徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月2… 徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月20日 - 1940年(昭和15年)2月8日)は、日本の動物学者・地質学者・古生物学者。早稲田大学教授、早稲田高等工学校校長、東京帝国大学講師などを歴任。1933年(昭和8年)に実施された第一次満蒙学術調査研究団長として熱河地方に赴き、その調査報告で1937年(昭和12年)に朝日文化賞を受賞。日本古生物学会2代会長、日本地質学会会長 を務めた。 1874年(明治7年)8月20日、芝区愛宕町にて生まれる。父親は薩摩藩士の吉原重隆。第一高等学校を経て東京帝国大学に進学する。理学部動物学科に進むもその中で古生物学に興味を持ち、地質学科への転科を希望したものの、当時その制度がなかったため受け入れられず、動物学科に籍をおいたまま地質学科の講義・実習を受けた。
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細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18… 細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18日 - 1951年(昭和26年)7月31日)は、明治から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山形県北村山郡楯岡町長。ブラジル移民としてサンパウロ州に渡り同地で没した。 山形県村山郡楯岡村(北村山郡楯岡村、楯岡町を経て現村山市楯岡)で、細梅勘六、タニの長男として生れた。1900年(明治33年)1月、家督を相続した。同年、宮城農学校(現宮城県農業高等学校)農科を卒業し、1903年(明治36年)7月、早稲田大学政治経済科を卒業した。農業を営む。 1903年、北村山郡会議員に選出され同議長も務めた。1905年(明治38年)楯岡町長に就任。1907年(明治40年)9月、山形県会議員に選出され、1911年(明治44年)9月まで1期在任した。
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鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 … 鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 - 1933年(昭和8年)8月23日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府出身。神田共立中学(現開成中)、第一高等中学(一高)を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業。1902年、福山藩士町野精蔵次女鈴子と結婚。大蔵書記官を経て、朝鮮総督府で度支部司税局長、度支部長官・臨時土地調査局長、朝鮮銀行副総裁を歴任した。 1925年(大正14年)に退任後は、京都電機株式会社取締役会長を務め、1932年(昭和7年)からは関東軍司令部嘱託、関東軍特務部財政経済顧問となり、満州に駐在。翌年、パラチフスに罹患し永眠す。多磨霊園(12-1-1-3)に埋葬される。
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岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17… 岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17日 - 1956年(昭和31年)9月2日)は、日本の気象学者。第4代中央気象台長を多年に亘り務めた。「気象学の父」とも呼ばれる。 千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て、現在の我孫子市布佐)の海産物を扱う商家に生まれる。6歳で布佐初等小学校に入学、課外に和算を学ぶ。14歳で上京し、東京府立尋常中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学し、19歳で卒業し、第一高等中学校に入学。物理学を中村清二らに学ぶ。同級に桑木或雄(あやお)らがいる。このころ利根川の水害が多発したこともあり、防災科学や気象学に関心を寄せる。 1899年(明治32年)、26歳で東京帝国大学理科大学物理学科を卒業し、ただちに中央気象台(現在の気象庁)に勤務。
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深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 … 深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 - 1942年(昭和17年)8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡深井村(現東御市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、東京専門学校を中退し、家業に従事した。明治36年(1903年)自宅に長野県初の有限責任信用組合を設立し、明治43年(1910年)産業組合中央会長野支会の設立とともに理事、副組合長に就任し、指導的役割を果たし、長野県における「産業組合運動の父」と称された。のちに同中央会理事、中央金庫監事などを歴任した。 同44年(1911年)長野県会議員となり、大正13年(1924年)第15回衆議院議員総選挙に当選した。
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広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 19… 広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 1955年6月24日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長などを務めた。弓道家(大日本武徳会弓道範士)でもある。 陸軍少佐や森村銀行頭取を務めた広瀬実栄の二男として生まれ、高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校、ニューヨーク・イーストマン商業専門学校を経て、1895年森村組入社。1917年には東洋陶器設立発起人となり、同社監査役に就任。1922年日本陶器社長。1939年日本陶器会長。森村豊明会監事なども務めた。 また弓道家でもあり、1929年5月に大日本武徳会弓道範士。名古屋市の弓道界で重きをなし、1940年に開催された紀元二千六百年奉祝天覧武道大会弓道の部では審査員を務めた。
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谷野 格(たにの かく、1874年(明治7年)8月16日 -… 谷野 格(たにの かく、1874年(明治7年)8月16日 - 1923年(大正12年)6月10日)は、日本の裁判官。 兵庫県出石郡出石町(現在の豊岡市)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、司法省参事官、東京控訴院検事、東京帝国大学法科大学講師嘱託を歴任。1913年(大正2年)、大審院判事となる。1914年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)教員に就任。1916年(大正5年)には法学博士の称号を得た。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官に転じ、覆審法院長、高等法院長を務めた。
