井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3… 井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3年11月22日) - 1931年(昭和6年)3月26日)(通名:井口 あくり、本名:藤田 阿久利)は、日本の体育学者。女子体育の母・日本体育の母。 現在の秋田県秋田市南通亀の町出身。アメリカ留学後女子高等師範学校や日本体育会体操学校の教授を勤め、学校体育にスウェーデン体操を導入した。女子体育の先駆者で「日本女子体育の母」と呼ばれる。1911年(明治44年)藤田積造と結婚し藤田姓となる。 1871年1月12日(明治3年11月22日)、秋田久保田城下亀ノ町廓に住む父井口糺(タダス)、母ミヱの間に9人兄弟の四女として出生。糺は戊辰戦争において久保田藩を勤王に導いた傑士で、大正天皇即位のおり従五位を追贈されている。
由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月… 由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月10日) - 昭和5年(1930年)4月7日)は、日本の教育者。称号は従三位勲二等。 高知県土佐郡神田村(現・高知市)出身。第三高等学校を経て、1896年(明治29年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。山口高等学校教授・舎監、千葉県千葉中学校校長、第五高等学校教授・生徒監、第三高等学校教授、松山高等学校校長、第七高等学校造士館校長を歴任した。 1930年(昭和5年)、鹿児島市で講演中に脳溢血で倒れて急逝。墓所は染井霊園1-イ-4-19。同所には兄である陸軍大将由比光衛の墓もあり、右側の墓石が質のものである。
濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月… 濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月19日) - 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の技術者、実業家。第3代三菱造船(現三菱重工業)会長を務めた。 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現大村市野田町)で、初代村長一瀬信造の次男として生まれた。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業後、1891年東京工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、三菱合資入社。長崎造船所で「常陸丸」の受注にあたるなどし、同所機械工場支配人を経て、1898年三菱造船所電気主任技師。三菱造船所副長を経て、1917年三菱造船長崎造船所所長。1920年三菱造船常務取締役。1925年三菱造船会長。1931年蔵前工業会理事長。
柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1… 柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1871年1月8日) - 1945年(昭和20年)4月11日)は、日本の内務官僚、文部官僚。錦鶏間祗候。 奈良県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、内務属となった。同年、高等文官試験に合格し、群馬県参事官、枢密院書記官、行政裁判所評定官、土木局書記官・内務省参事官、文部省宗教局長を歴任した。その後、維新史料編纂事務局長、維新史料編纂会委員を務め、1942年(昭和17年)に退官した。 1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871… 政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871年1月7日) – 大正10年(1921年)8月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、駐シャム(タイ)公使。法学博士。
三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:187… 三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:1871年2月24日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。 三根正亮は、明治4年1月6日(新暦:1871年2月24日)、福岡県三根幾次の長男として生まれた。1890年(明治23年)福岡県立尋常中学修猷館、1892年(明治25年)7月熊本の第五高等中学校工科を経て、1895年(明治28年)7月帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。大学在学中に京都電気鉄道の設計に関与している。 卒業後はすぐに逓信省へ入省。
釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年… 釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年1月5日) - 昭和29年(1954年)7月6日)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京市麹町の生まれ。出家前は入澤譲四郎。号は両忘庵、輟翁、石佛。
岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年1… 岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年11月15日) - 1936年(昭和11年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 土佐国香美郡立田村(現・高知県南国市)に生まれた。1893年(明治26年)7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。1894年(明治27年)3月、歩兵少尉に任官。1895年(明治28年)5月、歩兵中尉に進級。1899年(明治32年)3月、歩兵大尉に進級。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。1904年(明治37年)8月、歩兵少佐に進級。日露戦争に満州軍情報参謀として出征した[要出典]。1908年(明治41年)12月、歩兵中佐に進級。 1912年(大正元年)12月、静岡連隊区司令官となり、1913年(大正2年)2月、歩兵大佐に昇進。
