宜保 成晴(ぎぼ せいせい、1879年(明治12年)6月20… 宜保 成晴(ぎぼ せいせい、1879年(明治12年)6月20日 - 1953年(昭和28年)9月30日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、医師。 沖縄県島尻郡豊見城村(現在の豊見城市)出身。沖縄県病院医生教習所を卒業後、1902年(明治35年)に済生学舎を卒業した。翌年、医術開業試験に合格し、郷里に医院を開業した。1919年(大正8年)には沖縄県会議員に選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他に沖縄産業銀行監査役を務めた。
水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6… 水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6月14日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 愛媛県温泉郡道後村(現在の松山市)出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、大蔵属となる。翌年、高等文官試験に合格。1909年(明治42年)より統監府書記官、大韓帝国度支部事務官・大邱財務監督局勤務、平壌財務監督局勤務、朝鮮総督府事務官・平安南道財務部長、同第二部長、度支部関税課長、同税務課長、財務局税務課長、同理財課長・監察官、専売局事務官、営林廠長などを歴任。1925年(大正14年)、専売局長に就任し、1928年(昭和3年)に慶尚南道知事に転じた。
櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月… 櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月11日 - 1965年(昭和40年)9月17日)は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。 1879年(明治12年)6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に士族の3男として生まれる。1899年(明治32年)、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校卒業(13期)。 松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。
実吉 純郎(旧字体: 實吉 純郞、さねよし すみお、1879… 実吉 純郎(旧字体: 實吉 純郞、さねよし すみお、1879年(明治12年)6月9日 - 1948年(昭和23年)11月8日)は、明治から昭和期の医学者、政治家、華族。貴族院子爵議員、医学博士。 海軍軍医・実吉安純の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)4月15日、子爵を襲爵した。 1907年(明治40年)7月、東京帝国大学医科大学を卒業。1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1907年(明治40年)東京帝国大学医科大学副手となる。以後、同助手、私立高輪病院長、東京慈恵会医科大学教授、同会医院次長、同内科部長、鉄道嘱託医、医薬制度調査会委員などを務めた。 1933年(昭和8年)6月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
片山 三郎(かたやま さぶろう、1879年(明治12年)6月… 片山 三郎(かたやま さぶろう、1879年(明治12年)6月9日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。大日本水産会理事。 京都府出身。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業し、同年に判事検事登用試験に合格。司法官試補、大阪区裁判所検事、大阪地方裁判所検事を務めた。1907年(明治40年)、山林事務官に転じ、高知大林区署長、水産講習所教授、農商務書記官・事務官、水産局魚政課長、台湾総督府殖産局長、台南州知事、台北州知事を歴任した。 1931年(昭和6年)に退官し、弁護士・弁理士を開業した。その他、大日本水産会理事、共立水産工業株式会社取締役、帝国水産会顧問、林兼商店(のち大洋捕鯨株式会社、現在のマルハニチロ)顧問などを務めた。
水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月… 水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月6日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科選科を卒業し、東京市主事となった。1912年(大正元年)、高等学校卒業検定試験に合格し、東京帝国大学法科大学政治家を卒業。高等文官試験に合格し、台湾総督府事務官、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、交通局理事を歴任。1929年(昭和4年)、台中州知事となり、1931年(昭和6年)に退官した。 その後は台北市会議員、台北商業会議所理事を務めた。
海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 195… 海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 1955年1月25日)は、日本の社会事業理論家、優生学者。 東京・九段に、数学者・海野幸明の子として生まれる。東京若松専門学校政治経済科卒業。1903年、ドイツ系の貿易会社・横浜セールに入社。1907年、古屋寿会に移り、1910年『日本人種改造論』を著す。同書は日本で初めて本格的に優生学を導入した書とされる。以後、『中央公論』、『太陽』、『日本及日本人』などを含む雑誌に大量の文章を発表する。1912年にアメリカ合衆国に1年間留学し、スタンフォード大学・シカゴ大学で社会学、社会事業について研究する。1917年に古屋寿会を退職。1919年に「優生学の界限に就いて」を記した後、優生学と距離をおく一方、社会事業理論家としての活動を開始。
