吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年… 吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年)3月5日 - 1978年(昭和53年)4月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。初代自衛艦隊司令。最終階級は海軍大佐、海将。 農業を営む吉田蔵之介の三男として生まれる。旧制福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、海軍兵学校第50期入校。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業。海軍大学校(甲種32期)卒業。海軍での最終階級は海軍大佐(軍務局第三課長)。 終戦に伴い旧海軍省は解体されたが、復員に必要な人事情報に精通していたため、第二復員局に引き続き勤務。この頃から、職務上接していた情報と人脈を用い、勤務時間外に「新海軍」再建計画を画策する。
飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996… 飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996年1月5日)は、日本の映画評論家・詩人。旧姓:吉田。 東京府生まれ。父の吉田平太郎は豊後国出身で日露戦争で活躍した陸軍中将だったが、退役後に毛皮商として一旗揚げるべくモンゴルに渡り、そこで部下に騙されて零落し日本に帰国、持ち家を手放し、都内を転々とした。のち茨城県の愛人の元に移り、釣りに明け暮れ、肝臓病で亡くなった。母方の祖父の池上正路は銀座の大手広告代理店「正路喜社」(しょうじきしゃ)の創立者。平太郎には離婚した先妻との間に子がいたため、正の実母ヤス(安子)は先妻の子に気を遣い、正を自分の兄(正の母方の伯父)の養子に入れ、飯島姓とした。
安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 19… 安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 1970年9月12日)は、昭和時代の彫刻家。福岡県美術協会理事長。
増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月… 増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月5日 - 1981年(昭和56年)12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学名誉教授。仏教学専攻。 福井県福井市出身。駒澤大学仏教学部卒。同研究科卒。文学博士。駒澤大学仏教学部教授、駒澤大学短期大学部長を歴任。
鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 19… 鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 1972年6月11日)は、日本の洋画家。神奈川県中郡須馬村(現在の平塚市)生まれ。本名は正夫。 茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。 砂を混ぜた渋い色調の絵具を厚く盛り上げたのち、それをノミで削り取る技法を好んで用い、単純な構成とざらざらとした絵肌の重厚な質感により、雅趣に富む味わいと気品を湛える画風を確立した。この技法には、鳥海がたびたびアジア諸国へ旅行した際に見た土が影響しているとも考えられる。また彼の茶を基調にした作品は、日本の油彩画の一典型とも見なされている。
一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4… 一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4日 - 1953年〈昭和28年〉ごろ)は、日本の物理学者。 1902年、熊本県玉名郡小田村に生まれる。熊本県立玉名中学校(1919年卒業、同級生に宮崎世民がいる)、旧制第五高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 京大卒業後は南満洲鉄道に勤務し、1927年より旧制名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の教授となり、1941年に従五位に叙された。 主著に『誤差論』(培風館、1953年)がある。
高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 198… 高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 1984年5月14日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。山口県出身。 1929年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に富士電機製造に入社。1947年に富士通信機製造に転じ、1949年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1970年5月に社長に就任した。1974年11月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章。 1984年5月14日、脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35… 久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35年)3月2日 - 1977年(昭和52年)7月14日)は、日本の外交官。