田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年… 田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1929年(昭和4年)1月5日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・虚堂、俳号・笑蛙。 讃岐国香川郡高松紺屋町(現香川県高松市紺屋町)で、富豪・田中仁八郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)に上京し、1892年(明治25年)専修学校理財科を卒業した。1893年(明治26年)3月、家督相続した。 帰郷して、高松銀行取締役を務めた。その他、高松商業会議所会頭、讃紙取締役、高松煉瓦取締役社長、第百十四銀行監査役、高松土地建物監査役、東京郊外土地監査役などに在任。また、讃岐実業新聞社の2代社長に就任し、讃岐日報社に改称して香川新報との競争を繰り広げた。
山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3… 山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3年2月25日) - 1945年)は、日本の実業家。公爵岩倉具視家の元家扶、日本郵船など多くの企業の役員を務め、三笠ホテルを創業した。 小浜藩士で岩倉具視の側近だった山本直成の二男として生まれる。東京帝国大学農学部卒業後、千歳海上火災再保険に入社。日本郵船監査、明治製菓役員などの要職を歴任。1897年(明治30年)丁酉銀行創立に伴い頭取に就任した。 長野県北佐久郡軽井沢町に三笠ホテルを建設している。大正11年には、南米企業組合代表者として、山科礼蔵を団長とする南米実業視察団に参加、翌年帰国。 妻の山本愛は有島武郎の妹。息子のひとりが指揮者の山本直忠。
本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治… 本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。 1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社の伊部喜作らが国産初の合金化に成功)の一種である磁石鋼という名称になっており、工具鋼が鉄鋼材料で最も硬い部類に属するので、これが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。
落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明… 落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明治3年2月21日) - 1926年(大正15年)6月4日)は、明治期から大正期の日本の外交官。ポーツマス会議・パリ講和会議に随員として、またローザンヌ近東和平会議やローマでの移民国際会議には首席全権となるなど、重要な国際会議に日本を代表し出席した。奉天総領事館の総領事や、イタリア国特命全権大使等も歴任し、ローマからの帰国途上船中で病没した。 落合謙太郎は、1870年3月22日(明治3年2月21日)、近江国浅井郡川道村(後の滋賀県東浅井郡大郷村、現・長浜市川道町)に落合孝平と母といの長男として生まれた。父は京都で岩垣月洲に学んでおり、学友には坂下門外の変を起こした河本正安がいた。
松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3… 松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3年2月18日) - 1933年(昭和8年)7月14日)は、劇作家、演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。 父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた。幼名は雄児、2歳のときに真玄(まさはる)と改めた。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。 1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城県尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。 1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び、1889年卒業した。
野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(… 野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(明治3年2月12日) - 1951年(昭和31年)8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福井県出身。1890年、東京専門学校政治科卒。日清、日露の両戦争に従軍し、陸軍歩兵大尉となる。農業を営み、坂井郡会議員、福井県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、坂井郡教育会長、福井県教育会副会長、同県救済改良協会副会長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において福井3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して落選した。1951年に死去した。
佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明… 佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1954年(昭和29年)4月29日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡神谷村長。旧姓・渡辺、横山。 陸奥国磐城郡泉崎村(福島県石城郡草野村泉崎、平市を経て現いわき市平泉崎)で、庄屋・渡辺市重郎の三男として生まれる。同郡大野村の横山家の養子となるが、事情により1884年(明治17年)同郡神谷村大字中神谷(平市を経て現いわき市平中神谷)の農業、酒造業・佐藤昌三郎の養子となる。大野小学校を経て神谷小学校を卒業。平中学校に進むが、同校が郡山中学校と合併して廃校となり中退。同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学を学んだ。
吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2… 吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1979年4月11日)は長寿日本一であった女性。晩年は大分県に居住していた。 現在の山口市に生まれる。広島市に移って呉服商の一人娘として育つ。結婚するも離婚し、2度目の夫とは死別した。子供はなく、1945年に広島で被爆し、1948年から大分県別府市の別府老人ホームに入所していた。好き嫌いはなく果物を好み、酒もたしなんだ。106歳時点でもトイレも入浴も介助なしで行っていた。 1976年9月発表の全国高齢者名簿では8位であった。 1977年8月、大阪府の川平小梅の死去により、107歳で長寿日本一の女性となり、1978年、新潟県の佐藤増太郎の死去により長寿日本一となる。
中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月… 中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。
国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(187… 国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(1870年3月4日) - 昭和28年(1953年)12月1日)は、日本の教育者。岡山市長。 備中国浅口郡鴨方(現在の岡山県浅口市)の高戸家に生まれ、岡山市の国富大三郎の養子となった。岡山県師範学校卒業後、岡山県下の小学校で校長を務めた。1904年(明治37年)に岡山実科女学校校長に就任し、1908年(明治41年)には岡山実科高等女学校(のち就実高等女学校に改称)を設立し、両校の校長を兼ねた。岡山県教育副会長、岡山市教育会長、帝国教育会理事を歴任。また県会議員、市会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1941年(昭和16年)、岡山市長に就任し、1944年(昭和19年)まで務めた。
血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3… 血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 1947年(昭和22年)2月24日)は、日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。また、野口英世のパトロンとして知られる。
梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2… 梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 没年不明)は、日本の発明家。旭光学工業(後のPENTAX)の創業者。 福岡県福岡薬研町(現・福岡市中央区天神)出身。旧制福岡中学校、京都画学校卒業。1894年(明治27年)から1906年(明治39年)まで宮崎県師範学校兼宮崎県立宮崎中学校教諭、佐賀県立第一中学校兼小城中学校教諭を歴任した。1906年に中国政府から招聘され蘇州高等師範学堂教習となり、1909年(明治42年)に南京高等学堂教習となり、1912年(明治45年)に辛亥革命が起きたため辞職し帰国した。 1919年(大正8年)に旭光学工業を創業した。
坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月… 坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月1日) - 大正14年(1925年)8月14日)は、日本の内務官僚、実業家。茨城県知事、石川県知事、新潟県知事。 長州藩一門家老吉敷毛利家の家臣である坂新一の子として周防山口に生まれ、高等商業学校(のちの一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退し、会計検査院入庁。検査官補を務める。 内務省参事官、神奈川県事務官・第一部長兼第三部長などを経て、1908年10月、茨城県知事、1912年12月、石川県知事、1914年4月、新潟県知事を歴任。 1916年、藤田組常務理事、同年同社総務理事。1918年、小坂鉱山事務所長兼務。藤田銀行設立を決定。1916年に社長に進言し柵原鉱山の買収を決断させる。
五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日… 五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日(明治3年1月29日) - 1925年4月3日)は、千葉県夷隅郡江場土村(現在のいすみ市)出身で宮城野部屋、勝ノ浦部屋に所属した力士。6代宮城野。世話人。本名は佐久間 菊太郎。最高位は東前頭8枚目。 京都相撲に在籍経験がある。1896年1月初土俵、1906年1月十両昇進。1907年1月には高見山酉之助らとともに入幕を果たした。この時37歳。しかし、在位はわずかに4場所で、現役晩年は番付が次第に下がり、最終的には三段目にまで陥落してしまい、1913年5月に引退して親方業に専念(すでに二枚鑑札だった)。1916年1月には廃業し、世話人に転じた。
松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3… 松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3月 - 昭和7年(1932年)6月9日)は、日本の教育心理学者。 東京府東京市神田区で松本孝八の子として生まれる。1888年(明治21年)、第一高等中学校に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。同年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、1896年(明治29年)に卒業。同大学院で心理学を専攻し、元良勇次郎の指導を受けた。1899年(明治32年)、東京高等師範学校の講師となり、翌年には教授に就任した。また高島平三郎とともに雑誌『児童研究』を発行した。 1906年(明治39年)に両江師範学堂に総教習として招かれるが、辛亥革命後に帰国した。
