萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日… 萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日) - 大正12年(1923年)12月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、内務官僚、検事。 薩摩国薩摩郡樋脇村(現在の薩摩川内市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、1895年(明治28年)に司法官試補となり、1897年(明治30年)より鹿児島、久留米、佐賀、宮崎、熊本などの裁判所で検事として勤務した。1907年(明治40年)に内務省に転じ、山形県事務官・警察部長、青森県内務部長、和歌山県内務部長を歴任し、1914年(大正3年)に休職となった。 その後、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6… 井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6月30日) - 昭和6年(1931年)11月16日)は、衆議院議員(中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 肥後国飽田郡中島村(現在の熊本県熊本市西区)出身。1887年(明治20年)、済々黌を卒業。中国語を学び、漢口や北京を巡った。日清戦争の際には大本営附となり、第一軍民政庁通訳官を務めた。戦後、海軍軍令部嘱託として北京・天津を視察した。 1897年(明治30年)、福州にて「漢字新報」を創刊。翌年、貴族院議長・公爵近衛篤麿が東亜同文会を創設すると、それに参加し、上海支部長に任命された。上海租界では漢字新聞「同文滬報」を発行、1904年(明治37年)7月には邦字新聞「上海日報」の経営を引き継いだ。
西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久… 西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久3年5月15日〉- 1930年〈昭和5年〉7月8日)は、日本の内務官僚、政治家、剣道家。 福島県知事(第19代)、北海道庁長官(第13代)、警視総監(第23代)、貴族院議員(勅選)、大日本武徳会武道専門学校校長(第5代)、東京市長(第11代)を歴任した。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子、肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現:佐賀市)に生まれる。司法省法学校予科を経て、東京帝国大学法科大学卒。 内務省に出仕し官吏として累進した弘道は福島県知事、北海道長官、警視総監を歴任する。その後大礼使参与を務め、その功により勲二等瑞宝章を受章。
宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年… 宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年6月29日〈文久3年5月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、資産家、商人(酒醬油商)、会社役員。東京市神田区会議員。共立土地建物取締役。族籍は東京府平民。 東京府豊多摩郡上落合村(現・東京都新宿区上落合)出身。福室藤左衛門の三男。浅草平右衛門町の酒家の宇田川に養子となり、1896年に家督を相続する。 酒醬油商を営む。養父・金蔵は老衰していて家業は甚だ振るわなかったので、身を挺して難局に当たった。 信仰に厚く、平常弘法大師に帰依し、諸国の霊場を巡拝した。住所は東京神田同朋町(現・東京都千代田区外神田)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年… 秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年5月11日〉- 1925年〈大正14年〉3月31日)は、明治から大正期の日本の地主・農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。妻のタニは、川端康成の母方の叔母。 摂津国東成郡蒲生村(大阪府東成郡鯰江村を経て現大阪市)で、大地主、豪農・秋岡伊兵衛の長男として生まれる。1884年(明治17年)4月、家督を相続し農業を営む。 実業界では、朝鮮綿業監査役、京阪電気鉄道監査役、京阪土地建物監査役、大阪農工銀行頭取、利別農場業務執行社員などを務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙で大阪府第4区から無所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算8期在任した。
堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日… 堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日(文久3年5月3日) - 1936年(昭和11年)4月24日)は、貿易商。堀越商会主。 下野国足利郡三重村五十部東山の農家に生まれる。1868年、瑞泉院の寺子屋に入り神童と評される。1878年五十部学校入学。 木村半兵衛の目に留まり、東京遊学給費生となり、共立学校(現開成高等学校)を経て、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。 霊巌寺の人相占いの助言を受けアメリカ合衆国へ渡ることを決意し、木村が蒐集した骨董品を売却して捻出した資金を貰い、1884年、横浜港から出帆し、同窓の友人の世話で力士の下で下宿生活を送ったのち、母校矢野二郎校長の紹介状を伝手に相談した高橋新吉在ニューヨーク領事の紹介で、フレッチャーの二番商会に入社した。