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浅野 和三郎(あさの わさぶろう、1874年(明治7年)8月… 浅野 和三郎(あさの わさぶろう、1874年(明治7年)8月13日 - 1937年(昭和12年)2月3日)は、日本の心霊主義運動の父。筆名は浅野 馮虚(あさの ひょうきょ)、憑虚 とも。兄は海軍軍人の浅野正恭。 茨城県稲敷郡源清田村(現:稲敷郡河内町源清田)に代々医師を生業とする、浅野家の父・元斎(げんさい)(婿入り)と、母・かんの三男として生まれた。 1896年(明治29年)、東京帝国大学に入学。同時期に小泉八雲が英文学担当教師として赴任し、教えを受ける。在学中に機関誌『帝国文学』に処女作「吹雪」を発表。浅野馮虚の筆名で、その後短編小説等を続々発表し文才を発揮。さらに、英文学科に在籍しながら、英米文学の翻訳にも手を広げ、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』、エドワーズの『奇々怪々』を出版した。
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南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 … 南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。
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根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 -… 根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 - 1971年(昭和46年)7月22日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 和歌山県出身。和歌山県尋常中学校(現和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1901年同校専攻部貿易卒。本科では日中貿易論、専攻部では中国交通論を研究。1933年「支那ギルドの研究」で東京商科大学(現一橋大学)経済学博士。 1901年上海の東亜同文書院教授、1907年東亜同文会主査。中国経済を研究。帰国後、1908年東京高等商業学校(現一橋大学)講師、1911年東京朝日新聞政治部記者、1916年東京商科大学(現一橋大学)教授、1919年同大学附属商業専門部教授、1921年同大学専門部教授、1935年定年退官、同大学講師、1936年同大学学生課課長心得、1939年東亜同文会第六調査委員会学術部委員会委員、1950年東京商科大学客員教授、東京商科大学名誉教授、1951年一橋大学名誉教授。
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新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 … 新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。 1874年、新保正與の次男として新潟県蒲原郡、のちの西蒲原郡曽根村(曽根町、西川町を経て現新潟市西蒲区)で生まれ、新保宇源太の養子となった。第一高等学校を経て、1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、大学院に進んだ。 卒業後は、高田中学校教諭、福岡県立中学伝習館教諭、真岡中学校校長、宇都宮中学校校長、鹿児島県立第二鹿児島中学校校長、山口高等学校校長、松本高等学校校長を歴任し、1932年(昭和7年)から広島高等学校校長を務めた。
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中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治… 中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治7年〉8月4日 - 1964年〈昭和39年〉9月8日)は、洋画家、版画家、油彩画家、挿絵画家。日本芸術院元会員。 東京・芝で、旧佐土原藩士の子として生まれる。1887年、曽山幸彦に入門、洋画を学んだ。曽山の没後、堀江正章にも師事する。1900年、東京美術学校西洋画選科修了。黒田清輝に師事。白馬会創立に参加、同展覧会に出品を続けた。1912年、光風会創立に参加。1922年、ヨーロッパに渡り翌年帰国、金尾文淵堂や兵庫の西宮書院から新版画の作品を発表している。1924年(大正13年)1月、白日会を創設した。1930年(昭和5年)、帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員、1944年(昭和19年)7月1日、帝室技芸員。
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大藤 鋳三郎(だいとう ちゅうさぶろう、1874年8月 - … 大藤 鋳三郎(だいとう ちゅうさぶろう、1874年8月 - 1961年4月7日)は、日本の聖職者、神学者、教育者。日本聖公会司祭、立教女学院第7代理事長、聖路加国際病院理事、学校法人聖路加看護学園(現・聖路加国際大学)理事。 1895年(明治28年)6月25日、立教学校(立教大学の前身校の一つ)を卒業。この時の卒業式は第3回生卒業式と、第4回生卒業式が併せて行われ、第3回生の卒業生には、木村重治、須藤吉之祐らがおり、同期である第4回生の卒業生には、大藤鋳三郎のほか、濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛、ヤマサ醤油社長)、古河倍造、岩佐松太郎(島根出身)、曾根精(福井出身)、中村正路(熊本出身)、白井兵治(福井出身)、菅沼四郎(奈良出身)、鈴木一(千葉出身)らがいた。
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山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31… 山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31日 - 1971年〈昭和46年〉1月11日)は、日本陸軍の軍人・著述家・中国文学研究者・翻訳家。別号は三志園、海城。最終階級は陸軍大佐。陸軍の中国通(支那通)の一人として知られ、繆斌工作に関与していた。娘婿は自由民主党の政治家である三原朝雄。新潟県村上本町表新町(現・村上市)に生まれる。 旧士族・山縣正升の長男として生まれる。村上私学校を中退して陸軍教導団歩兵科に入り、1894年(明治27年)3月に卒業。歩兵二等軍曹として日清戦争に参戦した。1898年(明治31年)12月、士官候補生となり、陸軍士官学校(12期)に入学(同期に小磯國昭らがいる)。
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佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日… 佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日 - 1952年(昭和27年)5月1日)は、日本の会計学者、経済学者、教育家。商業教育に大きな功績があるとして、1952年に勲一等瑞宝章を受章した。 1873年、現在の静岡県富士市中島に生まれる。1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同期に石井健吾(元第一銀行頭取)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)などがいた。 卒業後はコロンビア大学、ロンドン大学に留学し、研究を深める。帰国後は母校の高等商業学校助手となり、1896年より同助教授、1900年より同教授。1903年より附属商業教員養成所主事。1911年、法学博士号を取得。1914年、東京高等商業学校校長、1920年に同校が大学へ昇格すると東京商科大学(現・一橋大学)初代学長を務めた。
