音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日… 音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉2月6日)は、日本の皇族(朝香宮家)、華族、海軍軍人。クェゼリンの戦いにて戦死。最終階級は海軍少佐。栄典は正四位勲一等功四級侯爵。臣籍降下以前の皇族としての名と身位は正彦王(ただひこおう)、敬称は殿下。 1914年(大正3年)1月5日、朝香宮鳩彦王の第2王子として誕生。1934年(昭和9年)1月4日、貴族院皇族議員に就任。 学習院中等科卒業後、海軍兵学校入校。海軍兵学校生徒時代に宿営した広島県西条で、保存用の畳の上に寝てくれと地元民に頼まれた際には「ぼくは国民のデコレーションではないよ」と述べたという。 1936年(昭和11年)4月1日、海軍兵学校第62期卒業。
淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1… 淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1月5日 - 2001年(平成13年)7月29日)は、日本の台湾総督府官僚、陸軍司政官、陸上自衛官、弁護士。最終階級は陸将。 鹿児島県鹿児島市草牟田町に生まれる。鹿児島県立第二中学校、第八高等学校文科を経て、1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業する。同年10月高等試験行政科合格後、1936年(昭和11年)4月、台湾総督府財務局に奉職する。 ついで1938年(昭和13年)2月、地方理事官に進み、台中州大屯郡守に就任。のち高雄州警務課長、財務局事務官、台北州高等警察課長、台中州教育課長を経て、1942年(昭和17年)11月、陸軍司政官に選任され、第25軍軍政監部附となった。
松島 進(まつしますすむ、1913年1月5日 - 2009年… 松島 進(まつしますすむ、1913年1月5日 - 2009年)は 女性、ファッション写真、およびヌード肖像画で有名であった日本人写真家。 東京の牛込生まれ。1930年、東京高等工芸学校(後の千葉大学工学部画像工学科、現総合工学科デザインコース情報コミュニケーション教育研究領域)に入学し、写真を学ぶ。そこでは、大束元がフェロー学生であった。1933年に卒業後、時事新報社に入社したが、間もなく退社して日活に移り、多摩川撮影所でスチルカメラマンを務める。女性写真の第一人者として活躍した。写真家として雑誌「写真タイムズ」や写真雑誌などに投稿していた。 1948年、「写真家集団」を松木不二夫、尾崎三吉らと創立し、精力的に活動を続けた。
畑 敏雄(はた としお、1913年1月5日 - 2009年1… 畑 敏雄(はた としお、1913年1月5日 - 2009年12月31日)は、日本の化学者。東京工業大学名誉教授。元群馬大学学長。元日本接着協会会長。 大阪府出身。第一高等学校理科乙類を経て、1940年東京工業大学応用化学科卒業。太平洋戦争中は風船爆弾のこんにゃく糊研究に従事。1962年東京工業大学工学博士の学位を取得。1963年東京工業大学教授。1973年停年退官、群馬大学工学部教授。1975年群馬大学学長。元日本接着協会会長。1984年、勲二等旭日重光章を受章。2009年12月31日、東京都練馬区石神井町の自宅で急性心不全のため死去し、一行院で葬儀・告別式が執り行われた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年… 露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年1月29日)は日本の実業家。元伊勢丹代表取締役会長。 静岡県田方郡函南村(現・函南町)出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。三菱銀行副頭取を経て、1975年伊勢丹取締役、1976年伊勢丹副社長。1978年、三菱銀行出身者として初めて伊勢丹代表取締役会長に就任。1984年に伊勢丹社長に就任した、三菱銀行の部下で創業家4代目の小菅国安とともに、伊勢丹に近代経営を持ちこみ、「ファッションの伊勢丹」を作り上げた。1981年浦和店開店、1984年新潟伊勢丹開店、1987年には伊勢丹アイカードを導入。 1990年伊勢丹取締役相談役。 1995年1月29日、急性心筋梗塞のため東京都世田谷区の病院で死去。
金子 幸彦(かねこ ゆきひこ、1912年1月5日 - 199… 金子 幸彦(かねこ ゆきひこ、1912年1月5日 - 1994年7月25日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。一橋大学名誉教授。 1912年、東京市・新宿津久戸町で生まれた。私立早稲田中学校を経て、東京外国語学校ロシア語科に進学。在学中に治安維持法違反で逮捕され勾留された。 卒業後は、逓信省勤務を経て、1948年に旧制東京商科大学予科非常勤講師となった。1951年、一橋大学社会学部専任講師に採用され、ロシア語を担当。1954年に助教授、1957年に教授昇格。この間、1953年から1972年まで北海道大学スラブ研究センター(現・北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)客員研究員も兼ねた。1977年一橋大学を定年退官。
