小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8… 小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8月22日) - 明治42年(1909年)10月20日)は、明治時代の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。幼名、助太郎。諱は長利。 小倉藩士・小川兼宣の長男。幼名は助太郎。江川塾で学んだ後、小倉藩士として長州征討に出征した。 明治3年(1870年)7月、兵学寮生徒となる。明治4年(1871年)1月、権曹長心得となり、少尉心得を経て、明治5年(1872年)2月に少尉に昇進。1874年(明治7年)4月、台湾征討軍に従軍。1875年(明治8年)1月、東京鎮台歩兵第1連隊付となる。1876年(明治9年)4月、歩兵第13連隊大隊長に就任し、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征。
磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(18… 磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(1848年8月18日) - 明治35年(1902年)6月7日)は、明治時代初期の力士、本名西村 長兵衛。180cm、139kg。 磯風音次郎は、近江滋賀郡松本村(現滋賀県大津市)に生まれ、本名は西村長兵衛と言った。浜大津で沖仲仕をしながら素人相撲を取っていた。沖仲士としてある藩の御用金を運送中に粟津原(現滋賀県大津市晴嵐付近)で追剥に奪われ訴え出たところ、逆に役人が同業の者が遊ぶ金に使ったのだろうと疑われ、立派な力士になって見返してやろうと決意したと伝えられる。 明治元年(1868年)頃に京都の初島七蔵に弟子入りし西の大関となる。明治16年(1883年)東京で幕内格番付外、翌年客席(三役格)で場所をつとめ明治20年(1887年)頃横綱を自称したとされるが、明治23年(1890年)吉田司家から巡業横綱を許された。
南条 新六郎(なんじょう しんろくろう、嘉永元年7月7日〈1… 南条 新六郎(なんじょう しんろくろう、嘉永元年7月7日〈1848年8月5日〉 - 1920年〈大正9年〉10月7日)は、日本の実業家、名望家。第四十国立銀行頭取や、日本製粉社長を務めた。 上野国で館林藩家老の岡谷瑳磨介の第3子として生まれ、のちに同藩の南條源太左衛門の養子となる。御番頭支配中小姓、半隊司令士、歩卒隊長を経て1871年中尉に任命される。退官後、大蔵省銀行局の簿記学講習所(のちの高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校)で学ぶ。同窓にのちにともに日本製粉設立に参画した旧館林藩士の笠原圓蔵がいた。 1878年に館林町で群馬県初の銀行である第四十国立銀行を設立し、1891年に頭取に就任した。
古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘… 古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘化4年7月11日)- 1914年(大正3年)11月3日)は、幕末の平戸藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡平戸村(長崎県北松浦郡平戸村、平戸町を経て現平戸市)で、平戸藩士・吉川右衛門兵衛の長男として生まれる。藩儒の平田貞次郎、楠本瑞山らから漢学を学んだ。慶応2年(1866年)藩校維新館学員に就任。王政復古の際には藩主松浦詮に従って京都に滞在し、明治2年(1869年)藩主の近侍職となった。 廃藩置県後は実業界に転じた。1885年(明治18年)平戸士族授産生産社副社長に就任し、その後同社長に就任。1887年(明治20年)第九十九銀行(現十八親和銀行)取締役頭取に就任し、1902年(明治35年)7月、同頭取を退任。
月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8… 月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8月7日) - 明治27年(1894年)1月8日)は、江戸時代末期の福岡藩士、明治時代の官僚。北海道樺戸集治監典獄、樺戸・雨竜・上川三郡郡長として北海道開拓に携わる。樺戸郡月形町の町名は彼の姓に由来している。 弘化4年(1847年)、筑前国遠賀郡中底井野村(現福岡県中間市中底井野)で旭迎堂を開いていた儒学者でもある福岡藩士月形健(春耕)と伊藤常足の門人の宮崎省庵の娘の竹との間に生まれ、直吉と名付けられる。 嘉永3年(1850年)鞍手郡植木村(現福岡県直方市)に伯父(父の長兄)の月形深蔵(漪嵐)が隠居して教授所を開き、直吉は深蔵の元に足しげく通い、朱子学や剣術を学ぶ。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年… 市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年6月23日) - 1927年(昭和2年)7月30日)は、明治時代のロシア語通訳、外交官、教育家。幼名は秀太郎。 1847年、広島藩士・市川兼恭の長男として江戸神田新白銀町で生まれる。1860年(安政7年)、蕃書調所の仏学稽古人となり、1864年(元治元年)、開成所の仏学科教授手伝並に任ぜられた。 かねてより駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は提案を採り上げ、遣露留学生を送ることを決定。当時開成所教授で、ロシアとロシア語に関心を持っていた父の推薦で留学生に選ばれた。
