鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月… 鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月8日) - 1918年(大正7年)6月10日)は、日本の物理学者。東京帝国大学教授。勲五等。理学博士。 ニコンの前身である東京計器製作所の光学計器部の設立にもかかわった、明治-大正期におけるガラス・光学レンズの第一人者で、三角型体温計の発明者。
3月生まれ:11,181人
鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月… 鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月8日) - 1918年(大正7年)6月10日)は、日本の物理学者。東京帝国大学教授。勲五等。理学博士。 ニコンの前身である東京計器製作所の光学計器部の設立にもかかわった、明治-大正期におけるガラス・光学レンズの第一人者で、三角型体温計の発明者。
山香 二郎吉(やまが じろきち、1867年3月31日(慶応3… 山香 二郎吉(やまが じろきち、1867年3月31日(慶応3年2月26日)- 1936年(昭和11年)1月21日)は、日本の裁判官、検察官。大審院(現最高裁判所)判事などを務めた。
大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29… 大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29日〈慶応3年2月24日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月19日)は、日本の英米文学者、英語教育者、翻訳家、聖職者。教育者として東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)を創設したほか、旧制第六高等学校(現・岡山大学)教授や旧制甲南高等学校(現・甲南大学及び甲南中学校・高等学校)教授を歴任。英文学者や翻訳家としてシェイクスピア劇の講義に加え、イギリス公使の翻訳官を務めた。また、ハーバード大学で外国人初の舎監となり、日本聖公会の聖職者としても伝道に従事した。号は折鵬、竹隠。 1867年3月29日〈慶應3年2月24日〉、備前国岡山に生まれる。
福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(18… 福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(1867年3月29日) - 昭和13年(1938年)9月26日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。三重県桑名町長、長島村長。 伊勢国桑名郡長島村(現在の三重県桑名市)出身。士族・福原資英の長男として生まれ、1896年(明治19年)に家督を継ぐ。1884年(明治17年)に陸軍士官学校(旧9期)に入学し、1887年(明治20年)に卒業。同年7月歩兵少尉に任官し、陸軍大学校(10期)で学び、日清戦争に出征した。陸軍士官学校教官、参謀本部部員、近衛師団参謀を歴任。日露戦争時には第12師団高級参謀を務め、その後は留守第12師団参謀長、歩兵第68連隊初代連隊長、臨時朝鮮派遣歩兵第1連隊長、第16師団参謀長、第26旅団長を歴任した。
原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶… 原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶応3年2月18日〉- 1944年〈昭和19年〉8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。男爵、法学博士。帝国弁護士会名誉会員。第9代中央大学学長。 田中義一内閣の司法大臣や太平洋戦争開戦当時の枢密院議長を歴任した。 1867年3月23日信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に原茂作の長男として生まれる。幼名は亀太郎。父は旧須坂藩の足軽小頭を務めたが、もともとは原虎胤の末裔を称する庄屋格の農家の出である。明治維新で秩禄処分後も、農家だったのでさほど生活苦を味わわずに済んだ。 大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。
谷口 留五郎(たにぐち とめごろう、1867年3月23日(慶… 谷口 留五郎(たにぐち とめごろう、1867年3月23日(慶応3年2月18日) - 1942年(昭和17年)3月15日)は、日本の内務官僚。県知事。 大和国出身。谷口直満の五男として生まれる。1890年、帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等試験に合格し、内務省試補となり総務局に配属された。以後、鳥取県・長崎県・東京府の各参事官、秋田県・福岡県・神奈川県の各書記官、神奈川県事務官などを歴任。在任期間中の1899年に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。 1906年7月、徳島県知事に就任。その後、岡山県知事を経て、1911年7月、鹿児島県知事となる。1914年1月の桜島の大正大噴火の復旧に尽力した。
