二条 弼基(にじょう たねもと、1910年〈明治43年〉6月… 二条 弼基(にじょう たねもと、1910年〈明治43年〉6月19日 - 1985年〈昭和60年〉8月28日)は、日本の工学者、政治家、華族。貴族院公爵議員、工学博士。 東京府出身。男爵・二条正麿の三男として生まれ、二条家第28代当主・二条厚基の死後、相続争いが起こる中で、弼基の聡明さが認められて養子となる。 1930年(昭和5年)9月1日、公爵を襲爵。1934年(昭和9年)、東北帝国大学理学部地質科を卒業し、さらに1937年(昭和12年)に同大学工学部電気科を卒業。同年、逓信省電気試験所に入所し研究員となり、1939年(昭和14年)、逓信技師に任官。 1940年(昭和15年)6月19日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任し、火曜会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ… 太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。 太宰治はペンネームであり、1933年(昭和8年)に短編小説『列車』で初めて太宰治の名が使われた。弘前高等学校(現:弘前大学)の学生時代に始めた左翼活動は3年程で挫折し、その後は自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称された。
大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 20… 大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の医師、政治家。位階は正三位。医学博士。 衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。環境庁長官(第2代)、農林大臣(第47代)。 仙台市元常磐町1番地(現在の仙台市民会館付近)に 、後に衆議院議員を務めた大石倫治の長男として生まれた。宮城県男子師範附属小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校理科乙類に進学し、中学校ではテニス、高等学校では野球に熱中した。高校時代には結核性の肋膜炎に罹患して留年、翌年には腹膜炎を患った。1935年(昭和10年)に東北帝国大学医学部を卒業、1940年(昭和15年)に同大学大学院医学博士課程を修了した。
仲 みどり(なか みどり、1909年〈明治42年〉6月19日… 仲 みどり(なか みどり、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1945年〈昭和20年〉8月24日)は、昭和時代の新劇女優。太平洋戦争中、移動演劇桜隊に所属し公演先の広島県広島市で原爆投下の被害を受けた。医学的に認定された原爆という核兵器による攻撃の被害を受けた人類史上初の原爆症認定患者としても知られる。 東京府東京市日本橋区区本町(現・東京都中央区日本橋本町)の塗料問屋で近衛騎兵中尉・仲万次郎の三女として生まれる。 仏英和高女(現・白百合学園中学校・高等学校)に進学するが中退。大阪のウヰルミナ女学校(現・大阪女学院中学校・高等学校)を卒業後、浅草の剣劇団「明石潮一座」を経て1931年(昭和6年)、築地小劇場内に設立されたプロット(プロレタリア演劇同盟)研究所に入所。
村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1… 村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1986年8月1日)は、昭和期の俳人。京都府京都市下京区仏具屋町出身。本名・正三。兄の村山葵郷、姉のたかも俳人。 1939年、國學院大學国文科卒。 保善商業教諭を経て、1941年、日本郵船に入社。内田百閒に師事。 俳句は少年時代、兄・葵郷の手ほどきを受ける。「草上」同人を経て、1932年「東炎」同人となる。戦後、1946年「べんがら」を、1952年「たちばな」を創刊したが、1955年石田波郷の知遇をえて「鶴」同人となる。1978年山路閑古のあとを継いで鴫立庵第二十世庵主。 俳誌『嵯峨野』を主宰、俳人協会理事を務めた。1978年、『明治俳壇史』で芸術選奨文部大臣賞受賞。
高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005… 高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005年5月28日)は、日本の電子工学者。東京大学名誉教授。東京工科大学名誉学長。工学博士(東京帝国大学、1942年)。理事(財団法人電子文化研究所、1964年)。東京大学宇宙航空研究所初代所長(1964年-1969年)。科学技術庁宇宙開発推進本部長(1965年-1967年)。東京神田生まれ。 東京大学の宇宙空間観測観測グループのリーダーとして、観測ロケットの打ち上げ、科学衛星の開発や打ち上げ等、宇宙電子工学の分野で貢献した。1994年文化功労者。
山田 精一(やまだ せいいち、1908年6月19日 - 1… 山田 精一(やまだ せいいち、1908年6月19日 - 1991年2月13日)は、日本の官僚。公正取引委員会委員長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1959年6月から1966年6月までに理事を務め、1967年8月から1969年11月までに公正取引委員会委員長を務めた。公正取引委員会委員長在任時には、八幡製鉄と富士製鉄との合併を一部部門の分離を条件に認定した。 1978年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1991年2月13日呼吸不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996… 関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996年3月7日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明治生命保険に入社した。1953年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1967年に社長に就任し、1974年4月には会長に就任した。1979年7月から相談役を務めた。 1971年8月に生命保険協会会長に就任し、相談役も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章した。 1996年3月7日、肺炎のために神奈川県鎌倉市の病院で死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