森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、187… 森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、1871年1月4日(明治3年11月14日)- 1939年(昭和14年)7月13日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・広輔。 越前国今立郡稲寄村(福井県今立郡稲寄村、国高村稲寄、武生市を経て現越前市)で、豪農、先代・森広三郎の長男として生まれた。1901年(明治34年)8月、家督を相続し広三郎を襲名した。父の反対を受けながらも上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学んだが、ついに父の意思に従い中退して帰郷した。 今立郡会議員に就任。1903年(明治36年)9月、福井県会議員に選出され、1905年(明治38年)5月まで在任し、同参事会員も務めた。
松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年… 松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年6月24日)は、日本の大正期から昭和初期の実業家、相場師。松井房吉商店(現在の松井証券)の創業者。 明治初期に三重県桑名市の医者・加藤勘兵衞の次男として生まれる。松井家に養子に出され松井姓になる。日本橋蛎殻町で丸三商店(現在の丸三証券)創業者の1人である川北徳三郎のもとで相場を修業し、川北とともに日本橋兜町に進出する。兜町で5人の仲間と匿名組合を設立して、株取引の仲介業務を始め、1918年5月10日他の5人から権利を買い取り松井房吉商店を創業した。兜町では「売りの房吉」と恐れられ、第一次世界大戦後の1920年3月15日の株価大暴落で、兜町でただ1人大儲けをし、巨万の富を築く。
野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年… 野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年12月28日) - 1960年(昭和35年)2月11日)は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。財団法人板垣会第12代会長。坂本龍馬先生銅像建設会会長。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者。高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者。 近代交通黎明期に高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐湾岸航路、バス、鉄道等多くの交通事業に携わった。現在のとさでん交通の前身会社の一つである高知県交通の前身である野村組自動車部、現・新高知重工の前身である野村組工作所の創設者である。また、私鉄高知鉄道手結-安芸線(後の土佐電気鉄道安芸線:昭和49年(1974年)の建設なども手掛けた。
北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月2… 北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月29日(明治2年12月28日)- 1935年(昭和10年)9月22日)は、明治から昭和期の税関官吏、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・園池。幼名・楢麿。 山城国京都で奈良県知事・園池公静の三男として生まれ、1895年(明治28年)8月、男爵・先代北大路公久の死去後に養子となり、同年9月28日に男爵を襲爵。同年10月9日、実信に改名した。 学習院、東京高等商業学校を修了。1895年、税関属に任官。その後、同事務官補などを務め、東京築港に関する貨物調査嘱託となった。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年1… 牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年12月25日) - 1956年(昭和31年)10月18日)は、主にイギリスで活動した画家、随筆家である。ジャポニズムブームに乗り、1910年代にロンドン社交界の寵児となった。挙母藩(現:愛知県豊田市)出身。「霧の画家」と評される。 挙母藩士・牧野利幹と葛(西尾藩士・遠山内記の娘)の次男として誕生する。宣教師が設立した名古屋英和学校に学び、1890年に東京職工学校機械科を卒業した。幼い頃から水墨画を学んだ牧野は23歳の時、単身渡航でアメリカを訪れた。渡米した当初は画家か文筆家かで迷っていたが、アメリカ総領事の珍田捨巳の助言でサンフランシスコの美術学校に通った。
林 茂政(はやし もせい、本名:しげまさ、1870年1月26… 林 茂政(はやし もせい、本名:しげまさ、1870年1月26日(明治2年12月25日)- 1940年(昭和15年)1月15日)は、日本の政治家。最後の鶴岡町長、初代鶴岡市長、山形県会議員、羽前輸出織物同業組合組合長、勲六等。別名・半次郎。 庄内藩士・林茂明の長男として鶴岡鷹匠町(現・山形県鶴岡市)に生れる。西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業。鶴岡英学会に入会し英語などを学び、角田俊次に文章及び漢学の指導を受ける。 1887年(明治20年)福島県会津郡の小学校に勤務。1892年(明治25年)朝暘学校訓導に転じた。 1901年(明治34年)鶴岡町長に就任し、1924年(大正13年)10月、市制施行に伴い初代鶴岡市長に就任し、1927年(昭和2年)まで在任した。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