木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月… 木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月23日) - 昭和18年(1943年)9月12日)は、大正・昭和期の真宗大谷派の僧侶。『新訳仏教聖典』の翻訳者。本名は祐精。
岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867… 岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和19年(1944年)3月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、松山市長。 伊予国松山に伊予松山藩士岩崎一正の子として生まれる。1886年(明治19年)、専修学校(現在の専修大学)を卒業。卒業後は松山に戻って、海南新聞社の経営に加わり、自由民権思想の普及に尽力した。 1919年(大正8年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。翌年の総選挙には落選したものの、1923年(大正12年)に松山市長に選出された。さらに道後湯之町長を務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に当選した。 その他、松山高等商業学校(現在の松山大学)の理事を務めた。
小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(… 小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和17年(1942年)2月16日)は、日本の教育者。号は自得。 出羽国平鹿郡横手(現在の秋田県横手市)出身。東京に遊学して、共立学校で英学・漢学を学んだ。1889年(明治22年)、秋田県師範学校を卒業して、小学校訓導を務めた。その後、東京高等師範学校文科に入り、1893年(明治26年)に卒業した。秋田県師範学校教諭、同附属小学校主事、青森県師範学校教諭を務めた。1902年(明治35年)、秋田県立横手中学校校長に就任し、翌年に秋田県立大館中学校校長に転じた。1907年(明治40年)、秋田師範学校校長となり、1912年(明治45年)に北海道札幌師範学校校長に転じた。
豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2… 豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の発明家・実業家。トヨタグループの創始者。 豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件を発明した。豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業した。 慶応3年2月14日(1867年3月19日)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれた。父は豊田伊吉、母はゑいであり、佐吉は3男1女の長男だった。山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。
藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3… 藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3年2月12日)- 1930年(昭和5年)10月23日)は、明治から昭和初期の華族、政治家。男爵、旧名張領主名張藤堂家(藤堂宮内家)第12代。幼名は憲丸。 山城国京都で竹内治則の二男として生まれた。1876年(明治9年)2月、旧名張領主の名張藤堂家当主・藤堂高節の養子となり、1893年(明治26年)家督を相続。1914年(大正3年)9月28日、高成に改名した。 國學院で学ぶ。1894年(明治27年)神宮皇學館の舎監兼助教授に就任。1906年(明治39年)9月17日、男爵を叙爵。1910年(明治43年)6月に小栗常太郎らと設立した興業貯金株式会社では取締役社長を務めた。
中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867… 中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867年3月16日) - 明治27年(1894年)11月16日)は日本の漢詩人。本名は重太郎。字(あざな)は威卿。別号に狂骨子など 1867年(慶応3年)2月21日、伊予国宇和島賀古町(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、1899年(明治2年)第一高等中学校本科一部(文科)第二年(三之組)に進級した。同級生に夏目漱石や正岡子規がいた。1894年(明治17年)11月16日午前9時、東京の山龍堂病院で死去した。享年28歳。没後の1895年(明治28年)11月16日、『逍遙遺稿』(正外二編)と題して500部発行された。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた。