松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化… 松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化3年6月23日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の司法官僚・政治家。徳島県板野郡上板町七条出身。位階・勲等・爵位は贈従一位勲一等男爵。検事総長、農商務大臣、貴族院議員。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。 検事総長や農相を歴任。学問的遺業の中には拷問制度の廃止と裁判所構成法を中心とする訴訟制度近代化の提唱が特筆されている。 山田顕義の死後、廃校決議まであった日本法律学校を立て直し、30年間にわたり日本大学の発展に寄与し、同学の礎を築いた。
森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月1… 森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月16日〉 - 1908年〈明治41年〉12月31日)は、日本の政治家。山形県南村山郡東村長。山形県会議員。 現在の上山市菖蒲出身。森作右衛門の長男として出生。1891年(明治24年)5月18日に南村山郡会議員選挙に東村選挙区から立候補して、当選。その後、1893年(明治26年)、1897年(明治30年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)、1907年(明治40年)の選挙でも当選した。 1899年(明治32年)9月25日に山形県会議員総選挙に南村山郡選挙区から憲政党公認で立候補して、当選を果たした。1903年(明治36年)は立憲政友会公認で立候補して、再選を果たした。
立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日… 立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。 実父は桑名藩士(江戸詰め、200石)の町田伝太夫。桑名藩士・立見尚志の養子となった。松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。 藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。フランス教官をして「立見は天成の軍人である。
陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8… 陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正、議会の先駆けである元老院の設立に多大な影響を与え、第1次山縣有朋内閣では農商務大臣として第1回帝国議会を成功させる支柱となった。外務大臣としては幕末期以降に結ばれていた全15か国の不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を回復)改正に成功した。日清戦争において陸奥外交と呼ばれる外交を行い、戦中・戦後処理に尽力し、三国干渉を日本の有利な形で収まるように立ち回った。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。
堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保1… 堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保15年7月6日) - 1895年(明治28年)6月18日)は日本陸軍の軍医。明治前半に熊本や大阪鎮台病院長などを務めた。当時の日本は脚気の流行が問題になっていたが、堀内利国は大阪鎮台において兵食を白米から麦飯に変えることで兵士の脚気をほとんどゼロになるまで減らし、脚気が麦飯で予防できることを日本で初めて実験的に証明した。 明治3年(1870年)に日本で初めての陸軍病院が大阪に設置され、堀内利国は軍事病院医官となった。堀内は軍事病院の外人教師・オランダ人医師ブッケンから医学を学んだ。日本に徴兵制が敷かれて地方から大阪に集まってくる兵が増えるにつれて、軍隊の中で脚気患者が目に見えて増大するようになった。
嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 19… 嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 1922年2月15日)は、上野国邑楽郡(現在の群馬県館林市)出身で東関部屋に所属した大相撲力士。本名は東関 庄助(あずまぜき しょうすけ)、旧姓は濱野儀兵衛(はまの ぎへえ)。 最高位は東前頭9枚目。 1844年(天保15年)生まれ。1869年染手綱で序ノ口。三段目で嶌田川と改名し、1875年幕下二段目10枚目(十両格)。負け越しが多かったが十両を維持し、1880年5月36歳で新入幕。4場所在位したが5勝しかできず1882年5月十両陥落。1886年5月41歳で引退し年寄東関を襲名。長く在職し勧進元を3回務めた。1918年横綱太刀山に年寄名跡を譲り73歳で廃業、1922年77歳で死去。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8… 塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。 塚本さとは、天保14年(1843年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門の五女として誕生した。数え21歳の時に店の奉公人であった源三を婿に迎え塚本源三郎家を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた。さとは、「読み、書き、算盤」を寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた。『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった。
井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8… 井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。
西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(184… 西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(1843年8月24日) - 明治41年(1908年)1月14日)は、日本の武士、官僚、政治家。沖縄県令(第4代)、大阪府知事(第6代)、初代内務省警保局長などを務めた。
弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7… 弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7月12日) - 1920年(大正9年)2月12日)は、明治時代の教育家。 土佐国高岡郡押岡村(現:高知県須崎市)に生まれる。父は高知藩士の弘田潤造。 真面目な性格で、特に武技を好み激剣柔道の奥義を究めた。少壮藩に謹志して藩士の鼓舞教導に努めた。 戊辰戦争に従軍し、廃藩置県後、県立高知中学校が創立した際には教師となって漢文を教えた。厳格でよく生徒を諭し、多くの生徒から敬慕されていた。また、郷里の為に基金を投じ、学校を設立して子どもたちの教育に力を注いでいた。 山河を開拓して公園を作るなど公共事業に大きく貢献した。村町の人たちはこれを讃えて弘田公園と呼んだ。
下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842… 下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。 出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続。明治2年12月(1870年1月)権少属任官。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入。
大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、184… 大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、1842年8月20日〈天保13年7月15日〉- 1905年〈明治38年〉4月8日)は、 日本の政治家。司法大臣(第9代)、衆議院議員(7期)を務めた。元は小西姓。父は小西新左衛門。通称、近江西郷。 彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として生まれる。幼名を寛蔵。 戊辰戦争に従軍し武功を立てた。戸籍編成の際、姓を小西から大東に改めた。廃藩置県後、司法省に入り、権少判事となる。明治六年政変(征韓論政変)の際に下野し、1877年(明治10年)の西南戦争の勃発後に代言人仲間だった有馬藤太らとともに大阪で警察に拘束されるが、後に放免となる。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に滋賀郡部から立候補し初当選。
長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保1… 長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保13年7月5日) - 1925年(大正14年)12月20日)は、日本の造園家、作庭家。また茶人で、「祖庭」と号した。日本人初の公園デザイナー。 明治初期から大正にかけて東京府の公園係長などとして活躍。数々の名園を生み出した。明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニア。日本の近代公園の先駆者。 1842年(天保13年)肥前大村藩士として大村城下に生まれる。小さい頃から病弱だったため、藩士の子息に課された武芸等は嗜まず、そのためもっぱら動植物を好み、飼育や栽培等といった方面に才を見出していたという。 1870年(明治3年)郷土の先輩である楠本正隆に従って上京、1872年(明治5年)楠本が新潟県令に就任すると彼に従って新潟に赴く。
