黒沢 三一(くろさわ さんいち又はくろさわ さんいつ、189… 黒沢 三一(くろさわ さんいち又はくろさわ さんいつ、1894年11月23日 - 1967年1月31日)は、秋田の民謡歌手。 秋田県仙北郡太田町東今泉(現在の大仙市太田町東今泉)に大信田七重郎の三男として生まれる。1915年の春に黒沢重四郎(後に町議となる黒沢良太郎)の家に奉公し、翌年に黒沢コナミと結婚した。本業は大工であった。 1922年に日三市鉱山の祭典に飛び入り参加し1等賞になり有名になった。1927年に飾山囃舞踊団に加わった。1930年に東京の第5回全国郷土舞踊民謡大会に出場した。1931年に大阪で初のレコーディングを行った。1932年に仙北歌踊団に入った。1938年に上京しレコーディングを行い、全国的に好評を得た。
田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1… 田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1978年10月22日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 一般的な柔道選手が選手としての適齢期を終える31歳で柔道を学び始め、戦前の全日本選士権大会で優勝1度、準優勝1度の成績を残した。指導者としては国鉄や講道館、星薬科大学等で柔道教員を務め、後進の育成に当たった。 佐賀県出身。旧制小城中学校(後の県立小城高校)を中退して上京、31歳の時に初めて柔道衣に袖を通し5歳年長の高橋重蔵5段に師事した。1927年2月に講道館の初段位を許されると、翌28年1月に2段、同年9月には3段へ抜群昇段を果たした。柔道家として生きる事を決意した田中は1930年に警視庁水上警察署の柔道助教となり、以後も1931年4月4段、1932年11月には再び抜群で5段と順調に昇段を重ねた。
関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11… 関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11月21日 - 1958年7月25日)は、日本のドイツ語学者(ゲルマニスト)。通称:ゾンダン(ドイツ語のsondernにかけてある)。 ドイツ語以外にも様々な言語に通じており、「不世出の語学の天才」と呼ばれた。また、村田実らの新劇運動に参加、主役級の俳優として大正期の無声映画に出演していた。 兵庫県姫路市生まれ。父・関口存啓は陸軍主計大尉。大阪陸軍地方幼年学校を経て1913年に陸軍中央幼年学校本科を卒業し、士官候補生として千葉県佐倉市の歩兵第57連隊に勤務。1915年、東京の陸軍士官学校を卒業(第27期)。同年12月、陸軍歩兵少尉となるも肋膜炎を患い休務を続ける。
小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 19… 小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 1974年6月25日)は日本の小説家。 1894年に小林清親の五女として東京府東京市京橋区に生まれる。名は哥津子。母は田島芳子。仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に入学し、同校在学中の1911年に平塚らいてうの雑誌『青鞜』の同人となり、伊藤野枝、尾竹紅吉らと同誌の編集に携わった。同雑誌に戯曲『お夏のなげき』や小説『麻酔剤』などを執筆した。1914年に青鞜社を退職し、外国文学の翻訳や東京回想、父の清親の研究資料などについての著作を行った。著書に『瑞典のお伽噺不思議な旅』、『清親考』がある。1974年6月25日、79歳で死去。
大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月… 大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月20日 - 1944年(昭和19年)4月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、「陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした」と指摘している。 1914年(大正3年)、新潟県立長岡中学校(第19回卒業)を経て、1917年(大正6年)、陸軍士官学校(第29期)を卒業した。1927年(昭和2年)、陸軍大学校を卒業(第39期)する。 1936年(昭和11年)二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に駐蒙兵団参謀に転任となる。