加森 勝雄(かもり かつお、1907年6月19日 - 199… 加森 勝雄(かもり かつお、1907年6月19日 - 1998年6月22日)は、日本の実業家。加森観光創業者。北海道帯広市出身。 北海中学校卒業、日本大学専門部法科中退。1930年に釧路市内の雑穀商に勤務し経営を学び、1933年釧路で製薬会社・星製薬の東北海道販売代理店を始めて成功をおさめる。その後1939年には星製薬の道内全域の事業を統一した星製薬北海道配給株式会社を創立する。 その後は大谷重工業社長の大谷米太郎が星製薬を買収した事をきっかけに医薬品事業から手を引き、1952年札幌で貸ビル業を開業し翌1953年に加森産業を設立。十分な資産を築いたこともあり昭和20年代末には実業界から手を引くことを考えたものの、知人から登別でのロープウェイ建設事業に熱心に誘われたことをきっかけに、1956年に登別温泉ケーブルを設立して観光業に事業を拡大し、1958年には登別クマ牧場を開設した。
森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 -… 森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 - 1982年(昭和57年)2月12日)は、日本の実業家、政治家。昭和電工社長、衆議院議員。衆議院議員の森清・森美秀は弟。三木武夫の妻睦子は妹である。 森コンツェルンの創設者、森矗昶の長男として千葉県に生まれる。東京府立第五中学校、成城高等学校を経て、1934年(昭和9年)京都帝国大学文学部を卒業。昭和電工社長、千葉工業大学理事長などを務めた。1946年(昭和21年)千葉県から第22回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。2期務める。日本自由党、民主自由党に所属した。1948年(昭和23年)11月、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治4… 矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ、1907年(明治40年)6月19日 - 1944年(昭和19年)3月14日)は、日本の小説家、随筆家。秋田県南秋田郡五城目町出身。はじめモダン派であったが純文学に転身し、1936年に小説『神楽坂』が第3回芥川賞候補に選ばれる。文章力と美貌を兼ね備えた女流作家として人気を集めた。坂口安吾が愛した女性として知られる。大和生命第5代社長の矢田不二郎は兄。 秋田県五城目町古川町(現在の同町下タ町)に、矢田鉄三郎(1866-1925)、チヱ(1869—1944)の四女として生まれる。父鉄三郎は秋田市に居住していたが、当時の五城目町長に請われて1898年に同町の助役に就任し、本籍ごと一家をあげて五城目町に移っていた。
平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1… 平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1981年3月10日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。 上富坂教会牧師・平塚勇之助(1873-1953)の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学卒。1936年、国民精神文化研究所嘱託(- 1938年)、1939年、広島高等師範学校教授(- 1944年)、1944年、九州帝国大学法文学部教授、1951年同大学教育学部教授。1953年、九州大学教育学部長。 1960年日本人初のユネスコ本部教育局長。1963年国立教育研究所長(- 1978年)。同研究所において『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。
粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月… 粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月17日)は、日本の実業家。文献収集家。ゲーテ研究家。ドイツの文豪・ゲーテの書籍や関連文献を生涯にわたって集めて、東京ゲーテ記念館を開館させた人物として知られている。 現在の茨城県水戸市開江で生まれた。父親は地元の村長で、忠は4人兄弟の長男として生まれた。1923年に茨城師範学校へ入学。この師範学校時代にゲーテの『ファウスト』を先輩に薦められたのがきっかけでゲーテを知る。1927年に師範学校を首席で卒業。しかし、その後は教職に就くことはなかった。その後、しばらく水戸と東京を往復する日々が続く。1928年に友人にゲーテについて聞かれてそれを調べていくうちに、ますますゲーテのとりこになり、いつかはゲーテの図書館を作ろうという決心をする。
小山田 七次郎(おやまだ しちじろう、1904年(明治37年… 小山田 七次郎(おやまだ しちじろう、1904年(明治37年)6月19日 - 1976年(昭和51年))は、昭和時代の政治家。青森県十和田市長。 青森県上北郡藤坂村(後の三本木市、現・十和田市)に生まれる。 貧農の7番目の末子として生まれ、小学校3年の時、一家は北海道石狩に渡る。1927年(昭和2年)盛岡高等農林学校を卒業後、農林省に出仕し、奥羽種畜牧場勤務となる。洞内小学校(現在、十和田市立)、青森師範学校教諭、上北地方事務所経済課長、五所川原農林学校長、青森県教育委員長を経て、1956年(昭和31年)10月、十和田市長に就任する。 県南内陸部の中心都市としての地位確立や北里大学の誘致に尽力した。
