数学科卒業。北海道帝国大学助手、九州帝国大学助教授、同教授を歴任。1952年旧・東京都立大学教授となる。1971年の定年後、東海大学教授に転ずる。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、創刊号から長年執筆を続けていた。 2005年5月9日、肺気腫のため死去。
小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 … 小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 - 没年不明)は日本の数学者、教育学者。鳥取大学教授。 鳥取県境港市竹内町出身。 昭和7年(1932年)京大卒。朝鮮元山公立中学校、鳥取二中各教諭、鳥師教授を経て鳥取大学学芸学部教授。 趣味は俳句。宗教は禅宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17… 今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉3月29日)は、日本の教育者、数学者、科学史家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。イギリスの動物学者・ランスロット・ホグベンの『百万人の数学』を翻訳したことでも知られる。 東京都出身。東京帝国大学理学部数学科を卒業後、東京物理学校(現・東京理科大学)や慶應義塾大学、法政大学などで教鞭を執る傍ら、1933年(昭和8年)に日本共産党へ入党。1940年1月の「唯研事件」第2次一斉検挙をはじめ、戦前は3度の逮捕・投獄を余儀なくされたが、その間も数学・科学史関連の著書・訳書を多数発表した。 戦後は読売新聞論説委員を経て、1946年には民主主義科学者協会(民科)設立に関わり、常任幹事や事務局長に就く。
能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日… 能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日 - 1976年(昭和51年)10月18日)は、日本の数学者。理学博士。専門は複素解析。北海道帝国大学講師、旧制第一高等学校教授、名古屋帝国大学教授、ハーバード大学客員教授、名古屋大学名誉教授、東京理科大学教授を務める。1956年(昭和31年)、「函数論における集積値集合の研究」で第9回中日文化賞を受賞。
山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月2… 山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月25日 - 1974年(昭和49年)11月25日)は、日本の数学者。一橋大学名誉教授。「一橋の数学」の育成に尽力し、今日の一橋大学における数学教育の基盤を築いた。東京市出身。 東京市日本橋区で生れる。旧・永田町小学校(現・麹町小学校)などを経て、府立四中(現・東京都立戸山高等学校)を卒業。1930年に東京商科大学、1933年には東京文理科大学数学科をそれぞれ卒業し、東京商科大学予科数学講師となる。1936年に予科教授、1949年一橋大学が新制大学として発足するとともに経済学部教授として、数理経済学やゼミナールを担当。大学時代からブール代数に関心をもち、現代数学の社会科学への応用に尽力した。
柴垣 和三雄(しばがき わさお、1906年5月30日 - 2… 柴垣 和三雄(しばがき わさお、1906年5月30日 - 2001年5月1日)は日本の数学者、九州大学名誉教授、学位は理学博士。専攻は数学。 1906年金沢市生まれ。1929年に東京大学理学部物理学科卒業。 1941年に「n変数の一つの実函数の此等変数のm(<n)個の方程式によって定義さる超曲面上におけるクルチカルポイントについて」で東京大学より理学博士号を取得。その後九州大学、東京理科大学理学部教授を歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。「弥永」と表記される場合もある。 1906年、東京府生まれ。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)卒業。同校では、犬井鉄郎(のち東大応用数学科教授)らと親しくしていた。四年修了での旧制第一高等学校受験にうっかりミスで失敗し、四中卒業後に一高に入学した。その間、秋山龍や森外三郎らの訳書である代数や幾何などの一般数学書や、アンリ・ポアンカレの「科学と仮説」に親しむ。同高校を卒業後、東京帝国大学理学部数学科に入学。高木貞治に師事して主に類体論について学ぶ。1929年、同大学を卒業。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。俗字で「弥永」と表記される場合もある。
守屋 美賀雄(もりや みかお、1906年3月 - 1982年… 守屋 美賀雄(もりや みかお、1906年3月 - 1982年10月18日)は、日本の数学者。高木貞治門下の一人。専攻は整数論。父親は守屋荒美雄(すさびお)で、帝国書院、関東第一高等学校、吉祥女子中学校・高等学校の創立者。洗礼名は「ミカエル」。理学博士。1949年から始まったイールズ声明(1949年占領軍総司令部民間情報部最高教育顧問官イールズが全国の大学をまわって、講演の中で共産主義者を大学から追放すべきだと主張していた)では、1949年5月15日に北海道大学でイールズの講演に対し、カトリック信者として真っ向から反対している。
近藤基吉(こんどう もときち、1906年-1980年12月1… 近藤基吉(こんどう もときち、1906年-1980年12月14日)は、日本の数学者。東京都立大学 (1949-2011)・東海大学名誉教授。 高知県生まれ。1930年東北帝国大学理学部数学科卒、1940年北海道帝国大学理学部助教授、「射影集合に関する研究」で北海道帝大理学博士。1943年九州帝国大学理学部教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)理学部教授。1969年定年退官、名誉教授、東海大学理学部教授。のち名誉教授。 「現代数学」著者紹介
