長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)… 長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)7月20日-1942年(昭和17年)10月29日)は、日本の会計学者、早稲田大学商学部教授、商学博士、陸軍司政長官。 1896年7月20日、埼玉県北埼玉郡羽生町(現在の羽生市)に生まれる。埼玉県立不動岡中学校を経て、1915年4月、早稲田大学第四高等予科に入学する。1916年8月、早稲田大学大学部商科に進み、1919年7月に卒業する。卒業後、横浜の増田貿易株式会社に入社し、木材部を担当する。1921年4月、早稲田大学海外留学生に決定され、同年12月からペンシルベニア大学において、1923年からロンドン大学において、会計学を専攻する。同年8月に帰朝後、早稲田大学商学部の講師となる。
古村 啓蔵(こむら けいぞう、1896年〈明治29年〉7月2… 古村 啓蔵(こむら けいぞう、1896年〈明治29年〉7月20日 - 1978年〈昭和53年〉2月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲二等。戦艦「武蔵」の第2代艦長であり、坊ノ岬沖海戦では軽巡洋艦「矢矧」に乗艦。第二水雷戦隊を指揮していた。あだ名は「両舷直の親玉」。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒後、海軍兵学校45期を89名中10位の成績で卒業。病のため1年留年している。海軍兵学校の同期生では、坊の岬沖海戦時に共に戦った第二艦隊参謀長森下信衛少将、同郷同窓の戦艦「大和」艦長有賀幸作大佐(戦死後中将)が有名である。
吉田 菊太郎(よしだ きくたろう、1896年7月20日 - … 吉田 菊太郎(よしだ きくたろう、1896年7月20日 - 1965年1月8日)は、昭和時代のアイヌ民族運動家。北海道幕別村のアイヌの首長・トイペウク(庄吉)の子。 十勝国中川郡幕別村字白人(チロット)村に、父トイペウク(庄吉)・母アシマツ(マツ)の長男として生まれる。白人小学校・幕別高等小学校を卒業し、父を継ぎ農業を営む。若い頃はその父への「ある反感から」「他の人が驚き怪しみもしたほど」酒におぼれ、すさんだ生活をしたが、1927年(昭和2年)2月8日に泥酔して自分の家を焼いてしまったことをきっかけに禁酒を誓い、2月15日には厚内方面に出稼ぎに出る。 断酒に成功し8月には故郷に帰る。その頃に創立された十勝アイヌ旭明社(社長・喜多章明)に参加し、翌年には精神修養と生活改善を目的とする白人古潭矯風会を創設し会長に就任する。
小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7… 小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7月20日 - 1988年(昭和63年)1月6日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会連合会会長、成蹊学園理事長などを務めた。 小笠原鑅次郎・ハルの長男として東京に生まれる。 1918年東京帝国大学法学部独法科を卒業。三菱合資入社。1921年三菱銀行に転じる。 1945年5月取締役本店営業部長、1946年4月常務取締役、1947年1月専務取締役、1948年10月取締役副頭取、1954年11月取締役頭取、1959年相談役。 このほか、日本郵船取締役、三菱商事監査役、帝都高速度交通営団管理委員、東京銀行取締役、東京ヒルトンホテル監査役、日本カーバイド工業監査役を歴任。
猪俣 浩三(いのまた こうぞう、1894年7月20日 - 1… 猪俣 浩三(いのまた こうぞう、1894年7月20日 - 1993年8月21日)は、日本の弁護士、政治家。アムネスティ・インターナショナル日本支部初代支部長。 新潟県出身。日本大学法学部卒。1927年弁護士を開業。戦後、日本社会党の結成に参加。1947年に第23回衆議院議員総選挙に新潟4区から出馬して初当選、その後は連続7回当選。1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選したが、1967年の第31回衆議院議員総選挙にて返り咲きを果たして1期を務めた。通算当選8回。 日本社会党の衆議院議員として人権侵害、汚職問題で政府を追及した。鈴木茂三郎(左派日本社会党委員長)が起こした警察予備隊違憲訴訟では原告代理人を務めている。
森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 19… 森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 1964年2月4日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員、農林大臣、滋賀県知事などを歴任。位階は正三位。勲一等瑞宝章。 滋賀県東浅井郡竹生村(現在の長浜市)出身。1905年に長浜農学校を卒業後、家業の農業・蚕種製造・水産業などを行っていたが、政治の世界を志して竹生村長となり、1917年には38歳で立憲政友会より滋賀県会議員となり2期務める。1936年の第19回衆議院議員総選挙で滋賀県選挙区から立憲政友会の公認で立候補して当選するが、3期目を目指した1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補して落選した。
江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年… 江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年1月18日)は、日本の小説家である。東京麹町生まれであるが、出身地は父の故郷である栃木県烏山町である。本名は同表記で「きよし」であるが、戦後は「かん」と改めた。父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鷗外と同期であった。 三重四中から第四高等学校に進学するも父と進路をめぐって対立し、四高を退学、第五高等学校に入り直す。この時期には俳句に没頭し、河東碧梧桐に認められる。1912年、東京帝国大学英文科に進学する。この年、雑誌『スバル』に短編『かかり船』(後に「赤い矢帆」と改題)を発表し、作家として認められる。このころから佐藤春夫・広津和郎・宇野浩二たちとの交友がはじまる。