木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 198… 木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 1986年1月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代に脚本家、ついで監督としてデビューした。1940年(昭和15年)にオペレッタ映画『狸御殿』を創出、『オペレッタ狸御殿』(2005年)につながる源流をつくった。 1903年(明治36年)6月19日、静岡県三島市に生まれる。 早稲田大学附属早稲田高等学院(現在の早稲田大学高等学院)の2年次終了で日活大将軍撮影所に入社、1926年(大正15年)、オリジナル脚本が採用され、伊奈精一監督、根岸東一郎主演のサイレント映画『神田の下宿』で脚本家としてデビューした。同年、オリジナル脚本第2作『都の西北』が映画化され、伊奈監督、中野英治主演で製作されたが、これには俳優時代ののちの映画監督渡辺邦男が出演している。
木村 京太郎(きむら きょうたろう、1902年〈明治35年〉… 木村 京太郎(きむら きょうたろう、1902年〈明治35年〉6月19日 - 1988年〈昭和63年〉6月11日)は、大正・昭和の社会運動家。 奈良県南葛城郡小林村(現在の御所市)出身。1922年4月、水平社の支部である小林水平社を結成、翌月の奈良県水平社に参加する。同月、大正村(旧小林村等が合併して成立)の高等小学校における差別糾弾事件で逮捕され、水平社が関わる部落解放運動での逮捕者第1号となった(奈良県大正村事件)。この事件で禁錮6か月の刑を受けるが運動内の注目を集め、翌1923年の全国水平社青年運動結成の中心人物となった。 更に1924年には全国水平社本部常任に抜擢され、機関紙『選民』の編集を担当する。
倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19… 倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の政治家。長野県長野市長(2期)。 長男はジャーナリストの倉嶋康、弟は気象学者の倉嶋厚。 長野市生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科卒業。1925年朝鮮総督府に奉職。終戦時は慶尚北道内務部長、1946年引揚げ。1947年法政大学工業専門学校の教授から長野市助役となる。1951年長野県地方労働委員会事務局長。 1954年の長野市長選挙に立候補して初当選し、2期務めた。 在任中は飯綱高原の観光開発に乗り出し、スキー場やキャンプ場などを開設。
瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 -… 瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 - 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の軟体動物学者、分類学者。表記揺れにより、瀧巌や滝巌と表記されることもある。兄である滝庸や波部忠重、黒田徳米らと共に、多板類、頭足類や腹足類など、多くの軟体動物を記載した。 1901年(明治34年)6月19日に愛媛県松山市に生まれる。兄に勧められ、1920年(大正9年)広島高等師範学校理科第3部(博物・地理)に入学し、1924年(大正13年)卒業し福岡県立中学伝習館教諭となる。1925年(大正14年)京都帝国大学理学部動物学科に入学し、1928年(昭和3年)に卒業とともに嘱託として瀬戸臨海実験所で働く。
林 賢材(はやし けんざい、1900年6月19日 - 199… 林 賢材(はやし けんざい、1900年6月19日 - 1995年9月1日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1924年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1945年に常務に就任し、1947年から1960年までに社長を務めた。 1971年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年9月1日にがん性腹膜炎のために死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 19… 三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 1979年9月3日)は、日本の税理士、政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1923年日本大学商学部卒。計理士、税理士、司法書士の業務に就く。全日本計理士協会理事、日大学士会理事長、東京都立第五実業学校高等科講師、日大講師、日本監査協会理事長、東京税理士会副会長、日本税理士会常務理事、全国計理士会議長を務める。 1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが、落選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知2区(大選挙区)から日本自由党公認で立候補するが次点で落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において愛知4区から日本自由党公認で立候補するも落選。
皇 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)6月19… 皇 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)6月19日 - 1988年(昭和63年)9月27日)は、日本の教育学者。専門は教育行財政学。長年にわたり、多くの教育者、教育学者を育成した。1973年(昭和48年)に勲二等瑞宝章を受章。 元テレビ朝日プロデューサー・皇達也は長男。弟に、東北大学名誉教授、のち玉川大学文学部長を務めた皇晃之(名は、きらゆき。1908年 - 2004年)がいる。こちらも専門は教育行財政学。 滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)出身。広島高等師範学校、広島文理科大学卒業。広島高等師範学校講師、広島文理科大学教授、広島大学教育学部教授、同教育学部長(連続5期)を経て、1963年(昭和38年)、森戸辰男の後を継ぎ、第2代学長に就任した。
