南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月… 南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月1日 - 1938年〈昭和13年〉7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。日中戦争における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1906年(明治39年)7月1日、広島県安芸郡江田島村(現江田島市)で当時海軍兵学校幹事の父・南郷次郎少佐(最終階級、少将)の長男として生まれる。本籍は東京府(現・東京都)。性格は豪快で人懐っこく頭脳明晰、体格は大きくなかったが、幼少から柔道に上達し体力は優れていた。祖父に元老院議官で海軍省高官の南郷茂光がいる。弟に太平洋戦争のニューギニアの戦いで活躍し「ニューギニアは南郷で持つ」と称えられた陸軍飛行第59戦隊第2中隊長として有名な 撃墜王の南郷茂男(1944年1月23日、戦死。
越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 … 越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 - 1973年1月24日)は、新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)出身の元大相撲力士。本名は渡邊 東治郎(わたなべ とうじろう)(旧姓:加藤)。 1906年7月1日に新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)で生まれる。1925年1月場所で若藤部屋から初土俵を踏んだ。1931年5月場所で新十両昇進を果たすも1場所で幕下に陥落したが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって、2月場所の改正番付では十両に格上げされ、1932年5月場所で新入幕を果たした。右四つからの上手投げは豪快かつ強力だったが、連敗癖のために幕内上位へは上がれなかった。
岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月… 岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月31日 - 1988年4月28日)は、日本のイギリス文学者、法政大学名誉教授。 鳥取県米子市東町出身。父は薬剤師の岡本正。 良善幼稚園、啓成尋常小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て昭和5年(1930年)法政大学文学部英文科卒業。34年法政大講師、日本出版文化協会勤務ののち、46年法政大教授。60年「イギリスに於ける近代小説の形式 その系譜と要因」で法政大文学博士。文学部長をへて76年定年退職、名誉教授。埼玉医科大学の創立にかかわり教養部教授。 宗教は曹洞宗。趣味は野球、その他のスポーツ。 実業家の坂口平兵衛 (2代)とは幼稚園、小学校、中学校と同期であり、親しい関係にあった[要出典]。
井上 清一(いのうえ せいいち、1905年〈明治38年〉7月… 井上 清一(いのうえ せいいち、1905年〈明治38年〉7月31日 - 1967年〈昭和42年〉1月8日)は、日本の内務官僚、政治家。参議院議員(2期)、京都市長。 1905年に富山県婦負郡速星村の多額納税者井上清孝の長男として生まれる。第四高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に進学し、在学中の1929年(昭和4年)10月に高等試験行政科試験合格。翌1930年帝大卒業とともに内務省へ入省し、四国地方行政事務局次長、同物価事務局長、京都府警察部長を歴任。 京都府知事木村惇の下で副知事を務めるが、1950年(昭和25年)4月に木村が公職選挙法違反で辞任したことで保守系の推薦で京都府知事選挙に立候補するも蜷川虎三に敗れる。
木村 公平(きむら こうへい、1905年(明治38年)7月3… 木村 公平(きむら こうへい、1905年(明治38年)7月31日 - 1976年(昭和51年)9月27日)は、日本の政治家。 岐阜県、現在の大垣市出身。1929年(昭和4年)に明治大学卒業。1937年(昭和12年)に大垣市会議員に当選して政界入り。同市会副議長を経て、岐阜県会議員選挙に立候補して同県会議員。1946年(昭和21年)衆議院議員当選。以降5選。衆院内閣委員長、第4次吉田内閣の運輸政務次官、内閣総理大臣秘書官を歴任。党務では、日本自由党幹事、民主自由党総務、副幹事長などを務めた。1948年(昭和23年)に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。実業に於いては、岐阜県西部紙工、山陽織物の社長などを務めた。
岡垣 久晃(おかがき ひさあき、1905年(明治38年)7月… 岡垣 久晃(おかがき ひさあき、1905年(明治38年)7月30日-1992年(平成4年)11月30日)は日本の法律家。弁護士、元大阪高等裁判所判事。 1905年(明治38年)7月30日に京都府で生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法学部を卒業し、同年高等文官試験司法科に合格する。 京都地方裁判所判事などを経て、1967年(昭和42年)に和歌山地方裁判所長に就任し、1969年(昭和44年)に大阪高裁判事に就任する。 1975年(昭和50年)に勲二等瑞宝章を受章する。 1992年(平成4年)11月30日に死去、87歳。
妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 … 妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 - 1969年(昭和44年)8月13日)は、日本の教育者。東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)を務めた後、旧制山口高等学校(山口大学経済学部の前身)・島根大学教授、岡山大学助教授、北海道大学、神奈川大学教授となる。岡山県高梁市出身。 1905年(明治38年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の妹尾善平の子として生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)旧旧制松江高等学校文科乙類に進学、1926年(大正15年)、同校を卒業し、東京帝国大学文学部独文学科へ進学した。1930年(昭和4年)3月に同大学を卒業した。
牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7… 牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7月26日 - 1999年〈平成11年〉11月20日)は、日本の実業家。サンデン創業者。群馬県出身。伊勢崎市議会議員(1期)。群馬県名誉県民。位階は正五位。 1905年(明治38年)7月26日、群馬県佐波郡豊受村長沼(現・伊勢崎市長沼町)に、父・鋭、母・つねの次男として生まれる。1922年(大正11年)に高崎商業学校を卒業後、1年間伊勢崎工業学校に学ぶ。 家業の染色業を継いだが、太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に機械の供出により廃業、同年三共電器株式会社を設立し社長となった。 戦時中はコンデンサーの製造などを行っていたが、1948年(昭和23年)に自転車用発電ランプの製造販売を開始し、「ふくろうマーク」で広く知られるようになった。
野中 正造(のなか まさぞう、1905年〈明治38年〉7月2… 野中 正造(のなか まさぞう、1905年〈明治38年〉7月25日 - 2019年〈平成31年〉1月20日)は、日本のスーパーセンテナリアン。北海道足寄町在住であった長寿の男性。2016年10月以降より存命する日本最高齢男性、2018年1月29日以降より存命する世界最高齢男性となっていた。 1905年、足寄町上利別にて野中温泉の創業者である父・益次郎(現在の富山県中新川郡立山町から北海道に入植)と母・キヨの間に生まれる。畑作との兼業で温泉を運営し、111歳の時点でなお温泉にて家族と暮らしており、1日3回の食事をとるほか、新聞も毎日読んでいた。長寿の秘訣について、野中は新聞社の取材に「温泉のおかげ」と語っている。
伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月2… 伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月21日 - 1929年〈昭和4年〉9月24日)は、昭和初期の運動家。 長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院中学校・高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。
彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月2… 彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月21日 - 1985年(昭和60年)4月7日)は、日本の昭和の出版人。判例時報社、一粒社を創設した。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学法学部卒業。1941年秋、開戦直前に日本評論社から同盟通信社に移籍。1944年11月27日、検挙される(横浜事件)。時事通信社を経て、1951年(昭和26年)、法律関係の専門出版社一粒社を、1953年(昭和28年)、判例速報誌判例時報社を創設した。 この項目は、出版に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ出版)。 項目が文学作品の場合には{{Lit-stub}}を、文学作品以外の書籍・雑誌の場合には{{Book-stub}}を、漫画の場合には{{Manga-stub}}を貼り付けてください。
猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 19… 猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 1985年1月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の活動などに参加した。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現:鹿沼市)で生まれた。父・春吉は一時鹿沼町の町長も務めていた。1923年に、宇都宮中学校を卒業。卒業後は小学校の代用教員として勤務した。 1926年に教職を辞めて上京し、画家を志して太平洋画研究所に入所。江馬修らと知り合い、翌年江馬の紹介で日本プロレタリア芸術連盟に加入。はじめは画家として参加していたが、次第に文学に関心を持ち、1928年に初の童話「ドンドンやき」を『プロレタリア芸術』に発表。その後も相次いで童話を発表し、プロレタリア児童文学者として認知されるようになった。