柳原 極堂(やなぎはら きょくどう、慶応3年2月11日(18… 柳原 極堂(やなぎはら きょくどう、慶応3年2月11日(1867年3月16日)- 昭和32年(1957年)10月7日)は愛媛県出身の俳人である。
足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(186… 足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(1867年3月15日) - 昭和7年(1932年)11月18日)は、日本の教育者、郷土史家。 出雲国松江鍛冶(現島根県松江市)出身。1884年島根県師範学校卒業。島根県内小学校の訓導となり、1885年校長に就任。1894年新潟県尋常中学校助教諭。1906年長野県立飯山中学校初代校長。1911年長野県立諏訪中学校校長。1912年静岡県賀茂郡立豆陽学校校長。1921年島田高等女学校校長。静岡県の郷土史を研究し、静岡県史蹟名勝天然記念物調査委員、静岡市史編纂主事、静岡県史編纂主事を務める。次男は文部官僚の井上赳。
土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867… 土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867年3月11日) - 大正14年(1925年)2月15日)は、日本の化学者。教育者。 1867年東京府生まれ。1887年(明治20年)、東京帝国大学理科大学応用化学科を卒業。1889年(明治22年)より山口高等中学校教諭となり、1899年(明治32年)からは石川県工業学校校長を務めた。1903年(明治36年)より応用科学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学した。帰国後の1905年(明治38年)からは名古屋高等工業学校校長に就任した。さらに1918年(大正7年)からは大阪工業高等学校校長に転じた。
村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3… 村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3年2月5日) - 1937年(昭和12年)10月18日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。村松亀一郎の従兄弟。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。1888年(明治21年)よりアメリカ合衆国に留学し、ミシガン州立大学法学部を卒業した。帰国後、第二高等学校の講師となったが、辞して1894年(明治27年)から仙台市に弁護士事務所を開いた。1901年(明治34年)にはシャムとイギリスの弁護士資格を取得し、バンコクに事務所を開いた。帰国後は東京や仙台で弁護士の業務に従事した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年… 久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年2月4日)- 1938年(昭和13年)7月10日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、香川県会議長、香川県木田郡古高松村長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡古高松村(木田郡古高松村を経て現高松市古高松)で生まれる。1891年(明治24年)東京専門学校(現早稲田大学)を卒業した。農業を営む。 古高松村長を務めた。香川県会議員に選出され同参事会員も務めた。1903年(明治36年)10月、同議長に就任し1905年(明治38年)9月まで在任した。 井上甚太郎の死去に伴い1905年9月に実施された第9回衆議院議員総選挙香川県郡部補欠選挙で当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員に1期在任した。
草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日(慶… 草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日(慶応3年2月2日) - 1931年(昭和6年)4月24日)は、日本の学者、実業家。現在の石川県加賀市大聖寺出身。加賀国大聖寺藩藩医(禄高:150石)・草鹿泰冲(蓮浦)の次男。兄は草鹿甲子太郎(衆議院議員、弁護士、神戸日華実業協会理事長)。子息については後節を参照。 大聖寺小学校(現・加賀市立錦城小学校)を経て、金沢一中を[要検証 – ノート]卒業。1884年(明治17年)に東京外国語学校(現・東京外国語大学)を卒業し、翌年東京にて学習院助教授を務めたがその後ドイツに留学、1887年(明治20年)に留学先のイェーナ大学を卒業し、哲学の学位を取得している。
野津 左馬之助(のつ さまのすけ、1867年3月4日(慶応3… 野津 左馬之助(のつ さまのすけ、1867年3月4日(慶応3年1月28日) - 1943年2月17日)は、明治 - 昭和期の日本の郷土史家。『島根県史』編纂委員。「前方後方墳」の命名者。号は「天籟」。幼名は馬之助。 島根県島根郡東持田村(現・松江市東持田町)に生まれる。11歳時に左馬之助に改名した。 1888年(明治21年)、島根県尋常師範学校を卒業後、美濃郡で尋常小学校の訓導となった。以後、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校、1897年着任)、長野県立長野中学校(現・長野県長野高等学校、1899年着任)、島根県第三中学校(在職中に島根県杵築中学校に改称、現・島根県立大社高等学校、1904年着任)で勤務し、1910年(明治43年)に教職を退いた。
嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2… 嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2日) - 昭和24年(1949年)2月5日)は、熊本県熊本市本山町出身の女性教育者。明治36年に日本初の女子商業教育校、私立日本女子商業学校を創立。嘉悦学園創立者。孝子とも。 孝の父である嘉悦氏房は熊本藩の儒学者、横井小楠の教えを受けていた。孝は幼いころから父を通して学問を学び、実学思想を身に付けていった。彼女が女子の経済的自立に関して考えるに至った経緯として、父である嘉悦氏房が経営していた緑川製紙場で女工として働いていたということがある。成長してからは東京の成立学舎女子部で学び、教育への理解を深めていった。卒業後、同校にて教鞭を取り、日本女子教育会講師などを務めた後の明治36年(1903年)、私立日本女子商業学校を創立した。
原田 勘七郎(はらだ かんしちろう、旧姓:前原(まえばら)、… 原田 勘七郎(はらだ かんしちろう、旧姓:前原(まえばら)、慶応2年2月14日(1866年3月31日) - 大正7年(1918年)3月18日))は、日本の実業家、政治家。東陽倉庫、帝国製糸の創設に尽力し、名古屋市に日本車輌製造を設立して専務取締役を務め、名古屋市会議員なども務めた。 下野国安蘇郡作原(現在の栃木県佐野市作原町)に生まれる。小学校卒業後、栃木小学校で教鞭を執っていたが、田中正造の知遇を得て森鴎村の家塾に学び、宇都宮市の英学校を経て、明治27年(1894年)に高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。経済的な苦労もあったが、島田三郎の玄関番や、佐久間貞一の知遇を得て学生生活を続けた。 しかし、成瀬隆蔵教授や、森島修太郎教授の更迭を求める同盟休校騒ぎ(矢野二郎排斥事件)の首謀者となり、矢野二郎校長の逆鱗に触れ、明治26年(1893年)に退学となった。
野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866… 野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866年3月30日) - 昭和18年(1943年)12月24日)は、日本の海軍軍人、海軍大将。
猪子 吉人(いのこ きちんど、1866年3月28日(慶応2年… 猪子 吉人(いのこ きちんど、1866年3月28日(慶応2年2月12日) - 1893年(明治26年)9月20日)は明治時代の薬理学者。医学博士。但馬豊岡藩(兵庫県)家老猪子清の次男。兄は京都帝国大学医科大学名誉教授の猪子止戈之助。 長兄の止戈之助は外科学者として京都府立医学校長、京都帝大医科大学教授を歴任した。姉のふて(ふで)は沖野忠雄の妻となる。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、薬学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:薬学/Portal:医学と医療/Portal:化学)。
稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応… 稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応2年2月9日)- 1936年(昭和11年)3月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・木暮。 上野国群馬郡、のちの群馬県西群馬郡伊香保町(現渋川市伊香保町)で木暮武禄の三男として生まれ、1898年(明治31年)東京市神田区の稲茂登カネの入夫となり家督を相続した。 群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。東京市会議員、同参事会員、東京商業会議所議員のほか、帝国火災保険株式会社取締役他数社の重役となった。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において東京市選挙区から無所属で立候補して当選した。1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙でも再選した。
棟居 喜九馬(むねすえ きくま、1866年3月25日(慶応2… 棟居 喜九馬(むねすえ きくま、1866年3月25日(慶応2年2月9日) - 1932年(昭和7年)9月2日)は日本の逓信省参事官また、長老派の日本基督教会富士見町教会の長老である。 1866年に棟居義彦、房子の子として周防国徳山に生まれる。 上京して、第一高等中学校に入学する。入学後に、一番町教会(富士見町教会)に行き、同教会の牧師であった植村正久の説教を聞いて、キリスト教に入信する。1887年(明治20年)7月に植村より洗礼を受けクリスチャンになる。 第一高等中学卒業後、東京帝国大学に入学する。 1893年(明治26年)に東京帝国大学法科を卒業し、農商務省に務める。その後、熊本県参事官、大阪府参事官、逓信省の通信事務官、書記官などを歴任する。
