本間順治(ほんま じゅんじ、1904年(明治37年)4月16… 本間順治(ほんま じゅんじ、1904年(明治37年)4月16日 - 1991年(平成3年)8月29日)は、日本の刀剣学者。文学博士、号は薫山(くんざん)。古刀研究の権威であり、本間美術館初代館長、日本美術刀剣保存協会会長などを務めた。山形県飽海郡(後の酒田市)出身。 1904年(明治37年)4月16日生。酒田本間家出身(9代当主・本間光弥の甥)。本間家は俗謡にうたわれたほどの日本有数の豪商。曽祖父の本間家7代当主・本間光美が大の刀好きで、幼少の頃より光美の日本刀の手入れを間近に見て育つ。外祖父も刀の目利きとして知られ、父も順治を目利きにすべく激励し、本家当主である伯父や従兄弟も大いに援助した。 國學院大學在学中、国文学と日本美術史を学ぶかたわら刀剣の鑑識を本格的に学びたく、遠縁で愛刀家の三矢宮松に相談し、今村長賀の高弟である刀剣鑑定師の神津伯(本職は海軍省水路部技師)に弟子入り、5年間修業する。
為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)… 為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)4月16日 - 1995年(平成7年))は日本の裁判官、弁護士。 大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)出身。1927年(昭和2年)3月東京帝国大学法学部法律学科卒業、同年12月高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)4月司法官試験合格、司法官試補、1930年(昭和5年)12月予備判事、1932年(昭和7年)長崎地方裁判所転任で判事任官、1933年(昭和8年)2月まで同地裁民事部判事。 為成は任官後すぐに革新政党の集会に行き、それは警察官に中止だと叫ばれ散会させられたが、自らは警官に頭を殴られ警察署に留置された。1930年夏、試補だったときに同じく判事の尾崎陞や日本共産党党員と交流して赤化、滝内礼作と研究会を結成、毎月1円か2円から10円、7円から10円、10円から12円の資金提供をして完全に赤化、長崎に転任してからは日本労働組合全国協議会(全協)加入や地裁職員を中心とする全日本無産者芸術家連盟(ナップ)関係の文化グループを結成、『赤旗』を持ち込んだりして共産党の党勢拡大を図った。
竹中 龍雄 (たけなか たつお、1904年4月16日 - 1… 竹中 龍雄 (たけなか たつお、1904年4月16日 - 1989年2月16日)は、日本の経営学者。神戸大学名誉教授。 島根県浜田市生まれ。1921年東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)修了。1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。上田貞次郎に師事。同年同大学補手。1930年大阪商科大学(現大阪公立大学)助手。1931年同講師。1932年同助教授。1944年同教授。1947年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1950年神戸大学経営学部教授。1952年郵政審議会委員。1955年経営学博士。1958年電気料金制度調査会委員。1960年塩業審議会専門委員。1962年電気事業審議会専門委員。
木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月1… 木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月13日 - 1986年〈昭和61年〉10月10日)は、日本の航空機設計者。航空機研究者。工学者。航空工学教育者。東京帝国大学教授、日本航空学会会長等を歴任。戦後は日本大学で後進の育成にあたり、1974年(昭和49年)から日本大学名誉教授。 日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、日本初の飛行を実現させた。 1904年(明治37年)、北海道にて出生。木村家の先祖は南部藩士であり、五戸(現在の青森県三戸郡五戸町)にて代々代官を務めていた。
永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904… 永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904年4月13日 - 1985年2月22日)は、将棋棋士。飯塚勘一郎八段門下。棋士番号は21。栃木県佐野市生まれ。 東京府立工業高等学校卒業後、1929年(昭和4年)に飯塚勘一郎八段に入門。 翌1930年(昭和5年)、初段昇段。 1937年(昭和12年)、四段昇段。 戦後に開始された順位戦(1946年〈昭和21年〉)には主旨不賛成のため参加せず。 その後、現役を引退。奨励会幹事を務める傍ら、長く観戦記執筆を手掛ける。 1948年(昭和23年)、五段昇段。 1950年(昭和25年)、六段昇段。 現役当時から文筆に長じる。 雑誌「将棋研究」(将棋研究会)でも執筆を行う。
佐藤 勝也(さとう かつや、1904年4月10日 - 198… 佐藤 勝也(さとう かつや、1904年4月10日 - 1988年3月19日)は、日本の政治家、官僚、弁護士。長崎県知事などを務めた。退任後は東京にて弁護士活動をする。趣味の囲碁は2段の腕前だった。 旧制福岡高校を経て東京帝國大学(現・東京大学)法学部に入学。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府、拓務省などに務めた後、内務省に移り大阪府経済部長、官選の徳島県知事などを歴任した。戦後は岡山県副知事を経て長崎県副知事を6年間務めたが、次期県知事を狙っているとみなされて1957年に西岡竹次郎(西岡武夫の父)に解任された。翌1958年に西岡の死去を受けて長崎県知事選挙に出馬し、前県会議長の金子岩三を破り当選。
