矢野 照正(やの てるまさ、1943年11月30日 - )は… 矢野 照正(やの てるまさ、1943年11月30日 - )は、日本中央競馬会(JRA)・美浦トレーニングセンターに所属していた元調教師で元騎手。宮崎県出身。 1962年に中央競馬で騎手デビューし、引退する1980年までに重賞5勝を含む199勝を挙げた。1983年より調教師として開業。主な管理馬に1991年の天皇賞・秋優勝馬プレクラスニーやテンジンショウグン、マーベラスタイマーなどがいる。 息子は調教師の矢野英一である。 9人兄弟の8番目として生まれ、兄の勧めで馬事公苑を受験し合格。同期には郷原洋行、中島啓之などがいる。 騎手候補生として東京競馬場の 阿部正太郎厩舎に所属し、1962年に騎手デビュー。
大野 照旺(おおの てるお、1943年11月24日 - )は… 大野 照旺(おおの てるお、1943年11月24日 - )は、日本の実業家、馬主。愛媛県松山市に本社を置くオオノ開發株式会社の創業者で、現代表取締役会長。 1943年、愛媛県松山市出身。1966年8月、土木工事を請け負う大野開発を設立。1973年11月に大野開発株式会社に改組、代表取締役に就任。1980年2月に現在のオオノ開發株式会社に商号を変更した。その後廃棄物処理業の許可を受けつつ1992年には会社の資本金を7000万円とし、東京都や大阪府にも支店を設けたのちの2016年に社長の席を大野剛嗣(息子)に譲り代表取締役会長に就任。2022年に剛嗣が急逝すると4月に再び代表取締役に就任。2024年、取締役社長であった山下裕二が代表取締役社長となり、大野は再度会長となっている。
久保 敏文(くぼ としふみ、1943年11月21日 - )は… 久保 敏文(くぼ としふみ、1943年11月21日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元騎手。引退後に実業家に転身し、出版社の社長に就任。中央競馬の馬主資格も取得した。 騎手時代は追い込みを得意とし、ファンの多い騎手であった。旧姓は古賀。 少年の頃に両親が離婚したことに伴って福岡県福岡市に移住し、芸妓置屋を経営していた叔母の元に身を寄せた。 義叔父が馬主として競走馬を所有しており、義叔父と付き合いのあった京都・上田武司調教師から騎手になることを勧められ、中学卒業後に京都・久保道雄厩舎に騎手見習いとして入門。馬事公苑騎手養成長期課程に第8期生として入所し、同期生には清水出美・鹿戸明・久保田秀次郎・安田伊佐夫・大崎昭一・笹倉武久などがいる。
野村 彰彦(のむら あきひこ 1943年9月13日 - 20… 野村 彰彦(のむら あきひこ 1943年9月13日 - 2021年9月13日)は、愛知県一宮市出身の元騎手・元調教師。 父は馬車による運送業を営み、競馬関連の資材も取り扱っており、野村も幼い頃から馬に親しみ将来の目標に騎手を志していた。当初は公営・笠松で騎手になることを考え、研修にも入っていたが、「カツラ」の冠名で知られた馬主の牧市太郎に中央で騎手になることを勧められ、1960年に紹介を受けた京都・橋本正晴厩舎に騎手見習として入門 。 1962年に橋本厩舎からデビューし、3月17日の阪神第9競走5歳以上50万下・カツラオーザ(5頭中4着)で初騎乗を果たし、同24日の阪神第2競走4歳以上オープンで見習時代に厩務員も兼ねていたアングロアラブのカツラバラッケーに騎乗して初勝利を挙げる。
松山 康久(まつやま やすひさ、1943年9月4日 - )は… 松山 康久(まつやま やすひさ、1943年9月4日 - )は日本中央競馬会 (JRA) ・美浦トレーニングセンターに所属した調教師である。
土井 肇(どい はじめ、1943年8月23日 - )は、日本… 土井 肇(どい はじめ、1943年8月23日 - )は、日本の実業家、馬主。 愛知県名古屋市に本社を置く証券業の大万証券株式会社の取締役会長を務める。 1943年、愛知県出身。1966年3月に甲南大学卒業後、土井商事株式会社に入社し取締役、1967年3月に系列会社の大万証券株式会社社長就任。1975年1月に大万証券社長を辞任し土井商事副社長、1979年11月に大万証券会長、1982年に土井商事社長に就任。2000年7月、大万証券の岡崎支店における損失補填に係る不祥事の発生に伴い社長の近藤忠が引責辞任したため土井が社長に復帰。2001年6月、社長後任に駒田博明の昇格を決定し土井は再度会長へ就任した。
中島 啓之(なかじま ひろゆき、1943年6月7日 - 19… 中島 啓之(なかじま ひろゆき、1943年6月7日 - 1985年6月11日)は、昭和後半期の日本の競馬騎手。日本中央競馬会の所属であった。 1974年の東京優駿(日本ダービー)優勝など八大競走を4勝、1970年代から1980年代にかけて関東を代表する騎手であったが、1985年に病死した。通算729勝は当時歴代9位の記録。 父・中島時一は戦前の騎手・調教師で、牝馬のヒサトモで1937年の東京優駿をレコードタイムで制覇している。また、弟の中島敏文も元騎手で、引退後にJRA調教師となった。 夫人の父(義父)は同じくJRA調教師であった高松三太。 1943年、父の転戦先、東京都府中市に生まれる。太平洋戦争激化により競馬が休止となり、これを受けて競馬界から引退した父時一の故郷・広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)に、生後間もなく移り住む。