豊増 竜次郎(とよます りゅうじろう、1870年1月25日(… 豊増 竜次郎(とよます りゅうじろう、1870年1月25日(明治2年12月24日) - 1941年(昭和16年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。族籍は佐賀県平民。 肥前国養父郡旭村(現在の佐賀県鳥栖市)出身。豊増清作の二男。1889年(明治22年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した後、佐賀市で弁護士を開業した。佐賀市弁護士会副会長、同会長を歴任。また佐賀市会議員に選ばれ、議長も務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、佐賀毎日新聞社社長、佐賀瓦斯株式会社取締役などを務めた。
稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明… 稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明治2年12月20日) - 1917年(大正6年)8月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国印旛郡平岡村(千葉県印旛郡木下町、印西町を経て現印西市)で、農業・稲村巳之助の長男として生まれた。1903年、東京法学院(現・中央大学)卒。印旛郡会議員、千葉県会議員となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において千葉県郡部から無所属で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1917年に死去した。
内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月2… 内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月20日 – 1928年(昭和3年)12月29日)は、日本の裁判官。 1870年、熊本県山本郡山本村(現・熊本市北区植木町)にて出生。 明治法律学校卒業後、佐賀、名古屋、京都などの地方裁判所検事を経て、松江、福井、鹿児島の各地方裁判所検事正を歴任。後に大審院検事となる。 1928年、死去。59歳。
白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年… 白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年12月18日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・貞蔵。1913年(大正2年)5月、博之に改名。 白河県磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村大字上小川、小川町を経て現いわき市小川町上小川)で、実業家白井遠平の長男として生まれる。郷里の小学校を卒業し、同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学、数学を学んだ。1885年(明治18年)11月に上京し、東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)で英語、数学を学び1887年(明治20年)7月に修業。東京農林学校に進んだが病のため1888年(明治21年)3月に中退し帰郷した。
瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12… 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日)- 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現:高知市鷹匠町)にて、土佐藩士瀬戸直道の長男として生まれる。第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年帝国大学理科大学物理学科を卒業。 岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授、第六高等学校(現:岡山大学)教授、長崎高等商業学校(現:長崎大学)教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官、臨時教育会議委員などを歴任。1913年4月、前任者新渡戸稲造の退任に伴い、日本最難関と言われた第一高等学校の校長に就任する。
小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明… 小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明治2年12月10日) - 1943年(昭和18年)7月26日)は、日本の新派俳優である。本名は西巻行蔵。 新潟県柏崎市に生まれる。後に上京し1891年(明治24年)に川上音二郎一座に加入し、立役が認められた後に同座が経営する劇場において初舞台を踏んだ。1896年(明治29年)には同じ新派俳優だった高田実や初代喜多村緑郎らと共に、成美団の結成に携わり大阪にあった角座および朝日座等で舞台を踏む。 1907年(明治40年)には高田および伊井蓉峰が所属した一座に加入し、再度東京で舞台を踏みその座長も務めた。1913年(大正2年)には河合武雄らが結成した公衆劇団にも加入し、新劇運動に尽力する。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈… 西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈1870年1月7日〉 - 明治38年〈1905年〉7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍歩兵少佐。栄典は正六位勲四等功四級。 歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め日露戦争で勇戦、樺太の戦いに於いて戦死を遂げた。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子として肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現佐賀市)に生まれる。兄は西久保弘道。明治7年、父に従い東京へ移住。明治8年8月から東京芝区巴町の第一番小学鞆絵学校(後の港区立鞆絵小学校。平成3年3月閉校し現在は港区立御成門小学校)に入校する。明治10年10月に佐賀の日新小学校に転校。明治12年4月には再び父の転勤の為三重県津市養正小学校に転校する。