福田 代造(ふくだ だいぞう、1879年6月 - 没年不明)… 福田 代造(ふくだ だいぞう、1879年6月 - 没年不明)は、大正時代の日本の実業家、銀行家。鹿沼銀行取締役、鹿沼産業銀行監査役、鹿沼運輸監査役などを歴任。栃木県多額納税者。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現・鹿沼市)出身。先代福田代造の長男で、出生当時の名前は「長造」。1917年(大正6年)家督を相続して「代造」に改名した。1933年(昭和8年)には鹿沼町会議員に当選した。 鹿沼市にある福田家奥座敷は、2011年に国の有形文化財に登録されている。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月3… 矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月30日 - 1908年(明治41年)10月16日)は、日本の発明家。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ機械式計算機を発明し、これらの製造、販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った鳥類の飛翔を研究し、動力航空機の発明を試みたが31歳で没した。 福岡県上毛郡黒土村(現在の豊前市)で、後に岩屋の村長となった父、道一、母、タミの長男として生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:福岡県立育徳館高等学校)に進んだが鳥の飛翔に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し大阪へ出た。大阪で数学、工学や語学などの知識の必要性を痛感し、英国人の私塾にもかよって学習したと伝えられる。
齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1… 齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1960年4月14日)は、日本における発酵微生物学の基盤を作った細菌学者。大阪帝国大学名誉教授、大阪醸造学会会長、理学博士。 戦前、国内や中国、朝鮮、満州に生息する微生物の分類同定を行ない、黴類で28種、酵母菌で37種、細菌で27種もの新種を発見し報告した。菌類による発酵過程での生理機構やその生殖現象についても研究を行なった。また微生物に関する多数の専門書や啓蒙書を著した。 金沢市に生まれる。父親は斎藤深了。1897年、第四高等学校第2部を卒業し、東京帝国大学理科大学植物学科進学。1900年、東京帝国大学大学院植物学研究科植物生理学専攻進学。
木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月… 木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月27日 - 1952年(昭和27年)6月19日)は、日本の運動生理学者、スポーツ評論家。医学博士。 大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。 京都市出身。木下凞の二男。兄に産婦人科学者の木下正中がいる。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した(父については木下正中の記事を参照)。 東京府尋常中学、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。
木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1… 木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1951年1月7日)は、将棋棋士。追贈九段。関根金次郎十三世名人門下。岡山県児島郡木見村(現・倉敷市)出身。 古鉄商の子として生まれる。明治19年、数えで9歳のころ、家族と神戸に移る。 二十歳頃までは実家にいて、家業のかたわら、賭け将棋をしていたらしい。数えの19歳の頃、後の十三世名人関根金次郎に四枚落ちで一ひねりされ、将棋の勉強を始める。1914年、家業を捨て東京に出て、関根金次郎門下に入門。プロ棋士となる。 第一次世界大戦後に古鉄の相場が再び上昇したため、大阪に戻り古鉄商を再開する。しかし将棋と力仕事の両立が難しい事から、古鉄商をやめて棋士の道を歩む。
紺野 九右衛門(九右衞門、こんの くえもん、1878年(明治… 紺野 九右衛門(九右衞門、こんの くえもん、1878年(明治11年)6月22日 - 1932年(昭和7年)8月12日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・喜太郎。 福島県信夫郡井佐野村(平野村大字井佐野、飯坂町を経て現福島市飯坂町平野)で、農業、先代・紺野九右衛門の長男として生まれる。1920年(大正9年)家督を相続し九右衛門を襲名し、農業を営む。 1893年(明治26年)福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)を卒業。その後、仙台数学院(現東北高等学校)で学んだ。消防組頭、福島税務署管内郡部所得調査員、福島市共立福島病院組合会議員、平野村農会議員などに就任。若いころから政治活動に熱心で、立憲民政党支部幹事長となり、鈴木寅彦の側近として活躍。
藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日… 藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日 - 1923年7月15日)は、現在の福島県二本松市出身で藤島部屋、尾車部屋に所属した元大相撲力士。本名は神田 久助。7代藤島。165cm、71kg。最高位は西前頭3枚目。 魚店に奉公するも相撲好きで年寄藤島甚助に勧誘され、1895年入門。1895年5月序ノ口、藤島部屋は稽古場がなく、出稽古として尾車部屋に通い当時幕下だったのちの大関・荒岩の指導を受け、1901年1月十両昇進。1904年1月入幕を果たす。1901年5月、1904年1月に太刀山峯右エ門と、1905年5月に大砲万右エ門と引き分けている。藤見嶽の取り口を大関朝汐は「力士の中でも藤見嶽くらい相撲上手な者はいない。
田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 -… 田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 - 1943年〈昭和18年〉2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員。田艇吉の子。 兵庫県氷上郡、のちの柏原町(現:丹波市)で、衆議院議員・田艇吉の長男として生まれる。鳳鳴義塾、開成中学、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入り煙草専売局属として本局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1905年(明治38年)12月、煙草専売事務官に就任。以後、煙草専売局主事、兼大蔵書記官、専売局主事、大蔵書記官・主計局司計課長、理財局国庫課長、兼大蔵省参事官、主計局予算決算課長、連合国経済会議(パリ)特派委員、海外駐箚財務官(米国駐在)、大蔵省主計局長などを歴任。
坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 19… 坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥。号は孤景(こけい)。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。 愛知県名古屋市花車町に生まれる。泥江小学校、津島高等小学校から愛知中学校、早稲田大学英語専門部を経て1899年、早稲田大学文学部を首席で卒業。1年間志願兵として従軍後、詩人として身を立てようと考えたが自立しろと実家の仕送りを止められたため、友人の勧めで旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)の教員となる。しかし「田舎教師もほとほと嫌になり、何とか工夫して都の空に舞い戻りたく心矢の如くに候」と同校での教員生活を捨て、やはり詩人として身を立てようと1903年に上京。
下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 -… 下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 - 1961年2月21日)は、平凡社の創業者、教員組合の創始者、また労働運動や農民運動の指導者。下中芳岳ともいう。 1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村(現・丹波篠山市)に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となる。1898年、神戸市雲中小学校の代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。1902年に上京、『児童新聞』や『婦女新聞』の編輯に携わる。1910年に中等教員検定試験教育科に合格し、1911年 - 1918年、埼玉県師範学校の嘱託教師となる。1919年(大正8年)、啓明会を結成(翌1920年に日本教員組合啓明会と改称)。学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。
井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6… 井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6月10日 - 昭和30年(1955年)11月2日)は、日本の経済学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。位階は正三位。 東京府士族。1897年東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業。1901年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1903年同校専攻部卒業。1904年福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)教諭。1905年市立大阪高等商業学校(現大阪公立大学)教諭。 1908年 神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1910年から1913年まで商業学研究のためアメリカ合衆国、ドイツ帝国、イギリスに留学。1911年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授。
日野 熊蔵(ひの くまぞう、1878年6月9日 - 1946… 日野 熊蔵(ひの くまぞう、1878年6月9日 - 1946年1月15日)は熊本県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍歩兵中佐。根っからの発明家でもあり、日本で初めて飛行機を操縦して空を飛んだパイロット。日本語の他、英・仏・独の計4ヶ国語が話せたとされる。 1878年(明治11年)熊本県球磨郡人吉町(後の人吉市)にて旧相良藩士・日野広一の長男として生まれる。キリスト教系の熊本英学校を出た後軍人の道に進み、1898年(明治31年)に陸軍士官学校(10期)を卒業する。 1904年(明治37年)、日野式自動拳銃を発明。知人で投資家の小室友次郎と連名で日本、イギリス、アメリカ他の各国で特許を取得し市販を開始するが、構造上の欠陥から2度の暴発事故を起こし、自身の左手の指と背中を撃ち抜かれる重傷を負う。
荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1… 荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1日 - 1943年(昭和18年)6月1日)は、日本の衆議院議員(庚申倶楽部)。弁護士。 三重県多気郡相可村(現在の多気町)出身。1905年(明治38年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、農商務属となった。統監府が設置されると書記官となり、朝鮮総督府書記官を経て、1917年(大正6年)に朝鮮総督府総務局長に就任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、第一東京弁護士会所属の弁護士となった。
伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 -… 伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 - 1936年〈昭和11年〉8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍造機中将。 京都府で伊藤正信の四男として生まれる。 1903年(明治36年)、東京帝国大学工科大学舶用機関科を卒業し、海軍中技士となる。海軍機関学校教官などを経て、1923年(大正12年)佐世保海軍工廠造機部長となる。1925年(大正14年)には神戸艦政本部監督官となる。1929年(昭和4年)海軍中将となり広海軍工廠長を務めた。 1930年(昭和5年)、海軍技術研究所長兼海軍技術会議員に就任した。 1936年(昭和11年)3月死去。死去に際し祭資が下賜されたほか、同年3月25日の葬送に際しては勅使の遣いがあり幣帛を下賜された。
