近藤 柏次郎(こんどう はくじろう、1900年8月17日 -… 近藤 柏次郎(こんどう はくじろう、1900年8月17日 - 1932年7月13日)は、日本のピアニスト。大正から昭和初期にかけて活躍したが、30代で芸妓と情死した。 浅野石油技師長近藤会次郎の次男として生まれる。暁星中学4年のときに府立一中に転校、一高を首席で卒業した。中学時代からピアノを学び、杉山長谷夫らに師事、山田耕筰の推薦で、来日中のデンマーク人ピアニストのジョージ・ロランジの伴奏を行い、一躍楽壇に知られた。友人の藤原義江によると、近藤は中学時代ピアノばかり弾いて学校にはあまり行かず、一高時代は「勉強は嫌いだが母親のために卒業だけはしてやる」が口癖だったという。 東京帝国大学法学部を卒業後日仏銀行に勤務の傍ら、藤原義江の伴奏をよく務めた。
花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1… 花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1994年10月8日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 千葉県出身。1927年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、1928年に住友海上火災保険に入社。1948年6月に取締役に就任し、同年10月に常務、1949年6月に専務を経て、1950年6月には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1964年6月には相談役に就任。 1972年6月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年10月8日、急性肺炎のために死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
福田 力之助(ふくだ りきのすけ、1897年(明治30年)8… 福田 力之助(ふくだ りきのすけ、1897年(明治30年)8月17日 - 1982年(昭和57年)3月24日)は日本の裁判官、弁護士。 東京府南葛飾郡亀戸町(現東京都江東区亀戸)出身。家は金物屋だったがそれが潰れ、商家の小僧となり、青山師範学校卒業、東京市砂町小学校訓導となった後、1922年(大正11年)4月中央大学法律科専門部卒業、1925年(大正14年)12月司法官試験合格、同月高等試験司法科合格、1926年(大正15年)4月司法官試補として東京地方裁判所所属、1927年(昭和2年)12月仙台地方裁判所予備判事転任、福島地方裁判所に次いで1928年(昭和3年)10月山形地方裁判所判事転任、同鶴岡支部所属。
橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 -… 橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 - 1963年11月8日)は、日本の医師、薬学者、日本における医療評論家の先駆者とされる。本名は恵(めぐみ)。男性。 長野県松本市出身。弟に橋爪健、橋爪克巳(1903-1983)がいる。1922年東京帝国大学医学部薬学科卒、1927年千葉医科大学卒。三共製薬社員、別府化学薬品代表、日本薬学会編集主任。川端康成の友人。
川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月… 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月17日 - 1941年〈昭和16年〉7月17日)は、東京都出身の日本の俳人。本名は信一(のぶかず)。別号に遊牧の民・俵屋春光。日本画家の川端龍子は異母兄。 当初は画家を志し岸田劉生に師事したが、病のために断念し俳句に転向、高浜虚子に師事して「ホトトギス」に拠る。画家の眼を生かし写生に徹しつつも格調の高い句を物し、松本たかし、中村草田男などと共に「四S」以降の「ホトトギス」の代表的俳人として活躍した。 東京市日本橋蛎殻町で生まれ、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。
生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日… 生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日 - 1978年〈昭和53年〉10月6日)は、日本の薬剤師、政治家、行政委員。群馬県利根郡沼田町(現:沼田市)出身。群馬県会議員、沼田町長、国家公安委員、群馬県薬剤師会会長、群馬県町村長会長などを務めた。妻は歌人の生方たつゑ、長女は料理研究家の生方美智子。 1894年(明治27年)、沼田町上之町の老舗薬種商「かどふぢ(角藤)」を営む生方弥右衛門の長男として生まれる。1910年(明治43年)旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)を修了し、1912年(明治45年)同本校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。1916年(大正5年)に千葉医学専門学校薬学科(現:千葉大学薬学部)を卒業した。
近藤 伊與吉(こんどう いよきち、1894年〈明治27年〉8… 近藤 伊與吉(こんどう いよきち、1894年〈明治27年〉8月17日 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の俳優、脚本家、映画監督である。村田実らの起こした新劇の劇団「踏路社」を振り出しに、映画俳優になり、映画も監督し、無声映画時代のスター俳優となったことで知られる。 1894年、新潟県佐渡に生まれる。 その後上京し、1917年2月17日に村田実、青山杉作、関口存男、木村修吉郎らの起こした新劇の劇団「踏路社」(1917年 - 1920年)に参加し、俳優として舞台を踏む。1919年、25歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり映画理論家として知られる帰山教正の「映画芸術協会」設立に、村田実、青山杉作らとともに参加、設立第一作『深山の乙女』および『生の輝き』にそろって出演する。