成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11… 成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11月18日 – 1938年(昭和13年)10月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大佐。位階勲等功級は正五位勲三等功四級。 佐賀県神埼市において士族成富庄吉(佐賀藩士石井探玄の次男、成富延精の養子)の次男として生まれる。生家は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の重臣で、後に佐賀藩主鍋島氏の家老として活躍した成富茂安の養子安利の子孫にあたる。 陸軍士官学校28期を卒業し、1916年(大正5年)陸軍少尉に任官。陸軍大尉の時、陸軍大学校41期に学び、1929年(昭和4年)席次8位の成績で卒業した。 その後、台湾軍基隆要塞参謀、台湾軍司令部付、歩兵第19連隊付、独立歩兵第1連隊大隊長、陸軍歩兵学校教導連隊大隊長、留守第16師団参謀、同参謀長等を歴任し、満洲事変では、中国熱河省及び呼倫貝爾を転戦し、軍功あり。
阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11… 阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11月16日 - 1971年(昭和46年)2月15日)は、大正-昭和期の日本の洋画家。本名は会田 治修 。 東京府生まれ。私立郁文館卒。 自身のアトリエで洋画を描き始め、1914年(大正3年)太平洋洋画会研究所に入り、満谷国四郎に師事。1919年(大正8年)二科会に初入選を果たし、1922年(大正11年)からヨーロッパへ留学。フランスでロジェ・ビシエールに学んだほかイタリアやスペインにも渡った。 帰国後、1925年(大正14年)の第6回帝展に「読書するイボンヌ」を出品し、入選。さらに、1926年より第7回から9回までの帝展にて「髪」、「画房小閑」、「部屋つづき」が3年連続で特選に選ばれた。
長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1… 長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1973年2月9日)は、日本語教育者。 1894年11月16日、群馬県伊勢崎市近郊に長沼宗雄の三男として誕生。1915年6月、21歳の時に東京高等商業学校(一橋大学の前身)入学。隣人のアメリカ人の依頼で日本語教師の代行をしたことをきっかけに、「日本語教育」の道を歩んだ。ハロルド・E・パーマーとの出会いを機に、「英語教授研究所」に関わってパーマーを援け、その後、米国大使館で主任教官として米国陸海軍から送られたアメリカ人将校への日本語教育を担当した。日米開戦が近づき米国大使館の日本語教室は閉鎖され、文部省内に日本語教育振興会が設立されると、その理事としてアジア地域(大東亜)への日本語普及事業にも携わり、戦後は、財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校を創立、生涯を日本語教育に尽力した。
山田 輝郎(やまだ きろう、1894年(明治27年)11月1… 山田 輝郎(やまだ きろう、1894年(明治27年)11月16日 - 1982年(昭和57年)4月17日)は、日本の実業家。ロート製薬会長。山田スイミングクラブ設立者。大阪府多額納税者。ロート製薬の前身である信天堂山田安民薬房を創業した山田安民の長男。 奈良県宇陀郡伊那佐村(後の榛原町、現・宇陀市)出身。山田安民の長男である。1899年、父・安民が大阪で信天堂山田安民薬房創業。 1920年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。山田安民薬房に入る。1936年、父の退隠に伴い家督を相続する。1939年、上海に山田製薬會社を、1940年、奉天に満州山田製薬會社を各設立し共に其の社長に就任する。1943年、父・安民死去。
吉田 賢一(よしだ けんいち、1894年(明治27年)11月… 吉田 賢一(よしだ けんいち、1894年(明治27年)11月15日 - 1982年(昭和57年)6月11日)は、日本の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員。 兵庫県明石郡明石町(現明石市)で、理髪業・吉田種次郎、たみ夫妻の長男として生まれる。1920年4月、日本大学専門部法律科を卒業。弁護士試験に合格し、大阪市に弁護士事務所を開業。 1921年、兵庫県明石郡神出村の小作争議に係わり農民運動に参加。1922年4月、日本農民組合が結成され法律顧問の一人となる。以後、農民労働党参加、労働農民党中央委員、日本労農党中央委員、全日本農民組合中央委員、全国農民組合中央委員、日本大衆党参画、全国大衆党参画などの活動を行い、1931年7月から1932年6月までヨーロッパの政治経済、農業を視察した。
近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日… 近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日 - 1977年8月15日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 長野県埴科郡屋代町(現:千曲市屋代)において、農業・旅館業、近藤万五郎・たか夫妻の長男として生まれる。4歳で母と死別。県立長野中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格。1920年(大正9年)8月、内務省に入り鳥取県属となり内務部に配属。以後、鳥取県警視・警察部勤務、奈良県警察部保安課長、青森県警察部保安課長、北海道庁土木部土地改良課長を歴任。北海道庁在任中の1927年(昭和2年)6月、文官分限令第11条第1項第4号により休職を命ぜられ帰郷した(逸話を参照)。