東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1… 東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1955年11月11日)は、日本の元騎手、調教師。別名:東原玉蔵。 1887年7月20日、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。 1901年に目黒競馬場所属の柴田安治厩舎に見習騎手として入門。5年後の1906年に横濱競馬場のレースにて騎手としてデビュー。騎手時代の1924年秋には横濱競馬場での帝室御賞典をナイトという馬で制覇した記録がある。 調教師となり中山競馬場に厩舎を構えてからは、東京優駿競走をワカタカ(第1回、1932年)、ミナミホマレ(第11回、1942年)で制覇、東京競馬場での帝室御賞典をワカタカ(1932年)で制覇、ミナミモアで天皇賞 (春)を1942年に制覇するなどして、戦中戦後にかけて日本競馬界の名門として名を高めた。
藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20… 藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感()」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。 祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。 操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡し、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。
田澤 義鋪(たざわ よしはる、1885年(明治18年)7月2… 田澤 義鋪(たざわ よしはる、1885年(明治18年)7月20日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正期及び昭和初期の社会教育家、政治家、思想家。佐賀県鹿島市出身。 青年教育と政治教育そして選挙粛正に一生を捧げた。とりわけ青年団運動及び青年教育に尽力した活動が知られており、「青年団の父」と称されている。 1885年(明治18年)7月20日、佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)大字高津原434番地に、父義陳・母みすの長男として生まれる。4歳で鹿島小学校に入学。幼少時は、旧鹿島藩主鍋島直彬の薫陶を受ける。1901年(明治34年)旧制佐賀県立鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。熊本第五高等学校 (旧制)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20… 三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20日 - 昭和32年〈1957年〉3月25日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。 竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。
来栖 七郎(くるす しちろう、1883年(明治16年)7月2… 来栖 七郎(くるす しちろう、1883年(明治16年)7月20日 - 1928年(昭和3年)5月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 茨城県北相馬郡北文間村(現在の龍ケ崎市)出身。日本法律学校を経て、東京政治学校を卒業。二六新報記者、同理事、帝国通信記者、自由通信社理事などを歴任。さらに殖民協会理事長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。次の第16回衆議院議員総選挙でも再選された。
今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882… 今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882年(明治15年)7月20日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の国文学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・今園国映の長男として生まれる。父の死去に伴い、1893年(明治26年)5月12日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1912年7月、東京帝国大学文科大学文学科(国文学)を卒業。1928年(昭和3年)歌会始講頌となり、以後、同読士、同奉行、御歌所参候、東京女子大学教授などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。
高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946… 高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946年11月27日)は、明治-昭和時代前期の日本の医学者。泌尿器科学における日本のパイオニア。九州帝国大学医学部泌尿器科を設立し、初代教授となる。1933年皆見省吾と雑誌「皮膚と泌尿」を創刊。皮膚疾患治療剤グリテールを開発した。また、江戸末期の浮世絵師、歌川国芳に注目し、その作品を収集。息子である高木健太郎が繁の遺志を継ぎ、健太郎の妻の節子が平成12年に「高木繁浮世絵コレクション」として約530点を名古屋市博物館に寄贈。『名古屋市博物館資料図版目録二』に全作品が掲載されている。 下山順一郎(日本最初の薬学博士、東京大学教授、私立薬学校:現東京薬科大学の創立者、初代校長)と母志満の長男として、東京都神田区新石町に生まれる。
深沢 友彦(ふかざわ ともひこ、1880年(明治13年)7月… 深沢 友彦(ふかざわ ともひこ、1880年(明治13年)7月20日 - 1970年(昭和45年)8月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。第10代八王子市長を務めた。 細川家の家臣である深澤家の長男として熊本県熊本区藪内町(現熊本市中央区上通町)に生まれる。熊本県立済々黌中学校を卒業後、1900年(明治33年)に陸軍士官学校(12期)卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官。シベリア出兵では1924年(大正13年)10月にサガレン州派遣軍歩兵第一大隊長となる。 その後、熊本陸軍幼年学校長、熊本陸軍教導学校長、歩兵第45連隊長などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸軍少将に進み歩兵第33旅団長に就任。
