釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年… 釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年1月10日) - 大正8年(1919年)11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県)大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎。号は洪嶽、楞伽窟、不可往。 日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られている。 1860年1月10日(旧暦 安政6年12月18日)、現在の福井県大飯郡高浜町の農家に生まれた。一瀬吾右衛門の二男で、幼名は常次郎。幼児から峻烈豪放で、人に下るということを好まなかった。 1870年、10歳(数え年で12歳)の時、一瀬家の親戚筋に当たり福井県出身である京都妙心寺天授院の越渓守謙が帰郷し、越渓の母の92歳の祝いを終えて京都に帰る際、兄の勧めにより、常次郎は僧侶になるべく越渓に預けられた。
下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860… 下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860年1月8日〉 - 明治44年〈1911年〉9月6日)は、日本の海軍技師(海軍高等文官、高等官二等〈少将相当〉)。従四位勲二等工学博士。下瀬火薬の発明による日露戦争への貢献で知られる。帝国学士院会員。帝国学士院賞受賞。広島県出身。 1859年(安政6年)12月16日、広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として広島市鉄砲町(現中区鉄砲町)に生まれる。 1884年(明治17年)、広島英語学校(広島一中の前身、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、帝国大学工科大学(現・東大工学部)応用化学科卒業。内閣印刷局に就職。鎬青(こうせい、光の青染料)及び版面洗浄液の改良、紙幣の真贋識別に有効な黒色インキ他を発明。
尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年1… 尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年12月26日)- 1927年(昭和2年)6月21日)は、明治期の検察官。錦鶏間祗候。 豊前国宇佐郡津房村(現在の大分県宇佐市)出身。中津の白石照山塾で学んだ。広島師範学校、二松學舍を経て、1883年(明治16年)に司法省法学校を卒業。東京地方裁判所判事補、大阪地方裁判所検事、東京地方裁判所検事、宮崎地方裁判所検事正、宇都宮地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正を歴任。1899年(明治32年)に台湾総督府法院覆審法院検察官長に転じた。1910年(明治43年)に退官し、1912年(大正元年)11月18日に錦鶏間祗候となった。 退官後は二松學舍理事を務めた。
三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860… 三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860年1月8日) - 昭和17年(1942年)11月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、土木技術者、陸軍軍人(工兵中尉)。 香川県丸亀市出身。1878年(明治11年)、大阪府師範学校を卒業し、小学校訓導となった。その後、陸軍士官学校(旧5期)に入学し、1884年(明治17年)に卒業。工兵中尉として熊本鎮台工兵大隊副官を務めた。免官後、藤田伝三郎・大倉喜八郎が共同出資する日本土木会社(のち大倉組)社員となり、東京湾砲台建設、紀淡海峡砲台建設、東京湾の浚渫と月島埋め立てなどを手掛けた。1897年(明治30年)、内務省官吏となり、岡山県技師に任じられた。
岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年1… 岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年12月10日) - 大正年間没)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。 岡田治右衛門の長男として、長門国美祢郡伊佐村(現美祢市)に生まれる。漢学を学ぶ。村会議員、同議長、山口県会議員、共栄汽船社長、大日本製薬(株)専務取締役、総武鉄道(株)顧問、真宗信徒生命保険会社社長、徴兵保険、武蔵電気鉄道各(株)社長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1903年の第8回衆議院議員総選挙において無所属で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙ではトップで再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補したが落選した。
沢野 忠基(さわの ただもと、1860年1月(安政7年1月)… 沢野 忠基(さわの ただもと、1860年1月(安政7年1月) - 1884年(明治17年)3月20日)は、理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 外国語学校でフランス語を学んだ後、1880年(明治13年)東京大学理学部仏語物理学科を卒業。1881年(明治14年)、東京大学物理学科の同窓生たちとともに東京物理学講習所の創立者の一人となる。東京物理学校開校の翌1884年(明治17年)3月20日に死去。