小田切 有一(おだぎり ゆういち、1942年11月7日 - … 小田切 有一(おだぎり ゆういち、1942年11月7日 - )は、日本の実業家、馬主。 福岡県にある食品の貿易会社であるエール株式会社の代表取締役社長を務めるほか、馬主として、所有馬に「ワスレナイデ」「オレハマッテルゼ」「オドロキノサイフ」「モチ」といった個性的な馬名を与えることで、「マチカネ」の細川益男や「シゲル」の森中蕃らとともに「珍馬名」の名付け親として知られている。 父は文芸評論家の小田切秀雄。叔父には日本近代文学の研究者の小田切進。弟の小田切統二は、有一同様に馬主である。また、息子の小田切光は、馬主としての事実上の後継者であるとともに、かつては徳永善也(元チェッカーズ)とともに「Little Bach」のボーカルとして活動していた。
近藤 利一(こんどう りいち、1942年9月1日 - 201… 近藤 利一(こんどう りいち、1942年9月1日 - 2019年11月17日)は、日本の実業家、馬主。 日本中央競馬会(JRA)の馬主として「アドマイヤ」の冠名で知られ、死去までにJRAの重賞60勝(うちGI級競走13勝)を挙げた。前妻は近藤英子で、同じく馬主として著名。 代表を務めていた合建株式会社は、大阪府大阪市北区にあるはつり・建築解体工事会社。 1942年、徳島県出身。大阪府で出会った近藤英子と結婚し、夫婦で合建株式会社を立ち上げた。のちに英子とは離婚し、旬子を後妻に迎えている。 2019年夏にがんを罹患していることを公表し闘病していたが、同年11月17日早朝、大阪市内の病院で死去。77歳没。
大和田 稔(おおわだ みのる、1942年3月30日 - )は… 大和田 稔(おおわだ みのる、1942年3月30日 - )は、福島県田村郡滝根町(現・田村市)出身(神奈川県生まれ)の元調教師・元騎手。 息子はJRA調教師の大和田成。 1958年に中山・二本柳俊夫厩舎の騎手候補生となり、1959年に騎手免許を取得し、同厩舎より騎手デビューする。1年目の同年は9月13日の東京第7競走4歳以上・ハルワード(11頭中4着)で初騎乗を果たし、11月1日の東京第4競走障害4歳以上・クイントツプで初勝利を挙げる。同年は4勝をマークするが、全て障害戦のクイントツプで挙げたものであった。 2年目の1960年には10月1日の中山第7競走4歳以上60万下・フエニツクスで平地初勝利を挙げ、3年目の1961年には初の2桁となる18勝をマーク。
里見 治(さとみ はじめ、1942年1月16日 - )は、日… 里見 治(さとみ はじめ、1942年1月16日 - )は、日本の実業家、馬主。 群馬県甘楽郡福島町(現:甘楽町福島)出身。青山学院大学法学部中退。セガサミーホールディングス社長の里見治紀は長男。衆議院議員の鈴木隼人は娘婿。 青山学院大学在学中の1964年(昭和39年)に友人とゲーム機の販売会社を起こす。しかし経営がうまく行かなかったため販売会社を1年で清算、自らゲーム機の開発を行う方向に転じる。翌1965年(昭和40年)に父親が経営していた食品メーカー「東京栄養食品」の商号を「株式会社さとみ」に変更し、その専務に就任。同社内にアミューズメント部門を設立してクレーンゲームやアレンジボール機の開発・販売等を手がけた。
海保 宣生(かいほ のぶお、1941年12月21日- 201… 海保 宣生(かいほ のぶお、1941年12月21日- 2015年4月19日)は、東京都出身の元バスケットボール選手、スポーツ指導者。元バスケットボール男子日本代表。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属するサッカークラブである鹿島アントラーズ及びモンテディオ山形の運営会社幹部を務めていたことでも知られる。 東京都出身。立教大学経済学部経済学科を卒業後、住友金属工業(現・日本製鉄)に入社。籠球団(バスケットボール部)に所属し、1964年東京オリンピックのバスケットボール競技において日本代表チームの一員として活躍した。現役引退後は立教大学体育会バスケットボール部の監督を経て住友金属の監督も歴任した。
吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2… 吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2006年9月11日)は、鹿児島県肝属郡串良町(現・鹿屋市)出身の元騎手・元調教助手・元調教師。 騎手時代は「吉永スペシャル」と呼ばれた追い込みや逃げなど極端な作戦を取る個性派の騎手として知られ、中央競馬史上3頭目の三冠馬・ミスターシービーや、1982年の春の天皇賞馬・モンテプリンスなどの主戦騎手を務めた。 死別した最初の妻との間には一男二女を授け、長男の吉永護は元騎手・現調教助手。作家の吉永みち子は2番目の妻で、一男を授けた。 実弟の吉永良人は馬事公苑花の15期生の一人で元騎手、調教助手。 馬生産を営む吉永牧場の次男として生まれる。同場は吉永の曾祖父で、薩摩藩の馬術指南役を務めていた吉永新九郎が1890年代後半に興した一帯で最古の馬生産牧場である。