黒田 成勝(くろだ しげかつ、1905年11月11日 - 1… 黒田 成勝(くろだ しげかつ、1905年11月11日 - 1972年11月3日)は日本の数学者。 東京都出身。数学者高木貞治の娘婿で、息子の黒田成俊、黒田成信は数学者、黒田成幸は言語学者。 東京帝国大学卒業。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授、名古屋帝国大学教授、メリーランド大学教授などを歴任した。 1945年 東京帝国大学 理学博士。論文の題は「Uber den Dirichletschen Korper (ジリクレ体に就て)」。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
岡村 博(おかむら ひろし、1905年11月10日 - 19… 岡村 博(おかむら ひろし、1905年11月10日 - 1948年9月3日)は、日本の数学者。京都帝国大学教授。解析学や微分方程式の理論に貢献した。 1929年京都帝国大学理学部を卒業し、同学の教授を務めた。 主な業績として、常微分方程式の初期値問題を研究し、解の一意性のための必要十分条件を導いた。これにより、20世紀前半の微分方程式論で最も重要な問題の一つに終止符が打たれた。その他の業績としては、積分法の平均値の定理の改良がある。 第二次世界大戦中は航空力学の研究にも携わったが、戦後の食糧難による栄養失調で、42歳の若さで亡くなった。 父は法学者・弁護士の岡村司。教え子に溝畑茂・山口昌哉がいる。
犬井 鉄郎(いぬい てつろう、1905年6月26日 - 19… 犬井 鉄郎(いぬい てつろう、1905年6月26日 - 1989年10月4日)は、日本の数学者。専門は応用数学。京城大学理工学部、東京大学工学部力学教室、中央大学理工学部で教鞭をとる。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
南雲 道夫(なぐも みちお、1905年5月 - 1995年2… 南雲 道夫(なぐも みちお、1905年5月 - 1995年2月6日)は、日本の数学者。理学博士、大阪大学名誉教授。解析学の分野で多くの独創的な業績がある。
河野 伊三郎(こうの いさぶろう、1905年 - 1994年… 河野 伊三郎(こうの いさぶろう、1905年 - 1994年)は、日本の数学者。 神奈川県出身。1929年東京帝国大学理学部数学科卒業。新潟高等学校 (旧制)、新潟大学、東京医科歯科大学の教授を歴任、理学博士。 すぐれた数学書の著者であり、また海外の科学書のすぐれた翻訳者として知られた。河野が執筆した『位相空間論』や『微積分入門』は、小冊子ながら、本格的な数学を目標とする初学者向きの本として、多くの学生のよい伴侶となったといわれる。 河野の翻訳した本は高い評価を受け、高校や大学入試の現代国語のよい題材として、受験参考書にも例文として見られたことがある。
三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 19… 三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 1984年10月16日)は、日本の数学者。
小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992… 小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992年12月8日)は、日本の数学者、科学史家、教育者。専門分野は複素解析学。 1904年(明治37年)、福井県三方町に生まれる。1929年(昭和4年)に京都帝国大学理学部数学科を卒業後、同大理学部副手講師、新潟高等学校 (旧制)教授、第三高等学校 (旧制)教授を務めた後、1945年(昭和20年)京都大学助教授、1949年(昭和24年)同大教授に就任。 1956年(昭和31年)イタリアのフィレンツェで開催された第8回国際科学史会議に日本代表として出席。1967年(昭和42年)京都府立大学学長、1971年(昭和46年)京都産業大学教授、後に同大副総長。
平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 199… 平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 1998年6月22日)は、日本の数学者、和算史研究家。 千葉県成田生まれ。第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学数学科卒業。1950年「和算に関する研究」で理学博士(理学)の学位を取得。林鶴一、藤原松三郎に師事。中学校教師をへて、1941年東北帝大講師。1968年退任。息子は天文学者の平山智啓(東京天文台)。
寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1… 寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1996年4月3日)は日本の数学者。専攻は幾何学。大阪大学名誉教授、理学博士(1938年)。正四位勲二等瑞宝章。
城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、… 城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、数学者、コンピュータ技術者。日本のコンピュータパイオニアで、ほぼ最初期にコンピュータに取り組んだ一人。大阪府大阪市生まれ。 日本の初期のコンピュータ開発は、電子式では、城によるもの以外に、1949年に開発着手し1956年に完成動作した岡崎文次のFUJIC、1952年にプロジェクトが開始され1959年完成動作した東大TACがある。城の「阪大真空管計算機」 は、1953年のまとまった科学試験研究費により本格的に始まっている。しかし、予備実験的な段階までを含めると、1948年にはじまる三田繁による東芝TAC もあるが、城はENIACについての1946年のニューズウィークの記事を見て電子式の計算機械に取り組み、1950年にはENIACの1桁分のブロック線図にもとづいた10進4桁の演算装置を完成させている。