東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月3… 東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月30日 - 1969年3月5日)は、和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)出身の童謡作詞家。日本で初めて口語による童謡を作詞した。1899年に東京女子高等師範学校教授・東基吉と結婚し、東くめとなる。
北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月2… 北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月28日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、戯曲『実録日蓮聖人一代記』の作者として知られる日蓮宗の僧。字は啓玉。鳥取県出身。 鳥取市の芳心寺で河合日辰の元で出家し、日蓮宗大学(現在の立正大学)卒業後の1909年(明治42年)、日蓮宗大学中等部で日蓮宗の宗学教諭となる。その後1919年(大正8年)、日蓮宗大学教授を経て1931年(昭和6年)には、芳心寺住職に就任した。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)… 川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)6月23日 - 1922年(大正11年)12月10日)は、日本の歴史学者である。 京都市の旧家にて生まれる。若くして文部省(現在の文部科学省)の検定試験を受験し、悪戦苦闘の末合格する。その後中等学校の教員を経て、京都帝国大学(現在の京都大学)に選科として入学した。 在学中は主に江戸時代における朱印船貿易の研究に携わり、その研究論文を自身が執筆したものが書籍化された。また同時期に高等学校卒業試験に合格した事により、文学博士を取得した。1912年(大正元年)に卒業後は、京都府学務課長を務めた後に、京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)にて教師として活動する。
島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18… 島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月21日)は、日本の政治家。 政界入りする前は地方自治の現場にいて地方自治の研究をした数少ない人物であり、政界に入ってからは衆議院議員選挙に9回当選し、農林大臣・衆議院議長等を務めた。雄弁家としても知られた。 島根県江津市出身。旧制山口高等学校卒業。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、雑誌『明美王道』及び『実業時論』両誌の編集者となる。1903年(明治36年)、東京市吏員に転じ、教育課長・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)、中国雲南省法制学堂講師となる。1907年(明治40年)、帰国。
奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6… 奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6月16日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階および勲等は従二位・勲三等。幼名は九八郎。旧中津藩主の家系。 東京府出身。伯爵・奥平昌邁の長男として生まれる。父・昌邁の死去に伴い、1885年(明治18年)1月16日、家督を相続し伯爵を襲爵した。幼少より奥平家旧領の中津で学んでいたが、上京して学習院に入学、後に京都帝国大学法科大学を修了。1909年(明治42年)には欧米を漫遊する。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1932年(昭和7年)7月まで在任し、さらに1946年(昭和21年)5月9日、補欠選挙で再選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 195… 藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 1955年1月18日)は、日本の体育教育者。 香川県阿野郡坂出村(現・坂出市)出身。病気で東京女子高等師範学校を中退。その後、1902年に体操で健康を取り戻し、1904年に体操科教員の文部省検定試験で女性初の合格者となる。同年に東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)に就職し、1908年に校長となる。1915年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学し、1920年卒業。1928年から1931年まで海外を視察し、帰国後にはドイツの体育教師G・ワルターとK・ブラントを招聘し、ドイツ体操を奨励した。 1950年に東京女子体育短期大学で初代学長となる。
石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月… 石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月14日 - 1935年(昭和10年)9月6日)は、明治後期から昭和前期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田村長。 佐賀県佐賀郡久保田村久保田宿(久保田町大字久保田を経て現佐賀市久保田町大字久保田)で、石川謙助の長男として生まれる。大阪市立高等商業学校(のち大阪商科大学)を卒業。1897年(明治30年)家督を相続し、農業を営む。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉で除隊した。 1903年(明治36年)頃より農業改良に取り組み、田での正条植えを奨励し、村内の篤農家と共に晩生稲の時代を主張して、1913年(大正2年)全国五石収穫懸賞会で入賞してその成果が認められた。
