三土 忠造(みつち ちゅうぞう、1871年8月11日〈明治4… 三土 忠造(みつち ちゅうぞう、1871年8月11日〈明治4年6月25日〉- 1948年〈昭和23年〉4月1日)は、明治から昭和にかけての日本の政治家。 讃岐国大内郡水主村(現在の東かがわ市)出身。 長年立憲政友会の衆議院議員として党内にて重きをなし、内閣書記官長を振り出しに文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣(一時運輸大臣も兼務)を歴任した戦前政界の重鎮である。 讃岐国に中農階層の宮脇清吉の二男として生まれ、三土幸太郎(雅号は梅堂)の婿養子となる。三土家は地主階層に属し、経済的に余裕があったため、代々学問に励み、在郷の漢学者として知られる家柄であった。香川県尋常師範学校卒業後、一旦は小学校教員となるが、上京して東京高等師範学校に入り1897年(明治30年)に首席卒業を果たす。
植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年… 植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年8月9日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は正五位勲三等。 愛媛県出身。旧士族。1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、歩兵少尉に任官し、5月には兵科を輜重兵に転科。 日露戦争には第10師団隷下の輜重第10大隊中隊長として出征。同師団は遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加。戦中の1904年(明治37年)11月、少佐に昇進。 1909年(明治42年)11月に輜重第11大隊長。翌年11月に中佐に進級。 1914年(大正3年)8月に輜重第7大隊長となり、1916年(大正5年)5月、陸軍輜重兵大佐に任官。
岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4… 岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4年6月21日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 肥後国飽田郡熊本(現熊本県熊本市)で熊本藩士・岩佐善門の長男として生まれた。1894年(明治27年)東京専門学校英語政治科卒。日本新聞、憲政本党党報、二六新報、万朝報の各記者となる。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年死去。
八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月2… 八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月20日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・長野。 伊予国越智郡今治町(現愛媛県今治市)で、長野謙吉の弟として生まれる。1892年(明治25年)12月、素封家、酒造業・八木守三郎の養子となり、1911年(明治44年)2月に家督を相続した。 1904年(明治37年)以降、愛媛県越智郡酒造組合長、四国酒造連合会評議員、愛媛県酒造組合連合会会長、同県商工団体連合会副会長、今治商業銀行取締役、伊予相互貯蓄銀行取締役、今治清酒取締役、愛媛水力電気監査役、伊予鉄道電気監査役などを務めた。
出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年… 出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年6月20日)- 1960年(昭和35年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(6期)、立憲政友会総務、羽生市初代市長等を歴任。 武蔵国埼玉郡下羽生村(のち埼玉県北埼玉郡須影村、現:羽生市)で、地主・出井熊吉の三男として生まれる。慶應義塾大学を2年で中退し、農業を営む。のち埼玉新聞社を経営。 北埼玉郡会議員、須影村会議員、須影村村長を経て、埼玉県会議員、同副議長、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月20日の第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会の推薦を受けて当選。以後、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙まで連続6回の当選を果し政友会総務を歴任。
津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治… 津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治4年6月17日〉 - 1923年〈大正12年〉3月4日)は、日本の政治家、実業家、青森県多額納税者、資産家。衆議院議員(青森県郡部選出、当選1回)。貴族院議員。族籍は青森県平民。 小説家太宰治の父である。孫は俳優の津島康一、小説家の津島佑子、小説家の太田治子、曾孫は政治家の津島恭一、政治家の津島淳、劇作家の石原燃などがいる。 青森県西津軽郡木造村(現つがる市)の松木家に、8代目七右衛門の四男として生まれる。旧名は永三郎。1888年、北津軽郡金木村(現五所川原市)の津島家の婿養子となる。1892年、「源右衛門」と改名。農業、商業を営む。 金木銀行設立の議が起ると率先して尽力する。