田島 日出雄(たじま ひでお、1941年6月22日 - )は… 田島 日出雄(たじま ひでお、1941年6月22日 - )は、宮崎県延岡市出身の元騎手・調教助手。 元騎手・調教助手の田島裕和は子。 中学の先輩には矢野一博、後輩には大崎昭一・安田伊佐夫がいる。 1959年10月3日に阪神・武輔彦厩舎からデビューし、京都第8競走4歳以上20万下・ビガラス(7頭中3着)で初騎乗を果たす。11月1日の阪神第8競走4歳以上50〜60万下・バアムランドで初勝利を挙げ、菊花賞でも同馬に騎乗し、1年目にして八大競走及びGI級レース初騎乗を果たす。1年目の同年は初騎乗が遅いこともあり3勝に終わるが、2年目の1960年には6勝、3年目の1961年には初の2桁で20勝台となる23勝(平地17勝, 障害6勝)を挙げる。
藤田 与志男(ふじた よしお、1941年4月27日 - 20… 藤田 与志男(ふじた よしお、1941年4月27日 - 2008年5月10日)は、日本の実業家、馬主。 かつての馬主登録の表記は藤田 與志男であった。 東京都渋谷区に生まれ、杉並区で育つ。青山学院大学経済学部を卒業後、フジテレビの関連企業に就職、海外系の部署に配属されたのち、28歳で退社しアメリカ合衆国に渡り、ノースカロライナ州の大学に留学する。その後、輸入貿易業の会社を設立した。 2008年、体調不良により4月から入院していたが、5月10日、心不全により死去。67歳没。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録する馬主として知られた。勝負服の柄は水色、赤縦縞、袖赤一本輪(以前は紫、袖黄元禄)を使用し、冠名には自身が犬好きなことから「シベリアン」や、愛犬のマルチーズに由来する「マルターズ」を用いたが、冠名のない馬も所有した。
高橋 隆(たかはし たかし、1941年4月5日 - )は、秋… 高橋 隆(たかはし たかし、1941年4月5日 - )は、秋田県大仙市出身の元騎手・元調教師。 義父に元調教師の大久保石松、義弟に元調教師の沖芳夫。 長男の高橋亮も元騎手で現調教師。 稲作と養鶏を営む兼業農家を生業とする家に6人兄姉の次男として出生したが、長女・四女がそれぞれ婿養子を貰い家業を相続。その背景から長男である謙治は家業を継がず、中学卒業後に家を離れ大阪・春木で騎手となる。 運動を得意としていた隆はバスケットボール・野球などでその機敏さを発揮し、謙治の影響を受けて騎手を志すようになっていたが、運動神経の良さを見込まれ角館高校バスケット部より誘われた経緯から同校を受験し合格。「もし背が伸びてしまい騎手を断念するようなことがあればバスケットのコーチ・監督をやれたらいい」と当時考えていたが、角館高校への入学を間近に控えた矢先に両親に何も告げず実家を出て京都へと向かう。
池江 泰郎(いけえ やすお、1941年3月1日 - )は、日… 池江 泰郎(いけえ やすお、1941年3月1日 - )は、日本中央競馬会(JRA)の元調教師、元騎手で現在は競馬評論家、馬主である。 騎手時代には「逃げの池江」の異名を取り、通算3275戦368勝、うち重賞で17勝を挙げた。代表的騎乗馬にはヤマピットがいる。1979年に調教師へ転身、メジロデュレンによる菊花賞を始めとして数々のGI級競走を制し、1994年にJRA顕彰馬に選出されたメジロマックイーン、日本生産馬として初めて国外の国際GI競走を制したステイゴールド、2005年に中央競馬史上6頭目のクラシック三冠を達成したディープインパクト(JRA顕彰馬)など、数々の活躍馬を手掛けた。2011年に調教師引退。
徳吉 一己(とくよし かずみ、1941年2月1日 - )は鹿… 徳吉 一己(とくよし かずみ、1941年2月1日 - )は鹿児島県姶良郡牧園町(現・霧島市)出身の元騎手・現評論家。 騎手出身者として初めてJRA競馬学校騎手課程の教官となった。 同じくJRA騎手であった徳吉孝士は実子。 実家は数頭の馬を飼っており、中学生の時から競馬好きの兄に連れられて公営・鴨池競馬場を訪れ競馬にも親しんだ。中学3年次には小柄であったことから騎手になることを勧められ、中央競馬の騎手養成長期課程を受験。合格後騎手養成所に入り、1958年に東京・森末之助厩舎よりデビューし、同年9月7日にイチツバメで初勝利。 1968年の目黒記念(秋)・メジロタイヨウをはじめ、ヤマブキオーで重賞3勝を挙げるなど、数々の重賞勝利馬に騎乗した。
佐藤 伝二(さとう でんじ、1941年 - )は、日本の家畜… 佐藤 伝二(さとう でんじ、1941年 - )は、日本の家畜商、馬主。「馬喰」を自称する。福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)出身。 生家は戦前は軍馬、戦後は競走馬を購入・育成する牧場であった。高校時代に騎手を志し、大井競馬場の調教師に弟子入り。厩舎に住み込みながら大学に通学した。4年間住み込み生活を続けたが騎手にはならず、家業を継ぐことを決意。大学卒業後、父の下で修業を積んだ。25歳の時に家畜商の免許を取得し、頻繁にセリ市に顔を出すようになった。 1970年代入り、伝二が見出し、購入に関与した馬が次々と活躍を見せるようになった。まず1975年から1976年にかけてホワイトフォンテンが中央競馬の重賞を4勝する活躍を見せた。