中山 輔親(なかやま すけちか、1894年〈明治27年〉11… 中山 輔親(なかやま すけちか、1894年〈明治27年〉11月13日 - 1980年〈昭和55年〉4月23日)は、日本の政治家、華族。貴族院侯爵議員。中山忠能の曾孫で、大正天皇のはとこに当たる。勲二等瑞宝章。 東京府出身。侯爵・中山孝麿の五男として生まれる。父・孝麿の死去に伴い、1919年(大正8年)12月20日、家督を相続し侯爵を襲爵。同年12月22日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 東京帝国大学経済学部を修了。1942年(昭和17年)以降、商工省参与、内閣委員、軍需省委員、取引所資産評価委員会委員などを務めた。 忠親 - 兼宗 - 忠定 - 基雅 - 家親 - 定宗 - 親雅 - 満親 - 定親 - 親通 - 宣親 - 康親 - 孝親 - 親綱 - 慶親 - 元親 - 英親 - 篤親 - 兼親 - 栄親 - 愛親 - 忠尹 - 忠頼 - 忠能 - 忠愛 - 孝麿 - 輔親 - 忠敬 -
吉川 元光(きっかわ もとみつ、明治27年(1894年)11… 吉川 元光(きっかわ もとみつ、明治27年(1894年)11月12日 - 昭和28年(1953年)2月19日)は、明治時代から昭和にかけての華族。爵位は子爵。毛利家の一門・旧岩国藩主吉川家当主。旧名・吉川光。父は吉川重吉、妻は吉川経健の娘、芳子。弟に宮内庁官僚で宮中儀礼の専門家の吉川重国。子に吉川重喜、吉川光喜。孫に吉川重幹・吉川重廣。 岩国藩主吉川家の一族、吉川重吉の子として生まれた。明治42年(1909年)、男子のなかった伯父で吉川子爵家当主の吉川経健の養子となった。大正6年(1917年)に経健の娘芳子と結婚する。大正9年(1920年)に京都帝国大学を卒業した。 小野田セメント、義済堂、岩国電気軌道の株主であり、また資産家でもあった。
小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - … 小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - 1961年12月16日)は、日本の財政学者。 福岡県糟屋郡須恵村に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館、1917年第五高等学校を経て、1920年7月京都帝国大学法科大学を卒業。同年10月同大学大学院経済研究科に進み、1922年1月から財政学研究のため文部省在外研究員としてドイツ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ合衆国、メキシコに留学。その間、1924年8月和歌山高等商業学校教授(財政学担当)となり、同年10月京都帝国大学大学院を修了。1927年帰国し、1928年2月和歌山高等商業学校を退職。 1928年3月台北帝国大学教授に就任、1931年2月同大学を退職。
佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年(明治27年)11月… 佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年(明治27年)11月11日 - 1966年(昭和41年)12月1日)は日本の小説家、編集者。文芸春秋新社元社長。
飯塚 友一郎(いいづか ともいちろう、1894年(明治27年… 飯塚 友一郎(いいづか ともいちろう、1894年(明治27年)11月11日 - 1983年(昭和58年)4月21日)は、日本の演劇研究家、弁護士である。妻は日本舞踊家の飯塚くに。 東京の生まれ。1919年(大正8年)東京帝国大学(現在の東京大学)法学部卒業後、約10年間弁護士として活動しその傍らとして在学中からの歌舞伎等の演劇研究に携わった。その後は弁護士としての活動を辞め、1932年(昭和7年)には日本大学芸術学部の教授となる。 その後は二松學舎大学にて教鞭を執り、日本演劇学会の設立にも携わった。また松竹歌舞伎審議会の専門委員や国立劇場の評議員、鎌倉アカデミアの初代校長、鎌倉市教育委員等も歴任した。
上條 貢(かみじょう みつぎ、1894年11月10日 - 1… 上條 貢(かみじょう みつぎ、1894年11月10日 - 1977年2月6日)は日本の政治家、弁護士。浅草区議(1期)、東京市議(2期)、東京都議(5期)、第13代都議会議長、第6−8代台東区長を歴任した。 長野県生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、日本大学法律学科卒業。東京市で弁護士を開業。 1934年から浅草区会議員を1期4年務めた。1937年3月16日から1943年6月30日まで東京市会議員を2期務めた。1943年9月13日の第1回東京都議会議員選挙で当時の浅草区選挙区から立候補して、初当選する。都議会では、消防委員会委員長(1948年から1949年)、オリンピック大会招致実行委員会委員長(1953年から1954年)を歴任した。