福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳… 福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳)は、日本の歌人、センテナリアン。 福岡県浮羽郡田主丸町(現:久留米市)生まれ。1932年、長崎高商(現:長崎大学経済学部)在学中に「西陵短歌」を主宰創刊すると共に、土田杏村、清水信らの「短歌建設」に参加する。卒業後、三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル)及び同系列会社に勤務しながら、1928年より新短歌(口語自由律短歌)を創り続ける。「新短歌」「芸術と自由」同人。 短歌新聞社から「新短歌作品賞」、「新短歌功績賞」を受賞。新短歌社から「新短歌功績賞」を受賞。 2012年に100歳を迎えたことが報告されていた。兵庫県芦屋市在住していた。
能村 登四郎(のむら としろう、1911年1月5日 - 20… 能村 登四郎(のむら としろう、1911年1月5日 - 2001年5月24日)は、日本の俳人。水原秋桜子に師事、「沖」を創刊・主宰。東京都出身。 東京都台東区谷中に、7人兄弟の四男として生まれる。1918年、東京都北区田端に引っ越し、錦城中学に入学する。中学時代、伯父から手ほどきを受けて俳句をはじめる。1931年、國學院大學高等師範部に入学、国文学を学ぶ。在学中、短歌同人誌『装填』に参加し、林翔と出会う。1938年、俳誌『馬酔木』に入会、水原秋桜子に師事。同年、私立市川学園の教諭となる。同校は林翔も教員として勤めた。 1945年、応召。除隊後、教員に復職し、1946年に復刊した『馬酔木』に投句を再開。
原 寛(はら ひろし、1911年1月5日 - 1986年9月… 原 寛(はら ひろし、1911年1月5日 - 1986年9月24日)は、日本の植物学者。東京府東京市神田区出身。日本植物学会元会長。昭和天皇の植物研究の相談役も務めた。父は元枢密院議長の原嘉道。 東京帝国大学(現:東京大学)卒業。東京大学助教授時代の1950年(昭和25年)には、科学委員による合同進講の機会に昭和天皇に日本ツツジの分類・分布について進講した。また、同年10月2日には、本田正次とともに皇居に招かれ、昭和天皇と吹上御苑内を散策しながら植物調査を行った。1952年(昭和27年)以降も、しばしば皇居や那須御用邸で行われる合同進講や植物採集などにも参加。 1957年(昭和32年)に東京大学教授となる。
茶木 滋(ちゃき しげる、1910年 (明治43年)1月5日… 茶木 滋(ちゃき しげる、1910年 (明治43年)1月5日-1998年(平成10年)11月1日)は日本の作詞家、薬剤師。神奈川県横須賀市出身。童謡・めだかの学校(作曲・中田喜直)の作詞者として著名。旧制鎌倉中学校(現 鎌倉学園)、明治薬学専門学校 (旧制)(現・明治薬科大学)卒業。 1946年、小田原市の荻窪用水でのこと。幼い息子と散歩をしていて、少し先をいく息子が荻窪用水の水をのぞき込んだ。息子に「やあ、めだかがいるよ」と言われて自分ものぞき込むとめだかはいなかった。息子に「あんまり大声を出すんで逃げてしまったよ」というと、「大丈夫、また来るよ。だってここはめだかの学校だもん」と息子は言った。
下川 常雄(しもかわ つねお、(1910年(明治43年)1月… 下川 常雄(しもかわ つねお、(1910年(明治43年)1月5日 - 2003年(平成15年)7月22日)は、日本の実業家。住友ゴム工業二代目社長・会長、兵庫県教育委員長。 福岡県嘉穂郡二瀬村(現:飯塚市)片島出身。地主・村長の下川久次郎の三男。1928年(昭和3年)に第五高等学校に入学、柔道部に属した。東京帝国大学商業学科を経て、1934年(昭和9年)、住友電気工業に入社。高校の1年先輩の鍋島綱利宅に下宿、その後も家族ぐるみでの交流を続けた。 日中戦争勃発後は内地の歩兵第24連隊留守隊に応召し、1937年(昭和12年)12月、歩兵少尉に任官。翌1938年夏、補充要員として上海に上陸し、歩兵第124連隊の連隊旗手となり、杭州、ついで南支方面に転じ、バイアス湾上陸作戦に参加した。
武者小路 実光(むしゃこうじ さねみつ、1910年1月5日 … 武者小路 実光(むしゃこうじ さねみつ、1910年1月5日 - 1995年4月29日)は、フランス文学者。東京大学名誉教授。 子爵武者小路公共の長男として東京に生まれる。1916年、学習院初等科に入学。1932年東京帝国大学仏文科卒。東京大学教養学部助教授、教授、1971年定年退官、獨協大学教授。1987年東京大学名誉教授。 異母弟に武者小路公秀、叔父に武者小路実篤、祖父に武者小路実世、外祖父に毛利元徳がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日… 津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉6月27日)は、日本の詩人。兄は映画評論家の津村秀夫。 法学博士・津村秀松を父として、兵庫県神戸市葺合区に生まれる。官僚・小山健三は祖父。神戸一中を卒業して慶應義塾大学経済学部に入学し以後は東京に住む。慶大予科に在学中に肋膜炎にかかり、1927年(昭和2年)10月、鎌倉・坂ノ下の旅館海月楼に滞在して予後を養う。翌年3月にかけてしばしば訪れる。療養期間中に文学への素養を深めた。1930年(昭和5年)に白鳥省吾が主宰する文芸誌『地上楽園』の同人に加わり、それに詩作を発表するようになる。室生犀星に師事し、生涯にわたってその指導と愛顧を受ける。