相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保1… 相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保12年6月23日〉- 1911年〈明治44年〉4月1日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。官位は従二位勲一等功三級男爵。旧名は忠一郎。 佐賀藩士相浦蕃慎の長男として生れる。藩校・弘道館で学び、佐賀藩海軍に入り、戊辰戦争に従軍。 1869年(明治2年)、「延年艦」副長となり、「長鯨丸」「飛隼丸」の各船長、「日進」乗組などを歴任。1871年(明治4年)、海軍大尉に任官。「摂津艦」「雲揚」「龍驤艦」の各艦長などを歴任。1873年(明治6年)3月、水路寮出仕、水路寮測量課長、海軍兵学校次長などを務めた。 1879年(明治12年)9月、現場に復帰し「筑波」艦長となり、以後、「金剛」「扶桑」の各艦長を経て、1885年(明治18年)12月に海軍少将となる。
初代佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、旧姓・中村、1841年… 初代佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、旧姓・中村、1841年8月1日〈天保12年6月15日〉 - 1914年〈大正3年〉12月3日)は、日本の商人(呉服商)、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)、青森県の大地主、青森県多額納税者。五所川原銀行頭取。族籍は青森県平民。勲四等。 陸奥国津軽郡金木村(現青森県五所川原市)の農家に生まれた。中村半治郎の長男。12歳のときに五所川原の呉服商に丁稚奉公。佐々木喜太郎の養子となった。1867年に分家し、一家を創立した。分家した嘉太郎が木綿と雑貨を扱うことにした店の屋号は「又古」だった。 1889年以降、北津軽郡会議員、県税調査委員等を務めた。1895年、津軽鉄道の設立に参画した。
阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(184… 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(1840年8月18日) - 明治37年(1904年)5月5日)は、明治維新期の近江商人・実業家。阿部市郎兵衛家の分家。 阿部彦太郎は、近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれた。本家筋にあたる5代阿部市郎兵衛の三男が分家した阿部市次郎の長男である。 彦太郎は『布彦』と呼ばれ、父と共に攘夷運動が激しかった文久年間(1861年-1863年)に、室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加えラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う『唐物店』を開いた。
何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13… 何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、裁判官、教育者、唐通事。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。 英語稽古所学頭を務めたほか、長崎で創設した塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの英才を輩出したが、その実績は幕末蘭学における緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、佐倉の順天堂と対比すべく、同じ英学においては福澤諭吉の慶應義塾に匹敵するものであった。開成所(現・東京大学)教授も務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。
沢原 為綱(澤原 爲綱、さわはら ためもと、1839年8月2… 沢原 為綱(澤原 爲綱、さわはら ためもと、1839年8月27日〈天保10年7月19日〉 - 1923年〈大正12年〉4月8日)は、日本の公共事業家、政治家、広島県多額納税者。貴族院多額納税者議員。崇徳銀行頭取。広島県農工銀行取締役。族籍は広島県平民。 安芸国安芸郡荘山田村(現・広島県呉市)の人である。農業を営む。広島県農工銀行の創立に関与する。1878年(明治11年)、安芸郡長に任ぜられる。ほか、同郡所得税調査委員などを務めた。 1890年(明治23年)、広島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。貴族院在任中、大阪築港、小樽築港、広島市の上水道敷設などに尽力した。
