細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7… 細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7日 - 1950年(昭和25年)1月1日)は、日本の裁判官、弁護士。最後の大審院院長を務めた。 富山県立富山中学校(後の富山県立富山高等学校)中退、旧制第六高等学校卒業。1908年、京都帝国大学法学部卒業。1918年、東京控訴院判事。広島控訴院院長の時に1944年2月の東條演説事件に対して、司法権独立の侵害と憲法違反に抗議する意見書を提出した。 1946年2月に第23代大審院長に就任。これは岩田宙造司法大臣による人事であり、細野は岩田大臣と司法権独立で意気投合していた。細野は日本の司法改革に意欲を持つGHQ民政局司法法制課課長のアルフレッド・C・オプラーとも意気投合した。
近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月… 近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1969年〈昭和44年〉2月22日)は、日本の登山家・貿易商。 登山家としては、剱岳別山尾根の初下降、辻村伊助とともに行ったヨーロッパ遠征、黒部峡谷初横断などで名を残し、日本山岳会名誉会員に選ばれた。また、大日本体育協会設立に参画し、バスケットボールの普及にも貢献している。 1883年(明治16年)、千葉県海上郡飯岡町(現在の旭市)に生まれる。実家は醸造家。 東京・音羽の豊山中学校(のちに大正大学となる学校)を卒業後、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけてウイスキー研究のためにイギリス・スコットランドのグラスゴー大学に留学。
黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日… 黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和18年(1943年)11月10日)は、日本の内務官僚、政治家。第26代山梨県知事、第7代神戸市長(在任:1925年8月17日 - 1933年)。熊本県出身。 熊本県宇土郡宇土町(現在の宇土市)に生まれる。明治42年(1909年)6月に東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒業、同年11月に文官高等試験に合格、同年12月に警視庁警部となり、明治43年(1910年)12月に警視庁警視となり高輪警察署長、堀留警察署長、警視庁監察官、警視庁特別高等課長を歴任後、大正6年(1917年)1月に岡山県警察部長、大正9年(1920年)に福岡県警察部長、大正11年(1922年)1月に山口県内務部長、同年11月に兵庫県書記官・内務部長を歴任。
坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月… 坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1947年〈昭和22年〉9月18日)は、内務官僚、函館市長。 下谷区(現在の台東区)の谷中墓地にある茶店おもだかやの店主坂本勝太郎の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に文官高等試験に合格。1911年(明治44年)より群馬県警部、利根郡長、佐波郡長、群馬県理事官を務めた。さらに岐阜県警察部長、兵庫県警察部長、大阪府警察部長、愛知県内務部長を歴任し、1924年(大正13年)には台湾総督府警務局長に就任した。 1929年(昭和4年)、函館市長に選出され、市の長年の懸案であった函館水電買収問題に取り組んだが、最終的な解決には至らなかった。
武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7… 武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和56年(1981年)1月13日)は、日本の実業家。朝鮮電気協会元副会長。京城電気元社長。族籍は京都府士族。 土木技師である武者満歌の長男として、神戸市に生まれる。 明治29年(1896年)に京都府尋常中学校(現・京都府立洛北高等学校)、同38年(1905年)に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業する。尚、東京高商の同期には、三井物産の田島繁二(後同社常務取締役)、内田信也、芳川寛治がいる。 卒業と同時に第一銀行へ入行し、間もなく釜山支店副支配人に挙げられ、朝鮮へ渡る。渡鮮後、朝鮮における電気事業を有望視し、親友の芳川寛治らとともに渋沢栄一が後援する日韓瓦斯(ガス)株式会社の経営に当たったが、明治30年代当時の朝鮮では、一般の需要は少なく、会社の業績は上がらなかった。
見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月… 見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月6日 - 1955年〈昭和30年〉1月20日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 盛岡市出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。岩手県庁に入り、岩手郡書記となる。内務省警保局書記を経て、青森県北津軽郡長、福島県相馬郡長を歴任した。1927年に満州に渡り、遼陽、鞍山の各事務所長を経て、関東州果樹組合専務理事に就任した。1936年に退職し帰国した。 1939年に盛岡市長に就任。盛岡市は厨川、中野、本宮、浅岸と合併。太平洋戦争が始まり、戦時体制下の市政運営となり、困難を極めた。市長は1943年に辞職した。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1955年に死去した。
畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治… 畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治16年)1月6日 - 1958年(昭和33年)5月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・長沢、前名・留治郎。和孝に改名。 京都府天田郡、のちの細見村(三和村、三和町を経て現福知山市)に長沢又三郎の六男として生まれる。兵庫県在住の先代畑七右衛門の養子となる。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業し、その後日露戦争に従軍する。1916年に家督を相続して七右衛門を襲名する。春日部村収入役、同村長を務め、兵庫県議、同議長、県農会特別議員に選ばれる。ほか多利信用購買組合長、春日部村信用組合長、同農会長、黒井銀行、葛野銀行各取締役などを務める。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日… 関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日 - 1939年(昭和14年)7月8日)は、朝鮮総督府官僚。 神奈川県高座郡渋谷村(現在の藤沢市から大和市にかけての地域)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。茨城県属、同警部、同理事官、同西茨城郡長、同那珂郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清南道警察部長、朝鮮総督府監察官、警務局衛生課長、平安南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任。1930年(昭和5年)、咸鏡南道知事となり、1933年(昭和8年)に慶尚南道知事に転じた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、朝鮮石油株式会社常務取締役を務めた。
南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - … 南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - 1967年12月17日)は、日本の検察官。 東京中学、三高を経て、1908年10月に東京帝国大学法学部法律学科独法科卒業。同年11月に司法官試補。石巻区裁判所・古川区裁判所各判事、前橋区裁判所検事などを経て、1916年に東京区裁判所兼東京地方裁判所検事に就任。以後、栃木県警察部長、福井県内務部長を経て、1924年12月に退官。1927年、時の内相・鈴木喜三郎により、内務省警保局長・山岡萬之助(のちの日本大学総長)とともに、警保局保安課長に任ぜられる。またこの件にて保安課長は奏任官から勅任官となる。特別高等警察の拡充、治安維持法の強化を図り、内務省の権限と影響力を強化した。
吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4… 吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4日 - 1927年(昭和2年)9月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県山県郡吉坂村(現在の北広島町)出身。1909年、京都帝国大学法科大学卒業。統監府検事、朝鮮総督府大邱地方裁判所検事を務めた。退官後、京都で弁護士を開業し、1911年(明治44年)に広島に転じた。また広陵中学校理事も務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日… 江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日 - 1976年(昭和51年)2月16日)は、大正から昭和期の政治家。衆議院議員、栃木県下都賀郡小山町長。旧姓・高堂。 秋田県南秋田郡、のちの秋田市で高堂兵右衛門の五男として生まれ、江部惣四郎の養子となる。1906年(明治39年)東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業した。 一時大蔵省に入省したが退職し、下野酒造(のち一徳酒造)専務、栃木県酒類販売社長、下野醤油社長、同県商工経済会小山出張所長、小山商工会長、那須商業銀行監査役などを務めた。 政界では、小山町会議員、所得税調査委員、栃木県都賀地方事務所参与などを務め、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)まで小山町長に在任した。
田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1… 田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 没年不明)は、日本の実業家、新潟県多額納税者、地主、篤農家、資産家。族籍は新潟県平民。 新潟県南蒲原郡田上村(現・田上町)出身。田巻七郎兵衛の二男。新潟中学校を卒業する。1902年に一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営、1904年に陸軍歩兵少尉に任ぜられ、1910年に陸軍歩兵中尉に進み、正七位に叙せられ除隊となる。農業、金銭貸付業を営む。 新潟貯蓄銀行、新潟信託、愛隣社各取締役を歴任。1933年7月に第四銀行取締役に選任され以来20年間その職を続ける。1944年10月に第5代の頭取に推され、1953年に退任する。ラジオ新潟監査役をつとめる。
牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年… 牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の道路技術者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1… 高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉5月6日)は、日本の内務官僚である。警視総監。 熊本県上益城郡浜町(現:山都町)に生まれる。熊本士族・高橋彌八郎の長男。 済々黌、旧制七高造士館を経て1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。翌年内務省に入り、警視庁警視となる。1910年(明治43年)、家督を相続する。 その後、石川県事務官・警察部長、岐阜県警察部長、新潟県警察部長、新潟県内務部長、京都府内務部長、内務監察官等を経て、1922年(大正11年)に第7代熊本市長となった。熊本市長時代には、市内の近代化を推進し、上水道や市電の整備、旧十三連隊跡の市街地編入の三大事業を完成させた。