大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5… 大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5年12月25日)- 1916年(大正5年)8月10日)は、明治から大正初期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡林村(木田郡林村を経て現高松市)で、大場吉次郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1889年(明治22年)6月、家督を相続した。 1889年、讃岐鉄道取締役に就任。その他、讃岐農工銀行頭取、韓国実業監査役、東讃電気軌道(現高松琴平電気鉄道)社長などを務めた。 政界では、六条村戸長、林村会議員、木田郡四ケ池普通水利組合常設議員などを務めた。香川県会議員に選出され、1899年(明治32年)10月21日、同議長に就任し同月27日まで7日間在任した。
杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(185… 杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(1859年1月25日) - 1906年(明治39年)7月31日)は、明治時代の兵庫県神戸市の外科医。県立神戸医学校教諭・神戸病院副院長、私立杉田病院長、神戸市医師組合初代組長。脊髄炎で早世した。号は春嵐。杉田玄白4世孫。 安政5年12月22日(1859年1月25日)江戸浜町山伏井戸(東京都中央区日本橋浜町二丁目)に杉田玄端の四男として生まれた。幼名は英吉/英吉郎。7歳で木村二梅に習字、高須某に漢学を学んだ。 明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い両親・弟杉田盛と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移り、沼津兵学校附属小学校に通いながら、相磯格堂にも漢籍を学んだ。
五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政… 五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政5年12月22日)- 1933年(昭和8年)2月11日)は、明治から大正時代の電信電話技術者。出羽米沢(山形県)出身。 安政5年(1858年)、旧米沢藩士・徳間久三郎の三男として生まれる。その後同藩士・五十嵐正和の養子となる。 1882年(明治15年)工部大学校電気科を卒業。工部省に入ったのち、逓信省技師に任ぜられる。1887年(明治20年)東京電信學校教授になり、1889年(明治22年)、電信電話事業視察のために私費で欧米各国を歴訪。 東京郵便電信局建築課長、東京電話交換局長、塞累逓信局工務部長などを歴任。東京、横浜等の電話工事の基礎を定める。
野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政… 野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政5年12月21日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月2日)は、日本の醸造家、政治家。鳥取県会議員。鳥取県日野郡会議員。日野家畜、根雨銀行各取締役。中国貯蓄銀行監査役。日野酒造組合副組長。野坂家第9代。 伯耆国日野郡溝口宿(のち鳥取県日野郡溝口町、現伯耆町)出身。酒造業を営む。銘酒「玉の井」を醸造する。住所は日野郡溝口村大字溝口宿。 野坂家は天保年間から明治初年にかけて口日野郡の大庄屋、続いて区長・戸長などをつとめた。野坂金治郎の嗣子は野坂誠之。遺族は日野郡溝口町溝口の野坂和子。「野坂和子氏所蔵文書」は、大庄屋文書は藩からの到来書及び御用留、郡村役人同志との往復文書、構内各村からの嘆願書類がその主な内容である。
森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年1… 森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年12月15日)- 1944年(昭和19年)10月17日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、兵庫県出石郡出石町長。旧姓は永井、桜井(櫻井)。 但馬国出石郡出石城下(兵庫県出石郡出石町を経て現豊岡市出石町)で、出石藩侍医・永井玄機(春嶽)の二男として生まれる。藩校弘道館で漢学を修めた。その後、東京に遊学し尺振八の塾で英学、経済学、財政学を修めた。のち森本家の養子となり、1898年(明治31年)1月に家督を相続した。 豊岡洋学校で助教を務めた。上京して桜井勉の書生となる。大蔵属に任じられ、科目条例取調委員、各庁営繕規則取調委員などを務めた。