中野 隆良(なかの たかお、1940年11月17日 - )は… 中野 隆良(なかの たかお、1940年11月17日 - )は、千葉県市川市出身(兵庫県武庫郡鳴尾村 (現・西宮市)生まれ)の元調教助手・元調教師。父は元調教師の中野吉太郎。 父・吉太郎は青森県上北郡大深内村(現・十和田市)出身の騎手で、中野は最初の子供であった。後に妹、弟、妹と続き、四人兄弟の長男となる。バリアー式スタートの競馬場で天神乗りによってレースに出ていた吉太郎を、中野は記憶している。とはいえ、それは鳴尾競馬場で見た記憶ではなかった。中野が2歳であった1942年に、吉太郎は家族をあげて市川の中山競馬場のすぐ近くに引っ越した。中野の記憶の中に生まれた鳴尾の出来事は一切残らず、市川市立中山小学校で5年まで学んだ。
高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 - )… 高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 - )は、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)出身の元騎手・元調教師。 JRA調教師の高橋義忠は実子。 父は枚方市議会議員も務めた人物で、その三男であった。少年時代は父と連れられて京都競馬場へよく足を運び、父が「なんとかホウシュウという馬が強かった」といったことに印象を残したという。 中学時代には考古学者を将来に思い描いていたが、高校進学が決まった後、駅の構内に貼られていた騎手候補生募集のポスターを見て「なんとなく馬にひかれた」ほか、募集条件がことごとく自分に合致していたことから受験に至り、馬事公苑騎手養成長期課程に第7期生として入所。主な同期生には池江泰郎、丸目敏栄、野元昭、徳吉一己、福永甲、吉岡八郎がいる。
丸目 敏栄(まるめ としひで、1940年3月12日 - 19… 丸目 敏栄(まるめ としひで、1940年3月12日 - 1980年8月4日)は、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。鹿児島県大口市生まれ。 橋本輝雄厩舎に所属し、1959年3月8日に騎手としてのデビューを迎え、3着。3か月後の6月14日に初勝利を挙げた。デビュー初年度からエドヒメで目黒記念に優勝して重賞勝利を挙げると、2年目には36勝を挙げて全国リーディングで10位に付けるなど、早くから関東若手有力騎手の一人として高く評価されていた。1964年には内臓疾患により長期離脱を余儀なくされたが、復帰後も順調に勝ち星を積み重ねる。1969年には「上がり馬」として知られるアカネテンリュウに騎乗して菊花賞に優勝し、八大競走を初制覇。
窪田 芳郎(くぼた よしろう、1940年2月28日 - )は… 窪田 芳郎(くぼた よしろう、1940年2月28日 - )は、日本の実業家、馬主。 電子部品の製造機器の製造から販売までを手がける株式会社東京ウエルズの代表取締役会長を務める。株式会社AKSの元社長などを務めた窪田康志は息子。 1940年、静岡県出身。1962年に明治大学経済学部を卒業し、4月に株式会社寺田商会に入社。1964年11月に寺田工業株式会社の設立に参画し同社取締役営業部長に就任。1971年7月に株式会社東京ウエルズ設立に参画し12月に同社代表取締役社長就任。その後三星通商株式会社(閉鎖)、東京コイルエンジニアリング株式会社各社を創立し社長就任。現在は東京ウエルズ代表取締役会長を務める。
田中 八郎(たなか はちろう、1939年3月9日 - 201… 田中 八郎(たなか はちろう、1939年3月9日 - 2010年12月17日)は、日本の実業家、馬主。 眼鏡の販売を展開するメガネスーパーの創業者であるほか、プロレス団体・SWSの設立者としても知られる。 1939年、東京都出身。法政大学社会学部を卒業する。1973年2月に神奈川県小田原市にて有限会社ニュー湘南眼鏡を設立し眼鏡用品の小売を開始。1979年5月に有限会社セントラル商事を設立し代表取締役社長となり、翌1980年9月にセントラル商事を株式会社に組織変更。1987年5月に旧株式会社メガネスーパーの代表取締役社長となり、2000年1月にはセントラル商事が旧メガネスーパーおよび有限会社三栄商事を吸収合併、株式会社メガネスーパーに商号変更し田中は会長に就任。
藤立 啓一(ふじたて けいいち、1938年12月29日 - … 藤立 啓一(ふじたて けいいち、1938年12月29日 - 2002年6月17日)は、日本の医師、馬主。 大阪府大阪市旭区で藤仁会藤立病院を経営した傍ら、日本ボクシングコミッション(JBC)のコミッションドクターも務めた。 1938年、大阪市浪速区の魚問屋に生まれる。京都工芸繊維大学に進み、学業の傍らで家業を手伝っていたが、「医師になって欲しい」という父親の強い要望を容れて、3年次に大阪医科大学へ編入。大学卒業後は勤務医として過ごしたのち、1969年に診療所を開業した。1976年に「藤立病院」を創立、1980年からは医療法人化し「藤仁会藤立病院」となった。JBCのコミッションドクターに指定されてからは、関西地方で行われる世界戦などでの診察を担当した。