石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17… 石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17日 - 1947年(昭和22年)9月8日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県東頸城郡顕聖寺村(現在の上越市浦川原区)出身。1917年(大正6年)、早稲田大学政治経済科を卒業。高田日報社主筆、高田時事新報社社長、高田毎日新聞社社長、上越新聞社顧問を歴任。高田市会議員、新潟県会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後は日本進歩党の結成に参加するが、公職追放を受ける。追放中の1947年(昭和22年)、死去。
東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892… 東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892年〈明治25年〉8月17日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満洲移民の父」と呼ばれた。 満洲を中心に活動した。張作霖爆殺事件の実行者であり、満洲への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として中国で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。 1892年(明治25年)8月17日、群馬県勢多郡宮城村大字苗ヶ島(現:前橋市苗ヶ島町)で9人兄弟の末弟として生まれる。父は群馬県士族で村長も務めた東宮吉勝。旧制前橋中学校利根分校で3年間学んだ後、同本校に編入し1911年(明治44年)に卒業。
山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月1… 山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将。
富井 周(とみい しゅう、1890年(明治23年)8月17日… 富井 周(とみい しゅう、1890年(明治23年)8月17日 - 1959年(昭和34年)1月23日)は、日本の外交官。駐カナダ公使、駐アルゼンチン大使。男爵。
野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月… 野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月17日 - 昭和39年(1964年)3月31日)は、和歌山県出身の日本画家。国画創作協会の創立メンバーとして大正時代の日本画界で活躍した。 和歌山県西牟婁郡近野村(現:田辺市中辺路町近露)に資産家の三男として生まれる。本名、弘男。初め蘆秋と号する。 明治36年(1903年)14歳で大阪に出て、円山派の中川蘆月のもとで4年間基礎を学び、その後京都の谷口香嶠塾に移る。 明治42年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学(同級に小野竹喬、土田麦僊ら)。2年目には授業に出席せず(翌々年退学)、秦テルヲや竹久夢二をはじめとする進歩的な若い芸術家たちとの交流を深めた。
大野 精七(おおの せいしち、1885年(明治18年)8月1… 大野 精七(おおの せいしち、1885年(明治18年)8月17日 - 1982年(昭和57年)12月30日)は、日本の医師、医学博士。 茨城県河内郡生板村(現・稲敷郡河内町)生まれ。東京帝国大学医学部卒。1924年(大正13年)、北海道帝国大学産婦人科学教授。1950年(昭和25年)、北海道立札幌医科大学学長(初代)に就任し、同学の発展に貢献した。1961年、北海道文化賞受賞。 また、日本のスキー界の発展にも寄与した。1921年北海道帝国大学への赴任をきっかけにスキーを始め、2年間のドイツ留学後1924年北大スキー部第五代部長にも就任。1926年、手稲山に日本最初のスキー小屋「パラダイス・ヒュッテ」を建設、その後も空沼小屋(1928年)や、「無意根小屋」(1931年)の建設にも携わった。
川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月1… 川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月17日 - 昭和25年(1950年)3月11日)は、日本の美術家。海外で活躍した国際的彫塑家であり、ニューヨークに多くのモニュメント彫刻を完成させたほか、乳牛像、著名人の胸像製作で高い評価を得た。 長野県臼田町(現:佐久市)に川村兵次郎・せむの三男として生まれる。遠縁である水彩画家・丸山晩霞などの影響により芸術家を志し、明治37年(1904年)渡米して彫刻の勉強をする。明治42年(1910年)フランスへ渡り、仏国立美術学校(エコール・デ・ボザール)へ入学。成績優秀で特待生となる。この間、オーギュスト・ロダンに助手の勧誘を受けるが、考え方の相違でこれを断りアメリカ人彫刻家フレデリック・マクモニスの助手となる。
羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月… 羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月17日 - 1974年〈昭和49年〉8月13日)は日本の仏教学者、浄土真宗の僧侶。 福井県遠敷郡出身。旧姓・向嶋。号・青浜。1909年京都帝国大学文科大学哲学科を首席で卒業。同大学院を経て副手、1923年講師、1927年助教授、1935年教授。1921年龍谷大学教授を兼ね、1931年大谷大学教授を兼ねる。1934年「西域仏教ノ特徴」で京大文学博士。1936年龍谷大学長。1943年9月京大定年退官。京大、龍谷大、京都女子大学各名誉教授。浄土真宗本願寺派総務。1955年紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受勲。1945年戦後のGHQ指導のもとの教育刷新委員会において教育基本法原案の骨組みを担当した第一特別委員会のメンバー。
岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1… 岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1961年10月2日)は、国文学者、随筆家。本名は堅一(けんいち)。東京府麻布に生まれる、父竹次郎は旧丸亀藩士で海軍勤務であった。
岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8… 岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8月17日 - 昭和41年(1966年)4月7日)は、日本の醸造技術者、実業家。京都府平民。 1909(明治42)年に、摂津酒造(現:宝ホールディングス)においてアルコール連続蒸留装置を考案。岩井式アルコール連続蒸留装置としての地位を確立。明治45年に新式焼酎(焼酎甲類)並びに、酒精含有飲料を全国に率先して製造開始、大正8年に合成清酒を開発し、工業的大量生産の創始となった。 明治35年(1902年)、大阪高等工業学校醸造学科卒業。明治42年(1909年)、合資会社摂津酒精醸造所に入社(後の摂津酒造)。大正9年(1920年)、摂津酒造 常務取締役兼技師長に就任。
貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - … 貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - 1918年10月22日)は、日本の教育者、物理学者。 福岡藩士族貝原信の長男として、福岡県に生まれる。1898年福岡県立尋常中学修猷館、1901年第五高等学校理科を経て、1904年東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。 1906年学習院教授に就任し、物理、数学を講じた。 1918年10月22日、腎臓病により死去、従五位勲六等。
野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 -… 野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、弁護士。官選県知事、同志社高等商業学校長。
岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17… 岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17日 - 1956年(昭和31年)9月2日)は、日本の気象学者。第4代中央気象台長を多年に亘り務めた。「気象学の父」とも呼ばれる。 千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て、現在の我孫子市布佐)の海産物を扱う商家に生まれる。6歳で布佐初等小学校に入学、課外に和算を学ぶ。14歳で上京し、東京府立尋常中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学し、19歳で卒業し、第一高等中学校に入学。物理学を中村清二らに学ぶ。同級に桑木或雄(あやお)らがいる。このころ利根川の水害が多発したこともあり、防災科学や気象学に関心を寄せる。 1899年(明治32年)、26歳で東京帝国大学理科大学物理学科を卒業し、ただちに中央気象台(現在の気象庁)に勤務。
深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 … 深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 - 1942年(昭和17年)8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡深井村(現東御市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、東京専門学校を中退し、家業に従事した。明治36年(1903年)自宅に長野県初の有限責任信用組合を設立し、明治43年(1910年)産業組合中央会長野支会の設立とともに理事、副組合長に就任し、指導的役割を果たし、長野県における「産業組合運動の父」と称された。のちに同中央会理事、中央金庫監事などを歴任した。 同44年(1911年)長野県会議員となり、大正13年(1924年)第15回衆議院議員総選挙に当選した。
広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 19… 広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 1955年6月24日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長などを務めた。弓道家(大日本武徳会弓道範士)でもある。 陸軍少佐や森村銀行頭取を務めた広瀬実栄の二男として生まれ、高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校、ニューヨーク・イーストマン商業専門学校を経て、1895年森村組入社。1917年には東洋陶器設立発起人となり、同社監査役に就任。1922年日本陶器社長。1939年日本陶器会長。森村豊明会監事なども務めた。 また弓道家でもあり、1929年5月に大日本武徳会弓道範士。名古屋市の弓道界で重きをなし、1940年に開催された紀元二千六百年奉祝天覧武道大会弓道の部では審査員を務めた。
