岩崎 一太(いわさき かずた、1910年6月16日 - 19… 岩崎 一太(いわさき かずた、1910年6月16日 - 1980年3月5日)は、日本の経営者。中国放送社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1940年に広島県瀬戸内高等学校を卒業。中国新聞社での勤務を経て、1952年5月に中国放送に転じ、1958年1月に理事に就任し、同年2月に常勤監査役、1969年5月に常務、1972年5月に専務を経て、1973年5月には社長に就任。 1980年3月5日、閉塞性黄疸のために在任中に死去。。69歳没。
今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1… 今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1978年6月28日)は、東京市浅草区雷門(現:東京都台東区雷門)出身の俳優。本名は小野寺 幸男。旧芸名は今村 原兵、今村 原平、今村 源平。 専修商科学校卒業。1929年に新東京歌劇団文芸部に入る。俳優に転向し、天勝一座を経て、1934年から俳優の草間実に師事。帝国キネマ、新興演芸を経て、1939年に吉本興業に入社。1944年に「今村原兵楽劇団」を創立。1946年にムーランルージュ新宿座に入り、1951年の解散まで在籍。その後は衣笠プロ、東京俳優生活協同組合などに所属していた。 1978年6月28日、脳出血の為、東京都世田谷区駒沢の国立第二病院で死去。
清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 19… 清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 1999年7月3日)は、日本の経営者。古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、会長を務めた。富山県出身。位階は正四位。 1935年に立教大学経済学部商学科を卒業し、同年に古河鉱業に入社。1961年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1965年5月に専務を経て、1971年2月には社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1981年6月までに務めた。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年7月3日心不全のために死去。89歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月… 影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月12日 - 1979年〈昭和54年〉5月25日)は、日本の右翼活動家、思想家、歌人。 愛知県豊橋市生まれ。家は神官。父は影山庄平。豊橋中(現在の愛知県立時習館高等学校)卒、國學院大學哲学科中退、在学時代から右翼運動に入り、1931年(昭和6年)全国大日本主義同盟、日本学生連合に参加、32年生産党常任中央委員、33年神兵隊事件で検挙。36年に維新寮を結成、39年これを大東塾と改め塾長となった。40年7月皇民有志決起事件で検挙、42年禁錮5年の判決を受けたが、43年には特赦となった。44年11月応召。1946年5月帰国。54年4月3日大東塾再建。
青木 幸造(あおき こうぞう、1910年6月10日 - 没年… 青木 幸造(あおき こうぞう、1910年6月10日 - 没年不明)は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。
光石 介太郎(みついし かいたろう、1910年 6月9日 -… 光石 介太郎(みついし かいたろう、1910年 6月9日 - 1984年2月20日)は、日本の小説家、推理作家。福岡県生まれ。『新青年』や『ぷろふいる』などの雑誌に発表した怪奇幻想ものの探偵小説で知られる。 本名は光石太郎(みついし たろう)。探偵作家としてのペンネームは、「光石介太郎」以外に、鶏山文作(とりやま ぶんさく)、雞山稲平(とりやま いなへい)がある。純文学を志してからは、青砥一二郎(あおと いちじろう)というペンネームも使用したが、晩年には光石介太郎名義を再び使用している。 1910年6月9日、福岡に生まれる。二卵性双生児であり、もう一人は女の子だった。父は鐘淵紡績(後のカネボウ)の取締役や南米拓殖株式会社の社長などを歴任した福原八郎 だが、介太郎は生まれてすぐに岡山に住む遠縁の光石家へ養子に出され、看護婦だった独身の養母のもとで育った。