外務省参与やカンボジア国最高顧問、駐南ベトナム大使を務めた。 和歌山県出身。進路に海軍兵学校か外交官か悩んだ末に外交官を志し、1924年に東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。同校を中退し、外務省入省。 1953年(昭和28年)に日韓会談で日本側首席代表を務めた。その後、在メキシコ特命全権大使を務め、1957年(昭和32年)の帰任時には、メキシコ国内の事情を昭和天皇に進講した。さらに在南ベトナム特命全権大使等を務めた。 妻清子は石井菊次郎(元外務大臣)の子。 日韓基本条約に向けての日韓会談で、韓国併合が結果的にインフラ投資等で韓国の生活水準向上に貢献したと発言し、韓国から「久保田妄言」として反発された。
小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 198… 小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 1980年4月10日)は、日本の経済学者。上智大学名誉教授。 1902年、神奈川県横浜市で生まれた。1926年に東京帝国大学法学部を卒業。1929年、東京帝大大学院卒業。帰国したばかりの岩下壮一神父が東京帝大で試みていた「カトリック研究会」に出席したことで、岩下神父を知る。同師の影響を受けて、1931年に上智大学内でヨハネス・クラウス神父より洗礼を受けた。1938年より上智大学経済学部教授。1940年の10月8日より、興亜院の要請を受けた岩下神父と共に秘書として華北地方を視察し、同年11月11日に東京に帰還。1954年より上智大学経済学部長を務めた。
河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979… 河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979年2月2日)は、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)出身の政治家。 1948年(昭和23年)から死去する1979年(昭和52年)まで小国町長を務め、1963年(昭和38年)10月から1978年(昭和38年)10月まで8期15年間に渡って全国町村会長を務めた。町長時代には給与など一切の報酬を辞退した。また、1957年(昭和32年)から自由民主党熊本県連会長も務めた。 1902年(明治35年)3月1日、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)に生まれ、旧制鎮西中学校を卒業した。 生家は造り酒屋の河津酒造であり、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に小国町議会議員に就任すると、戦後の1948年(昭和23年)には小国町長に就任した。
児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4… 児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4月22日)は、日本の哲学者、歌人。東洋大学名誉教授。 静岡県浜松市出身。1928年東京帝国大学文学部哲学科卒。数理哲学を専攻し,1952年東洋大学教授、同東洋学研究所長、名誉教授。佐佐木信綱に師事し『心の花』に所属、のち1930年「短歌表現」を創刊して口語自由律の作風をうちたてる。戦後は「文芸心」を主宰した。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不明)は、日本の経営者。神戸電鉄社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。濱地甚兵衞の三男として生まれ、小林長兵衛の養子となる。1925年に法政大学経済科を卒業し、ロンドン大学を経て、1930年12月に神戸有馬電気鉄道に入社し、取締役にも就任。1938年1月に専務を経て、1946年4月に社長に就任し、1949年4月から1960年3月までに神戸電鉄社長を務めた。 アメリカ合衆国総領事ハンター・シャープの住宅を1944年に取得し、1980年に「小林家住宅(旧シャープ住宅)」という名称で重要文化財に指定される。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
櫻井 成廣(さくらい なりひろ、1902年(明治35年)3月… 櫻井 成廣(さくらい なりひろ、1902年(明治35年)3月 - 1995年(平成7年)12月7日)は、哲学者で青山学院大学名誉教授。工部省官僚長野桂次郎の外孫。 教師櫻井成明の長男として東京府に生まれる。東京帝国大学文学部哲学科を卒業。青山学院大学で、哲学、論理学の教授をしていたが、城郭研究者として広く知られていた。大坂城、伏見城、聚楽第など豊臣秀吉の築いた城の専門家だった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月… 山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月31日 - 1981年(昭和56年)11月25日)は、昭和期の作曲家。岐阜県養老町出身。 東洋音楽学校ピアノ科卒業。 1921年(大正10年)、 松竹映画管弦楽団にピアノ奏者として入団。昭和の初期に、杉山長谷雄に師事し、作曲の勉強を始める。その後、松竹を退社し、フリーの作曲家になる。1945年(昭和20年)、キングレコード専属作曲家となる。 1955年(昭和30年)、作詞家藤間哲郎と組み、三橋美智也の初ヒット曲「おんな船頭唄」を作曲した。以後、三橋美智也と共に「佐渡おけさ」「ソーラン節」「花笠音頭」等多くの歌謡民謡も世に送り出す。その後も、「男のブルース」や「長良川旅情」などヒット曲を作曲した。
