渡邊 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1914年5月11日 -… 渡邊 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1914年5月11日 - 1998年6月22日)は、日本の男性フィギュアスケート選手。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。慶應義塾大学経済学部卒業。 この項目は、フィギュアスケート選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:フィギュアスケート/プロジェクト:フィギュアスケート)。
河合 正治(かわい まさはる、1914年5月10日 - 19… 河合 正治(かわい まさはる、1914年5月10日 - 1990年3月7日)は、日本の日本史学者。学位は文学博士。広島大学の名誉教授。専門分野は日本の中世史。 三重県鳥羽町に生まれる。1939年に広島文理科大学の史学科を卒業し、佐賀県女子師範学校の教員となり、愛知第二高等師範学校助教授・教授を経て、1946年9月に広島高等師範学校に赴任。同校の教授、広島大学文学部の助教授、教授。その後、1979年4月から1988年3月まで福山大学一般教育部教授を務めた。 中世武家社会の研究が専門であり、1965年1月25日付けで、博士論文「中世武家社会とその精神構造」で広島大学から文学博士の学位を授与される。その一方、廣島高等師範学校に赴任したことで、1947年以来数年間、魚澄惣五郎の指導を受け、共に瀬戸内海各地の実地調査を行い、毛利氏をはじめとする地域史研究にも取り組んだ。
古賀 守(こが まもる、1914年(大正3年)5月9日 - … 古賀 守(こが まもる、1914年(大正3年)5月9日 - 2003年(平成15年)4月28日)は、日本のワイン研究家。日本におけるドイツワインの権威。 長崎県佐世保市出身。生家は醸造家。東京農業大学農芸化学科を卒業後、1936年から1945年にドイツ遊学。ハイデルベルク、ライプツィヒ、ベルリンの大学で学んだ。 メッセで日本代表としてゲッベルス宣伝相の隣に座った経験も持つ。ベルリンにてドイツの敗戦を体験、捕虜交換のシベリア鉄道で帰国後、故郷近郊から長崎の原爆雲を目撃、日本の終戦も経験する。一時高校教諭を務めた後、カメラのライカ、医薬のメルクの日本輸入総代理店であったシュミット商会に入社、井上鍾社長の下、薬品部長から、初代ワイン部長となった。
嶋津 千利世(しまづ ちとせ、1914年5月9日 - 200… 嶋津 千利世(しまづ ちとせ、1914年5月9日 - 2000年12月28日)は、日本の女性問題研究家。島津千利世とも。 茨城県生まれ。1949年日本大学法文学部卒。群馬大学教育学部助教授、教授。80年定年退官。
浅井 太郎(あさい たろう、1914年5月8日 - 没年不明… 浅井 太郎(あさい たろう、1914年5月8日 - 没年不明)は、広島県出身の元プロ野球選手(内野手)。
上田 稔(うえだ みのる、1914年5月8日 - 2011年… 上田 稔(うえだ みのる、1914年5月8日 - 2011年9月17日)は、日本の官僚、政治家及び技術士(建設部門)。京都府京都市出身。自由民主党参議院議員(4期)。京都帝国大学工学部卒業。1986年、勲一等瑞宝章受章。従三位。
桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1… 桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1935年5月13日)は、日本の俳優である。本名松田 秀雄(まつだ ひでお)。日本映画データベースにおける「柱章太郎」は、単純な誤記である。満18歳で映画主演して以降、サイレント末期の剣戟映画における青年スターであったが、満21歳で戦死した。 1914年(大正3年)5月8日、東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、旧制小学校を卒業し、同年4月、旧制・日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)に進学したが、満15歳になる1929年(昭和4年)、同校を中途退学して京都に移り、等持院の東亜キネマ京都撮影所に入社する。
芝木 好子(しばき よしこ、1914年5月7日 - 1991… 芝木 好子(しばき よしこ、1914年5月7日 - 1991年8月25日)は、小説家。
豊田 尭(豊田堯、とよだ たかし、1914年5月6日- )は… 豊田 尭(豊田堯、とよだ たかし、1914年5月6日- )は、西洋史学者。 奈良県生まれ。1939年京都帝国大学文学部史学科卒。60年「バブーフとその時代 フランス革命の研究」で京都大学文学博士。戦前は同志社大学予科と第三高等学校で教授を、戦後は京都大学助教授、1959年大阪大学文学部助教授、64年教授。78年定年退官、名誉教授。87年勲三等旭日中綬章受章。