横山 治助(よこやま じすけ、1909年 <明治42年> 1… 横山 治助(よこやま じすけ、1909年 <明治42年> 1月5日 - 1992年 <平成4年> 8月17日 )は、日本の経営者。肥後銀行頭取を務めた。位階は正五位。 熊本県出身。1930年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、高文行政科にも合格し、同年に朝鮮総督府に入庁した。1950年に鹿本製糸社長、1953年に熊本県教育長、1963年6月に同県出納長を経て、1965年5月に肥後銀行に転じ、常任監査役に就任し、1967年4月に常務、1968年10月に専務を経て、1971年5月に副頭取に就任し、同年11月には頭取に昇格した。1984年4月に会長に就任し、1990年6月には顧問に就任。 1979年4月に勲三等瑞宝章を受章。
泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996… 泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996年10月23日)は、日本の詩人・作家。栃木県文化協会会長を務めた。 栃木県塩原温泉郷の一つである福渡温泉の旅館・和泉屋の後継ぎとして生まれ、のち14代目主人となる。本名・田代太平。 大田原中学(現栃木県立大田原高等学校)在学中に、全国中学生文芸コンクールに応募したところ、1位入選となり、そのときの審査委員長が野口雨情だった縁から、生涯雨情に師事して詩を書いた。 竹久夢二とは親友であり、山岡荘八は義兄弟の仲であった。旅館には、山岡が命名した『竜胆(りんどう)の間』という部屋もあった。旅館に逗留した新鷹会の時代小説作家たちとも交わった。のち小説も書く。
佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5… 佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5日 - 1934年(昭和9年)4月5日)は、日本の男子テニス選手。1930年代前半にグランドスラムシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権ダブルス準優勝、全豪オープン混合ダブルス準優勝など国際的に活躍し、1933年に世界ランキング3位となった。グランドスラムシングルス ベスト4進出5回は現在も日本人歴代最多記録。現在日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者である。現役中に26歳で自殺した。 1908年1月5日、群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)の豪農に生まれる。旧制渋川中学校入学後、1926年4月、早稲田大学予科に進学。早稲田大学在学中に日本ランキング1位となる。
長岡 輝子(ながおか てるこ、1908年〈明治41年〉1月5… 長岡 輝子(ながおか てるこ、1908年〈明治41年〉1月5日 - 2010年〈平成22年〉10月18日)は、日本の女優・演出家。2度目の結婚以後の本名は、篠原 輝子(しのはら てるこ)。岩手県盛岡市出身。 英文学者長岡擴(ながおか ひろむ)の三女として生まれる。東洋英和女学院卒業。 文化学院文学科中退後、聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)に移る。1928年(昭和3年)に渡仏留学し、パリで2年間演劇修業、1930年(昭和5年)に帰国。アトリエ座研究所で学んだ後、後に最初の夫となった金杉惇郎と劇団テアトル・コメディを設立。劇団には当時旧制成城高校生の有島行光(森雅之)も参加した。翌年、金杉と結婚し一子(後にNHKのプロデューサーとなる沼野芳脩〈1934年 - 1997年〉)をもうけた。
中嶋 章(なかしま あきら、1908年1月5日 - 1970… 中嶋 章(なかしま あきら、1908年1月5日 - 1970年10月29日)は、日本の電気技術者。戦前の1930年代にデジタル回路設計のためのスイッチ回路の法則を提唱し、同時期に同様の理論を示したクロード・シャノンと並ぶ業績を残した。 1930年3月、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 同年、日本電気に入社し、嶋津保次郎の特殊リレー回路装置研究班に配属される。「最初のうちは、複雑な機能を要求されるリレー回路をスイスイと考え出して行かれる嶋津氏の霊力にただ感嘆するばかりで、私は何のお役にも立たなかった。」と1970年に回想している。 日本電気常務取締役を経て、1964年11月安藤電気社長に就任した[要出典]。
金 素雲(きん そうん、キム ソウン、1907年1月5日 -… 金 素雲(きん そうん、キム ソウン、1907年1月5日 - 1981年11月2日)は、韓国釜山出身の詩人。本名は金 教煥、筆名は鉄 甚平(てつ・じんぺい)。号は巣雲、三誤堂。詩人・作家の北原綴は息子。歌手の沢知恵は孫。