大沢 一郎(大澤 一郎、おおさわ いちろう、1910年(明治… 大沢 一郎(大澤 一郎、おおさわ いちろう、1910年(明治43年)6月9日 - 1986年(昭和61年)9月12日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。 大阪市出身。第四高等学校を経て、1932年京都帝国大学法学部を卒業。司法官試補となり、法務省矯正局長、大阪地方検察庁検事正、最高検察庁刑事部長、法務事務次官、最高検次長検事、東京高等検察庁検事長などを歴任。 1973年2月2日、検事総長に就任。在任中、日教組ゼネスト事件、協同飼料株価不正操作事件、石油ヤミカルテル事件などを指揮した。 1975年1月25日、検事総長を勇退し退官した。その後、ロッキード事件で偽証罪に問われた小佐野賢治の弁護団に加わった。
市川 文三(いちかわ ぶんぞう、1910年6月9日 - ?)… 市川 文三(いちかわ ぶんぞう、1910年6月9日 - ?)は、日本の経営学者。 東京生まれ。1935年東京帝国大学経済学部商業学科卒、1980年「体系会計学 利潤計算の論理・機構・実践の体系的研究」で法政大学経済学博士。1938年企画院調査官となり、敗戦後退官。1957年鹿児島商科短期大学教授、1959年松商学園短期大学教授、1965年東京学芸大学教授、1969年法政大学経営学部教授。1981年定年、名古屋経済大学教授を務めた。初期に文朗の筆名を用い、後年は政治に関する評論も上梓した。
高見 寛恭(たかみ かんきょう、1910年(明治43年)6月… 高見 寛恭(たかみ かんきょう、1910年(明治43年)6月8日 - 1996年(平成8年))は、日本の真言宗の僧侶・高野山大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松尾 泰一郎(まつお たいいちろう、1910年6月7日 - … 松尾 泰一郎(まつお たいいちろう、1910年6月7日 - 2001年12月17日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1935年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に通商産業省に入省し、通商局長などを歴任した。 1960年に丸紅の顧問に就任し、常務、専務を経て、1971年に副社長に就任し、1975年6月に社長に昇格した。ロッキード事件で揺れていた会社の立て直しに尽力した。1981年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役に就任した。 2001年12月17日心不全のために死去。91歳没。
荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 19… 荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 1992年6月14日)は、日本の作曲家である。 大阪府に生まれる。15歳よりヴァイオリンを辻吉之助に学び、1929年(昭和4年)兵庫県甲陽中学校卒業後、日本大学国文科に籍を置くも、1933年(昭和8年)12月には中途退学した。1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の間松平頼則についてピアノおよび作曲法を学び、1932年(昭和7年)自作室内楽発表会を開催後、1934年(昭和9年)には石田一郎、落合朝彦と共に独立作曲科協会を設立し、2回の発表会を行う。 1936年(昭和11年)、日本現代作曲家連盟に入会し、同年11月に上海に渡航してアレクサンドル・チェレプニンに師事して約4ヶ月間作曲法を学び、1942年(昭和17年)まで教示を受けた。
島 恭彦(しま やすひこ、1910年6月5日 - 1995年… 島 恭彦(しま やすひこ、1910年6月5日 - 1995年9月28日)は、日本の経済学者。専門は財政学。学位は、経済学博士。京都大学名誉教授。福井県敦賀市生まれ。
大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月… 大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月4日 - 1986年(昭和61年)7月7日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、京都大橋総合病院長、医学博士。 愛知県名古屋市で生まれる。1937年(昭和12年)京都府立医科大学を卒業した。同大副手、同助手を務め、その後に開業した。 京都府保険医協会理事、京都府医師会理事、同皮フ科医会理事、同結核医会理事、同労災医会理事、同公益法人医療機関協会理事、京都市会議員などを務めた。 1964年(昭和39年)6月、京都教育大学附属桃山小学校などに書架らを寄付により1966年(昭和41年)10月19日紺綬褒章受章。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙に京都府地方区から日本社会党公認で立候補して当選し、1971年(昭和46年)6月の第9回通常選挙でも再選され、参議院議員を連続2期務めた。
