三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 … 三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 - 1934年(昭和9年)5月26日)は、日本の農商務官僚。憲政会・民政党系県知事。 大分県日田町で三松則之の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り農商務属となる。 以後、農商務省山林局事務官、同省農務局事務官、同省書記官などを歴任。 1914年7月、鳥取県知事に就任。1917年1月、同知事を退任。横浜市助役を経て、1924年6月、山口県知事となる。1925年10月、新潟県知事に就任。1927年4月、同県知事を退任。1929年7月、新潟県知事に再任され、1930年8月まで務め退官した。
中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月… 中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月29日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 香川県出身。中山小平次の二男として生まれる。第四高等学校を卒業。1903年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。台湾総督府に入り同府警部となる。 以後、台湾総督府警視兼同参事官を経て内務省に転じ、茨城県警察部長、熊本県内務部長などを歴任。 1921年5月、熊本県知事に昇格。1922年10月、関東庁警務局長に転任。1927年5月、茨城県知事に就任。同年7月、石川県知事に転任。1929年7月、休職となる。
川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6… 川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6日 - 1954年(昭和29年)3月10日)は、日本の内務官僚。 鹿児島県日置郡吹上町(日置市)出身。川越重常の二男として生まれる。鹿児島高等中学造士館予科、第五高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り神奈川県属となる。岩手県事務官、鳥取県事務官・警察部長、香川県事務官・警察部長、奈良県事務官・内務部長、徳島県・長野県・福岡県の各内務部長などを歴任。 1919年(大正8年)4月より沖縄県知事を務め、1921年(大正10年)5月から1924年(大正13年)6月まで徳島県知事を務めた。
堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926… 堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926年2月3日)は、日本の内務官僚。警視総監、内務次官。 福島県安積郡河内村(現:郡山市)で堀田喜左衛門の二男として生まれる。安積中学、第二高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。逓信省に入り通信属として通信局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に転じ内務属として地方局に配属された。 1905年11月、千葉県事務官に就任。以後、千葉県第三部長、神奈川県事務官、茨城県事務官・警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長、内務省参事官兼内務大臣秘書官兼官房文書課長、大臣官房会計課長兼文書課長、京都府内務部長などを歴任。
泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27… 泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27日 - 1947年〈昭和22年〉10月25日)は、日本の刑法学者、裁判官、司法官僚。第20代大審院長、第13代大審院検事総長、枢密顧問官。法学博士。奄美大島出身で、「東京奄美会」初代会長。 鹿児島県大島郡中勝村、現在の龍郷町中勝出身。泉二当整の長男。中勝小学校簡易科に入学し、後に簡易科廃止・学校統合により戸口小学校に通学。1887年(明治20年)名瀬小学校に転校し、その後同校を卒業。1889年(明治22年)、名瀬に高等小学校が設置され、1期生として入学。1890年(明治23年)、母方の叔父である大島信の勧めにより、高等小学校1年修了で上京して郁文館中学校(旧制)に入学。
吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月… 吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月6日 - 1937年(昭和12年)10月10日)は、山口県出身の文部官僚。日本語学者。
加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)… 加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)は日本統治下の台湾における官僚。台北庁長、台中庁長、台中州知事などを務めた。 原籍は長崎県。東京府北豊島郡滝野川村に生まれ、1891年(明治24年)第一高等学校 (旧制)に入学、1896年(明治29年)陸軍士官学校に入学。1899年東京帝国大学法科大学仏法科卒業後、日露戦争勃発により招集されて主計少尉となり、第1軍付きの国際法顧問として出征。 1905年に台湾地方院検査官となり、1909年より台湾総督府警務課長、保安課長などをへて1914年に台北庁長就任。1917年、総督府事務官に転任、1918年、台北局林務課長に任命され、1919年に台中庁長、翌年地方制度改革に伴い台中州知事に就任したが、 1921年(大正10年)2月、台中疑獄事件により解任され、台湾証券公取の設立準備を進める中、脳出血に腎臓病を合併し46歳で死去した。
西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 … 西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 - 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。 茨城県出身。西野元聿の長男として生まれる。水戸中学校、第一高等学校を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に首席合格。同年12月、臨時秩禄処分調査局属兼大蔵属に任官。一時期、上京してきた同郷の荒川敬を寄寓させていた。
肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 195… 肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 1955年6月5日)は、日本の逓信官僚、実業家。逓信省初代電気課長、初代電気局監理課長、第3代電気局長を歴任して電気行政に貢献し、退官後は住友合資(住友本社)理事や住友の関連会社の各役員を務めた。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町生まれ。鹿児島県士族肥後宗右衛門の二男。1895年7月、鹿児島高等中学造士館予科を卒業。1897年7月、第五高等学校大学予科第一部を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務省入省。同年の文官高等試験に合格。1902年3月、静岡県参事官に任じられる。1903年2月、分家。1903年11月、逓信省参事官兼逓信書記官に転じる。
永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日… 永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日 – 没年不詳)は、日本の内務官僚。神戸市助役。 静岡県榛原郡菅山村(現在の牧之原市)出身。第一高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大学院に進んだ。翌年11月、文官高等試験行政科試験に合格。千葉県立千葉中学校教諭、青森県視学官、同事務官、同警察部長、福岡県事務官、沖縄県事務官、同内務部長、岩手県内務部長を歴任し、1919年(大正8年)に休職となった。 その後、1921年(大正10年)から神戸市助役を務めた。
平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 … 平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 廣義、1875年9月2日 - 1948年1月26日)は、日本の内務官僚。1府3県の知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員などをつとめた。正三位勲二等、山形県士族。父は新庄藩士の平塚榮次郎、弟は蚕糸学者で文化功労者の平塚英吉、長男は俳優・著述家の九重京司(本名・平塚広雄)である。
阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 … 阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 - 1928年(昭和3年)7月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事。板垣伯銅像記念碑建設同志会会長。 大分県出身。藩士・阿部寛平の四男として生まれ、伯父・阿部富太郎の養子となる。第五高等学校を卒業。1904年、東京帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、宮崎県事務官、栃木県事務官・第二部長、福島県事務官・警察部長、埼玉県内務部長、宮城県内務部長、兵庫県内務部長などを歴任。 大正8年(1919年)4月、高知県知事に就任。1922年10月、広島県知事に転任。1923年10月、知事を辞任し退官した。
森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - … 森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - 1934年(昭和9年)1月19日)は、日本の大蔵官僚、貴族院勅選議員。 佐賀県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学卒業。同年7月に大蔵省に入り、11月に文科高等試験に合格した。司税官・大蔵書記官・大臣秘書官・参事官・馬政局書記官・専売局主事・日本銀行監理官などを歴任した。その後、財務官となりイギリス・フランス駐在を命じられた。 1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員に任命され、翌年には国際経済会議委員や第一次世界大戦の賠償に関するジュネーヴ会議政府代表に任命された。1922年(大正11年)、ジュネーヴ経済財政会議全権委員。
米田 甚太郎(よねだ じんたろう、1875年(明治8年)8月… 米田 甚太郎(よねだ じんたろう、1875年(明治8年)8月27日 - 1938年(昭和13年)3月4日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚。実業家。 富山県出身。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に判事検事登用試験と弁護士試験に合格した。司法官試補、宮津区裁判所判事、札幌区裁判所・札幌地方裁判所検事を務めた。1905年(明治38年)に北海道庁警視に転じ、栃木県事務官・警察部長、秋田県内務部長、石川県内務部長を歴任した。さらに朝鮮総督府に移り、忠清北道知事、平安南道知事、京畿道知事を務めた。 退官後は、朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電気株式会社取締役、天安電灯株式会社取締役などに就任した。
青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月2… 青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月26日 - 1946年(昭和21年)12月1日)は、日本の鉄道官僚、貴族院勅選議員、横浜市長。 山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)出身。青木周哲の三男として生まれ、青木五百輔の養子となる。盛岡中学を経て、1898年(明治31年)第二高等学校卒業。1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後、鉄道書記となり、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任した。 1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。1921年(大正10年)横浜市電気局長に就任し、1923年(大正12年)には助役として関東大震災の対応に尽力した。