上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 19… 上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 1983年5月7日)は、日本の航空機技術者。三菱重工業名古屋航空機製作所(現・三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)機体部設計課技師、技術部設計課技師を経て、新三菱重工業名古屋航空機製作所小牧工場初代工場長、同名古屋航空機製作所副所長を歴任。クリスチャン。 日露戦争終結間近の、1905年(明治38年)7月20日、長野県松本市北深志東ノ丁に警察署勤務の上條亀十郎の三男として誕生した。2年前にライト兄弟が動力飛行に成功している。1906年(明治39年)から、父亀十郎は浅野総一郎が経営していた茨城県真壁町の浅野石材部(浅野石材工業株式会社)勤務になった。
堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 199… 堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 1996年12月21日)は、日本の化学者、京都大学名誉教授。専門は高分子化学。工学博士(1934年)。大阪府生まれ。
松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明… 松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明治38年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉12月26日)は、日本の小説家。秋田県仙北郡荒川村出身。長男に記録映画作家の大沼鉄郎がいる。 三菱鉱山経営の荒川鉱山に育った松田は、大盛小学校を卒業すると鉱山の事務所でタイピストなどをしながら文学に触れていた。1923年に秋田女子師範(本科第二部、一年制)に入学、卒業後母校の大盛小学校に赴任する。1926年に職を辞して上京した。上京後、労働運動に参加し、その中で大沼渉と結婚する。結婚、子育てのなかの体験が初期の作品のなかに生かされている。1928年、読売新聞の女流新人短編募集に応じた「産む」が入選し、1929年には『女人芸術』に「乳を売る」が掲載された。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 197… 田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 1979年5月24日)は、日本の美術史家である。特に仏教美術に関して、多くの著作をのこしている。別名義としてたなか しげひさがある。 1905年(明治38年)7月17日、滋賀県甲賀郡水口町葛籠町に、父・豊吉郎、母・ゆりの五男として生まれる。豊吉郎は「小さい地方銀行家」であり、1928年(昭和3年)より栗太銀行の取締役をつとめた。京都市立中立小学校を経て滋賀県立膳所中学校に入学する。同校で日本史の教鞭をとっていた佐々木恒清に薫陶を受けるかたちで、14歳にして仏教美術を志すようになる。 大村西崖の東洋史の講義を受けるべく、1925年(大正14年)に東京美術学校に進学するも、彼の易簀を受けて翌年3月に中退、早稲田大学に転学する。
藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 199… 藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 1990年9月17日)は、日本の詩人、評論家、翻訳家。 福井県敦賀市に生まれる。法政大学文学部哲学科で三木清・谷川徹三に師事する。大学時代から「生活者」に小説・詩を投稿し、1936年(昭和11年)に草野心平に誘われ『歴程』の同人となる。その後、南満州鉄道調査部に勤務し、評論を上梓する。 1944年に第一詩集『天地の間』を刊行、戦後は法政大教授となる。1957年(昭和32年)に山室静らと詩雑誌『花粉』を発行する。1964年(昭和39年)には山梨県北巨摩郡大泉村西井出(現・北杜市大泉町西井出)に山荘を所有し、夏季の間は同地で詩作を行う。1979年(昭和54年)には第五詩集『環』を刊行し、『環』には「甲斐駒のうしろから」などの八ヶ岳山麓を題材とした詩も含まれている。
平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17… 平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1973年〈昭和48年〉12月4日)は、日本の政治家、実業家。四国新聞社、西日本放送社長、参議院議員(4期連続当選)を務めた。 玉藻座社長を務めた平井実の長男として、香川県木田郡田中村(現・三木町)に生まれる。 1928年(昭和3年)明治大学専門部商科卒業後、高松市会議員に当選し玉藻組(のちの玉藻建設)の社長となる。 1937年(昭和12年)8月から約1年間、陸軍主計少尉として応召、除隊後、玉藻組など実業界で活躍しているうち、終戦を迎える。 1946年(昭和21年)高松商工会議所会頭、1948年香川県経営者協議会会長、1950年香川県商工会議所連合会会長、1951年四国電力監査役に選ばれる。
河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日… 河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1985年〈昭和60年〉1月23日)は、昭和時代の政治家。相模原市長。位階は従五位。 河津養積、計以の二男として、神奈川県高座郡相原村(現相模原市)に生まれる。1920年(大正9年)相原村役場に奉職し、戦後、1946年(昭和21年)相模原町相原出張所長、1951年(昭和26年)総務課長兼財政課長、市制施行以降、建設部長、総務部長などを歴任した。 1957年(昭和32年)から8年間に渡り相模原市の助役を務め、1965年(昭和40年)その実績から市長選に立候補し、第5代市長に当選した。 市長在任中は、当時全国屈指の人口急増都市であった同市の都市機能の整備に力点を置き、1968年(昭和43年)相模原市総合計画を策定したほか、米軍基地返還問題について中央官庁との折衝に動いた。