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月… 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は正二位大勲位。
後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年… 後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1938年〈昭和13年〉6月9日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 島根県人・後藤彦三郎の長男。1898年、家督を相続し、後に前名・寛一郎を改め襲名する。1906年、専修大学経済科を卒業。鉱業を営む。日東格魯謨鉱業常務取締役、同社専務取締役、同社社長などをつとめる。 1933年7月に国幣中社美保神社新営費金1千円を寄付したため1934年3月5日に褒状が下賜される。 米子飛行場建設の頃、多額の資金を提供する。1938年、自治制発布五十周年記念式が挙行される時、市会の決議により、波文黒手付果実盛一個並彰功録自治史各一部を贈呈され、その功労を表彰される。
四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1… 四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1933年12月10日)は、現在の兵庫県洲本市出身で小野川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は佐渡 太郎市。4代君ヶ濱。171cm、90kg。最高位は大阪では東関脇、東京では東小結。 大阪相撲の小野川部屋に入門。1908年6月西昇の四股名で入幕。1910年1月関脇に進み番付発表後に師名を継ぎ八陣と改名。1912年1月東京に移り四海波の名で前頭5枚目格に付出され、1915年1月小結。右四つからの寄りが得意で、横綱梅ヶ谷と3度引分になったことがある。1917年1月に引退、4代君ヶ濱を襲名したが、1921年5月に廃業した。
小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明… 小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明治16年)1月1日 - 1963年(昭和38年)12月)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。埼玉県浦和市長。埼玉県多額納税者。 栃木県栃木町生まれ。栃木中学校卒業。坂倉重平の三男として生まれ、小谷野やさの養子となり、1912年(大正元年)家督を相続する。1915年(大正4年)、浦和商業銀行に入行した。同年、浦和町会議員となる。1919年(大正8年)、北足立郡会議員となる。1921年(大正10年)、浦和商業銀行頭取となった。1922年(大正11年)2月6日、浦和町長兼浦和町会議長となった。1923年(大正12年)8月20日に退任した。
浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)… 浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)1月 - 1968年(昭和43年)6月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員、千葉県君津郡大貫町長。 千葉県天羽郡、のちの大貫村(君津郡大貫町、大佐和町、富津町を経て現富津市)で生まれる。日本法律学校(現日本大学)を修了。アメリカに留学し、コロンビア大学で法律学を学んだ。 インターナショナル活動会社副社長、ヴァキュームオイル・レファイニング会社重役を歴任。帰国後、大貫町長に就任。その他、千葉新聞社顧問、新千葉新聞社顧問、日本製塩顧問、日本国民食糧顧問、木更津自動車顧問、木更津ホテル顧問、木更津合同タクシー顧問、木更津木工顧問、木更津印刷顧問などを務めた。
宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 -… 宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 - 1912年(明治45年)7月15日)は、日本の大陸浪人である。 大分県宇佐郡豊川村(現在の宇佐市)に生まれる。明治大学卒業後、朝鮮人の行動を調査するため李氏朝鮮(のち大韓帝国)に渡る。1910年の韓国併合後、清国に移住。 その後は同地で活動していた川島浪速らとともに満蒙独立運動や満洲に亡命していた朝鮮人の行動等に携わった。しかし、この頃奉天省の海龍(現在の遼寧省朝陽市龍城区)付近にて中国軍からの砲撃により死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28… 柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。東京府出身。 薬学者柴田承桂の息子として東京市神田区駿河台に生まれる。父は当時、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授。先祖は代々、尾張藩で侍医を務めた。兄柴田桂太は、のち植物生理学者、東京帝国大学教授。長男は著名な作曲家にして音楽評論家の柴田南雄。 東京高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から旧制第一高等学校を経て、1904年、東京帝国大学理科大学化学科入学、桜井錠二や池田菊苗たちに師事し、1907年卒業。東京帝国大学大学院に進んで松原行一に師事した。
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月… 百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である(陸軍大将兄弟は皇族軍人などで数例が、陸海軍を跨いだ大将兄弟は、西郷隆盛・従道兄弟、鈴木貫太郎・孝雄兄弟の2例がある)。 佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。百武三郎は三男、陸軍中将の弟・晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。