増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日)… 増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日) - 昭和19年(1944年)4月13日)は日本の政治家。上道村長(5代)、上道村会議員。 二女よしは元鳥取弁護士会会長君野順三の弟で醤油醸造業君野秀三(元若桜町町長)の妻。ソニー育ての親として知られる増谷麟(元東宝常務、PCL創立社長、日本ポリドール社長)は三男。 上道村(現鳥取県境港市上道町)出身。家業は薬問屋、醤油醸造。若いころから村会議員を務め一派を形成していた。大正15年(1925年)5月から昭和4年(1929年)9月まで上道村長を務めた。 短歌や墨絵を趣味とし、囲碁も強くて碁打ち友達がよく来ていた。
頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月1… 頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月16日〉 - 1926年〈大正15年〉12月3日)は、日本の政治家(衆議院議員、当選1回)、広島県多額納税者、広島県の大地主、名望家、資産家、実業家。竹原銀行取締役頭取。木ノ江汽船相談役。族籍は広島県平民。 安芸国竹原(現・広島県竹原市)出身。頼廉次郎の長男。和漢学及び英学を修めた。町会議員に挙げられた。農業、製塩業、金穀貸付業を営んだ。1894年、広島県第5区より選ばれて衆議院議員となった。実業同志倶楽部、大手倶楽部に所属。 江戸後期の儒者、勤王家頼山陽の叔父頼春風の曽孫にあたる。家は累世栄え、俊直に至り、その富は益々大になり、「竹原町随一の長者」と称呼された。
箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862… 箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 大正8年〈1919年〉8月9日)は、日本の西洋史学者。文学博士、テュービンゲン大学哲学博士。岡山県士族。 1862年(文久2年)、湯島中坂下(現・東京都文京区)にあった祖父・箕作阮甫の家で生まれた。父・秋坪が開設した私塾・三叉学舎で学び、14歳で東京英語学校に入学。1885年(明治18年)、東京大学理学部動物学科を卒業。動物学研究のためドイツ・フライブルク大学に留学するも、近眼のため顕微鏡の使用に困難を感じ、西洋史学の研究に転向した。 ハイデルベルク大学・テュービンゲン大学などでトライチュケやランケの指導を受け、1891年(明治24年)テュービンゲン大学で哲学博士ドクトル、デル、フイロソヒー、マキスデルアルチユームを取得。
加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1… 加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月19日)は、明治後期から大正にかけての日本の弁護士・政治家である。 司法官を経て名古屋市で弁護士を開業したのち名古屋市会議員に選ばれ、市会議長や第6代名古屋市長(1906年-1911年)を歴任。その後衆議院議員にも当選した(当選1回)。 現在の名古屋市出身。文久2年5月29日(新暦:1862年6月26日)、高木鉄蔵の次男として生まれる。1880年(明治13年)に加藤成章の養子となり、1883年(明治16年)8月に加藤家を相続した。高木家・加藤家ともに尾張藩士の家である。明治維新後は一時巡査として働くが、上京して明治大学の前身である明治法律学校に学んだ。
豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年… 豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年5月26日) - 1927年(昭和2年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。日清戦争で鳳凰城攻略一番乗りを果たし、日露戦争では沈旦堡を死守した騎兵将校である。最終階級は陸軍中将。 豊辺は長岡洋学校、陸軍幼年学校を経て1882年(明治15年)に陸軍士官学校を卒業した、旧5期生の一人である。騎兵第一大隊附、教導団騎兵中隊小隊長、三本木軍馬補充部勤務を経て騎兵第五大隊第一中隊長として日清戦争に出征する。平素の豊辺は周囲に無能と思われており、大尉に進級したものの、予備役入りは近いと考えられていた。しかし豊辺は実戦においてその評価を一変させる。 騎兵第五大隊第一中隊は大島義昌が率いる第九旅団に属したが、この旅団は日清の開戦に備えて最初に動員された部隊であり、仁川に上陸し1894年(明治27年)7月25日に行動を開始する。
相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(… 相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(文久2年5月22日)- 1942年(昭和17年)6月16日)は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。従四位、勲三等、功四級。 佐賀藩士・相浦蕃慎の次男として生まれる。兄に海軍中将相浦紀道がいる。藩校(弘道館)を経て、1883年(明治16年)12月25日に陸軍士官学校(フランス式旧士官学校)を卒業(旧6期、騎兵)し、同日、陸軍騎兵少尉に任官。 1901年(明治34年)5月に騎兵第12連隊長に就任。1904年(明治37年)5月に騎兵大佐となる。日露戦争に出征し、鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦などに参戦した。1908年(明治41年)12月に軍馬補充部白河部長に就任後、1910年(明治43年)6月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された。
