竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 -… 竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 - 1981年4月20日)は、日本の翻訳家、実業家、三笠書房創立者。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。 本所高等小学校卒業。正則英語学校、アテネフランセに通い英語、ドイツ語、フランス語を習得。 藤澤衛彦の主宰の雑誌『伝説』の編集に携わる。のち、梅原北明が企画し福山福太郎が創設した「文藝資料研究会」に参加し、雑誌『奇書』や「変態文献叢書」の編集を手がける。1930年には酒井潔らの協力をうけ「風俗資料刊行会」を設立し、雑誌『風俗資料』『デカメロン』らを編集刊行した。 そののち、哲学者三木清らのグループや、唯物論研究会との親交を重ね、1933年に妻富子と共に、社会科学書、ヨーロッパ・アメリカ文学の翻訳書の刊行を主とする、三笠書房を創立。
中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月2… 中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月25日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家・政治家。代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。詩人の中野鈴子は実妹、女優の原泉は妻。 福井県坂井市出身。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙され1934年に転向する。
鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 19… 鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 1991年9月14日)は、日本の陸上競技指導者。JOC名誉委員、日本陸連元理事長。栃木県出身。 郁文館中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、九州帝国大学農学部農業化学科卒業、1926年同大学法文学部中退。1932年、日本陸連の役員となり、1960年ローマ五輪の陸上競技総監督などを務め、同年日本陸連理事長。1969年日本体育協会アマチュア委員長に就任し、「アマチュア規定」制定に尽力したほか、1964年東京五輪組織委競技交通警備特別委員、ユニバーシアード組織委総務委員、第8回・第14回国際オリンピックアカデミー調査員、札幌冬季五輪式典委員、体協理事、COJO・JOC合同委員長などを歴任。
野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1… 野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1月25日 - 1991年 <平成3年> 4月27日)は、日本の経営者。山口放送社長を務めた。[要出典]位階は従四位。 山口県出身。広島高等師範学校を経て、1933年に広島文理大学史学科を卒業。朝鮮総督府、兵庫県、文部省で教学官や史学官を務め、広島文理大学事務官、広島高等師範学校教授、佐賀青年師範学校校長を歴任し、1949年4月に山口県教育委員会委員長に就任。1956年3月には県内初の民間放送局として設立されたラジオ山口(現在の山口放送)に入社し、社長に就任。1987年6月には会長に就任。会長在職中の1988年にはドキュメンタリーのディレクターとして評価の高かった磯野恭子の、民放初の女性取締役抜擢にも尽力した。
村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月2… 村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月25日 - 1966年(昭和41年)12月13日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡乃万村長。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市)で生まれる。今治中学校(現愛媛県立今治西高等学校)を経て、神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだが中退。今治市役所に入り、産業課長、土木課長などを務めた。その後、中華民国に赴き興亜院嘱託、山東省青島港建設事務所会計課長、青島埠頭 (株) 総務課長などを歴任した。 戦後、今治に引揚げ、乃万村長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に愛媛県第2区から民主党公認で出馬して初当選。
五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または… 五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または2月1日 - 1981年5月1日)は、日本の映画監督、脚本家、俳人。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。本名は五所 平右衛門(ごしょ へいえもん)。俳号は五所亭。 東京市神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、「豊前屋」という大店の乾物問屋を営む父・平助の妾腹の子として生まれる。生みの母は新富町で芸者をしていた。5歳の時に長男が亡くなり、母のもとを離れて後継ぎにされた。1916年に慶應義塾商工学校に入学する。学生時代には俳句に没頭していた。 1921年、歩兵第1連隊に志願入隊し、見習士官で予備となる。1923年、慶應義塾商工学校卒業後、城戸四郎との出会いがきっかけで、父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあって、松竹蒲田撮影所へ入社する。