西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3… 西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3月24日) - 1908年(明治41年)12月31日)は、日本の女性運動家。現在の新潟県柏崎市出身。 小学校教員となったのち自由民権運動に加わり、1881年に柏崎での集まりで男女同権を訴える演説を行った。1882年に教員でありながら政治集会に参加したことが集会条例違反等に問われ、翌年に罰金刑を受けた。このことで「日本初の女性政治犯」とされる一人である。その後は民権運動から離れたものの、女性の経済的自立や政治的自立を国権論の立場から支持していた社会活動家の北畠道龍と行動をともにし、婦人組織の結成や女子教育の実践にたずさわった。のちに北畠道龍の妻となる。
右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3… 右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3月22日) - 大正9年(1920年)1月11日)は大正時代の劇作家、歌舞伎狂言作者、小説家。 豊後国(現・大分県)臼杵に臼杵藩士の子に生まれる。右田年英の実弟。柳塢亭、矮亭主人と号す。明治10年代、11歳時には上京、三田英学校や漢学塾に学んだ後、高畠藍泉に師事する。めざまし新聞、都新聞において多くの戯曲の脚本、艶種(つやだね)や雑報などを執筆した。その後、東京朝日新聞に入社して主に小説を書いた。明治38年(1905年)には栗島狭衣らと文士劇の劇団、若葉会を結成する。明治42年(1909年)に帝国劇場が開場されるのに伴い、立作者となって多数の戯曲を執筆した。
若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(186… 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。栄典は正二位勲一等男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻 礼次郎(わかつき れいじろう)と表記されることもある[注釈 1]。
西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年… 西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。
森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月… 森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月17日) - 昭和3年(1928年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。森田俊佐久の弟。 安芸国高田郡根野村(現在の広島県安芸高田市)出身。最初慶應義塾に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1886年(明治19年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、東京にて開業。1889年(明治22年)に広島市に事務所を移し、広島弁護士会長にたびたび選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回、第9回でも再選を果たした。
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866… 山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866年3月14日〉 - 昭和36年〈1961年〉6月3日)は、日本の禅僧。道号は玄峰、法諱は宜詮、宜雄。室号は般若窟。俗姓は岡本、後に山本。和歌山県本宮町生まれ。龍澤僧堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する(年代順)。 生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。遺言により葬儀はなかった。世寿96歳。 1866年(慶応2年)3月14日和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)の湯の峰温泉の旅館・芳野屋(現・あづまや旅館)で生まれた。
中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1… 中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 昭和5年(1930年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→無所属)、弁護士。 京都に中西新左衛門の長男として生まれる。大阪府立中学校(現大阪府立北野高等学校)、ついで神戸法律学校を卒業。裁判所書記を経て、1887年(明治20年)に判検事登用試験に合格。判事試補として福井始審裁判所に配属された後、1889年(明治22年)に判事となって、敦賀治安裁判所、増毛治安裁判所、札幌地方裁判所で勤務した。1891年(明治24年)、官を辞して札幌で弁護士を開業し、1894年(明治27年)には札幌弁護士会長に選出された。