田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2… 田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2年5月15日) - 1945年(昭和20年)10月16日)は、純正調オルガンを発明した日本の音響学・物理学者であり、鉄道技師として要職に就いた。また三絃楽速記法を考案して約三千種を採譜した邦楽の研究家としても知られる。 淡路国三原郡八幡村(町村制後:賀集村、現:兵庫県南あわじ市賀集八幡)に生まれ、1882年(明治15年)に21歳の最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業。 1884年(明治17年)8月、文部省代表として森鷗外などと共にドイツ帝国のベルリン大学へ留学。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究する。
清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文… 清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文久2年5月11日)- 1905年(明治38年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県愛知郡岩崎村長。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡岩崎村(日進村、日進町を経て現日進市)で、里正・治左衛門の息子として生まれた。志水大三郎に師事し、さらに1875年(明治8年)佐藤牧山について漢学を修めた。1879年(明治12年)上京して諸学を学んだ。帰郷して農業を営む。 1883年(明治16年)1月、岩崎村戸長に就任。以後、愛知県勧業委員、愛知郡第四高等小学校学務委員、岩崎村外二ヶ村戸長、岩崎村会議員、愛知郡米野木村外七ヶ村連合会議員などを歴任。
熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1… 熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1862年)6月 - 1940年2月12日)は、日本の歴史学者、文筆家。本名は熊田宗次郎。 福山藩藩士・熊田臨蔵の次男として、備後国福山(現在の広島県福山市)に生まれる。誠之館にて学を修めたほか、江木鰐水に漢籍を、五弓雪窓に漢作文を、藤井葦川に漢詩を学ぶ。 二十歳のころ大阪に出て大阪新報社に就職、同社で編集長をつとめたのち新潟日日新聞、北海道毎日新聞、北海新聞などを経て報知新聞に招かれた。同紙編集長の傍ら日清戦争の戦時記事を執筆して大いにその名を知られるようになる。一時同社を退いたが、日露戦争を機に再び報知の編集長に就任。自著『日本史蹟』が賞讃の的となり、のち鎌倉に居住して著述業に専念した。
飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22… 飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22日〈1861年6月29日〉 - 1922年〈大正11年〉7月24日)は、明治から大正時代にかけての日本の政治家・実業家である。政治家としては長野県会議員(1期)や衆議院議員(2期)を歴任、実業家としては六十三銀行頭取を長く務めた。号は雪州。 子に六十三銀行の後身にあたる八十二銀行で頭取を務めた飯島正一がいる。 飯島正治は、文久元年5月22日(新暦:1861年6月29日)、飯島新左衛門の長男として生まれた。飯島家は信濃国更級郡今井村(後の長野県更級郡中津村、現・長野市)の素封家。300年を越える旧家であり、先祖は上野国館林から移り住んできたと伝わる。
小原 雲心(おはら うんしん、文久元年5月19日(1861年… 小原 雲心(おはら うんしん、文久元年5月19日(1861年6月26日) - 大正6年(1917年)1月1日)は、いけばな小原流の創始者。彫刻家。名は房五郎、号は六合軒。出雲国松江(現島根県松江市)出身。
荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5… 荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5月16日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員(1911年 - 1918年)。日本統治時代の台湾で事業を興し財を成した。 仙台に町奉行であった荒井加右衛門の分家に生まれる。宮城県士族荒井盛行の長男。明治維新後、東京に出て法律とフランス語を学びながら新聞記者となる。1885年(明治18年)には大阪新報社編集長。中江兆民の門下となる。 日本銀行総裁で同郷の富田鉄之助に見い出されて日本銀行に入り、富田の秘書となったが、富田が日本銀行を去ると荒井も去った。その後、鐘淵紡績に入り、1890年(明治23年)には鐘淵紡績支配人となる。