山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 … 山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 - 1947年1月20日)は、日本の司法官。司法次官、東京控訴院院長。族籍は東京府平民。法学博士。
利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月… 利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月 - 1934年(昭和9年)12月24日)は、日本の実業家。京王電気軌道社長。京成電気軌道常務取締役。渡良瀬水電取締役。 大分県大分郡稙田村(現・大分市)出身。利光綾太郎の二男。日本大学を経て1893年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。1899年、米国に航し、南加州大学に入り、国際公法を専攻した。 1907年、帰国。東京市役所に奉職し、勧業課主事を務めたが1910年、これを辞し京王電気会社の創立に尽瘁し、その社長に推された。 日本大学推薦校友である。 兄・吉郎方より分かれて一家を創立した。 宗教は真宗。趣味は俳句、小鳥、囲碁。東京府在籍で、住所は東京市四谷区坂町、千葉県東葛飾郡市川町字真間。
池田 十三郎(いけだ じゅうざぶろう、1870年8月29日〈… 池田 十三郎(いけだ じゅうざぶろう、1870年8月29日〈明治3年8月3日〉 - 1947年12月21日)は明治から大正にかけての逓信官僚。朝鮮総督府逓信局長官を務めた。 1870年8月29日、肥前国佐賀で、長崎県士族・池田陽雲の四男として生まれ、叔父・玄泰(1836年9月生)の養子となる。1892年、東京帝国大学法科大学独法学科を卒業し、法学士を取得。官吏になり、同年7月、東京郵便電信学校教授に就任。同年11月の茨城県出張、1895年の京都府出張などを経て、1906年1月10日より統監府通信管理局長、1910年に朝鮮総督府通信局長官、のち改称に伴い逓信局長官。1917年6月6日まで逓信局長官を務めて退官し、日本染料会社取締役社長に就任、1919年に退任。
矢作 栄蔵(やはぎ えいぞう、1870年8月21日(明治3年… 矢作 栄蔵(やはぎ えいぞう、1870年8月21日(明治3年7月25日) - 1933年(昭和8年)12月18日)は、日本の農業経済学者。東京帝国大学経済学部教授同経済学部長。法学博士。 埼玉県出身。矢作八蔵の二男。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、大学院に入って農業経済学を専攻した。1901年(明治34年)、同大学農科大学助教授に就任し、翌年から経済学研究のためドイツ、フランス、イギリスに留学した。1907年(明治40年)に帰国した後、東京帝国大学農科大学教授と法科大学教授に任じられ、法学博士号を受けた。のち学部改編で経済学部教授兼農学部教授となり、さらに経済学部長に就任した。
坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1… 坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1870年8月19日) - 昭和17年(1942年)3月26日)は、日本の教育者。 明治期に上野下谷に日本で初めて設けられた貧民学校の校長を務め、その教育実践が、かつての教え子であった添田知道の『小説 教育者』として作品化されて、大正、昭和期に教育者の範として知られた。 神奈川県西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市牛沼)に、坂本源吾之輔、あきの五人兄弟の三男として生まれる。神奈川師範学校(現・横浜国立大学教育人間科学部)に学び、初赴任は、西多摩郡古里村の習文尋常小学校(現・西多摩郡、奥多摩町立古里小学校)だった。その後、神奈川県下で、町田村の日新尋常小学校(現・町田市立町田第一小学校)、大和市の渋谷高等尋常小学校(現・大和市立渋谷小学校)、町田村の開矇(かいもう)高等尋常小学校(現・町田市立南第一小学校)の校長を歴任。
中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年… 中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年8月17日) - 昭和14年(1939年)10月21日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(1901年)。東京商科大学名誉教授。「七博士意見書」により日露戦争開戦を主張した学者の一人。 1870年、越後国高田(のちの新潟県高田市、現上越市)において、旧高田藩士・中村九朗の三男として生まれた。高田中学校を卒業し、第一高等中学校に入学。1891年に第一高等中学校を卒業して東京帝国大学に入学。1894年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業。卒業後は同大学院に進んだ。 大学では、初め末岡精一に師事して国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた。
寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3… 寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3年7月19日〉 - 1944年〈昭和19年〉1月24日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大蔵官僚。朝鮮総督府官僚。埼玉県川越市長。 加賀国金沢に生まれる。朝田家に生まれ、のち寺尾家の養子となる。1889年(明治22年)英吉利法律学校を卒業。衆議院属、大蔵省属、韓国総税務司、関税局税関、朝鮮総督府税関各事務官などを経て1922年(大正11年)退官する。その後、東洋拓殖嘱託、同参事、満蒙毛織常務取締役などを務めた。 1927年(昭和2年)川越市長に就任。政争に巻き込まれ市会で不信任を突きつけられるが県により取り消し命令が下る。在任中は耕地整理組合の設立、常備消防署や体育協会の設置などに尽力した。
藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(18… 藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(1870年8月15日) - 明治43年(1910年)2月3日)は、日本の国文学者、文学博士。号は東圃・李花亭・枇杷園。 加賀国金沢早道町(現・石川県金沢市)生まれ。1890年、第四高等中学校を卒業。同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)、山本良吉がおり、西田・鈴木・藤岡は「加賀の三太郎」と称される。 1891年、東京帝国大学文科大学国文科に進学する。同級生に藤井乙男がいた。在学中、『北國新聞』創刊号に「小説管見」を発表。1894年、東京帝国大学を卒業。大阪府第一中学校、京都真宗大谷派第一中学校教員、真宗大谷派大学寮教授、第三高等学校教授を経て、1900年、東京帝国大学助教授となる。
東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月… 東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月9日) - 1936年(昭和11年)10月13日)は、日本の陸軍軍人。陸士4期、陸大14期。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲二等。 山口県岩国藩士の東文吉の三男として生まれる。十代のころは兄の勝平とともに川下小学校に出入りしており、1885年(明治18年)ごろに一時同校の訓導をしていた齋藤精輔の立ち上げた「数学同好会」に参加していた。 1893年(明治26年)陸軍士官学校卒業後、近衛砲兵連隊に勤務。翌年1894年(明治27年)、砲兵少尉に任命され、同年に日清戦争に従軍する。1900年(明治33年)陸軍大学校を第14期生として卒業したのち参謀本部に勤務。
大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(187… 大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は、明治時代の日本の水彩画家。中丸精十郎、原田直次郎に師事した この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3… 大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3年7月6日)- 1922年(大正11年)6月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 伊予国越智郡蔵敷村(現在の愛媛県今治市)出身。1886年(明治19年)、松山中学校を卒業。英吉利法律学校(東京法学院、現在の中央大学)で英語法学を学び、1889年(明治22年)に首席で卒業。その後も穂積陳重のもとで学んだ。1892年(明治25年)に弁護士試験に合格し、松山市に事務所を開いた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 三・一運動の際には、花井卓蔵・木尾虎之助らとともに、騒擾罪に問われた孫秉煕ら指導者の弁護にあたった。
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月… 鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)は、日本の建築家。静岡県静岡市出身。夏目漱石の相婿(妻同士が姉妹)で、漱石の小説の中にも登場する。[要出典] 1870年(明治3年)駿河国静岡に旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれる。1896年(明治29年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業。翌年、三井銀行に入り建築係に勤務する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子(旧姓:中根)の妹(時子)と結婚し、1903年(明治36年)、文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授・同科長となり赴任。