納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 199… 納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 1991年1月4日)は、日本の陸上競技(短距離走・中距離走)選手。 東京高等師範学校在学中の1920年代半ばに400メートル・800メートルの日本記録をたびたび更新、1924年パリオリンピックに両種目と十種競技で出場した。卒業後は福岡日日新聞社(のち西日本新聞社)に入社、1952年に九州一周駅伝を創設するなど、九州の陸上競技の振興に努めた。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に生まれる。筑後川やクリーク(水路)を泳いで遊ぶ少年時代を過ごし、中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)在学中には野球部・庭球部・徒歩部・剣道部で選手を務めるスポーツ万能ぶりを見せていたという。
金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月2… 金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月23日 - 1970年)は、中華民国、満洲国および大韓民国の教授、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は全州金氏。字は星光、号は竹山。父は旧韓末の正3品議官を務めた金精気。 咸鏡南道興南市生まれ、忠清南道天安郡出身。中央大学法学部、日本大学政治学部卒。北京大学政治科修了。北京基青付専・新京外国語専門学校教授を務めた。帰国後は1939年より天安で果樹園農場を経営し、そのまま解放を迎えた。その後は文化大学副理事長、大韓雄弁会中央委員、大韓国民党天安郡党委員長を歴任した。1948年の初代総選挙では天安郡選挙区に金を含めて10人が立候補したため、激戦で落選した。
田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994… 田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994年3月14日)は、日本の法学者。専門は憲法。同志社大学名誉教授。
中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年… 中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年〉1月21日 - 1936年〈昭和11年〉3月22日)は、日本の考古学者。筆名は中谷杜美。物理学者・中谷宇吉郎の弟。 1902年(明治35年)1月21日、中谷宇一の次男として石川県江沼郡片山津町(現・加賀市)に生まれる。中学生の頃は文学を志し、同窓生たちと発行した同人誌『跫音』に発表した小説「独創者の喜び」が芥川龍之介の目にとまったことがある。 1919年(大正8年)、小松中学校を卒業し、約1年間、作見村小学校で代用教員として奉職する。1920年(大正9年)に上京し、菊池寛の内弟子として身を寄せて新劇運動に参加し、1921年(大正10年)に金沢新報の記者としてシベリア出兵に従軍する。
前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月2… 前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。菊水旅館代表取締役。米子市議会議員。米子市観光協会会長。皆生温泉旅館組合組合長。 岡山県真庭郡(現・真庭市)出身。尋常小学校、高等小学校を卒業する。1918年(大正7年)、鳥取県米子市にて諸業に従事する。1937年(昭和12年)、菊水旅館を設立する。1949年(昭和24年)、有限に改組する。 米子市観光協会会長、皆生温泉旅館組合組合長、鳥取県観光連盟副会長、鳥取県旅館組合連合会副理事長、鳥取県中小企業団体中央会理事、鳥取県中小企業振興対策審議会委員、鳥取県労務対策協議会理事、米子労働基準協会理事・協会会長などをつとめる。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1月20日 - 1983年(昭和58年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期) 、清水市長(3期) 。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 静岡県出身。明治大学中退。沼津市議に二回当選し、副議長などを務めた。1946年(昭和21年)から1963年(昭和38年)まで衆議院議員を5期務めた (自民党)。 1965年(昭和40年)から清水市長を3期を務め、この間静岡県柑橘振興会長なども歴任。実業家としては東洋パイルヒューム管製作所会長なども務めた。
吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日… 吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日 - 1998年)は、日本の科学評論家。 石川県生まれ。東北帝国大学理学部卒、1934年九州帝国大学法文学部卒。戦後久留米大学教授、1959年「人の性格に関する脳波学的研究」で久留米大学より医学博士の学位を取得。定年退官後、九州産業大学教授。 数学、医学、哲学などで多くの一般向け著作をなした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)… 深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)1月18日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県半田市長(5期)などを歴任。 愛知県出身。1925年、早稲田大学専門部法律科を卒業し、その後、コロンビア大学、ソルボンヌ大学大学院で学んた。 愛知県半田農業学校講師、文部省嘱託、満州国外交部嘱託、満州炭鉱社員、富士産業農場長を務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙おいて大選挙区の愛知県第一区で日本自由党から出馬して当選。第23回総選挙(旧愛知2区)でも当選し、衆議院議員を連続二期務めた。この間、日本自由党総務、同渉外部副部長、同政調会鉱工業委員長、民主自由党常任総務などを務めた。
英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 19… 英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 1994年9月9日)は、日本の国際政治学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・1945年)(学位論文「中華民国に於ける列国の条約権益」)。慶應義塾大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。 東京生まれ。1926年慶應義塾大学法学部卒業。1945年「中華民国に於ける列国の条約権益」で東京帝国大学より法学博士の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1968年定年、名誉教授。1968-1972年日本国際政治学会理事長。1975年勲三等旭日中綬章受勲。 長男は医学博士の英清道(慶應義塾大学医学部卒)。次男は外交官の英正道(慶應義塾大学経済学部卒)。
篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月… 篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月14日 - 1980年(昭和55年)5月30日 )は、日本における西洋音楽黎明期のヴァイオリニスト、音楽教育者。指揮者としても活躍した。芳春院(まつ、前田利家正室)の生家・篠原家出身で、先祖は篠原長良(大学、前田利家の実子篠原長次の次男)に遡る。 1921年(大正10年)、金沢市で第1回演奏会を開く。大正時代に、イタリア人、フランチェスコ・フザリオ(ヴァイオリニスト・トリノ音楽院教授)、ロシア人、ミハエル・ウェックスラー(アウアー門下のヴァイオリニスト・サンフランシスコ音楽院教授)、昭和時代にはドイツ人、ウィリー・フライ(ヴァイオリニスト、16歳でメンデルスゾーン賞受賞・芸大教授)に師事。
渡辺 男二郎(わたなべ だんじろう、1902年(明治35年)… 渡辺 男二郎(わたなべ だんじろう、1902年(明治35年)1月14日 - 1980年(昭和55年)11月20日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選宮城県知事。 現在の広島県呉市出身。渡辺逸太郎の二男として生まれる。第三高等学校を卒業。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年5月、内務省に入省し、北海道庁属となる。 1929年8月、地方警視として青森県警察部勤務となる。さらに、山形県警察部、福井県警察部で勤務。1935年5月、地方事務官として三重県勤務となり、さらに東京府に移る。1939年4月、内閣東北局書記官に発令され、山口県経済部長、和歌山県内務部長、宮城県内務部長などを歴任。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 197… 渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 1971年8月21日)は、日本の建築学者。
古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)… 古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。元朝鮮総督府柔道教官。 持ち前の怪力を武器に全日本選士権大会で優勝2度、準優勝1度の成績を残したほか昭和天覧試合にも2度出場した実績を有す、戦前を代表する柔道家の1人である。 1902年(明治35年)1月10日に栃木県芳賀郡益子町本沼に生まれる。中学は地元の栃木県立旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校)に進学し、1920年(大正9年)に講道館へ入門すると翌21年(大正10年)には当時中学生としては珍しかった初段に列せられた。卒業後は柔道の専門家を志して大日本武徳会武道専門学校 (旧制)に進学。