七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、187… 七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1967年〈昭和42年〉2月28日)は、大正・昭和期に活動した日本の政治家、実業家である。長野県出身。旧姓は井口。 井口家から長野で菓子商「凮月堂」を営む七沢家に養子入り家業を継ぐ。長野市会議員(当選3回)や信濃電気支配人を務めたのち1934年(昭和9年)には第6代長野市長に選ばれた。晩年は長野信用金庫役員を長く務めた。 七沢清助は、1873年(明治6年)8月、長野県人・井口常治郎の次男として生まれた。出身地は長野県更級郡原村(後の中津村、現・長野市)。長野中学校を経て上京し東京物理学校で学んだのち、長野県に戻り北佐久郡志賀小学校で教諭となった。
蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17… 蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1928年〈昭和3年〉9月11日)は、日本の教育者。福島高等商業学校初代校長。 旧平戸藩士の蒲生林作の子として生まれる。高等商業学校(現一橋大学)卒業。山口高等商業学校の教授を勤めていた。1909年から1910年にかけて、文部相派遣外国留学生(文部省督学官)としてイギリスに留学しロンドンに滞在する。その際にボーイスカウトの整然たる活動に興味を持ち、ボーイスカウト運動に関する書籍類などを収集。日本に持ち帰る。 帰国後、収集した英国ボーイスカウトに関する書籍を桂太郎首相と小松原英太郎文部大臣に贈呈し、政府に「日本でも少年団活動を検討すべし」との建白書を提出する。
紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8… 紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8月17日 – 1952年(昭和27年)7月8日)は、衆議院議員(立憲国民党→公友倶楽部→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟→翼賛政治会→無所属→日本自由党)、ジャーナリスト。号は蘇山。 兵庫県城崎郡田鶴野村(現在の豊岡市)出身。1897年(明治30年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、在学中に雑誌『二十世紀』を発刊した。1900年(明治33年)に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年(明治34年)から鎮西日報の主筆となり、1903年(明治36年)からは萬朝報で筆を執った。1907年(明治40年)、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。
藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月… 藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月17日〈明治4年7月3日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家。村井銀行常務取締役。族籍は東京府士族。 旧名古屋藩士・丹羽與三郎の四男であり、退役海軍少将・丹羽教忠の弟、大井田瑞足の兄である。1901年、先代いしの入夫となり家督を相続した。藤平家は其の祖遠く日蓮上人の末弟貫名藤平重友に出た。 1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。横浜正金銀行に入り、同行桑港支店支配人、羅府分店支配人となり、長崎支店支配人となる。1918年、村井吉兵衛の懇望により村井銀行に転じ取締役兼総支配人に挙げられ、のち常務取締役となり調査部長を兼任。
平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7… 平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7月2日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。幼名は倉吉。 愛知県海東郡内佐屋村(佐依木村、佐屋村、佐屋町を経て現愛西市)に生まれる。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 1916年(大正5年)8月に大村連隊区司令官、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐、1918年(大正7年)12月に歩兵第38連隊長を経て、1922年(大正11年)2月に陸軍少将に昇進と同時に待命、同年5月に予備役に編入した。 退役後は京都市伏見区に住んだ。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年… 中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年8月17日) - 昭和14年(1939年)10月21日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(1901年)。東京商科大学名誉教授。「七博士意見書」により日露戦争開戦を主張した学者の一人。 1870年、越後国高田(のちの新潟県高田市、現上越市)において、旧高田藩士・中村九朗の三男として生まれた。高田中学校を卒業し、第一高等中学校に入学。1891年に第一高等中学校を卒業して東京帝国大学に入学。1894年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業。卒業後は同大学院に進んだ。 大学では、初め末岡精一に師事して国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた。