長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月… 長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月 - 没年不明)は日本の政治家。元鳥取県議会議員。元富益村長。 現在の鳥取県米子市富益町に生まれた。善十郎の二男。家は代々農を業とす。教えを郷校に受け和漢の書を修めた。前代より副業として質商を営んだが万蔵の代に至り倍々業務に勉め隆昌に向かう。 明治32年(1899年)富益村長に当選。明治32年(1899年)9月郡会議員に当選。米子外十四ヶ町村組合角盤高等小学校議員米川水利組合議員等責務に就き多年村治に郡政に尽瘁する。 衆民の輿望により県会議員に当選。 県下有数の名士として庶民の推重を受くる。 『陰陽八郡郡勢一斑』には「性温厚にして寡言、堂々たる風丰全く長者の風備はる」とある。
小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(… 小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(明治2年7月22日) - 1939年(昭和14年)1月1日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は八重郎。 小林小太郎の長男として、のちの山梨県南巨摩郡増穂村(増穂町を経て、現在の富士川町)に生まれる。1901年(明治34年)2月、家督を相続する。山梨県立甲府中学校、早稲田専門学校を経て、東京法学院を卒業し、増穂村学務委員となる。ついで所得税調査委員、増穂村会議員、山梨県会議員、小林銀行頭取、山梨農工銀行監査役、山梨貯蓄銀行取締、有信銀行監査役、同取締役を歴任する。ほか、南巨摩郡立第一養蚕伝習所長などを務めた。
犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明… 犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明治2年7月21日)- 1923年(大正12年)9月11日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長。号・竹荘、柿園。 備中国都宇郡山地村(岡山県都宇郡庄村を経て現倉敷市山地)で、犬飼篤太郎の長男として生れ、1896年(明治29年)3月に家督を相続した。1886年(明治19年)7月、東京成学館に入学し1888年(明治21年)に退学。同年8月、明治法律学校(現明治大学)に入学し、政治学、法律学を修め、1891年(明治24年)7月に卒業した。 帰郷して1893年(明治26年)5月、庄村助役となる。1896年(明治29年)2月、岡山県会議員に選出され連続3期在任し、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)には県会議長に就任。
岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月2… 岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月20日) - 昭和15年(1940年)7月29日)は、明治期から昭和期にかけて活動した日本画家。 明治2年(1869年)7月13日に福井県大野町に五人兄弟の四男として生まれる。本名は吉寿。幼名は又太郎といった。梅渓、不崩と号す。 明治13年(1880年)に上京し、麹町の番町小学校に入学する。明治17年(1884年)16歳の時に狩野友信に入門して洋画を学ぶ。当時は軍人志望であったが、鑑画会創立の頃から友信の紹介もあって狩野芳崖に師事し、本格的に日本画を習得している。有賀長雄宅での狩野永悳、芳崖、木村立嶽らの研究会に参加して学び、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会に岡梅渓の号で「山水」と「草花」を出品している。
石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(186… 石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(1869年8月19日) - 1898年(明治31年)3月22日または23日)は明治時代のシャム王国入植者。長崎県平戸島に生まれ、福岡、東京で英語を学んだ後、アメリカ合衆国オークランドに留学した。帰国後シャム王国への植民事業を企てたが、暹羅殖民会社、石橋商会の事業はいずれも失敗し、東京で病没した。 明治2年(1869年)7月3日、肥前国平戸町に呉服太物商石橋彦兵衛の第5子または第10子として生まれた。小学校では威圧的な振る舞いで他の児童から孤立し、また家では仕事を手伝わず、家族を困らせた。 15歳の時針浦退蔵に入門し、2年間余り儒教を学んだ。1883年(明治16年)9月留学を認めない養父長次郎の元を離れて福岡の取引先宅に身を寄せ、当初陸軍予備士官学校に入学しようとしたが、同郷南部重遠の誘いで人参畑高場乱に学んだ。