大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20… 大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20日 - 1947年(昭和22年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)。 和歌山県和歌山市出身。1900年(明治33年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。翌年、紀州日報社を創刊して社長兼記者となったが、1903年(明治36年)に廃刊となり、政界入りを志すようになった。1909年(明治42年)、和歌山市会議員に選ばれ、副議長となった。 1915年(大正4年)、立憲国民党から第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。第13回衆議院議員総選挙でも再選を果たしたが、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。
北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1… 北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1955年8月25日)は明治から昭和にかけて活躍した日本の漫画家、日本画家である。本名は保次(やすじ)。楽天は『時事漫画』や『東京パック』等の新聞や雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画の執筆で活躍した。 楽天は日本初の職業漫画家とみなされる事もあり、その漫画の人気は、現代における「漫画」という用語が広く一般に普及するのに多大な影響を与えた(最初に、西洋の「カートゥーン」の訳語として「漫画」という用語を使用したのは今泉一瓢である。楽天は、「コミック」の訳語として「漫画」という用語を最初に使用した)。また、戦前に発行された『楽天全集』は、幼少期の手塚治虫に影響を与えた作品の一つとして特筆される。
中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明… 中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明治4年6月3日) - 1956年(昭和31年)4月29日)は、明治後期から昭和前期にかけての日本の病理学者、考古学者。死没時の称号、位階勲等および学位は九州大学名誉教授正三位勲二等医学博士。 本来の職業は病理学者であるが、後世に残した業績は考古学分野での成果が大半を占めることから、一般には考古学者として知られている。 中山平次郎は、1871年(明治4年)、現在の京都市上京区に生まれた。東京市に移った後、家業であった医学の道を進み、1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、ドイツ・オーストリア留学から帰国した1906年(明治39年)には、京都帝国大学・福岡医科大学(のちの九州大学医学部)の教授に就任した。
須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月… 須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月1日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月1日)は、明治時代の漢学者、実業家、朝鮮独立運動を支援した活動家。輹斎と号した。 下野国安蘇郡天明町(現・栃木県佐野市)に豪農の子として生まれる。幼名を平十郎または平重郎という。明治19年(1886年)頃上京し、二松学舎に入り、三島中洲、岡本黄石に師事し、漢籍を修める。続いて1889年(明治22年)3月22日、慶應義塾別科独仏科に入り、大学部を卒業する。1895年(明治28年)に帰郷し、金玉均亡き後の朝鮮壮士を支援し、東邦協会や玄洋社、黒龍会の活動に没頭する。1895年(明治28年)には朝鮮に渡り、朴泳孝の旧宅に寄寓する。
川島 亀夫(かわしま かめお、慶応3年6月19日(1867年… 川島 亀夫(かわしま かめお、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 昭和4年(1929年)12月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 美作国苫田郡津山(現在の岡山県津山市)出身。1890年(明治23年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)英語法科を卒業。高等文官試験に合格し、司法官として各地の裁判所に勤務した後、司法省参事官、司法大臣秘書官を務めた。その後、官を辞し、弁護士を開業した。 1909年(明治42年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。日本製糖汚職事件で起訴されるが、無罪判決を受けた。
三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(18… 三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 1949年11月30日)は、石川県出身の日本の陸軍軍人・政治家(貴族院議員)である。階級位階勲等功級は陸軍主計中将従三位勲一等功四級。宇垣一成陸相の下で宇垣軍縮を断行した陸軍省経理局長である。 能登国鹿島郡笠師村(現石川県七尾市中島町地区)に生まれる。兄には石川県会副議長となった三井亥三郎などがいる。 陸軍士官学校本科を卒業(士官候補生第6期)し、明治28年(1895年)に陸軍歩兵少尉に任じられる。その後、陸軍歩兵大尉となり、近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる。明治35年(1902年)には、歩兵科から経理部に転科し、陸軍一等副監督(大尉相当官)に転ずる。
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年… 佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。 幕末の会津若松博労町に生まれる。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学するが、同校はその翌年に廃校となり、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校を卒業した。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月… 土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月20日) - 昭和6年(1931年)11月6日)は、日本の医学者。号は鶚軒。日本における皮膚科学の開祖。 1866年、越前国武生領の医者・五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原(現・福井県越前市武生)に生まれた。1880年、15歳のときに兄・秀實に伴われて上京し、下谷(現・台東区下谷)の進學舎でドイツ語を学んだ。同年、東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学。1885年には東京帝国大学医学部予科に入学した。1889年、母方の叔父土肥淳朴の養子となり、以降土肥姓を名乗った。1891年に卒業。 卒業後は、東京帝国大学附属第一医院外科医局に入局し、外科医スクリバの助手となった。