白井 勇(しらい いさみ、1898年(明治31年)6月19日… 白井 勇(しらい いさみ、1898年(明治31年)6月19日 - 1984年(昭和59年)4月12日)は、日本の政治家、参議院議員。 全国食糧検査協会理事長を務めるなど食糧行政の権威として重きを成した。 庄内藩新徴組取扱役・西郷村長だった白井重遠の6男として山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)に生まれる。1917年(大正6年)に山形県立荘内中学校)を卒業し、北海道帝国大学予科を経て東京帝国大学農学部農政経済科に進学。1925年(大正14年)に大学を卒業すると農林省に入省し、仙台米穀事務所長(1933年(昭和8年))・食糧庁検査課長(1945年(昭和20年))で退官する。 1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬、362,293票を得て初当選し左派社会党に入党するが翌年社会党から除名、自由党に入る。
川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19… 川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19日 - 1993年〈平成5年〉3月9日)は、日本の画家。
伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 19… 伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 1959年3月18日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大分県中津市出身。1920年に東京帝国大学理学部化学科を卒業し、大学院で研究活動をする傍らに福原資生堂に入社した。1930年に資生堂取締役に就任し、専務を経て、1954年6月に社長に就任した。 1957年に藍綬褒章を受章した。 1959年3月18日、脳溢血のためにで死去。63歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月… 藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月19日 - 1972年(昭和47年)2月29日)は、第30代浄土真宗本願寺派総長、同派教尊寺11代住職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
角倉 邦彦(すみのくら くにひこ、1890年〈明治23年〉6… 角倉 邦彦(すみのくら くにひこ、1890年〈明治23年〉6月19日 - 1981年〈昭和56年〉12月18日)は、日本の医化学者、農学博士(北海道帝国大学)。 専門は有機微量分析。蛋白質研究の権威。 東京出身。1915年東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)農芸化学科卒業。1915年東北帝国大学農科大学助手。その後、鳥取高等農業学校農芸化学科教授、東京農業大学予科専任講師、東京農業大学予科教授を経て、1925年東京農業大学農学部専任講師。1927年鳥取高等農業学校教授。1929年5月論題「日本産漆の酸化酵素ラクセーゼに就て」で北海道帝国大学にて農学博士受く。1942年鳥取高等農林学校教授。1944年から1949年まで鳥取農林専門学校の3代校長を務めた。
物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 19… 物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 1941年9月9日)は日本の土木学者。工学博士。日本の水理学、土木耐震学の第一人者。 秋田県仙北郡(現在の大仙市域)出身。出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれで、弟に帝国陸軍中将の物部長鉾がいる。 大正時代から昭和初期に掛けて土木工学の第一人者として当時の日本に多大な影響を与えたが、特に影響を与えたのは河川工学・ダム工学である。ダムの耐震構造に関する基礎を形成し(これを初めて採用したのが庄川水系の小牧ダム)、バットレスダムや重力式コンクリートダムの工法理論を構築した。そして最も影響を与えたのは河川開発であり、彼の発案した「河水統制計画」論は以後の河川開発に革命をもたらし、河川総合開発事業とその根幹である多目的ダムは彼の案より実現された。
松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 19… 松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 1986年11月28日)は日本の牧師、新約聖書学者である。 1888年(明治21年)岩手県盛岡市にメソジスト派の牧師松本総吾の三男として生まれる。 鎮西学院高等部卒業後、1912年に関西学院神学部を卒業する。1913年(大正2年)に渡米し、オハイオ・ウェスレアン大学、ドルー神学大学、ペンシルベニア大学院、ユニオン神学校大学院で学び、1919年に帰国する。 1919年(大正8年)より青山学院神学部の教授に就任する。東京女子大学、津田塾大学講師も兼任する。 1923年(大正12年)に日本メソヂスト教会の按手礼を受けて、牧師になる。 1941年(昭和16年)より広島女学院院長、広島女学院大学学長を兼任する。