永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年… 永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年7月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉3月9日)は、日本の資産家、農民、埼玉県多額納税者、埼玉県の大地主。前名は平次郎。族籍は埼玉県平民。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人で、先代・永田勘六の長男。1895年、家督相続と共に襲名して前名・平次郎を改めた。農業を営み、県下の大地主であった。多額納税者として知られた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日… 錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日〈明治2年7月9日〉 - 1911年〈明治44年〉11月24日)は、明治期の華族。官位は従五位、爵位は子爵。 山城国京都で式部大輔・唐橋在光の四男として生まれる。唐橋在正の弟。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。明治維新以降、子爵に叙せられた。 1897年、群馬県尋常中学校教諭に就任。1898年、叔父・錦小路賴言の次女益子の入夫、錦小路家の養子となる。同じ年、賴言の死去に伴い、家督を相続する。1899年、東宮職御用掛となる。1900年、東宮主事に就任。 1911年11月24日死去。43歳没。
相馬 半治(そうま はんじ、1869年8月15日(明治2年7… 相馬 半治(そうま はんじ、1869年8月15日(明治2年7月8日) - 1946年(昭和21年)1月7日)は、明治製糖、明治製菓の創立者の一人。1903年に東京高等工業学校(現・東京工業大学)の教授となり、1906年に教授を辞めて明治製糖の設立に加わり、1916年に明治製菓設立に加わり、1923年から1942年まで明治製菓会長。砂糖業界四巨頭の一人と言われた。 相馬半治の元の姓は田中であった。田中家は代々犬山藩の家臣であり、半治の父、庵は田中家7代目で家禄59俵。母は尾張藩士加藤平八郎の長女八重子だった。田中半治は3男として1869年(明治2年)、尾張国丹羽郡犬山町に生まれた。父は明治維新を機会に士族の商法を始めるが失敗、家は困窮を極めた。
水野 正巳(みずの まさみ、1869年8月15日(明治2年7… 水野 正巳(みずの まさみ、1869年8月15日(明治2年7月8日) - 1936年(昭和11年)9月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県美嚢郡口吉川村(現三木市)出身。1894年に有馬郡の水野家の婿養子となり上京。東京専門学校で学ぶ。大阪で株式仲買店、神戸で印刷業を始めるも失敗し神戸へ戻る。農業を営み、神戸市会議員、神戸商業会議所議員となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選した。以来連続3回当選。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党から立候補したが落選。翌1913年に繰り上げ当選となった。1915年の第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年… 羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年8月11日) - 昭和21年(1946年)7月16日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。実業家。 臼杵藩士羽田角弥の二男として臼杵城下に生まれる。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士として活動し、東京弁護士会副会長に選ばれた。また実業家としても中央鉄道(のち武州鉄道)社長、米田鉱業株式会社社長、日本紙工株式会社取締役、日英石鹸株式会社監査役などを務めた。 1926年(大正15年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。
寺島 成信(てらしま しげのぶ、1869年8月10日(明治2… 寺島 成信(てらしま しげのぶ、1869年8月10日(明治2年7月3日) - 1939年(昭和14年)4月2日)は、日本の経済学者、経済学博士。日本で初めて経済学博士を取得した人物として知られる。 出羽国庄内(現・山形県鶴岡市)出身。佐藤雄能や三矢重松らと共に、同郷の学生寄宿舎「荘内館」の設立に尽力した。 日清戦争以前、戦時に仮装巡洋艦として用いる高速商船の建造・航路補助の制度整備を主張した。後に自分は「仮装巡洋艦主義」を唱えたと回顧する。 日本郵船では「同社創設の調査機関を主宰するに至つた」。近藤廉平社長とともに、パリ講和会議に民間船主代表として参加。 第一次大戦中より論壇に登場し、航空省設置や優秀船建造について発言。
山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年… 山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年7月2日) - 1962年(昭和37年)7月11日)は、日本の実業家。アズビルや、日本酸素ホールディングス、日本精工の創業者。 鹿児島県下西田町(現鹿児島市西田)生まれ。旧薩摩藩士の家だったが明治維新後に没落しており貧しく、農商務省に務める義兄・奥清輔(のち農商務省水産局長)を頼って東京に移り、東京職工学校(現東京科学大学)に進学。1891年に卒業すると、義兄の親友だった高橋是清(当時農商務省特許局長)の紹介で農商務省入省、特許局審査官補。その後、製釘事業を立ち上げようと考えていた安田善次郎からの依頼を受けていた高橋是清から推挙され、安田銀行に技師として入行して、1896年からオハイオ州クリーブランドで技術習得に従事。