可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没… 可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は森 実雄。最高位は十両4枚目。 宮崎県延岡市出身。出羽海部屋に入門し、1926年1月「嶋和泉」の四股名で序ノ口に就く。番付を上げ、1932年1月には幕下上位だったが、春秋園事件による大量の脱退者が出たため、その穴埋めのため十両に昇進した。2場所続けて勝ち越すことなく同年5月に幕下に落ちた。この場所から「可愛嶽」と改名した。1933年1月再び十両に上がったが、2場所続けて負け越して幕下に落ち、1934年1月に廃業した。
北山 愛郎(きたやま あいろう、1905年7月16日 - 2… 北山 愛郎(きたやま あいろう、1905年7月16日 - 2002年2月22日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員。 岩手県花巻市生まれ。盛岡中学と東京帝国大学で学び、中国へ渡って貿易統制機関で働く。戦後引き揚げて社会党結成に参加し、1947年まで花巻町長を2期務める。1953年の衆院選に岩手2区から左派社会党公認で出馬、当選して1983年の衆院選で落選するまで通算10期務める。 この間、党政策審議会長(1970年 - 1972年)・党中央執行副委員長(1978年 - 1981年)を歴任。国民服(中国の人民服)で国会に登壇したり、政界を退いた後もミニコミ紙を発行して政治評論活動を続けるなど、独特の活動を行っていた。
小林 米作(こばやし よねさく、1905年7月15日 - 2… 小林 米作(こばやし よねさく、1905年7月15日 - 2005年11月6日)は、記録映画カメラマン、映画プロデューサー。 十字屋映画部から日本映画社、戦後は東京シネマで科学映画の撮影を担当。顕微鏡を使用した撮影を得意とし、自ら、プロダクションを立ち上げ、多くの科学映画を製作した。その間、国際賞・国内賞含め、数々の賞を受賞した。長男の小林武史と、次男の小林健次はヴァイオリニスト。
鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月… 鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月15日 - 1988年〈昭和63年〉1月8日)は、20世紀に活動した日本画家。1948年から20年間は教師としても活動。 茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)に生まれる。1926年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学した。1929年、第4回茨城美術展で初入選を果たす。みやこ新聞社、茨城新聞社で記者として働く。1948年から母校である茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の竜ヶ崎第一高等学校)に美術教師として20年間奉職した。1962年、65年は茨城県美術展運営委員を務める。1968年には新興美術院理事を務める。1972年から数度に渡り外遊した。
稲生 平八(いのお へいはち、1905年7月15日 - 19… 稲生 平八(いのお へいはち、1905年7月15日 - 1989年7月23日)は、日本の経営者。東京都出身。 府立一中 を経て、1930年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に森永製菓に入社。 1949年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年5月に副社長に就任した。1974年6月に森永乳業社長に就任し、1979年6月には森永製菓社長に就任した。1983年6月から会長を務めた。 1989年7月23日急性心不全のために死去。84歳没。
秋田 實(あきた みのる、1905年7月15日 - 1977… 秋田 實(あきた みのる、1905年7月15日 - 1977年10月27日)は、日本の漫才作家。本名:林 広次(はやし ひろつぐ)。大阪府大阪市玉造出身。
久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 19… 久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 1987年12月3日)は、元安田信託銀行社長。
竹内 敏雄(たけうち としお、1905年7月11日 - 19… 竹内 敏雄(たけうち としお、1905年7月11日 - 1982年12月12日)は、日本の美学者。東京大学名誉教授。愛知県豊橋市二川生まれ。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松村 一人(まつむら かずと、1905年7月11日 - 19… 松村 一人(まつむら かずと、1905年7月11日 - 1977年6月22日)は、日本の哲学者。法政大学名誉教授。 1905年、山口県生まれ。1933年、東京帝国大学哲学科を卒業。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に参加。 戦後は民主主義科学者協会哲学部会の雑誌「理論」の編集に関わる。1964年より法政大学教授。毛沢東主義者であった。