江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年… 江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年6月17日) - 昭和8年(1933年)5月31日)は、日本の弁護士、政治家。 1861年6月(文久元年五月)、遠江国磐田郡の東海道見附宿(現静岡県磐田市)の豪家山本幸七の子として生まれる。後に江間忠五郎の娘つねの入婿となる。1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、弁護士となり、東京弁護士会常議員、議長を歴任した。 1903年(明治36年)に明治大学雄弁会が発足した際に名誉会員となる。この雄弁会は一度活動休止状態となるが1908年(明治41年)に復活し、このとき会長に就任した。 政治家としては東京府会議員、東京市会議員・議長などを務め、1902年(明治35年)には第7回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬して当選し、その後も第10回衆議院議員総選挙(無所属)、第12回衆議院議員総選挙(立憲同志会)に当選した。
守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元… 守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元年5月6日) - 1931年(昭和6年)6月9日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、横浜市会議長、神中鉄道(現在の相模鉄道)社長。 1861年(文久1年5月6日)、備中国小田郡にて生まれる。東京法学校(現・法政大学)を卒業後、横浜市で弁護士を開業する。 1894年(明治27年)に第3回衆議院議員総選挙に当選する(以後当選8回、憲政会)。 1906年(明治39年)から横浜市子安町地先の海面埋め立て事業をおこない(後の守屋町)、1921年(大正10年)に横浜市会議長に就任する(-1922年(大正11年))。東京電車鉄道の監査役、京浜電気鉄道の取締役となり、また、興亜起業取締役会長、平沼製糸社長、神中鉄道、山東起業、満州製麻、青島電気、横浜桟橋倉庫の取締役、平沼製材の社長、日本火薬製造、火薬鉱業、東亜勧業の各監査役、膠奥電気股份有限公司の副董事長、法政大学理事などを歴任した。
大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年… 大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年6月12日(文久元年5月5日)- 1927年(昭和2年)5月9日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県会議長。 近江国甲賀郡、のちの滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、農業、先代・大原重右衛門の二男として生まれる。漢学、数学、仏学を修めた。1881年(明治14年)4月、家督を相続した。 戸長、収税属、郡書記を務めた。滋賀県会議員に選出され、同常置委員、同議長、徴兵参事員、所得税調査委員などに在任。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(滋賀県第2区、無所属)で当選し、その後、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した。
井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久… 井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久元年4月28日) - 1951年(昭和26年)1月13日)は、日本の医学者、眼科医。島根県生まれ。 島根県邇摩郡宅野村(現・大田市仁摩町)に井上柳葊の三男として生まれる。1880年、島根県医学校に入学。1884年に同校を卒業後、1887年、獨逸学協会学校入学。1889年からドイツへ留学し、ベルリン大学やミュンヘン大学などで研鑽を積む。1895年に医学博士の学位を取得。 1896年、帰国して東京眼科病院を開院。1909年、ミュンヘン大学の恩師であるアウグスト・フォン・ロートムントの処方箋を参考に目薬を処方し、信天堂山田安民薬房(現ロート製薬)の山田安民が「ロート目薬」として調製・発売。
玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4… 玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4月27日) - 1937年(昭和12年)11月6日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人。旧名は、名村 程三(なむら ていぞう)。
鍋島 桂次郎(なべしま けいじろう、1860年6月29日(万… 鍋島 桂次郎(なべしま けいじろう、1860年6月29日(万延元年5月11日) - 1933年(昭和8年)1月30日)は、日本の外交官、貴族院勅選議員。神代鍋島家第16代当主。 神代鍋島家13代当主鍋島茂元(佐賀藩9代・鍋島斉直の26男)の次男として生まれる。1884年(明治17年)、外務省御用掛となり、外務属、交際官試補、外務書記官などを歴任。同年6月に兄茂文の後を継ぎ神代鍋島家当主となる。アメリカ、ドイツ、イギリスで公使館一等書記官として勤務した。1906年(明治39年)、統監府書記官兼外務省参事官に任じられ、統監府参与官、統監府外務総長、同外務部長を歴任した。1909年(明治42年)、駐ベルギー公使に任命され、1913年に後任の阿部守太郎が暗殺されたため、1914年(大正3年)まで務め、陸奥広吉と交代した。