原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月… 原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 大正元年(1912年)10月27日)は、明治期の洋画家。今日、知名度は高いとはいえないが、明治期において本格的な油彩技法を修得した最も優れた画家の一人とされ、肖像画を得意とした。 岡山市出石村で、岡山藩士原金兵衛久則の長男として生まれる。幼名は熊之介、のち改め熊三郎、1883年(明治16年)からは熊太郎を名乗る。父・久則は岡山藩の御融通方に勤務し、後に第二十二国立銀行創設に加わった。1879年(明治12年)化成小学校卒業後は進学せず、当時岡山にいた洋画家多賀清光と平野雄也に就いて、主に水彩画を習う。1881年(明治14年)3月に京都府画学校に入学し、小山三造、田村宗立に洋画を学ぶ。
田辺 郷左衛門(田邊 郷左衛門、たなべ ごうざえもん、前名・… 田辺 郷左衛門(田邊 郷左衛門、たなべ ごうざえもん、前名・榮重郎、1866年3月11日〈慶應2年1月25日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(神奈川県会議員、横浜市会議員)、会社重役、神奈川県多額納税者、地主、神奈川県教員互助会理事。族籍は神奈川県平民。田辺家19代目である。 神奈川県久良岐郡中村出身。先代・郷左衛門の二男。神奈川師範卒業。1886年、家督を相続し、前名・榮重郎を改め襲名する。貸地業を営む。 横浜市会議員、神奈川県会議員、同参事会員に挙げられる。戸塚銀行、横浜植木、横浜農薬各取締役などをつとめる。1937年、退隠する。 教育界と農村産業の革新等に尽力する。宗教は真言宗。趣味は碁、将棋、読書、旅行。
守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866… 守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866年3月11日) - 昭和5年(1930年)12月10日)は、日本の実業家。幼名は、久太。父は、彌作。 備中国小田郡大井村東大戸2087番地(現在の岡山県笠岡市)に生まれる。1876年、祖父の名を継いで善兵衛と改名する。地元の学校に学ぶが1880年上京し、東京外国語学校(旧外語)および独逸学協会学校でドイツ学を学ぶ。1883年、東京に欧亜学館を設立する。 1885年からは政府各省の依頼により、種々のドイツ語文書を翻訳する。その後台湾総督府の後藤新平、児玉源太郎などの知遇を得、1898年、台湾日報社と台湾新報社を合併して台湾日々新報社を創立し、社長となる。
九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1… 九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1月24日) - 1928年(昭和3年)3月15日)は、三重県四日市市出身の政治家、また九鬼産業グループを経営する実業家。四日市電灯・三重人造肥料・四日市倉庫社長・東洋紡績取締役・四日市商工会議所副会頭等。四日市の政財界の指導者。四日市九鬼家当主で8代目九鬼紋七を襲名した。国政に進出して衆議院議員(1期)を務める。甥は四日市政財界の大御所であった九鬼紋十郎。家業を継いだ長男・徳三(9代目紋七)も衆議院議員を務めた(妻は外交官市河彦太郎の妹)。 1886年(慶応2年)1月に四日市の中納屋町69番地在住の大地主である四日市九鬼家に誕生する。四日市九鬼家は戦国時代から安土桃山時代に活躍した九鬼水軍の末裔である。
秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(18… 秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(1866年3月9日) - 昭和12年(1937年)4月11日)は、日本の官僚、法政大学学長。 広島藩の足軽秋山恂一の長男として生まれる。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外務省に入り、イギリス公使館やロシア公使館で書記官として勤務した。しかし病により官を辞した後は、国際法を研究し法学博士の称号を得た。 和仏法律学校や明治法律学校で講師を務めていたが、日露戦争の直前に陸軍省参事官に任命され、さらに法制局参事官も兼ねた。国際法の顧問として尽力したのが寺内正毅陸軍大臣に認められ、後に朝鮮総督となった寺内の招きで朝鮮総督府参事官に就任した。
武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月… 武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月23日) - 1937年(昭和12年)1月20日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。岐阜県郡上郡八幡町長。 美濃国郡上郡八幡町(岐阜県郡上郡八幡町を経て現郡上市)出身。関谷楠平の三男、関谷貫三の弟として生まれ先代の武藤喜一郞の養子となり、1903年(明治36年)3月、家督を相続する。1880年(明治13年)鈴木重遠に漢学を学び、1886年(明治19年)岐阜県師範学校、1890年(明治23年)東京専門学校法律科卒業。生糸製造業を営んだ。 八幡町長、蚕糸業諮問会、中央種繭審査会各委員となる。また第百二十八銀行頭取、八幡町仏教慈善会長、県製糸同業組合長、製糸講習所長、大日本蚕糸会、帝国蚕糸会社各評議員、濃飛農工銀行取締役となるほか、大谷派本山講頭格に列せられ、同派本願寺会計評議員を歴任した。