矢島 栄助(やじま えいすけ、1869年3月30日(明治2年… 矢島 栄助(やじま えいすけ、1869年3月30日(明治2年2月18日) - 1947年(昭和22年)9月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家・実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は富吉。 先代矢島栄助(1836-1905)の長男としてのちの山梨県甲府市緑町に生まれ、1899年(明治32年)7月に家督を相続する。1905年(明治38年)襲名する。東京共立学校を経て、東京専門学校を卒業する。1905年(明治38年)10月、甲府市会議員に当選したのを皮切りに、同市参事会員、同市会議長を歴任する。1911年(明治44年)山梨県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1915年(大正4年)1月14日まで在任した。
塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2… 塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2月15日) - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の建築家。東京帝国大学において建築意匠・装飾・工芸の研究・指導に当たった。号は「准亭」。 1869年、京都生まれ。1893年、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、明治美術学校講師嘱託となった。 1899年、東京帝国大学工科大学助教授に採用。採用後、1899年から1902年にかけてヨーロッパへ研究留学した。その後も、1906年から1908年にかけての工芸品意匠調査のため清国出張、1909年には日英博覧会のためのイギリスに派遣されている。1920年、同校教授に昇進。1920年より工学部部長を務めたのち、1929年に退官し、名誉教授となった。
原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(186… 原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(1869年3月24日) - 昭和10年(1935年)10月9日)は、日本の実業家。東京書籍初代会長。 岐阜県羽島郡生まれ。同人社、高等商業学校(現一橋大学)を経て、ダリッジ・カレッジ卒業後、1886年にイギリスのサミュエル商会に入社。1892年同社横浜詰仕入部主任。1900年に父・原亮三郎が創業した金港堂書籍の社長を継いだが、1902年に教科書疑獄事件で偽証罪及び証拠隠滅罪の容疑で逮捕された。1909年東京書籍を創立し、初代会長に就任。1917年日本製紙発起人総代。1918年日本製紙会長。1921年日本製紙相談役。 父は金港堂書籍創業者の原亮三郎。
荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869… 荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869年3月22日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、和歌山県生まれの浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者。日本のサンスクリット語研究、サンスクリット文献に基づいた仏教研究の先駆者であり、大成者である。 1869年(明治2年)、和歌山県に生まれ、当時浄土宗の重鎮であった荻原雲台の養子となる。1896年(明治29年)、浄土宗学本校(のち真言宗豊山・智山派、天台宗と合同し宗教大学を経て現・大正大学)を優秀な成績で卒業。1898年(明治31年)よりドイツのカイザー・ヴィルヘルム二世大学に留学、サンスクリット語研究の泰斗エルンスト・ロイマンに師事する。
上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
小川 尚義(おがわ なおよし、明治2年2月9日(1869年3… 小川 尚義(おがわ なおよし、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和22年(1947年)11月20日)は明治から昭和前期の言語学者、台湾語と台湾諸語研究者、辞書編纂者。台北帝国大学名誉教授。 1869年(明治2年)2月9日(新暦では3月21日)、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市勝山町)に士族・丹下尚逸・ムラの三男として生まれる。1872年(明治5年)5月、松山・御宝町77番地(現在の松山市一番町2丁目3番)の小川武一の養子になる。1883年(明治16年)、松山中学を卒業する。1887年(明治20年)9月、第一高等中学校予科に入学。正岡子規と親しくなる。しかし1889年には脚気のため一時休学、留年。
白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年… 白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和29年(1954年)7月25日)は、日本の教育者。人間環境大学附属岡崎高等学校の創立者。三河地方における女子教育の先駆者である。旧姓は山本。 田原町長を1901年(明治34年)から15年間務めた山本右太郎は次兄。 三河国田原(現在の愛知県田原市)に田原藩士山本源善の長女として生まれる。1888年(明治21年)1月、近所の田原小学校で教員に欠員が生じたため、校長から兄を通じて「代わりをやってもらえないか」との申し出を受ける。白井は1月から5月まで「渥美郡役所雇教員」の辞令で田原教学校の教壇に18歳で立つことになった。
遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2… 遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2年2月8日) - 1939年(昭和14年)3月17日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員。 信濃国諏訪郡、後の中洲村(現長野県諏訪市)で遠山嘉藤治の長男として生まれる。北海道開拓を志し、1897年に河西郡芽室村に移住。 馬鈴薯、粟、麦などの作物を栽培するとともに、水田の開発を推進し、養蚕の導入などを行う。芽室農会評議員、同衛生組合長、北海道蚕糸会評議員、河南土功組合議員、北海道地方種繭審査委員、十勝六郡農会評議員、十勝郡農会副会長、北海道農村産業組合評議員などを務めた。 政界では、芽室村会議員、同学務委員、所得税調査委員、北海道会議員を歴任。
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1… 真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日)は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。 福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵(しょうじゅん)。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の龍華教校で七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。 1897年(明治30年)10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞『教学報知』を創刊。1902年(明治35年)、報道範囲を拡大し『中外日報』と改題。
高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2… 高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2年1月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉12月11日)は、日本の実業家、政治家、資産家、弁護士。 衆議院議員(当選6回)。法律新聞社長。尾西鉄道社長。法政大学総務部長、同大理事。従五位勲三等。族籍は東京府平民。 1869年1月25日、東京に生まれる。高木益喜の長男。幼少の頃、日本橋元浜町の尾張屋質店の丁稚小僧に出される。当時知人某が法律の不知からある高利貸しのためさんざんな目に遭わされたことに憤慨し、「弱者の味方となり、正義公正な権利擁護に尽くそう」と心機一転して法律の勉強を志す。 銀行に勤めるかたわら東京法学校(現・法政大学)に通学し、1887年に卒業する。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明… 浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明治2年1月24日) - 1949年(昭和24年)2月10日)は、日本の実業家、政治家。憲政会・立憲民政党所属の衆議院議員。 甲斐国巨摩郡、後の北巨摩郡大泉村(現山梨県北杜市大泉町)で浅川荘衛の長男として生まれる。1883年4月に上京し明治学館で学ぶ。1886年に卒業して帰郷し、農蚕、酒造業を営むが成功せず、1890年、御料局雇となる。 1893年、北海道に移り上川郡旭川村戸長役場筆生に就任。以後、高鷲村戸長、旭川町会議員、同区会議員、旭川市会議員、北海道会議員、北海道教育会地方委員、旭川教育会理事、旭川精米社長、旭川酒造社長、北海畜産社長などを務めた。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2… 田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2年1月22日)- 1922年(大正11年)12月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 のちの香川県三野郡桑山村(三豊郡桑山村、豊中村、豊中町を経て、現在の三豊市豊中地区)に生まれる。農業を営む傍ら、桑山村会議員、三豊郡会議員、同参事会員、同副議長、香川県会議員、同参事会員、県農会副会長を歴任する。実業家としては讃岐土管取締役、香川県蚕糸同業組合連合会長を務める。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では香川県郡部から憲政会所属で出馬し当選。1期務めた。
市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3… 市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3月28日) - 昭和16年(1941年)1月1日)は、備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市)出身の教育者、学校の設置者。女子産業教育の先鞭者。広島県立尾道商業高等学校、名古屋経済大学市邨中学校・高等学校、名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校創立者。 備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市久保町)生まれ。16歳で上京し、1887年(明治20年)に東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業。 尾道に帰郷後、20歳のとき私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を開校し、1898年(明治31年)の広島県への移管後も引き続いて校長を務めた。 1893年(明治26年)、招かれて愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)に赴任、教諭後校長としてその発展に尽力した。
松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応… 松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応4年3月5日〉- 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の外交官、政治家。男爵。大阪府出身。松井保蔵二男。 妻の照子は西日本の鉄道王と呼ばれた実業家の今村清之助の娘。長女に日本の洋裁教育と服飾デザインの礎を作った田中千代、二女・貞子は安川電機社長の安川寛(安川敬一郎孫)の妻。長男はフランス大使となった松井明。慶四郎の死後、長男の明は襲爵手続をしなかった。
犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶… 犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶応4年3月4日〉 - 1949年〈昭和24年〉7月2日)は、日本の内務・逓信官僚、政治家。府県知事、衆議院議員、貴族院議員、錦鶏間祗候。 庄内藩士・犬塚盛巍の長男として生まれる。大学予備門を経て、1889年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業。内務省に入り同7月23日内務試補(年俸六百円下賜)として県治局に配属された。 1890年(明治23年)6月4日、内務大臣秘書官(西郷従道大臣)となる。以後、長崎県参事官、鉄道庁事務官、逓信省参事官兼鉄道局庶務課長、兼法制局参事官などを歴任。1896年6月から1898年1月まで、欧米の鉄道事業を視察するため出張。
浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年… 浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年3月3日 )- 1944年(昭和19年)2月12日)は、日本の教育者、実業家、政治家、郷土史研究家。衆議院議員、久留米商業学校長。号・是々。 筑後国三潴郡大隈村原古賀(福岡県久留米市原古賀町)で、浅野為三郎の長男として生まれる。福岡県立久留米中学校在学中に英語教師宮崎駿児の薫陶を受け、宮崎が退職して上京する際に中学を退学して同行した。1892年7月、東京高等商業学校を卒業。 『信濃日報』主筆、『九州日報』主筆を経て、福岡県嘉穂郡で幸袋工作所の設立に参画し、また、久留米で同志と久留米実業会を組織して、商工会議所の設立に尽力した。1899年11月、久留米市から強く要請され久留米商業学校校長に就任し、校風の刷新と、校勢の進展に尽力した。
北原 阿智之助(きたはら あちのすけ、1868年3月26日(… 北原 阿智之助(きたはら あちのすけ、1868年3月26日(明治元年3月3日) - 1947年(昭和22年)11月29日)は、衆議院議員。号は痴山。 信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)に庄屋の北原稲雄の次男として生まれ、明治20年(1887年)同郡上郷村の同族北原家の養子となる。 明治14年(1881年)に上京し、渡辺重石丸の道生館に学び、一旦帰郷、同18年(1885年)に再び上京して成立学舎、築地の英学校に学ぶ。和歌を海上胤平、俳句を正岡子規に師事する。同23年(1890年)雑誌「正気」を発行、子規の「日本新聞」俳句欄に投稿し、同30年(1897年)飯田で「松声会」を結成した。同35年(1902年)には伊那史料刊行会を設立し「伊那名勝志」を発行、菱田春草が挿絵を担当した。
西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3… 西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3月26日(慶応4年3月3日)- 1900年(明治33年)2月1日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員。 越前国今立郡北村(福井県今立郡北村、北新庄村、武生市を経て現越前市)で生まれた。済生学舎で医学を修めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(福井県第3区、山下倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任。同年8月、第6回総選挙(福井県第3区、無所属)では次点で落選した。 その後、帝国党が結成されるとこれに参加し幹事を務めた。
赤間 嘉之吉(あかま かのきち、1868年3月21日(慶応4… 赤間 嘉之吉(あかま かのきち、1868年3月21日(慶応4年2月28日) - 1926年(大正15年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、伊藤商店総支配人、東亜煙草理事、九州興業社長。 1868年(慶応4年2月)に筑前国嘉穂郡鎮西村(現飯塚市)にて生まれる。和仏法律学校(現・法政大学)を卒業後、大蔵省煙草専売局事務官などを経て、伊藤商店の総支配人となる。 1917年(大正6年)に第13回衆議院議員総選挙に当選する(当選2回、政友会)。 また、九州興業社長、東亜煙草理事、東京電気雷管・大正鉱業の監査役などを歴任した。 1926年(大正15年)8月24日に死去、享年59。 大蔵省を経て、筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の右腕として、伊藤家の支配人となる。
村山 金平(むらやま きんぺい / きんへい、1868年3月… 村山 金平(むらやま きんぺい / きんへい、1868年3月21日(明治元年2月28日)- 1921年(大正10年)5月17日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、宇都宮市会議長。旧姓・高橋、旧名・直次郎。 下野国都賀郡、のちの栃木県上都賀郡今市町(今市市を経て現日光市)で高橋家に生まれ、1891(明治24年)8月、肥料商、先代・村山金平の養子となり、1893年(明治26年)4月、家督を相続し金平を襲名した。肥料商、塩商を営む。 宇都宮商業会議所副会頭、下野銀行取締役、下野倉庫取締役、下野電力取締役、豊島特産取締役、下野米券倉庫取締役、宇都宮銀行監査役、栃木県肥料商組合副組合長などを務めた。
萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20… 萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20日〈慶応4年2月27日〉 - 1911年〈明治44年〉5月25日または5月26日)は、明治時代の日本の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。旧姓は石川。 長門国豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に生まれる。兄は石川耐蔵。 1893年(明治26年)、萩原明輔の後を継ぎ、萩原に改姓。 1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年9月、外交官及領事官試験に合格し外務省に入省して、外交官となった。 1897年からドイツ帝国公使館に勤務する。その後ベルギー、大韓帝国、清、アメリカ合衆国の公使館で書記官を務めた。1906年に奉天総領事館の総領事となる。