美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(187… 美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(1870年1月7日) - 1945年(昭和20年)9月26日)は、日本の農商務及び大蔵官僚、銀行家、実業家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁。 兵庫県加古郡高砂町内材木町(現高砂市材木町)で美濃部秀芳の長男として生まれる。美濃部家は代々医業の家系で、父は姫路藩の御典医でもあった漢方医だが、町内の子供たちに習字や漢字を教えて主にその月謝で生活していたため、あまり豊かでなく、母はとても知識と教養をもっており、夫の代わりに診察したり書や漢書を教えていた。美濃部はいずれ上京して勉学に励みたいと考えていたが家計の事情を抱えていたとき、彼の俊才が見込まれて援助をしてくれる素封家が4人現れたことにより、小学校、小野田中学校を経て、1885年(明治18年)上京、第一高等中学校予科に入り、医学を志してドイツ語を学ぶが第一部本科に転じて1年の英語研究をした後、帝国大学法科大学政治科入学、1893年(明治26年)7月卒業(法学士)、第百銀行へ入行しようと池田謙三に会うも曖昧な反応で、返事を待っているうちに結局、同年8月農商務省に入り商工局配属、後に同工務課長となる。
竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12… 竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1946年(昭和21年)7月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。
鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年1… 鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1947年(昭和22年)6月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 茨城県出身。東京高等商業学校を矢野二郎排斥事件により中退。日本海員掖済会理事兼横浜支部長、共同火災保険(株)名古屋支店長、横浜生命保険(株)支配人、硫酸販売、関東機械ナット、東京リベット製造各(株)取締役、保土ヶ谷化学電気(株)常任監査役、東京硫酸(株)常務監査役となる。また、朝鮮政府に招かれ、法規編纂に従事する。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では茨城7区から立候補して再選する。
甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月… 甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1923年1月9日)は、山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身で立川部屋、中村部屋、再度立川部屋に所属した力士。本名は五味 安吉。6代立川。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。 1893年1月初土俵、1897年5月十両昇進。1903年1月新入幕、1909年から二枚鑑札、1913年1月に力士を引退。1911年から引退までは最年長幕内力士だった。 甲→甲斐ノ山→甲→兜→甲→立川
伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日… 伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日(明治2年12月3日) - 1923年(大正12年)4月4日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸中国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡根子村(花巻川口町、花巻町を経て現花巻市)で、伊藤弓太の長男として生まれる。1893年、札幌農学校農学科を卒業した。その後、北海道空知郡奈江村(現奈井江町)の土地50万坪を借りて開墾に従事。1895年、夕張郡角田村(現栗山町)に移り、水田の開墾に尽力し、同村を北海道水田の模範地となした。角田村会議員、同村農会長、夕張郡農会長、北海道農会副会長を歴任。 1919年11月、資本金百万円で北海道殖産銀行を設立し頭取に就任。
町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年… 町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年1月3日) - 昭和6年(1931年)7月13日)は、日本の農学者・水産学者。東京帝国大学名誉教授(元農学部長)。農学博士。専門は、農芸化学、水産物利用学・水産製造学・水産化学。 鹿児島県出身。鹿児島市皷川町生まれ。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業し、助手を務めた。1893年(明治26年)より農事試験場技師を務め、1906年(明治39年)に統監府勧業模範場技師に転じた。また、農事試験場では、農芸化学部主任も務めた。 1908年(明治41年)より水産製造学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学した。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学農科大学(のち農学部)教授に任じられ、水産学第三講座を担当する。
豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年… 豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。岡山県美作市出身。 岡山県英田郡栗広村(現:美作市)出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京専門学校及び哲学館で学ぶ。農業と林業を営む。粟広村(現・美作市)会議員、英田郡会議員、所得税調査委員となる。また、倉庫業を経営し、勝英銀行、勝英貯蓄銀行各頭取、播美軽便鉄道(株)社長を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において岡山県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年1… 小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年12月1日〉- 1942年〈昭和17年〉2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民。 衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。 1892年(明治25年)、弁護士となり、1901年(明治34年)には近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。 1903年(明治36年)、衆議院総選挙に出馬し当選、以来当選10回。 日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。
松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1… 松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1月〈明治2年12月〉 - 1931年〈昭和6年〉11月29日)は、日本の獣医師、実業家、融和運動家。大和同志会会長。親族には陸軍少将の松井源之助がいる。 奈良市西之阪の精肉商を営む家に生まれる。哲学館に学ぶ。1902年(明治35年)、東京帝国大学農科大学卒業。獣医となる傍ら、車挽業などの経営でも蓄財し、士族籍を買得して改姓した。1931年(昭和6年)11月29日、死去。 1912年(大正元年)、大和同志会を結成し、松井は初代会長に選ばれる。機関誌『明治之光』を発刊し、部落差別事件の糾弾、融和運動を行う。 松井はこれを全国規模の運動に拡大しようと考え、最初、山口県の有志らと会合を開く。
杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1… 杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 没年不詳)は、日本の逓信官僚。大連市長。 岐阜県養老郡高田町(現在の養老町)出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。通信事務官、関東都督府在旅順軍郵便監査、郵便為替貯金管理所証券課長、北京郵便局長、神戸逓信管理局総務部長、神戸郵便局長、神戸税関事務官、長野郵便局長、名古屋郵便局長、逓信局書記官、臨時電信電話建設局事務官、熊本逓信局監理課長などを歴任し、1920年(大正9年)に関東庁逓信局長となった。 1924年(大正13年)に退官した後は大連市長を務め、1928年(昭和3年)に退任。
白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治… 白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 明治27年(1894年)7月29日)は、日清戦争で戦死した日本陸軍兵士。備中国浅口郡水江村(現在の岡山県倉敷市)出身。 貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた。1894年(明治27年)、広島の歩兵第21連隊に入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く、21連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが満期除隊した。日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征。7月29日、成歓の戦いにおいて武田秀山中佐率いる右翼隊第21連隊第9中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり溺死した。
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869… 湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869年1月30日〉 - 昭和6年〈1931年〉2月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。 明治元年12月18日(1869年1月30日)、安中で醤油味噌の醸造販売を行う「有田屋」の長男として生まれる。 同郷の新島襄が開校した同志社英学校(現・同志社大学)を明治20年(1887年)に卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。明治29年(1896年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されると黒田清輝の推薦を受け3年生に編入し明治31年(1898年)7月卒業。
高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈18… 高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈1869年1月28日〉 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は明治から昭和にかけての陽明学者。号は惺軒。従三位勲三等文学博士京都帝国大学名誉教授。 漢詩は鈴木豹軒、和歌は山本行範に学んだ。 明治元年12月16日(1869年1月28日)、讃岐国山田郡西十川村仲下所(香川県高松市十川西町107番地1)佐々木弥惣八(八十八、小五郎)の四男に生まれた。鰹宇神社で森口四郎に儒学を学ぶ。 京都府立第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校(金沢市)または第五高等学校(熊本市)を経て、明治31年(1898年)7月東京帝国大学文科大学漢学科を卒業し、同大学院に進学、明治38年(1905年)11月論文「先秦諸子哲学」により文学博士号を取得、明治39年(1906年)1月東京帝国大学講師、同時に哲学館、日蓮宗大学、佛教大学、早稲田大学、曹洞宗大学、明治大学講師も務めた。
佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈186… 佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈1869年1月27日〉 - 昭和5年〈1930年〉1月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 美濃国可児郡伏見村(岐阜県御嵩町から可児市)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。弁護士試験に合格し、1894年(明治27年)から開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後、4回の当選回数を数えた。 その他、神中鉄道株式会社・東北起業株式会社取締役や日本大学理事を務めた。
佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(18… 佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(1869年1月25日) - 昭和23年(1948年)7月25日)は、日本の医師。福島市長。 宮城県亘理郡亘理町出身。1891年(明治24年)、第二高等中学校医学部卒業。1896年(明治29年)、福島市に病院を開設し、1927年(昭和2年)に東京に移転した。1901年(明治34年)、福島町会議員となり、福島市会議員、同副議長、同議長を歴任した。 1929年(昭和4年)に福島市長に選出され、1945年(昭和20年)まで16年間務めた。その後、公職追放となり、追放中の1948年(昭和23年)死去。
白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元… 白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元年12月12日) - 1932年(昭和7年)5月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、栄典は勲一等功二級男爵。
岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(18… 岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(1869年1月23日) - 昭和25年(1950年)12月30日)は明治時代の日本画家。 越前国福井老松下町に生まれる。本名は覚平。岡倉天心は叔父にあたる。幼少の頃に上京、明治11年(1878年)4月に東京外国語学校仏蘭西学部に入学しフランス語を学んでいる。明治13年(1880年)に退学して画家を志し狩野芳崖に師事して絵の修業を始め、明治16年(1883年)5月からアーネスト・フェノロサについて美学を学ぶ。岡不崩、狩野忠信とともに鑑画会に少壮画家として参加、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会にはフェノロサの示唆を受け「文殊」、「羅漢」、「鷲」を出品すると「鷲」が四等褒状を受け、明治19年(1886年)4月の第2回鑑画会大会には「山水」を出品している。
中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元… 中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元年12月10日)- 1937年(昭和12年)5月11日)は、明治から昭和前期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県山武郡鳴浜村長。 上総国山辺郡白幡村(千葉県山武郡鳴浜村、成東町を経て現山武市白幡)で、酒造業・石田藤蔵の長男として生まれた。1890年(明治23年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1893年(明治26年)まで岡山地方裁判所書記を務めた。帰郷して酒造業、農業を営む。九十九里鉄道社長なども務めた。 1907年(明治40年)9月、千葉県会議員に選出され1911年(明治44年)9月まで1期在任し、同副議長も務めた。
市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月… 市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月10日 / グレゴリオ暦 1869年1月22日 - 1943年3月2日)は、日本の歌舞伎役者、俳優である。本名は生田 宮吉(いくた みやきち)。幼名及び旧芸名は市川 左伊次(いちかわ さいじ、市川 左い次とも)、市川 榮升(いちかわ えいしょう)。映画草創期に主演俳優として活躍した一人であり、5代目澤村四郎五郎との名コンビとして知られる。 1869年1月22日(旧暦 明治元年12月10日)、武蔵国(後の東京府東京市浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区)に生まれる、とされている。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治三年十二月十日」(グレゴリオ暦 1871年1月30日)、生地は東京市浅草区馬道町1丁目(現在の台東区浅草1丁目)である旨が記されている。
津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月… 津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月18日) - 昭和12年(1937年)10月5日)は、衆議院議員(新政会)、弁護士。 上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。 1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。
田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 -… 田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日)は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。 1886年・翌87年の警視庁武術大会での大勝を機に日の出の勢いとなった新興の講道館柔道が各地に根付く柔術各派を圧倒し、在京の各派の多くが講道館の軍門に下る中、それでも一部の流派が講道館に挑み続けてその急先鋒と云われたのが不遷流出身の田辺であった。得意の寝技を以って講道館四天王の山下義韶や大豪・戸張滝三郎を破るなどし、富田常次郎、横山作次郎、西郷四郎など並居る講道館の重鎮たちが田辺との試合を避けてきた史実から、“講道館が最も恐れた男”として伝説的な存在となっている。
賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938… 賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938年3月21日)は、日本の映画監督、演出家、小説家。本名は賀古 保五郎(かこ やすごろう)。 日本映画界最古参の監督の一人。新派の座付作家を経て創設されたばかりの松竹蒲田撮影所に入社。新派調の悲劇映画を多く撮ったが、その一方で映画研究にも余念がなく、松竹映画の基礎固めに寄与した。門下生に牛原虚彦、池田義信らがいる。妻は女優の中川芳江、義妹に小松みどりがいる。 1869年1月13日(明治元年12月1日)、石川県金沢市に生まれる。ニコライ神学校卒。 若くして島崎藤村、馬場孤蝶らと雑誌『文学界』に参加し、新体詩や小説などを発表する。残夢はその時以来のペンネームである。
西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治… 西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治元年11月26日) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、長門厚狭郡厚南村(現・山口県宇部市)出身の建築家。1897年(明治30年)から1917年(大正6年)までは福岡県営繕係や愛知県営繕係に奉職し、1918年(大正7年)に名古屋市初の個人建築事務所を開設して活動した。 父は西原英治郎、母はノエ。1869年1月8日(明治元年11月26日)、長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)に西原家の長男として生まれた。厚狭郡須恵小学校(現・宇部市立厚南小学校)を卒業し、吉敷郡山口町の山口黒城塾で学んだ後、大阪商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)に入学した。
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869… 寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の造船学者。 東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業。同大学院で商船構造学を研究。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。三菱造船所で建造した、主機に輸入タービンを搭載した義勇艦隊さくら丸、日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えた客船天洋丸・地洋丸の船体設計・建造に関与した.斯波忠三郎,大森房吉らと行った船体振動(機関回転数と振動数の関係に関わる)実験は世界的にも開拓的な業績と評価されている.1914年には日本鉄鋼協会の創立に発起人として参画し,1915年の創立後は理事/評議員として貢献した.造船共會(現在の日本船舶海洋工学会)理事を務め,1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった。
新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1… 新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1869年1月7日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月13日)は、日本の彫刻家。号を古拙。2,631体の仏像等の多くの文化財を修理した。修理前後の写真や書面など詳細な記録を残しており現在の文化財修理の基礎を築いた。 岡倉天心は新納が仏像修復のパイオニアとしての方向性を決定づけた張本人であると言える。生涯にわたって岡倉を師と仰いで恋慕し続けてきた事は、新納に近しい人々の談で知られる所である。そうした運命の鍵となったのが明治34年(1901)から漸次開始された奈良の仏像修理事業である。奈良の修理に先んじて明治30年(1897)、東京美術学校が委託された奥州平泉・中尊寺金色堂の修理事業に新納は参加する。
高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元… 高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元年11月24日)-1904年3月12日)は明治期日本の労働組合運動の先駆者。長崎県長崎市出身。日本の社会科学者の一人。社会統計学者の高野岩三郎は弟。 長崎銀屋町で生まれる。幼名は久太郎で、父は仕立業を営んでいた。1877年に家族とともに東京に移り、父は現在の千代田区東神田付近の自宅兼店舗で旅館兼廻漕業の「長崎屋」を新たに始める。1879年8月に若くして父が死去し、長男の高野は形式上戸主となった。さらに、1881年2月に火災で「長崎屋」は焼失した。「長崎屋」は近辺に移転する形で営業を再開したが、この年に公立江東小学校の高等小学校(現・墨田区立両国小学校)を卒業した高野は、横浜に住む伯父の汽船問屋兼旅館に住み込みで働き、夜は横浜商法学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)に通学した。
川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年1… 川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年11月20日) - 1927年(昭和2年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1887年、岩手県尋常師範学校卒。小学校訓導、同校長、稗貫郡亀ヶ森村(のち大迫町→花巻市)長、稗貫郡会議員、岩手県会議員、稗貫郡産馬畜産組合長となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では岩手5区から立候補したが落選した。1927年死去。