山根 新次(やまね しんじ、1885年〈明治18年〉6月19… 山根 新次(やまね しんじ、1885年〈明治18年〉6月19日 - 1962年〈昭和37年〉2月9日)は、日本の地質学者(理学博士)。商工省地質調査所長(第6代)、島根大学学長(初代)。 島根県出雲市に生まれる。1910年、東京帝国大学理科大学地質学科、卒業。1915年、京都帝国大学講師、山東鉄道嘱託を経て1929年に九州帝国大学教授に着任、1930年に京都帝国大学より理学博士号を授与される。1935年、商工省地質調査所所長を拝命。第二次世界大戦後の1949年、島根大学初代学長に就任した。 脚注に使用、刊行順。 本文の典拠以外の資料。刊行順。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日… 原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日 - 1958年〈昭和33年〉3月30日)は、日本の経営者。第百銀行頭取、愛国生命社長・会長、帝都高速度交通営団総裁、日本航空会長などを務めた。旧姓・田中。 大阪府島下郡、のちの三島郡茨木村(茨木町を経て現茨木市)で、田中友次郎の二男として生まれ原六郎の養子となる。第三高等学校を経て1907年に京都帝国大学法科経済学部を卒業し、同年に満鉄に入社。 第百銀行頭取、愛国生命社長を経て、1930年に愛国生命会長に就任した。1940年には取締役を務めていた東武鉄道で根津嘉一郎、吉野伝治と社長の死去が相次ぎ、一時的に東武の会長および社長を務めた。
山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉… 山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉3月15日)は、日本の台湾総督府・文部官僚、政治家。第9・11・20代農林大臣、初代農商大臣、第40代逓信大臣、衆議院議員7期。内務大臣の山崎巌は実弟。 福岡県大川市出身。内務大臣、自治大臣を務めた山崎巌は達之輔の弟に当たる。また、元国土庁長官の山崎平八郎は達之輔・巌兄弟の甥に当たるが、平八郎の実父・四郎(達之輔の弟で巌の兄)が早世したため、子供のいない達之輔が平八郎を引き取って実の子のように育てた。そのため人名事典などでは山崎平八郎を達之輔の子とした記述が散見する。 後の衆議院議長・保利茂は山崎が岡田内閣の農林大臣時代に農相秘書官を務めた。
中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月1… 中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月19日 - 1928年(昭和3年)5月16日)は、日本の陸軍軍医、政治家。旧姓は小林、野村、柏村。元山口町議会議員。元湯田医院(中原医院)長。従五位勲四等。 山口県厚狭郡厚東村(現宇部市)の農家小林八九郎、フデの次男として生まれた。小学生の頃、父親の八九郎が離婚、浜田スミという女性と再婚。謙助は八九郎の姉のミキが嫁いでいた野村家の養子になる。棚井小学校(現・宇部市立厚東小学校)の教師から苗字が変わったことを告げられた謙助はその場で泣き出したという。 小学校卒業と同時に、母の実家・藤井家の従兄藤井幸八のすすめによって上京を決意する。藤井幸八は名医として聞え、藤井眼科医院は遠近からの患者で大いに栄え、入院患者を収容するのに付近の農家を借りるほどだった。
久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - … 久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - 1960年6月27日)は、日本の児童文学者。 大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身。童謡『夕やけ小やけ』の作詞者でもあり、中野忠八や忠八の弟で久留島の娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。運動の一環として訪れたアンデルセンの生地などでアンデルセンの復権を訴え、心を動かされたデンマークの人々から「日本のアンデルセン」と呼ばれた。出身地の玖珠町では、「くるしま童話名作選」をモチーフとしたクッキーが販売されている。 村上水軍の末裔である来島通総の子孫で、森藩9代の藩主・久留島通容の孫でもある。父・久留島通寛(みちひろ)(森藩10代藩主・久留島通明の弟)、母・恵喜の長男として森町に生まれた。
正親町季董(おおぎまち すえただ、1874年(明治7年)6月… 正親町季董(おおぎまち すえただ、1874年(明治7年)6月19日 - 1945年(昭和20年))は、日本の華族(男爵)。正親町公董の三男。妻は裏松良光の長女・良子。旧名・董次郎。 1889年(明治22年)5月6日、正親町伯爵家分家を起こし、父の勲功により男爵を叙爵した。東京帝国大学法科大学政治科卒業、司法大臣秘書官を務めた。久原商事の支配人として、1916年(大正5年)7月から1年間ロシア帝国のペトログラードに滞在。帰国後その体験談として「滞露漫記」を雑誌『実業之日本』に連載し、『露西亜遊記』の題で単行本を刊行した。華族廃止論を唱えた。のち山下汽船会社顧問。1919年(大正8年)11月22日に隠居し、1920年(大正9年)2月3日に分家した。
久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4… 久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、栃木県知事、三重県知事、東京府知事および内務次官を歴任した内務官僚。後に、横浜市長も務めた。称号は正四位勲一等。
鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年… 鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1945年(昭和20年)11月30日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事。旧姓・石井、旧名・兼次郎。 三重県出身。石井四郎兵衛の二男として生まれ、鈴木九郎の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し土木局属となる。 以後、佐賀県参事官、長崎県参事官、東京府参事官、岐阜県書記官、千葉県事務官・第一部長兼第三部長、滋賀県事務官、宮城県事務官、神奈川県港務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1916年5月、沖縄県知事に就任。織物業などの産業振興に尽力。
坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5… 坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5月2日)- 1943年(昭和18年)5月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県で坂梨磯吉の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。 東亜煙草株式会社取締役、山東興業・山東水産・山東運輸株式会社取締役、神戸・第一水産取締役、坂梨(名)社長、坂梨商事社長、旭セメント社長、日之出漁業社長、日本海水工業社長、東邦化学工業社長、西部合同瓦斯監査役、福岡県会議員などを歴任。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙において、福岡県第15区で立憲政友会から出馬し当選し衆議院議員となり、1期務めた。
佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月1… 佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月19日 - 1929年(昭和4年)11月7日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の土木技術者。神戸市技師長を長年務め、布引五本松ダム(日本初の重力式コンクリートダム)・烏原立ヶ畑堰堤・千苅ダムという神戸市の水道事業を支える三つの主要な貯水施設を設計・施工した人物として知られる。神戸の近代水道の礎を、全員日本人の技術陣を率いて完成させた人物として評価されている。 1869年(明治2年)6月19日、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれた。1891年(明治24年)、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 帝国大学卒業の同年(明治24年)、大阪市技師に就任した。
深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月… 深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月19日) - 昭和17年(1942年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。 熊本市出身。1894年(明治27年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。朝鮮に渡り、『漢城新聞』主幹、日韓殖産株式会社取締役、『京城日報』主幹を務めた。さらに京城居留民団議員、京城学校組合議員、京城商業会議所副会頭などを歴任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選を果たした。 その他、熊本米穀取引所理事、九州日日新聞社社長を務めた。
今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明… 今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明治2年5月10日) - 1936年(昭和11年)12月7日)は、日本の裁判官。日比谷焼打事件の裁判長などを務め、借地借家法の功労者としても知られる。妻・菊子は伍堂卓爾の六女で、海軍軍人で実業家、政治家の伍堂卓雄の妹。 関東大震災発生時には東京地方裁判所所長であり、岡慶治(日比谷焼討事件の左陪審 )は浦和地方裁判所所長であった。
丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日)… 丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日) - 1955年〈昭和30年〉1月18日)は、明治時代-昭和初期の土木技術者、工学博士。 1868年(慶応4年)名古屋生まれ、1889年東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。内務省に入り内務技師。仙台、大阪、名古屋の土木監督署で勤務。1900年-1901年に欧米出張(横浜港新港埠頭建設のため)。大蔵省臨時建築部第二課長橫浜支部長、同臨時建築課長などを歴任。この間、木曽川、淀川、最上川の治水事業、横浜、神戸の港湾改良事業などに携わる。1915年、工学博士。1919年、依願免官。同年、日本水力株式会社取締役。1921年、東京市道路局長、河川課長・建築課長事務取扱。
神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6… 神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6月19日) - 大正13年(1924年)1月18日)は、明治時代から大正時代にかけての地質鉱物学者。 江戸幕府幕臣神保長致の長男として江戸で生まれる。言語学者の神保格の兄。明治20年(1887年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)で地質学を専攻。同大卒業後、北海道庁技師、全道地質鉱産調査主任を務める。明治25年(1892年)ドイツのベルリン大学に留学し、鉱物学や岩石学などを学ぶ。 帰国後の明治27年(1894年)、母校の東京帝国大学理科大学助教授となり、明治29年(1896年)教授、鉱物学教室設立とともに主任教授となり鉱物学講座を担任した。
小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月… 小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月19日) - 1936年(昭和11年)1月24日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、水産業者。愛称にポロニシパ、ヤソの小池。 越後国中頸城郡潟町村字小舟津(現在の新潟県上越市大潟区)出身。酒造業兼漁業の小池太一郎、やをの四人兄弟の三男として生まれる。長兄は夭折した。幼少期は越後高田藩の松下武次郎から漢文を学んだ。1877年(明治10年)に叔父の小池仁兵衛の養子となった。1879年(明治12年)に新潟師範学校速成科高田支場を卒業し、小学校教員となったが[要出典]、翌年根室に渡った。 別当賀にて林業に従事したのち、酒販業を経て、勉学を兼ねて根室の天杉商店で働く。