白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月1… 白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月13日〉- 1946年〈昭和21年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。 「白瀬中尉」と呼ばれることが多い。 文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男、知教(ちきょう)として生まれた。 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代は非常にわんぱくだったという。「金浦の浜辺に漁師が捨てた小魚を狙ってきた狐の尻尾をちぎった」「海に潜って300トンもある千石船の底を潜り抜けようとしたが、抜けられずに溺れて死にかけた」「本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちた」のほか、狼退治や150人と血闘を行ったなどと列挙している。
井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年… 井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年6月7日) - 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 和泉国南郡、のちの大阪府泉南郡八木村(春木町を経て現岸和田市)出身。大阪府会議員、同常置委員となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において大阪府郡部から無所属で立候補したが25票差で次点で落選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙でも再選。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙では次点で落選。しかし、7月に本出保太郎の死去により、繰上当選となった。
井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854… 井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854年7月20日) - 大正7年(1918年)6月23日)は、秩父事件の中心人物の一人。 井上類作の次男として武蔵国下吉田村(のちの埼玉県秩父郡吉田町、現秩父市)に生まれる。幼名は治作。長男が早くなくなったため、商家「丸井」を継ぎ、代々の「伝蔵」を名乗る。商用で上京するうち自由民権運動に共鳴し、自由党に入る。 1884年(明治17年)11月に起きた秩父事件では会計長を務めた。秩父事件敗北後、逃亡。欠席裁判で死刑の判決を受けたが、北海道に潜行していた。北海道石狩で代書屋を開業、1905年(明治38年)「代書人取締規則」の施行で規制が強化され、逃亡中の身であり身分証提出ができず代書業を廃業せざるを得なかった。
佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月2… 佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 大正9年(1920年)4月27日)は、明治時代の陸軍軍人。階級は陸軍少将、位階は従二位功四級。広島県広島市出身。広島県平民。歩兵第18連隊長、第3代広島市長、宮中顧問官等を歴任する。
栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849… 栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 昭和4年(1929年)5月17日)は、日本メソジスト教会の最初の日本人伝道者の一人、後に同教団の牧師。会津藩士。1878年(明治11年)6月12日日本最初のキリスト教式結婚式を挙げた人物として知られる。 会津藩士荒木進三郎の次男として会津若松に生まれる。1864年(元治元年)に栗村家を継ぐ。1868年(慶応4年)会津戦争に従軍する。東京で謹慎処分を受けた会津藩士の一人として名前が載っている。 1873年(明治6年)の廃藩置県の後で、横浜に行き蓮卒(警察官)になる。横浜で教会に行き、キリスト教に回心する。 1875年(明治8年)にロバート・S・マクレイに就いて神学を治める。
Avi(アヴィ 7月20日 - )は、日本の男性チェリスト、… Avi(アヴィ 7月20日 - )は、日本の男性チェリスト、ソングライター。福岡県北九州市出身。 TVに出演していたGACKTの歌を聴いて衝撃を受け、音楽に興味を持つ。14歳で母親に買ってもらったゲーム機を勝手に売り、エレクトリック・ギターを購入。同時に作詞作曲を始める。 20歳までGreenhill名義で活動。aviという名前は、家族とのカラオケでアヴリル・ラヴィーンを歌ったときの映像を見た母が「アヴィちゃんだ」と言ったことを思い出し、丁度以前の名前に飽きていたので名前を変えた。アマチュア時、東京・広島、他様々な旅先で路上ライブを行った。 ボイストレーニング教室に通っていたが授業料が払えず数回で退会。
寺西 瑞紀(てらにし たまき、7月20日 - )は、日本で活… 寺西 瑞紀(てらにし たまき、7月20日 - )は、日本で活動していたフリーアナウンサー。 千葉県出身。東京都出身だとする記述もある。明治学院大学法学部卒業。 かつては劇団東俳とフリーアナウンサー・クラブに所属し、輸入車ショーや展示会などでの司会・ナレーション業務に従事していた。日産ギャラリーのミス・フェアレディ第34期のメンバーでもあった。 2005年4月、フリーアナウンサー・クラブからキャストKSBパートナーズへ出向。同社からの派遣で瀬戸内海放送の契約アナウンサーになり、高松本社の報道制作ユニットに配属された。ただし瀬戸内海放送で活動していたのは、2006年6月までの1年ほどであった。 その後はジョイスタッフに所属し、関東地方を拠点に活動。