山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 … 山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 - 1978年5月19日)は、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。 東京・浅草生れ。祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。1915年、親の反対に遭い府立一中(現 都立日比谷高校)入学翌日に退学を余儀なくされ、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科大工分科入学(現 東京工大附属高校)。同期には横河工務所で構造技術者として活躍し、山口の代表作である日本歯科医学専門学校付属医院の構造設計も担当した田中正蔵らがいる。1918年、東京高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組(現:清水建設)に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。
宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – … 宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – 1997年12月20日)は、日本の経営者である。第二次世界大戦後の沖縄において沖縄機械製塩、大東糖業、琉球煙草、琉球セメントなど多数の企業を設立し、オリオンビールの具志堅宗精、国場組の国場幸太郎、大城組の大城鎌吉らとともに「沖縄財界四天王」に数えられる。その功績は「沖縄の産業復興の父」「戦後沖縄の混迷期脱出を象徴する代表的な経済人」などと評される。 宮城仁四郎は1902年(明治35年)1月10日に沖縄県国頭郡大宜味村字根路銘で、父・仁孝と母・ウシの間に生まれた。7人兄弟(4男3女)の末っ子であった。父の仁孝は建設業に従事しており、仁四郎は「当時としてはまずまずの生活を送っていた」と述べている。
田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 198… 田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 1983年11月12日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。高知県出身。 1925年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1928年に八幡製鉄所に入社した。1934年に日本製鉄を経て、1946年に日鉄鉱業に転じ、1947年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1963年11月から1967年11月までに社長を務めた。 1983年11月12日老衰のために死去。81歳没。
竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - … 竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - 1987年7月15日)は、日本の医師、性科学者、文筆家、翻訳家。 青森県出身。北海道帝国大学医学部卒。1933年「実験的腸閉塞論」で北大医学博士。今裕に師事。東京都立病院に19年間勤務。東京都立大塚病院副院長、城北診療所院長。医業のかたわら、戦後は性医学について多くの随筆的著作をなした。
青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年… 青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年5月6日)は、日本の経営者。東邦ガス社長。愛知県名古屋市出身。 1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。1930年4月に東邦ガスに転じ、同年10月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1964年8月に社長に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 1978年5月6日急性心筋梗塞のために死去。76歳没。
2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日… 2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日 - 1962年11月22日)は、日本の実業家。玉塚證券社長・会長、日本証券業協会会長、東京証券取引所理事長を歴任。 東京市日本橋生まれ。旧姓は山崎。初代玉塚栄次郎の養子となり、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業、玉塚證券入社。玉塚證券社長・会長、玉塚不動産社長、日本証券業協会会長などを歴任。1955年から1957年まで東京証券取引所理事長を務めた。 1962年日本医科大学付属第一病院で胃癌のため死去。享年60。酒が飲めず、地味な性格で、夜の付き合いが苦手なため、敵がいないと評された。 玉塚證券で役員を務めた玉塚和男は子息。ローソン社長などを務めた玉塚元一は孫。
河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉… 河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉1月8日 - 1980年〈昭和55年〉9月22日)は、日本の文芸評論家・音楽評論家。日本芸術院会員、文化功労者。 ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者でもあった。小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人アヤ(綾子)は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。 父邦彦は日本郵船の造船工学技師。1902年(明治35年)、赴任先だった長崎市で生まれた。本籍地は山口県岩国市。河上家は江戸時代は岩国藩士であった。祖父逸は勝海舟、今北洪川、玉乃世履らに師事した。