佐藤 寛子(さとう ひろこ、1907年〈明治40年〉1月5日… 佐藤 寛子(さとう ひろこ、1907年〈明治40年〉1月5日 - 1987年〈昭和62年〉4月16日)は、日本の首相・佐藤栄作の妻(内閣総理大臣夫人)。日本の歴代首相夫人の中では三木睦子と並んで著名な人物であると見る向きもある。 山口県熊毛郡田布施町に旧長州藩士の士族・佐藤家当主の松介と妻・藤枝の長女として生まれる。父・松介は明治の中頃に東京帝国大学医科大学を出て、岡山医学専門学校教授を務めた。母・藤枝はのちに外相を務めた松岡洋右の妹である。松介は1911年(明治44年)に34歳で急逝し、一家はその後、松岡に引き取られて三田尻で暮らした。また、松介の世話で岡山中学校に進学していた甥(寛子の従兄)の岸信介(当時は旧姓の佐藤信介)は、松介の死後に同じく山口へ戻った。
奥野 煕(おくの ひろし、1907年1月5日 - 1966年… 奥野 煕(おくの ひろし、1907年1月5日 - 1966年7月20日)は、日本の経営者。三菱製紙社長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学法律科を卒業し、同年に三菱製紙に入社。 1951年6月に取締役に就任し、1957年12月に常務、1960年11月に専務、1962年5月に副社長を経て、1963年5月から1965年5月までに社長を務めた。 1966年7月20日、食道がんで死去した。59歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
草野 一郎平(くさの いちろうべい、1906年1月5日 - … 草野 一郎平(くさの いちろうべい、1906年1月5日 - 1973年11月22日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲章は勲二等旭日重光章。衆議院議員(6期)。自由民主党所属。 滋賀県東浅井郡出身。高等小学校卒業後に電力会社勤務の傍ら近江新聞の通信員となり、大谷大学卒業後に新聞記者をしながら農民運動に参加。1933年に27歳で大津市会議員に当選し、新聞記者と政治家・農民運動家として活動し滋賀新聞編集局長を歴任した。 国政選挙では、1942年の翼賛選挙で滋賀選挙区に東方会(非推薦)から立候補したものの落選。終戦直後の1946年の総選挙でも無所属で立候補したが次点に終わり、公職追放で一時期政治から遠ざかることになる。
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5… 片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員、文化功労者・文化勲章受章者。位階は従三位。現在の北海道札幌市東区出身。 1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。 卒業後は神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現横浜市立大岡小学校)に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選するが、その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。
平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - … 平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - 1991年8月20日)は、日本の実業家・詩人である。 平澤貞二郎は福井県坂井市三国町の仏壇屋に生まれ、15歳の時に上京した。1921年に東京府立商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業したのち、大沢商会や報知新聞社などに勤務した。その傍らで詩の創作活動に励み、1925年に萩原朔太郎や室生犀星らが出していた雑誌『感情』の流れを汲んだ『帆船』に参加したり、1927年に詩誌『金蝙蝠』を創刊したり、1928年に詩集『街の小民』を出版したり、1930年にはプロレタリア詩誌合同のプロレタリア詩人会の委員長に就任して機関誌『プロレタリア詩』を13号まで刊行したりするなど、1920年から1930年代頃にはプロレタリア詩人として活動している。
本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2… 本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2008年1月29日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。長男は北國銀行第6代頭取の本陣靖司。 石川県小松市出身。1929年に京都帝国大学法学部を卒業し、1930年2月に加越合同銀行に入行した。1943年12月に北國銀行に転じ、1948年2月に常務に就任し、1950年10月に専務、1954年11月に副頭取を経て、1961年1月には頭取に就任。1966年7月には会長も兼任し、1968年11月には頭取を退任。 近現代の日本画をはじめとした美術品収集を趣味としており、小松市立本陣記念美術館にコレクションが収蔵されている。 2008年1月29日、老衰のために死去。