永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年… 永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年7月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉3月9日)は、日本の資産家、農民、埼玉県多額納税者、埼玉県の大地主。前名は平次郎。族籍は埼玉県平民。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人で、先代・永田勘六の長男。1895年、家督相続と共に襲名して前名・平次郎を改めた。農業を営み、県下の大地主であった。多額納税者として知られた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黄金井 為造(こがねい ためぞう、1865年8月17日(慶応… 黄金井 為造(こがねい ためぞう、1865年8月17日(慶応元年6月26日)- 1934年(昭和9年)10月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 相模国愛甲郡七沢村(神奈川県愛甲郡玉川村を経て現厚木市)で、酒造業・黄金井伝四郎の長男として生まれた。慶應義塾、高等商業学校、東京英和学校で学ぶ。 酒造業と肥料業を営む。愛甲郡会議員、同議長、神奈川県酒造組合、同産牛馬組合各組合長、同農会長、全国酒造組合連合会会長、日本酒造組合中央会会長となる。 1910年の衆議院神奈川県郡部の補欠選挙において立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862… 長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862年8月17日) - 大正4年(1915年)3月3日)は、山梨県出身の衆議院議員(憲政本党)、第一高等学校教授。 甲斐国巨摩郡天神中条村(後の南巨摩郡増穂町、現在の南巨摩郡富士川町)に、農業の傍ら質屋業を営む父「源三郎」の三男として生まれる。少年時代は長沢村の墨池堂大森塾で大森杜庵から学び、明治10年(1877年)4月に静岡県沼津中学校に入学後、明治12年(1879年)に同校を退学し同年2月に東京府第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転学し同校を卒業。明治12年(1879年)9月に東京大学予備門に入学後、明治19年(1886年)7月に東京帝国大学文科大学を卒業、大学院を経て、明治20年(1887年)11月には第一高等中学校教諭、明治23年(1890年)9月26日には第一高等学校教授となった。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政… 根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 没年不詳)は、明治時代の事業家。 1856年、東京府士族根岸勝平の次男として生誕。1880年に家督を相続。東京帝国大学予備門卒業。 千代田鋳工、東京缶詰、東神火災保険、日仏シトロエン自動車で社長、日本商船基隆支店助役、日本郵船ロンドン支店助役などを経て、日本郵船、揖斐川電気の重役。 1918年(大正7年)に東京動産火災保険の発起人・社長となる(翌年には反町茂作が社長に就任)。
大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8… 大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉1月10日)は、日本の医師。貴族院勅選議員。医学博士。 三河国宝飯郡当古村(現在の愛知県豊川市当古町)に神職・大林美濃の四男として生まれ、三河吉田藩の侍医・大沢玄竜の養子となった。東京の医学所で医学を学んだ後、1870年(明治3年)にドイツ留学を命じられ、ベルリン大学で学んだ。帰国後、東京医学校教授に就任したが、1878年(明治11年)に辞職して、自費で再びドイツに留学し、シュトラスブルク大学で医学博士の称号を得た。 1882年(明治15年)に帰国後、東京大学医学部教授となり、1886年(明治19年)には東京帝国大学医科大学教頭に就任した。
光部 愛(こうべ あい、8月17日 - )は、関東地方を拠点… 光部 愛(こうべ あい、8月17日 - )は、関東地方を拠点に活動している日本のフリーアナウンサー。オフィスケイアール所属。 小学5年生まで千葉県浦安市で、その後は大阪府高槻市で生活していた。大阪府立高槻北高等学校、龍谷大学国際文化学部卒業。 「中国大好きアナウンサー」と称しての活動を展開している。それゆえに中国語会話も得意としており、漢語水平考試 (HSK) の最難関である6級試験に合格している。上海交通大学への留学経験や上海虹橋迎賓館での勤務経験もある。
紅 ゆずる(くれない ゆずる、8月17日 - )は、日本の女… 紅 ゆずる(くれない ゆずる、8月17日 - )は、日本の女優。元宝塚歌劇団星組トップスター。 大阪府大阪市、東大谷高等学校出身。身長173cm。血液型A型。愛称は「さゆみ」、「さゆちゃん」、「ゆずるん」、「べに子」。 所属事務所は松竹エンタテインメント。 2000年、宝塚音楽学校入学。 2002年、宝塚歌劇団に88期生として入団。入団時の成績は47番。星組公演「プラハの春/LUCKY STAR!」で初舞台。その後、星組に配属。 入団後は役のつかない時期が続いたが、2008年の「THE SCARLET PIMPERNEL」で新人公演初主演。新人公演最終学年となる入団7年目のラストチャンスでの抜擢となった。
久野 大地(くの だいち、8月17日 - )は、信越放送 (… 久野 大地(くの だいち、8月17日 - )は、信越放送 (SBC) のアナウンサー。 長野県長野市出身。中央大学卒業。大学在学時にはテレビ朝日アスクにも通っていた。またアルバイトで、在京キー局が製作・放送する朝のテレビ番組のアシスタントディレクターを3年ほど務めていた。 大学を卒業後、2012年に信越放送に入社。同期の長谷川萌はアナウンサー採用で入社したが、久野は総合職を経てアナウンサーに転じている。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。