落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 19… 落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 1939年12月30日)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県安来市広瀬町生まれ。浪華商業学校(現在の大阪体育大学浪商中学校・高等学校)卒業、明治大学に進む。 1932年の日本陸上競技選手権大会の男子ハンマー投で優勝。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子ハンマー投げで12位。ロス五輪で同じくハンマー投げ代表選手の長尾雄治も明治大学の学生で、古山一郎とともに「明大のハンマートリオ」と呼ばれていたという 明治大学卒業後は、名古屋市で運動公園管理者として働く。1938年9月、松江の歩兵第63連隊に入隊。日中戦争が勃発すると第110師団衛生隊陸軍上等兵として北支へ出征。
田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 199… 田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 1992年8月29日)は、日本の社会学・社会福祉学者。 鹿児島県出身。1933年旧制第七高等学校造士館文科卒業。東京帝国大学卒。厚生省児童局企画課で、1949年アメリカに学び、1951年の児童憲章制定に関わる。1961年「公的扶助の現状と問題点」で東北大学文学博士。1960年東北大学文学部助教授、1964年教授、1974年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授、1975年立正大学教授を務め、81年退職。
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996… 加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区)出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。
永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 200… 永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 2006年6月3日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。専門は固体物理学で、特に反強磁性体の理論の仕事は名高い。
浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年… 浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年3月24日)は、日本の古生物学者。愛知県名古屋市出身。 名古屋市内において、11人兄弟の末っ子として生を受ける。第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)を卒業後、東北帝国大学理学部、東北帝国大学大学院に進んだ。大学院において、小型有孔虫に関する研究に精力的に取り組む。 1938年(昭和13年)、南洋庁熱帯研究所嘱託となり、当時日本の委任統治下にあったパラオに赴いた。翌年技師となりサンゴ礁の研究を開始したものの、その年の秋には太平洋石油株式会社に移ることとなった。同社ではメキシコの石油資源調査に携わる。1941年(昭和16年)夏には仙台に戻り、東北帝大において副手の職を得た。
他阿 一雲(たあ いちうん、本名:河野 憲善〈こうの けんぜ… 他阿 一雲(たあ いちうん、本名:河野 憲善〈こうの けんぜん〉、1910年〈明治43年〉6月 - 2004年〈平成16年〉8月26日)は、兵庫県神戸市生まれの時宗の73世法主(遊行上人)、藤沢市清浄光寺56世住職(藤沢上人)。島根大学名誉教授(専門は日本思想史)。 時宗の遊行上人は終身制であるため途中で病にかかって長期入院してしまっても代務者を立てることができなかった。このような制度により遊行上人が遷化(死亡)した後、前任に代わり法主候補者が新たに遊行上人となるのが従来の事務処理上手続きであった。 ただし、この制度には不都合な面があり、それは病などにより任務が遂行できなくなるような状態であっても遊行上人は任務を継続しなければならず、周囲の僧侶が運営する行事に停滞が発生することが問題としてあった。
戸田 華子(とだ はなこ、1909年〈明治42年〉6月30日… 戸田 華子(とだ はなこ、1909年〈明治42年〉6月30日 - 2003年〈平成15年〉5月10日)は、日本の元皇族、元華族夫人。閑院宮載仁親王の第5女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、華子女王(はなこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、「華頂 華子(かちょう はなこ)」から「竹村 華子」を経て、「戸田 華子」。旧皇族の離婚第1号。 1909年(明治42年)6月30日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第5女子(第7子/末子)として、神奈川県小田原市の閑院宮御別邸で誕生した。 1926年(大正15年)12月13日に侯爵華頂博信と結婚し、「華頂 華子(かちょう はなこ)」となり、2男1女をもうける。
朝倉 季雄(あさくら すえお、1909年6月29日 - 20… 朝倉 季雄(あさくら すえお、1909年6月29日 - 2001年4月11日)は、日本の文学研究者、フランス語学者・フランス文学者。 東京生まれ。1922年 東京私立暁星小学校卒業。1927年東京私立暁星中学校卒業、1931年官立東京高等学校文科丙類卒業、1934年 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業。母校・暁星小学校の教師となる。1946年日本大学三島予科教授、1949年茨城大学助教授、1953年東京大学教養学部助教授。1959年9月よりNHK教育で始まったテレビフランス語講座の講師となる(1962年まで)。1961年東大教授、1970年定年退官、中央大学経済学部教授。1987年東京大学名誉教授。
淺野 五郎(あさの ごろう、1909年6月29日 - 196… 淺野 五郎(あさの ごろう、1909年6月29日 - 1966年3月19日)は、日本の地球科学者。専門は応用地質学・鉱床学。福岡県福岡市生まれ。 1927年福岡県中学修猷館、1930年旧制福岡高等学校理科乙類を経て、1933年3月に東京帝国大学理学部地質学科を卒業。大学院に進むが、同年9月より南満州鉄道嘱託となる。1938年4月より満州国大陸科学院に所属。1946年5月古河鉱業の職員となり、配下の鉱山の調査・探鉱などを行う。1951年4月、東京大学より理学博士の学位を取得。論文表題は「満洲産縞状鉄鉱の造進変成」。1956年3月古河鉱業を退社、4月より国際基督教大学教授となる。1960年4月、木下亀城教授の後任として九州大学工学部教授(採鉱学科応用地質学講座)に就任。
浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月2… 浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月29日 - 1988年(昭和63年)3月3日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員、国分市議会議長。 鹿児島県の国分村(現・霧島市)出身で国分小学校卒業。1927年(昭和2年)鹿児島県立加治木中学校 (旧制)卒業。1932年(昭和7年)早稲田大学政治経済学部政治科卒業。同年東京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入社し、社会部・政治部記者。厚生大臣秘書官(1940年(昭和15年))などを経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)で翼賛政治体制協議会推薦候補として鹿児島県第2区にて当選。1943年(昭和18年)現職議員中より第一号陸軍二等兵として応召、硫黄島戦闘参加。
伏見 康治(ふしみ こうじ、1909年6月29日 - 200… 伏見 康治(ふしみ こうじ、1909年6月29日 - 2008年5月8日)は、日本の物理学者(理論物理学)。名古屋大学名誉教授、大阪大学名誉教授。理学博士、日本学術会議第11期会長(1953年就任)、民主主義科学者協会メンバー。公明党参議院議員(1期)。正四位勲二等(没時)。 伏見は1909年に愛知県名古屋市で生まれ、東京で育ち、東京高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に進んだ。 そして1933年に大学を卒業するとすぐに同大学理学部物理学教室で寺澤寛一教授の助手となり、翌1934年に新設の大阪帝国大学理学部物理教室に移った。大阪では友近晋教授の下に助手として就く予定であったが、友近教授がイギリスに留学したため、菊池正士教授に誘われて原子核実験に携わった。
木村 一夫(きむら かずお、1909年6月28日 - 198… 木村 一夫(きむら かずお、1909年6月28日 - 1987年11月4日)は、日本の陸上競技(走高跳)の選手。 1920年代後半から1930年代にかけて活躍し、日本陸上競技選手権大会優勝5回、1929年から1933年にかけて日本記録保持者。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 兵庫県加古郡加古川町(現在の加古川市)出身。関西学院中学部に進み、1927年の第8回極東選手権大会(上海)の走高跳で2位。1926年・1927年の日本陸上競技選手権大会で優勝。 早稲田大学に進学。1928年の日本陸上競技選手権大会で優勝(以後、1929年・1931年と早稲田大学所属で優勝)。
伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6… 伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日 - 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。 弟に洋画家の伊藤彰、染色家の吉田たすくがいる。 1909年、鳥取県倉吉市広瀬町で病院を開業している伊藤琢郎・久代の子として八人兄弟の長男として大連で生まれる。1921年3月、明倫小学校卒業。1927年3月、県立倉吉中学校 (現在の鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1936年3月、私立岩手医学専門学校 (現・岩手医科大学)を卒業。同年4月、京都府立医科大学付属病院外科教室に入る。1940年2月に京都府立医大を退職し、中津川町立中津川病院(現・総合病院中津川市民病院)外科主任となる。
中島 治康(なかじま はるやす、1909年6月28日 - 1… 中島 治康(なかじま はるやす、1909年6月28日 - 1987年4月21日)は、長野県松本市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。
谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 198… 谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 1986年9月28日)は、日本のキリスト教牧師。ノーモアヒロシマズ運動提唱者。娘は近藤紘子。 香川県坂出市で生まれる。関西学院大学神学部を首席で卒業後、渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。鹿児島県国分、加治木の教会、沖縄中央教会牧師を経て、1943年に広島流川教会の牧師に就任。 1945年7月まで、広島は空襲を受けていなかったが、多くの人は被害を予期し、人や荷物を都市から疎開させる作業を進めていた。谷本も教会の記録や備品を西郊外の己斐町の知人の屋敷に疎開させており、妻子は毎晩、北東郊外の牛田で寝るようにしていた。 広島市への原子爆弾投下があった8月6日に、谷本は友人の荷物を同じ屋敷に運ぶ手伝いをしていた。
齋藤 邦吉(さいとう くにきち、1909年6月26日 - 1… 齋藤 邦吉(さいとう くにきち、1909年6月26日 - 1992年6月18日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(12期)。 自民党内では宏池会に所属し、伊東正義、佐々木義武とともに「大平派三羽烏」と呼ばれた。また、厚生族の重鎮としても知られた。 福島県相馬郡中村町(現・相馬市)出身。相馬中学、一高、東京帝国大学法学部法律学科卒。内務省に入省。神奈川県属。その後は労働省に移り、労働事務次官等を務める。 1957年、福島県知事選に立候補するが落選する。1958年、第28回衆議院議員総選挙に旧福島3区から鈴木直人の後継者として立候補し、初当選(当選同期に竹下登・金丸信・安倍晋太郎・倉成正・谷川和穂など)。
石田 正実(いしだ まさみ、1909年6月26日 - 199… 石田 正実(いしだ まさみ、1909年6月26日 - 1997年4月1日)は、日本の経営者。出光興産社長、会長を務めた。福岡県宗像市出身。 1936年に東北帝国大学法文学部を卒業し、1938年に出光商会に入社した。1947年に出光興産取締役に就任し、常務、専務を経て、1968年に副社長に就任し、1972年に社長に昇格した。1977年に会長に就任し、1981年から取締役相談役を務めた。 1975年から1979年までに石油連盟会長を務め、1980年から1986年までに日経連副会長も務めた。 1987年に勲一等旭日大綬章を受章した。 1997年4月1日急性呼吸不全のために福岡県筑紫野市の自宅で死去。87歳没。
秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24… 秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24日 - 1996年〈平成8年〉9月10日)は、日本の出版実業家。秋田書店の創立者。岡山県出身。 岡山県出身。旧制岡山第二中学(現:岡山県立岡山操山高等学校)を経て、日本大学専門部卒業後、1930年に小学館に入社。 入社してまもなく学年誌『小学五年生』編集部主任に配属、挿絵作家の福島鉄次を担当する。その後、上層部との軋轢が生じ、1940年11月に小学館を退社する。翌年1941年、秋田は朝日新聞社に入社、『アサヒグラフ』を担当した後、『週刊少国民』の担当となった。『週刊少国民』では再び福島鉄次を起用しており、二人はお互い仲が良かったことがうかがえる。
明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1… 明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1958年8月13日)は、日本の彫刻家・音楽研究家。 新制作協会彫刻部創立会員。東京美術学校在学中より気鳴楽器オカリーナを研究・制作し、「12穴式オカリーナ」の開発に成功。日本にこの楽器を広め根づかせた「アケタオカリーナ」の創始者であり、「日本のオカリーナの父」と呼ばれている。長男はジャズ・ピアニストの明田川荘之。
岡野 祐(おかの たすく、1909年6月22日 - 1988… 岡野 祐(おかの たすく、1909年6月22日 - 1988年2月15日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。東京都出身。 1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社した。人事部次長、電鉄調査部長を歴任した後に、1953年7月に阪急バス常務に就任し、1957年12月には六甲山ホテル専務に就任した。 経営手腕を買われて、1960年から阪急ブレーブスの球団代表、1964年から1968年までに球団社長を務めた。球団社長在任中の1966年オフに、監督の西本幸雄が選手に対して「信任投票」を実施しその結果から岡野に辞表が提出されたが、オーナーの小林米三が監督の交代を望まず、留任となった。
大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 19… 大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 1995年6月20日)は、日本の編集者。講談社の編集者として戦前〜戦後へと活躍した。主な編集誌に幼年クラブ、少年倶楽部などがある。のらくろの作者である、田河水泡と交流があった。 孫に大杉正人(オーストラリアシドニー在住)がいる。 本来大杉家は、地元の大地主であり大きな山林を所有していたが、大正恐慌のあおりを受け没落する。久雄は父より大杉家再興の為医者になることを命じられ、京都大学の受験の為の旅費を渡されるが、幼いころからの夢である文学への思いが立ちきれず京都へ向かう汽車で京都では下車せずそのまま東京へ向かう。 久雄は早稲田大学第一文学部への入学を決めるが、父は立腹しその年の正月の餅を久雄に送らなかったというエピソードが残されている。
田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月2… 田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月20日 - 1989年 <平成元年> 11月13日)は、日本の経営学者。京都大学名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章。 長野県木曽郡楢川村(現塩尻市)出身。旧制京都府立第一中学、旧制第三高等学校を経て、1932年京都帝国大学経済学部卒業。1938年京都帝国大学助手、1939年講師、1946年助教授、1949年京都大学経済学部教授。1958年経済学部長、1972年定年退官、名誉教授。同年より京都学園大学教授を務め、1981年同大学学長に就任。1983年からは開学に尽力した京都文化短期大学学長も兼ねた。1987年「下請制工業論 經濟發展過程における中小工業」で、経済学博士(京都大学)。
水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 198… 水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 1985年9月8日)は、日本の火山学者。理学博士。東京大学名誉教授。 富山県高岡市出身。高岡信用金庫理事長を務めた水上良作の子として生まれる。東京帝国大学理学部地震学科を1934年に卒業。火山噴火予知研究等において世界的な業績を残した火山学者であり、火山物理学の権威である。中でも、東京大学地震研究所の浅間火山観測所に勤め始めて以来、浅間山の噴火予知の業績は世界的に知られる。1967年4月より東京大学地震研究所の所長を務めたが、東大紛争のため翌年に辞任。1981年日本学士院会員となった。
太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ… 太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。 太宰治はペンネームであり、1933年(昭和8年)に短編小説『列車』で初めて太宰治の名が使われた。弘前高等学校(現:弘前大学)の学生時代に始めた左翼活動は3年程で挫折し、その後は自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称された。
大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 20… 大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の医師、政治家。位階は正三位。医学博士。 衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。環境庁長官(第2代)、農林大臣(第47代)。 仙台市元常磐町1番地(現在の仙台市民会館付近)に 、後に衆議院議員を務めた大石倫治の長男として生まれた。宮城県男子師範附属小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校理科乙類に進学し、中学校ではテニス、高等学校では野球に熱中した。高校時代には結核性の肋膜炎に罹患して留年、翌年には腹膜炎を患った。1935年(昭和10年)に東北帝国大学医学部を卒業、1940年(昭和15年)に同大学大学院医学博士課程を修了した。
仲 みどり(なか みどり、1909年〈明治42年〉6月19日… 仲 みどり(なか みどり、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1945年〈昭和20年〉8月24日)は、昭和時代の新劇女優。太平洋戦争中、移動演劇桜隊に所属し公演先の広島県広島市で原爆投下の被害を受けた。医学的に認定された原爆という核兵器による攻撃の被害を受けた人類史上初の原爆症認定患者としても知られる。 東京府東京市日本橋区区本町(現・東京都中央区日本橋本町)の塗料問屋で近衛騎兵中尉・仲万次郎の三女として生まれる。 仏英和高女(現・白百合学園中学校・高等学校)に進学するが中退。大阪のウヰルミナ女学校(現・大阪女学院中学校・高等学校)を卒業後、浅草の剣劇団「明石潮一座」を経て1931年(昭和6年)、築地小劇場内に設立されたプロット(プロレタリア演劇同盟)研究所に入所。
村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1… 村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1986年8月1日)は、昭和期の俳人。京都府京都市下京区仏具屋町出身。本名・正三。兄の村山葵郷、姉のたかも俳人。 1939年、國學院大學国文科卒。 保善商業教諭を経て、1941年、日本郵船に入社。内田百閒に師事。 俳句は少年時代、兄・葵郷の手ほどきを受ける。「草上」同人を経て、1932年「東炎」同人となる。戦後、1946年「べんがら」を、1952年「たちばな」を創刊したが、1955年石田波郷の知遇をえて「鶴」同人となる。1978年山路閑古のあとを継いで鴫立庵第二十世庵主。 俳誌『嵯峨野』を主宰、俳人協会理事を務めた。1978年、『明治俳壇史』で芸術選奨文部大臣賞受賞。
星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日… 星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日 - 1986年〈昭和61年〉7月25日)は、日本の電気化学者。東京工業大学名誉教授。 群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市黒保根町)に、群馬県会議員・黒保根村長をつとめた星野元治の長男として生まれる。黒保根尋常高等小学校、旧制前橋中学校を経て、1934年(昭和9年)に東京工業大学電気化学科を卒業。 東京工業大学助手を経て、1940年(昭和15年)助教授、1953年(昭和28年)教授に就任。1945年(昭和20年)11月工学博士の学位を授与されている。 人造偏光板・磁気録音読書機の発明者。数々の特許を申請し、特許数は日本国内で58件、海外(アメリカ、イギリス、ドイツ各国)で59件。
天野 忠(あまの ただし、1909年6月18日 - 1993… 天野 忠(あまの ただし、1909年6月18日 - 1993年10月28日)は、日本の詩人。 京都府京都市出身。京都第一商業学校卒。職を転々としつつ詩を書き、1935年5月に山前実治、北川桃雄、田中忠雄らと同人誌「リアル」を創刊。1937年8月に「リアル」同人の一部が治安維持法違反で検挙され、その後は逼塞。戦後は出版社勤務、古書店経営等を経て、奈良女子大学付属図書館に職を得る。コルボウ詩話会、近江詩人会等を拠点に活動、1954年の「重たい手」で注目される。1974年の『天野忠詩集』で無限賞、1982年には『私有地』で読売文学賞、1986年には『続天野忠詩集』で毎日出版文化賞を受賞した。1993年10月28日、京都の自宅において多臓器不全のため死去。
阿部 喜三男(あべ きみお、1909年6月16日 - 197… 阿部 喜三男(あべ きみお、1909年6月16日 - 1970年11月22日)は、日本の国文学者。近世俳諧が専門。 1933年、東京帝国大学文学部国文科卒。台北第一中学校教諭、東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)教諭、海軍教授。戦後は明治大学政治経済学部助教授、教授。在職中に61歳で死去。小躯斗酒も辞さないほどの酒好きだった。
堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 19… 堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 1996年6月3日)は、兵庫県芦屋市出身 のサッカー選手、会社役員。 幼少期は兵庫県神戸市で過ごした。関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学 して、サッカー部に所属。関学クラブの一員として1929年10月および1930年2月に開催された2度のア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会および第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で後藤靱雄らと共に2大会連続で優勝した。そのプレースタイルは地味ながらもシュート力は正確無比であった。 1932年3月に卒業 して、湯浅蓄電池製造(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)に入社。
吉沢 忠(よしざわ ちゅう、1909年6月15日 - 198… 吉沢 忠(よしざわ ちゅう、1909年6月15日 - 1988年1月12日)は、日本の美術史学者。東京藝術大学名誉教授。日本南画研究が専門。 東京府出身。東京帝国大学卒業。東京国立博物館勤務、多摩美術大学講師、東京芸大助教授、1967年教授。1973年定年退官、名誉教授。
大野 和男(おおの かずお、1909年6月13日 -1983… 大野 和男(おおの かずお、1909年6月13日 -1983年6月2日)は、日本の建築学者・教育者で北海道大学名誉教授。北海道大学建築学科の創設に尽力、教育者として貢献するとともに、10年にわたり工学部校舎全7万平方メートルを全面増改築の設計も担当。退官後は北海道建築センターの基盤を確立し、寒冷地建築の水準向上を図るとともに、道内の建築界を主導した。 一方で1939年から1945年まで、飛行機設計技師として中島飛行機勤務した。
中島征帆(なかじまゆきほ、1909年6月13日 - 1979… 中島征帆(なかじまゆきほ、1909年6月13日 - 1979年4月1日)は日本の通産官僚。 佐賀県佐賀郡新北村寺井津(現在の佐賀市諸富町寺井津)生まれ。佐賀県立佐賀中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。 1932年、東京帝国大学経済学部卒業後、商工省工務局に入省。化学局合成課、軍需省整備局整備課長、燃料局石油課長、経済安定本部動力局次長、福岡商工局商工部長、石炭庁開発局長、資源庁石炭管理局長、大阪通商産業局長などを務めた。
市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年… 市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年不詳)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー審判員。 兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)の蹴球部に所属し、1927年に神戸一中を卒業。 慶應義塾大学に入学後はソッカー部に入部。在学中の1930年5月に第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、フィリピン代表戦で初出場し、得点も決めた。1931年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に慶應BRBのメンバーとして出場して準優勝に貢献した。 慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後の1936年3月、大日本蹴球協会の理事会でベルリン五輪の日本代表候補に選出された(最終メンバーからは落選、ベルリンの奇跡を参照)。
内山 敏(うちやま つとむ、1909年6月9日 - 1982… 内山 敏(うちやま つとむ、1909年6月9日 - 1982年?)は、日本の翻訳家。本名・山内俊雄。 国際政治について多くの翻訳をおこなった。 福島県生まれ。父の親友の息子が本多修郎。第二高等学校卒、1932年東京帝国大学哲学科卒業。 早川書房で『悲劇喜劇』編集長のほか、読売新聞外報部に勤務。 遺産全額を読売光と愛の事業団に寄付し、「山内基金」として盲学校などに寄付されている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
本多 修郎(ほんだ しゅうろう、1909年6月8日 ‐ 19… 本多 修郎(ほんだ しゅうろう、1909年6月8日 ‐ 1990年12月11日)は、日本の哲学者・科学史家。東北大学名誉教授。科学史・技術史を研究。 福島県耶麻郡長瀬村(現猪苗代町)出身。喜多方中学、二高理科を経て東北帝国大学哲学科卒。次いで東京帝国大学大学院に学ぶ。高橋里美、三宅剛一に師事。東北大学助教授、1950年教授。1962年「ヘーゲル弁証法と数学・自然科学」で文学博士の学位を取得。1973年定年退官、名誉教授。東北福祉大学教授。父寅多、母クラ、次男。