小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 197… 小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 1978年10月5日)は、日本の言語学者、東京工業大学名誉教授。 東京府出身。1927年東京帝国大学言語学科卒。1928年、ソシュールの『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)を『言語学原論』として世界にさきがけて翻訳する。1929年京城帝国大学講師、1932年助教授(ギリシア語、言語学)、敗戦により東京に引き揚げ、1946年京都帝国大学文学博士。1948年東京工業大学教授(フランス語、言語学)、1950年名古屋大学教授兼任。1963年東工大を定年となり名誉教授、早稲田大学教授、1973年退職。
田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 … 田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 - 1984年(昭和59年)3月20日)は、日本の理学、植物博士。微生物学者。専攻は、植物生理学、細胞生理学。光合成の研究により世界的評価を得た。国際生物学事業計画(International Biological Programme)副会長。 大阪市出身。医学者の田宮猛雄の弟。また、チェロの演奏家でもあり、民谷宏の変名で、諸井三郎、河上徹太郎らと共に樂團スルヤを組織した。 1926年(大正15年)東京帝国大学理学部植物学教室卒。ドイツ国、フランスに留学後、1933年(昭和8年)東帝大助手、1939年(昭和14年)同大学助教授、1943年(昭和18年)東京帝大教授(理学・植物学)。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 19… 鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 1962年6月7日)は、日本の社会福祉の実践家で教育者、日蓮宗僧侶。日本福祉大学の創立者で初代学長。学校法人法音寺学園、昭徳会理事長。日蓮宗大僧正。 1902年(明治35年)愛知県江南市寄木町の菓子の卸売りを兼ねる農家に生まれる。父は熱心な法華経信者であった。布袋尋常高等小学校高等科卒業後に家業を継ぎ、菓子の他にパンの製造と卸売を始めて成功する。やがて法華経の教えによる社会の救済を実践していた仏教感化救済会の杉山辰子と出会い、家業や蓄財を精算したお金を携えて救済会に入会する。1928年、辰子の養女みつと結婚。同年、辰子の指示により、夫婦で福岡県福岡市のハンセン病療養所を運営する。
阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治3… 阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治34年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月26日)は、満州国官吏、日本の実業家。阿川機工、構造物コンサルタント各社長。 長崎県・田中良蔵の甥。大阪府立天王寺中学校を経て1924年、第七高等学校造士館を卒業。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。 満鉄に入社する。安東、奉天各地方事務所に勤務。瓦房店、四平街各地方事務所庶務係長、大石橋地方事務所長を経て満州国に転じ、審計局審計官第一處勤務。後に四平街市長となる。1940年、安東市長に就任する。 1950年に阿川機工を設立、社長に就任。1962年に構造物コンサルタントを設立、社長を兼務。
弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年… 弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年)は、日本の劇作家、小説家。 山口県熊毛郡伊保庄村(現、山口県柳井市伊保庄)上八(こうじょう)生まれ。広島女学校附属小学校、広島県師範学校附属小学校、広島県立広島高等女学校を経て、日本女子大学校文科国文学科を1922年卒業。在学中より中村吉蔵らに師事。卒業後も東京で劇作に専念した。本名はチヨ。 1921年、日本女子大学校在学中に卒論のかわりに、印度の阿育王の伝説を題材にした戯曲・華子城物語(かしじょう・ものがたり)を、同級生の山原鶴、宮田範と共作、翌1922年6月、新光社より出版される。 代表作は、1925年(大正14年)7月号の「舞台批評」に発表した「天樹院」。
山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973… 山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973年2月24日) は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。元宇部工業高等専門学校校長。元日本伝熱研究会会長。 1901年、山口県厚狭生まれ。1926年九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、卒業後は同大学の助手となる。1927年、九州帝国大学講師に昇進。1929年、九州帝国大学助教授に昇進。1939年、九州帝国大学に「真直ナ円管内ニ於ケル流体ノ非等温層流ノ理論ニ対スル寄与」を提出して工学博士号を取得。1940年、九州帝国大学工学部教授に昇進。1947年より九州大学工学部長。1964年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。 その後は郷里に戻り、1965年より宇部工業高等専門学校校長(第3代目校長)。