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新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月… 新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。 福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。 1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。留学中の1906年(明治39年)9月、万国測地学協会総会中央局から案内を受け、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陪席。
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福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年… 福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年)8月20日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・福島文衛の長男として敦賀県今立郡鯖江清水町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)に生まれ、1905年(明治38年)3月、家督を相続し、前名文治を改める。生家は醤油醸造業を営んだ。1908年(明治41年)越前電気を設立し、同社長に就任。福井県農工銀行頭取を務めたのち、1911年(明治44年)福井県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。鯖浦電気鉄道や福井県鯖江女子師範学校の創設にも関与した。
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七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、187… 七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1967年〈昭和42年〉2月28日)は、大正・昭和期に活動した日本の政治家、実業家である。長野県出身。旧姓は井口。 井口家から長野で菓子商「凮月堂」を営む七沢家に養子入り家業を継ぐ。長野市会議員(当選3回)や信濃電気支配人を務めたのち1934年(昭和9年)には第6代長野市長に選ばれた。晩年は長野信用金庫役員を長く務めた。 七沢清助は、1873年(明治6年)8月、長野県人・井口常治郎の次男として生まれた。出身地は長野県更級郡原村(後の中津村、現・長野市)。長野中学校を経て上京し東京物理学校で学んだのち、長野県に戻り北佐久郡志賀小学校で教諭となった。
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蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17… 蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1928年〈昭和3年〉9月11日)は、日本の教育者。福島高等商業学校初代校長。 旧平戸藩士の蒲生林作の子として生まれる。高等商業学校(現一橋大学)卒業。山口高等商業学校の教授を勤めていた。1909年から1910年にかけて、文部相派遣外国留学生(文部省督学官)としてイギリスに留学しロンドンに滞在する。その際にボーイスカウトの整然たる活動に興味を持ち、ボーイスカウト運動に関する書籍類などを収集。日本に持ち帰る。 帰国後、収集した英国ボーイスカウトに関する書籍を桂太郎首相と小松原英太郎文部大臣に贈呈し、政府に「日本でも少年団活動を検討すべし」との建白書を提出する。
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紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8… 紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8月17日 – 1952年(昭和27年)7月8日)は、衆議院議員(立憲国民党→公友倶楽部→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟→翼賛政治会→無所属→日本自由党)、ジャーナリスト。号は蘇山。 兵庫県城崎郡田鶴野村(現在の豊岡市)出身。1897年(明治30年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、在学中に雑誌『二十世紀』を発刊した。1900年(明治33年)に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年(明治34年)から鎮西日報の主筆となり、1903年(明治36年)からは萬朝報で筆を執った。1907年(明治40年)、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。
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池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月1… 池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月16日 - 1953年(昭和28年)4月17日)は、日本の内務官僚、官選府県知事。 鹿児島県出水郡武本村向江平良馬場(現在の出水市向江町)にて鹿児島県士族(元薩摩藩士)・池松静蔵の長男として生まれる。幼名・与一郎。父静蔵は西南戦争で戦死。1878年3月、家督を相続する。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り警視庁警部となる。 以後、佐賀県参事官、群馬県警部長、岩手県警部長、栃木県事務官・第四部長、愛知県事務官・第四部長、福井県内務部長などを歴任。
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2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治… 2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治6年)8月15日 - 1918年(大正7年)2月26日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。実業家。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。幼名は尚次。 初代永田吉右衛門の長男として、高山町(現在の高山市)に生まれる。1897年(明治30年)10月、家督を相続し襲名する。東京商業学校を卒業後、郷里に戻り長らく高山町長を務めた。ほか、高山町会議員、学務委員を歴任した。 財界では飛騨電灯、濃飛自動車、飛騨林業、濃飛農工銀行各取締役、飛騨銀行取締役、同頭取、富山電気、大垣銀行、十二銀行各監査役を歴任した。また、五松庵不及と号して俳句を能くした。
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松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月1… 松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月12日 - 1947年(昭和22年)1月30日[要出典])は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 旧相馬藩士の松本威重の長男として福島県に生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。司税官、大蔵書記官・専売局事業部長、大蔵省主税局長を歴任した。 1923年(大正12年)4月6日に退官し日本興業銀行副総裁に就任。その後、1924年(大正13年)1月24日に錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は護国寺共葬墓地。 宗教は神道、趣味は能楽。
