伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10… 伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10月4日 - 1946年〈昭和21年〉1月10日)は、日本の詩人。本名、暉造(てるぞう)。もともと筆名を「すずしろのや」と称し、後に清白と改めた。 医業のかたわら詩を書き、詩集『孔雀船』を出版し河井醉茗、横瀬夜雨と並ぶ文庫派の代表的詩人。 鳥取県八上郡曳田村大字曳田(八頭郡を経て、現在は鳥取市河原町曳田)に、伊良子政治とツネの長男として出生。父政治は医師で、郡家町大門の医師だった岡田道叔の次男だが、1875年(明治8年)7月に曳田村にいた伊良子春郊の長女つねと結婚し、伊良子の姓を名乗った。母つねは、清白が生まれて満1歳にもならない、1878年(明治11年)9月5日に死去した。
福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3… 福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3日 - 1931年(昭和6年)6月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事。 佐賀市出身。兄は佐賀商業会議所会頭となった福田慶太郎。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学卒業。司法官試補から福岡地方裁判所判事、小倉区裁判所判事、熊本区裁判所検事、熊本地方裁判所検事、福岡地方裁判所検事、仙台区裁判所検事、神戸区裁判所検事兼神戸地方裁判所検事を歴任した。1919年(大正8年)、官を辞し、海運業を営んだ。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で逓信参与官を務めた。
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10… 小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。 広島県広島市出身。福山誠之館中学、修道学校(現:修道中学校・高等学校)、旧制私立海軍予備校を経て海軍兵学校第26期入校。入校時成績順位62名中第4位、卒業時成績順位59名中第3位。海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任した。 一部の書籍で同郷の加藤友三郎元帥・内閣総理大臣の甥と記載されているが、加藤の兄弟姉妹に小林の縁故者はおらず、加藤との姻戚関係はないことが強く推定される。弟は早川幹夫中将、義弟(妹の夫)は新見政一中将。
沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 19… 沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 1927年7月19日)は、明治・大正期の国文学者・俳人・右翼。本名は武夫(たけお)。名古屋市出身。
鈴木 辰三郎(すずき たつさぶろう、1877年(明治10年)… 鈴木 辰三郎(すずき たつさぶろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1952年(昭和27年)1月6日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。福島県平市長。 のちの福島県磐前郡夏井村(石城郡夏井村、平市を経て現いわき市)に生まれる。夏井村会議員、石城郡会議員、同参事会員を経て福島県会議員に当選。ついで同参事会員となったほか、磐城実業銀行、磐城建物各専務取締役、磐城国産工業、磐城片倉製糸各取締役、磐城海岸軌道、磐城林業各重役を歴任した。 1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙では福島県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。つづく第19回衆議院議員総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)1… 鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1933年(昭和8年)2月28日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、醸造家。鳴海醸造店第4代当主。衆議院議員(2期)。幼名は明治郎。 青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)出身。同郡浅瀬石村(現黒石市)の鳴海久兵衛家の分家で屋号は久〇(きゅうまる)といい、中町で1808年(文化5年)から代々酒造業を営んだ。江戸時代は稲村屋を名乗っていた。別家・鳴海理兵衛の長男として生まれ、のち3代鳴海文四郎の養嗣子となった。 黒石町会議員などを経て、1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
石 鎮衡(ソク・ジンヒョン、1877年10月-1946年)は… 石 鎮衡(ソク・ジンヒョン、1877年10月-1946年)は、大韓帝国・日本統治時代の朝鮮の法学者、政治家、官僚。全羅南道・忠清南道知事。正四位勲三等。本貫は忠州石氏。 朝鮮王国京畿道に生まれる。日本に留学し、1902年に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。卒業後、朝鮮に帰国し、法官養成所・京城専修学校などで法律学の教官に就任する。 1906年、梅謙次郎の韓国政府法律顧問への就任にともない、その通訳及び不動産法調査会の調査委員に就任する。 韓国併合後は全羅南道参与官などを経て、1924年に忠清南道知事(-1926年)、1926年に全羅南道知事(-1929年)に就任し、1929年に退官する。 その後、東洋拓殖監事、北鮮酒造社長などを歴任した。
浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年… 浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年)は、日本の撮影技師。日本人で初めて活動写真(映画)を撮影した人物である。 小西写真店は1897年(明治30年)10月に、イギリスのバクスター・アンド・レイ社より撮影機を輸入した。本機械は輸入販売する為に仕入れたものだったが、使用方法を知らなかったため、うっかり発表することも出来なかった。そこで小西に命じられて機械の試験撮影を頼まれたのが、小西の店員で当時20歳の浅野だった。試行錯誤の末、撮影・現像に成功し、12月31日に日本橋の光景を写した『日本橋の鉄道馬車』を完成させ、日本人が撮った最初の映画となった。 その後、浅草観音境内で老婆が鳩に豆を撒く姿を写した『浅草観音』、『上野の汽車』『品川の海岸』など風景を写したものを撮り、1898年(明治31年)には劇的シチュエーションを持つ『化け地蔵』『死人の蘇生』といった小編を撮影している。