相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(… 相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(文久2年5月22日)- 1942年(昭和17年)6月16日)は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。従四位、勲三等、功四級。 佐賀藩士・相浦蕃慎の次男として生まれる。兄に海軍中将相浦紀道がいる。藩校(弘道館)を経て、1883年(明治16年)12月25日に陸軍士官学校(フランス式旧士官学校)を卒業(旧6期、騎兵)し、同日、陸軍騎兵少尉に任官。 1901年(明治34年)5月に騎兵第12連隊長に就任。1904年(明治37年)5月に騎兵大佐となる。日露戦争に出征し、鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦などに参戦した。1908年(明治41年)12月に軍馬補充部白河部長に就任後、1910年(明治43年)6月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された。
野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安… 野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安政6年5月19日) - 1941年(昭和16年)12月2日)は、日本の実業家。岡山市北区平野出身。幼名・兵三。諱・通礼。筆名・汲古庵主。号・幻庵(げんあん)。 茶道への造詣が深く、1906年から1927年まで茶会の記事を新聞に書き続け、『茶会漫録』12冊を発刊。茶道に影響を与えた。近代小田原三茶人の1人。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年… 青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年6月19日) - 大正13年(1924年)12月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最も初期の「支那通軍人」[要出典]。通算13年の中国生活を送った。 佐土原藩士・青木新蔵の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に入学。明治12年(1879年)12月、砲兵少尉に任官し、翌年12月、陸士(旧3期)を卒業。 明治14年(1881年)4月、山砲兵第2大隊付となり、陸士教官、参謀本部出仕などを経て、明治17年(1884年)10月から同20年(1887年)12月、清国差遣となり、広東、北京に駐在。
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5… 大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5年5月9日〉- 1947年〈昭和22年〉3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 1858年(安政5年)、美濃国岩村藩(現在の岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)生まれ。岩村藩士・大島桂之進の次男。兄は3歳の時に病死したので、健一は一人息子として育つ。10歳の春を迎えると同時に文武所に入所する。文武所は1871年、廃藩置県と共に廃止され、知新館と改称されたので健一もここへ移った。 明治初年に岩村を離れる。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。
岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857… 岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857年6月19日) - 昭和3年(1928年)3月19日)は、実業家。銀行家としてベンチャー企業への積極的な融資を行った。息子は、カトリック司祭で哲学者の岩下壮一、清周本人も聖公会に所属したクリスチャンであった。
高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5… 高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5月6日) - 1933年(昭和8年)3月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 淡路国津名郡河上村(のち兵庫県津名郡鮎原村→五色町、現・洲本市)の大地主の家に生まれる。徳島藩立郷学校に入り、漢籍を学び、その後、上京し、英語と漢学を修める。小学校教員、学校世話掛、河上村戸長、学区取締、鮎原村長、同村会議員、津名郡連合会議員、同郡会議員、兵庫県会議員、同常置委員、徴兵参事員となる。また、北浜銀行取締役となり、ほか、由良町長、津名郡農会長、同教育会長、愛国銀行取締役頭取を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫10区から自由党公認で立候補して初当選。
千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7… 千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7年5月24日) - 1918年(大正7年)10月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。東京高等師範学校名誉教授。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 1919年(大正8年)6月に、東京高等師範学校(現在の筑波大学)へ千本の旧蔵書192冊が収められ、現在は千本文庫とよばれている。