山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4… 山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4月18日 - 昭和15年(1940年)9月10日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。
藤島 華僊(ふじしま かせん、慶応2年〈1866年〉3月 -… 藤島 華僊(ふじしま かせん、慶応2年〈1866年〉3月 - 1929年〈昭和4年〉2月18日)は明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。 慶応2年3月に上野国利根郡沼田倉村(現・群馬県沼田市)において生まれた。通称は徳四郎。浮世絵師としては藤島年美と号しており、後に永柳、華僊と号した。幼時より絵画を好み、12歳で青山翠山(福島柳圃の弟子)に師事、南宗画を習得し、後に東京へ上京して月岡芳年について風俗画を学び、小林永濯に師事し、永濯から画技を認められ、彼の養嗣子となった。1886年(明治19年)頃、芳年から門人27名にあてた書状『芳年門人一覧』の23番目に「上松本町二十番地細山方 藤嶋徳四郎殿」とみられる。
飯塚 雲擧(いいづか うんきょ、1865年3月31日 - 没… 飯塚 雲擧(いいづか うんきょ、1865年3月31日 - 没年不明)は、日本の書家。通称は勘藏。字は偆子。雲擧は号。別号は夕立庵晋湖。明治時代に東京で活躍した。 元治元年4月4日(1865年3月31日)、飯塚長次郎の長男として、下野国都賀郡のうち現在の栃木県栃木市三鴨地区にあたる地域に生まれる。小学校卒業後、漢学を修め、小学校で教鞭もとる。その後上京して教導団に入り、卒業後近衛軍曹となる。明治22年(1889年)除隊となると漢学の私塾を東京に開き、そのかたわら書法を尾形雲海に、詩文を石川文莊に学び、大師流の書法を究めた。 また俳諧を好み、老鼠堂永機に就いて研究し、奥義を極めた。夕立庵晋湖と号して撰者の資格も得て、有聲吟社を創設して書道、俳諧の教授に従事した。
小橋 栄太郎(こばし えいたろう、1865年3月30日(元治… 小橋 栄太郎(こばし えいたろう、1865年3月30日(元治2年3月4日) - 1932年(昭和7年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 箱館で商業・小橋宗七の子息として生まれる。1882年、函館商船学校を卒業。その後、東京に出て近藤塾で学んだが、当時の自由民権運動に共鳴し政治の世界に身を投じた。1883年、先輩と共に北海自由党を結成しようとしたが、当局からの妨害を受けて実現できなかった。1889年、『日刊北辰』を創刊。1894年1月、改めて政事新聞『めざまし』を創刊し、1898年、『函館日日新聞』と改題した。 1900年、平出喜三郎に協力して立憲政友会函館支部を創立して、その幹部に就任。
早川 喜四郎(はやかわ きしろう、1865年3月27日(慶応… 早川 喜四郎(はやかわ きしろう、1865年3月27日(慶応元年3月1日) - 1943年4月23日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長、日本聖公会の聖職者。聖公会の教会で奉仕しながら、院長として新校舎を建設するなど、平安女学院の発展に寄与した。 伊予国今治(現・愛媛県今治市)出身。戸塚多宮の子として生まれ、幼少期に早川家の養子となった。立教大学校(現・立教大学)卒業後、東京三一神学校(現・聖公会神学院)を経て、米国留学してバークレイ神学校(英語版)に学ぶ。 1892年(明治25年)に立教大学校、東京三一神学校(現・聖公会神学院)の同窓生である宮崎敬介(後の大阪電灯社長)が、米国に留学した際に、同じく同窓の大塚惟明(後の南海電気鉄道社長)とともに、同行した。
南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年… 南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年2月25日)- 1931年(昭和6年)7月3日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家、華族(男爵)。官選群馬県知事、貴族院男爵議員、宮中顧問官。旧名・烏丸千佳之二。 山城国京都烏丸通中立売(現京都市上京区)出身。公家・烏丸光徳の三男として生まれ、男爵・南部甕男の養子となり、1893年(明治26年)5月23日に南部に改姓の届出を行った。 1892年(明治25年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年12月、内務省に入省し内務省試補・土木局勤務となる。 1893年11月、香川県参事官に就任。以後、第四回内国勧業博覧会事務委員、兼内務省第二課長、内務書記官・土木局勤務、土木局長事務取扱、同局治水課長などを歴任し、1903年(明治36年)1月、内務省土木局長に就任。