福島 敬典(ふくしま たかのり/よしのり、天保10年7月22… 福島 敬典(ふくしま たかのり/よしのり、天保10年7月22日(1839年8月20日) - 明治29年(1896年)12月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。通称は弥太六。越前国敦賀藩出身。 天保10年(1839年)、越前国敦賀藩士・福島忠右衛門の第十一子として生まれる。 戊辰戦争では新政府軍の摂津艦に乗り組み、越後および箱館方面の戦いに転戦して軍功を挙げた。明治元年(1868年)1月には藩船「富有丸」により石炭を積載して敦賀へ回航し、同年10月に軍務局の命を受けて摂津艦に乗船、翌2年正月の函館戦争に参加した。同年8月には大阪丸艦長、11月には蝦夷地の流賊追討に従事し戦功を立てた。 明治維新後は海軍大尉となり、明治4年(1871年)11月20日に海軍少佐心得を命じられる。
佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(183… 佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(1839年8月1日) - 大正9年(1918年)10月9日)は、洋方医、内科医。 江戸本所生まれ。 佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎でオランダ人医師ポンペに医学を学ぶ。 1861年に帰郷後、本所などで開業、その後は東京府病院副院長、博愛舎医師、大学東校病院長などを歴任。1877年西南戦争の際、大阪陸軍病院で軍医として診療。1878年、政府が脚気病院を設立、洋方医として診療に当たり、西洋医学が漢方医学に優ることを証明した。脚気病院閉鎖後、1882年神田駿河台に杏雲堂醫院を創立。1885年、石黒忠悳、長与専斎らと乙酉会を組織、医学制度について審議。1886年東京府医師会及び神田区医師会会長、内務省中央衛生会委員就任。
高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日… 高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日(天保9年7月9日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代の政治家、実業家。新聞経営者。衆議院議員(2期)。 播磨国加東郡、のちの兵庫県加東郡永富村(上福田村、社町を経て現加東市)の大庄屋の家に生まれる。1872年(明治5年)永富村戸長に就任し、学区取締などを経て、1879年(明治12年)兵庫県会議員に当選。1887年(明治20年)まで務めた。この間、1884年(明治17年)同志と共に五州社を設立し、神戸又新日報を発刊。のち神戸相生町に神戸日報社を設立し愛国新聞を発刊した。ほか、加東郡社村長を務め、神戸法律学校や山陽鉄道の設立にも関与した。
宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈18… 宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈1838年8月25日〉 - 1911年〈明治44年〉3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。位階および勲等は従四位・勲四等。 幼名は熊蔵。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。その膨大な日記・記録類は現在でも貴重な史料となっている。子に書家・中国語研究で知られる宮島大八(詠士)がいる。「米沢海軍」の立役者である小森沢長政は弟。
4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8… 4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8月20日〈天保9年7月1日〉 - 1914年〈大正3年〉1月8日)は、幕末から明治時代の醸造家、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。名は正義。前名は馬之助。族籍は高知県平民。 3代目桜木嘉右衛門正利、鹿の二男として高知城下種崎町(現・高知市はりまや町)に生まれ、のち前名を改めて襲名する。藩政下、町内総組頭を務め、廃藩後は町内取締役となる。本業は酒造業で「葉柳」の醸造元。 1877年(明治10年)第七国立銀行が設立すると同取締役に就任。1881年(明治14年)帆走船運漕営業会社天佑社を設立し、相談役を経て社長に就任。1886年(明治19年)土佐郡酒造家連合会を設立し同会長に就任。
宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8… 宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8月15日 - 1910年〈明治43年〉9月21日)は、岐阜県出身の地域活動家。中山道(中街道)の開削に尽力し、日吉村の戸長を務めた。 1838年8月15日、岐阜県土岐郡日吉村半原(現在の瑞浪市日吉町半原)に生まれる。 半原宮地氏は安藤氏・遠藤氏・山内氏と共に土岐氏に属し、天文13年(1544年)日吉神社を創建した。 (先祖代々の記録)(10.兵次郎寛朋が宮地兵次郎) 先祖・宮地重勝頌徳碑(背面)には下記の文が彫ってある。写真の左の碑:宮地重勝隠居士。右の碑:宮地重勝頌徳碑。 宮地氏ハ代々土岐氏ノ臣ニシテ天文十一年頼芸亡ブルヤ鶴ケ城代宮地九郎左衛門藤原重勝半原自邸ニ隠遁シ農ニ帰スコレ即チ祖ナリ昭和二十八年十月再建之(天文11年=1542年)(昭和28年=1953年)土岐頼芸は土岐頼兼、正中の変と関係する。