加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1… 加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として活躍したので『モンテンルパの父』ともよばれている。 1901年1月5日、岡山県真庭郡落合町の極楽寺に生まれる。落合尋常小学校を卒業後、おなじ落合にある木山寺に入り、住職の高藤秀本に師事し漢籍・経文を習った。1929年、真言宗京都大学を卒業して真言宗の僧侶となる。宝蔵院の住職をつとめたのち、高野山東京別院の副主監となる。 1949年11月4日、フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。
清水 七郎(しみず しちろう、1901年〈明治34年〉1月5… 清水 七郎(しみず しちろう、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。経営者。台中州知事。 和歌山市に生まれる。1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、渡台する。専売局書記を拝命し酒課勤務を経て、1929年(昭和4年)台南州内務部教育課長に抜擢される。1931年(昭和6年)基隆郡守に任じ、ついで専売局参事、煙草課長兼酒課長、煙草課長、官房文書課長、総務局地方課長を経て、台中州知事に就任した。 戦後、名古屋塩業社長、同会長を歴任した。
土屋 詩朗(、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不詳… 土屋 詩朗(、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は土屋 德四郎()。旧芸名は土屋 四郎(読み同じ)、土屋 博敏()。 1901年(明治34年)1月5日、秋田県に生まれる。 1918年(大正7年)、正式な名称は不明だが、秋田県横手市の旧制中学校を卒業して東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に進学。声楽を学ぶ傍ら、中島六郎、樋口信平に師事してヴァイオリンを修業する。ところが、同年のシベリア出兵により、土屋は出征され、1年だけロシアに在住して間も無く帰国。その後、正式な名称は不明だが、土屋四郎という芸名で劇団に所属し、全国各地を巡業した。また、浅草オペラの舞台にも出演していたが、1924年(大正13年)12月、松竹蒲田撮影所へ入社。
鈴木 三千代(すずき みちよ、1901年1月5日 - 199… 鈴木 三千代(すずき みちよ、1901年1月5日 - 1997年11月10日)は、日本の実業家。三楽(のちのメルシャン)社長を務めた。食品産業功労賞者。 旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、1924年味の素本舗鈴木商店(のちの味の素)入社。大阪支店長、常務、専務等を経て、三楽(のちのメルシャン)社長に就任、ワイン事業などをすすめた。1952年に同社会長就任。また味の素の監査役や顧問も務めた。 1997年11月10日、東京都目黒区の病院で死去、享年96。築地本願寺で社葬が行われた。 鈴木忠治(鈴木商店(のちの味の素)第2代社長)の長男。2代目鈴木三郎助(鈴木商店創業者)は伯父、鈴木忠雄(元メルシャン社長、元味の素副会長)は長男。
石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年(明治34年)1月5… 石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年(明治34年)1月5日 - 1981年(昭和56年)11月13日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(5期)、新潟県中蒲原郡川東村長。 新潟県中蒲原郡川東村(現五泉市)出身。1916年(大正5年)川東高等小学校(現:五泉市立川東小学校)を卒業し農業に従事。 1923年(大正12年)頃から農民運動に加わった。日本農民組合、労働農民党、全国労農大衆党などの中央、地方組織の役員を務めた。1926年(大正15年)日農関東同盟新潟県連理事に就任し、同年に小作争議指導の嫌疑で検挙され懲役6月となり、1928年(昭和3年)菅沼小作争議では暴行容疑で懲役2月の有罪判決を受けた。