野田 順弘(のだ まさひろ、1938年8月24日 - )は日… 野田 順弘(のだ まさひろ、1938年8月24日 - )は日本の実業家、馬主。 オービック代表取締役会長。2022年のフォーブス長者番付で世界851位、日本10位。保有資産額は2022年4月時点で、35億米ドル(約4,520億円)。妻は、オービック取締役相談役の野田みづき。 1938年(昭和13年)、奈良県宇陀郡室生村(現・宇陀市)生まれ。1957年に奈良県立榛原高等学校(現・奈良県立榛生昇陽高等学校)を卒業後、近畿日本鉄道百貨店部(近鉄百貨店)、次いで東京オフィスマシンに勤める。この間、1961年に関西大学経済学部を卒業。1968年、妻とともに大阪ビジネスカンパニー(のちのオービック)を設立。
中尾 正(なかお ただし、1938年7月26日 - )は、日… 中尾 正(なかお ただし、1938年7月26日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属した調教師。主な管理馬に、それぞれGI級競走に優勝したイブキマイカグラ、ビッグテースト、ビッグウルフなどがいる。 中尾秀正(調教師)は実子、中尾謙太郎(調教師)、中尾銑治(騎手・調教師)は実兄、宮本悳(騎手・調教師)は義兄である。京都府出身、平安高等学校卒。 1938年、京都競馬場で厩務員を務める中尾嘉蔵の三男として生まれる。 長兄・謙太郎、次兄・銑治がそれぞれ厩務員、騎手見習いとして競馬界に入ったのに対し、正は父より一般企業に入ることを望まれ、私立平安高等学校に進学した。一方で、この頃から謙太郎が所属していた武田文吾厩舎でアルバイトの厩務員として勤務を始めた。
浜田 光正(はまだ みつまさ、1938年7月23日 - )は… 浜田 光正(はまだ みつまさ、1938年7月23日 - )は、日本の騎手(国営競馬、日本中央競馬会)、調教助手(日本中央競馬会)、調教師(日本中央競馬会)。 2009年に定年のため引退し、2012年現在は競馬評論家。栗東トレーニングセンター所属であった。 JRAにおける表記では浜田となっているが、濱田が正しい。 東京都荒川区の千住大橋付近で生まれる。競馬との出会いは1951年の東京優駿(日本ダービー)を父の友人である馬主に招待され観戦したことによるという。トキノミノルが優勝したこのレースを見たことをきっかけに騎手を目指すようになり、その馬主の紹介で18歳のときに騎手見習いとなった。 1957年3月1日に騎手免許を取得し、東京競馬場の内藤潔厩舎所属でデビューした。
西川 清(にしかわ きよし、1938年(昭和13年)6月7日… 西川 清(にしかわ きよし、1938年(昭和13年)6月7日 - 2005年(平成17年)7月9日)は日本の実業家、馬主。東証1部上場企業で駐車場運営・管理の最大手であるパーク24株式会社(資本金55億9,499万6,528円)の創業者。2004年(平成16年)1月からは取締役会長を務めていた。東京府(現・東京都)出身、法政大学第二高校、法政大学経済学部卒業。 1971年(昭和46年)、9年間勤めた会社を退職して独立。モータリゼーションの進展を予感し自動車関連事業を志す。資本金100万円で株式会社ニシカワ商会(パーク24)を設立し、最初に手がけたのは駐車禁止表示看板の販売事業であった。ある日彼は看板の営業に出かけた中華料理店で、無人の駐車場管理を可能にするパークロックシステム(駐車すると地面からロック板が上がってきて車が出られなくなる機械)が設置されているのを見つける。
星野 壽市(ほしの じゅいち、1938年5月20日 - )は… 星野 壽市(ほしの じゅいち、1938年5月20日 - )は、日本の実業家、馬主。 鉄のスクラップ加工、産業廃棄物処理などを手がける三栄商事株式会社代表取締役会長を務める。 星野 寿市とも表記される。 新潟県三条市出身。高校卒業後、群馬県高崎市のスクラップ屋に勤める。一度新潟県に戻ったのち、1964年に26歳で高崎市堰代町に三栄商事を起業した。2020年2月、社長職を長男の佑介に譲り、代表取締役会長となる。 日本中央競馬会(JRA)に登録する馬主としても知られる。勝負服の柄は黒、水色十字襷、袖水色縦縞で、冠名は特に用いないが、所有馬に「上毛かるた」のフレーズを使用していることで知られる。 三条市出身ということもあり、三条競馬場には父に連れられよく訪れていたという。
松岡 悟(まつおか さとる、1938年3月20日 - )は、… 松岡 悟(まつおか さとる、1938年3月20日 - )は、日本の医師、作家、馬主。 函館市内で小児科院を開業していた傍ら、文筆業や馬主としても活動した。 1938年、函館市出身。順天堂大学医学部大学院を修了後、同大学医学部の小児科講師を経て函館市立函館病院小児科科長、のち同市内に松岡小児科を開院し院長となる。1995年6月まで院長を務め、現在は警察庁警察学校の理事官(診療所長)を務める。 競馬と落語が趣味。立川談志の門下生であり、「立川薮医志」の芸名を持つ。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録する馬主としても知られる。勝負服の柄は緑、白星散、袖赤二本輪、冠名には「ドクター」を用いる。