石坂 弘(いしざか ひろし、1902年1月8日 - 1979… 石坂 弘(いしざか ひろし、1902年1月8日 - 1979年12月15日)は、日本の農林官僚。 熊本県出身。中学済々黌を卒業。1924年に高文行政科に合格し、1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。朝日新聞社での勤務を経て、1927年に農林省に入省。1961年8月に日本中央競馬会副理事長に就任し、1962年6月から1967年2月までに理事長を務め、1967年2月から顧問を務めた。 1979年12月15日呼吸不全のために死去。77歳没。
杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)… 杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)1月7日 - 1989年(平成元年)4月26日)は、日本の実業家、俳人である。 京都の生まれ。大阪商科大学高商部(現在の大阪市立大学)卒業後、上京し三越に入社し勤務した。その後京都に戻り、千葉県に出店していた奈良屋の経営に携わり、本店移動に携わった。1937年(昭和12年)には同社の社長に就任し、その後はニューナラヤに商号変更して古巣の三越と連携しながら会長を歴任した。 後に千葉県商工会議所連合会の会頭を務め、千葉県美術会及び1958年(昭和33年)には日本対がん協会の千葉県支部の設立(後に副会長に就任)にも携わった。また北柿の俳号で「原人」を主宰し、多くの句集を発行した。
前川 堅市(まえかわ けんいち、1902年1月7日 - 19… 前川 堅市(まえかわ けんいち、1902年1月7日 - 1965年3月19日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 京都府出身。第三高等学校を経て東京帝国大学卒業。文化学院教授から、1949年埼玉大学教授。スタンダールを専門とし、定年を前にした1965年、63歳で死去した。 子は英文学者の前川祐一。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1… 丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1981年)は、日本の画家。洋画家。 印象派の技巧を取り入れた画風を確立、主に関西画壇で活動した。 1902年(明治35年)大阪府堺市に生まれる。旧制堺中学校(現大阪府立三国ヶ丘高等学校)を卒業後、東京美術学校洋画科に入学して岡田三郎助に師事。1926年(大正15年)同校を卒業、一陽会に入会して創作活動を続ける。後に神戸山手女子短期大学教授。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
牧野 寛索(まきの かんさく、1902年1月6日 - 196… 牧野 寛索(まきの かんさく、1902年1月6日 - 1963年9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。弁護士。 山形県西村山郡溝延村(現:河北町)生まれ。村山農学校を経て、上京し、中央大学に入る。在学中に高等試験司法科試験に合格し、1931年同大学を卒業する。卒業後は弁護士として活動し、中央大学講師となる。 1942年の翼賛選挙では郷里の山形1区(当時)から非推薦で立候補したが落選した。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で山形県(全県1区)から日本自由党公認で立候補して初当選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で旧山形1区から立候補したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して再選。
土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 … 土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 - 1976年〈昭和51年〉6月5日)は、日本の実業家、銀行家。第2代佐賀銀行頭取。東邦海運(現:NSユナイテッド海運)元常務。小幡亜鉛鍍金工場元常務。佐賀商工会議所元会頭。佐賀県テニス協会元会長。従五位勲四等旭日小綬章受章者。 佐賀県佐賀郡川副町(現:佐賀市川副町)出身。佐賀市在籍。1927年(昭和2年)東京商科大学を卒業し、同年4月日本興業銀行に入行。 1937年(昭和12年)3月満洲興業銀行に出向。1941年(昭和16年)5月復帰。1946年(昭和21年)7月庶務部長となり、1948年(昭和23年)12月理事に選ばれ、後取締役と改称。
武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年… 武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年)1月6日 - 1993年(平成5年)4月8日)は、昭和時代の日本の弁護士(法学博士)、政治家。元衆議院議員(旧群馬3区選出、日本社会党所属)。社会党左派の論客として名をはせた。衆議院不当財産取引調査特別委員会委員長などの要職を歴任。 1902年1月、群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市)に生まれる。1927年、早稲田大学専門部法科を卒業。弁護士開業後、日本借家人組合を組織し委員長になる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に社会党公認で旧群馬3区より出馬し衆議院議員に当選。