升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15… 升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15日 - 1949年(昭和24年)5月10日)は、日本の政治家、官僚、弁護士、陸軍軍人。衆議院議員(立憲民政党)。最終階級は陸軍大尉。 島根県飯石郡赤名村(現・飯石郡飯南町)に難波常八郎の子として生まれ、伯母升田きしの養子となった。1900年(明治33年)11月21日、陸軍士官学校(12期)を卒業し、1901年(明治34年)6月25日、歩兵少尉に任官。日露戦争への従軍を経て、陸軍大尉に累進した。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業し、1913年(大正2年)には法律科を卒業した。高等文官試験に合格し、陸軍省参事官、岐阜県不破郡長、同本巣郡長、国勢院事務官、同書記官、大蔵事務官、国勢院総裁秘書官を歴任し、1922年(大正11年)に退官して弁護士を開業した。
米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5… 米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5日 – 1938年(昭和13年)12月16日)は、逓信官僚。 奈良県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、同大学院で学び、1902年高等文官試験に合格した。逓信省通信書記、通信事務官、一等郵便局長、長野郵便局長、逓信管理局事務官、関東都督府事務官、逓信省参事官、九州逓信局長などを歴任した。1924年(大正13年)、逓信次官に就任した。 退官後、第15回衆議院議員総選挙に出馬したが、当選を果たせなかった。 その後、逓信協会会長を務めた。
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31… 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。 東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業して農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)官僚となり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇り詰めた。退官して約20年を経た1946年(昭和21年)に枢密顧問官に補され、枢密院が廃止されるまで在任した。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月… 小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月2日 - 1944年(昭和19年)12月17日)は、日本の教育者、文部官僚。 岡山県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。1902年(明治35年)、第七高等学校造士館教授に就任し、1908年(明治41年)に第八高等学校教授に転じた。1922年(大正11年)、文部省督学官となり、翌年には姫路高等学校校長に就任した。その後、第八高等学校校長となり、1940年(昭和15年)1月に退官した。退官後は第八高等学校名誉教授の称号を受けた。 また同年3月から翌年にかけて、富山高等学校校長事務取扱を務めた。
入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 … 入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 - 没年不詳)は、関東州官僚・朝鮮総督府官僚。青島民政署長。 旧徳山藩藩士入沢義温の長男。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、台湾総督府属となった。1903年(明治36年)高等文官試験に合格し、1905年(明治38年)に関東州民政署事務官となった。旅順民政署長事務取扱、関東都督府参事官・事務官、同秘書官を歴任。1912年(大正元年)、朝鮮総督府書記官に転じ、京畿道第一部長などを務めた。さらに青島守備軍に転じ、民政部総務部長、青島民政署長を務めた。 退官後は、朝鮮鉄道株式会社副社長に就任した。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5… 関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5月4日 - 1950年〈昭和25年〉6月10日)は、日本の官僚・政治家。 宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員、日本銀行監事、朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - … 松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚。京阪電気鉄道常務取締役。 広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる。 京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。
中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日… 中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 宮城県出身。仙台藩士・中川操吉の二男として生まれる。第二高等学校を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属・総務局文書課兼地方局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1903年(明治36年)7月、福島県参事官に就任。以後、兵庫県参事官、内務省参事官・衛生局保健課長、地方局市町村課長、埼玉県内務部長などを歴任。1909年(明治42年)12月から1911年2月まで欧米へ出張した。
皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7… 皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7日 - 1958年(昭和33年)3月7日)は、司法官僚、検事、判事。 愛媛県松山市出身。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補として大阪地方裁判所に勤務した。翌年、日露戦争が勃発すると第四軍司令部附国際法顧問として従軍した。 1906年(明治39年)、大阪地方裁判所予備検事となり、小倉区裁判所検事、東京地方裁判所検事を歴任した。1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催された万国刑法会議に出席した後、フランス・ドイツ・スイスに留学した。1913年(大正2年)に帰国後、司法書記官・大臣官房職員課長に任命され、法律取調委員会幹事も務めた。
東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月… 東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月4日 - 1934年(昭和9年)2月26日)は、明治から昭和初期の内務・警察官僚、政治家、華族。官選富山県知事、貴族院子爵議員。 東京府出身。侍従・宮中顧問官・子爵、東園基愛の長男として生まれる。学習院高等学科を経て、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年、文部省に入省し普通学務局属となる。1904年(明治37年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1905年(明治38年)内務省に転じ内務属となる。以後、岡山県事務官、静岡県事務官・第二部長、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、茨城県内務部長、東京府内務部長などを歴任。
飯尾 藤次郎(いいお とうじろう、1875年(明治8年)2月… 飯尾 藤次郎(いいお とうじろう、1875年(明治8年)2月27日 - 1943年(昭和18年)9月9日)は、日本の検察官、内務・警察官僚。政友会系官選県知事。 愛媛県出身。飯尾東平の三男として生まれた。1903年、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法省に入省。岐阜地方兼同区裁判所検事を務めた。 1907年8月28日、内務省に転じ大阪府警視に就任。以後、高知県事務官・警察部長、新潟県事務官・警察部長、富山県内務部長、宮城県内務部長、熊本県内務部長、平安北道知事、黄海道知事などを歴任。 1927年5月7日、沖縄県知事に就任。経済の振興、中等教育の振興、政友会の党勢拡張に尽力。1928年12月26日、岩手県に転任。
土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 … 土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 - 1946年(明治21年)3月22日)は、日本の内務官僚・政治家。府県知事、北海道庁長官、京都市長。 和歌山県那賀郡、のちの山崎村(岩出町を経て現岩出市)出身。土岐綱右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1901年、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。 1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り土木局に配属された。以後、山梨県参事官、内務省書記官、同参事官、大阪府内務部長などを歴任。 1914年6月、高知県知事に就任。地元の利害に直結する市町村の土木補助費問題に関して、県議会での調整に尽力した。
大園 栄三郎(おおぞの えいざぶろう、1875年(明治8年)… 大園 栄三郎(おおぞの えいざぶろう、1875年(明治8年)2月1日 - 1939年(昭和14年)1月22日)は、衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、鉄道官僚。 奈良県宇智郡五條町(現在の五條市)に小川栄造の二男として生まれ、大園恵戎の養子となった。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。逓信属、鉄道事務官を務め、1914年(大正3年)には鉄道院理事、監督局長に就任した。 1919年(大正8年)に退官。その後は、東海道電気鉄道株式会社専務取締役となり、さらに北恵那鉄道株式会社取締役となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
財部 実秀(たからべ さねひで、1875年(明治8年)1月2… 財部 実秀(たからべ さねひで、1875年(明治8年)1月21日 - 1968年(昭和43年)4月8日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選島根県知事、都城市長、千葉市長。 宮崎県北諸県郡下長飯村(現:都城市)出身。財部実篤の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1903年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し神奈川県警部となる。 1904年6月、警視庁属兼同警部に就任。以後、警視庁警視・小松川警察署長、麻布区警察署長、秋田県事務官・第四部長、同事務官・警察部長、北海道庁事務官・警察部長、北海道庁警察部長、福島県内務部長、鳥取県内務部長などを経て、1917年10月、広島県内務部長となる。
若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日… 若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日 - 昭和21年(1946年)9月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員。東京府平民。位階および勲等は従三位・勲二等。 元総理大臣の橋本龍太郎および元高知県知事橋本大二郎の外祖父。 兵庫県城崎郡豊岡町(現在の豊岡市)の西楽寺に、熊本県人で僧侶である若宮正海の三男として生まれる。 開成中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し、同年12月、逓信省に入り逓信属・管船局勤務となる。また、兄正音の養子となる。 1902年(明治35年)家督を相続する。 北海道逓信局長、北部逓信局長、管船局長兼高等海員審判所長、戦時船舶管理局長などを歴任。
広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年(明治8年)1月 … 広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年(明治8年)1月 - 1936年(昭和11年)5月2日)は、日本の内務官僚。官選宮崎県知事。旧姓・豊田。 香川県出身。豊田官吾の二男として生まれ、広瀬トセの養子となる。第三高等学校を卒業。1904年、京都帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、北海道庁事務官・第二部長、群馬県事務官、和歌山県事務官・警察部長、内務書記官、長野県内務部長、徳島県内務部長、長崎県内務部長などを歴任。 1919年8月、宮崎県知事に就任。新設の県立中学校について、前堀内秀太郎知事が飫肥町(現日南市)に設置の内定を出していたが、広瀬に引き継がれなかったのか下穂北村(現西都市)に設置を約束した(妻中学校)。
久世 庸夫(くせ つねお、1875年 - 1945年7月31… 久世 庸夫(くせ つねお、1875年 - 1945年7月31日)は、日本の政治家、大蔵官僚。 第8,9,12,13代福岡市長。
錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日… 錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は、内務官僚。長崎市長。 愛媛県出身。 父は判事を務めた錦織義弘・リウの子。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1899年(明治32年)に高等文官試験に合格した。内務属、秋田県参事官、鹿児島県参事官、山形県事務官、長崎県港務長、島根県事務官、山梨県内務部長、千葉県内務部長、新潟県内務部長などを歴任した。1917年(大正6年)に休職となった後は、日本スレートアスフハルト工業株式会社取締役、証券交換所株式会社取締役を務めた。 1922年(大正11年)、長崎市長に選出された。
小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉1… 小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉11月15日 - 1934年〈昭和9年〉5月19日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選秋田県知事、静岡市長。 群馬県勢多郡駒形町(現・前橋市)出身。小島彦右衛門の二男として生まれる。群馬県尋常中学校、私立日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し総務局属となる。 以後、広島県参事官、内務省参事官、関東州民政署事務官・旅順支署長、関東都督府民政署長、長崎県事務官・第四部長、静岡県事務官・内務部長などを経て、1913年6月、兵庫県内務部長となる。
金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)1… 金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)11月1日 - 1927年(昭和2年)1月26日)は、明治から大正時代の土木工学者、内務官僚。旧姓は伊藤。 伊藤宗兵衛の二男として愛知県に生まれ、金森きくの養子となり、1899年(明治32年)8月に家督を相続した。1900年(明治33年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省第五区(大阪)土木監督署に奉職する。淀川改修工事では瀬田川の洗堰、浚渫などを指揮した。ほか、琵琶湖の治水に携わった。 1911年(明治44年)内務省土木局調査課へ転じ、土木局第一技術課、第二技術課長を歴任した。この間、臨時治水調査会、港湾調査会委員などを務めたが、在職中に死去した。
坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 … 坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 - 1944年11月14日)は、日本の官僚・内務技官。土木技師・土木工学者。関西高等工学校・関西高等工業学校(現:大阪工業大学)第2代理事長。工学博士(東京帝国大学)。内務省大阪土木出張所元所長。土木学会元関西支部長。元阪神上水道組合長。河川工学(特に淀川)の権威の一人。位階は従三位、勲等は勲三等。 専門は、土木工学・河川工学/海岸工学、水工学。 1874年宮城県仙台生まれ。1900年東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省第5区(大阪)土木監督署にて主任として、淀川第1工区改修工事に従事。1911年同省東京土木出張所に異動し、利根川第3期改修工事従事に従事。
中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月2… 中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月25日 - 1927年(昭和2年)9月23日)は、明治期〜大正期の官僚。逓信次官。南満州鉄道副社長。
木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 19… 木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 1923年9月6日)は、日本の鉄道官僚。鉄道事業を旅客サービス業としてとらえ、鉄道サービスの向上を旨として尽力したが、改主建従の考えで時の政権と対立して左遷された。 日本を観光による経済振興および観光による鉄道旅客収入増加の必要性を説き、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社)の生みの親となった。また東京ステーションホテル開設に尽力し、日本を欧米に紹介するために発行された旅行ガイドブックである『An Official Guide to Eastern Asia』(東アジア旅行案内)の発案者でもある。 1874年9月23日、京都府熊野郡神野村(現在の京丹後市久美浜町神野)の酒蔵の長男として生まれる(旧名梅蔵)。
河野 秀男(こうの ひでお、1874年(明治7年)9月4日 … 河野 秀男(こうの ひでお、1874年(明治7年)9月4日 - 1938年(昭和13年)3月12日)は、日本の官僚。会計検査院長、貴族院勅選議員。 長野県下伊那郡河野村(現豊丘村)生まれ。1889年(明治22年)体育伝習所(現筑波大学体育専門学群)を卒業後、帰郷し飯田学校の体育教員となったが、再度上京し、1896年(明治29年)東京法学院(現中央大学)卒業。 1897年(明治30年)文官高等試験に合格し、1898年(明治31年)司法省属となり、1900年(明治33年)会計検査院に転じて1905年(明治38年)衆議院書記官を兼任し、1933年(昭和8年)会計検査院長となる。1934年(昭和9年)勲一等瑞宝章・勲一等旭日大綬章受勲。
鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 … 鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 - 1933年(昭和8年)8月23日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府出身。神田共立中学(現開成中)、第一高等中学(一高)を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業。1902年、福山藩士町野精蔵次女鈴子と結婚。大蔵書記官を経て、朝鮮総督府で度支部司税局長、度支部長官・臨時土地調査局長、朝鮮銀行副総裁を歴任した。 1925年(大正14年)に退任後は、京都電機株式会社取締役会長を務め、1932年(昭和7年)からは関東軍司令部嘱託、関東軍特務部財政経済顧問となり、満州に駐在。翌年、パラチフスに罹患し永眠す。多磨霊園(12-1-1-3)に埋葬される。