増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3… 増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3月19日〉 - 1951年〈昭和26年〉1月14日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家。 後藤新平秘書から衆議院議員となり、さらに実業界に転じて電気事業に参加。大同電力社長、日本発送電(日発)初代総裁、台湾電力(台電)社長などを務めた。駿河国(現・静岡県)出身。 増田次郎は慶応4年2月26日(明治元年、新暦:1868年3月19日)、駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に増田儀右衛門の次男として生まれた。生家は120俵あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は戸長に選ばれるような村の有力者であった。 小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄・太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき奉公に出され六合村にあった親類の商家に預けられた。
長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶… 長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶応4年2月25日)- 1925年(大正14年)1月31日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡小谷村長。 武蔵国足立郡小谷村(のち埼玉県北足立郡小谷村、現:鴻巣市)で、小谷村長を務めた長島基吉の長男として生まれる。1890年、東京専門学校政治科を卒業し、農業を営む。 北足立郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員、小谷村長などを務めた。 1917年4月、第13回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から憲政会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3… 河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉5月14日)は日本の医師。陸軍軍医、満鉄大連医院院長、武蔵野病院創設者。 長野県小県郡和田村の医者の家系に長男として生まれる。1890年(明治23年)帝国大学医科大学在学中に陸軍医官候補生に採用され、日清戦争に出征した。1894年(明治27年)大学卒業後、京都帝国大学大学院を経て、伏見衛生病院、台北衛生病院付となり、日露戦争時には三等軍医正となる。1906年(明治39年)ドイツ駐在となり、1908年(明治41年)現役のまま南満洲鉄道衛生課長兼大連医院長に就任した。 1911年(明治44年)、奉天における国際ペスト会議に列席し、軍医正に進み、1912年(大正元年)南満医学堂の初代堂長を兼任した。
生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅう… 生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅううえもん、1868年3月15日(慶応4年2月22日)- 1932年(昭和7年)12月20日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員。 甲斐国山梨郡小松村(山梨県東山梨郡春日居村、春日居町を経て現笛吹市春日居町小松)で、豪農・生原広賢、かく の長男として生まれる。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1889年(明治22年)町村制施行以来、春日居村会議員を務め、1894年(明治27年)東山梨郡会議員に当選。1899年(明治32年)山梨県会議員に選出され、所得税調査委員、春日居村助役なども務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙に山梨県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1… 飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1868年4月6日) - 昭和17年(1942年)6月17日)は、日本の漢詩人。秋田県仙北郡六郷村(のち六郷町)出身。隣村畑屋村生まれの高橋午山、千屋村の坂本東嶽(理一郎)とともに「仙北の三山」と称された。 羽後国仙北郡六郷村飯村永助の次男として生まれた。幼名は堅治、のちに粋と改名した。 六郷の熊谷松陰および岡三慶に師事し、漢籍を学んだ。田尻稲次郎らによって創立された東京の専修学校(現在の専修大学)を卒業後、新聞社に入社し日清戦争に従軍した。上京して以来、臨済宗の傑僧中原南天棒に参禅し、玉川遠州流の茶道も学んだ。「稷山」は師より賜った居士号である。
斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2… 斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1942年(昭和17年)3月1日)は、日本の歴史学者。夏目漱石の友人として知られる。 武蔵国足立郡尾間木村(現・埼玉県さいたま市)出身。1890年第一高等中学校卒業。1893年東京帝国大学史学科卒業、大学院に進む。1897年第二高等学校教授。1903年から3年間ドイツ、オランダに留学。留学中に本郷区駒込千駄木町の家を夏目漱石に貸した。漱石はここで『吾輩は猫である』を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ旧居記念碑が建っており、旧居は明治村に移築された。 帰国後第一高等学校教授となり、芥川龍之介、久米正雄、山本有三らを教えた。