三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月1… 三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月12日 - 1947年〈昭和22年〉8月14日)は、日本の経済学者、実業家、政治家。専門は経済史。1942年(昭和17年)帝国学士院会員。研究者、財界人、政治家として活躍した。 山形県山形市旅籠町三浦新兵衛の四男として生まれる。のちに、一族の宗家である四日町の豪商三浦権四郎の養嗣子となった。 旧制山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現:一橋大学)卒。1903年(明治36年)からイギリス・ドイツに留学し、ライプツィヒ大学でランプレヒトに師事し、歴史学を研究する。 帰国後の1911年(明治44年)、母校である東京高等商業学校の教授となり経済史、文明史を教えた。
森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945… 森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945年11月13日)は大正から昭和前期にかけて活動した日本のジャーナリスト、写真家、新聞経営者。 1877年(明治10年)6月、岡山県勝田郡吉野村(現在の勝央町)で新谷英太郎の長男として生まれる。父の英太郎は旧勝北郡の2代目郡長を務め、岡山県立勝間田高等学校の前身校に当たる林園書院、のち勝間田農林学校の創立者として知られる名士であった。その後、父が養子となっていた新谷家から生家の森家へ復したことに伴い、森姓となる。 東京専門学校を卒業後、博文館に入社し『太陽』の記者を務めていたが三井銀行を経て安田財閥持株会社の安田保善社に入り、安田倉庫の大阪支配人に就いた。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6… 小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、日本のジャーナリスト、民俗学研究家、歌人、俳人。名は「ぞん」とも読む。号は粲楼(さんろう)、粲楼学人、烏啼(うてい)。新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)出身。 1877年、小林祐保・ミン夫妻の末子として生まれる。小林家は代々、新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めた素封家で、郡内の有力地主の一つであった。横越小学校・亀田高等小学校を経て上京し、第一高等学校への進学を目指すが失敗し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学、坪内逍遥に学んだ。また、同校在学中の1894年に蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂双紙』を発刊した。
加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日… 加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日 - 1963年〈昭和38年〉10月17日)は、日本の銀行家。吉田内閣経済最高顧問。 栃木県上都賀郡落合村(現・日光市)に、父・昇一郎の長男として生まれる。加藤家は代々の庄屋で広大な山林を所有していた。 旧制宇都宮中学(現在の栃木県立宇都宮高等学校)を経て、1901年(明治34年)慶應義塾大学部理財科卒業。就職先の第一志望は横浜正金銀行であったが、父の薦めにより、同年、三菱合資会社銀行部に入社。 京都支店長、大阪支店長を歴任。1919年(大正8年)に銀行部が独立して三菱銀行となった際に、春藤和などと共に常務取締役に就任。加藤は、1919年(大正8年)の三菱銀行創設と同時に常務となっているが、翌年の恐慌に始まり関東大震災、金融恐慌、満州事変、金輸出再禁止等の激動の時代に身を置き銀行の経営に携わってきた。
山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日… 山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日 - 1951年〈昭和26年〉11月6日)は、日本の内務官僚。名古屋市助役。 山形県東置賜郡高畠町出身。米沢藩士の山宮咸一の長男として生まれる。山形中学校出身。1905年(明治38年)、早稲田大学法律科を卒業し、文部属となり普通学務局に配属された。1907年(明治40年)11月、文官高等試験に合格。東京府属、三重県事務官、長崎県事務官、鳥取県警察部長、北海道庁警察部長、栃木県内務部長を経て、1920年(大正9年)に神奈川県産業部長に就任した。その後、内務監察官を経て、1924年(大正13年)に退官した。 その後、名古屋市助役を1927年(昭和2年)まで務めた。
煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)… 煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)6月3日 - 1954年(昭和29年)3月21日)は、明治から昭和にかけての西洋史学者、政治学者。日本のロシア史研究の「草分け」。早稲田大学名誉教授。岩手県出身。 煙山専太郎は、岩手県大川目村(現在の久慈市大川目町)に生まれた。盛岡尋常中学を経て東京帝大の史学科に進んだが、のちに哲学科に転科した。有賀長雄が主宰する『外交時報』に、在学中から寄稿しており、有賀の知遇を得ている。早稲田大学で研究者、教育者として過ごした。 『外交時報』は、1898年(明治31年)に有賀が創刊した国際・外交問題専門誌である。埴原正直が編集人をやめた後、編集事務の方面で田中唯一郎が、執筆面で煙山専太郎が有賀を補佐する存在となったとされる。
川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 19… 川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 1942年9月15日)は明治時代の浮世絵師、郷土玩具画家。 本名は川崎末吉。明治10年(1877年)に堺県(現:大阪府堺市)に生まれる。他の雅号では人魚洞・芳斎・碧水居とも称した。子供のころから絵が得意で、明治25年(1892年)堺に住んでいた浮世絵師の中井芳滝に師事した。一時期は芳滝の元を離れて東京に絵を学びに行くが、数年で堺に戻って大阪に移住した芳滝に再び師事し浮世絵の手法を学んだ。その後芳滝の娘と結婚し養子となって芳滝の遺志であった新聞・雑誌の挿絵や連載物の他にシリーズで発刊されていた刷物風俗画作品(『大阪名所』)を引き継いだ。更に芳滝と親しかった大阪麦酒(現:アサヒグループホールディングス)との関係も引き継ぎ、明治36年(1903年)、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会のパビリオンの1つ「冷蔵庫」内における陳列とビアホールの様子を描いた絵を残している(アサヒビール蔵)。