小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政… 小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日) - 1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鷗外の妹婿であり、星新一の祖父にあたる。陸軍軍医総監椰野巌は甥である。 越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された。 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年)7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。
坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(185… 坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。 1859年、摂津国西成郡九条村(現大阪府大阪市西区)に生まれる。 幼少時は僧侶の叔父に教育を受けた。14歳の時に父を失い、以後は親戚に引き取られ、大阪開成所と造幣寮の日進学社で学んだ。17歳の時に東京外国語学校に入学し翌年卒業。東京開成学校を受験し入学する。 1881年、東京大学文学部政治理財学科を卒業。1885年、同理学部応用化学科を卒業し、文学士と理学士という2つの学位を取得した。1886年に東京大学講師となる。その後、文学部と理学部の教員を兼務した後、史学に専念することとなる。
田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政… 田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政5年12月9日〉- 1923年〈大正12年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、大地主。埼玉県多額納税者。族籍は埼玉県平民。 武蔵国葛飾郡樋籠村(のち埼玉県北葛飾郡幸松村、現:春日部市)で、北葛飾郡有数の大地主であり、同郡随一の素封家・田中為次郎の長男として生まれる。家業の酒造業を継承した。 樋籠村戸長、八丁村連合戸長を歴任し、庄内古川改修などに尽力した。1911年(明治44年)、立憲政友会所属で埼玉県会議員に当選した。同年10月13日に就任した。1915年(大正4年)、県会議員に再選された。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた。
高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12… 高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12月) - 1910年(明治43年)8月31日)は、日本の明治期における耳鼻咽喉科医。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科教授、現在の長崎大学医学部耳鼻咽喉科の基礎を築く。伊予国出身。 1859年1月((旧暦)安政5年12月)、伊予喜多郡内子村(現愛媛県大洲市)に大洲藩士の子として生まれ、初め挺助と称した後に挺蔵に改めた。1874年(明治7年)東京外国語学校に入学し、1879年(明治12年)東京大学医学部に入学し、東京大学が東京帝国大学となった1886年(明治19年)度に卒業し、大学同期には伊東重・岡田国太郎・桂秀馬・佐藤恒久・鈴木愛之助・三輪徳寛等がいた。
伊藤 鶴吉(いとう つるきち、1858年1月31日(安政4年… 伊藤 鶴吉(いとう つるきち、1858年1月31日(安政4年12月17日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代に活躍した日本の英語通訳者。死去時の新聞報道では「通弁の元勲」と評されている。 相模国三浦郡菊名村(現・神奈川県三浦市)の生まれ。横浜で外国人から英語を学び、1877年より横浜で通訳業を始める。 1905年、アメリカの実業家エドワード・ヘンリー・ハリマン来日の際(このとき桂・ハリマン協定が結ばれた)に通訳を務め、その働きぶりからハリマンが経営する鉄道・汽船の一等乗車券をプレゼントされた。またマイソール王国王子、バローダ王国国王、植物学者チャールズ・マリーズなどが来日した際も通訳を務めた。
藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政… 藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政4年12月9日)- 1909年(明治42年)7月29日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 近江国愛知郡下枝村(滋賀県愛知郡下枝村、日枝村大字下枝、犬上郡豊郷村を経て現豊郷町)で、豪農・7代藤野四郎兵衛良久の二男として生まれた。神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部を卒業した。他店で経験を積み、その後、藤野店を担当した。 1876年(明治9年)6月、大阪第三区大区二等戸長兼学区取締に就任。その後、大阪府会議員に選出された。1885年(明治18年)滋賀県会議員にも選ばれた。その他、破産管財人、神崎愛知郡所得税調査委員、愛知郡所得税取調委員なども務めた。