三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27… 三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27日(1869年8月4日) - 大正13年(1924年)8月18日)は、落語家。本名:村田 政次郎。 浅草代地に住んでいたことから俗に「代地の今輔」やせっかちなエピソードが多いことから「せっかちの今輔」。 東京深川の生まれ、子供の時の1883年~1884年ころに二代目古今亭志ん生の門に入り志ん丸を名乗った。志ん丸は二代目今輔の前座名で待望されていたことが分かる。1889年3月に志ん猫と改名。 師匠志ん生死去に伴い4月に四代目三升亭小勝の門で三升亭小つね、さらに1896年1月に柳家小文吾となり1897年に柳派の出世名である三代目柳家小三治襲名。
石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治… 石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治2年6月26日)- 1935年(昭和10年)1月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡呼続村(呼続町を経て現名古屋市)出身。麩製造業を営む。名古屋市会議員、愛知県会議員、同市部会議長となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において愛知1区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8… 藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8月31日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月23日)は、日本の国文学者、俳人。号は紫影。 兵庫県津名郡洲本町(淡路島、現洲本市)生まれ。 第三高等学校を経て、1894年に帝国大学文科大学国文学科を卒業。在学中に正岡子規と知り合い、句作を始める。 1894年に福岡県立尋常中学修猷館教諭、1898年に第四高等学校教授、金沢にて北声会を主宰、「北国新聞」の俳壇選者となる。1908年に第八高等学校教授、1909年に京都帝国大学文科講師、1911年教授。1912年に文学博士の学位を受ける。1928年に定年退職、名誉教授となる。1930年に帝国学士院会員。
本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868… 本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868年8月31日) - 昭和10年(1935年)1月25日)は、日本の政治家。中浜村長(第4代)。初代中浜村長本角寅造の義弟。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 29歳で村長に就任し、大正3年(1914年)から耕地整理事業に着手したほか、米川水利灌漑事業、信用組合創設等を行って養蚕で栄える本村農業の振興につとめた。 さらに農業補習学校の分教場制度を廃止して、教育の質的向上を図り、尋常高等小学校の増築もなした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
齋藤 精輔(さいとう せいすけ、慶応4年7月11日(1868… 齋藤 精輔(さいとう せいすけ、慶応4年7月11日(1868年8月28日) - 昭和12年(1937年)5月13日)は、三省堂創業期の辞書編集者で編纂者。約50年間にわたって辞書の編集を続け、日本における近代的辞書の礎を築いたひとり。 山口県に生まれ、毛利公爵家の私教師をしながら東京農学校に通っていたが、三省堂創業者の亀井忠一に請われて同校を退学し、辞書編纂の仕事に没頭。『博言博士イーストレーキ、文学士棚橋一郎共著、ウェブスター新刊大辞書和訳字彙』を刊行して成功を収める。英語には「教壇英語」と「辞書英語」があるというのが齋藤の信念で、「教壇英語」は現代でいうコミュニケーションのための英語、意味を通じさせることを目的とした英語でこと足りるが、「辞書英語」は和漢英の教養をもった編者によって練られた、文語として洗練されたものであるべきだと考えていた。
井戸 文四郎(いど ぶんしろう、明治元年7月11日(1868… 井戸 文四郎(いど ぶんしろう、明治元年7月11日(1868年8月28日) - 昭和9年(1934年)3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、弁護士。 讃岐国(香川県)高松の村上家に生まれ、井戸利平の養子となった。1890年(明治23年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業して、弁護士を開業した。高松市会議員、同議長、香川県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に高松木材株式会社社長、高松電灯株式会社監査役を務めた。
上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明… 上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明治元年7月9日〕 - 没年不詳)は、日本の実業家。大日本人造肥料(現・日産化学)株式会社大阪支店長、小樽木材株式会社支配人、吉岡鉱山長。 1868年8月26日(明治元年7月9日)に東京府士族、上領純三の長男として生まれる。 1892年(明治25年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を退学。高商在学中に、校長の矢野二郎と衝突して、優秀な学生の大部分が退学する学校騒動の元祖ともいうべき矢野二郎排斥事件があったが、発頭人としてこれを先導した。また、在学中には、久保田富次郎(後の立教大学名誉教授)と親交が深く、久保田は上領の家に寄寓した。 高商卒業後、三菱合資会社に入社。