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野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日… 野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日 - 1952年〈昭和27年〉1月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟)、富山市長、貴族院勅選議員などを務めた。幼名は安次郎。 富山県婦負郡鵜坂村(現在の富山市)生まれ。1893年(明治26年)東京法学院(現在の中央大学)卒業。1898年(明治31年)に弁護士試験に合格し、1902年(明治35年)から判事として、富山・敦賀・大津の裁判所で勤務した。1906年(明治39年)に退官して富山市で弁護士を開業した。富山弁護士会長も務めた。 1911年(明治44年)3月、富山県会議員補欠選挙に婦負郡選挙区から立候補して当選した。
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竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
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丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 … 丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 - 1952年(昭和27年)11月20日)は、日本の教育者、文部官僚。 滋賀県伊香郡北富永村(現在の長浜市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学独文科を卒業。第六高等学校教授、第八高等学校教授を経て、1913年(大正2年)、文部省督学官となった。第六高等学校校長を務めた後、1924年(大正13年)から甲南高等学校(現在の甲南大学)校長兼教授となった。その後さらに九段精華高等女学校校長を務めた。
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三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
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河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 … 河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。 1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。 米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。
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安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872… 安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872年8月31日(明治5年7月28日) - 1958年(昭和33年)5月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家。位階勲等は正五位勲三等旭日中綬章。軍人としての最終階級は陸軍騎兵大尉。衆議院議員ののち貴族院議員。他に日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長を務める。 安田は「日本競馬の父」「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる。 陸軍騎兵大尉として中央馬廠戸山厩舎長であった1904年、競馬会設立の議に加わる。 1908年に馬券の発売が禁止されると、馬券発売を合法化すべく旧競馬法の制定に奔走した。 1936年の競馬倶楽部統合、日本競馬会創設に関与。同会初代理事長松平頼寿の退任を受け、第2代理事長を勤めた。
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大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7… 大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7月27日〉 - 没年不詳)は、日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋()。山口県長府(現・下関市)出身。 白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが、明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った。 1896年にウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する。
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杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈18… 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。 明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。父は和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
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大谷 幸四郎(おおたに こうしろう、1872年8月28日(明… 大谷 幸四郎(おおたに こうしろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1937年(昭和12年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)出身。大谷猪太郎の二男として生まれ、大谷彦左衛門の養子となる。高知県尋常中学海南学校を経て、1896年(明治29年)12月、海軍兵学校(23期)を卒業し、1898年(明治31年)1月、少尉任官。日露戦争には、第16艇隊艇長、第21艇隊艇長、第19艇隊艇長として参戦した。 以後、「雷」駆逐艦長、「如月」駆逐艦長、佐世保鎮守府副官、「千早」水雷長を歴任。1906年(明治39年)9月、海軍少佐に昇進。同年11月、第5艇隊司令兼7艇隊司令に発令され、「出雲」水雷長、第2艇隊司令、海軍教育本部出仕、「鞍馬」水雷長などを務めた。
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吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8… 吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月4日)は日本の倫理学者。
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畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年… 畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1930年5月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