2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安… 2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安政4年12月8日)- 1928年(昭和3年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。幼名は隣之助、旧名・林平。 甲斐国巨摩郡在家塚村(のち山梨県中巨摩郡、現南アルプス市在家塚)で、初代若尾幾造の長男として生まれる。 家業の生糸貿易業に従事し、1896年(明治29年)に家督を相続し幾造(2代)と改名した。神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)と埼玉県児玉郡本庄町(現本庄市)に生繭乾燥所を、また、高座郡鵠沼村(現:藤沢市)に製糸機械場、同郡明治村(現:藤沢市)に第二製糸場を設置して良質の生糸を製造し、海外に本邦蚕糸の優秀性を示して輸出の拡大に貢献した。
井上 精一郎(いのうえ せいいちろう、1858年1月17日(… 井上 精一郎(いのうえ せいいちろう、1858年1月17日(安政4年12月3日)- 1922年(大正11年)2月28日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・白石。 武蔵国埼玉郡生出村(のち埼玉県北埼玉郡豊野村、現:加須市)で、白石家の二男として生まれ、北葛飾郡高野村(現:杉戸町)の豪農・井上家の婿養子となる。東京専門学校で学び、農場を経営した。 北葛飾郡書記、高野村会議員、北葛飾郡農会参事、埼玉県農会代表、埼玉県会議員などを務めた。 1904年3月、第9回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から憲政本党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 農業の改良に尽力し、模範農場の設立、苗代の改良、害虫の防除、耕地整理整理などを推進した。
日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年… 日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年1月15日) - 昭和15年(1940年)11月22日)は旧日本陸軍の主計監(のちの主計少将)で、富士見町教会教会員。 妻は川本鶴吉の姉カヨ、日疋養鶏養豚場経営日疋道夫は子、日疋食品代表日疋文爾は孫、ひびき(旧社、後のHM管財)代表取締役日疋好春は曾孫。 安政4年(1857年)12月1日、日疋文七の三男として紀伊国(現和歌山県)に生まれる。幼名常吉である。1880年1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校し、1882年12月25日に卒業し、陸軍歩兵少尉に任命される。歩兵中尉の時に主計科に転ずる。1904年8月14日、満洲軍倉庫長になり、日露戦争を迎える。
河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安… 河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安政4年1月5日) - 1933年(昭和8年)1月10日)は、横浜、静岡を拠点として明治から昭和にかけて活躍した日本の茶商。 勝次郎は安政4年(1857年)岐阜県(美濃国)安八郡藤江村(現大垣市)において、父河村源四郎、母コウの三男として生まれた。戸主は源四郎の兄河村仁三郎であり、また族籍は士族であったと子孫に伝わる。仁三郎一家の明治19年式戸籍が滅失しているため、仁三郎の両親、兄弟、子孫の情報が得られないが、これは昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲による消失ではなかったかと推察される。 仁三郎は大垣藩医江馬活堂の隣人(安八郡藤江村)で「本舗調合所」を営業、活堂から「健胃湯」処方の教示を受け、明治13年(1880年)1月14日内務省免許を得て製造販売を始め、江馬家へと納入していた。
久松 定弘(ひさまつ さだひろ、1857年1月27日(安政4… 久松 定弘(ひさまつ さだひろ、1857年1月27日(安政4年1月2日)- 1913年(大正2年)7月7日)は、明治期の哲学者、官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・弘太郎。 父は上総大多喜藩主・松平正義の長男正晴で、その長男として上総国大多喜で生まれる。明治4年12月27日(1872年2月5日)旧伊予今治藩主・久松定法の養子となる。明治5年8月7日(1872年9月9日)養父の隠居に伴い家督を継承。1884年7月8日、子爵を叙爵した。 漢学を島田篁村、英語を河津祐之、ドイツ語及び普通学(一般教養科目)を司馬凌海、エルヴィン・クニッピング、ルドルフ・レーマンらに学んだ。1874年11月10日、留学のためドイツ帝国へ出発し、オイゲン・デューリングなどに師事し哲学と文学について学んだ。
上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年… 上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年1月2日) - 1929年(昭和4年)4月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 周防国吉敷郡、のちの山口県吉敷郡大道村(現防府市)出身。漢学と政治経済学を学ぶ。戸長、協同会社赤間関支店長、大道村会議員、同村長、吉敷郡会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員、所得税調査委員、学務委員、破産管財人、地方森林会議員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部から出馬して再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。
梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政… 梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政4年1月1日)- 1938年(昭和13年)11月3日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡曽村(長崎県下県郡曽村、仁位村、豊玉村、豊玉町を経て現対馬市豊玉町曽)で、対馬府中藩士・梅野益太郎の長男として生まれる。漢籍を修めた。農業を営み、数年間、教育に従事した。 1885年(明治18年)上県下県両郡総町村連合会議員に就任し、同議長、徴兵参事員を務めた。その他、村会議員、同議長にも在任。1889年(明治22年)対馬民党を組織し、同年、長崎県会議員に選出され6期在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に長崎県対馬から憲政本党所属で出馬して初当選。
一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安… 一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安政3年12月28日)- 1922年(大正11年)12月11日)は、明治から大正期の大地主、教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国和賀郡、のちの岩手県東和賀郡小山田村(和賀郡小山田村、東和町を経て現花巻市)で、一ノ倉家に生まれ、一ノ倉宇兵衛の養子となり1893年(明治26年)8月に家督を相続した。 1878年(明治11年)宮城師範学校を卒業。仙台市小学校訓導、宮城県師範学校教員、岩手県属、岩手県獣医学校長、郡長などを歴任した。その他、徴兵事務官、勧業諮問会員、市町村制実施法取調委員、府県制郡制実施法取調委員、日本赤十字社特別社員なども務めた。
珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年1… 珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年12月24日〉- 1929年〈昭和4年〉1月16日)は、日本の外交官。侍従長・枢密顧問官・外務次官。位階・勲等・爵位は従一位勲一等伯爵。キリスト教牧師(メソジスト派)。 弘前藩の下級藩士・珍田有孚の長男として、現在の青森県弘前市で生まれる。藩校の稽古館を経て、東奥義塾に学び、本多庸一の薫陶を受けて学び卒業。本多庸一校長の下で1874年(明治7年)東奥義塾の職員になる。1877年(明治10年)勇躍渡米しインディアナ・アスベリー大学で4年間学び、25歳のときに帰国した。当時、アメリカ事情と語学への通暁者は貴重な存在だった。1886年(明治19年)メソジストの弘前教会(現在の日本基督教団弘前教会教会堂)の副牧師になった。
4代 木村 半兵衛(半兵衞、きむら はんべえ、1857年1月… 4代 木村 半兵衛(半兵衞、きむら はんべえ、1857年1月18日(安政3年12月23日)- 1934年(昭和9年)9月12日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、栃木県会議長。幼名は勇三。 下野国足利郡小俣村(栃木県足利郡小俣町、坂西町を経て現足利市坂西地区)で、豪商・3代木村半兵衛の長男として生まれる。小俣学校の川上広樹から漢籍、政経学を、詩人・高林五峯から漢詩を学んだ。1886年(明治19年)父の死去に伴い家督を相続し4代半兵衛を襲名し、織物買継商を営む。 1875年(明治8年)頃、物産の改良、人心の啓蒙のため弘業談話会を設立し田口卯吉などによる講演会を開催し、1882年(明治15年)8月の足利工商会の設立を実現した。
大津 淳一郎(おおつ じゅんいちろう、1857年1月18日(… 大津 淳一郎(おおつ じゅんいちろう、1857年1月18日(安政3年12月23日) - 1932年(昭和7年)1月29日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、貴族院勅選議員。大東文化学院総長(第6代)などを歴任した。族籍は茨城県平民。 常陸国多賀郡折笠村(のちの茨城県多賀郡豊浦町、現在の日立市)出身。茨城県士族・大津正則の二男。1874年(明治7年)、分かれて一家を創立する。 水戸で漢学を修めた後、江戸に遊学した。1877年(明治10年)、小学校の教員となるが、まもなく退職した。その後、板垣退助の民権論にふれ、1879年(明治12年)から水戸で政談演説会を開いて、自由民権運動を推し進めた。
伊東 平蔵(いとう へいぞう、安政3年12月21日(1857… 伊東 平蔵(いとう へいぞう、安政3年12月21日(1857年1月16日) - 1929年(昭和4年)5月2日)は戦前日本の図書館専門家、イタリア学者。旧徳島藩士。 文部省で東京図書館等に勤務した後、イタリアに留学し、東京外国語学校等でイタリア語を教えた。大日本教育会書籍館で日本初の図書館講習会を創立し、私立大橋図書館、東京市立日比谷図書館、私立佐賀図書館、横浜市図書館の創立に関わった。 安政3年12月21日(1857年1月16日)徳島藩士山内俊一の三男として生まれ、伊東八郎左衛門の養子となった。本籍地は淡路国。1874年(明治7年)名東県の官費で東京外国語学校仏語科に入学した。 1880年(明治13年)9月3日文部省報告局に勤務し、『教育雑誌』でフランスの教育論等を抄訳した。