山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1… 山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1899年1月5日 - 1977年11月13日)は、日本の政治家、婦人運動家、フェミニスト。婦人参政権獲得期成同盟会(婦選獲得同盟)の創設に加わり、全国地域婦人団体連絡協議会の初代理事長となったほか、参議院議員を2期務めた。 1899年1月5日に三重県津市で、三重県師範学校校長であった父・幾之丞と母・とみの間に次女として生まれた。幼い頃の戸籍名はひらがなではなく、漢字の「茂」であった。子どもの頃は教師であった両親の仕事の都合でさまざまな場所に住んでいた。父が亡くなって以降は母子家庭で育っており、これが後年に母子保護活動に尽力するようになった大きな理由のひとつである。
杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年… 杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年9月12日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。立教女学院短期大学学長、日本アメリカ文学会会長を務めた。 東京・赤坂新町出身。1923年(大正12年)早稲田大学露文科卒業、1931年(昭和6年)立教大学文学部英文科卒業。立教大学で高垣松雄に師事し、岡倉由三郎(岡倉天心の実弟)にも学んだ。 巣鴨高商専門学校(現・千葉商科大学)教員を経て、1940年(昭和15年)立教大学講師、翌年助教授。 1942年(昭和17年)立教大学教授に就任。その後、同大学文学部英米文学科科長を務め、1956年(昭和31年)には、フルブライトリサーチスカラーとしてハーバード大学及びデューク大学で研究に従事した。
前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 198… 前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 1982年6月13日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、会長、相談役を歴任。 鹿児島県薩摩郡入来村(後の入来町、薩摩川内市の一部)生まれ。1918年3月に鹿児島県師範学校本科(現 鹿児島大学教育学部)を卒業。1918年4月から鹿児島県日置郡の天昌尋常高等小学校(現 日置市立永吉小学校)教諭を務めるが、病気療養のため退職。 1920年10月に大福海上火災保険へ入社し、調査課勤務。1942年7月、大福海上火災保険と大東海上火災保険の合併により共栄火災海上保険が設立されると同時に神戸支店長となり、1944年3月から大阪支店長、1946年12月から近畿支社長。
本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日… 本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、愛知県西加茂郡上郷村(現・豊田市)出身の実業家、陶芸研究家。愛知工業大学教授。猿投古窯跡を発見した功績で知られる。 1898年(明治31年)1月5日、愛知県西加茂郡上郷村花本(現・豊田市花本町)に生まれた。父は本多松三郎、母はちかであり、静雄は次男だった。 11歳だった1909年(明治42年)、宇佐美一夫の娘である7歳の宇佐美美恵と見合いし、美恵は静雄の許嫁となった。1910年(明治43年)に西加茂郡猿投第二尋常高等小学校(現・豊田市立青木小学校)を卒業し、1915年(大正4年)3月に愛知県立工業学校(現・愛知県立愛知工業高校)を卒業すると、同年4月には東京・神田の私立東京中学校(現・東京高等学校)に編入した。
小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 199… 小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 1990年10月8日)は、日本の児童文学作家。 1897年、静岡県三島出身。祖父の小出市兵衛は元質屋で、J・H・バラによって洗礼を受けた。中学時代に受洗しキリスト教信者となる。1918年早稲田大学商学部を卒業すると、南洋商会に勤め南洋へおもむくが、1922年退職して帰郷、三島教会の独立に尽くした。1928年、再び上京し明治学院で教え、明治学院教授(1935年、社会事業科)。 戦後、三島市教育委員長を務める。キリスト教ヒューマニズムの立場で創作を行う。1957年、三島市長選挙に革新統一候補として出馬し落選。1966年から1972年日本児童文学者協会会長[疑問点 – ノート]。
三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 -… 三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 - 1945年(昭和20年)9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者、評論家。法政大学法文学部教授。京大哲学科卒。西田幾多郎・ハイデガーに師事。留学中にパスカルを研究、帰国後『パスカルに於ける人間の研究』(1926年)を刊行。戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで逮捕拘禁され獄死したが、著書『人生論ノート』はロングセラーになった。 兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)にて父親、三木英吉、母親しんの長男として1897年(明治30年)1月5日に誕生する。生家は農業を家業としており清の祖父の代に米穀商を営んでいたため、村の「米屋」として知られており資産家の部類に入る家柄であった。