合田 福太郎(ごうだ ふくたろう、1860年6月23日(万延… 合田 福太郎(ごうだ ふくたろう、1860年6月23日(万延元年5月5日)‐ 1921年(大正10年)5月29日) は、明治から大正期の日本の政治家。衆議院議員、愛媛県宇摩郡土居村長。 伊予国宇摩郡、のちの愛媛県宇摩郡土居村(土居町を経て現四国中央市) で、精米・瓦製造業、会田基次郎の長男として生まれた。小学校卒業後、尾崎山人(星山)の松菊舎に入り漢学を修めた。1882年(明治15年)愛媛県師範学校高等師範科を卒業した。 郷里の小学校で訓導兼校長を務めた。1889年(明治22年)町村制の施行に伴い土居村が発足すると初代村長に就任した。1891年(明治24年)11月、愛媛県会議員に選出され1898年(明治31年)まで在任。
柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3… 柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3日〉 - 1945年〈昭和20年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。陸士旧3期。柴四朗(東海散士)は兄。 1860年(万延元年)に会津藩の上士(280石)である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南(青森県むつ市)への移住を選ぶ。共に会津藩出身の森雅守少佐(イタリアにて自殺)は斗南時代から行動を共にした陸士旧3期同期生である。
根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2… 根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2日) - 1927年2月18日)は、日本の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、荒尾精の盟友として上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また上海の東亜同文書院の初代・第3代院長として日中間で活動する人材の育成につとめた。 甲斐国山梨郡一町田中村(のち山梨県東山梨郡日川村一町田中、現:山梨県山梨市一町田中)の富家根津勝七の次男として生まれる。幼少より武術だけでなく学問を好み経書に親しんだという。 西南戦争の際、下士官養成のための陸軍教導団に入る。従軍はしなかったものの、同団を首席で卒業する。
横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(18… 横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(1860年6月14日) - 昭和17年(1942年)1月20日)は、日本の古生物学者。「dinosaur」を恐竜(恐龍)と和訳し、最初に日本で恐竜を紹介した人物でもある。 長崎県出身。オランダ通詞(通訳)横山家の分家、7代又次右衛門の次男として生まれる。幕末維新期の長崎の英語学校で学んだ。 1882年(明治15年)、東京大学理学部地質学科を卒業。農商務省御用掛となり、1886年(明治19年)からドイツに留学し、古生物学を専攻した。1889年(明治22年)に帰国し、東京帝国大学理科大学教授に任命された。1891年(明治24年)に理学博士の学位を得た。
6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日… 6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日(万延元年4月25日) - 1944年(昭和19年)10月19日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(3期)。青森県東津軽郡筒井村長。 陸奥弘前藩領津軽郡原別村(青森県東津軽郡原別村を経て現青森市原別)の小笠原家に生まれ、筒井村(筒井町を経て現青森市筒井)の徳差家の婿養子となる。小学校教員、戸長、村連合会議員、学区会議員、同議長、学務委員、村会議員、東津軽郡会議員などを経て、1890年(明治23年)より青森県会議員を3期務めたのち1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。第6回、第7回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
玉ノ井 福司(たまのい ふくじ、1860年(万延元年)6月9… 玉ノ井 福司(たまのい ふくじ、1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日) - 1900年(明治33年)10月28日)は、下野国那須郡(現:栃木県大田原市)出身の元大相撲力士。本名は玉野井 福治(たまのい ふくじ)。 1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日)に下野国那須郡(現:栃木県大田原市)で生まれる。入門以前は地元・栃木県の小学校で代用教員や役場の書記を務めていたが、相撲好きが高じて伊勢ノ海部屋に入門したと伝わる。1885年5月場所にて二段目(現在の幕下)から初土俵を踏むと、1889年1月場所で新十両昇進、1893年1月場所で新入幕を果たした。入幕後は勝率が5割に僅かに届かない程度で推移しており、結果的に三役昇進は果たせなかったものの上位陣には善戦することもあり、1899年5月場所では小錦八十吉から金星を挙げている。