小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2… 小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉12月17日)は、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本画家、俳人。幼名は不動太郎、本名は茂吉、号は牛里。 小川家は代々牛久藩士で、大坂の陣で討死した木村重成の末裔だという。父は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現:茨城県牛久市城中町)に移り農家となった。当初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け、朝野新聞社に一時雇われ画工として入社。そこでは挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと「珊瑚会」を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。 生涯のほとんどを牛久沼の畔で農業を営みながら暮らした。
吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶… 吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶応4年2月17日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の洋画家である。岡山県における美術教育に尽力した。 良吉・飛佐の次男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。吉富家は昔「小寺屋」と称し、酒造業や刻み煙草商を営んでいたが、農業にも従事していた。総社市西宮本町の堀和平が神戸に行って外人から油絵の技法を習得して帰り、自宅のアトリエでさかんに製作しているのを見よう見まねで自分も画くようになった。この頃、総社市門田の満谷国四郎は、堀和平と甥・叔父の間柄であったので、しばしば遊びに来て、6歳年上の朝次郎に兄事していた。その後、朝次郎が一時浅尾小学校(現総社市門田)で代用教員を務めた頃、国四郎は彼の教え子であった。
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年… 千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。米沢中学校、攻玉社を経て、明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。練習艦「館山」分隊長などを経て、日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。 練習艦「満珠」航海長、「高雄」航海長、「須磨」航海長、皇族(有栖川宮威仁親王)付武官、「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年(1904年)5月に乗艦が触雷により沈没した。
渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2… 渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2月14日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、明治後期から大正にかけて活動した愛知県名古屋市の政治家・実業家である。政界では名古屋市会議員や愛知県会議員、実業界では大手電力会社大同電力の取締役などを務めた。 慶応4年2月14日(明治元年、新暦:1868年3月7日)、愛知県士族・渡邊永豊の長男として生まれた。1893年(明治26年)に家を継ぐ。学業は中央大学を卒業した。 役員録や人名録によると、1900年(明治33年)時点では大阪生命保険株式会社名古屋出張所長、1908年(明治41年)時点ではガラス商、1913年(大正2年)時点では木材防腐剤商として働いていたとある。
祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3… 祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3日〉- 1908年〈明治41年〉5月25日)は、日本の台湾総督府・大蔵官僚。台湾総督府民政長官。位階および勲等は正四位・勲二等。 出羽国村山郡(現:山形県上山市)で上山藩士の子として生まれる。1892年(明治25年)、帝国大学法科大学を卒業。同年10月、大蔵省試補となり、大臣官房第二課に配属された。以後、主計局勤務、沖縄県収税部長・収税長を歴任。 1896年(明治29年)、台湾総督府に転じ、民政局財務部調査課長兼関税課長に就任。その後、財務局主計課長、財務局長事務取扱、民政部財務局長、兼専売局長、民政局殖産局長などを歴任。 1906年(明治39年)11月、民政長官に就任し、現職で死去した。
新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(18… 新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(1868年3月3日) - 昭和2年(1927年)3月12日)は、現在の山形県山形市生まれの彫刻家。息子に画家の新海覚雄がいる。 仏師の長男に生まれる。初めは軍人を志し、1888年近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが、手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官だった北白川宮能久の薦めもあり、彫刻家志望に転じた。1891年の除隊後、後藤貞行に師事。後藤は当時、高村光雲のもとで楠木正成像の原型の制作に当たっており、その助手を務めた。また浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学んだ。1896年に軍より北白川宮能久親王騎馬銅像の制作依頼を受け、1899年に原型を完成させた(翌年鋳造、1902年に設置)。