門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年… 門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の実業家、政治家、宗教家。 学習院大学名誉教授門脇卓爾の父。 鳥取県西伯郡所子村(現:大山町)の豪農の家(門脇家住宅として現存)に生まれる。父・門脇才蔵、母・チヨノの長男。米子中学校を経て、大正13年(1924年)京大修了。 所子村産業組合長、所子村農会長、所子村長を経て米子銀行取締役、鳥取県産業組合連合会理事米子支所長、米子銀行常務取締役を歴任した。1941年(昭和16年)合併により山陰合同銀行取締役に就任した。その後、1946年(昭和21年)に常務取締役となった。1959年(昭和34年)11月6日の株主総会で常務取締役を退任した。
中野 文門(なかの ぶんもん、1901年3月30日 - 19… 中野 文門(なかの ぶんもん、1901年3月30日 - 1988年10月9日)は、日本の政治家。神戸市会議員、兵庫県議会議員、参議院議員(2期)を歴任した。政界引退後は神戸森学園(現在の神戸学院)理事長を務めた。寺院の出身で、福海寺住職の経歴も持つ。 大分県大分郡鶴崎町(現・大分市鶴崎)に、東厳寺住職の長男として生まれる。 1927年に日本大学専門部社会科を卒業後、東京府職員となる。1933年、神戸市会議員に当選。その後、戦争を挟み、神戸市会議員と兵庫県議会議員を同時に務める。(当時は市議と県議の兼任が可能であった。)神戸市会では1947年、兵庫県議会では1955年にそれぞれ議長に就任した。 義務教育を無償とすべきであるとの信念に基づき、清瀬一郎を弁護士として憲法違反訴訟を展開し、大審院で勝訴した。
尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年… 尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年)3月29日 - 1973年(昭和48年)7月24日)は、日本の漁業家、政治家、参議院議員、自由党所属、栄典は正五位・勲三等・瑞宝章・藍綬褒章、幼名は昌作。
羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月… 羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、190… 晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、1901年3月29日 - 没年不詳)は、大韓民国の法曹、政治家。制憲韓国国会議員。 親族に国会議員が多い。李坰鎬は娘婿、李玲愛(朝鮮語版)は外孫娘、金賛鎮(朝鮮語版)はその夫、孫周恒は甥(姉妹の息子)。 全羅北道任実郡出身。京城中学校、京城法学専門学校、普成専門学校、明治大学高等研究科卒。1922年に日本の弁護士試験に合格後は弁護士を開業した。解放後は大韓独立促成国民会所属の国会議員のほか、大韓独立促成国民会任実郡支部委員長、任実警察後援会長、任実公立国民学校後援会長、任実郡畜産協会長、任実郡厚生協会副会長などを務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙では民国党から出馬したが、当選できなかった。
玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 -… 玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 - 1975年10月25日)は、和歌山県海南市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名山村 佐太郎(やまむら さたろう)。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重105kg。得意手は押し。 1920年1月場所初土俵、1925年1月に十両昇進、一時幕下に陥落したが、1928年3月新入幕をはたした。横綱・宮城山福松に強く、金星を3個獲得している。1932年1月、春秋園事件で脱退。1937年末の関西協会の解散まで現役を続けた。 徹底した押し相撲で、指が変形したほど稽古に打ち込んだ。生涯四つ相撲になったのが二番、打っ棄りを食らったことは一度もなく、「相撲の神様」と呼ばれた幡瀬川が絶賛していた。
王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 199… 王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 1995年8月19日)は、日本の精神医学者。 福岡県議会議長、福岡市議会議長などを歴任した牛乳商・王丸代吉の長男として、福岡県久留米市に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制第六高等学校を経て、1926年、九州帝国大学医学部を卒業し下田光造教授の精神科に入局する。 1929年10月、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)神経精神医学講座開設に際して初代教授に就任し、1946年3月久留米医科大学教授、1950年4月久留米大学医学部教授となり、後に久留米大学医学部長を2期務めている。日本精神神経学会会長、日本精神分析学会会長、九州精神神経学会会長を歴任する。
佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)… 佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)3月27日 - 1943年(昭和18年)5月24日)は、日本の翻訳家。 石川県小松市生まれ。小松中学校を経て金沢第一中学校に転じ、四年修了で第四高等学校に進む。1925年、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。同大学院を経て、日本大学で短期間教える。 1931年9月から1932年11月にかけて第一書房より刊行された『エドガア・アラン・ポオ小説全集』を訳出。ポーの本格的翻訳として注目を浴びる。その他、ロバート・ルイス・スティーヴンスン『宝島』『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』、チャールズ・ディッケンズ『二都物語』などの訳書がある。肺炎で急死。
佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治… 佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。「政界の団十郎」「早耳の栄作」の異名を持ち、内閣総理大臣として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。7年8か月の連続在任記録を持ち、「人事の佐藤」と評された。ノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。吉田学校の代表格。
小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 196… 小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 1969年8月18日)は、日本の経営学者、会計学者。 神奈川県横浜市生まれ。1928年慶應義塾大学経済学部卒、1929年同助手となり、欧米留学を経て1937年助教授、1939年教授、1948年「企業に於ける資本計算制度の発展」で経済学博士の学位を取得。1963年商学部長。1969年定年となり、名誉教授。
太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 -… 太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 - 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。
寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23… 寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23日 - 1983年(昭和58年)5月21日)は、日本の実業家、銀行家。寿原産業、北洋相互銀行(現在の北洋銀行)社長を務めた。 石川県出身。1924年に小樽高等商業学校を卒業。1925年に三井銀行に入行。 1947年に寿原産業社長に就任し、1957年から1971年まで北洋相互銀行社長を務めた。 1983年5月21日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月… 川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月21日 - 1980年(昭和55年)8月6日)は、日本の外交官。甲府市長。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)で父「広瀬久政」、母「さと」の四男として生まれる。七里尋常小学校、旧制日川中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官(外交科)試験に合格後、大正13年(1924年)に外務省に入省、大正15年(1926年)にワシントン日本大使館、昭和2年(1927年)にロサンゼルス日本領事館、昭和3年(1928年)外務省アジア局、昭和8年(1933年)スイス・ベルン日本公使館、昭和9年(1934年)外務省調査部、昭和14年(1939年)に興亜院調査官を務め、昭和22年(1947年)に行われた山梨県知事選挙に出馬するが落選。
福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - … 福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - 1977年6月13日)は、日本の出版実業家、作家。 北海道小樽市生まれ。松本高等学校文科甲類を経て東京帝国大学社会学科卒。 報知新聞記者などを経て、1943年3月に『日本読書新聞』の発行元であった日本出版文化協会から改組された出版統制組織「日本出版会」の総務部次長兼編集室長となる。同紙は敗戦を待つまでもなく物資の不足と編集部員の応召などにより、1945年5月に休刊した。同年3月には出版用紙の確保のために一括して用紙を荷受する機関として「日本出版助成株式会社」が設立され、同社専務に就任。1946年、同社を日本出版協同株式会社に改組した後に社長に就任した。
吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21… 吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21日 - 1983年(昭和58年)2月6日)は、日本の大正・昭和期の社会主義運動家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)出身。静岡県立静岡中学校を経て、1923年(大正12年)、東京外国語学校ロシア語科を中退した。在学中、社会問題研究会を創立、学生連合会に加盟。またML会に入会する。中退後は静岡で青年運動に身を投じる。 1925年(大正14年)、無産政党組織準備静岡県協議会常任書記となる。1927年(昭和2年)、全日本無産青年同盟中央常任書記となり、また日本共産青年同盟に加入した。1928年(昭和3年)三・一五事件で検挙され懲役3年に処せられた。