金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保… 金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保9年6月24日) - 1921年(大正10年)7月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 能登国羽咋郡中沼村(のち石川県羽咋郡南大海村→高松町→かほく市)出身。漢学を学ぶ。農業を営み、1860年には中沼村、次いで夏栗村、更に二ツ屋村の肝煎となる。1873年、石川県第4区小1区戸長、1889年、南大海村会議員、所得税調査委員、1891年、連合村会議員、同年、羽咋郡会議員、1897年、石川県会議員となる。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において石川3区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(… 佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(天保9年6月19日) - 1896年(明治29年)5月26日)は明治時代の日本の洋学者、文部官僚。旧名元太郎、諱は高仰。 天保9年6月19日(1838年8月8日)、備後国品治郡新市村に三木嘉久平の五子として生まれる。福山藩儒江木鰐水の門に学んだのち、安政2年(1855年)に品治郡江良村の医師佐沢泰介の養継子となり、蘭方医となるため藩校誠之館の洋学教官寺地舟里、次いで長州藩の青木周弼に師事。さらに文久元年(1861年)、大阪の緒方洪庵に入門し、翌年秋には幕命により江戸に赴く師に同伴。幕府の西洋医学研究教育機関・医学所に入った。文久3年(1863年)、福山藩から洋学修行を命じられ、幕府の洋学研究教育機関・洋書調所(同年中に開成所と改称)でも修学。
磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(… 磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(天保8年7月28日)- 1905年(明治38年)5月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の政治家・農業指導者。衆議院議員。 周防国都濃郡河内村出合(山口県都濃郡河内村、久保村を経て現下松市)で生まれた。文学、武術を学んだ。幕末、国事に奔走。徳山藩山崎隊司令官、同藩新隊招募掛兼政府御用掛を務めた。 1879年(明治12年)山口県会議員に選出された。県下の公共事業の推進に尽力。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区、無所属)で初当選。同年9月の第4回総選挙(山口県第4区、無所属)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
八陣 信蔵(はちじん しんぞう、1837年8月13日(天保8… 八陣 信蔵(はちじん しんぞう、1837年8月13日(天保8年7月13日) - 1902年(明治35年)1月9日)は淡路国津名郡尾崎村(現・兵庫県淡路市)出身の大相撲力士。本名は岩井 信蔵。所属部屋は小野川部屋(大坂)玉垣部屋(江戸)。大坂相撲で最初の横綱となった。吉田司家の免許ではないため日本相撲協会公認の横綱には加えられていない。 淡路島の農家に育ち大坂に出て8代小野川に入門、1859年(安政6年)7月白藤 信蔵で中相撲三段目に名を出す。1860年玉龍と改める。この頃既に人気となっており、1861年(文久元年)評判を聞いた阿波藩に抱えられ江戸行きを命じられて10月場所幕下に付け出される。翌1862年(文久2年)蜂須賀公から黒神 玉之助の四股名を賜ったが同年11月を最後に江戸では出場していない。
小野岡 義禮(おのおか よしひろ、天保8年7月12日(183… 小野岡 義禮(おのおか よしひろ、天保8年7月12日(1837年8月12日)- 大正2年(1913年)8月7日)は、出羽国久保田藩(秋田藩)士。幕末期の久保田藩で家老職をつとめた。義礼と書かれている文書があるが正しくは旧字の義禮である。「ぎれい」とも読む。幼名は慶之助。家格は引渡一番座。 天保8年7月12日(1837年8月12日)、久保田城下(現、秋田県秋田市)に生まれる。 祖父小野岡義音は、享和3年11月26日(1804年1月8日)から文政2年10月21日(1819年12月8日)までと天保4年10月6日(1833年11月17日)以降天保12年(1841年)までの2度にわたって久保田藩の家老を勤め、国学者平田篤胤とは懇意の間柄であった。