大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月… 大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月 - 1954年(昭和29年)10月)は、日本の実業家、政治家。 初代大泊町町長、樺太銀行専務取締役。 石川県江沼郡瀬越村(現在の加賀市大聖寺瀬越町)出身。1877年(明治10年)10月本谷惣次郞の四男として生まれる。 1897年(明治30年)大阪高等商業学校を卒業した後北海道に渡り、小樽の板谷商船に入社する。数年後適齢と共に陸軍に入隊し、満期後も再役して陸軍二等主計となる。 1906年(明治39年)に樺太へ渡島して商界に従事する。米穀雑貨酒造業を営み豊原に支店を構える。1911年(明治44年)に小樽に本店を設ける。 樺太銀行専務取締役に就任。
五味 均平(ごみ きんぺい、1877年10月 - 1924年… 五味 均平(ごみ きんぺい、1877年10月 - 1924年4月14日)は、日本の官僚。 長野県諏訪郡境村小六(現富士見町)に生まれ、第三高等学校から東京帝国大学法科大学を1906年卒業。高等官行政科1908年(明治41年)合格。1907年宮内省入省、御料局配属・帝室会計審査官補から、宗秩寮・図書寮・諸陵寮・帝室林野局事務官兼宮内事務官・法制局参事官を歴任。従四位勲四等。 東京市本郷区(現東京都文京区)駒込曙町の自邸で病気療養中の1924年4月14日午前0時10分死去。享年48。墓所は護国寺共葬墓地。自著等の蔵書の一部は、没後の1929年に早稲田大学が購入、現在同図書館が保有している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
竹下 儀造(たけした ぎぞう、1877年〈明治10年〉10月… 竹下 儀造(たけした ぎぞう、1877年〈明治10年〉10月 - 1947年〈昭和22年〉12月26日 )は、日本の醸造家、政治家、島根県多額納税者。前名・蔵利(くらとし)。政治家竹下登(元首相)は孫。漫画家影木栄貴、ミュージシャンDAIGOなどは玄孫にあたる。 島根県飯石郡掛合村(現・雲南市掛合町)出身。竹下荘太郎の三男。のちに先代竹下儀造の養子となり1905年、家督を相続した。酒造業、工業を営み、島根県多額納税者に列する。掛合村農会会長、村会議員を務めた。1947年12月26日、死去。法名は法蔵院釋普照居士。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は島根県飯石郡掛合村(現・雲南市掛合町)。
中川 良長(なかがわ たかなが、1876年〈明治9年〉10月… 中川 良長(なかがわ たかなが、1876年〈明治9年〉10月27日 - 1948年〈昭和23年〉8月20日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。 華族・中川興長の長男として生まれる。父の死去に伴い、1920年(大正9年)6月10日、男爵を叙爵した。 1905年(明治38年)学習院大学科を卒業。同年、日本銀行に入行。その後、東京電燈監査役などを務めた。 1921年(大正10年)2月12日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、1925年(大正14年)7月10日まで在任。さらに1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1946年(昭和21年)4月13日に辞職するまで通算二期在任した。
四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1… 四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1937年12月12日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。
渋沢 元治(澁澤 元治、しぶさわ もとじ、1876年(明治9… 渋沢 元治(澁澤 元治、しぶさわ もとじ、1876年(明治9年)10月25日 - 1975年(昭和50年)2月22日)は、日本の電気工学者。工学博士。東京大学教授、同大学名誉教授。名古屋帝国大学初代総長(1939年 - 1946年)。子爵・渋沢栄一の甥で孫婿にあたる。義父は男爵・穂積陳重。義兄に穂積重遠。 埼玉県榛沢郡血洗島村(のち大里郡八基村血洗島、現深谷市血洗島)の農家(旧名主の家系)に生まれた。渋沢市郎の長男で、母貞子の実兄が渋沢栄一である。高等小学校卒業後、進学を親に反対されるも進学を決意する。ただ、尋常中学は当時の埼玉にはなかったために上京、栄一の娘婿である大蔵省の阪谷芳郎邸で書生をしながら、一旦成立学舎に入学、12月に東京府尋常中学合格が決まり、同校2年次に編入学した。
水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は… 水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は、日本の裁判官。
高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19… 高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19日 - 1931年(昭和6年)9月7日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡上口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市上口)の農家に生まれる。1894年、慶應義塾大学を卒業して家業を継いだ。 彦成村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、同副議長、彦成村長などを務めた。 1915年、北葛飾郡の非政友派を取り纏めて北葛飾倶楽部を組織。同年3月、第12回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲同志会所属で出馬して当選。第13回総選挙では 憲政会所属で出馬して当選したが、1917年10月24日に議員を辞職し、衆議院議員を二期務めた。