小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 19… 小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 1974年1月21日)は、技官官僚・工学者。北海道大学出身初の北海道開発局局長。学校法人北海学園理事長。また、北海道における治水事業の第一人者である。 北海道札幌市生まれ。1928年北海道帝国大学工学部土木工学科を第1期生として卒業。 北海道庁に入庁し、札幌治水事務所に勤務。その後、釧路土木事務所所長、帯広土木現業所所長、石狩川治水事務所所長、北海道電源開発推進部長等を経て、1951年総理府技官・北海道開発局初代建設部長、1957年北海道開発局二代局長。1959年停年退官。1960年富士セメント(現、日鉄住金セメント)コンクリート工場建設実施本部長。
四宅 ヤエ(したく ヤエ、1904年〈明治37年〉4月10日… 四宅 ヤエ(したく ヤエ、1904年〈明治37年〉4月10日 - 1980年〈昭和55年〉8月11日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ語を母語に育った最後の世代の1人とされ、アイヌ語の白糠方言伝承者、ユカㇻ(叙事詩)の伝承者としても知られる。北海道白糠町や北海道東部でユカㇻ、舞踊、音楽などを伝承し、晩年は後進の指導や聞き取り調査などで、アイヌ文化の継承に貢献した。 北海道白糠で誕生した。旧姓は相戸(あいと)。両親を早くに亡くし、祖父と2人で、アイヌ語のみで生活した。祖父からアイヌの物語を聞かされ、祖父を訪ねてくる近所の人たちからも、アイヌ語、歌、舞踊、物語を教わった。 祖父と2人での生活は苦しかったが、後年、息子には「イコロ(宝物)は金銀や土地や屋敷ばかりでない」「私のイコロはアイヌの文化」と語っていた。
中谷 実(なかたに みのる、1904年4月9日 - 1982… 中谷 実(なかたに みのる、1904年4月9日 - 1982年4月)は、日本の経済学者。教育者。 1904年(明治37年)4月9日、大阪府に生まれる。1928年(昭和3年)京都帝国大学経済学部卒業後、同学部講師となり1938年(昭和13年)に助教授、1946年(昭和21年)に教授。1962年 経済学博士 取得、1968年(昭和43年)に京都大学を退官して名誉教授。同年、甲南大学の教授。1972年(昭和47年)から京都学園大学教授、翌年から1980年(昭和55年)まで同大学学長。1982年(昭和57年)4月死去。
中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日… 中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日 - 1932年(昭和7年)9月24日)は、日本の天文学者、京都帝国大学天文台の職員。滋賀県出身。 1904年(明治37年)4月8日、滋賀県滋賀郡真野村(現大津市真野)に生まれる。父は真野村長などを勤めた中村与、6人兄弟の次男として誕生した。1910年(明治43年)4月、真野小学校に入学し、1916年(大正5年)3月同校を卒業、同年4月同志社中学に入学した。1920年(大正9年)に京都帝国大学理学部教授山本一清により天文同好会(略称・OAA)が発会すると、同会同志社支部に入会した。1921年(大正10年)同志社中学卒業後、第三高等学校を受験するが、天体観測に身を入れ過ぎて失敗。
永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985… 永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985年2月7日)は、日本の作家、英文学者。熊本女子大学(現・熊本県立大学)名誉教授。熊本県玉名郡出身。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部を卒業した。在学中、上林暁らと同人誌『風車』を創刊して創作活動をおこなった。 1930年、伊藤整・辻野久憲とともにジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を初めて邦訳する。三好達治・北川冬彦の『詩・現実』に連載し、単行本として刊行する。このほか『ダブリンの人々』『万有引力』『ロレンス芸術論』などを出版した。 1937年強烈な神経衰弱に陥り、熊本県へ帰郷する。1940年、母の死をきっかけに英語教師として働く。
都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日… 都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日 - 没年不詳)は、大韓民国の植物学者、薬学者。北朝鮮の政治家。第2期最高人民会議代議員。本貫は星州都氏。妻は画家の鄭燦英。 本籍はソウル市東大門区回基洞。 咸鏡南道出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部薬学科卒。1945年11月から1946年10月まで初代朝鮮生物学会(現・韓国生物科学協会)会長を務め、1946年から1949年まで初代朝鮮薬学会(現・大韓薬学会)会長を務めた。朝鮮戦争中の1950年9月26日午前ごろ、大学へ出勤後に行方不明になった。北朝鮮側の関係者2名によって拉致されたと見られる。以後平壌医科大学の教授、第2期最高人民会議代議員を務めた痕跡がある。
横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年… 横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年(平成4年)5月10日)は、日本の実業家。朝日新聞社で経理部門を歩み、代表取締役ののち、日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)第5代社長を務めた。三重県出身。 旧制第二高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、東京朝日新聞社入社。 会計、経理各部長、業務局次長、総務経理などを歴任し、1953年(昭和28年)12月、取締役に選任される。 1963年(昭和38年)の村山事件の際、矢島八洲夫(常務、総務・労務担当)、中川英造(取締役)、安井桂三郎(名古屋本社業務局長)らとともに辞表を提出。同事件収束後の翌年1月、代表取締役に就任したが、3月、元社長で大株主の村山長挙は、横田ら復職した5人の取締役の職務執行停止の仮処分申請を裁判所に提出した。
木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、19… 木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、1904年4月7日 - 1992年7月8日)は、日本の実験原子核物理学者。理学博士(京都帝国大学・論文博士・1940年)。京都大学教授、京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)長を経て、京都大学名誉教授。大阪府立放射線中央研究所長、福井工業高等専門学校長も務めた。勲二等旭日重光章受章。 台北帝国大学(現・国立台湾大学)の荒勝文策教授の下でアジアで最初の加速器(コッククロフト・ウォルトン型)の建設を行った(1934年完成)。敗戦直後の1945年11月に進駐軍によって廃棄された京都大学サイクロトロンをのちに再建し(1954年)、大阪府立放射線中央研究所(1959年発足)、京都大学原子炉実験所(1963年発足、現・京都大学複合原子力科学研究所)の建設を行うなど、日本の原子核・放射線研究の場を創ることに貢献した。
桜井 義之(さくらい よしゆき、1904年4月6日 - 19… 桜井 義之(さくらい よしゆき、1904年4月6日 - 1989年9月12日)は、昭和期の書誌学者である。 福島県久慈川近くで生まれる。中央大学経済学科に通学する傍ら、東京帝大法学研究室でアルバイトとして吉野作造の私設秘書となる。1926年に中央大卒業後、1928年9月に吉野の口利きで京城帝国大学法文学部経済研究室助手として、資料室の配属となった。1933年には、京城帝大朝鮮経済研究所研究員として、四方博の下で書誌の整理を行っている。1941年、京城帝大を離れ、朝鮮総督府文書課に転じ、調査係主査として朝鮮総督府機関誌『朝鮮』の編集にあたった。 戦後は、元京城帝大法文学部長の上野直昭の紹介で東京芸術大学に勤務した後、1950年東京都立大学 (1949-2011)図書館事務長となり、1956年同大学の図書館学・書誌学の専任講師となっている。
松田 武夫(まつだ たけお、1904年4月6日 - 1973… 松田 武夫(まつだ たけお、1904年4月6日 - 1973年10月11日)は、日本の国文学者・作家。 山口県岩国市出身。旧制第五高校(現・熊本大学)卒、1930年東京帝国大学文学部国文科卒。 1956年「金葉集の研究」で東京大学文学博士。1933年陸軍士官学校教授、1940年文部省図書監修官、1952年宇都宮大学教授。 1968年定年退官、専修大学教授。二松学舎大学教授。 勅撰和歌集を中心に平安時代の文学を研究した。創作もおこなった。
勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 197… 勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 1971年1月4日)は、秋田県秋田市本町(現在の大町)生まれの版画家。本名・勝平徳治。 家業である紙漉き業、左官業の傍ら絵を書いていたところ、竹久夢二の絵に惹かれ浮世絵版画を始める。このとき、色刷版画の研究をし、1928年に自画、自刻、自刷の彩色抜法を完成させる。以後、故郷秋田の情景を描き続ける。1929年には日本版画協会展に「外濠夜景」、「八橋街道」が入選。その後、1931年の第12回帝展で第2部初入選など、数々の展覧会に多数入選し国内に名を轟かせた。1935年、秋田県を訪れたブルーノ・タウトと知り合いになり、作品が世界に紹介された。ケルン東洋美術館には代表作およそ70点が保存されている。
小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日… 小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日 - 1979年(昭和54年)8月18日)は、日本の内務官僚。栃木県知事。 徳島県出身。京都高等蚕糸学校を卒業。1927年、京都帝国大学農学部農林経済科を卒業。同年12月、高等試験行政科試験に合格。京都帝大で勤務し、1928年、内務省に転じ茨城県属となる。 福井県書記官・警察部長、警視庁警務部長、広島県部長・警察部長などを務め、1946年1月、栃木県知事となり、1947年3月、初の公選知事選に出馬のため知事を辞任するが次点で落選した。 1955年2月、日本社会党の支援を受けて二度目の知事選出馬で当選を果たした。任期の後半は少数与党のため困難な議会運営を強いられた。
石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 20… 石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 2001年9月1日)は、日本の評論家、社会思想研究家、社会運動家である。 1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。第四高等学校で先輩である中野重治を知り、東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業後、関東電気労働組合に勤務、東京府荏原郡馬込村で西田信春、大間知篤三、岩田義道、栗原佑との5人で共同生活。同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。その後釈放と逮捕を繰り返し、執行猶予となって、1933年11月保釈。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでウラジーミル・レーニンなどの著作を翻訳。
桝田 啓三郎(ますだ けいざぶろう、1904年〈明治37年〉… 桝田 啓三郎(ますだ けいざぶろう、1904年〈明治37年〉4月5日 - 1990年〈平成2年〉12月12日)は、日本の哲学者(ドイツ・アメリカ哲学)。東京都立大学名誉教授。キェルケゴール研究では、日本国内の第一人者であった。 愛媛県喜多郡大洲町(現大洲市)生まれ。生糸繭屑物商桝田與三郎の三男。1930年、法政大学文学部哲学科卒業。三木清の弟子であった。大学卒業後、法政大学で長く教鞭をとった。千葉大学、旧・東京都立大学などでも教えた。 卓越した語学力の持ち主で、キェルケゴール、ウィリアム・ジェームズ、フォイエルバッハ、フィヒテ、ベルクソン、デカルトを翻訳。特にキェルケゴールは、独学でデンマーク語を学び原典翻訳を行い、それまでドイツ語訳を使用することの多かった日本の研究状況を一変させた。
松浦 薫(まつうら かおる、1904年(明治37年)4月4日… 松浦 薫(まつうら かおる、1904年(明治37年)4月4日 - 1975年(昭和50年)7月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県坂出市長。 香川県綾歌郡松山村(現坂出市大屋冨町)出身。1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業した。 兄・伊平の創業した松浦組に入り、同支配人、満州松浦組専務取締役、松浦工業専務取締役、四国瓦斯取締役などを務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で香川県選挙区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。この間、日本自由党幹事に就任した。 その後、高松市助役を務め、1969年(昭和44年)7月12日、坂出市長に就任した。
福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日… 福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日 - 1996年〈平成8年〉1月21日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授。岡山大学名誉教授、日本生理学会特別会員。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)出身。1921年(大正10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1924年(大正13年)3月に新潟高等学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に新潟医科大学を卒業。 1928年(昭和3年)4月に新潟医科大学生理学教室(担任:横田武三教授)助手に就任、1930年(昭和5年)4月に講師に就任、1932年(昭和7年)2月に新潟医科大学から医学博士号を取得、1933年(昭和8年)4月に新潟医科大学生理学教室助教授に就任、1938年(昭和13年)11月に永井潜の推薦で北京大学医学院生理学教室初代教授に就任、太平洋戦争後、1945年(昭和20年)12月に日本に帰国、1946年(昭和21年)6月に新潟医科大学薬理学教室(担任:木原玉汝教授)助教授に就任、1948年(昭和23年)7月に米子医科大学生理学教室初代教授に就任、1949年(昭和24年)5月に鳥取大学医学部生理学教室初代教授に就任、1954年(昭和29年)7月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授に就任、1956年(昭和31年)5月に岡山で第33回日本生理学会総会を主催、1966年(昭和41年)7月に岡山で第8回日本平滑筋学会総会を主催、1970年(昭和45年)3月に岡山大学を定年退官、6月に川崎医科大学生理学教室初代教授に就任、1976年(昭和51年)3月に同大学を退任、同大学客員教授に就任。
森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 19… 森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 1977年12月17日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。 1904年、香川県生まれ。1922年に第五高等学校に入学し、1925年に卒業。東京帝国大学文学部国史学科に進学し、1928年に卒業論文「江戸初期に於ける演劇と社會との関係」をまとめて卒業した、史料編纂所業務嘱託、1932年史料編纂官補、1936年史料編纂官。 戦後、1954年に東京大学史料編纂所教授となり、1962年より所長を務めた。1965年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は白百合女子大学教授として教鞭をとった。 「国書総目録」編集委員のひとり。
宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904… 宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904年(明治37年)4月1日 - 2001年(平成13年)6月12日)は、日本の実業家、児童文学研究者。宮沢賢治と宮沢トシの実弟で、全集の編纂をはじめとする賢治の文学研究に携わった。宮沢和樹は孫。 宮澤政次郎の次男として岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市)に生まれ育つ(賢治の8歳年下)。 1922年、旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、家業を手伝った。同年11月27日、6歳上の姉トシが死去。「家業への嫌悪」とトシ死去などの「暗欝な家庭からの脱出、息抜き」として家族の了解を得た上で、同年12月から東京市本郷区龍岡町(現・東京都文京区湯島)に下宿して、図書館や研数学館で数学(主として幾何学)と科学(主として電気)を学ぶ。
永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947… 永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947年9月7日)は日本の哲学者である。マルクス主義の立場から活動した。 長野県東筑摩郡山形村に生まれる。県立松本中学(後の長野県松本深志高等学校)に学び、小岩井源一(後の詩人、高橋玄一郎)と知り合う。中学時代から哲学に興味を持ち始める。卒業後、1921年に東京外国語学校露語部に入学。クロポトキンら、当時のソ連の哲学動向に関心を持つ。卒業後は一時朝鮮に渡り、国境近い新義州で流入するソ連文献を検閲する任務に当たる。 1927年、パーヴェル・アクセリロード『ブルジョア社会学の批判』を翻訳して刊行、海外文献の紹介、翻訳につとめる。1930年、川内唯彦のすすめでプロレタリア科学研究所に参加し、唯物弁証法の研究につとめる。
竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年… 竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日)は、日本の詩人。本名、育三郎。 兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。小磯の弟子の石阪春生は竹中の甥。 中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。
川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4… 川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4月30日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。 妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。 名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。今日も川喜多一族の名は財団法人『川喜多記念映画文化財団』として映画界に燦然と輝いている。同法人は、日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した映画人等に対して毎年「川喜多賞」を贈り表彰していることで有名である。
印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2… 印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2001年12月19日)は、日本の演出家、演劇研究者(大学教授)。印南 喬(いんなみ たかし)の筆名がある。本名の印南高一に、「いんなみ たかいち」のルビを振る著書もある。 長野県飯田市出身。印南は同郷の先輩河竹繁俊を介しての、坪内逍遙の孫弟子である。財団法人逍遙協会理事を40年間務めた。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立初期から、また坪内が創設した早稲田大学文学部(坪内の当時東京専門学校)に新設された芸術科の設立初期から関わり、半生を奉職した。 演劇の研究分野は東洋演劇をはじめとして、日本、西洋の古今の演劇におよぶ。演出においては、坪内逍遙のページェント(野外劇)運動およびヨーロッパの「音と光」のページェント手法を用いた、シェイクスピア演劇の前衛的な活動などをした。
佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 19… 佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 1964年7月7日)は、日本の経営者。東京都出身。 1928年に東京帝国大学応用化学科を卒業。旭硝子、三菱化成工業での勤務を経て、1950年に日本化成工業常務に就任し、1958年3月に三菱化成工業副社長を経て、1963年9月には社長に就任した。 1964年7月7日胃潰瘍のために社長在任時死去。61歳没。
北野 重雄(きたの しげお、1903年〈明治36年〉4月29… 北野 重雄(きたの しげお、1903年〈明治36年〉4月29日 - 1990年〈平成2年〉3月16日)は、昭和時代の日本の商工官僚、政治家。群馬県知事。勲一等瑞宝章・従三位[要出典]。 1903年(明治36年)大阪府に北野種次郎の長男として生まれる。1923年(大正12年)旧制第三高等学校を卒業。1925年(大正14年)高等文官試験に合格。翌1926年(大正15年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、商工省に入省。鉱山・商務・工務各局事務官、企画院書記官、商工省転業対策部総務課長、振興部総務課長兼金融課長、満洲国経済部鉱山司長、商工省物価局第一部長、総務局総務課長、軍需省文書課長、石炭部長、東部地方鉱山局長、商工省鉱山局長などを歴任。
羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月2… 羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。第80代内閣総理大臣を務めた羽田孜の父。 長野県小県郡和田村(現・長和町)に羽田貞義の三男として生まれる。福島中学(現・福島県立福島高等学校)、旧制新潟高等学校を経て、1929年に東北帝国大学法文学部卒業。東京朝日新聞社に入社し、政治部に勤務。 政治部記者から鉄道大臣秘書官となり、1937年に立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。「羽田書店」を創立する。社員には後に独立してみすず書房を創業する小尾俊人らがいた。 1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟(革新派、中島派)に所属。
小原 敬士(おはら けいじ、1903年4月27日 - 197… 小原 敬士(おはら けいじ、1903年4月27日 - 1972年3月26日)は、日本の経済史学者、経済地理学者。専門はアメリカ経済で、一橋大学経済研究所所長、アメリカ学会会長、経済地理学会会長等を歴任した。学位は、経済学博士(一橋大学・論文博士・1962年)。 静岡県浜名郡浜名町で誕生する。名古屋市立名古屋商業学校を経て、神戸高等商業学校(現神戸大学)に進み、さらに東京商科大学(現一橋大学)に入学して、金子鷹之助に師事して外国経済史を学ぶ。 1929年大学卒業、同年横浜市立商業専門学校(現横浜市立大学)助教授。同教授を経て、1938年に早瀬利雄とともに治安維持法違反で寿町警察署に連行され、1941年から休職となり、1942年に懲役2年執行猶予3年の裁判が確定し失職し、金融経済研究会研究主任となった。
徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 … 徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 - 1974年1月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、実業家、政治家。初代光州府尹、米軍政下の全羅南道知事・江原道知事、第2・5・6・7代韓国国会議員、第5代国会民議院副議長を歴任した。 本貫は利川徐氏、号は月坡(ウォルパ、월파)。父は実業家で元南鮮貿易代表の徐和日。 全羅南道高興郡(本籍は東江面魯東里)または宝城郡筏橋邑出身。16歳のときに三・一運動に参加し、半島木鐸紙事件により逮捕され、ソウル刑務所で6ヶ月間服役した。1923年早稲田大学政経学科卒、1925年ウェズリアン大学卒、1927年コロンビア大学大学院政治社会学部修了。
中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 -… 中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 - 1976年6月3日)は、日本の英文学者、京都大学名誉教授。 京都府生まれ。京都帝国大学英文科卒業。京都女子高等専門学校教授などを経て1934年京都帝大文学部助教授、1949年京大教授。1967年定年退官、名誉教授、関西大学教授、甲南女子大学教授。 シェイクスピアの「ソネット集」を完訳した。 園部高等学校の校歌の作詞も手がけた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26… 原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26日 - 1977年〈昭和52年〉8月23日)は、昭和期の出版事業家。株式会社同志社(のちの婦人生活社、2003年に倒産)を創立する。同志社を創立させる前は、講談社『講談倶楽部』編集長をつとめた。1976年に書かれた『古代日本正史』の著作者として有名。千葉県生まれ。日本大学卒業。1973年4月、勲四等瑞宝章を受章。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
八木 信雄(やぎ のぶお、1903年(明治36年)4月25日… 八木 信雄(やぎ のぶお、1903年(明治36年)4月25日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。黄海道知事。全羅南道知事。 鹿児島県鹿児島市生まれ。現在の鹿児島県奄美市名瀬出身。名瀬小学校2年の時の1910年(明治43年)8月に、八木彦助の養子となって上京。秋田県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1923年(大正12年)第七高等学校造士館文科卒業。1925年(大正14年)高等試験行政科に合格し、翌年東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、黄海道、慶尚北道各警務課長、警務局勤務、黄海道警務部長、警務局警務課長などを経て、1942年(昭和17年)11月、警務局保安課長に任じた。