山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年… 山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年7月8日) - 1910年(明治43年)10月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家。言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。
秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年… 秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年8月24日) - 昭和25年(1950年)1月19日)は、岡山県出身の政治家、実業家。衆議院議員。『二六新報』社長。 備前国窪屋郡、のちの岡山県都窪郡倉敷町(現倉敷市)で生まれる。父の秋山儀四郎は倉敷の出身で、堂島の米相場で成功したのち道頓堀の角座・浪花座を買収した大阪興行界の大物であった。東京帝国大学卒業後、会計検査院に勤務。1893年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問に『二六新報』を社長として創刊。資金難のため1895年休刊。1900年再刊し、三井財閥攻撃、娼妓自由廃業などの醜聞暴露キャンペーンによって民衆の人気を博す。同様に有名人のスキャンダルを売り物とする『萬朝報』紙と売り上げを二分した。
織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21… 織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21日) - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の法学者。専門は行政法。京都帝国大学名誉教授。常設国際司法裁判所判事。関西大学学長。財団法人立命館名誉総長。佐賀県須古邑生まれ。 佐賀県須古邑の士族・須古精一の次男として生まれた。佐賀藩の本流にはなかったものの、須古邑(現・白石町)を支配する須古鍋島家の親族家老・須古西家に属す名士であった。1歳の時に織田範治の養子として迎えられ、織田家の子供として育てられた。1879年(明治12年)、須古小学校を卒業した織田は、当時須古邑に安住百太郎が開設した「鶴陰学舎」で漢籍や外国法律書などを学ぶ。
中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868… 中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868年8月20日〉 - 1960年〈昭和35年〉3月14日)は、日本の能書家。漢学者中村芳平の子。豊前国仲津郡祓郷村大字田中(現在の福岡県京都郡みやこ町田中)出身。名は尚友、字は玄郷、通称を楳太郎(梅太郎)、雅号を春堂または耕心斉と称した。 旧制豊津中学校(豊津高校→現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、大分県中津町の河野私塾に学んだ後、郷里で初等教育に従事していたが、1896年(明治29年)に上京。法制局長官・末松謙澄(現行橋市出身)の推薦により内閣法典調査会に奉職した。勤務のかたわら専修学校(現専修大学)に入学して、法律学・経済学を学んだ。
柿沼 竹雄(かきぬま たけお、1868年 8月20日(慶応4… 柿沼 竹雄(かきぬま たけお、1868年 8月20日(慶応4年7月3日) - 1951年(昭和26年))は、日本の文部・内務官僚。官選県知事。 下野国都賀郡鹿沼町(現栃木県鹿沼市)出身。今宮神社社家・柿沼雅雄の長男として生まれる。祖父、日光二荒山神社宮司・柿沼広身の薫陶を受けた。柿沼の教育のため一家で東京に移住。 第一高等学校を経て、1898年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。文部省に入省。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1901年4月、福島県視学官に就任。以後、徳島県視学官、同県事務官、宮崎県事務官・第一部長兼第三部長、山梨県事務官・内務部長、岩手県内務部長などを歴任。
木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2… 木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・西川。 山城国綴喜郡、のちの京都府綴喜郡田辺村(田辺町を経て現京田辺市)で、西川長次の二男として生まれ、1885年(明治18年)木村艮司の養子となり、1891年(明治24年)4月、家督を相続した。1896年(明治29年)7月、帝国大学農科大学農学科を卒業した。 京都府技師となる。同年8月、京都府農会技師兼幹事となり1908年(明治41年)4月まで在任。この間、京都府立農林学校嘱託教師、京都蚕業講習所嘱託教師、京都府立農事試験場嘱託なども務め、京都府下の農業振興に尽力した。