松本 好雄(まつもと よしお、1938年(昭和13年)1月6… 松本 好雄(まつもと よしお、1938年(昭和13年)1月6日 - 2025年(令和7年)8月29日)は、日本の実業家、馬主。 兵庫県明石市に本社を置く船舶用部品メーカー・株式会社きしろの代表取締役会長を務めたほか、「メイショウ」の冠名を用いる馬主として多くの競走馬を所有したことでも知られていた。 1938年(昭和13年)1月6日、兵庫県明石市出身。きしろ発動機株式会社(当時)の社長であった松本金次の長男として生まれる。父の経営する工場に出入りするなどして理系を志し、千葉工業大学工業経営学科に進学。6年かけて同大学を卒業、卒業研究のテーマは「自動車部品プレス加工工程の短縮」であった。1962年(昭和37年)にきしろ発動機入社、その後取締役専務を経て、1972年(昭和47年)、父の急逝に伴い社長に就任した。
増沢 末夫(ますざわ すえお、1937年10月20日 - )… 増沢 末夫(ますざわ すえお、1937年10月20日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手、調教師。騎手として全国リーディングジョッキー2回、八大競走7勝。通算2016勝は当時の中央競馬史上最多勝。44歳で初のリーディングジョッキー獲得、50代で年間100勝達成など中年期以降に顕著な活躍を示し「鉄人」の異名を取った。「ローカル男」とも呼ばれた。愛称は「まっさん」。 妻は師匠・鈴木勝太郎の長女。義弟に鈴木康弘がいる。 北海道亀田郡大野村(後の大野町、現・北斗市)出身。戸籍上の表記は増澤末夫である。 北海道大野村に6人兄妹の末っ子として生まれる。幼少期より農耕・ばんえい競走用のペルシュロンの世話をして過ごした。
森安 重勝(もりやす しげかつ、1937年7月9日 - 19… 森安 重勝(もりやす しげかつ、1937年7月9日 - 1984年1月21日)は、香川県坂出市出身の騎手。実兄はナスノコトブキで菊花賞を、ニットエイトで天皇賞(秋)を制した森安弘明(騎手・調教師)。 1956年9月8日の東京第1競走3歳未勝利・メモリー(13頭中13着)でデビューし、10月7日の東京第4競走4歳以上40万下・ラントウで初勝利を挙げる。同期には矢野進、増沢末夫らが、課程違いの同年デビューに池江泰郎、武邦彦(池江と武は直接厩舎に入って騎手見習生であった)らがいる。関東競馬界の名門・尾形藤吉に師事したが、兄弟子に戦前から主戦を張っていた大騎手・保田隆芳が、弟弟子には後年尾形厩舎の主戦騎手となる伊藤正徳がいたこともあり、現役時代は必ずしも騎乗馬には恵まれなかった。
嶋田 賢(しまだ まさる、1937年1月22日 - 2026… 嶋田 賢(しまだ まさる、1937年1月22日 - 2026年3月10日)は、日本の内科医、馬主。 千葉県銚子市の医療法人積仁会 島田総合病院理事長を務め、第20代銚子市医師会会長を務めた。 千葉県出身。銚子市内で医院を開業していた内科医で、戦後、7期にわたって銚子市長を務めた嶋田隆の長男である。東京慈恵会医科大学で学び、内科医としてキャリアを積み、1985年に島田総合病院院長兼理事長に就任する。院長からは2014年に退任したが、晩年まで内科医として外来診療を担当した。 2000年4月、厚生労働大臣より「平成11年度救急医療功労者」の表彰を受ける。 2018年11月、瑞宝小綬章受章。 2026年3月10日、肺炎のため死去。
伊藤 雄二(いとう ゆうじ、1937年1月14日 - )はJ… 伊藤 雄二(いとう ゆうじ、1937年1月14日 - )はJRAの元調教師、元騎手。大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)出身。
阿部 雅一郎(あべ まさいちろう、1937年1月12日 - … 阿部 雅一郎(あべ まさいちろう、1937年1月12日 - 2012年11月21日)は、日本の実業家、馬主。 木材卸であった阿部木材工業(現・アベキャピタル)の第2代社長であり、会社を複合的な企業グループに拡大させた。また、競走馬の馬主としても著名で、GI競走に優勝したヒシアマゾン、ヒシアケボノ、ヒシミラクルなど数々の活躍馬を所有した。 阿部木材工業創業者の阿部雅信は父、第3代社長の阿部雅英は長男。両者もまた馬主として知られる。 慶應義塾大学卒業後、阿部木材工業に入社。1964年、雅信が脳溢血に倒れたため同社の経営を継いだ。良質な無垢材の確保が困難になりつつあったことから、合板の製造に着手すべく1967年に「阿部合板」を設立。
加藤 久枝(かとう ひさえ、1936年12月29日 - )は… 加藤 久枝(かとう ひさえ、1936年12月29日 - )は、日本の馬主。 「アスター」の冠名を用いる馬主で、2018年時点での馬主歴は64年、現役馬主の中では最長とされている。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録する馬主として知られる。勝負服の柄は勝負服の柄は黒、赤十字襷、赤袖。冠名には、父の経営していた店舗名より「アスター」を用いる。 名古屋市や東京都で翠芳園、東京翠芳園アスターハウスなどを経営していた実業家で、馬主でもあった加藤幸三郎を父に持ち、東京の馬主協会に入会し馬主となる(現在は一般社団法人中京馬主協会所属)。1959年の目黒記念(秋)をエドヒメで制し、23歳にして重賞初制覇[要出典]。