河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元… 河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元年2月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(仲買商)、山口県多額納税者、下関米取引所取引員、家主。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の二男、同徳之助の兄。父祖の農業を助け傍ら勉学に余念がなかった。幼い頃より大志を懐いて下関市に来て、米穀取引が有望なことを洞察し、あるいは店員となり小僧となり、あらゆる刻苦勉励すること10年、転んでは起き、起きては転び1905年、独立して仲買店を設け以来堅実に精励信用を博した。 数年ならずして仲買人部長となり、組合委員長となり、1909年には下関商業会議所議員に選ばれ、1910年より下関市会議員に選出される事実に4回、1917年には市参事会員の名誉職に挙げられた。
井口 丑二(いのくち うしじ、慶応元年2月22日(1865年… 井口 丑二(いのくち うしじ、慶応元年2月22日(1865年3月19日)- 昭和2年(1927年)9月20日)は、日本の宗教家、政治家。 長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)生まれ。 1882年-1886年、同郡口之津村小学校訓導。 1887年-1889年、口之津村役場書記、有給助役。 1890年-1898年、『長崎新聞』編集に従事。 1894年・1898年、長崎県会議員に当選。 1899年-1903年、新聞事業調査のためイギリス・フランス・アメリカ合衆国に出張。 1904年-1905年、杉井組経理担当社員として大韓帝国で勤務。 帰国後1906年に二宮尊徳を知りその研究に専念。 地方改良運動に従事する農商務省嘱託職員として岐阜県恵那郡蛭川村に入り、 1916年、廃仏毀釈の徹底した同村に大日本神国教(神国教)を創始、尊徳の思想の普及に努めた。
鈴木 荘六(すずき そうろく、1865年3月16日〈元治2年… 鈴木 荘六(すずき そうろく、1865年3月16日〈元治2年2月19日〉- 1940年〈昭和15年〉2月20日)は、日本陸軍の軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級。第4代帝国在郷軍人会長。
呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3… 呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3月14日〉- 昭和7年〈1932年〉3月26日)は、日本の医学者、精神科医。東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。師である榊俶の早世により役職を引き継ぎ、日本における近代的な精神病学を創立した。『日本の精神医学の父』とも呼ばれる。 クレペリン学派の新しい精神病学の普及を通じて、精神病患者の監護法を改めた。日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会を組織(1902年)、三浦謹之助と共に日本神経学会を創立。日本の近代精神医学者のほとんどが、呉の影響を受けた人々といえる。 広島藩医呉黄石の三男として、江戸青山の広島藩邸(現東京都港区)に生まれた。
広瀬 久政(ひろせ ひさまさ、1865年3月13日(慶應元年… 広瀬 久政(ひろせ ひさまさ、1865年3月13日(慶應元年2月16日) - 1939年(昭和14年)9月28日)は、日本の政治家、山梨県の名望家。衆議院議員(3期、立憲政友会)。 甲斐国山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に広瀬久光の長男として生まれる。和仏法律学校(現・法政大学)で学び、1889年(明治22年)7月に七里村会議員、東山梨郡会書記、1891年(明治24年)8月に東山梨郡会議員、同会参事会員、1892年(明治25年)1月に山梨県会議員となり、1902年(明治35年)8月に第7回衆議院議員総選挙に出馬し当選する(以後3期連続当選)。 また、甲斐新聞主筆、七里銀行取締役を務める。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
山下 義韶(やました よしつぐ、1865年3月13日(元治2… 山下 義韶(やました よしつぐ、1865年3月13日(元治2年2月16日) - 1935年(昭和10年)10月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。講道館四天王の一人で、史上初めて十段位を授与された。 元治2年(1865年)2月16日(旧暦)、相模国小田原藩(後の神奈川県小田原市)の武芸の指南役の家系に生まれる。1884年(明治17年)8月14日、講道館に入門。横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎と共に講道館四天王とされた。1887年(明治20年)までに江田島の海軍兵学校柔道科の教師となった。1889年(明治22年)、警視庁柔術世話掛、慶應義塾體育會柔道部師範となる。