田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(ator… 田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(atoru) Tetsu Tamura; 出生名: たむら さとる、「哲」の元の読み; 1876年〔明治9年〕10月18日 – 1909年〔明治42年〕8月19日) は、日米で活躍した明治時代日本の気象学者・海洋学者。2021年ノーベル物理学賞受賞者の眞鍋淑郎が在籍した米国気象庁に日本人として初めて専門官として勤務したのは後述のとおり田村であり、高等数学応用の気象学者であることも共通する。また斯学の教育者にして米国の高等教育事情を調査・紹介した教育学者。 1876年(明治9年)10月18日、山形県置賜郡米澤北寺町(現、米沢市中央3丁目)に没落した米沢藩士田村芳政の三男として出生。
阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日… 阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日 – 没年不明)は、日本の裁判官。
保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12… 保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、島根県簸川郡出西村長。 島根県出雲郡阿宮村(簸川郡出西村、斐川村、斐川町を経て現出雲市斐川町阿宮)で、保科昌三郎の長男として生れ、1904年(明治37年)家督を相続。1892年に和仏法律学校(法政大学)を卒業する。1893年(明治26年)4月に上京し、1897年(明治30年)東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。農業を営む。 出西村会議員、学務委員、所得税調査委員に在任。1906年(明治39年)島根県会議員に選出され、同参事会員、出西村農会長、島根県農会幹事、簸川郡会議員なども務めた。
小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 … 小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 – 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員、東京市助役。 高知県幡多郡、のちの宿毛村与市明(宿毛町を経て現宿毛市)出身。小野義為、キミの長男として生まれる。高知一中、東京府立四中を経て、1898年(明治31年)7月、第一高等学校政治科を首席で卒業。1903年(明治36年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を首席の優等で卒業し、銀時計を授与された。東大の同期には小川郷太郎や上杉慎吉、馬場鍈一ら。同年同月、大蔵属に任官し主計局兼参事官付となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に次席合格。この時の首席合格者は馬場鍈一だった。
櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日… 櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日 – 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の裁判官。宮城控訴院長、広島控訴院長。
千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? -… 千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? - 1958年5月7日)は、サハリン出身の日本の臨済宗の僧侶、20世紀初期にアメリカに禅を広めた。義弟に彫刻家の工藤敬三(旧名:千崎敬蔵)がいる。
赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日… 赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日 - 1943年(昭和18年)8月26日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県北宇和郡高光村長、宇和島市長。 愛媛県宇和郡宇和島御殿町(現在の宇和島市)で士族・告森桑圃の四男として生まれ、北宇和郡高光村の旧庄屋・赤松新古の養嗣子となる。1900年(明治33年)東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業する。 1910年(明治43年)5月より郷里の高光村長を5期務めたのち、1930年(昭和5年)5月に清家吉次郎の補欠で県会議員となり、任期満了まで務めた。1936年(昭和11年)7月、宇和島市長に就任するが、任期途中の1938年(昭和13年)3月、病気を理由に辞任した。
新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日… 新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 19… 富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 1947年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京専門学校で学ぶ。酒造業を営む。伊香郡議、同議長、滋賀県議、所得税調査委員、木之本町(現・長浜市)長、伊香相救社理事社長、木之本製糸、滋賀県農工銀行、滋賀県合同貯蓄銀行、江州日日新聞社各(株)取締役、江北銀行取締役頭取、滋賀県酒造組合連合会会長、全国酒造組合連合会評議員、近江信託(株)監査役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月… 佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月4日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 水沢県栗原郡有馬村有壁(宮城県栗原郡萩野村、金成町を経て現栗原市金成有壁)で、旧有壁宿本陣の佐藤家に生まれた。札幌農学校を卒業し、さらに慶應義塾、養正塾、セントアンドリーチャーチ英語学校で学んだ。農業を営む。 1896年(明治29年)徴兵され陸軍騎兵少尉となり除隊。1903年(明治36年)9月、宮城県会議員に選出された。1904年(明治37年)6月に応召して県議を辞職し、満州軍に属して日露戦争に出征した。陸軍騎兵中尉に昇進して除隊。
秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 … 秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 - 1937年(昭和12年)7月1日)は、日本の教育者。 福岡県出身。中村芳平の四男に生まれ、秋吉格平の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。真宗京都中学校教諭、島根県立第三中学校教諭、福岡県立中学明善校教諭、福岡県立朝倉中学校校長、大阪府立市岡中学校校長、台湾総督府高等女学校校長、鹿児島県立第一中学校校長を歴任し、1921年(大正10年)から福岡高等学校校長を務めた。現職のまま死去。1937年(昭和12年)7月1日、死去。死去に際し、天皇より祭資を下賜された。同年7月7日の葬送には勅使として福岡県知事が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた。
高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10… 高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10月31日 - 1943年(昭和18年)2月7日)は日本の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 島根県神門郡稗原村(簸川郡稗原村を経て現出雲市)で大地主・高橋守衛の長男として生まれる。松江修道館を修了した。1906年(明治39年)3月に家督を相続した。 1904年(明治37年)稗原三等郵便局を開設して同局長に就任。稗原村会議員、同村区会議員、同村農会長、同村学務委員、島根県地方森林会議員、簸川郡教育会長などを務めた。 実業界では、1906年、簸川銀行取締役に就任。その他、簸上鉄道取締役、出雲電気取締役社長、島根県農工銀行頭取などを務めた。
北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日… 北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日 - 1940年(昭和15年)8月31日)は、日本の衛生学者。医学博士。 石川県石川郡旭村(現在の白山市)出身。1897年(明治30年)、第四高等学校医学部を卒業し、一年志願兵として入隊。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学衛生学選科に入学した。1900年(明治33年)、陸軍三等軍医となり、翌年に東京帝国大学医科大学助手となった。1902年(明治35年)、ドイツに留学し、ライプツィヒ大学で衛生学・細菌学を学んだ。1904年(明治37年)に帰国後、日露戦争に召集され、陸軍二等軍医に昇進した。1906年(明治39年)、大阪市技師となり衛生試験所長に就任した。
肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 195… 肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 1955年6月5日)は、日本の逓信官僚、実業家。逓信省初代電気課長、初代電気局監理課長、第3代電気局長を歴任して電気行政に貢献し、退官後は住友合資(住友本社)理事や住友の関連会社の各役員を務めた。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町生まれ。鹿児島県士族肥後宗右衛門の二男。1895年7月、鹿児島高等中学造士館予科を卒業。1897年7月、第五高等学校大学予科第一部を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務省入省。同年の文官高等試験に合格。1902年3月、静岡県参事官に任じられる。1903年2月、分家。1903年11月、逓信省参事官兼逓信書記官に転じる。
津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 194… 津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。
上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月… 上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月23日 - 大正9年(1920年)7月25日)は、日本の明治から大正にかけて活動した日本画家。同時代の北野恒富や菅楯彦、岡本大更らと共に、近代の大阪を代表する画家の一人である。 岡山県小田郡笠岡村字八軒屋(現在の笠岡市笠岡)に、辻嘉平の次男として生まれる。本名は寿治郎で、鳳山は画号で、画房を鳳鳴画室と称した。父嘉平は、初め刀鍛冶、後に理化学機械製造を仕事としていた。祖父・辻鳳山は円山派の絵師で、小寺清先編『備中名勝考』の挿絵を描いており、鳳山の号もこの祖父に由来していると考えられる。幼少から画家を志し、はじめ大阪出身で円山応立の弟子・木村貫山に学び、ついで西山完瑛・渡辺祥益に師事する。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1… 富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1930年4月30日)は駒込基督会牧師。 八木重吉に洗礼を授けたことでも知られる。 主著『基督の新精神』。黎明会の会員でもあった。 1875年(明治8年)大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)に生まれる。佐伯小学校を経て、藩校の鶴谷学館で学ぶ。1891年に佐伯教会で洗礼を受ける。鶴谷学館に在学中に、教師として薫陶を受けた国木田独歩の影響を受けて、1894年(明治27年)国木田と共に上京する。 植村正久のもとで神学、聖書を学ぶ、1901年(明治34年)に按手礼を受けて、日本基督教会の牧師になる。1903年(明治36年)に金沢石浦教会(現・日本基督教団金沢教会)の牧師に就任する。