宮崎 梧一(みやざき ごいち、1914年5月5日 - 200… 宮崎 梧一(みやざき ごいち、1914年5月5日 - 2003年3月5日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。千葉県出身。 旧制富山高校から1940年(昭和15年)に東京帝国大学法科を卒業。司法官試補、裁判官になり、札幌地裁、大阪地裁などに勤務。1944年(昭和19年)に陸軍に召集され中国に出征し、トップで見習士官となり、敗戦の時に法務中尉。終戦後はソ連にシベリア抑留され、モスクワ郊外で労働をさせられた。 復員後、「裁判官ではとても食えない」として1948年(昭和23年)に弁護士登録。目立つような事件が手掛けなかったが、離婚、遺産、借金などの市民のゴタゴタや刑事事件の国選弁護人などをしてきた。 1980年(昭和55年)2月5日に最高裁判所判事となる。
井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 199… 井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 1993年1月7日)は、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。
桝井 迪夫(ますい みちお、1914年(大正3年)5月4日 … 桝井 迪夫(ますい みちお、1914年(大正3年)5月4日 - 1992年(平成4年)6月11日)は、日本の英語学者・英文学者。 1914年、鳥取県生まれ。広島文理科大学で学び、1938年に卒業。卒業後は、広島高等師範学校教授に就いた。1945年被爆。 学制改革に伴い広島高等師範学校が1947年より広島文理科大学となると同大学助教授。1949年に広島文理科大学が広島大学に包摂されて以降は、同大学文学部教授。文学部長も務めた。1961年、学位論文『チョーサーの脚韻語の構造研究』を東京大学に提出して文学博士を取得。1978年に広島大学を定年退官し、名誉教授となった。 学界では、日本英文学会の評議員、理事を務めた。
前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 … 前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 - 1971年8月17日)は、愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。第39代横綱。本名は萩森 金松(はぎもり かねまつ)。 1914年5月4日に愛媛県西宇和郡喜須来村で生まれる。喜須木尋常高等小学校を卒業後、1928年に高砂一行が高知市へ巡業に来た際、体格の良い金松少年がいるのを見つけた高砂が自ら勧誘した。当時の金松少年は相撲に対して興味を示さなかったが徐々に気持ちが傾き、大工だった兄を頼って上京してその日の夜に高砂部屋へ入門、1929年1月場所で初土俵を踏んだ。金松は入門に関して自惚れのようなものがあり、自分より体の小さい力士がおり、それには勝てるだろうなどと思っていた。
川口 弘(かわぐち ひろし、1914年5月3日 - 1998… 川口 弘(かわぐち ひろし、1914年5月3日 - 1998年7月11日)は、日本の経済学者。中央大学名誉教授。中央大学元学長。専門はケインズ経済学、金融論。 ケインズ経済学とりわけ「一般理論」の解釈において評価が高い。当時有力なコンメンタールだった伊東光晴、宮崎義一著「コンメンタール一般理論」にも一般理論解釈を巡って批判を行った。(中央大学経済学会 経済学論纂 川口弘教授古希記念論文集参照)また、日本経済評論社から刊行されているポストケインジアン叢書第1期にも深く関与しており、自身も訳出していると同時に所属していた中央大学経済学部、商学部の教員が中心となって作業がなされた。 学説的にみてイギリス・ケインジアンに近い。
宮嶋 巌(みやじま いわお、1914年5月2日 - 2005… 宮嶋 巌(みやじま いわお、1914年5月2日 - 2005年6月21日)は、北海道小樽市出身のスキージャンプ選手。宮島の表記もある。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)4年時にジャンプを始めた。中学卒業後、小樽高等商業学校(現:小樽商科大学)に進む。 高等商業学校在学中の1936年にガルミッシュ・パルテンキルヒェンオリンピックに出場、31位だった。本人は「恥ずかしいばかりの成績」と不本意な結果だった。 当時主流だった両腕を前に伸ばして前傾するフォームではなく、現在において主流になっている両腕を身体に添えるフォームを用いていたという。
金子 孫市(かねこ まごいち、1914年5月2日 - 199… 金子 孫市(かねこ まごいち、1914年5月2日 - 1996年7月5日)は、日本の教育学者。東京教育大学名誉教授。 福島県生まれ。会津中学校(現福島県立会津高等学校)卒、1939年東京文理科大学卒、46年同大学助手、1951年東京教育大学助教授、教授、1978年定年退官、名誉教授、文教大学教授。85年退職、インターカルト日本語学校校長。
加藤 光(かとう ひかる、1914年〈大正3年〉5月2日 -… 加藤 光(かとう ひかる、1914年〈大正3年〉5月2日 - )は日本のスーパーセンテナリアン、長寿の男性。2026年2月8日以降、日本国内の男性最高齢者である。 1914年(大正3年)5月2日、今の熊本県山鹿市生まれ。農林省に入省し、24歳の時に応召、陸軍第48師団配属となり当初は台湾に派遣された。その後太平洋戦争開戦劈頭4日目のフィリピン上陸作戦に参加しアメリカ軍と交戦、右足を負傷した。負傷から復帰した後はインドネシアのティモール島に駐留し、そこで終戦を迎えた。終戦による武装解除後は捕虜として野菜やサツマイモを育てる自活生活を送り、1946年5月に復員した。 帰国後も農林省に勤め、59歳で退職した。
清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 … 清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 - 2014年(平成26年)8月29日)は、日本の教育学者、信州大学名誉教授、松商学園短期大学第6代学長。専門は、教育学、特に学校図書館の研究や、教育工学的な視聴覚教育の研究などであった。 長野県諏訪郡原村出身。長野県諏訪中学校、長野師範学校から、東京高等師範学校に進み、1944年に東京文理科大学教育学科を卒業した。同年、下諏訪小学校訓導、東京高等師範学校教諭、1946年に北海道第一師範学校助教授を務めた後、東京学芸大学講師を経て、1951年に信州大学教育学部助教授となり、1968年に教授に昇任した。1970年に文部省在外研究員としてコロンビア大学、オハイオ州立大学に留学。
岸本 英太郎(きしもと えいたろう、1914年〈大正3年〉5… 岸本 英太郎(きしもと えいたろう、1914年〈大正3年〉5月1日 - 1976年〈昭和51年〉3月11日)は、日本の経済学者。元京都大学教授。学位は、経済学博士(同志社大学)。 岡山県出身。第六高等学校を経て1937年京都帝国大学法学部卒業。出版社などの勤務を経て1946年専修大学講師、1948年京都大学経済学部助教授、1952年より広島大学、岡山大学の助教授を併任。同年学位論文「社会政策論の根本問題」により同志社大学より経済学博士の学位を取得。1957年京都大学経済学部教授、1965年同学部長。専門は労働問題・社会政策論。大河内一男らと社会政策本質論争を行う。教授在職中に逝去。享年61。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
山本 荘毅(やまもと そうき、1914年5月1日 - 199… 山本 荘毅(やまもと そうき、1914年5月1日 - 1999年2月14日)は、日本の地理学者・陸水学者。専門は、地下水水文学。筑波大学名誉教授、東京成徳短期大学名誉教授。 1914年、千葉県銚子市に生まれた。千葉県立匝瑳中学校(現在の千葉県立匝瑳高等学校)、千葉県師範学校本科第2部、東京高等師範学校文科第四部(地歴)を経て、東京文理科大学地学科に入学した。地理学専攻で学び、1940年に卒業。 卒業後は南満州鉄道に就職して、地下水資源の開発にあたった。 戦後は農林省に技官として勤務し、アメリカ地質調査所へ留学。その後は地盤沈下調査事務所長も務めた。1952年、学位論文『満洲の地下水の水理地質学的研究』を東京大学に提出して理学博士を取得した。
井上 早苗(いのうえ さなえ、1913年(大正2年)5月31… 井上 早苗(いのうえ さなえ、1913年(大正2年)5月31日 - 2011年(平成23年)7月1日)は、日本の女子テニス選手。日本女子テニス連盟名誉会員。結婚前の岡田 早苗としても活躍した選手である。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)出身。東京府立第二高女(現竹早高校)卒業。日本における「女子テニス」の草分けとして、1930年代から1950年代まで長く活動した。佐藤次郎の婚約者として知られるも、婚約中に佐藤を投身自殺によって失う。しかしその後ショックから立ち直り、1936年の「日米国際庭球戦」参加や全日本テニス選手権女子ダブルス6勝などの戦績を残した。 岡田は両親がテニス愛好家だったことから、幼年時代からテニスに親しんだ。
仮谷 忠男(かりや ただお、1913年5月30日 - 197… 仮谷 忠男(かりや ただお、1913年5月30日 - 1976年1月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(5期、自由民主党)。建設大臣(第37代)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県幡多郡上灘村(現土佐清水市)出身。高等小学校卒業後、家業の農業に携わる傍ら、漁師もしていた。清水町助役、以布利漁協組合長、県漁連副会長を経て1947年より高知県議会議員を4期、同議長も経験して超党派県政をスローガンに公正円満な議会運営で与野党問わず議員の人望を得た。1960年の第29回衆議院議員総選挙に高知県全県区から自由民主党で立候補し、当選する。自民党では佐藤派→田中派に所属する。農林政務次官、建設政務次官、衆議院農林水産委員長を歴任し、田中改造内閣で科学技術庁長官を要請されたが辞退し、1974年三木武夫内閣で建設大臣に就任する。
鈴木 永二(すずき えいじ、1913年5月29日 - 199… 鈴木 永二(すずき えいじ、1913年5月29日 - 1994年10月11日)は日本の経営者。位階は正三位。三菱化成元・社長。第6代日経連会長。
猪飼道夫(いかい みちお、1913年5月28日 - 1972… 猪飼道夫(いかい みちお、1913年5月28日 - 1972年1月3日)は、日本の運動生理学者。 愛知県出身。東京帝国大学医学部医学科卒。 1945年11月「頸反射の研究」で医学博士。 1950年お茶の水女子大学教授。東京大学医学部助教授を経て、1957年東大教育学部体育学科主任教授。 1958年から1年間米国に留学し、業績を挙げた。運動生理学の権威で1967年には国際体育会議の副会長も務めた。 1962年トレッドミル(自動式無限走行盤)を日本で初めて設置した。59歳で在任中に没。
井元 正流(いのもと まさる、1913年(大正2年)5月28… 井元 正流(いのもと まさる、1913年(大正2年)5月28日 - 2008年(平成20年)7月8日)は、昭和時代の政治家。医師。鹿児島県西之表市長。 西之表市出身。井元出千代・ヨ子の三男。1936年(昭和11年)東京医学専門学校卒業。 駿河台病院、立川飛行機病院に勤務。1943年(昭和18年)5月27日に応召され、近衛騎兵連隊附軍医となる。 1945年(昭和21年)9月6日をもって応召を終える。1946年(昭和21年)2月11日、西之表市に井元医院を開業。1951年(昭和26年)年4月23日から1955年(昭和30年)4月29日まで西之表町議会議員。1961年(昭和36年)12月23日から(昭和47年)1月12日まで西之表市教育委員会委員長。
木村 有恒(きむら ありつね、1913年5月27日 - 没年… 木村 有恒(きむら ありつね、1913年5月27日 - 没年不明)は、日本の経営者。日産化学工業社長、会長を務めた。山形県出身。 1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1962年7月に日産化学工業常務に就任し、1967年12月に専務を経て、1971年7月には社長に就任。1980年7月に会長、1986年7月に取締役相談役を経て、1988年6月には相談役に就任。 1986年11月に勲三等瑞宝章を受章。
工藤 篁(くどう たかむら、1913年5月27日 - 197… 工藤 篁(くどう たかむら、1913年5月27日 - 1974年12月11日)は、日本の中国語・文学者、東京大学名誉教授。 台湾台北州宜蘭市で小島義夫の子として生まれ、台湾総督府官吏の工藤清の養子となる。1932年台北高等学校卒、1936年東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科卒業。在学中より竹内好らの中国文学研究会に入る。1939年東京商科大学予科講師、1940年教授。1949年一橋大学助教授、1950年3月東京大学教養学部中国語助教授、1963年教授、1974年3月定年退官、名誉教授、同年12月に死去。 1950、60年代の数少ない東大教養課程中国語教員として、多くの学生を現代中国研究者へと導いた。
小松 春雄(こまつ はるお、1913年5月26日 - 198… 小松 春雄(こまつ はるお、1913年5月26日 - 1988年5月11日)は、日本の政治学者、中央大学名誉教授。英国保守主義のエドマンド・バーク、その論敵トマス・ペインを研究した。 徳島県麻植郡鴨島町(現・吉野川市)出身。1938年東京帝国大学法学部政治学科卒。1939年東亜研究所研究員。1946年東京大学社会科学研究所研究員。その後、東京大学職員、法政大学法学部兼任講師を経て、1950年國學院大學政経学部助教授、1953年中央大学法学部助教授、1955年法学部教授、1962年「イギリス保守主義史研究」で中央大学で法学博士。1967年中央大学図書館長、1973年中央大学附属中学校・高等学校長、1974年日本政治学会理事長、1979年中央大学社会科学研究所初代所長、1984年中央大学定年退任、名誉教授、成蹊大学経済学部教授。
臼井 勝三(うすい かつぞう、1913年(大正2年)5月24… 臼井 勝三(うすい かつぞう、1913年(大正2年)5月24日 - 2004年(平成16年)5月20日)は、日本の政治家。岩手県大船渡市長(3期)。 岩手県大船渡市出身。高小卒。卒業後は、郵便局に勤務し、その後、気仙郡広田村役場に入り、書記となる。戦時中の1939年に召集され、4年後に帰還、復職し、収入役、助役となる。。戦後は盛岡市役所に転じ、文書、審査の各係長を務めた。1953年に市制施行後の大船渡市に戻り、市役所に勤務。福祉事務所長、産業、総務、財務の各課長を経て、収入役、助役となり、1976年、大船渡市長に当選した。市長は3期務め、3期途中の1986年に病気のため退任した。1987年秋の叙勲で勲四等瑞宝章受章。
鈴木 省三 (すずき せいぞう、旧名:若林 省三(わかばやし… 鈴木 省三 (すずき せいぞう、旧名:若林 省三(わかばやし せいぞう)、1913年5月23日 - 2000年1月20日)は日本のバラの育種家。京成バラ園芸所長。「ミスターローズ」と呼ばれた。 1913年東京府小石川に生まれる。1922年下落合に転居。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)卒業後、東京府立園芸学校二部専修科(東京都立園芸学校)で造園、育種学などを学ぶ。園芸学校卒業後は園芸業者のもとで見習い、この頃からバラへの関心をもち始める。1938年に現在の世田谷区奥沢に「とどろきばらえん」開園。バラの生産と育種を始める。 戦後は「とどろきばらえん」を拠点に育種に取り組むほか、各地のバラの展示会に参加。
外山 八郎(とやま はちろう、1913年5月22日 - 19… 外山 八郎(とやま はちろう、1913年5月22日 - 1996年1月19日)は、日本におけるナショナルトラスト運動の先駆者、篤志家。 1913年、外山脩造の孫(脩造の長男の子)として和歌山県日高郡南部町(現みなべ町)に生まれる。祖父の脩造は長岡藩家老河井継之助に抜擢されて藩の財政改革に携わった豪農であり、明治維新後には日本銀行大阪支店長、衆議院議員、阪神電鉄初代社長などを務めた実業家である。父は脩造の長男であったが、表舞台に出ることはなく南部町で隠棲したという。 1937年、東京帝国大学法学部卒業後、三菱海上火災保険に就職するが、同年12月に肺結核を発病したため、帰郷し白浜町などで療養生活を送る。
佐々木 直吉(ささき なおきち、1913年(大正2年)5月2… 佐々木 直吉(ささき なおきち、1913年(大正2年)5月20日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。真珠湾攻撃において「甲標的」(特殊潜航艇)搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。 島根県出身。出産前からの心臓病で直吉の出産4日目に死亡、7歳で父を失っている。酒屋、農業、石見焼製造を営む叔父夫婦に育てられ、小学校高等科を卒業。金物商や材木商に見習いとして勤めたが、短期間で帰郷。海軍を志望し、2度目の受験で合格。1932年(昭和7年)呉海兵団に入団した。 駆逐艦「薄雲」、「蔦」、「磯波」乗組の艦隊勤務のほか、潜水学校、水雷学校高等科を修了している。
富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(… 富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(大正2年)5月18日 - 2006年(平成18年)4月11日)は、日本の彫刻家、三洋電機の工業デザイナー。長崎県長崎市生まれ。叙従三位。 東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑像部首席卒業。同校では北村西望、朝倉文夫、建畠大夢が教鞭をとっており、特に北村西望に師事した。〈在学中の1936年(昭和11年)に日展の前身、文展に「F子の首」(長崎県美術館蔵)にて初入選して以来、日展を主な舞台に活躍した。1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけ、3年連続で日展の特選を受賞〉。同研究科卒業。 1972年(昭和47年)日本芸術院賞受賞。
門井 八郎(かどい はちろう、1913年(大正2年)5月17… 門井 八郎(かどい はちろう、1913年(大正2年)5月17日 - 1993年(平成5年)4月12日)は、昭和期の作詞家。 茨城県下妻市渋井出身。門井英一、とく の五男として生まれた。1933年(昭和8年)下妻中学校(現茨城県立下妻第一高等学校・附属中学校)を卒業。 逓信省東京逓信局などに勤務して経理事務を担当する傍ら詩作に励む。作詞家佐藤惣之助の門に入り厳格な指導を受けたあと、長谷川伸門下となって小説を学ぶ。 1953年(昭和28年)、長年勤めていた郵政省の職員を辞め、業界紙を手がける仕事を行う。後に作詞家となりテイチク専属となり、三波春夫の「チャンチキおけさ」、「船方さんよ」、アイ・ジョージの「赤いグラス」などのヒット曲を手がけた。