李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年… 李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年4月23日または1905年4月23日 - 1970年2月14日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第4代商工部長官、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は全州李氏、号は松巌(ソンアム、朝鮮語: 송암/松巖)。キリスト教徒。 京畿道安城郡(現・安城市)出身。中東中学校本科を経て、1934年立教大学経済学部商学科卒。全州の中学校教員を経て、1940年渡米しニューヨーク大学研究科で商学を専攻した。1945年に京城師範学校・京城法学専門学校講師を務め、光復を迎えた。その後は米軍政庁の軍政長官秘書長、民政長官補佐官、中央物価行政処長を経て、1948年にソウル大学校副総長となり、その後は食糧営団理事長、自由党政権下の第4代商工部長官(1952年3月27日~11月6日)、第5代国会参議院軍関係不正調査特別委員会委員長、中東高等学校校長、ソウル学院院長、中東学院理事長、忠武公記念事業会理事長を務めた。
井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月2… 井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月23日 - 1992年〈平成4年〉9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 愛媛県、のちの伊予三島市(現四国中央市)で生まれた。1916年(大正5年)三島尋常高等小学校(現四国中央市立三島小学校)卒業後、土建業を営み、丸和商事、井原建設工業(株)を創立、社長、会長となる。 政界では、三島町会議員となり、1947年(昭和22年)に愛媛県議会議員に当選して2期在任し、県政クラブ会長、同副議長、同議長を歴任 1958年(昭和33年)2月9日に行われた第27回衆議院議員総選挙愛媛2区補欠選挙で自由民主党から出馬して初当選し、以後補欠選挙での当選2回を含めて通算8期務める。
森嶋 太郎(もりしま たろう、1903年4月22日 - 19… 森嶋 太郎(もりしま たろう、1903年4月22日 - 1989年8月8日)は、日本の数学者。東京理科大学名誉教授。和歌山県出身。 数論、代数学を東京大学で学ぶ。フェルマー予想に取り組んだことで知られる。津田塾大学、陸軍士官学校の教授も務めた。1979年勲三等瑞宝章受章。 mを31以下の素数としよう。 p を素数とし、 x, y, z を xp + yp = zp がなりたつ正整数とする。そして p が xyz を割り切らないとする。 このとき p2 は mp − 1-1 を割り切る。 Gundersonはその博士論文の中で、上の定理の証明の問題点を挙げた。 A. Granvilleらも同意し、森嶋の証明を承認できないとしている。
璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - … 璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - 1983年(昭和58年)8月16日)は、璽宇(じう)の教祖。本名は「長岡良子(ながおか ながこ)」。 璽光尊こと長岡良子は、1903年(明治36年)、岡山県御津郡江与味村(現久米郡美咲町江与味)に農家の娘として誕生した。当時の名前は大澤 ナカ(おおさわ なか、大澤 奈賀とも)。 璽宇の公式見解によると、璽光尊は旧岡山藩池田家第13代当主の侯爵池田詮政と安喜子夫人との間に生まれたご落胤であるという。ただし「落胤」とは高貴な男性が配偶者ではない女性と関係して産ませた私生児のことを意味する語なので、この場合は意味が通じない。安喜子夫人は皇族の出自で、池田家へ降嫁する前は安喜子女王といった。
入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - … 入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - 1978年8月13日)は、日本の国際法学者・ジャーナリスト。 鳥取県西伯郡春日村(現・米子市)生まれ、上海で育つ。1919年豊浦中学校中退。1921年日本中学校卒業。1923年第一早稲田高等学院卒業。1927年3月、早稲田大学法学部卒業。1927年4月、ジャパンタイムズに記者として入社。その後、日本新聞連合社記者を経て、1936年1月、同盟通信社に勤務、1937年に同社パリ支局長。1939年に同社ジュネーヴ支局長。『ヴェルサイユ体制の崩壊』全3巻を上梓する。1945年同社編集局外信部長。1945年、時事通信社編集局外信部長。1946年、同社時事研究所長。
古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 199… 古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 1992年12月4日)は、日本の経営者、造船技術者。三菱重工業社長、会長を務めた。福岡県出身。 福岡県柳川市の出身で旧制伝習館中学、旧制第五高校を経て、1926年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。戦艦「武蔵」の設計に携わっていた。1964年に三菱重工業専務に就任し、1971年12月に社長に昇格した。1973年5月から1977年までに会長を務め、1977年から相談役を務めた。 国際貿易促進協会副会長、成蹊学園理事長なども歴任した。 1967年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲一等瑞宝章を受章した。 1992年12月5日肺炎のために死去。