国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶… 国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶応3年8月18日〉 - 1932年〈昭和7年〉9月1日)は、日本の政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選1回)。旧姓・船田。幼名・今吉。 伯耆国汗入郡御来屋村(のち鳥取県西伯郡名和町御来屋、現・大山町御来屋)出身。船田専蔵の三男。8歳の時に生母の実家富長村国谷家の養子となった。 神田共立学舎に入り英語、漢学、数学を修めた。1886年に東京専門学校に入学許可され、政治科と英語科を兼修した。1888年に養父国谷礼蔵が病気となったため故郷から帰郷して家務を見るよう督促があったのでやむなく学業半ばにして帰郷した。農業を営む。 庄内村会議員、西伯郡会議員となる。
浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月… 浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月7日(万延元年4月18日)- 1933年(昭和8年)6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。馬政局長官を務め、馬政の権威として知られた。 甲斐国巨摩郡西井出村(のち山梨県北巨摩郡大泉村、現北杜市大泉町西井出)で、酒醸造業・浅川周蔵の四男として生まれる。甲府徽典館で学び、小学校訓導、校長を務めたが視学官と対立して免職となり、1881年、陸軍教導団に入団。1886年6月25日、陸軍騎兵少尉に任官し、同月28日、陸軍士官学校(旧8期)を優等で卒業し、騎兵第1大隊小隊長に任じられた。1889年5月、陸軍留学生としてドイツ帝国へ留学を命ぜられ、1892年5月に帰国した。
萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年… 萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年6月6日) - 大正13年(1924年)1月31日)は、日本の歴史学者・国文学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。 ※日付は明治5年まで旧暦
山田 喜之助(やまだ きのすけ、1859年6月30日〈安政6… 山田 喜之助(やまだ きのすけ、1859年6月30日〈安政6年6月1日〉 - 1913年〈大正2年〉2月20日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(東京府第3区選出、当選2回)。衆議院書記官長。司法次官。東京代言人組合(東京弁護士会の前身)会長。号は奠南(てんなん)。東京専門学校、英吉利法律学校創立に関与した。 大坂・船場の商家に生まれた。八郎兵衛の二男。生家は家号を「桜井屋」といい、江戸時代から代々続いた富裕な薬種砂糖商として有名だった。母・志ようは喜之助が4歳の時に死去した。父は、6歳になった喜之助を、船場淡路町にあった儒者・藤沢南岳の泊園書院(泊園塾、現在の関西大学)に通わせた。漢学、特に漢詩の素養を身につけた。
石橋 健蔵 (いしばし けんぞう、1859年6月30日〈安政… 石橋 健蔵 (いしばし けんぞう、1859年6月30日〈安政6年6月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 丹波国多紀郡篠山町(現・兵庫県丹波篠山市)に生まれる。陸軍士官学校(旧3期)及び陸軍大学校(1期)を卒業した。以降、大阪鎮台参謀(中尉)、陸軍士官学校教官、第4師団参謀(大尉)、第1師団参謀(少佐)、中部都督部参謀、第5師団参謀長、歩兵第11連隊長(中佐)、第2師団参謀長(大佐)等を歴任し、明治38年(1905年)には、陸軍少将となり歩兵第3旅団長を拝命する。その後、歩兵第7旅団、歩兵第8旅団の各旅団長を経て、明治45年(1912年)2月27日に、陸軍中将に昇進したが同日付で予備役編入となった。
多木 久米次郎(多木 粂次郎、たき くめじろう、1859年6… 多木 久米次郎(多木 粂次郎、たき くめじろう、1859年6月28日〈安政6年5月28日〉 - 1943年3月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。株式会社多木製肥所(現在の多木化学)の創業者。そのほか、県農会長、兵庫県会議員、加古郡会議員などを務めた。 安政6年、播磨国加古郡別府村(現在の兵庫県加古川市別府町)に多木勝市郎の三男として生まれる。多木家は江戸中期より干鰯業を営み、天保年間には海運業にも進出して事業を拡大していた。分家を経て、父・勝市郎は醤油・酢の醸造や魚肥の販売、農業経営を家業としていた。1887年(明治20年)、父の死去により家業を継いだ。 当時主要肥料だった鰯粕の高騰により困窮する農家のため、多木家は1885年(明治18年)に獣骨を使った日本初の蒸製骨粉製造を始め、1890年(明治23年)には骨粉を原料とした過燐酸石灰の化学肥料製造を開始した。
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859… 坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に敷くものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。