川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保… 川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保8年7月10日〉- 1912年12月2日)は、日本の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所(現:川崎重工業)創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員。幼名:磯治。別名:利右衛門。従五位。隠居後は米寿まで生きることを願って「川崎米年蔵」を名乗った。 薩摩国鹿児島城下下町大黒町(現:鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれ。父は呉服商、川崎利右衛門。15歳頃から家系を助けるため、幕末に廻船・海運業で活躍した薩摩藩御用商人・浜崎太平次の経営する山木屋の店員として就職する。17歳となった嘉永6年(1853年)に山木屋の長崎支店に赴任する。
津田仙(つだ せん、天保8年7月6日(1837年8月6日) … 津田仙(つだ せん、天保8年7月6日(1837年8月6日) - 明治41年(1908年)4月24日)は、日本の農学者、キリスト者。学農社創立者。青山学院大学・筑波大学附属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。明六社会員。娘に、後に津田塾大学創設者となる津田梅子、サンフランシスコで日本語新聞「日米新聞」を発行し日系人社会のリーダー的存在だった安孫子久太郎と結婚しアメリカに移住した安孫子余奈子がいる。
加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6… 加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6月23日〉- 1916年〈大正5年〉2月9日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。
吉江 磨磋記(よしえ まさき、天保6年(1835年)8月20… 吉江 磨磋記(よしえ まさき、天保6年(1835年)8月20日 – 明治45年(1912年)6月)は、幕末から明治期にかけての上山藩士、官僚、陸軍関係者。西南戦争および日清戦争に関与し、叙位叙勲を受けた。 天保6年(1835年)8月20日、出羽国上山にて佐々木家に生まれる。幼名は儀作(用作)、のち喜吉と称し、壮年期には伝五右衛門を名乗った。俳人としての号は何人、珍茶。父は佐々木儀左衛門、母は美代である。13歳のとき上山藩士吉江家を継ぎ、吉江姓を称した。 人となりは謹直で思慮深く、特に理財に長じていたとされる。戊辰戦争に際し、明治元年(1868年)、奥羽諸藩同盟が官軍に抗する情勢下において、早くから時局の困難を看破し、軍資金を徴収して事変に備えるべきことを建言した。
七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年… 七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年7月11日) - 1900年(明治33年)1月29日)は幕末・明治時代の浄土真宗の僧侶である。号は松花子。 1835年(天保6年)、現在の越後国三島郡(現新潟県長岡市)飯塚にある浄土真宗本願寺派明鏡寺第13代住職井上宗鏡の次男として生まれる。このころは「天保の大飢饉」によって全国で多くの餓死者が出て、百姓一揆、打ちこわし、大塩平八郎の乱とその影響による生田万の乱、能勢騒動が起こり、世の中は騒然としていた。 1845年(弘化2年)11歳で得度、14歳で僧朗勧学の門に入り、15歳から宣界司教の德水社に入り修学。20歳から九州に移り、豊前の月珠勧学について宗学を研鑽。
岡田 孤鹿(おかだ ころく、1834年8月24日(天保5年7… 岡田 孤鹿(おかだ ころく、1834年8月24日(天保5年7月20日)- 1906年(明治39年)5月3日)は、日本の幕末から明治期の武士(柳河藩士)、政治家。衆議院議員。旧姓・橋爪、幼名・亀治、旧名・作蔵、種井。 筑後国山門郡柳川城下奥州小路(現柳川市奥州町)で、柳河藩士・橋爪新五郎の二男として生まれ、19歳で同藩士・岡田黙鴎の長女キヨと結婚し岡田家の養子となり、名を作蔵と改めた。藩では、御広間詰、聞次役(江戸藩邸)、普請役、三ノ丸蔵役、物成役、大坂蔵屋敷在勤、京都留守居役兼元締役、小荷駄奉行補助兼公用人元締役などを歴任。明治2年(1869年)藩から公議人に選出され東京の公議所での審議に加わる。
田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年… 田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年7月11日) - 1884年(明治17年)6月8日)は、幕末・明治の相場師・実業家。開港直後の横浜を舞台に生糸・洋銀などの相場で大きな財を成して「天下の糸平」と称した。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。 信濃国伊那郡赤須村(三州街道赤須上穂宿、現在の長野県駒ヶ根市)で藤島卯兵衛と妻・さとの間に生まれる。生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落。三男であった釜吉は1845年(弘化2年)に飯田城下の魚類雑貨商・万屋に丁稚奉公に出された。1848年(嘉永元年)には魚屋として独立しようと三両を手に名古屋へ出たが失敗、郷里に戻る。父・卯兵衛に金を工面してもらい大阪へ出ると、米相場に手を付けたがこれも失敗し再び郷里へと帰った。