三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4… 三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、日本の洋画家。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。妻は同じく洋画家の三岸節子(旧姓:吉田)、異父兄は作家の子母澤寛(本名:梅谷松太郎)。 祖父の梅谷十次郎は元御家人で、石狩国の漁村厚田村(現:石狩市厚田区厚田)の網元だった(子母澤寛を参照)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父の巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日… 芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。「天の川」の代表作家として活躍、「ホトトギス」でも四S以降の新人として注目されたが、句歴四年、26歳で夭折した。愛媛県出身。 愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの四男。父は教員や村長を歴任し俳句も作った。「不器男」の命名は『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)による。1920年(大正9年)、宇和島中学校(一級上に富澤赤黄男がいた)を卒業し、松山高等学校に入学。 高校では山岳部に所属、日本アルプスを踏破した。 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科に入学。
大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月… 大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1988年(昭和63年)8月27日)は日本の実業家、元四国電力社長・会長。福島県出身。
葛西 泰二郎(かさい たいじろう、1903年4月17日 - … 葛西 泰二郎(かさい たいじろう、1903年4月17日 - 1974年2月9日)は、日本の機械工学者。工学博士。九州大学名誉教授。ラグビー日本代表監督。 福岡市大名町(現・福岡市中央区大名)に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館、1924年第五高等学校理科甲類を経て、1927年九州帝国大学工学部を卒業する。 1930年九州帝国大学助教授、1936年工学博士、1941年同教授と進み、流体機械、ポンプ、水車などを研究、送風機、圧縮機に主力を注いだが、太平洋戦争とともにその才能を買われ軍に奉仕させられることになる。1942年広海軍工廠における研究業務を委嘱され、1944年3月第2陸軍航空技術研究所に配属。
山崎 宏(やまざき ひろし、1903年4月16日 - 199… 山崎 宏(やまざき ひろし、1903年4月16日 - 1992年11月12日)は、日本の東洋史学者。東京教育大学名誉教授。宏の字はムの部分がヒとなる。 1903年、新潟県で生まれた。新潟師範学校、東京高等師範学校を経て、東京文理科大学を卒業。 修了後は、東京高等師範学校に勤務。後に東京文理科大学、1949年に同大学が新制大学として東京教育大学となると、同大学教授として教鞭をとった。1950年、学位論文『隋朝仏教政策の研究』を東京文理科大学に提出して文学博士号を取得。1967年に東京教育大学を定年退官して名誉教授となった。その後は立正大学の教授を務めた。1976年に同大学を退職。1992年に死去。
関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 … 関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉2月13日)は、日本臨済宗の僧侶。 臨済宗天龍寺派管長。天龍寺二百四十一世。俗姓は岩井のち関。諱は巍宗。号は叱咤室また集瑞軒。天龍寺規則・宗制の改正を断行し、自由奔放な禅者として知られた。主な弟子には大森曹玄、加藤隆芳、平田精耕、荒金天倫がいる。 群馬県甘楽郡下仁田町に生まれる。初名は岩井 敏夫。旧制富岡中学校を卒業し、慶応義塾大学医学部予科に進学するが、中退。武者小路実篤の提唱した「新しき村」の思想に感化され、伊吹山麗の「愛の村」で青年を指導。 1928年(昭和3年)岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞巌寺の岡部洪宗和尚について得度。
諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年… 諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1986年〈昭和61年〉7月30日 )は、日本の経営者。群馬銀行頭取、群馬テレビ社長を務めた。位階は従四位。 群馬県勢多郡横野村(現・渋川市)出身。1923年に刀川実業補習学校を卒業し、1929年に上毛銀行(現・群馬銀行)に入行した。1953年10月に取締役に就任し、1959年に常務、1968年10月に専務を経て、1970年11月に副頭取に就任し、1971年5月には頭取に昇格した。1977年に会長、1981年5月に取締役相談役を経て、1984年5月には相談役に就任。群馬テレビ社長、全国地方銀行協会会長なども歴任。全国銀行協会連合会理事、日本経済団体連合会常任理事。
佐藤 武(さとう たけし、1903年4月13日 - 1978… 佐藤 武(さとう たけし、1903年4月13日 - 1978年12月8日)は、日本の映画監督である。松竹蒲田撮影所から東宝映画、戦後の新東宝へと転身した。 1903年(明治36年)4月13日、東京府荏原郡目黒村(現在の東京都目黒区)に生まれる。 1932年(昭和7年)ころに、松竹キネマの松竹蒲田撮影所演出部に入社、清水宏、島津保次郎に師事する。同年、詳細不明の映画『かくて田園は輝く』で監督としてクレジットされているが、このころの佐藤は、サード助監督程度のランクにいた。 1938年(昭和13年)、東宝映画の東宝映画東京撮影所に入社、『チョコレートと兵隊』で監督に昇進する。 第二次世界大戦終了後の1947年(昭和22年)、新東宝映画製作所(のちの新東宝)設立に参加、同社の初年度に『九十九人目の花嫁』を監督する。