初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈… 初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈1857年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉2月26日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・源四郎、名・応家。 本間千五郎応次、たに子の二男として上野国佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)に生まれる。佐渡国の戦国武将、本間高統の後胤。幼少期に文学に目覚め、足立春英(竹陰)に漢学などを学ぶ。 慶応元年7月(1865年)亡兄十四松の跡を継いだ。1880年(明治13年)市場村外五箇村戸長に就任。ついで連合村会議員を経て、1885年(明治18年)3月、最多票数を獲得し佐位郡選出の群馬県会議員となる。1887年(明治20年)12月、満期退職後、佐波郡会議員、同参事会員などを歴任した。
横田 虎彦(よこた とらひこ、1857年1月13日(安政3年… 横田 虎彦(よこた とらひこ、1857年1月13日(安政3年12月18日)- 没年不詳)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 肥前国高来郡深江村(現:南島原市)で、豪農・横田政八の第五子として生まれる。漢籍を修め、その後、長崎に出てドイツ語を学ぶ。1875年、東京に移り小学校教員、陸軍教導団入団、新聞社創設、政党設立などの活動を行う。1882年、鹿児島に移り法律学を研究して、1885年8月、代言人試験に合格し、鹿児島に事務所を開いた。 1888年、大阪に事務所を移転。大阪市会議員、大阪府会議員、同参事会員、大阪組合弁護士会長などを歴任。また、関西日報、大阪自由新聞を発刊した。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で大阪市選挙区から出馬し当選。
信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年… 信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年12月17日) - 1893年(明治26年)11月9日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。下総国生実藩士。
鶴原 定吉(つるはら さだきち、1857年1月10日(安政3… 鶴原 定吉(つるはら さだきち、1857年1月10日(安政3年12月15日) - 1914年(大正3年)12月2日)は、日本の官僚、実業家、政治家。第2代大阪市長。韓国統監府初代総務長官。衆議院議員。
篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年1… 篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年12月14日〉 - 1936年〈昭和11年〉4月27日)は、江戸時代後期から昭和初期にかけての国学者、神職、歌人であり、精華学園(後の京都精華学園中学校・高等学校)の設立者である。号は小笠乃屋・龍孫。
柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年… 柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年12月14日) - 1923年(大正12年)2月7日)は、山口県防府市三田尻出身の発明家。日本で初めて安全マッチを発明し、国産唯一の体温計やジアスターゼの製造にも成功した。 1856年(安政3年)、薬舗柏木治助の次男として生まれる。1872年(明治5年)、16歳の時、防府市牟礼の桂権吾に化学を学び始める(1874年(明治7年)まで)。1875年(明治8年)、発火薬に赤燐を用いたマッチの製造に成功。1877年には安全マッチの製造に成功し、生産を始める。1878年(明治11年)6月、華浦医学校で理化学を学ぶ。このあと、三田尻港の水深が浅く、大型汽船が寄港できないことから、その浚渫を計画するも、浚渫船を入手できず、周陽丸を建造して広島、下関に運行させたり、大阪道修町の薬種商白井治兵衛に体温計製造を相談、宇部のガラス職人惣兵衛とガラス瓶の製造を試みたりする。
西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年… 西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年12月13日〉 - 1925年〈大正14年〉4月22日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡境町長(2代)。境町会議員。 伯耆国会見郡境村(現・鳥取県境港市)出身。1889年(明治22年)に境町会議員に当選した。1890年(明治23年)1月に同町助役となった。1892年(明治25年)、同町会議員に再選した。1893年(明治26年)12月に同町助役を退任した。同月12日から1898年(明治31年)12月12日まで、同町長をつとめる。町長を辞めたあとは台湾に渡り、木村久太郎の下で金山監督をつとめる。同年、同町会議員に返り咲いた。1900年(明治33年)、同町会議員にまた返り咲いた。
高木 正年(たかぎ まさとし / せいねん、1857年1月4… 高木 正年(たかぎ まさとし / せいねん、1857年1月4日(安政3年12月9日)- 1934年(昭和9年)12月31日)は、日本の政治家。日本初の視覚障害をもつ衆議院議員であった。 安政3年12月、武蔵国荏原郡南品川(現在の東京都品川区)で質屋を営んでいた細井半兵衛以年の三男として生まれる。幼くして英才の誉れあり、親戚の高木一兵衛以考の養子になる。この養父は幕臣で本草学者であったという。12~16歳時に、隣家に隠棲していた木村芥舟に学ぶ。その後、猿渡容盛、井上頼圀、江木高遠に学ぶ。 1883年(明治16年)の第2期東京府会議員に当選する。1890年、第1回総選挙に立候補して当選し、衆議院議員になる。
宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年1… 宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。 帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。
吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(18… 吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(1856年1月23日) - 1928年(昭和3年))は戦前日本のドイツ語教師。金沢藩貢進生、第一高等学校教授、独逸学協会学校附属独逸語専修学校講師。 安政2年12月16日(1856年1月23日)武蔵国江戸下谷御徒町に加賀藩士吉田淳一郎の子として生まれた。幼名は幸太郎、後に謙之助、謙次郎。 明治3年(1870年)前田肇、桜井房次郎と共に金沢藩貢進生に選ばれ、大学南校に入学し、安東清人、保志虎吉、関澄蔵等とドイツ語を専攻した。 明治4年(1871年)9月28日外務省洋語学所に転じ、飯盛挺造等と独逸語学教授東条一郎に学んだ。1873年(明治6年)洋語学所は文部省外国語学所に改組し、6月12日独逸語学級長となった。
龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈185… 龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈1856年1月23日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月27日)は、日本の警察官、政治家。函館区長(第8代)、函館支庁長(初代)、小樽区長、小倉市長(第4代)などを務めた。 薩摩国薩摩郡平佐村(現薩摩川内市)に生まれる。明治8年、警察官(四等巡査)になり第五方面勤務となる。西南戦争では植木口警視が率いる一番小隊の伍長を任される。明治17年に28歳で那覇警察署長となると、さらに2年後の明治19年には沖縄県警察 トップの警部長(本部長)にまでに昇りつめ、以後、宮崎県警察部、岡山県警察部、滋賀県警察部、佐賀県警察部各部の警部長を歴任した。その後は石川県書記官及び石川県参事会員を経て台湾へ渡り、台北県書記官や台湾総督府法院の高等法院検察官などを務めた。
長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(… 長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(安政2年12月15日)- 1912年(大正元年)8月12日)は、明治期の鉱山学者、実業家、政治家。衆議院議員、工学博士。 日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、松本荘一郎、志田林三郎、原口要がいる。 肥前国松浦郡唐津城下(佐賀県東松浦郡唐津町を経て現唐津市)で、唐津藩士・長谷川久徴の長男として生まれた。長谷川家は代々同藩数学師範を務め、父は剣術にも優れていた。8歳で藩校に入り漢学を修めた。また父から数学を、佐藤与造から蘭学を学ぶ。父の大坂在勤に従い、1868年(明治元年)長崎通詞何礼之から英学を学び、大阪開成所(のち大阪英語学校)で英語を教えた。
沢本 楠弥(さわもとくすや、正字体:澤本 楠彌、1856年1… 沢本 楠弥(さわもとくすや、正字体:澤本 楠彌、1856年1月22日(安政2年12月15日) - 1904年10月1日)は、高知県出身の日本の地方政治家、実業家。 高知県で自由民権運動や村政にかかわった後、北海道北見市の開拓に貢献した。土佐藩の沢本盛弥は同族。 土佐国長岡郡介良村良野(現・高知市)に生まれる。沢本家の祖は彦右衛門といい、大津城 (土佐国) 城主天竺孫四郎に仕えていたと伝わる。一族は長宗我部家が伸張するまで、介良の在地支配者であったとみられる[要出典]。のち武士から農家に転じ、土地を持つ豪農となった。家系図が残る。楠弥は長男(姉2人あり)で、家族で唯一の男児だった。1歳年下の従姉妹と結婚して19歳(満年齢か数え年かは不明)のときに長男をもうけている。
浅野 順平(あさの じゅんぺい、1856年1月21日(安政2… 浅野 順平(あさの じゅんぺい、1856年1月21日(安政2年12月14日) – 1925年(大正14年)9月23日)は、日本の衆議院議員。 加賀国河北郡高松村(現在の石川県かほく市)に浅野平七の五男として生まれ、1880年(明治13年)より石川県会議員を6期務めた。1885年(明治18年)、第四高等中学校(のち第四高等学校、金沢大学の前身)の設置にあたって、北陸四県連合会議員に就任し、金沢への誘致を成功に導いた。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は8回を数えた。 また、金沢電気株式会社取締役、北陸新聞社長などを兼ねた。