野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安… 野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安政6年5月19日) - 1941年(昭和16年)12月2日)は、日本の実業家。岡山市北区平野出身。幼名・兵三。諱・通礼。筆名・汲古庵主。号・幻庵(げんあん)。 茶道への造詣が深く、1906年から1927年まで茶会の記事を新聞に書き続け、『茶会漫録』12冊を発刊。茶道に影響を与えた。近代小田原三茶人の1人。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年… 青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年6月19日) - 大正13年(1924年)12月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最も初期の「支那通軍人」[要出典]。通算13年の中国生活を送った。 佐土原藩士・青木新蔵の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に入学。明治12年(1879年)12月、砲兵少尉に任官し、翌年12月、陸士(旧3期)を卒業。 明治14年(1881年)4月、山砲兵第2大隊付となり、陸士教官、参謀本部出仕などを経て、明治17年(1884年)10月から同20年(1887年)12月、清国差遣となり、広東、北京に駐在。
高井 利一郎(たかい りいちろう、1859年6月17日〈安政… 高井 利一郎(たかい りいちろう、1859年6月17日〈安政6年5月17日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(姫路市会議員)、名望家、実業家。高井織物取締役社長。高井綿ネル工場主。万里銀行取締役。姫路足袋相談役。中播織物同業組合長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県平民・中山治三郎の弟。1883年6月、先代高井つねの入夫となり、家督を相続した。初め県立師範学校を卒業し教鞭を執ったが、のち染木綿染手拭製造を創めた。経営は思うようにならなかったので方法を改め新たに海外より諸機械を購入し、原料を精選し製品が精良になるように努めた結果声価が高まった。 年産額32万円に達し直接国税954余円を納める盛況を見た。1916年、株式組織に変更し社長となった。
青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859… 青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859年6月15日) - 大正6年(1917年)12月23日)は、日本の医学者。専門は内科学。医学博士。1906年、帝国学士院会員・勲三等瑞宝章、1916年、勲一等瑞宝章、1917年12月14日、男爵叙爵。 江戸の麻布広尾の苗木藩下屋敷で藩士・青山景通の三男として生まれ、美濃国恵那郡苗木(現在の岐阜県中津川市苗木)にて育つ。幼名は捨松、助松。 1869年、平田信胤(平田鐵胤の子)の養子となり胤道と改名するが、1871年に養父の信胤が亡くなったため青山家へ戻る。 1882年(明治15年) 東京大学医学部卒業後、東京大学医学部病理学教室助手に就任。
浅野 吉次郎(あさの きちじろう、1859年6月14日(安政… 浅野 吉次郎(あさの きちじろう、1859年6月14日(安政6年5月14日) - 1926年(大正15年)2月26日)は、尾張国名古屋出身の発明家。 尾張藩の御用桶業者の浅野文六の次男として、1859年上畠町において生まれる。次男ではあったが、家業を13歳で継ぐこととなる。イギリス製の茶箱に着想し、木材板の製造を志す。1907年(明治40年)、マッチの軸木製造機を元にロータリー式ベニヤ板(浅野式合板)の製造に成功する。この発明に成功した日は11月3日とされており、この日は合板の業界団体である日本合板工業組合連合会とNPO法人木材・合板博物館が共同で「合板の日」として制定している。1910年(明治43年)に特許を取得した。
片倉 景光(かたくら かげみつ、安政6年5月13日(1859… 片倉 景光(かたくら かげみつ、安政6年5月13日(1859年6月13日)-1911年(明治44年)9月3日)は、旧仙台藩家老・白石片倉家第14代当主。キリスト教徒(日本基督一致教会の信徒)。父は13代景範。妻は赤城信一の長女・タケ(竹子)。娘婿は青葉神社宮司である健吉。 安政6年(1859年)5月13日、陸奥国刈田郡白石城にて生まれる。1870年(明治3年)5月、胆振国幌別郡に移住する。1880年(明治13年)10月7日、片倉家の家督を相続する。同年10月27日、会津藩洋医師赤城信一の長女で、聖公会の信徒であるタケ(竹子)と結婚する。1886年(明治19年)、押川方義から洗礼を受け、日本基督一致教会の信徒となる。
和田 彦次郎(わだ ひこじろう、安政6年6月10日(1859… 和田 彦次郎(わだ ひこじろう、安政6年6月10日(1859年6月10日) - 昭和14年(1939年)7月12日)は、日本の衆議院議員、農商務官僚、貴族院勅選議員。正三位、勲一等。墓所は永平寺東京別院長谷寺。旧姓・世良。 備後国双三郡三良坂村(現在の広島県三次市)で、世良都平の二男として生まれた。明治3年(1870年)、和田村の豪農・和田良二郎の養子となった。広島の遷喬舎という英語学校で学んだ後、神戸に出て英米人について学んだ。明治13年(1880年)、大阪で中島信行・古沢滋・河津祐之・草間時福らとともに国会期成同盟結成に参加し、『日本立憲政党新聞』の発行にあたった。 明治25年(1892年)、第2回衆議院議員総選挙に国民協会から出馬し、当選。