三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月1… 三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月16日 - 1952年〈昭和27年〉4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北巨摩郡清春村で三井泉林の長男として生まれる。漢学を修める。1893年(明治26年)、帯広に移り銅鉄金物店を開業。その後、野付牛町の開拓に関わり、農業、鉱山業も手掛ける。北海林産取締役、北海農産工業取締役、北海道造営取締役、北海道拓殖監査役などを務めた。 政界では、帯広町会議員、相続税審査員、所得調査委員を歴任。また、河西支庁選出の北海道会議員を1904年(明治37年)から1916年(大正5年)まで連続4期務めた。その間1910年(明治43年)11月から1913年(大正2年)11月まで第7代同副議長を務めた。
大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)1… 大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)10月11日 – 1955年(昭和30年)2月28日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。内科医。 福岡県穂波郡飯塚町(現在の飯塚市)に福間嘉七郎の四男として生まれ、大里文龍の養子となった。1898年(明治21年)に第五高等学校医学部を卒業し、東京帝国大学医科大学に学んだ。福岡県立病院医員、嘉穂郡郡医となり、大阪病院を開業した。さらに飯塚保健組合病院長を務め、嘉穂郡医師会長、福岡県医師会長、九州連合医師会長を歴任した。また教育者としても飯塚高等女学校長、嘉穂看護婦学校長、九州医学専門学校理事・評議員となった。その他、九州自動車株式会社取締役を務めた。
千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10… 千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10月10日 - 1941年(昭和16年)5月12日)は、日本の政治家・教育者。位階は従四位。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 愛知県愛知郡熱田(現名古屋市熱田区)で熱田神宮大宮司・千秋季福の二男として生まれる。兄・季美の死去に伴い、1877年(明治10年)5月30日に家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。國學院講師、早稲田大学講師を経て、学習院教授となる。 その他、東京帝国大学附属図書館図書目録編纂嘱託、宗教制度調査会委員、神社制度調査会委員、神祇院参与、皇典講究所理事などを務めた。
根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10… 根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10日 - 1941年〈昭和16年〉6月5日)は、大正から昭和時代前期の政治家、教育者。宮崎県宮崎市長。 宮崎県宮崎郡清武村(現在の宮崎市)出身。伊東享の三男として生まれ、根井見益の養子となった。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍少尉、陸軍中尉に任じ、日露戦争に出征した。高知県立第四中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に勤務し、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)教諭、宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)校長兼教諭を経て、愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)校長となる。
近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9… 近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 福島県安達郡二本松町(現二本松市)に旧二本松藩典医近藤玄貞の二男として生まれる。京華中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。在学中の1906年(明治39年)に大日本輸出羽二重株式会社を設立して常務取締役に就任し、また渋川起業株式会社取締役にも就いていた。しかし卒業した後は職を辞して、1910年(明治43年)に弁護士を開業し、また大学院で会社法を研究した。 日本橋区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10… 荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)、政治家、実業家、荒木合名会社社員。合資会社荒木呉服店代表。境貿易監査役。境電気取締役。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木重造の実兄である。境製糸社員だったが1902年にその出資額全部を社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社する。国産古着、白木綿、呉服、反物、綛糸卸商を営む。 荒木呉服店は土地に於ける第一流の商店であったが、家族に不幸が続き、営業に全力を注ぐことができなかったので、1914年10月にやむなく整理を発表した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8… 島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10… 竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10月7日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は幸太郎。 茨城県久慈郡、のちの太田町(現常陸太田市)出身。先代権兵衛の長男として生まれ、1913年(大正2年)家督を相続と共に幼名を改める。 1914年(大正3年)以降、茨城県農工銀行監査役、日本製鋼取締役、日本赤十字社茨城支部商会議員などを歴任した。ほか、水浜電車社長、茨城土木工業、鹿島軌道、日立電気各取締役を務めた。 1918年(大正7年)9月29日には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1921年(大正10年)5月17日に除名されるまで務めた。