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服部 教一(はっとり きょういち、1872年8月23日(明治… 服部 教一(はっとり きょういち、1872年8月23日(明治5年7月20日) - 1956年(昭和31年)6月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、参議院議員。 奈良県高市郡阪合村(現在の明日香村)に服部吉平の二男として生まれる。1899年(明治32年)、高等師範学校を卒業。1901年(明治34年)に和仏法律学校(現・法政大学)卒業、同年10月に陸軍教授(東京陸軍地方幼年学校附)に任じられたが、翌月に高等文官試験に合格し、翌年8月には文部省に転属。1904年(明治37年)、留学を命じられ、欧米諸国で教育制度、人口問題、移民問題、社会制度を研究した。1909年(明治42年)に帰国後は、文部省視学官、書記官を務めた。
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原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年… 原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年8月21日) - 1913年(大正2年)3月2日)は明治時代の歴史地理学者。帝国大学で坪井九馬三に学び、東北地方古代史の研究で文学博士号を得、國學院大學等で地理、歴史を教えた。 明治5年(1872年)7月18日愛媛県越智郡波止浜町(現今治市)の塩問屋来島屋原武一郎の七男五女の長男として生まれた。 愛媛県第一中学校、第三高等中学校予科を経て、1892年(明治25年)9月本科二部(工科・理科・農科)に進んだが、1893年(明治26年)本科一部(法科・文科)に転部し、1893年(明治27年)6月本科廃止により第一高等学校本科一部に移り、1895年(明治28年)7月卒業した。
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松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872… 松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872年8月15日) - 昭和10年(1935年)3月9日)は、日本の検事、台湾総督府官僚。 石川県出身。旧名は豊松。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。函館区裁判所判事、函館地方裁判所判事、福岡地方裁判所判事を経て、台湾総督府判官となった。さらに台南地方法院検察官長、台北地方法院検察官長を歴任し、台南州知事に就任した。 1924年(大正13年)に退官した後は、公証人となった。
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川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5… 川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5年7月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉11月16日[要出典])は、明治時代後期から昭和時代初期の朝鮮総督府官僚。大蔵官僚。実業家。平安北道長官。東洋拓殖理事。正四位。勲三等瑞宝章。 川上與吉の三男、川上楽次の弟として、愛媛県宇摩郡、のちの二名村大字余木(川之江町、川之江市を経て現四国中央市)に生まれる。小学校高等科四級を卒業し、宇摩郡役所雇となり、1890年(明治23年)上京する。1897年(明治30年)東京専門学校邦語政治科を卒業し、大蔵省に奉職。高等文官試験に合格し税務官となり税務監督局長に累進した。のち朝鮮総督府に出仕し土地整理局長を経て、平安北道長官に就任した。
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藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 193… 藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 1935年2月28日)は、日本の言語学者。上田萬年を継いで東京帝国大学言語学教授をつとめた。
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木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872… 木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872年8月8日) - 昭和23年(1948年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 岐阜県安八郡大垣町(現在の大垣市)出身。上田甚助の長男として生まれ、木村家の婿養子となった。東京法学院(現在の中央大学)で学び、雑誌「濃州」を発刊した。のち日刊に改め、美濃新聞社、美濃大正新聞社の経営にあたった。大垣町会議員、安八郡会議員、大垣市会議員、大垣市会副議長、岐阜県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。
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後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4… 後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4日(明治5年7月1日) - 1940年(昭和15年)2月26日)は、日本の検察官、台湾総督府・内務官僚。官選県知事、公証人。 佐賀県出身。後藤保明の長男として生まれた。1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり、千葉地方裁判所検事局に配属された。 以後、千葉区裁判所検事局、長野区裁判所検事局で勤務。1909年9月、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事に就任。1910年2月、台湾総督府に転じ警視となる。以後、民政部蕃務本署勤務、理蕃課長、保安課長、司獄官練習所教官などを歴任。1917年5月、島根県警察部長に転じた。
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国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
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大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871… 大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871年8月29日) - 昭和22年(1947年)2月4日)は、日本の曹洞宗の僧侶。旧姓は八木。号は活龍。山梨県慈照寺住職・駒澤大学教授・曹洞宗管長・永平寺70世貫首・總持寺独住11世貫首。 福井県坂井郡丸岡町出身。明治18年(1885年)に地元の台雲寺住職大森董戒の下で出家。明治29年(1896年)に曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業後、比叡山・高野山・東大寺に内地留学。29歳で曹洞宗大学林学監兼教授となった。 その後、明治37年(1904年)2月からアメリカ・イギリス・ドイツの大学に留学し、最後はインドに立ち寄って明治44年(1911年)8月に帰国。
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出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日〈… 出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日〈明治4年旧7月12日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。 出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる。強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた。その一方で奔放な言動により敵対者から多くの非難も浴びる。評価は現在でも定まっていない。「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも病により死去した。
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梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8… 梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8月21日) - 昭和14年(1939年)1月6日)は日本の銀行家。東京府平民。外孫に作家で元暴力団員の安部譲二がいる。 山形県吹浦村生まれ、北海道出身。梶原兵吉の弟。 1897年に東京帝国大学法科大学卒業。日本銀行入行。 1918年3月日本銀行辞職。同年横浜正金銀行取締役就任、副頭取就任。1919年、横浜正金銀行頭取就任。1922年10月、日本勧業銀行総裁。以後東京株式取引所理事長、日本産業協会理事、日本陶磁器工業組合連合会理事長、工業組合中央会理事長を歴任。昭和14年1月6日没。墓所は東京都港区の青松寺。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
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津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4… 津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4年7月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の実業家。大和国宇陀郡池上村(後に奈良県宇陀郡榛原町、現在は宇陀市)出身。廃藩置県の9日前に出生。 1893年(明治26年)に津村順天堂(現・ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで貴族院議員を務めた。 出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。郵便報知新聞に広告を出し、1895年(明治28年)には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。
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藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月… 藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月17日〈明治4年7月3日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家。村井銀行常務取締役。族籍は東京府士族。 旧名古屋藩士・丹羽與三郎の四男であり、退役海軍少将・丹羽教忠の弟、大井田瑞足の兄である。1901年、先代いしの入夫となり家督を相続した。藤平家は其の祖遠く日蓮上人の末弟貫名藤平重友に出た。 1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。横浜正金銀行に入り、同行桑港支店支配人、羅府分店支配人となり、長崎支店支配人となる。1918年、村井吉兵衛の懇望により村井銀行に転じ取締役兼総支配人に挙げられ、のち常務取締役となり調査部長を兼任。
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平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7… 平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7月2日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。幼名は倉吉。 愛知県海東郡内佐屋村(佐依木村、佐屋村、佐屋町を経て現愛西市)に生まれる。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 1916年(大正5年)8月に大村連隊区司令官、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐、1918年(大正7年)12月に歩兵第38連隊長を経て、1922年(大正11年)2月に陸軍少将に昇進と同時に待命、同年5月に予備役に編入した。 退役後は京都市伏見区に住んだ。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
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藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月1… 藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月15日〈明治4年6月29日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月21日)は、日本の実業家、工学博士。帝国海事協会理事長。専門は造船学。族籍は三重県平民。作家の藤島泰輔は孫。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は曽孫。 三重県三重郡菰野村(現・菰野町)生まれ。三重県士族・山内俊徳の二男。山内静吾の兄。藤島萬治郎の養子となり、家督を相続した。三重県立尋常中学校、第三高等中学校を経て1894年、帝国大学工科大学造船学科卒業。 日本郵船に入り、保船課長、参事、船舶調査主任を経て1918年、取締役に挙げられ、後工務部長を兼ね1923年、これを辞し、横浜船渠社長となり、次いで横浜新港倉庫社長、東京回漕会社取締役、横浜商工会議所常議員に挙げられ後退任し、1936年、帝国海事協会理事長に就任した。
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大城 兼義(おおしろ けんぎ / かねよし、1871年8月1… 大城 兼義(おおしろ けんぎ / かねよし、1871年8月11日(尚泰24年6月25日)- 1951年(昭和26年)11月11日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 琉球王国小禄間切宇栄原(のち沖縄県島尻郡小禄村、現那覇市小禄字宇栄原)で、屋号新屋敷・大城三郎の長男として生まれる。小禄小学校、島尻高等小学校を経て、1890年(明治23年)沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)に入学したが、3年で退学した。1896年(明治29年)長崎鎮西学館(鎮西学院)神学科沖縄支部を卒業し、伝道師としてキリスト教の布教に従事した。 1901年(明治34年)から臨時沖縄県土地整理事務局で測量に従事。
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