小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1… 小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1月28日 - 1952年(昭和27年)9月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(4期)。 福井県大野郡米俵村(現大野市)で小川原左仲の長男として生まれる。1897年4月に渡道し岩内町に居住。1901年、海軍に志願し横須賀に出るが、健康を害したため北海道に戻った。 1903年9月、小学校教員となり、岩内郡堀株小学校、岩内尋常高等小学校に勤務。1909年1月、倶知安第一小学校長となり、同実業補習学校長を兼務し、1921年6月まで在任。同年7月、北海商事(株)社長に就任。その後、北海道会議員、同参事会員、北海道政務調査会長、同農地委員、後志馬匹組合長、北海道馬事牧野協会長、同農業会後志支部指導部長などを務めた。
村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月2… 村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月27日 - 1953年(昭和28年)3月24日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関係し、当時の大手電力会社である大同電力の副社長などを務めた。岐阜県出身。 村瀬末一は1882年(明治15年)1月27日、村瀬与平の次男として生まれた。出身は岐阜県本巣郡網代村(現・岐阜市)。生家の村瀬家は江戸時代は士分であったが、明治に入り家禄を失い、末一が生まれた頃には所有の山林田畑を売り払って没落していた。 先に勤めに出た兄の支援で上京し慶應義塾普通部に入学。次いで大学部法律科へ進み、1907年(明治40年)、26歳のとき慶應義塾を卒業した。
江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不… 江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不詳)は、日本の実業家、中日実業公司元常務取締役、三井物産株式会社元奉天支店長。 1882年(明治15年)1月26日、鹿児島県の江藤治兵衞の長男として生まれる。 鹿児島商業学校を経て、立教大学を卒業。 1900年(明治33年)三井物産株式会社に入社。1915年(大正4年)には同社奉天支店長を務める。中日実業公司の常務取締役も歴任した。 1927年(昭和2年)田中義一内閣成立当時において、満州における日中対立の中心問題であった満州鉄道問題の解決のため、満州鉄道総裁、山本条太郎の代理として交渉を行った。山本は三井物産上海支店時代、中国人の間に多くの知己を得た人物で、江藤は山本の腹心の部下でもあり、同じく中国人に知己が多かった。
大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月2… 大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月25日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 本名は山本兵三郎。東京市深川区生まれ。16歳の時に水野年方に入門し絵を学んだ。鏑木清方らとともに烏合会発足時の会員であった。後に「吉野の義経」で日本美術院褒賞を受け、「婚礼」で日本美術院銅牌を受けた。1896年(明治29年)、村岡応東、遠山素香らとともに巽画会を結成する。1904年(明治37年)に日本新聞に入社し、挿絵画家として活躍する。後に浮世絵を研究する。1944年9月14日に喘息により杉並区の自宅で死去。享年63。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
本田 成之(ほんだ しげゆき、1882年1月24日 - 19… 本田 成之(ほんだ しげゆき、1882年1月24日 - 1945年3月4日)は、日本の中国哲学者、漢学者。号は「蔭軒」。龍谷大学教授。 1882年、岐阜県本巣郡で生まれた。出家して名古屋の円通寺で修業し、南画を学んだ。のち早稲田大学、曹洞宗大学林(現駒澤大学)で学び、還俗した。1913年、京都帝国大学文学部支那哲学科を卒業。 神宮皇学館教授をへて、1920年に仏教大学(現・龍谷大学)支那学科主任教授となった。同年、小島祐馬、青木正児らと雑誌『支那学』を発刊。1931年、学位論文『支那経学史論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月2… 田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月20日 - 1962年(昭和37年)11月12日)は、日本の教育心理学者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネー知能検査」「田中B式知能検査」をはじめ、多くの心理検査を考案した。 岡山県出身。心理学者として初めて文化功労者、紫綬褒章を受賞。勲二等旭日重光章。 1882年1月20日、岡山県赤磐郡で生まれる。岡山県師範学校、東京高等師範学校を卒業後、山梨県師範学校の教諭を3年ほど勤めるが、恩師の松本亦太郎が京都帝国大学に実験心理学の講座を開設したことを知り、同大学哲学科に入学する。1913年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。
牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1… 牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1961年6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。所属政党は立憲政友会→政友本党→立憲民政党→同交会。 現在の長崎県壱岐市出身。1906年早稲田大学政治経済科卒。朝鮮に渡り、京城居留民団議員、京城学校組合会議員、朝鮮新聞(英語版)社社長などを務める。1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続8期務める。第二次若槻内閣で海軍政務次官に就任、1936年には列国議会同盟会議(開催国ハンガリー)に日本議員団の団長として参加した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で非推薦で立候補したが落選した。戦後は公職追放となり、追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙で長崎2区から分党派自由党公認で立候補したが落選。