1948年、国会でハンセン氏病の問題を取り上げる。1954年、社会党代議士会長に抜擢される。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 19… 鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 1962年6月7日)は、日本の社会福祉の実践家で教育者、日蓮宗僧侶。日本福祉大学の創立者で初代学長。学校法人法音寺学園、昭徳会理事長。日蓮宗大僧正。 1902年(明治35年)愛知県江南市寄木町の菓子の卸売りを兼ねる農家に生まれる。父は熱心な法華経信者であった。布袋尋常高等小学校高等科卒業後に家業を継ぎ、菓子の他にパンの製造と卸売を始めて成功する。やがて法華経の教えによる社会の救済を実践していた仏教感化救済会の杉山辰子と出会い、家業や蓄財を精算したお金を携えて救済会に入会する。1928年、辰子の養女みつと結婚。同年、辰子の指示により、夫婦で福岡県福岡市のハンセン病療養所を運営する。
阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 … 阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 - 1968年(昭和43年)2月5日)は、日本の作曲家。 山形県鶴岡市湯野浜に旅役者の息子として誕生するも、生後間もなく両親は離別、再婚した母に伴われて横須賀に居を移したが母が病死したので、祖父母と石巻に転住。まだ小学生という頑是無い子供であるのに、町役場の給仕として働き生活の辛酸を舐めていた。 苦学の末、東洋音楽学校に入学。卒業後、神戸オリエントホテルのバンドマンとして就職。10年程、楽士として各地を転々とする。 1933年(昭和8年)、作詞家藤田まさとの紹介でポリドールに入社し、専属作曲家となる。1934年(昭和9年)、東海林太郎の歌う「国境の町」、1935年(昭和10年)「むらさき小唄」が大ヒット。
関 外余男(せき とよお、1902年(明治35年)1月3日 … 関 外余男(せき とよお、1902年(明治35年)1月3日 - 2000年(平成12年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選埼玉県知事、陸軍司政長官。旧姓・乾。 石川県金沢市で乾芳久の五男として生まれ、関薫の養子となる。第四高等学校を首席で卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、愛媛県経済部長、福井県書記官・警察部長、対満事務局行政課長、徳島県書記官・総務部長、内務省監査官などを歴任。1942年8月、陸軍司政長官に発令され、第25軍軍政監部付(スマトラ島)として、ジャンビー州長官を1944年8月末まで務めた。
山内 清男(やまのうち すがお、1902年1月2日 - 19… 山内 清男(やまのうち すがお、1902年1月2日 - 1970年8月29日)は、日本の考古学者。学位は、文学博士。東京大学講師。成城大学教授。 日本の考古学研究においてもっとも功績のあった考古学者の一人。佐藤達夫は「縄文学の父」とよんだ(ただし、この表現は佐原真による翻案。佐藤は山内について、縄文に限定せず「この学問(日本先史考古学)の父」と評価している)。型式学的研究法および層位学的研究法を応用した土器の年代決定を本格的に用いて、縄文土器の全国的な編年網を初めて作り上げた。また、縄文土器の器面(表面)に施されることが多い「縄文」について、植物繊維を紐(縄)状に縒ったもの(縄文原体)を転がして付けていることを実験によって明らかにした。
小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006… 小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006年4月)は、昭和期の逓信官僚。元郵政事務次官、日本放送協会(NHK)第11代会長。広島県広島市出身。 広島商業学校、大阪高等商業学校を経て1931年、九州帝国大学法文学部卒。逓信省に入省し札幌鉄道郵便局長、広島逓信局経理局長、中華民国臨時政府副郵務長(華北郵政総務計画課長)、大連関東逓信局長などを経て1951年、郵政省貯金局長、1955年同簡易保険局長などを歴任の後、1956年郵政事務次官就任。 30代で大臣(郵政大臣)に初就任した田中角栄が進める放送局の免許大量交付や新聞社とテレビ局との統合系列化他で大きな役割を果たした。 1959年、日本放送協会(NHK)専務理事、1964年同副会長を経て1973年、田中に抜擢され第11代NHK会長に就任。
橋本 政実(政實、はしもと まさみ、1902年(明治35年)… 橋本 政実(政實、はしもと まさみ、1902年(明治35年)1月2日 - 1962年(昭和37年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。旧姓・坂井。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 長崎県出身。橋本家の養子となる。第八高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し東京市事務員となる。1926年、内務省に転じ東京府属となる。 以後、高知県書記官・警察部長、情報局情報官・第四部長などを歴任。1944年7月、岐阜県知事に就任。1945年4月に茨城県知事に転じ、終戦を迎えた。同年8月、内務省警保局長に就任。同年10月、公職追放となり退官した。