安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年… 安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年)6月1日 – 1955年(昭和30年)2月4日[要出典])は、日本の鉄道官僚。岐阜県大垣市長。 大垣市出身。教育者、漢学者であった安東老山の次男。高等文官試験(行政科)に合格、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。学生時代、佐竹三吾らとともに濃飛学寮(現・岐阜県学寮)の前身とも言うべき西濃出身学生の寄宿舎「到道館」を設けた。鉄道作業局書記、統監府鉄道管理局参事、朝鮮総督府鉄道局参事を歴任。 1916年に濃飛学寮が創立されるとその運営に携わり、1928年から1937年まで理事、1937年からは第2代理事長を務めた(初代は満鉄総裁などを歴任した野村龍太郎)。
力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年… 力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年)6月30日 - 1933年(昭和8年)3月17日)は、日本の内務官僚。政友会系官選府県知事。族籍は愛媛県士族。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)で、旧大洲藩士・力石八十綱の長男として生まれる。東京に移り、府立一中、第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、文官高等試験に合格。内務省に入省。 以後、徳島県参事官、岩手県警部長、岩手県事務官・第四部長、石川県事務官・警察部長、関東都督府大連民政署長、長野県・岐阜県の各内務部長などを歴任。 1914年4月、第2次大隈内閣が成立し長野県知事に発令された。以後、大分県・茨城県・宮城県・秋田県・新潟県の各知事を経て、1928年5月、大阪府知事に就任。
上中啓三(うえなか けいぞう、1876年(明治9年)6月29… 上中啓三(うえなか けいぞう、1876年(明治9年)6月29日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の化学者、薬剤師。ニューヨークで高峰譲吉の助手としてアドレナリンの発見に貢献し、帰国後はアドレナリンの製造開発に尽力したことにより知られる。 1876年、兵庫県塩瀬村名塩(現:西宮市名塩)に生まれる。10歳の時に大阪のミッションスクールに入学して英語や化学を学んだ後、大阪道修町の薬問屋にて丁稚として働く。1891年共立薬学校(現・大阪大学薬学部)に入学し、1894年には薬剤師国家試験に合格して薬剤師となる。その後東京帝国大学医学部薬学科に入学し、「日本近代薬学の開祖」として知られる長井長義のもとで研究生活を送る。
井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29… 井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29日 - 1929年〈昭和4年〉12月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 飾磨県飾西郡飾西村(のちの兵庫県飾磨郡余部村を経て現姫路市)出身。逓信省通信書記、姫路郵便局電信課長となり、その後は大阪商船(株)助役、(資)台湾組支配人、(名)富島組総務理事、帝国サルベージ、阪堺電鉄各(株)取締役社長、木津川運河土地、木代発動機製造各(株)監査役、大阪商業会議所議員、大阪税関貨物取扱人連合会会長、港湾協会評議員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において兵庫10区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。
中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月1… 中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月19日 - 1928年(昭和3年)5月16日)は、日本の陸軍軍医、政治家。旧姓は小林、野村、柏村。元山口町議会議員。元湯田医院(中原医院)長。従五位勲四等。 山口県厚狭郡厚東村(現宇部市)の農家小林八九郎、フデの次男として生まれた。小学生の頃、父親の八九郎が離婚、浜田スミという女性と再婚。謙助は八九郎の姉のミキが嫁いでいた野村家の養子になる。棚井小学校(現・宇部市立厚東小学校)の教師から苗字が変わったことを告げられた謙助はその場で泣き出したという。 小学校卒業と同時に、母の実家・藤井家の従兄藤井幸八のすすめによって上京を決意する。藤井幸八は名医として聞え、藤井眼科医院は遠近からの患者で大いに栄え、入院患者を収容するのに付近の農家を借りるほどだった。
烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月1… 烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月18日 - 1946年(昭和21年)3月11日)は、日本の法学者。 専門は民法および商法(特に海商法)。学位は法学博士。京都帝国大学名誉教授。第16代京都帝国大学法学部長。族籍は京都府平民。正三位勲二等受賞者。雅号は旭山人又は都水。 京都府京都市出身(本籍地は京都府京都市上京区)。烏賀陽然冏(または恒正)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)家督を相続する。京都市立小川小学校、1899年(明治32年)第四高等学校(旧制)卒業を経て、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学法律科を卒業。 1904年(明治37年)に神戸高等商業学校講師となり、1906年(明治39年)から1920年(大正9年)まで同教授を務める。
井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月1… 井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月15日 – 没年不詳)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県出身。1903年(明治36年)、明治大学を卒業。同年、弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。宇和郡会議員、宇和島市会議員、同議長に選出された。 1933年(昭和8年)に宇和島市長に選出された。 その後、第二十九銀行取締役、宇和島材木会社取締役、南予文化協会理事などを務めた。