小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月1… 小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月19日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は、大正から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・山崎。 鳥取県八橋郡赤崎宿(赤崎村、東伯郡赤崎村、赤碕町を経て現琴浦町赤碕)で山崎元一の長男として生まれ、東伯郡倉吉町(現倉吉市河原町)の小川貞四郎の養子となる。1915年(大正4年)倉吉町会議員に就任したのを皮切りに、東伯郡会議員、鳥取県会議員などを歴任。女子教育の振興に貢献し、鳥取県立倉吉高等女学校(現鳥取県立倉吉西高等学校)、鳥取県女子師範学校、鳥取高等農業学校の設立に尽力した。 また、小川合名会社を設立して酒・醤油醸造業、製糸業を経営した。
星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月1… 星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月18日 - 1967年〈昭和42年〉1月3日)は、日本の経営者。第3代日清製粉代表取締役社長。 群馬県館林町の酒造家の次男として生まれる。学業優秀で、終始首席を占め、1904年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 同級生に佐藤尚武(元参議院議長)、向井忠晴(元三井物産会長)、梁瀬長太郎(ヤナセ創業者)、橋本万之介(元東北配電総裁)、前田幸太郎(元横浜市立大学学長)、斎藤浩介(元日立精機社長)、堀文平(元富士紡績社長)などがいた。 京都の大実業家の養子となることとなっていたが、兄が急逝したため生家を継ぎ、正田氏ほか館林の有力実業家の推挙を受け、日清製粉館林工場支配人や、小泉銀行監査役などを務めた。
川田 順(かわだ じゅん、1882年〈明治15年〉1月15日… 川田 順(かわだ じゅん、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1966年〈昭和41年〉1月22日)は、日本の歌人、実業家。住友総本社常務理事。 備中松山藩士(現:岡山県高梁市出身)の漢学者・貴族院議員の川田甕江の三男。京大教養部教授(英語)の川田周雄は養子。女優・歌手の佐良直美は従曾孫。 東京市浅草区三味線堀生まれ。府立四中、一高を経て、1907年東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学では当初文科(文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けた。小泉八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科したという。なお八雲の後任教授は夏目漱石であり、後年この逸話の真偽を尋ねられて認めたうえで、「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と述べた。
西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月… 西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1963年〈昭和38年〉10月12日)は、日本の政治家(兵庫県城崎郡城崎町長)、実業家(西村屋会長)。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、中途にて退学し家業の温泉旅館を経営する。地方有力者として各種の業務に関係する。1924年、町長に選任され震災後の城崎温泉復興に尽力。 1912年、早稲田大学推薦校友。宗教は日蓮宗。住所は兵庫県城崎郡城崎町。著書に『山陰空のあゆみ』、『日本海制空小史』、『建武中興と隠岐』などがある。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
亀井 光政(かめい みつまさ、1882年(明治15年)1月1… 亀井 光政(かめい みつまさ、1882年(明治15年)1月14日 - 1946年(昭和21年)5月6日)は、明治末から大正期の内務官僚、警察官僚。官選沖縄県知事。旧姓は加村。 熊本県熊本区薬園町(現熊本市中央区薬園町)出身。加村照政の二男として生まれた。第五高等学校を首席で卒業。1906年(明治39年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1907年(明治40年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1908年(明治41年)内務省に入省し山口県属となる。1909年(明治42年)6月7日、内務官僚亀井英三郎との養子縁組を届け出る。1911年(明治44年)8月30日に英三郎の長女、都留と結婚。 以後、長野県事務官、兵庫県事務官、青森県事務官・警察部長、鳥取県警察部長、茨城県警察部長、徳島県内務部長、福島県内務部長などを歴任。
井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1… 井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1月14日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、明治末から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県三重郡、のちの四日市町(現四日市市)で、素封家、石材商・井口長右衛門の二男として生まれた。小学校卒業後に上京し、国民英学会で学んだ。 貿易商薩摩商会に入り下積みから始めて次第に信頼を得て、東京本店、大阪支店、旅順出張所などで勤務した。第一次世界大戦時に井口汽船部、弥彦商会、東京海運 (株) を設立して、海運業で巨万の富を築いた。その他、朝日海陸運輸、東洋耐火煉瓦、東洋電業、明光堂などを経営した。 政界にも進出し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で三重県第2区から政友本党公認で出馬して初当選し、1928年(昭和3年)2月の第16回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