長尾 四郎右衛門(ながお しろうえもん、1856年1月19日… 長尾 四郎右衛門(ながお しろうえもん、1856年1月19日(安政2年12月12日)- 1916年(大正5年)1月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。 のちの岐阜県武儀郡菅田村(現下呂市)出身。漢学を修める。長尾信七郎の長男として生まれ、1876年(明治9年)5月に家督を相続する。家業の製糸業を発展させ濃武会社を設立し同社長を務めた。菅田町会議員、武儀郡会議員、岐阜県会議員、同常置委員、相続税審査委員、所得税調査委員、地方森林会議員などを歴任したほか、濃飛農工銀行発起人に名を連ね同頭取を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。
鄭 永昌(てい えいしょう、 1856年1月18日(安政2年… 鄭 永昌(てい えいしょう、 1856年1月18日(安政2年12月11日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、日本の外交官。義和団事件時に天津領事を務めるなどした。先祖は明末に日本へ帰化した華僑で、代々唐通事を務めた鄭氏の出身。 1856年(安政2年)1月18日(旧暦12月11日)、肥前国長崎に生まれる。父は唐通事呉家から鄭家の養子となった外交官の鄭永寧(呉右十郎)。弟に同じく外交官の鄭永邦がいる。 1870年(明治3年)、外務省官費生となり外務省漢語学校に入学した。1872年(明治5年)、父の清国出張に伴って天津で北京語を学んだのち、上海で南京官話を学んだ。帰国後再び官費生を命じられた。
武富 時敏(たけとみ ときとし、1856年1月16日〈安政2… 武富 時敏(たけとみ ときとし、1856年1月16日〈安政2年12月9日〉- 1938年〈昭和13年〉12月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。第1次大隈内閣書記官長、第2次大隈内閣逓信大臣および大蔵大臣。佐賀藩出身。幼名は元吉郎。唇堂と号した。 佐賀藩士・武富良橘の長男として佐賀に生まれる。明治維新後、一旦上京して英学を学ぶが、後に帰郷して独学の後に塾を開く。佐賀の乱に参加するものの、首謀者ではなかったために無罪放免となった。1878年(明治11年)に家永恭種らが開校した私立中学校「戊虎義学」で教師を務める。 その後、再び上京して大学南校で学んだ。副島種臣と出会い、1882年(明治15年)の九州改進党の結成に参加し、「肥前日報」を創刊。
小林 七朗(こばやし しちろう、1856年1月9日(安政2年… 小林 七朗(こばやし しちろう、1856年1月9日(安政2年12月2日)- 1909年(明治42年)10月31日)は、明治期の地主、醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。 甲斐国巨摩郡河原部村(山梨県北巨摩郡韮崎町を経て現韮崎市)で、大地主で屋号「布屋」として知られた豪商の家に生まれた。醤油醸造業、酢味噌製造業を営んだ。 1884年(明治17年)山梨県会議員に選出された。峡北政界で反自由党の中心となり、県内の地主派の指導者として活躍した。1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙で山梨県第1区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 実業界では、韮崎銀行取締役、第十銀行監査役などを務めた。
湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年… 湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年12月1日) - 1925年(大正14年)9月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。
久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11… 久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11月28日〉 - 1919年〈大正8年〉11月21日)は明治時代から大正時代にかけての日本の化学者。理学博士。 東京大学理学部・医学部教授、第一高等学校校長、東京化学会(後の日本化学会)会長、京都帝国大学理工科大学長、京都帝国大学総長。帝国学士院会員。専門は有機化学。業績にベックマン転位の研究など。 1855年(安政2年)、代々津山藩の藩医を勤める久原家の9代・宗甫の息子として現在の津山市に生まれた。なお躬弦は化学者になったが、弟が医師となって父の後を継いでいる。津山藩の藩校で漢文や数学を、1868年(明治元年)からは箕作麟祥の塾で英語を学んだ後、1870年(明治3年)に全国から集められた貢進生の一人として大学南校(後の東京大学)に入学した。
遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政… 遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政元年12月12日)- 1931年(昭和6年)12月12日)は、明治から大正期の日本の警察官、政治家。衆議院議員(5期)、宮城県桃生郡広淵村長。旧姓は村上、号は李楊。 陸奥国桃生郡赤井村(宮城県桃生郡深谷村、赤井村、矢本町を経て現東松島市赤井)で、仙台藩陪臣・村上東八郎の二男として生まれた。警部補、陸軍少尉試補兼小警部、伊豆七島巡視を歴任。 桃生郡北村湖崎(現石巻市北村)の遠藤温の門下に入り、その婿養子となる。1893年(明治26年)遠田郡と桃生郡・牡鹿郡の農民間で水利紛争(遠桃事件)が起こり、遠藤は桃生・牡鹿側の首謀者として入獄した。その後、初代広淵村長に推されて就任し、その他、石巻村会議員、同副議長、深谷村会議員、広淵村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた。