西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)… 西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)5月15日 - 1982年(昭和57年)8月2日)は、日本の実業家。西大路家の第22代当主。父は西大路吉光。早稲田大学卒業。東京都出身。 東京都出身。子爵・西大路吉光とその妻で金刀比羅宮宮司・琴陵宥常の娘・八千代の長男として生まれる。早稲田大学卒業。1953年(昭和28年)に父の吉光が亡くなり西大路家の家督を継いだ。 私生活では日本電力社長・池尾芳蔵の次女である正子と結婚し、1男2女を授かった。 1982年(昭和57年)、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13… 笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉3月16日)は、日本の俳優。身長171cm。 1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演した。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも、木下惠介、岡本喜八、山田洋次、黒澤明等の監督の作品に登場し、貴重なバイプレーヤーとして活動した。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。 熊本県玉名郡玉水村(天水村、天水町を経て、現在の玉名市)立花で父・淳心、母・トシの次男として生まれる。
谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年… 谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年11月23日)は、日本の政治家、歌人。 本名は谷 国夫(たに くにお)。 栃木県那須郡湯津上村(現大田原市)佐良土に生まれる。1920年(大正9年)3月、宇都宮商業学校を卒業。家業の商店を継ぐ傍ら、歌誌『創作』に入会し若山牧水に師事した。後に吉植庄亮の『橄欖』に入会する。 1942年(昭和17年)4月、湯津上村議会議員に当選した。以後5回当選し、1951年(昭和26年)4月から村議会副議長を4年間、1965年(昭和40年)4月から村議会議長を2年間務めた。途中、1957年(昭和32年)12月には合併をめぐる対立から村議会議員を辞職している(後述)。
高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日… 高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月17日)は、日本の教育者、政治家。国際短期大学の創立者にして初代学長。息子は二代目学長の高木一明。衆議院議員(1期)。東京出身。 1926年、日本大学専門部法律科卒業。同専門部法律科副手に就く。 1928年より二松學舍専門学校講師。1933年中野高等無線電信学校を創立し、幹事に就任。 1941年、財団法人中野学園を設立し、同理事長に就任。中野学園中学校(旧制)を創立。 1946年、国際外国語学校(国際短期大学の前身)を創立し、同学校長に就任。 1948年、財団法人中野学園を財団法人国際学園に改称し、中野学園中学校(旧制)を国際中学校と国際高等学校に変更。
相良 次郎(さがら じろう、1904年(明治37年)5月11… 相良 次郎(さがら じろう、1904年(明治37年)5月11日 - 1991年(平成3年)4月29日)は、日本の英文学者。元青山学院大学教授。 父は大日本帝国陸軍の高級指揮官で、昭和の学校教育にも影響を与えた相良広一。母とみは渋谷氏宗家渋谷家の長女。戦後の日本に数多くの洋書・外国雑誌を紹介した出版史研究者で紀伊国屋書店元重役取締役の相良広明は実弟。工学博士で第12代東京工業大学学長の松田武彦と九州学院初代院長の遠山参良は義弟。第二次世界大戦中の満州国の大使館区で通訳者として活躍した田口喜美子は実妹。 1904年(明治37年)、東京に生まれる。軍人だった父の仕事の関係で日本統治時代の朝鮮は京城府にて少年時代を過ごす。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。
藤久保 三四郎(ふじくぼ さんしろう、1904年5月10日 … 藤久保 三四郎(ふじくぼ さんしろう、1904年5月10日 - 1983年6月2日)は、日本の経営者。日立化成工業社長、会長を務めた。栃木県出身。 1925年に東京高等工業学校電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1961年11月に常務、1963年4月には日立化成工業社長に就任。1974年11月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任。 1970年4月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1983年6月2日脳出血のために死去。79歳没。
洪 吉善(ホン・ギルソン、朝鮮語: 홍길선、1904年5月1… 洪 吉善(ホン・ギルソン、朝鮮語: 홍길선、1904年5月10日または7月1日 - 1980年8月8日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家、ジャーナリスト。制憲・第2・4・5代韓国国会議員。本貫は南陽洪氏。 京畿道水原郡(現・水原市)出身。水原三一学校、培材中学校を経て、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)卒。1929年より水原醸造株式会社社長、水原新豊公立国民学校・水原梅香女子中学校・水原公立女子中学校後援会長、水原金融組合長、水原酒造組合理事長、マンジョンウォン専務理事、東亜日報社水原支局長、水原商工株式会社専務理事、朝鮮少年団水原郡連合会委員長、水原消防署長、水原商工会議所副会頭を歴任し、1939年に水原邑会議員に当選した。
武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年5月9日 - 1… 武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年5月9日 - 1946年3月31日)は、日本の小説家。代表作に、「日本三文オペラ」「井原西鶴」「銀座八丁」「一の酉」などがある。長男は詩人の武田文章(1933-1998)、次男は河出書房の編集者の武田穎介(1935-2001)。
浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月… 浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月9日 - 1984年〈昭和59年〉4月27日)は、日本の宗教家。妙信講(現:冨士大石寺顕正会)の創立者。 1904年(明治37年)、愛知県西尾市に生まれ、1923年(大正12年)、19歳で上京する。1926年(昭和元年)12月、22歳の時に白須郁三に折伏されて日蓮正宗に入信し、妙光寺(東京都品川区)所属の信徒となった。 1936年(昭和11年)、白須郁三と共に妙光寺から妙光院(現在の妙国寺。東京都板橋区高島平)へと所属寺院を移り、信徒総代となった。その後再び妙光寺に移る。1942年には、妙光寺所属の法華講の一講中として「東京妙信講」を結成し、講頭に就任した。
市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989… 市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989年11月10日)は、日本の国文学者、歌人。文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)。東洋大学名誉教授。雅号は「迯水居」。 長野県上高井郡小布施町生まれ。旧制大分高等商業学校、1941年東洋大学文学部国文学科卒業。1926年から出版社の辞書部に勤務、1948年から新村出の委嘱により岩波書店で「広辞苑」の編集主任を務めた。1953年東洋大学国文学科講師、1956年同教授、1973年退任、名誉教授。1961年「萬葉集考」で文学博士(東洋大学)の学位を取得。1973年から迯水短歌会を主宰し、機関誌を発行した。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。
橋本 鐵彦(はしもと てつひこ、1904年5月5日 - 20… 橋本 鐵彦(はしもと てつひこ、1904年5月5日 - 2001年4月9日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター。 東京大学出身。大学時代にはドイツ文学と新劇運動に没頭。インテリを買われ浅草で芝居の台本や芝居の現場監督をしていた。この頃に芝居を見に来た吉本の林正之助と知り合い、後に東京吉本の社長になる林弘高と3人でお茶屋で食事をする、林弘高の紹介で1931年12月に吉本興行部(のちの吉本興業)に入社。入社後は文藝部、宣伝部、映画部を立ち上げる。その後文藝部の部長になり秋田實、長沖一、吉田留三郎らを入社させる。1933年に宣伝部が創設されのちに部長となり「吉本演藝通信」「ヨシモト」などの広報誌を発表。
城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2… 城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2006年5月8日)は、日本の昭和時代に活動した画家、路上詩人。第二次大戦後の10年間、国鉄の有楽町駅前にて自作の詩集を手売りしていたことで知られる。 1904年、京都にて16代続いた老舗呉服・染物屋の長男に生まれる(京染め悉皆業の長男と表現する資料もある)。実母を亡くした後、継母との仲に悩んだ末、放浪を繰り返し、その後、18歳の時に上京する。小石川区の旧制私立豊山中学校(現日本大学豊山高校)定時制卒業。城米が文筆家の道を歩み始めたのは、神田区役所(現千代田区役所)に勤務していた1931年のこと。小説家の武者小路実篤のもとに税金の督促に赴き、そこで感化されたことによる。
斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 20… 斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 2001年6月13日)は、青森県弘前市出身の現代美術家。多摩美術大学教授。「さいとう ぎじゅう」と読まれることもある。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。 1904年5月4日、青森県弘前市に生まれた。本籍は東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)。なお、本人は東京出身であるとも青森出身であるとも語ったことがあり、かつては文献によって出生地に揺らぎがあった。父親の斎藤長義は南部藩士の家に生まれた陸軍軍人(騎兵小将)であり、陸軍第8師団が設置されていた弘前市は父親の赴任地である。
金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 200… 金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 2003年9月10日)は、日本の経営者。富士電機社長、会長、福島放送会長を務めた。福島県出身。 1928年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機に入社。1947年12月に取締役に就任し、1949年8月に常務、1956年5月に専務を経て、1958年5月には社長に就任。1964年11月に常任相談役に就任。 1960年11月に藍綬褒章、1974年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2003年9月10日心不全のために死去。99歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1… 貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。 1904年(明治37年)、東京で地質学者・小川琢治の次男として生まれた。旧制京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学。1928年3月に卒業。同年4月、同大学院文学研究科に進学。1930年3月に修士課程を修了。1932年5月に博士後期課程を退学。 同1932年5月、東方文化学院京都研究所研究員に採用された。1938年4月、研究所の改組に伴い、以降東方文化研究所研究員。
鳥ヶ峰 吉五郎(とりがみね きちごろう、1904年5月 - … 鳥ヶ峰 吉五郎(とりがみね きちごろう、1904年5月 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。宮城野部屋所属。本名は天野 吉五郎(あまの よしごろう)。最高位は西十両2枚目。 現在の東京都北区出身。宮城野部屋に入門し、1921年1月場所、「鳥ヶ峰」の四股名で初土俵を踏む。1925年5月場所に十両昇進。1930年10月場所まで十両の地位を務めた。その後幕下に陥落し、1931年5月場所に十両に復帰したが、2場所続けて負け越し、1932年1月場所に再び幕下に陥落した。ところが、春秋園事件により、大量の幕内十両の脱退者が出たため、再び十両に上がることになった。再十両後は成績が振るわず、1933年1月場所、幕下に陥落した。
熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5… 熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5月 - 1982年5月7日)は、日本の植物学者。愛知県出身。 息子は地球科学者の熊澤峰夫。妹は熊沢光子。 1904年 (明治37年) 5月に、愛知県名古屋市で生まれた。父親は地方裁判所判事を歴任後弁護士を開業した。東海中学校、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)を卒業後、東京帝国大学(現:東京大学)理学物植物学科に進学。1929年に同大卒。 1933年から旧制第四高等学校(現:金沢大学)に植物学の講師として勤務。翌1934年には同大教授となり、1942年まで勤務した。 その後旧制第八高等学校に勤務。集団遺伝学者の木村資生は、1942年に同校で熊沢の指導を受けた。
林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日… 林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。戦後の一時期の筆名は白井 明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。 父が酒に溺れたため、家業の雑貨商が破産。このため母が紡績工場の女工として家計を支えた。1916年(大正5年)、旧制大分中学校(現・県立大分上野丘高校)入学後は、銀行家の小野家の住み込み家庭教師として働きながら苦学し、1919年(大正8年)、第五高等学校に入学してからも小野家の援助を受ける。
黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日… 黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日 - 1933年(昭和8年)3月10日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。水上機機長としての不時着水時の行動で責任感の鑑と称えられた。のちに殉職し最終階級は海軍少佐。
春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903… 春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903年5月26日 - 1985年9月16日)は、日本の水彩画家。水彩連盟の創始者のひとりである。 福島県北会津郡高野村(現 会津若松市)生まれ。実父の春日部春二(春日部雪後)は裁判所長で俳人。 会津中学校(現・福島県立会津高等学校)を卒業。1924年に上京し、川端画学校洋画部で学ぶ。1928年、水彩画会展に入選。1929年、第10回帝展に水彩画「山湖」が初入選、日本水彩画会会員となる。1940年、小堀進、荒井直之助ら同志7人で「水彩連盟」を設立。これ以降、官展や日本水彩画会への出品を止め、戦後も水彩連盟および個展での発表を行った。 作風は風景画を得意とし、あざやかな色彩と情趣ある画情が特徴だった。
佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 198… 佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 1982年7月4日)は、日本の声楽家・オペラ歌手である。日本国内で初めて『カルメン』を演じ、「カルメンお美」と呼ばれる。 1903年5月25日、神戸税関の職員の佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた。兄に英夫、勇次、明来がいる。後に妹のミチが生まれた。姉の綾子は鹿児島県出身の弁護士で薬品貿易業を営む大嶺俊介の妻となる。 父の友太郎は長崎県出身の佐藤元狩の長男として文久2年8月に生まれた。元狩は維新後京都府に出仕しフィラデルフィア万国博覧会委員として渡米したが、1876年4月30日にサンフランシスコにおいて病死した。
飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日… 飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日‐1991年(平成3年)8月19日)は昭和期の作曲家、指揮者。妻は女優の夏川静江。娘に女優の夏川かほる。
丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5… 丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5月25日 - 1988年〈昭和63年〉)は、昭和期の実業家、政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)で、丸茂米作、きち の四男として生まれた。生家は製糸業で、旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制東京高等蚕糸学校(現・東京農工大学)卒業。1927年(昭和2年)丸茂製糸場に入社。1932年(昭和7年)同郡永明村(現・茅野市)に丸茂製糸工場を設立した。 1941年(昭和16年)永明村翼賛壮年団長に就任。1942年(昭和17年)永明村会議員となった。以後、ちの町消防団長、茅野町消防団長、茅野町議会議員などを歴任。
中村 清(なかむら きよし、1903年(明治36年)5月25… 中村 清(なかむら きよし、1903年(明治36年)5月25日 – 1993年(平成5年)11月15日)は、日本の内務官僚、政治家。三重県副知事、衆議院議員(2期)。 三重県志摩郡鵜方村、のちの阿児町鵜方(現志摩市阿児町鵜方)で、中村市太郎の二男として生まれる。専検合格を経て、1929年、東京商科大学本科を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、内務省に入省し警視庁属兼警部に任官し保安部工事課に配属された。 以後、沖縄県警察部特別高等課長、茨城県警察部特別高等課長、警視庁警視、麻布鳥居坂警察署長、岡山県商工水産課長兼知事官房秘書課長、同人事課長、千葉県警察部特別高等課長、京都府警察部特別高等課長、島根県経済部長などを歴任。
清川 玉枝(きよかわ たまえ、1903年5月24日 - 19… 清川 玉枝(きよかわ たまえ、1903年5月24日 - 1969年1月21日)は、日本の女優。 1903年(明治36年)5月24日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区)に生まれる。東洋高等女学校(現在の東洋女子高等学校)卒業後、新劇女優として芽生座、築地座、創作座などに参加して舞台に立つ。この間の1928年(昭和3年)、山田隆弥製作の『肉弾決笑記』で映画に初出演する。 1936年(昭和11年)、P.C.L.映画製作所(後に東宝映画)に入社。成瀬巳喜男監督の『君と行く路』、山本薩夫監督の『お嬢さん』『田園交響楽』、島津保次郎監督の『兄の花嫁』などに出演し、個性的で柔軟な演技の脇役として活躍する。戦後は、数本に東宝作品に出演したのち、東宝争議で新東宝に移る。
梅原 半二(うめはら はんじ、1903年5月24日 - 19… 梅原 半二(うめはら はんじ、1903年5月24日 - 1989年5月23日)は、日本の自動車技術者。元豊田中央研究所代表取締役所長を務めた。 愛知県知多郡内海町(現南知多町)生まれ。味噌醤油醸造業米沢屋を営む名家で兄は町長を務めた。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)第4学年を修了し、第八高等学校卒業後、東北帝国大学工学部機械工学科に進学するが結核患い休学となる。その後東北帝国大学講師を辞し、妻が経営するバーのマスターを務めていたが、1936年に豊田自動織機製作所に入社し、自動車部嘱託技師となる。1945年東北帝国大学工学博士。1950年からトヨタ自動車工業取締役を務め。初代トヨタ・クラウン、初代トヨタ・コロナの開発指揮を行った。
鈴木 俊三(すずき しゅんぞう、1903年5月24日 - 1… 鈴木 俊三(すずき しゅんぞう、1903年5月24日 - 1977年6月17日)は、日本の実業家。旧姓は木村(きむら)。 鐘淵紡績株式会社、鈴木式織機株式会社での勤務を経て、鈴木自動車工業株式会社社長(第2代)、鈴木自動車工業株式会社会長(初代)などを歴任した。 1903年5月24日に生まれ、愛知県の額田郡岡崎町(現:岡崎市)にて育った。浜松高等工業学校に進学し機械科にて学んだ。1927年、浜松高等工業学校を卒業した。その後、鐘淵紡績に技術職として入社した。このころ、実業家の鈴木道雄と出会い、道雄の長女との縁談が持ち上がった。1931年、道雄が経営する鈴木式織機に入社するとともに、道雄の長女と結婚して鈴木家に婿入りし、道雄の養嗣子となった。
サトウ ハチロー(1903年5月23日 - 1973年11月… サトウ ハチロー(1903年5月23日 - 1973年11月13日)は、日本の詩人、作詞家、作家。本名:佐藤 八郎(さとう はちろう)。多くの別名を用いており、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、清水士郎、清水洋一郎、並木せんざ、江川真夫、熱田房夫、倉仲佳人、倉仲房雄、などがある。旧制早稲田中学校(現:早稲田中学校・高等学校)中退後、旧制立教中学(現:立教池袋中学校・高等学校)へ転入。作家の佐藤愛子は異母妹にあたる。 「うれしいひなまつり」、「ちいさい秋みつけた」、「リンゴの唄」の作詞者として知られる。 母親への想いなどをうたった叙情的な作風で知られ、2万にもおよぶ詩のうち3千が母に関する詩である。
宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月2… 宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月23日 - 1980年12月27日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮の教員、実業家、大韓民国の政治家。全羅北道議会(朝鮮語版)議員、第5代韓国国会議員。本貫は礪山宋氏。 全羅北道沃溝郡出身。群山公立農林学校、全羅北道教員養成所を経て、1928年広島広陵中学校卒。城山公立普通学校教員を経て、慶尚南道農務課で10余年間勤務した。その後、沃溝郡庁産業技手、朝鮮米穀調査委員、新泰仁中央醸造株式会社社長、自由党所属の全羅北道議会議員、大韓国民会井邑郡副会長、井邑郡酒造組合理事長、新泰仁中高等学校財団理事、国会農林委員を務めた。 1980年12月27日、ソウル市江東区岩寺洞の自宅で持病により死去。
石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日 - 197… 石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日 - 1979年5月9日)は、日本の裁判官(第5代最高裁判所長官)、剣道家(第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代宗家)、「英霊にこたえる会」初代会長、「元号法制化実現国民会議」初代議長。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。 福井県福井市生まれ。父は福井県庁職員。祖父の石田磊は福井商工会議所初代会頭、第九十二国立銀行頭取、福井市議会議長であった。 福井中学校在学中、父が46歳で他界し、一家で上京。錦城中学校を卒業し、1920年(大正9年)、旧制第一高等学校に進学。 東京帝国大学法学部を卒業する。 卒業後は司法省に入省。最高裁判所長官を務め、1973年5月定年退官。
福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006… 福井 勇(ふくい いさむ、1903年5月20日 - 2006年8月14日)は、日本の昭和期の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。現在の経世会の祖先にあたる周山会の一味だった。 愛知県蒲郡市出身。浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)を卒業後、商工省に入省。官僚生活を経て1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧愛知5区から日本自由党公認で出馬したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で出馬し初当選した。保守合同後は自民党に所属し、通算当選6回。文部・運輸政務次官などを歴任した。1973年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。1975年からは参議院議員を1期務めた。
梶浦 正之(かじわら まさゆき、1903年(明治36年)5月… 梶浦 正之(かじわら まさゆき、1903年(明治36年)5月20日 - 1966年(昭和41年)12月12日)は日本の詩人。 愛知県海部郡佐織町勝幡(現・愛西市)に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学経済学部を卒業する。 早くから雅趣溢れる象徴詩を『明星』、『日本詩人』、『詩聖』などに発表し、1921年(大正10年)に『飢え悩む群れ』を刊行し、1925年(大正14年)に刊行した『鳶色の月』によって詩壇に確固たる地位を得た。その後、1935年(昭和10年)代に入ると新現実派を主唱し、詩誌『詩文学研究』を発行する。
田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉… 田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の地主・実業家。神奈川県多額納税者。東土地合名会社代表社員。早稲田大学評議員。 神奈川県横浜市中区中村町、田辺郷左衛門の三男、あるいは四男。1925年、早稲田大学専門部法律科卒業。1936年、家督を相続。貸地業を営む。1938年、蒙疆連合委員会の招聘に応じ渡蒙し、蒙古聯合自治政府嘱託となる。 趣味は自然科学研究、音楽、読書、旅行。宗教は真言宗。住所は神奈川県横浜市中区中村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月… 大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。峰崎部屋→片男波部屋→伊勢ノ海部屋→花籠部屋所属。本名は木越 信哉。最高位は十両2枚目。 秋田県北秋田郡田代町(現大館市)出身。1920年5月初土俵を踏む。1925年1月十両に昇進。番付を上げ、1926年1月には西十両2枚目まで進んだが、この場所で負け越してからは番付を下げ、1927年1月に幕下に落ちた。1927年10月再十両、この場所と翌場所も負け越し、再び幕下に落ちた。1928年5月に十両復帰。連続6場所務めた後、1930年1月幕下に落ち、同年10月に廃業した。 甥は伊勢ヶ濱部屋の元十両力士の大矢崎武男。
島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月1… 島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月19日 - 1990年〈平成2年〉8月26日)は、日本の華族。玉里島津家第3代当主。位階・勲等・爵位は正三位勲一等公爵。第8代日本赤十字社社長、結核予防会会長などを歴任した。 1903年(明治36年)5月19日、島津忠済の長男として、東京市麹町区三年町に生まれる。学習院女子部幼稚園に入る。学習院初等科、中等科、高等科を卒業。1915年(大正4年)、初等科在学中に父・忠済が58歳で死去して、家督を継ぐ。 1926年(大正15年)、京都大学文学部に入学、のち法学部に移り、在学中に結婚し、1930年(昭和5年)に卒業。同年、日本赤十字社本社に「社会事業調査の嘱託」として入社し、調査部に勤務。
酒井 恒(さかい つね、1903年5月19日 - 1986年… 酒井 恒(さかい つね、1903年5月19日 - 1986年2月22日)は、日本の動物学者。蟹の研究で知られる。 神奈川県足柄上郡大井町金手出身。1924年(大正13年)神奈川師範学校卒。1929年(昭和4年)東京高等師範学校理科三部卒。1932年(昭和7年)東京文理科大学文理学部動物学科卒。1939年(昭和14年)「日本産蟹類の研究」で京都帝国大学理学博士。1932年(昭和7年)東京文理科大学附属下田臨海実験所助手、1938年(昭和13年)岐阜県女子師範学校教諭、1943年(昭和18年)神奈川師範学校教授、1949年(昭和24年)横浜国立大学学芸学部教授。1954年(昭和29年)から翌1955年までと1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)まで学芸学部長を二度務め、1954年(昭和29年)から翌1955年(昭和30年)まで横浜国立大学学芸学部理科教育岩実験所(真鶴理科教育実験所の前身)所長を務め、69年定年退官。
恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36… 恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36年〉5月16日 - 1995年〈平成7年〉3月23日)、のちに賀陽 敏子(かや としこ)は、日本の旧皇族。賀陽宮恒憲王の妃。九条道実公爵令嬢。貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる。戦後皇籍離脱。
太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月1… 太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月16日 - 1956年(昭和31年)3月21日)は、日本の検察官、司法官僚、弁護士。 東京出身。東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所検事、司法省刑事局第六課長、司法省会計課長、甲府地方裁判所検事正、満州国司法部刑事司長を歴任し、1944年、大審院検事となった。 この間、司法省刑事局第六課長時代の1941年、治安維持法改正に関わり、長年の懸案事項であった予防拘禁制を立案し盛り込んだ。さらに国防保安法の立案立法化も手がけた。また、ゾルゲ事件捜査に関わった。 塩野季彦を頂点とする思想検事の主流「塩野閥」において、佐藤祥樹、岸本義広、佐野茂樹らとともに「塩野閥四天王」の一人に数えられ、戦後も岸本派はその実、太田派とされた。
守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 19… 守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 1993年3月11日)は、日本の法学者(英米法)。法学博士(中央大学・論文博士・1962年)。中央大学名誉教授。元中央大学学長代理。勲三等旭日中綬章受章。高柳賢三門下。 東京出身1929年東京帝国大学法学部卒業。1933年同大学院(旧制)法学研究科修了。1935年中央大学法学部教授。1936年イギリス・ケンブリッジ大学、アメリカ・ハーバード大学に留学。1948年中央大学予科長。1951年中央大学評議員(~1972年)。1952年中央大学学生部長。1954年中央大学通信教育部長。1966年日本比較法研究所所長(~1972年)。1968年中央大学学長事務取扱。
市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 … 市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 - 1972年12月4日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。 長野県長野市出身。明治大学を卒業し、1922年に信濃毎日新聞社に入社。 1934年に読売新聞社に転じ、1950年に北海タイムス主筆を経て、1958年1月から1961年4月までに長崎新聞社社長を務めた。 1972年12月4日、肺炎で死去した。69歳没。
叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15… 叡南 祖賢(えなみ そけん、1903年(明治36年)5月15日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、天台宗の僧侶。千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。無動寺谷明王堂輪番、比叡山延暦寺執行として弟子育成と比叡山の復興に尽力、叡山の傑僧と言われた。 愛知県丹羽郡豊富村(現、一宮市千秋町)の伊藤家の二男として生まれる。1910年(明治43年)、7歳で愛知県西春日井郡賢林寺において密蔵院中村勝契大僧正について得度。同年、愛知県龍光寺住職稲田祖珪の養子となり、名を賢一から祖賢と改名する。 1918年(大正7年)、愛知県の中学校から、比叡山中学校に転校する。1922年(大正11年)、天台宗西部大学に入学。
早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5… 早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5月14日 - 1990年〈平成2年〉6月16日)は、日本の実業家。昭和石油第3代社長。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の石油精製業・早山与三郎の長男として出生、新潟県新潟市白山浦2丁目(現 新潟市中央区白山浦2丁目)に転居。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 父の早山与三郎が新潟市関屋大川前で営む早山製油所で石油精製業に従事、日米礦油新潟製油工場や早山製油所川崎工場を経て、1932年(昭和7年)6月に日米礦油取締役に就任、1933年(昭和8年)2月から不二商事監査役を兼任。
草野 心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月1… 草野 心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は、日本の詩人。福島県石城郡上小川村(現・いわき市小川町)出身。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 慶應義塾普通部を中退、中国広東の嶺南大学芸術科に学んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に逸見猶吉創刊の詩誌「歴程」に参加。その後、日本の傀儡政権である南京の汪兆銘政府の宣伝部顧問となった。南京でできた『富士山』(1943年)に体制的思想の影響を指摘する評もある。戦後、「歴程」を復刊して多くの詩人を育て、蛙を愛した。 1903年(明治36年)5月12日、福島県石城郡上小川村に、父・草野馨、母・トメヨの次男として生まれる。
栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 199… 栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 1998年6月12日)は、日本の中国哲学研究者、中国学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、茨城県水戸市で生まれた。第一早稲田高等学院を卒業し、早稲田大学文学部西洋哲学専攻に進学。戸川行男と共に津田左右吉の講義を受講したことを機に、以後、津田に師事。 1933年に早稲田大学文学部助手となった。1937年から2年間北京に留学。1939年に帰国し、早稲田大学文学部専任講師に昇格。1948年に早稲田大学文学部教授となった。1974年に早稲田大学を退職し、名誉教授となった。1998年に死去。 近代的な中国思想研究を日本に導入した先駆者として知られ、特に中国古代思想の分野で優れた業績を上げた。
荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)… 荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)5月9日 - 1983年11月2日)は、日本の英文学者、関西学院大学教授、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)教諭。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー研究の第一人者。 滋賀県彦根市生まれ。1928年、関西学院大学文学部英文学科卒業。青森県弘前市・東奥義塾を経て1930年、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)の英語教諭となる。1946年、関西学院専門部教授、1969年、同商学部教授を退職し神戸海星女子学院大学英文学科教授となる。1981年同大を退職。 1928年に太田晃子と結婚後、1男5女をもうける。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などの研究で知られる。
相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986… 相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986年11月7日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。栄典は、正四位・勲三等旭日中綬章。 山形県鶴岡市に相良守一の次男として生まれる[要出典]。荘内中学校を経て[要出典]、1925年水戸高等学校理科甲類卒業。1929年東京帝国大学文学部心理学科卒業、同文学部副手。1936年成城高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部心理学科助教授、1952年同教授。1952年『逆向抑制の心理学的研究』で文学博士。1964年定年退官、名誉教授。1964年東京女子大学文理学部教授、1969年同大学退職。このほか、湘南工科大学、文教大学の各教授を務めた。 1961年から1964年まで日本心理学会会長を務める。
松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5… 松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5月8日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は、大日本帝国海軍の技術大佐。勲四等瑞宝章受章。
江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 198… 江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 1987年4月2日)は、北海道札幌市生まれの実業家、スケート選手。 明治36年(1903年)札幌生まれで豊水小学校卒。大正7年(1918年)にスケートを始め、大正13年(1924年)ロシアのフィギュアスケートの極東大会で優勝。その後アイスホッケーを始める。 1928年ウラジオストックロシア語学校高等科を卒業した後、貿易会社の清水貿易に就職、ウラジオストック支社長を務めた。 昭和14年(1939年)にトレーニング中のアクシデントから敗血症にかかり左足切断。その後は後進の育成に力を注ぎ、昭和58年(1983年)東京都アイスホッケー連盟会長に就任。
丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 199… 丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 1990年5月25日)は、日本の社会評論家。婦人問題評論家。 生年については、1904年説があるが、没後の集いで井出孫六が「1903年に生まれ」と言っている。 長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)出身。生まれ。本名・石井ひで。政治家の井出一太郎、医学者の井出源四郎、作家の井出孫六、共同通信社論説委員長の井出武三郎は異母弟。生母が幼くして死去したため養女に出され、のち生母の実家で祖父母に育てられた。 長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務、組織拡充のため全国の農村を回り、1937年、『日本農村婦人問題』を刊行。