渡邊 魁(わたなべ かい、安政6年5月6日〈1859年6月6… 渡邊 魁(わたなべ かい、安政6年5月6日〈1859年6月6日〉- 大正11年〈1922年〉12月26日)は、明治中期の日本の裁判官。脱獄囚であったが、戸籍を偽って別人になりすまし、裁判官となったという特異な経歴で知られる。 安政6年(1859年)5月6日、島原藩士渡邊平丁の長男として江戸に生まれる。 商法講習所(一橋大学の前身)で学んだ後、三井物産長崎支店に勤務した。同支店では金銭出納を担当していたが、明治12年(1879年)2月以来、支店長の検印を盗み、会社の切符を偽造して三井銀行から金を盗み、出納簿を改竄し、460余円を横領。これが発覚し、同年7月2日、改定律例の「雇人盗家長財物律」により、終身懲役の有罪判決を受ける。
鳥海 哲四郎(とりうみ/とりのうみ てつしろう、1859年6… 鳥海 哲四郎(とりうみ/とりのうみ てつしろう、1859年6月6日(安政6年5月6日) - 1914年(大正3年)4月6日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 松沢与五郎の四男として出羽鶴岡藩領飽海郡牧曽根村(山形県飽海郡北平田村を経て現酒田市)に生まれ、1877年(明治10年)同郡上蕨岡村上寺(蕨岡村を経て現遊佐町)の鳥海午治郎の養子となる。蕨岡村会議員を経て、1896年(明治29年)飽海郡会議員、1899年(明治32年)より山形県会議員を務めた。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では山形県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 1907年(明治40年)蕨岡村長となり、1913年(大正2年)再選した。
安藤 亀太郎(あんどう かめたろう、1859年6月6日(安政… 安藤 亀太郎(あんどう かめたろう、1859年6月6日(安政6年5月6日) - 1905年(明治38年)2月1日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。 相模小田原藩領足柄上郡沼田村(神奈川県足柄上郡岡本村、南足柄町を経て現南足柄市)で、名主・安藤為之助の息子として生まれる。1896年(明治29年)7月、東京法学院卒業。1876年(明治9年)8月、第二十一大区七小区足柄上郡沼田村御用掛を拝命し、学務委員を経て、1885年(明治18年)11月、神奈川県会議員に当選する。ほか、足柄上郡連合町村会議員、同郡塚原村外八箇村戸長、徴兵参事員を経て、1889年(明治22年)5月、岡本村長に就任した。1890年(明治23年)2月には神奈川県会議員に再選し、1892年(明治25年)4月、岡本村会議員となった。
高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5… 高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5月4日)- 1917年(大正6年)8月22日)は、明治から大正期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国胆沢郡、のちの岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て現奥州市)で、大地主、仙台藩水沢伊達家家臣・高橋万右衛門の二男として生れ、1893年(明治26年)1月、兄・敬章の跡を継承した。藩校立生館で学んだ。1875年(明治8年)水沢県に出仕したが廃県後に辞職した。 その後、商業に従事したが事業に失敗して各地を放浪した。宮城県下で教師をしていたフランス人と出会い、日本語教授、翻訳助手となり、仏学を学んだ。 1895年(明治28年)同志と水沢銀行の設立に参画した。
長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年… 長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年5月13日〉- 1933年〈昭和8年〉4月21日)は、明治、大正期の陸軍軍人、政治家。陸士旧2期・陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将。 周防国都濃郡末武村(現:山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、1878年(明治11年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。1885年(明治18年)に陸軍大学校を一期生として卒業。 日清戦争では大島混成旅団の参謀、1897年(明治30年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。1902年(明治35年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5… 大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5年5月9日〉- 1947年〈昭和22年〉3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 1858年(安政5年)、美濃国岩村藩(現在の岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)生まれ。岩村藩士・大島桂之進の次男。兄は3歳の時に病死したので、健一は一人息子として育つ。10歳の春を迎えると同時に文武所に入所する。文武所は1871年、廃藩置県と共に廃止され、知新館と改称されたので健一もここへ移った。 明治初年に岩村を離れる。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。