大野 幸一(おおの こういち、1905年7月10日 - 19… 大野 幸一(おおの こういち、1905年7月10日 - 1976年11月9日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)。 岐阜県出身。1931年、日本大学法文学部法律科を卒業し、弁護士となる。 戦後、日本社会党に加わる。党常任中央執行委員会書記、中央執行委員長片山哲秘書などを歴任し、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙において全国区に出馬し当選。参議院郵政委員長などを務める。1953年4月、第3回通常選挙で落選した。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に岐阜県第1区から出馬し当選。その後、民主社会党に移り、同党院内幹事、日中問題特別副委員長、災害対策特別委員長などを歴任。
藤原 實(ふじわら みのる、1905年7月8日 - 2004… 藤原 實(ふじわら みのる、1905年7月8日 - 2004年5月26日)は、日本の経営者。三重テレビ放送社長を務めた。三重県出身。 1930年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に伊勢自動車に入社。 1951年に三重交通常務、1960年に三重観光開発常務、1964年に専務を歴任。1977年から1985年までに三重テレビ放送社長を務めた。 2004年5月26日多臓器不全のために死去。98歳没。
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月… 平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。 本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学医学部を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、阪本病院(布施市 現・東大阪市)院長、京阪病院院長(守口市)、を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984… 岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984年1月4日)は、愛知県名古屋市出身のボクサー。日本ボクシング草創期の強豪。のち不二拳を設立、ピストン堀口の師としても知られる。 東洋商業学校卒業後、渡辺勇次郎の日本拳闘倶楽部に入門、1924年には同倶楽部主催のフライ級タイトル決定戦に勝ち、フライ級チャンピオンとなる。1926年には靖国神社相撲場での第1回全日本アマチュアボクシング選手権大会フライ級制覇、1928年、アムステルダム五輪にはバンタム級として2回戦から出場したが、初戦で敗退した。 その後は日本拳闘倶楽部の師範としてピストン堀口らを育てたが、のちピストンと共に独立、不二拳(現不二ボクシングジム)を設立した。
飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉… 飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉7月4日 - 1992年〈平成4年〉10月15日)は、昭和期の農業技術者、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)、群馬県邑楽郡多々良村長。 群馬県邑楽郡多々良村(現・館林市木戸町)出身。1923年(大正12年)旧制栃木県立佐野中学校(現・栃木県立佐野高等学校)卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学農学部農学科を卒業した。同年、満州国に渡り満蒙開拓移民の指導、訓練、研究に従事し、満蒙開拓訓練所長などを務めた。 1946年(昭和21年)帰郷して多々良村長兼同村農業協同組合長に就任。その他、群馬県酪農業協同組合理事、同県生産農業協同組合連合会長、同信用農業協同組合連合会理事、同農林統計協会長、全国指導農業協同組合連合会専務理事、農業電化協会副会長、全国厚生文化農業協同組合連合会理事、全国新聞情報農業協同組合連合会長などを務めた。
富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年… 富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年1月25日)は、日本の作詞家、学校教員。『汽車ポッポ』の作詞をはじめ、多くの童謡にたずさわった。 1905年(明治38年)静岡県駿東郡御厨町(現・御殿場市)に生まれる。 県立沼津中学(旧制)を経て駿東郡高根村の高根村国民学校(現在の御殿場市立高根小学校)の教員を務める傍ら、音楽活動を行う。 1939年(昭和14年)に作詞した『兵隊さんの汽車』は大ヒットした。戦時色の強い歌詞は戦後改められ『汽車ポッポ』として現在まで歌い継がれている。 富原は学校の教員を務めていたこともあり、御殿場や沼津など駿東地区の小中学校の校歌を多く手掛けている。
石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月… 石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に父石川祐助、母ウンの三男として生まれる(兄弟妹は7人、のち異母弟妹4人)。
泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1… 泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1983年5月28日)は、日本の言語学者。京都大学を中心に、第二次世界大戦前後に活動した。 (出典:堀井令以知「泉井久之助先生 (1905-1983)」『言語研究』1983年1に所収) 月刊『言語』(大修館書店刊行)が、1977年5月号で当時の著名な言語学者に「かつて最も印象深く読まれた言語学及び言語論の図書を三点挙げていただき、簡単な感想をつけて」もらう特集を組んだ。泉井はそれに、以下の3点を挙げている。(なお感想も省略して付記する) なお、泉井は最後のメイエ『印欧語比較研究入門』を臨終の直前まで手放さず、4回目の購入本を使用していたという。
小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日… 小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日 - 1981年〈昭和56年〉8月24日)は、日本の実業家、政治家。長野県小諸市長。 長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)で、小山重右衛門、婦美野の息子として生まれた。旧制小諸商業学校(現長野県小諸商業高等学校)を経て、旧制青山学院専門部商科修了。1930年(昭和5年)丸五商店に入社し、丸五商会に改組し代表取締役となる。1944年(昭和19年)計理士を開業。1947年(昭和22年)小諸商工会議所会頭となる。1951年(昭和26年)長野県商工信用組合監事に就任した。 1953年(昭和28年)小諸市教育委員、1963年(昭和38年)小諸市議会議員となり1971年(昭和46年)まで2期在任し、同議長も務めた。
太田 可夫(おおた よしお、1904年(明治37年)7月31… 太田 可夫(おおた よしお、1904年(明治37年)7月31日 - 1967年(昭和42年)7月4日)は、日本の哲学者である。 三重県に生まれ、東京商科大学(現在の一橋大学)に入学する。1928年(昭和3年)に卒業後は、母校の予科教授として活動し教鞭を執った。1943年(昭和22年)には教授に昇格し、同大学が一橋大学に校名変更した際に新しい教育体制の確立に携わる。 その後はジョン・ロックやトマス・ホッブズ等イギリス哲学やイマヌエル・カント等ドイツ哲学といったヨーロッパの哲学者の研究に携わり、社会思想の研究者の育成にも力を入れた。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。
津田久(つだ ひさし、1904年7月30日 - 2002年6… 津田久(つだ ひさし、1904年7月30日 - 2002年6月9日)は、日本の実業家。第二代住友商事社長。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長。 三重県出身。東京目白中学、一高を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年住友合資会社(住友本社の前身)に入社。財閥解体後の1946年、日本建設産業(現住友商事)総務部長に転じ、財閥解体で宙に浮く本社社員や軍隊や海外から復員してくる社員の雇用確保のため、商事進出を提唱。 1947年常務、1953年専務を経て、1956年社長に就任。初代社長田路舜哉の拡大路線を継承し大陸棚の海洋資源開発や住宅関連など他社に先駆けて新規分野の進出。大手総合商社への発展の礎を築いた。
平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 … 平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 - 1971年2月15日)は、日本の経営者。野村不動産社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1929年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に野村證券に入社。野村財閥の創始者である野村徳七にかわいがられ、指導を受け、1946年4月に取締役に就任し、1947年8月に常務、1952年8月に専務、1956年11月に副社長を経て、1959年6月に野村不動産社長に就任した 大阪証券取引所理事、大阪証券業協会理事、京都大学講師、読売テレビ放送取締役なども歴任した。 著書に「証券市場論講義」がある。
那須 辰造(なす たつぞう、1904年7月30日 - 197… 那須 辰造(なす たつぞう、1904年7月30日 - 1975年4月5日)は、日本の小説家・児童文学者。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現田辺市)生まれ。東京帝国大学仏文科卒業。第10次『新思潮』同人で、福士幸次郎に師事し、小説、翻訳を発表した。戦後は児童文学者となった。子供向けに外国文学の再話を多く行い、『ぞうさんババール』シリーズなどフランスの児童文学を訳した。1956年に『緑の十字架』で第3回サンケイ児童出版文化賞受賞。 福島正実、茂市久美子は弟子。SF作家・翻訳家の野田昌宏によると、福島が早川書房に入社したのは、那須の紹介によるという。 1960年代、鳥越信の再話・抄訳批判に、福島とともに反論した。
筑紫 歌都子(ちくし かつこ、1904年〈明治37年〉7月3… 筑紫 歌都子(ちくし かつこ、1904年〈明治37年〉7月30日 - 1984年〈昭和59年〉10月28日)は日本の音楽家。 1904年(明治37年)、山口県都濃郡鹿野村(現在の周南市)に生まれる。出生名は竹田カツノであったが、14歳の頃に大日本家庭音楽会の会長、坂本五郎に才能を認められ、彼の養女となったことで坂本姓となる。また、同時期に歌都子の芸名を付け、坂本歌都子として活動している。この芸名は自分の好きな「歌」と郷里の都濃郡の「都」を取って自分でつけたという。坂本家の養女となる際に福岡市に移り住んでいる。 坂本家で琴の他、ヴァイオリン、大正琴、ピアノ等を学んだ後に18歳で琴の作曲活動を始める。