小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)… 小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)1月2日 - 1974年(昭和49年)2月23日)は、日本の実業家。西武鉄道社長などを務めた。位階は正四位。 小島卯八の次男として栃木県安蘇郡佐野町(現・佐野市)に生まれる。 佐野中学を経て、1925年早稲田大学商学部を卒業。 駿豆鉄道(のち伊豆箱根鉄道)取締役、東京ゴム(のち西武ゴム化学)、西武鉄道各常務を経て専務となり、1954年、西武ゴム化学、西武鉄道の社長に就任。堤康次郎の片腕として西武鉄道の経営にあたり、康次郎の長女・淑子と結婚している。 康次郎の亡き後の西武グループは運営にあたって集団指導制を採用したが、この体制には中核4社(西武鉄道、国土計画、西武百貨店、西武化学工業)の代表が参加した。
直良 信夫(なおら のぶお、1902年1月1日(戸籍上の生年… 直良 信夫(なおら のぶお、1902年1月1日(戸籍上の生年月日は1902年1月10日) - 1985年11月2日)は、日本の考古学者、動物考古学者、古生物学者、文学博士。 明石人、葛生人などの発見で知られる。また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。明石市文化功労賞受賞。なお直良姓は婿養子として結婚後の姓であり、旧姓は村本。 1902年1月10日、大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に、8人姉弟の次男として生まれる。
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)… 田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日 - 1985年(昭和60年)12月18日)は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 198… 井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 1985年8月23日)は、日本の実業家。京王帝都電鉄(現:京王電鉄)代表取締役社長(第2代)。京王プラザホテル代表取締役社長(初代)。東急車輛製造(現:総合車両製作所)取締役。 西新宿(淀橋浄水場跡地)で初の超高層ビルとなった京王プラザホテルの創業者であり、“西新宿をつくった男”の異名がある。京王帝都電鉄の初代社長であった三宮四郎の後任として、1960年代の高度成長期に京王帝都電鉄と京王グループの発展に寄与した。 京王電気軌道の実力者で30年の長きにわたって社長を務めた井上篤太郎とは、同姓であるが血縁関係は無い。旧京王電気軌道ではなく、旧小田急電鉄の出身者である。
菅野 七郎(かんの しちろう、1902年1月1日 - 没年不… 菅野 七郎(かんの しちろう、1902年1月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。 1902年(明治35年)1月1日、福島県相馬郡原町(後の同県原町市、現在の同県南相馬市原町区)に生まれる。 旧制中学校を中退後、満州に渡り各地を放浪していたが、1922年(大正11年)、徴兵のため帰国。その後、会社員を経て1923年(大正12年)8月、松竹蒲田撮影所に入社。同年8月18日に公開された島津保次郎監督映画『貫一と満枝』(『寛一と満枝』)で映画初出演。以降、数本の作品に脇役として出演するが、1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・十四年』(東京朝日新聞)によれば、菅野自身の代表作は1925年(大正14年)2月21日に公開された吉野二郎監督映画『呪の女』であるという。
豊増 秀俊(とよます ひでとし、1902年1月 - 1987… 豊増 秀俊(とよます ひでとし、1902年1月 - 1987年11月)は、日本の人文学者。大学などには勤務せず、終生在野の立場で研究に当たった。 豊増竜次郎の次男として佐賀県佐賀市に生まれる。1927年、早稲田大学文学部に入学するが、1930年に学問的理由により退学、独学する。この間、弁証法的唯物論を確信する。 1935年7月、財団法人東亜経済調査会(のち南満州鉄道に合併)に入会する(調査局調査課)。1940年に満鉄を退社し、中華民国新民会(在北京)に入会、専門委員、企画部次長を務める。1941年12月に退職する。1942年1月、中央亜細亜協会(在北京)の設立に参加、主宰となる。1944年4月に退職して日本に帰国する。
中谷 隼男(なかたに はやお、明治35年(1902年)1月 … 中谷 隼男(なかたに はやお、明治35年(1902年)1月 - 没年不明)は日本の医師。田園調布中央病院分院長。医学博士。日本外科学会。胸部外科学会評議員。 鳥取県八頭郡佐治村高山(現鳥取市佐治町)出身。農業・中谷龜治の二男。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 19… 植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 1987年5月27日)は、日本の東洋史学者。実兄は作家の直木三十五。 1901年、大阪市で父惣八、母しづの次男として大阪市南区内安堂寺町通に生まれる。父は古着屋であった。1908年4月、大阪市桃園第一尋常小学校に入学。1913年4月には大阪府立天王寺小学校に入学。1919年4月、山口高等学校(文科乙類)に入学。1922年4月、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。1923年7月には華北を旅行する。学生時代は近藤健一から奨学金を与えられていた。1925年、東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。 卒業後は、母校の東京帝国大学文学部東洋史学科副手に採用される。