瀬戸口 勉(せとぐち つとむ、1936年11月3日 - 20… 瀬戸口 勉(せとぐち つとむ、1936年11月3日 - 2017年11月9日)は日本中央競馬会の元騎手、元調教師。名古屋競馬・弥富トレーニングセンターに所属する調教師瀬戸口悟は実弟。中央競馬の調教師の増本豊は妻の弟。 鹿児島県鹿屋市で8人きょうだいの3人目(次男)として生まれる。1955年、鹿児島県立鹿屋農業高等学校畜産科を卒業後、京都の上田武司厩舎に騎手見習いとして入り、1959年、騎手としてデビューする。1963年にはミスマサコで桜花賞を優勝した。1973年に引退、騎手時代の成績は通算2534戦329勝である。 とくに障害競走での成績は優れたものがあり、145戦55勝。勝率.379、連対率.641という数字を残している。
北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年〈昭和11年〉10… 北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年〈昭和11年〉10月4日 - )は、日本の演歌歌手、俳優、ミュージシャン、馬主。東京都八王子市在住。 『函館の女』にはじまる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズといった数々のヒット曲があり、サブちゃんの愛称で知られる。日本を代表する演歌歌手の一人。 原 譲二(はら じょうじ)のペンネームで作詞・作曲活動を行っており、自身の楽曲の制作以外にも舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ他の演歌歌手への楽曲提供など、マルチな活動を行っている。 作曲家・船村徹門下出身で、門下生で作る「船村徹同門会」(会長・鳥羽一郎)では名誉相談役を務める。 北島ファミリーからは親しみを込めてオヤジと呼ばれている。
築地 美孝(つきじ よしたか、1936年9月16日 - )は… 築地 美孝(つきじ よしたか、1936年9月16日 - )は、熊本県玉名郡長洲町出身のマラソンランナー、スポーツ指導者。 熊本県立玉名高等学校を経て、1959年、東京教育大学体育学部卒。 大学卒業後、東京急行電鉄陸上部監督を経て,東急鯱パスKK勤務の傍ら数々のマラソンランナーの育成に努める。 経歴が日本マラソンの父である金栗四三と同一である。
永井 康郎(ながい やすお、1936年9月16日 - 201… 永井 康郎(ながい やすお、1936年9月16日 - 2014年4月21日)は、日本の実業家、馬主。トヨタカローラ三重株式会社の代表取締役社長を務めていた。明治大学政治経済学部出身。 1936年生まれ。トヨタカローラ三重株式会社の代表取締役専務を経て第3代代表取締役社長を務めた。退任後は同社相談役のほかネッツトヨタノヴェル三重株式会社相談役、永井自動車工業株式会社相談役などを務め、2014年に死去した。77歳没。トヨタカローラ三重で要職を歴任した現名誉会長の永井啓弐は兄。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は緑、赤袖緑一本輪、冠名には三重県に関する語を取り入れる兄の啓弐とは異なり、フランス語で「ありがとう」を意味する「メルシー」を用いた。
浅川 皓司(あさかわ こうじ、1936年8月26日 - )は… 浅川 皓司(あさかわ こうじ、1936年8月26日 - )は、日本の実業家、馬主。 1936年、浅川勘一郎の次男として東京都に生まれる。1960年に京都大学医学部薬学科を卒業後、勘一郎が社長を務めていた東京化成工業取締役を経て、1968年より同社社長に就任。2010年まで同職に在任したのち会長に転じ、2020年より相談役に就任。1992年に藍綬褒章を受章している。 妻の京子は東京化成工業監査役。趣味は競馬、邦楽。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録している馬主としても知られる。勝負服の柄は赤、青袖、白縦縞、冠名には「アゲン」を用いる。馬主になったきっかけは学生時代の友人から競走馬の共有を持ちかけられたことであるといい、4人ほどで競走馬を所有していたが、仲間は次々と馬主を辞め、最終的に残ったのは浅川のみであったという。
関口 房朗(せきぐち ふさお/ふさろう、1935年12月20… 関口 房朗(せきぐち ふさお/ふさろう、1935年12月20日 - 2018年5月以前)は、日本の実業家、馬主。血液型はA型。愛称は「フサロー」。多くの派手な逸話により、「豪快馬主」「異色の経営者」と評された。 名前の読みに関しては、「ふさお」とする記載、「ふさろう」とする記載で分かれているが、自身の公式サイトのプロフィールにおいては「ふさお」としている。 兵庫県尼崎市出身。尼崎市立尼崎産業高等学校を中退後、2年ほど個人経営の運送業を営むが、腰の支障により体を崩し廃業。その後は実家の工場「関口工業技術」の営業として勤務。1961年に、名古屋に移り「関口工業技術」名古屋出張所長になる。1963年に関西精器を設立し、代表取締役社長に就任するが、1973年に倒産。