八木 米次(やぎ よねじ、1913年(大正2年)5月17日 … 八木 米次(やぎ よねじ、1913年(大正2年)5月17日 - 1992年(平成4年)12月5日)は、日本の政治家である。兵庫県西宮市長。兵庫県西宮市出身。息子は西宮市議・紙すき職人の八木米太朗。 昭和高等商業学校(現大阪経済大学)卒業。1951年から8期にわたり西宮市議会議員を務め、議長も歴任。 1980年11月の西宮市長選挙に立候補し当選。3期12年にわたり市長を務め、全国初となる24時間ドクターカー制度の設置や、兵庫イアーバンクに整備など多くの業績を残した。 また、JR宝塚線西宮名塩駅設置にも貢献し、同駅の駅前広場には、記念碑がある。 従四位、勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 19… 紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 1945年10月3日)は、山形県生まれの作曲家。 1913年、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)で生まれる。紺野家は祖父の代からの医者の家で、陽吉は男3人女3人の6人兄弟の次男であった。県立長井中学校 (現山形県立長井高等学校) を1931年に卒業し、上京する。親は医学の道を望んだが、本人は自分の好きな音楽の道へ進む。立教大学交響楽団やコンセール・ポピュレール (後の青年日本交響楽団) というセミプロ楽団でヴァイオリンを弾く。生活の糧は、当時さかんに発売されていたポピュラー音楽のレコード録音の伴奏者として得ていたものと考えられる。
瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日… 瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日 - 2006年(平成18年)6月11日)は、日本の政治家。都城市長を2期歴任した。 福岡県浮羽郡、のちの浮羽町(現うきは市)で生まれた。1934年(昭和9年)福岡師範学校を卒業。さらに1943年(昭和18年)明治大学法科を卒業。 1944年(昭和19年)1月、都城市役所に入所した。同市職組合長、資材課長、厚生課長、庶務課長、総務課長を歴任。1953年(昭和28年)都城市議会議員に選出され2期在任。1976年(昭和51年)都城市長に選出され2期在任した。 1976年、前市長の堀之内久男が衆議院議員総選挙出馬に無所属で出馬を表明したために、後任の市長を選出するための選挙を行う。
藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 201… 藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 2018年12月10日)は、日本の歴史学者、考古学者で、古代日本史から近代東アジア史まで幅広く研究を行った。 広島市生まれ。1936年、早稲田大学文学部史学科卒。1938年、日本評論社入社、戦前には教育科学研究会生活教育研究部会に参加。1945年7月、埼玉県立浦和中学校教諭、1949年、民主主義科学者協会事務局常任書記長、1951年まで務める。1952年の第25回衆議院議員総選挙及び1953年の第26回衆議院議員総選挙に埼玉1区から出馬するが落選。1971年、熊本商科大学教授、同付属海外事情研究所長、1982年、退職。 日本共産党に属し、戦後しばらく、マルクス主義歴史学者として、井上清、石母田正と並んで盛名を馳せ、当時の学生の必読書となった。
野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日… 野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日 - 1947年(昭和22年)4月28日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は陸軍少佐。正六位。インパール作戦に参謀として従軍、終戦後の復員前に不可解な自決を遂げた。 佐賀県神埼郡神埼町において生まれる。野中は幼少の頃より秀才であったが、生家は貧しかったので、町内の素封家の学資援助で、神埼町立神埼小学校へ入学、納富健次郎と生涯にわたる親友となり共に首席を争うが納富にはかなわなかった。納富は海軍兵学校第62期として皇族2名を除いて14番/123名で卒業している。空母「瑞鶴」飛行隊長(海軍大尉)として、1943年(昭和18年)11月8日の第2次ブーゲンビル島沖航空戦で戦死、海軍中佐に二階級特進している。
伊黒 正次(いぐろ まさじ、1913年5月14日 - 200… 伊黒 正次(いぐろ まさじ、1913年5月14日 - 2000年10月4日)は、1930年代に活躍した元スキージャンプ選手。 山形県生まれで、7歳の時小樽の伊黒家に養子入りする。旧姓は松宮。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)-北海道帝国大学(現:北海道大学)から札幌鉄道局(札鉄、のち札幌鉄道管理局)。安達五郎は旧制小樽中学の同期生である。 1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックに出場し、ジャンプ競技で7位入賞を果たす(当時は入賞は6位までだったため、入賞はならなかった)。 1938年(昭和13年)のノルディックスキー世界選手権大会(フィンランド・ラハティ)で10位。 1940年札幌オリンピックが幻に終わったことを機に札鉄を退職して茨城県の日立製作所に転職、一時競技を離れた。
普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 19… 普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 1995年5月30日)は日本の実業家。元日本信託銀行社長・会長。 神奈川県出身。旧制神奈川県立小田原中学校(神奈川県立小田原高等学校の前身)、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を経て、第百銀行に入行。 三菱銀行で総務部長や常務を務めたのち、1974年に日本信託銀行社長就任。日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権が生じていた同行のたてなおしにあたった。また労働組合との関係改善も進め、のちの三菱銀行との経営統合の基盤を作った。1981年に社長を退任し、会長に就任。1987年6月、会長を退き、取締役相談役に就任。1988年6月には取締役を退任し相談役に就任。
山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月1… 山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月13日 - 1977年(昭和52年)11月)は、沖縄県出身の洋画家。 那覇市西村生まれ。父親は警察官。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に進学、「樹緑会」に属し美術教師の比嘉景常から指導を受ける。卒業後、反対を押し切り上京し、東京美術学校を受験するが失敗、川端画学校に入り木炭によるデッサンを習得した。 1933年(昭和8年)、東京美術学校油画科に入学し、シュルレアリスムのグループ〈貌〉に加わる。1938年(昭和13年)、東京美術学校油画科を卒業。1941年(昭和16年)、比嘉景常の後任の美術教師として県立第二中学校に赴任する。
中村 健也(なかむら けんや、1913年5月13日 - 19… 中村 健也(なかむら けんや、1913年5月13日 - 1998年8月11日)はトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)の元技術者で、初代トヨペット・クラウン、及び初代トヨペット・コロナの開発責任者(トヨタ自動車での呼称は車両開発主査〔後にチーフエンジニアに名称変更〕)。また、日本の自動車開発に於けるチーフエンジニア制を築いた人物でもある。 兵庫県西宮市出身。1934年3月に長岡高等工業学校(現在の新潟大学工学部電気工学科)を卒業。共立自動車製作所勤務を経て、1938年9月にトヨタ自動車工業に入社、志望として設計、実験の分野を希望していたが、出身校や溶接の知識に詳しい事が注目され挙母工場(後の本社工場)車体生産課工機係に配属され、自社での大型2000tプレス機の開発、溶接機の改良等、工場の生産能力の向上に尽力する。
村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2… 村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2007年9月6日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー審判員。選手時代のポジションはGK。 東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代にサッカーを始める。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部に入学し、ア式蹴球部に入部した。4年次の1936年に後輩の佐野理平の台頭や、川本泰三の勧めもあってマネージャーへ転向した。 1937年に大学を卒業して三井物産に入社。同時に審判としての勉強も始め、同年7月に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)審判研修会に参加した。 戦後、日本スポーツ界の国際大会への復帰が認められると、オリンピック招致と1958年のアジア大会が待ち構えていた。
中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 -… 中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 - 1977年12月4日)は、日本の教育者。医学者。山口大学第5代目学長。専門は基礎医学・生化学。 京都帝国大学医学部卒業。1944年、山口県立医学専門学校(現・山口大学医学部)講師、同校助教授、同校教授を経て、1973年山口大学第5代目学長に就任(1977年まで)。日本電気泳動学会総会第12回総会長を務めた。 就任当時は実験機器が不足していた為、必要な物は手作りで補い、実験に取り組んでいた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
林 大 (はやし おおき、1913年5月8日 - 2004年… 林 大 (はやし おおき、1913年5月8日 - 2004年3月30日) は、日本の国語学者。国立国語研究所所長、国語学会代表理事などを務めた。 林古渓の長男として、東京市に生まれた。1934年に浦和高等学校を卒業し、東京帝国大学に入った。文学部国文学科で橋本進吉に師事し、1937年に卒業した。 1946年に文部省教科書局嘱託となる。1949年からは、国立国語研究所と文部省調査普及局国語課に兼務した。1960年には国立国語研究所第一研究部部長、1966年には同第四研究部部長に任ぜられた。 1967年からは文部省初等中等教育局視学官、1972年からは同主任視学官として、学年別漢字配当表および学習指導要領国語科編の改訂にたずさわった。
目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002… 目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002年2月9日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1937年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、東洋紡での勤務を経て、1944年9月に東洋ゴム工業に入社。1959年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1977年5月に会長に就任し、1983年6月には相談役に就任。 1977年に紺綬褒章を受章し、1978年に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1… 李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1月3日)は、日本の実業家である。三亜薬品工業(現在の日本ベーリンガーインゲルハイム)創業者・社長、東亜興行創業者・社長。東京韓国商工会議所初代会長、在日韓国商工会議所初代会長を歴任した。日本名は高橋 康友(たかはし こうゆう)、おもに映画界では日本名を名乗った。大韓民国勲章(朝鮮語版)冬柏章受章者。 1913年(大正2年)5月8日、日本統治時代の朝鮮・慶尚南道昌原郡東面(現在の大韓民国慶尚南道昌原市義昌区東邑)に生まれる。 長じて東京に移住し、星薬科大学を卒業する。1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後も東京に残り、翌1946年(昭和21年)には、中野区鷺宮に三亜薬品工業株式会社を設立、胃腸薬「イモール」の製造販売を行った。
久米 常民(くめ つねたみ、1913年5月5日 - 1977… 久米 常民(くめ つねたみ、1913年5月5日 - 1977年2月10日)は、日本の国文学者。専門は万葉集であり、中部地方における万葉研究の中心的な役割を果たした。学位は、博士(文学)(名古屋大学)。愛知県知多郡東浦村(現・東浦町)出身。 1913年(大正2年)5月5日、愛知県知多郡東浦村(現・東浦町)藤江に生まれた。1920年(大正9年)4月に藤江尋常小学校に入学し、1926年(大正15年)3月に藤江尋常小学校を卒業した。1926年(大正15年)4月に旧制愛知県立半田中学校に入学し、1931年(昭和6年)3月に愛知県立半田中学校を卒業した。半田中学校時代の友人として、後に児童文学作家となる新美南吉(本名は新美正八)がおり、南吉と久米は互いが書いた文学作品を交換して読み合うなどしていた。
近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日… 近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日 - 2006年〈平成18年〉6月21日)は、日本の歌人。男性。 本名は近藤 芽美(読み同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活動し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持ち、ゼネコンや大学に籍を置く。 東工大建築科卒。「アララギ」に入会、土屋文明に師事。1948年刊行の『埃吹く街』は戦後の短歌の方向を樹立したものといわれている。戦争経験をもつ知識人の立場から時代状況を鋭く歌いつづけた。ほかに『黒豹』(1968年)など。 1913年、慶尚農工銀行(後の朝鮮殖産銀行)に勤務する父の赴任先だった朝鮮・慶尚南道の馬山で出生。