立木 兼善(たちき かねよし、天保5年8月〈1834年〉 -… 立木 兼善(たちき かねよし、天保5年8月〈1834年〉 - 明治42年〈1909年〉12月24日)は、日本の政治家。旧姓杉浦、林。正四位。 淡路国津名郡谷村(現・兵庫県淡路市仮屋谷)の村医者の子・杉浦七郎として生まれる(のち林立玄 林徹之丞 立木徹之丞と改名)。徳島藩士族。洲本にあった徳島(蜂須賀)藩筆頭家老稲田家の学問所益習館で学び、天誅組の変などに関わるなど勤王の志士として頭角を現す。 明治2年(1869年)明治政府に出仕し、若松県知事、若松県権知事、福島県権知事となる。明治3年(1870年)岩倉具視の内命により庚午事変調停のため、岩鼻県権知事小室彰と共に徳島に滞在するが、不調に終わり帰京する。
石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年… 石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年7月14日)‐ 1892年(明治25年)1月6日) は、幕末の今治藩士・漢学者、明治期の公吏・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡今治(現愛媛県今治市) で、今治藩士・石原信順の三男として生まれた。藩校・克明館で刻苦精励して同校の助教に就任。嘉永5年(1852年)句読司となり、安政2年5月(1855年)江戸在勤となり学習館の句読司に就任。安政3年7月(1856年8月)帰藩して克明館句読司に復帰。安政4年(1857年)、学識の不足を感じ句読司を辞して京都・摂津に遊学した。安政6年3月(1859年)帰藩して句読司、素読指南、助教を歴任した。 明治元年5月25日(1868年7月14日)甲府警備の参謀に発令され同年12月まで派遣された。
木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26… 木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。雅号は松菊、木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴(干令)。明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩、会津藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、周布政之助・久坂玄瑞・高杉晋作らと結び、藩の尊王攘夷派における指導者的立場となった。
千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月… 千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月〉 - 1903年〈明治36年〉4月13日)は、日本の実業家、東京の金貸し。 信濃国伊那郡中沢村有賀(現・長野県駒ヶ根市)出身。貧家の生まれで、三人兄弟の内の次男である。12、3歳の頃に逃亡した実父を探しに故郷を飛び出す。江戸へ来る途中で路銀に尽き、宿屋のかまどの上に載った二朱銀一つをそっと袂へ入れ、それで芋を買ってかじりながら江戸へたどり着く。 父は両国広小路の自身番をあずかる番太郎を勤めていた。勝五郎は本町の町年寄北村市左衛門の玄関番となった。同家を出て、自立したけれど失敗をかさねて、吉原京町二丁目の姿海花屋の妓夫とまで零落したが、のちに古着の行商を行う。
青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保… 青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保3年8月5日) - 1905年(明治38年)4月10日)は明治時代の浪花節語り。生まれははっきりしないが、一説には武蔵国(現・神奈川県)生まれ。ヒラキから寄席に最初に進出した功労者。後に美弘舎東一(びこうしゃ とういち)と改名。玉川勝太郎から、今の玉川奈々福、玉川太福等に連なる玉川一派の開祖でもある。 本名は青柳勝三。色が黒いのであだ名が「くろ勝」。幕末から明治頭にかけて、横浜・本牧の盛り場に仮設したヒラキで評判を取るほど大入りを続けていた祭文語りの勝之助。その頃の得意演目は「野狐三次」「鬼神於松」「俊徳丸」などで、品格の良さから常に上流の客が集まった。
丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年… 丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年8月1日〉- 1896年〈明治29年〉5月1日)は、日本の実業家、政治家。族籍は静岡県平民。 浜松県民会議員、浜松県民会幹事、静岡県会議員、静岡県会副議長(第2代)、静岡県会議長(第2代)、衆議院議員などを歴任した。 遠江国出身の実業家、政治家である。大井川の渡船解禁により窮乏した川越人足らを救うため、牧ノ原台地への入植を推進した。その結果、牧ノ原台地を茶の一大産地となるまでに育て上げた。製茶業を営んだ。また、政界にも進出し、静岡県会議員や衆議院議員などを歴任した。 1832年8月26日(旧暦天保3年8月1日)、遠江国の城東郡池新田村にて生まれた。