成宮 明光(なるみや あきみつ、1935年11月2日 - 2… 成宮 明光(なるみや あきみつ、1935年11月2日 - 2007年11月10日)は、日本中央競馬会・中山競馬場→美浦トレーニングセンター北に所属していた元調教師、有限会社明成牧場の元代表者である。神奈川県出身。 牧場経営を志し、高校卒業後すぐに青森県へ移住。現地の牧場主から獣医師の資格を取得するよう勧められ、日本獣医畜産大学へ入学。獣医師免許を取得した後の1959年、日本中央競馬会の獣医師を兼務する形で中山・杉浦照厩舎所属の厩務員となり、後に調教助手となった。 1964年、調教師免許を取得する。28歳4か月での調教師免許取得は最年少記録であり、獣医師・大学卒業者としても初の調教師となった。1965年、中山競馬場で厩舎を開業。
大久保 正陽(おおくぼ まさあき、1935年8月23日 - … 大久保 正陽(おおくぼ まさあき、1935年8月23日 - 2023年1月21日)は、日本の元騎手(日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。 父の大久保亀治は、尾形藤吉門下の元騎手・元調教師。祖父の大久保福松は函館大経の弟子。弟の大久保光康も元騎手・元調教師(日本中央競馬会)。子の大久保龍志は現在も開業中の調教師(日本中央競馬会)。美浦所属の元調教師大久保洋吉は父方の従弟。孫の大久保友雅は栗東所属の騎手。 兵庫県鳴尾で7人きょうだいの3人目(次男)として生まれる。1952年に騎手見習い、騎手候補生を経て1957年に父・大久保亀治の厩舎所属の騎手となる。なお1954年4月に立命館大学法学部に入学し、夜に通学しながら厩舎での仕事を続ける生活を両立させ、学士号を取得している。
永井 啓弐(ながい けいじ、1935年1月25日 - 202… 永井 啓弐(ながい けいじ、1935年1月25日 - 2025年7月23日)は、日本の実業家、馬主。 トヨタカローラ三重株式会社の重役を歴任したほか、馬主として「スズカ」などの冠名で知られ、宝塚記念などを制したサイレンススズカや天皇賞馬スズカマンボといった競走馬を所有。中京馬主協会会長も務めた。現在の馬主登録上の表記は永井 啓弍で、2001年6月7日付で変更されている。 レーシングドライバーでトヨタカローラ三重代表取締役社長、トヨタホーム三重代表取締役社長の永井宏明と同じくレーシングドライバーでネッツトヨタノヴェル三重代表取締役社長である永井秀貴は息子。 日本中央競馬会(JRA)に登録する馬主としても知られる。
森中 蕃(もりなか しげる、1934年11月29日 - 20… 森中 蕃(もりなか しげる、1934年11月29日 - 2022年10月17日)は日本の実業家、馬主。兵庫県神戸市出身。 神戸市中央区にある証券会社である光証券株式会社の前代表取締役会長。 中央競馬、地方競馬の馬主で、小田切有一、細川益男らとともに珍馬名の名付け親として知られる。勝負服は緑、赤星散、赤袖。冠名には「シゲル」を用いる。かつて宝石の卸売りをしていたことがあり、その時の仲間で馬を持とうということになったことから、1970年代より馬主としての活動を始めた。阪神馬主協会の会長を経て、日本馬主協会連合会の相談役を歴任。モットーは「安くて走る馬を見つける」。馬を選ぶポイントについて、「一番大切にしているのは歩様。
吉永 忍(よしなが しのぶ、1934年10月22日 - 20… 吉永 忍(よしなが しのぶ、1934年10月22日 - 2000年8月16日)は、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。 1953年に国営競馬(翌年より日本中央競馬会)で騎手デビューし、1974年まで騎乗。1978年より調教師として開業し、1989年には管理馬サンドピアリスでエリザベス女王杯を制した。2000年に在職のまま死去。 宮崎県北諸県郡高城町出身。農業を営んだ実家では農耕馬を飼養していたが吉永はこれに触れたことさえなく、中学校卒業後には船員として就職が決まっていた。しかし当時身長132cmと非常に小柄で、従兄に騎手をしていた吉永猛がいたこともあり、競馬会の職員を兄にもつ担任教師から騎手になることを勧められる。
池田 實(いけだ みのる、1934年 - )は、日本の実業家… 池田 實(いけだ みのる、1934年 - )は、日本の実業家、馬主。酒類卸売を手がけるワイン&フードこにし代表、ワインバーや居酒屋を経営する有限会社海幸代表取締役。 大阪府大東市出身。大阪府立大学経済学部を卒業し、もともとは1877年に創業した米屋であった家業を継ぎ、のちに酒類卸売に業務転換。現在大東市で「ワイン&フードこにし」などを運営する。 日本中央競馬会(JRA)に登録する馬主としても知られる。勝負服の柄は桃、紫襷、緑袖紫二本輪。冠名には当初は「ハジメ」を用いたものの、所有馬の故障が多く、「無事是名馬」の考え方から「安全」を意味する「セフティー(safety)」を、また「安全だけでは走らない」ということから「翼」を意味する「ウイング(wing)」の2種を主に用いた。