永井 健三(ながい けんぞう、1901年〈明治34年〉3月2… 永井 健三(ながい けんぞう、1901年〈明治34年〉3月21日-1989年〈平成元年〉7月17日)は、宮城県出身の通信工学者。昭和11年母校東北帝大の教授となり、31年東北大電気通信研究所長。39年東北学院大学教授。テレビの伝送機器、磁気記録機器の研究で知られる。学士院会員。紫綬褒章。 録音技術、交流バイアス方式を発明し、五十嵐悌二とともに国産初のテープレコーダーを開発。交流バイアス法は、データを再生した際の雑音やひずみを抑えることができ、これによって、音声データの長時間録音は実用段階となった。 1925年、東北帝国大学工学部電気工学科を卒業。同時に同大学講師に就任し、抜山平一教授に師事。任官以降、39年にわたって大学在職、その間29年教授、大学附置の電気通信研究所にも30年余兼務。
吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1… 吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1980年2月27日)は、日本の銀行家。近畿銀行社長を務めた。 栃木県宇都宮市出身。1927年に法政大学専門部法科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1944年に近畿無尽に転じ、1945年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1967年4月に会長を経て、1972年には相談役に退いた。 1964年に黄綬褒章を受章し、1971年に勲四等瑞宝章を受章。 1980年2月27日、脳動脈硬化症のために死去。78歳没。
中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 19… 中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 1996年3月30日)は、日本の英文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、1921年早稲田大学高等師範部英語科卒業。早稲田中学校専任教諭となり、46年まで務める。戦後47年母校講師、48年助教授、49年早大教育学部教授、71年定年退任、名誉教授。多くの翻訳をおこなった。
島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20… 島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20日 - 1993年(平成5年)4月20日)は、日本の比較文学者、英米文学者。文化功労者。日本学士院賞受賞。 1901年、東京府で生まれた。東北帝国大学英文科で学び、卒業。 卒業後、英文学者の矢野峰人に見込まれて、台北帝国大学講師となった。講師の期間は17年に及んだ。若き日は英国詩を専門としたが、他のヨーロッパの国々や日本の詩歌に関心を深めていった。 戦後の引き揚げ後は、第一高等学校教授に就いた。1949年の新制大学移行後は、東京大学教養学部教授。新設された大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり、平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた。
松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo F… 松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官(政務担当)、明治大学教授などを歴任した。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ。アメリカに落ち着くまもなく父が他界。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した。
高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月… 高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月19日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、最後の官選長崎県知事。 静岡県出身。高橋栄蔵の養子となる。第二高等学校を卒業。1924年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、内務省に入省し京都府書記となる。 以後、京都府社会課長、鳥取県警察部保安課長、同特別高等課長、熊本県学務課長、同庶務課長、神奈川県庶務課長、愛媛県書記官・警察部長、静岡県書記官・経済部長などを歴任し、1942年10月31日、陸軍司政官に就任。1943年3月から1944年12月まで第16軍軍政監部付・スラバヤ市長を務めた。
中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1… 中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1984年8月4日)は、日本の政治家、弁護士、第57代衆議院議長(在任期間、1972年12月22日 - 1973年5月29日)。長男は元衆議院議員の中村靖。 東京府北豊島郡下練馬村(現、練馬区練馬)出身。農家の次男に生まれる。 1923年、法政大学専門部法科を卒業。大学在学中は法政大学弁論部に所属していた。三木武吉法律事務所で弁護士修業を始めたのが政治に関わるきっかけとなる。1928年に東京府会議員、1936年に立憲民政党から衆議院議員に初当選。以後通算当選12回。三木武吉の直系として行動を共にする。 1946年から1951年まで公職追放。
岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - … 岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - 1982年10月17日)は日本の教育家。戦後新制中学発足時に活躍した。「火の国旅情」を作詞作曲した岩代浩一は長男、現在活躍中の作曲家岩代太郎は直系の孫(浩一の長男)で、元日本テレビアナウンサーで現フリーアナウンサーの松本志のぶは太郎の妻にあたる。 1901年、熊本県南阿蘇の素封家の二男に生まれた。父一吉は漢学者、郡会議員も務める。1916年熊本第二師範学校入学,阿蘇郡長陽小学校訓導をへて、1924年東京高等師範学校入学。熊本県立人吉中学校教諭、その後旧大阪府立今宮中学教諭を経て、大阪府立汎愛中学校教頭になった。1945年、熊本に帰郷。熊本県立第二高等女学校、女子師範学校教頭をへて、1946年小国高等女学校校長。
田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3… 田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県那賀郡今市村丸原(現浜田市旭町丸原)で、酒造業・田中勝聴の長男として生まれる。島根県立浜田中学校を経て、1923年(大正12年)鹿児島高等農林学校を卒業。その後、家業を継いだ。今市村会議員を務めた。日中戦争で応召して足かけ4年間従軍し、陸軍歩兵中尉に昇進した。 1942年(昭和17年)3月、島根県会議員に当選し、帝国在郷軍人会那賀郡連合会分会長も務めた。同年4月、第21回衆議院議員総選挙に非推薦で島根県第2区から出馬して当選し翼賛政治会に参加。
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日… 光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日)は、日本の俳優である。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である。 1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる。 当初舞台劇の俳優であったが、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。
小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3… 小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3月14日 - 1946年(昭和21年)2月10日)は、日本の小説家、推理作家、秘境冒険作家。本名:小栗 栄次郎(おぐり えいじろう)。東京都千代田区外神田出身。 漢語カタカナルビと西洋の知識に彩られた、極度のペダントリー(衒学趣味)的作風で著名。代表作は、デビュー作『完全犯罪』、推理小説の三大奇書の一つといわれる『黒死館殺人事件』、秘境探検小説の連作『人外魔境』など。 1901年3月14日、東京市神田旅籠町(現・東京都千代田区外神田)で生誕。生家は代々の酒問屋の小田原屋の分家であった。父親は1911年に死去しているが、本家からの仕送りや貸家の賃貸収入のため生活には困らなかった。
松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 19… 松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 1976年4月15日)は、日本の評論家、英文学者である。 東京生まれ。青山学院英語師範科卒業。1927年、平凡社に入社し、『新興文学全集』の編集を通じてプロレタリア文学運動に接近。日本プロレタリア作家同盟やプロレタリア科学研究所に参加してアメリカ文学の紹介をすると共に、『プロレタリア英語入門』(鉄塔書院、1932年)などを著した。 のち日本評論社に移るが、1944年横浜事件で逮捕され、敗戦後釈放される。戦後は、日本民主主義文化連盟の創設に参加、日本ジャーナリスト会議副議長をつとめた。回想記『過去と記憶』(光和堂)で、多喜二・百合子賞を受賞した。
入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 19… 入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 1991年)は、日本の英文学者、翻訳家。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高校)旧制第六高等学校を経て、六稜学舎では詩人でもある山宮允に学び、1938年東京帝国大学卒業、市河三喜に学ぶ。アルフレッド・テニスン、ウォルター・スコットなどの翻訳で知られる。1962年まで法政大学教授、その後神奈川大学教授。1989年まで創価大学教授を務めた。