松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日… 松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日 - 1936年〈昭和11年〉2月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選9回)。族籍は大分県平民。拓務大臣、文部大臣、衆議院副議長を務めた。 大分県宇佐郡柳ヶ浦村出身。松田録兵衛の二男。家は貧しく学資はなく、郷里で小学代用教員や電信技手をつとめた。1894年(明治27年)、上京した。苦学しながら、東京法学院(現:中央大学)や日本法律学校(現:日本大学)で学んだ。 法学博士、岡村輝彦の玄関番として住み込みをしながら1896年(明治29年)に、日本法律学校を卒業した。1897年(明治30年)、文官高等試験並びに判検事登用試験に合格。
多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 … 多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 - 1937年(昭和12年)12月7日)は、日本の学僧、宗教家。愛知県出身。大谷派伝道講究院初代院長を務めた。院号及び法名は、「信斯院釋慶悟」。 愛知県宝飯郡五井村(現在の蒲郡市)の常円寺で生まれる。 1896年(明治29年)に真宗大学へ進学、白川党(清沢満之らによる宗派変革活動)に加わったため、退校処分となる。(次年には復校が許可される) 1900年(明治33年)、清沢満之の仮宅浩々洞において暁烏敏、佐々木月樵などと「精神主義」に身を投じる。 また、浩々洞の機関誌『精神界』の刊行を1901年(明治34年)に始める。 1902年(明治35年)真宗大学の嘱託教授に就任する。
竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月… 竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月3日 - 昭和21年(1946年)11月18日)は、日本の弁護士、教育者、政治活動家。法政大学総長、第二東京弁護士会会長、国本社専務理事。学位は法学博士。 岡山県窪屋郡白楽市村(現在の倉敷市)に生まれる。苦学して、明治26年(1893年)に陸軍教導団に合格。明治30年(1897年)に二等軍曹となり、歩兵第21連隊(広島)に配属。翌年陸軍士官学校に入学する(11期) 。しかし上官と喧嘩をし、陸軍を退職。その後、麻布中学の体操教師をしながら和仏法律学校夜間部に通う。 明治37年(1904年)日露戦争に出征、砲兵少尉として能美島砲台に配属され、翌年大連に上陸するも病により内地送還、召集解除となる。
中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月… 中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月 - 没年不明)は日本の農民、政治家。元鳥取県八頭郡佐治村会議員、八頭郡会議員。農業。 医師中谷隼男の父。孫恭子は精神医学者下田光造の養女。 鳥取県八頭郡佐治村高山・中谷貞次郎の二男。 因幡高等小学校に学び明治33年(1900年)中佐治村会議員に挙げられ三佐治合併以来今日迄引続き村会議員及学務委員に就任。 明治43年(1910年)八頭郡会議員となり八頭郡宅地地価修正委員等となり一期間就職し退職した。
上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 … 上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 - 1916年(大正5年)7月9日)は、日本の英文学者・詩人・翻訳家。学位は、文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。 外国文学、とくに西欧の象徴詩の紹介と翻訳を精力的に行った。名訳詩集『海潮音』(1905年)は、日本の詩壇を覚醒させ、「パンの会」結成などに影響を与えた。作品に訳詩集『牧羊神』(1920年)など。 1905年(明治38年)に本郷書院で刊行された訳詩集『海潮音』で知られ、日本にベルギー文学や南仏プロヴァンス文学、象徴派や高踏派の詩を紹介した。 『海潮音』に収められたドイツの詩人カール・ブッセの詩『山のあなた』より「山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。
原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10… 原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10月21日 - 1948年(昭和23年)1月5日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家。衆議院議員。 原田佐治郎の長男として、青森県西津軽郡森田村(現・つがる市森田町)に生まれる。農業を営む傍ら青森県農工銀行取締役を歴任する。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で青森県第4区から立憲政友会所属で出馬して当選し、2期務めた。 在任中は五能線の五所川原以西の延伸に尽力し、1924年(大正13年)には陸奥森田駅まで列車が走るようになり、翌年には鰺ケ沢まで、1934年(昭和9年)には深浦まで開通した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)までは西津軽郡土淵堰、悪水路の両水利組合議員を務め、農業水利の改善に尽くした。
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - … 安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - 1931年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 滋賀県出身。明治法律学校で学ぶ。滋賀県議、同議長となる。また、近江重布(株)、高島銀行各取締役を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀2区から立憲政友会公認で立候補して当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では87票差で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では滋賀県全県区から立候補して返り咲いた。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1931年死去。