神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月… 神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月5日 - 1964年(昭和39年)8月17日)は、日本の外交官。満州国総務庁次長。蒙古聯合自治政府最高顧問。
片岡 良一(かたおか よしかず、1897年1月5日 - 19… 片岡 良一(かたおか よしかず、1897年1月5日 - 1957年3月25日)は、日本の日本文学者。日本の近代文学をアカデミズムで論じた初期の人物である。法政大学教授・北京師範大学教授を歴任。 神奈川県藤沢町生まれ。1925年、東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、旧制姫路高等学校の教員となる。1926年刊行の『井原西鶴』で注目され、1929年『現代文学諸相の概観』で近代文学を論じて自我史観を示し、近代文学研究の基礎を据えたとされる。1930年、旧制府立高等学校の教員となる。府立高校時代の教え子に小田切秀雄がいる。小田切に自宅を会合の場として提供したとして辞職。1934年法政大学教授、1941年北京師範大学教授、1946年に再び法政大学教授となる。
川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 197… 川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 1972年9月1日)は、日本の実業家。日刊スポーツ新聞社創業者。徳島県出身。 川田萬太郎・サダ夫妻の次男として徳島県那賀郡羽ノ浦村(現在の阿南市羽ノ浦町)に生まれる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30… 平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30年)1月5日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、平岡専吉の二男として生まれる。1928年、兄・仙太郎と共に刺繍レース製造を始める。 その後、埼玉県商工経済会理事、同繊維団体協議会長、日本レース工業組合理事、所沢織物商工協同組合理事、東京繊維商品取引所理事、飯能商工会議所会頭、御嶽登山鉄道取締役、平岡工業所取締役、飯能繊維工業社長、飯能商事社長、埼玉県繊維品価格査定委員会委員長などを務めた。 政界では、埼玉県会議員、同議長、飯能町長を務める。
大池 眞(おおいけ まこと、1896年1月5日 - 1990… 大池 眞(おおいけ まこと、1896年1月5日 - 1990年7月5日)は、日本の官僚。 長野県東筑摩郡山形村生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。農商務省から1925年衆議院書記官に転じ、1945年書記官長を経て、1947年新憲法下での初代衆議院事務総長となった。1956年から1962年まで土地調整委員会委員長を務めた後、西武グループの株式会社「池袋地下駐車場」に転じ、1966年同社長。同年従四位勲一等瑞宝章を受勲した。
鈴川 寿男(すずかわ としお、1896年(明治29年)1月5… 鈴川 寿男(すずかわ としお、1896年(明治29年)1月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 山口県都濃郡戸田村(現在の周南市)出身。第五高等学校を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。内務属、愛知県警視、石川県理事官、警察講習所教授、岐阜県書記官・学務部長、山形県警察部長を歴任。1932年(昭和7年)、朝鮮総督府事務官に転じ、全羅南道内務部長、忠清北道内務部長、農林局林政課長、総督官房文書課長・臨時国勢調査課長を歴任した。1937年(昭和12年)、専売局長に就任し、さらに京畿道知事、司政局長・中枢院書記官長を務めた。
増地 庸治郎(ますち ようじろう、1896年1月5日 - 1… 増地 庸治郎(ますち ようじろう、1896年1月5日 - 1945年3月10日)は、日本の経営学者。東京商科大学教授兼東京帝国大学教授を務めたが、東京大空襲で死去した。 1896年、京都府で生まれた。東京高等商業学校(現・一橋大学)で学び、上田貞次郎に師事した。1919年に専攻部商工経営科を卒業。 卒業後は住友総本店へ入社するも、1921年に退社して母校へ戻り助手となった。1923から1925年までベルリン高等商業学校(現・フンボルト大学ベルリン経済学部)に留学を命じられた。当時はちょうど東京高商の大学昇格に合わせて拡充がなされていた時期であり、多くの教員が留学に出ていた。在外研究中の研究者には東京高等商業学校同僚の本間喜一、渡邉大輔、大塚金之助、金子鷹之助、井藤半彌、吉田良三や、神戸高等商業学校から留学していた八木助市、坂本彌三郎、石田文次郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らがいた。