池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7… 池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7年)7月3日 - 1963年(昭和38年)3月23日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲民政党)、大蔵官僚、弁護士。カナモジ会理事。 三重県度会郡宇治山田町(宇治山田市を経て現在の伊勢市)出身。三重平民・赤坂敬二の三男、あるいは六男として生まれ、池田房明の養子となった。 1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。大蔵省専売局事務官、専売局参事、専売局長官官房監理課長などを経て、1917年(大正6年)からは印刷局長を務めた。 1928年(昭和3年)、退官。三重県第二区より第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
古谷 久綱(ふるや ひさつな、明治7年(1874年)6月17… 古谷 久綱(ふるや ひさつな、明治7年(1874年)6月17日 - 大正8年(1919年)2月12日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。伊藤博文の秘書官を長く務めた。 愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市)出身。明治26年(1893年)、同志社を卒業した。日清戦争の際には、国民新聞記者として第2軍司令部に従軍した。明治32年(1899年)、ブリュッセル自由大学に論文を提出し、博士号を得た。 明治33年(1900年)、帝室制度調査局事務嘱託・東京高等商業学校(現在の一橋大学)教授となったが、帝室制度調査局総裁伊藤博文の目に留まり、同年に伊藤が内閣総理大臣に就任すると、内閣総理大臣秘書官に起用された。
岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月1… 岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月12日 – 1936年(昭和11年)5月22日)は、日本の農商務官僚、衆議院書記官長。東京株式取引所理事長。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)に勝部又一郎の二男として生まれ、衆議院議員岡崎運兵衛の養子となった。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務省山林局事務官、群馬県事務官、福井県事務官、農商務省参事官、同書記官、大阪鉱務署長、農商務省大臣官房文書課長などを歴任し、1915年(大正4年)に衆議院書記官長に就任した。 退官後は東京株式取引所理事・理事長を務めた。その他に第三国立銀行取締役、大社宮島鉄道取締役、松陽新報社社主などを務めた。
緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5… 緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5月18日 - 1951年〈昭和26年〉10月21日)は、日本の内務・警察官僚。位階は正五位。官選青森県知事、警視庁消防部長。 熊本県出身。緒方夫門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年3月、内務省に入省し警視庁属兼警部となる。 1910年、警視庁警視・神田警察署長に就任。以後、浅草南元町警察署長、麻布鳥居坂警察署長などを経て、1915年、警視庁消防部長となり、9年間在任した。 1924年6月6日、青森県知事に発令されたが、在任18日後の6月24日に休職となる。その理由は不明である。
蒲原 久四郎(かんばら きゅうしろう、1874年(明治7年)… 蒲原 久四郎(かんばら きゅうしろう、1874年(明治7年)5月18日 - 1933年(昭和8年)1月29日)は、日本の逓信官僚。朝鮮総督府官僚。 佐賀県出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。通信事務官・東京郵便電信学校教授、神戸郵便局監理課長、横浜郵便局監理課長、鹿児島郵便局長、逓信書記官・経理局検査課長、新潟逓信管理局長、名古屋郵便局長、西部逓信局総務部長、通信局規画課長、臨時電信電話建設局広島出張所長、朝鮮総督府逓信局長を歴任した。 1933年(昭和8年)1月29日、糖尿病のため朝鮮京城府東四軒町(現大韓民国ソウル特別市中区奨忠洞)の自宅で死去、58歳。
永井 金次郎(ながい きんじろう、1874年(明治7年)5月… 永井 金次郎(ながい きんじろう、1874年(明治7年)5月3日 - 1927年(昭和2年)4月3日)は、日本の内務官僚。政友会系官選高知県知事、樺太庁長官。 新潟県出身。1897年、東京法学院(現:中央大学)を卒業。同年、判事検事登用試験に合格し司法官試補となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1898年、内務省に転じ青森県在勤となる。 以後、青森県参事官、千葉県参事官、広島県事務官、富山県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長などを歴任。 第1次山本内閣により1913年6月、高知県知事に任命された。県財政の積極的拡大を図った。1914年6月に休職となった。1917年1月、小樽区長に就任。
三井 米松(みつい よねまつ、1874年(明治7年)4月27… 三井 米松(みつい よねまつ、1874年(明治7年)4月27日 – 1953年(昭和28年)4月15日)は、農商務官僚、商工官僚。実業家。 旧対馬藩士佐伯雲平の二男として佐賀県(後に三潴県、長崎県となる)下県郡厳原に生まれ(兄は教育者の佐伯小弥太)、後に福山藩士三井豊次郎の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業した。さらに同大学法科大学に入り、1906年(明治39年)に英法科を卒業した。翌年に農商務省に入省。水産局属。水産講習所教授、水産局書記官、農商務書記官、福岡鉱務署長、東京鉱務署長、農商務省水産局長、商工省鉱山局長、社会局参与などを歴任した。
堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月1… 堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。 福岡県御井郡、のちの三井郡大城村(北野町を経て現久留米市)出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。 1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。