鈴木 隆(すずき たかし、1882年(明治15年)1月13日… 鈴木 隆(すずき たかし、1882年(明治15年)1月13日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(5期)。千葉県市原郡出身。 東京府師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業後、小学校の訓導となる。その後、政治を志して浅草区会議員となる。東京市会議員を経て1920年の衆議院議員選挙に千葉1区から立候補し初当選。以後5回連続当選を果たした。 また、実業家としても活躍し、鈴木商会株式会社社長、大日本土地株式会社社長、鈴木隆同族株式会社社長などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1882年(明治15年)1月1… 赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1882年(明治15年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月8日)は、日本の実業家である。泰昌銀行頭取。 東京府神田区猿楽町(現東京都千代田区神田猿楽町)で、海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男七女の長男)として生まれ、莫大な遺産を相続した。赤星家の財産はこの弥之助が築いたものである。1895年(明治28年)番町小学校高等科を卒業し、1901年(明治34年)に東京中学を卒業後渡米し、ローレンスビル・スクールに入学。1904年(明治37年)父の病気のため一時帰国。父親の死去にともない家業を継ぐ。1906年(明治39年)に再渡米し、ペンシルベニア大学卒業後、1908年(明治41年)に帰国し、同年12月、一年志願兵として麻布の騎兵第1連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月、予備役編入となり除隊し、1910年(明治43年)予備役騎兵少尉、1922年(大正11年)後備役騎兵中尉となる。
尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 -… 尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 - 1947年1月4日)は、歌舞伎役者。本名:鈴木 僖重(すずき きじゅう) 1882年(明治15年)1月11日鈴木喜右エ門(江戸時代から有名な日本橋・料亭小倉亭~[江戸時代:本所小梅小倉庵]どちらも震災大火のため焼落)の長男として東京市京橋区中橋和泉町1番地に生まれる(現在の中央区築地2丁目)。六代目尾上菊五郎を師匠とし、尾上家の舞台では番頭もしていた。舞台では玉乗りを得意としていた。 幼い頃から歌舞伎座が身近にあったことから歌舞伎の世界に憧れる。当時銀座にあった料亭三浦(現在「新三浦」とし築地に移転)にて菊五郎と話し合い、菊五郎の元で歌舞伎を演じたい僖重と、番頭を欲しがっていた菊五郎の希望が合致し、菊五郎の初めての付き人になった。
生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉… 生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉1月10日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、日本の教育者。大阪府立大手前、府立清水谷、清友学園の高等女学校3校で校長を務めた。 1882年(明治15年)島根県松江市出身。岩佐湪一の子として生まれ、1886年(明治19年)生田厚の養子となった。第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)卒業。1910年(明治43年)4月15日、教諭として大分県立臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に赴任。1914年(大正3年)6月8日、愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)の教諭。1917年1月18日、秋田県師範学校(現・秋田大学教育文化学部)の教諭となる。
松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8… 松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の俳人。本名は磐。 神奈川県横浜市生まれ。横浜商業学校を卒業後、横浜正金銀行に勤務。 「ホトゝギス」創刊のころより、高浜虚子、内藤鳴雪に師事。横浜に、ホトトギス派の句会・連友会を組織した。 1928年(昭和3年)5月、俳句雑誌「俳人」を創刊主宰。“深刻なる句、平明なる句、気迫の籠りたる句”を標榜、首唱し、杉本禾人、浜井武之助らが参加した。1936年(昭和11年)、通巻100号をもって終刊。 編著に『太祇百句評釈』、『鳴雪俳句集』がある。 画家で正岡子規門下の俳人でもあった下村為山に絵画を学び、長唄も嗜んだ。
勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 19… 勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 1940年10月20日)は、現在の秋田県秋田市出身で尾車部屋、藤島部屋に所属した力士。本名は渡辺 鉄藏。身長173cm、体重113kg。最高位は西前頭8枚目(ただし番付外8枚目格)。 1900年5月初土俵を踏んだが、脱走し京都相撲、大坂相撲に在籍した。1912年5月東上し、番付外8枚目格付出で入幕したが、1勝も出来ず途中休場。翌場所十両に陥落したが、こちらでも1勝も出来ずと途中休場。幕下に陥落しても、休場が続き1914年1月廃業した。その後は神戸市に居住した。 沖ノ石 鉄三→勝時 鉄三(1903年1月場所-)→勝鬨 鉄藏(1912年5月場所)
紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日… 紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日 - 1946年4月28日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋、阿武松部屋に所属した力士。本名は斎藤 吉次郎。9代出来山、7代阿武松。172cm、86kg。最高位は東前頭筆頭。大見嵜八之助の甥。 1898年1月初土俵、1904年1月十両昇進。1907年5月入幕し、1908年5月には7勝2預の優勝相当の成績を収めた。1917年1月に引退し、出来山を襲名、出羽一門に属した。伯父が没したのち、阿武松を襲名した。 改名歴なし(番付上の表記揺れを無視した場合) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年… 生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年〉1月6日 - 1961年〈昭和36年〉2月25日)は日本の俳優である。本名同じ。 1882年、群馬県利根郡新治村新巻(現在の同県同郡みなかみ町)に生まれる。但し、殆どの資料では生誕地を「群馬県利根郡新新沼村新巻」とするが、誤りである。生家は農業を経営していた。衆議院議員・生方大吉は従兄弟にあたる。 群馬師範学校を経て関西大学法学部を卒業。卒業後は日本橋女学校(現在の開智日本橋学園中学校・日本橋女学館高等学校)の教師になったが、1916年に小山内薫の新劇場を振り出しに新劇協会、築地小劇場、心座、前衛座、舞台協会、松竹新喜劇、曽我廼家五九郎一座、堀田金星一座、笑の王国を転々として1932年、P.C.L.映画製作所に演技課長として入社する。
戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日… 戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日 - 大正13年(1924年)6月19日)は、日本の華族。大河内輝声の四男で、大垣藩戸田家12代戸田氏共の婿養子。前名は輝耡。最初の妻は戸田氏共の次女・米子、2番目の妻は氏共の五女・富子。 東京帝国大学卒業後、宮内省で東宮職主事、東宮職庶務課長、宮内事務官兼式部官を務めた。42歳で腸チフスのため死去。墓所は東京都文京区向丘の蓮光寺。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 … 広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 - 1934年(昭和9年)7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡七里村に父広瀬久光の六男として生まれる。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官され歩兵第34連隊付。日露戦争に従軍。明治38年(1905年)6月に歩兵第34連隊中隊長、明治39年(1906年)11月に第17旅団副官、明治41年(1908年)4月に大尉に昇進、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業し、参謀本部外国戦史課に配属された。 1920年(大正9年)8月、陸大教官に就任。
関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1… 関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1月4日 - 1945年〈昭和20年〉2月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家。群馬県桐生市長。 関口玉吉の長男として群馬県邑楽郡高島村(現・邑楽町)に生まれる。1903年(明治36年)3月、群馬県師範学校を卒業後、教員となり、1907年(明治40年)3月、群馬県川場小学校の校長に就任。 ついで、官界に転じ、同県北甘楽郡視学、群馬県属、知事官房主事、碓氷郡長、山田郡長を経て、1925年(大正14年)8月12日に桐生市長に就任。1933年(昭和8年)に桐生火葬場事件の責任を取って一旦辞任したものの、市議会に推されて40日後に再就任し、1940年(昭和15年)5月まで市長を務めた。
山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年… 山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年)1月3日 - 1955年(昭和30年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。幼名・治作。 静岡県志太郡西益津村(藤枝町を経て現藤枝市大手)出身。先代忠五郎の息子として生まれ、忠五郎を襲名した。西益津高等小学校、永井東陵の私塾育英学校で学んだ。 農業に従事し、西益津村長、同村会議員、志太郡会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、全国町村会会長を歴任し、1928年の第16回衆議院議員総選挙で静岡1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙から4回連続当選した。
石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月… 石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月2日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。ダイヤモンド社創業者であり、東宝劇場や理研電線の役員、東京市会議員、衆議院議員、日本雑誌協会会長、日本読書推進協会会長、東京新潟県人会会長などを歴任した。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県西蒲原郡曽根村(現在の新潟市西蒲区)生まれ。出生直後に父と死別し、同県中蒲原郡白根町(後の白根市、現在の新潟市南区)にあった母方の実家にて幼年期~青少年期を過ごした。白根尋常高等小学校卒業後、白根郵便局、加茂郵便局勤務を経て 22歳の時上京。日本大学別科中退後、慶應義塾商業学校(慶大の夜間商業学校)を卒業した。