森嶋 太郎(もりしま たろう、1903年4月22日 - 19… 森嶋 太郎(もりしま たろう、1903年4月22日 - 1989年8月8日)は、日本の数学者。東京理科大学名誉教授。和歌山県出身。 数論、代数学を東京大学で学ぶ。フェルマー予想に取り組んだことで知られる。津田塾大学、陸軍士官学校の教授も務めた。1979年勲三等瑞宝章受章。 mを31以下の素数としよう。 p を素数とし、 x, y, z を xp + yp = zp がなりたつ正整数とする。そして p が xyz を割り切らないとする。 このとき p2 は mp − 1-1 を割り切る。 Gundersonはその博士論文の中で、上の定理の証明の問題点を挙げた。 A. Granvilleらも同意し、森嶋の証明を承認できないとしている。
河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 19… 河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 1984年7月30日)は、日本の数学者。北海道大学名誉教授。専門は微分幾何学、特にフィンスラー幾何学。日本の微分幾何のパイオニアの一人。師は窪田忠彦、弟子に桂田芳枝がいる。 1903年4月東京に生まれ、母河口愛子の独自の教育方針の下に高校検定試験に合格し、1922年 東北帝国大学数学科に入学、1925年 卒業後、同大学院に進む。1927年 東北帝国大学大学院在学中に1930年開講が決まった北海道帝国大学理学部数学科の教授候補に内定。準備期間中2年間の留学が定められていたため、文部省在外研究員となり1928年から1930年にかけて、ドイツ(ベルリン、ハンブルグ)に留学。
功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - … 功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - 1975年12月19日)は、日本の数学者。専門は集合論、位相空間論、関数論で、特に複素関数論。 山梨県韮崎市神山町武田出身。旧制甲府中学、松本高等学校 (旧制)を経て、1926年東京帝国大学理学部数学科卒業、旧制東京高等学校教授となる。1927年に北海道帝国大学への1930年理学部設置が決まり、数学関係の創立委員となった師の吉江琢児の指名により教授候補者の1人として内定したのは東京帝国大学卒業後1年余であった。 北海道帝国大学理学部数学科開講までの準備期間3年の内、教授候補者は約2年間を海外留学することとなっており、1928年3月よりフランスに留学、パリ大学のモーリス・ルネ・フレシェに師事し、Docteur ès Science(フランス政府理学博士号)を取得、1930年9月に帰国。
蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3… 蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3月17日)は、中国の数学者。復旦大学名誉学長。中国数学会名誉理事長。元中国科学院院士。創価大学名誉博士。 浙江省温州市平陽の山間部の農家に生まれる。浙江省立第十中学校(のちの浙江省温州中学(英語版))に首席で合格して学費全額免除を得て卒業後、1919年から日本に留学した。 1920年に兄が通っていた東京高等工業学校(のちの東京科学大学)電気科に進学。在学中関東大震災で被災したものの生き残り、1924年に卒業し、東北帝国大学理学部数学科に進学した。 仙台では止宿先が同じ家だった茅誠司(のちに東京大学総長)と親しくなり、第二次世界大戦後も交友が続いた。
秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 19… 秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 1984年7月11日)は、日本の数学者。京都大学名誉教授。 自身の研究室から2人のフィールズ賞受賞者(広中平祐、森重文)を輩出している。 和歌山県出身。旧制大阪府立天王寺中学校四年修了、旧制第三高等学校卒業。1926年京都帝国大学理学部数学科卒業。第三高等学校教授を経て、1948年京都大学教授。退官後、1951年から東京教育大学教授を兼ね、京都大学数理解析研究所の設立に尽力。1967年群馬大学学長。 日本数学会理事を務め、専門の代数幾何学を研究し数学教育にも力を入れた。1984年7月11日死去。81歳。 ヴォルフガング・クルル、オスカー・ザリスキ、永田雅宜に並び、可換環論の初期の基本的かつ重要な仕事をしたことで有名である。
宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年… 宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年11月29日)は、日本の数学者。 千葉県佐倉市生まれ。旧制千葉県立佐倉中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て東京帝国大学(現在の東京大学)理学部数学科卒業。理学博士(東北帝國大学)。1928年東京商船学校教授、1941年京城帝国大学教授。戦後、1949年東京都立大学 (1949-2011)教授、1959年日本大学教授を歴任。「コンピュータ黎明期のコンセプトメーカー」と『計算機屋かく戦えり』では書かれている。手計算や機械式計算機といった計算力が限られていた時代からの数値解析・計算科学の第一人者として、電子計算機のパイオニアであったと同時に、その経験から誤差の扱い等についても注意を与えていた先駆者であった。