津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 19… 津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 1939年12月23日)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現・神戸大学)教授、大阪鐵工所(現・日立造船)取締役会長等を歴任した。 1876年、和歌山県日高郡御坊村(現・御坊市)生まれ。旧制和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年東京高等商業学校 (現・一橋大学)専攻部を卒業。東京高等商業学校校長だった小山健三の娘と結婚した。 1900年から1903年まで欧米に留学し、留学中に石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・志田鉀太郎・福田徳三・関一とともに「商業大学の必要」を建議し、東京高商の大学昇格運動を始めた。
岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 … 岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 - 1949年(昭和24年)4月28日)は、明治時代後期から昭和時代前期の土木工学者、鉄道官僚、実業家。 東京市出身。1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、日本鉄道技師となり水戸保線事務所長を発令される。1905年(明治38年)信号や連鎖装置の視察のため欧米諸国の出張を経て、翌年同社が解散すると逓信省鉄道作業局に転じ、ベルリンに学んだ。ついで、帝国鉄道庁技師、鉄道院技師兼内務技師、鉄道院工務局長、鉄道省工務局長を経て、1924年(大正13年)鉄道次官に就任した。 のち実業界に転じ、西武鉄道副社長を経て、1926年(大正15年)同社社長に就任。
赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 195… 赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 1954年12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 19… 古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 1967年9月17日)は、大正・昭和初期の外交官。古谷綱武と古谷綱正は子息。 愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市宇和町明間)の庄屋・古谷綱紀の次男として生まれた。同志社を卒業後、米国ミシガン大学に学ぶ。国民新聞社勤務を経て、1902年に外交官及領事官試験に合格した。外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグアイ兼パラグアイの特命全権公使等を歴任。アルゼンチンでは、よく在留邦人の世話をし、「平民公使」として親しまれた。1928年、官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは、80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に、コーヒー栽培、養蚕等を経営。
栗延 敬太郎(くりのぶ けいたろう、1876年6月10日 -… 栗延 敬太郎(くりのぶ けいたろう、1876年6月10日 - 1949年3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1903年、明治大学法律科卒。農業を営み、村長、郡会議員を務める。西備織物同業組合副組合長、備後水力電気、両備軽便鉄道、芦品製糸、備後銀行各(株)取締役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島12区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1949年死去。
小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月… 小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月9日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、大正・昭和期の財政学者、政治家。京都帝国大学経済学部教授、拓殖大学学監、衆議院議員、商工大臣、鉄道大臣などを歴任。従三位勲一等、法学博士。旧姓・村山。 岡山県浅口郡、のちの里庄村(現里庄町)で村山菊蔵の長男として生まれる。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となり、岡山中学、開成中学、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学に入学。 1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科次席卒業。首席は小野義一(大蔵官僚、高文次席)、3位が上杉慎吉(東大教授、憲法学者)、4位は馬場鍈一(大蔵官僚、高文首席)。
野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日… 野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日 - 1950年(昭和25年)12月15日)は、石川県出身の法学者。 石川県士族・野村宗貞の長男として生まれる。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、大学院に入り、1901年(明治34年)文官高等試験に合格し、東京帝国大学法科大学助教授となる。1902年(明治35年)法学研究のためフランスとドイツに留学する。 1906年(明治39年)から退官まで、一木喜徳郎の後任として国法学講座を担当した。1910年(明治43年)に法学博士となり、後に教授となる。1937年(昭和12年)に退官し、東京帝国大学名誉教授となる。専門は行政法及び憲法。