若松 満則(わかまつ みつのり、1904年7月29日 - 1… 若松 満則(わかまつ みつのり、1904年7月29日 - 1945年9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。
三谷 十糸子(みたに としこ、1904年〈明治37年〉7月2… 三谷 十糸子(みたに としこ、1904年〈明治37年〉7月28日 - 1992年〈平成4年〉2月11日)は兵庫県出身の日本の日本画家。本名敏子。女流日本画家の代表的作家の一人。 戦前から戦後しばらくは和服姿の少女を、1950年頃からは洋装姿の女性をメインに描き、厚く柔らかな色彩によって画に詩的な味わいを込めた。 また、1932年(昭和7年)第13回帝展出品作「女」で特選受賞以降はそれまでの暗い色調から澄んだ色調へと移行した。 1904年(明治37年)、兵庫県加古郡(現高砂市)に、裕福な医者の家に一人っ子として生まれる。少女時代には文学と詩に憧れた。 1922年(大正11年)、18歳で兵庫県立第一高等女学校(現兵庫県立神戸高等学校)卒業、同年女子美術専門学校(現女子美術大学)に入学。
我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27… 我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月15日)は、日本の政治家。大阪府堺市長(第15代)。1976年(昭和51年)、堺市の政令指定都市移行を目標として発表(移行は2006年〈平成18年〉)。行政改革や財政再建と都市再開発を進め「名市長」と呼ばれた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 堺市出身。大阪府立堺中学校(旧制中学校。現大阪府立三国丘高等学校)、1930年(昭和5年)九州帝国大学(現九州大学)法文学部を卒業。 帝塚山学院講師を経て1936年(昭和11年)堺市役所に入った。堺市の助役などを経て、1972年(昭和47年)10月に浪速医科大学(仮称、不認可)をめぐる詐欺・横領で堺市長(第14代)を辞職した土師半六の出直し選挙に出馬し、第15代の市長に当選した。
北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 19… 北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 1978年11月17日)は、日本の実業家、工学博士。住友電気工業元社長。 大阪府大阪市出身。1927年に東京帝国大学工学部を卒業し、住友電線製造所(のちの住友電気工業)に入社した。 1956年11月から社長を務め、1966年11月から会長を務めた。 その一方で、原子力委員会委員、通産省電子情報処理振興審議会会長、産業構造審議会情報産業部会長、関西経済同友会幹事、日本電線工業会会長、関西情報センター理事長なども歴任した。大阪大学工学部電気工学科で非常勤講師も務めた。1956年に紫綬褒章を受章し、1967年に藍綬褒章を受章し、1974年に勲一等瑞宝章を受章。
矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25… 矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25日 - 1988年(昭和63年)9月24日)は、日本の彫刻家である。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)生まれ。平櫛田中に師事。 1929年(昭和4年)院展に初入選、以降院展白寿賞を3回受賞する。1964年(昭和39年)に渡欧し、オーストリアのウィーン大学で仏教芸術を講義した後、フランス・パリでオシップ・ザッキンに師事。 1959年(昭和34年)結成された茅野市美術協会で顧問を勤めた(会長小川由加里)。 1966年(昭和41年)日本画府展で文部大臣賞を、1973年(昭和46年)には長野市野外彫刻賞を受賞。 晩年は仏教を主題に木彫像を制作していた。
平塚 武二(ひらつか たけじ、1904年7月24日 - 19… 平塚 武二(ひらつか たけじ、1904年7月24日 - 1971年3月1日)は、日本の児童文学作家。代表作に「風と花びら」「太陽よりも月よりも」「玉むしのずしの物語」などがある。 1904年(明治37年)7月24日、父・平塚福太郎、母・ハナの二男として、神奈川県横浜市中区末吉町に生まれる。1911年(明治44年)4月、横浜市立南吉田尋常高等小学校に入学。翌年、中区本牧三の谷に転居し、横浜市立本牧尋常高等小学校に転校する。1915年(大正4年)、平塚定吉、タケに養子縁組みする。1917年(大正6年)4月、神奈川県立第二中学校(現:翠嵐高校)に入学。1919年(大正8年)4月、東京の市立荏原中学校(現:日本体育大学荏原高等学校)に転入する。
村崎 敏郎(むらさき としろう、1904年(明治37年)7月… 村崎 敏郎(むらさき としろう、1904年(明治37年)7月23日 - 1962年(昭和37年)4月19日)は、日本の演劇活動家、翻訳家。 東京府東京市深川区(現・東京都江東区深川)生まれ。1927年東京商科大学卒。演劇運動を行い、東京文化学園教諭。武蔵野高等学校教諭。戦後はもっぱら推理小説の翻訳を行った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。