正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉… 正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉2月25日 - 1977年〈昭和52年〉3月20日)は、日本の数学者(代数学)。第6代大阪大学総長、武蔵大学学長、初代大阪大学基礎工学部長。群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)出身。勲一等瑞宝章、文化勲章受章。 1902年(明治35年)、群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、日清製粉創業者・正田貞一郎の次男として生まれる。小日向台町小学校を経て、1919年(大正8年)に東京府立第四中学校を卒業。1922年(大正11年)に旧制第八高等学校卒業して東京帝国大学理学部数学科に進学し、1925年(大正14年)3月卒業。大学院で高木貞治の指導を受けた。
森本 治枝(もりもと はるえ、1902年(明治35年) - … 森本 治枝(もりもと はるえ、1902年(明治35年) - 1995年(平成7年)3月12日)は、日本の数学者。女性数学者の先駆けで、女手で育て上げた子供4人とも教授(天文学者の森本雅樹、経済学者の森本芳樹ら)になったことでも有名である。夫は数学者森本清吾。 1902年(明治35年)大阪府大阪市北区曽根崎生まれ。大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒業後の1918年(大正7年)東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)理科に進学した。卒業後の1924年東北帝国大学(現・東北大学)理学部数学科に入学し1927年(昭和2年)3月卒業。この年6月、数学科で出会った東北帝大助手の深澤清吾と、周囲から反対されたが結婚した(清吾が、姓を森本に改称)。
中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - … 中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - 1986年9月28日)は日本の数学者。専攻は数学基礎論、数学史。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授、兵庫医科大学名誉教授、文学博士。従四位勲三等旭日中綬章。
岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 -… 岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。奈良市名誉市民。従三位勲一等瑞宝章。 1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市東区田島町(現・中央区)で生まれた。父祖の地は和歌山県伊都郡紀見村(現・橋本市柱本)である。1925年(大正14年)、京都帝国大学講師、1929年(昭和4年)、同大学助教授。1929年(昭和4年)、フランス留学。中谷宇吉郎と中谷治宇二郎に出会い、妻の岡ミチも合流する。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授。1938年(昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。
戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月1… 戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月11日 - 1958年〈昭和33年〉4月2日)は、日本の宗教家、教育家、実業家、数学者。 創価教育学会理事長(初代)、創価学会会長(第2代)、法華講総講頭などを歴任した。 出生名は、戸田 甚一(とだ じんいち)。数度の改名を経て「城聖(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。 教職者として戸田は現場教育に必要なものをまとめ上げ、文部大臣に建白書を提出する。20歳の時に上京。牧口常三郎に出会い、東京市立西町尋常小学校の代用教員として採用された。その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、院外団に身を投じ、犬養毅の側近であった立憲政友会所属の衆議院議員古島一雄の知遇を得る。
森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月2… 森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月26日 - 1954年〈昭和29年〉6月19日)は、日本の数学者。妻は女性数学者の先駆け森本治枝で、子供4人とも学者となっている。 「群馬近代蚕糸業の祖」といわれる養蚕製糸業「研業社」オーナーで、前橋英和女学校(現・共愛学園前橋国際大学)創設者の深沢(旧姓・大慈谷)利重と妻・孝の五男として生まれる。母方の祖父は前橋藩士、深沢雄象。 師範学校附属小学校を経て、1917年(大正6年)勢多農林学校を卒業する。翌1918年(大正7年)、独学で中等教員検定試験の算術・代数・幾何科に合格する。1919年(大正8年)から赤坂中学校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には埼玉県師範学校教諭となった。
崔 允植(チェ・ユンシク、朝鮮語: 최윤식、1899年 - … 崔 允植(チェ・ユンシク、朝鮮語: 최윤식、1899年 - 1960年8月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の大学教授、数学者(解析学・整数論)。 本貫は慶州崔氏(朝鮮語版)、号は東林(トンニム、동림)。 平安北道宣川出身。1917年に京城高等普通学校を卒業後、広島高等師範学校に官費留学し、1922年に東京帝国大学理学部数学科で学んだ。帰国後は京城高等工業学校と京城鉱山専門学校で教授を務めたほか、光復後は鉱山専門学校長を務めた。1946年に国立ソウル大学校数学科の初代主任教授となり、ソウル大学校文理科大学の学長を1年間務めた。1946年10月に朝鮮数物(数学・物理)学会(のちの大韓数学会)を創立し、初代会長を務めた。