西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1… 西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1977年)は、昭和期の雑誌編集者。大日本雄辯會講談社(現・講談社)「少年倶楽部」の編集長を務め、のち常務、顧問を歴任。八王子市の曹洞宗信松院住職を務めた。 東京都生まれ。曹洞宗大学(今の駒澤大学)卒業。大日本雄辯會講談社入社。 「婦人倶楽部」などの編集を担当し、「少年倶楽部」の編集長を務めた。1956年1月31日、取締役就任。1964年1月28日に取締役(元常務)を退任し顧問。 1971年、児童文化功労者(日本児童文芸家協会)。1968年「追想の広川弘禅」(私家版)の編集を務めた。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3… 中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1970年〈昭和45年〉3月6日)は、日本の実業家。大洋漁業副社長。大洋漁業創業者中部幾次郎の三男。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の三男。1924年、神戸高等商業学校を卒業。中部農事、林兼商店各監査役、大洋捕鯨取締役、林兼商店、林兼工業各常務、林兼造船副社長同社長を経て1951年、大洋漁業副社長。1955年、林兼産業社長。1963年、長崎放送社長。1964年、藍綬褒章・紺綬褒章を受章。 宗教は浄土宗、仏教。趣味はゴルフ、将棋。住所は山口県下関市上田中町3丁目、同町1丁目、同市竹崎町、兵庫県明石市東魚町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月… 浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1981年〈昭和56年〉1月11日)は、日本の東洋史学者。 1901年、高知県で生まれた。東京帝国大学文学部で学び、1929年に卒業。 1930年、東北学院講師に就いた。1932年に東方文化学院東京研究所所員となり、東京帝国大学助教授に就いた。1943年より満鉄調査局嘱託。 戦後の1950年、山梨大学教授となった。1962年、学位論文『唐法上の賎民に関する基礎的研究』を京都大学に提出して法学博士号を取得。1966年に山梨大学を定年退官し、名誉教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3… 伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3月10日 - 1981年〈昭和56年〉6月12日)は、日本の運輸官僚・政治家。運輸事務次官に任じられたのち国政に転身し、参議院議員となり、防衛庁長官などを歴任した。 千葉県佐原町(現在の香取市)川岸に生まれる(ただし、本籍は同県中山村北方(現在の市川市北方)にあった)。 第四高等学校・東京帝国大学英法学科を経て、1926年(大正15年)に鉄道省入省(東鉄局書記)、1935年(昭和10年)より在外研究員として欧米各国の交通事情を調査、帰国後の1939年(昭和14年)には鉄道監察官に任じられる。 その後、1943年(昭和18年)運輸通信省書記官兼大臣官房文書室長、翌年には門司鉄道管理局長を歴任、戦後には運輸省鉄道総局長官となった。
沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 198… 沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 1982年4月)は、土木工学者、土木技術者、都市計画家。 大学卒業で即講師に任用されるなど頭脳明哲、豪放磊落、趣味も野球、ゴルフなどと多彩。昭和19年(1944年)蒙古聯合自治政府交通部次長として大同に赴任。その後同政府の技監、総務庁次長を経て昭和20年(1945年)には同政府総務庁長に就任、つまりこの時点で技術者出身で日本史上初の「一国の長」となっている。満州国や蒙古聯合自治政府の高官としてこれら地域の開発に尽力した功績は大きく、また面長な顔は当時「満洲三名馬」の一人に数えられた。 明治34年(1901年) 3月、文学博士沼田頼輔の次男に生まれる。
結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 196… 結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 1968年11月20日)は、日本の外交官。東京帝国大学法学部政治科卒業。外務省アメリカ局第一課長・同第三課長、通商局第三課長、スウェーデン公使、セイロン(現スリランカ)大使、トルコ大使などを歴任。日米交渉時の来栖三郎特命全権大使の随行員として渡米し、英米への日本側の情報漏洩元として名が挙がったことで知られる。 息子は結城弘隆。娘は結城美栄子。孫は岩城滉一の妻・結城アンナ。(結城美栄子は結城アンナの叔母) 福島県奥川村の農業・熊八の四男として生まれ、大正15年に高等試験外交科試験に合格し、昭和2年に東京帝国大学法学部政治科卒業後、外務書記生として英国、外交官補としてドイツに赴任、国際連盟の日本帝国代表者随員を務め、満州国、ポーランド在勤を経て、昭和15年末に外務書記官・叙高等官4等として外務省アメリカ局第一課長に就任、翌年10月には通商局第三課長、同11月に日米交渉のため急遽渡米した来栖三郎特命全権大使の随行員としてワシントンの日本大使館で事務方作業にあたった。
木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日… 木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日 - 2001年(平成13年)11月9日)は、大正から平成時代の日本画家。 16歳で松本楓湖に師事する。松本の没後は、荒木十畝の読画会に所属する。昭和4年に帝国美術院展覧会で入選し、昭和8年には「秋林」が特選を受賞する。荒木は昭和19年に没する。その後、伊東深水から鎌倉にあった自宅に招かれ、自身が顧問を務める日月社への入会を勧められるが、所属していた読画会を離れなかった。 東京都世田谷区に居住していた。