岸本 賀昌(きしもと がしょう、1868年8月18日(尚泰2… 岸本 賀昌(きしもと がしょう、1868年8月18日(尚泰21年7月1日) - 1928年(昭和3年)2月28日)は、沖縄県出身の日本の内務官僚、政治家。 那覇生まれ。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院(中退)、慶應義塾(別科三級に入学し、正科を卒業)で学ぶ。留学後、沖縄県属、次いで内務省地方局に移り、石川県参事官、沖縄県参事官、同事務官・第二部長などを歴任。1912年(明治45年)に沖縄県最初の衆議院議員選挙に立憲政友会公認で出馬し、当選。その後、憲政会、立憲同志会、立憲民政党など政局に合わせて党を移り、衆議院議員を4期務めた。沖縄毎日新報社長、沖縄共立銀行頭取などを経て1925年(大正14年)に那覇市長に選任された。
飯野 喜四郎(いいのきしろう、慶応4年6月28日(1868年… 飯野 喜四郎(いいのきしろう、慶応4年6月28日(1868年8月16日) - 昭和15年(1940年)3月21日)は、埼玉県出身の政治家・実業家。埼玉県会議員・埼玉県会議長。 武蔵国埼玉郡蓮田村(現・埼玉県蓮田市)生まれ。粕壁中学校(現埼玉県立春日部高等学校)卒業。1887年に飯野運送店を開業し、東北本線でサツマイモを東北地方に販売した。1894年から埼玉県会議員を通算11期務めた。この間、1918年から1919年までと、1921年と1922年までの2度に渡って埼玉県会議長を務めた。また、教育の普及にも尽力し、粕壁中学校や旧制浦和高校(現埼玉大学)の設置に力を注いだ。元荒川、中川、古利根川などの河川改修や耕地整理にも尽力した。
松木 宗隆(まつのき むねたか、1868年8月16日〈慶応4… 松木 宗隆(まつのき むねたか、1868年8月16日〈慶応4年6月28日〉 - 1943年〈昭和18年〉11月16日)は、明治から昭和前期の政治家、華族。貴族院伯爵議員。幼名・保丸。 左近衛中将・松木宗有の四男として生まれる。父・宗有の隠居に伴い、1879年(明治12年)5月2日、家督を継承。1884年(明治17年)7月7日、伯爵を叙爵した。 学習院、東京専門学校、日本法律学校で学んだ。 貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1904年(明治37年)7月10月から1911年(明治44年)7月9日までと1918年(大正7年)7月10日から1943年4月9日まで在任した。 Template:Normdatem
黒須 竜太郎(くろす りゅうたろう、慶応4年6月28日(18… 黒須 竜太郎(くろす りゅうたろう、慶応4年6月28日(1868年8月16日) – 昭和26年(1951年)8月10日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)、弁護士。 武蔵国足立郡瓦葺村(現在の埼玉県上尾市)出身。1886年(明治19年)、埼玉県師範学校を卒業し、小学校の校長となった。小学校を辞して東京に出て、1888年(明治21年)から英吉利法律学校(現在の中央大学)と東京英語学校に学んだが、在学中の1891年(明治24年)に弁護士試験に合格し、東京で開業した。1902年(明治35年)、東京弁護士会副会長に選任。 1903年(明治36年)、芝区会議員に選出され、後に区会議長となった。
福原 鐐二郎(ふくはら りょうじろう、1868年8月13日(… 福原 鐐二郎(ふくはら りょうじろう、1868年8月13日(慶応4年6月25日) - 1932年(昭和7年)1月17日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部官僚。号は蘇洲。 文部次官、東北帝国大学総長、学習院長、帝国美術院(日本芸術院の前身)院長、貴族院議員を歴任した。 桑名藩士・福原資英の二男として生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1892年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省試補となり官房兼郵務局勤務。1893年7月、内務省に移り内務属となる。同年11月、社寺局神社課長に就任し、以後、内務省参事官、奈良県参事官、奈良県警察部長、鳥取県警察部長などを歴任。 1897年3月、文部省に転じ参事官に就任。
関 豊太郎(せき とよたろう、1868年8月11日(慶応4年… 関 豊太郎(せき とよたろう、1868年8月11日(慶応4年6月23日) - 1955年(昭和30年)3月20日)は、日本の土壌学者。黒ボク土(火山灰土壌)の組成とその改良方法研究に貢献した。また、盛岡高等農林学校教授時代に、宮沢賢治を指導したことでも知られる。 士族・関定暉の長男として、東京(江戸)市谷に生まれる。1892年帝国大学農科大学農学科を卒業。 1893年(明治26年)6月から福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、広島師範学校教諭、鳥取県立農学校教諭、宮城農学校教諭、山形県立庄内農業学校教諭、広島高等師範学校教授を経て、1905年盛岡高等農林学校(岩手大学農学部の前身)の土壌学の教授に就任。
宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年… 宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。