石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 19… 石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 1977年8月10日)は、日本の仏教考古学者。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1941年)(学位論文「飛鳥時代寺院址の研究」)。元奈良国立博物館長。文化功労者。従三位勲二等旭日重光章。岡崎市名誉市民。 愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町)生まれ。本郷村外十ヶ町村組合立江西高等小学校(現・岡崎市立矢作中学校)から愛知県立第二中学校(愛知県立岡崎高等学校)へ進む。1918年、東京高等師範学校(現・筑波大学)本科国語漢文部卒業。愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)勤務、1923年東京高等師範学校専攻科修身教育部卒業などを経て、1925年1月から鑑査官補として東京帝室博物館に勤務、鑑査官・学芸部長へと昇進した。
岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - … 岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - 1933年2月13日)は、神戸市出身の日本画家。本名は敏郎。 若くして没したため、充分な活躍はできなかった。作品はいずれも濃艶な雰囲気の女性像で、成熟した女性の美しさや舞妓の持つ人工的美しさをモティーフに独自の作風をみせている。菊池契月に師事する。10代半ばで卓越した技術で花鳥画を制作した後、竹久夢二に魅了されて雑誌などに掲載された絵を模写したり、夢二風の少女の絵などを描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年… 上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年)11月10日 - 1958年(昭和33年)10月19日)は、日本の教員、教育評論家である。 高知県幡多郡三崎町(現土佐清水市)出身。高知師範学校(現高知大学教育学部)卒業。 高知県下の小学校教師・校長を経て1925年に上京。生活綴方運動に参加、1929年雑誌『綴方生活』同人となり、1931年には雑誌『観念工場』を創刊・主宰した。大正自由教育運動を果敢に実践し、池袋児童の村小学校を手本として、神奈川県茅ケ崎の雲雀岡(ひばりがおか)児童の村小学校校長を務めた。戦後、「日本教育新聞」編集局長などを務めた。 戦前戦後の教育界に鋭い議論を展開し、特に教師論で多くの理解者・支持者を得た。
横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11… 横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11月9日 - 1964年(昭和39年)9月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(8期)。埼玉県多額納税者。武蔵野銀行相談役。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 埼玉県比企郡大河村腰越(現・小川町)出身。横川宗作の長男。旧制早稲田中学を経て[要出典]1917年、早稲田大学大学部文学科哲学科卒業。ドイツに留学し、ベルリン大学で社会学を専攻した。1924年、家督を相続した。 農業、製材業を営み埼玉県多額納税者となった。大河村信用組合長、小川無尽、横川製材各社長、武州本場絹織物工業、比企繭販売利用各組合長などをつとめた。 1927年3月28日、第15回衆議院議員総選挙の埼玉県第3区補欠選挙で衆議院議員に当選。
加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 199… 加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 1993年4月12日)は、日本の教育史学者。 愛知県宝飯郡豊川町(現豊川市)出身。東京高等師範学校卒。1944年「伊藤仁斎の学問と教育 古義堂即ち堀川塾の教育史的研究」で、文学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を兼ねるが、1947年公職追放。のち関東学院大学教授となる。1978年退職。 東京高師で嘉納治五郎に学ぶ。江戸時代の教育思想が専門だが、二宮尊徳の報徳思想を広めることに努め、これが戦時中の戦争イデオロギーとなったため戦後公職追放を受けた。
武田 宣城(たけだ のぶき、1894年 <明治27年> 11… 武田 宣城(たけだ のぶき、1894年 <明治27年> 11月5日 - 1987年 <昭和62年> 11月17日)は、日本の経営者。 三菱江戸川化学社長を務めた。高知県高知市出身。位階は正五位。 1918年に東京高等工業学校応用化学科を卒業。 三菱製紙での勤務を経て、1931年に江戸川化学工業に転じ、1946年に取締役に就任し、1949年5月に常務を経て、1956年5月には社長に就任。1964年5月から1968年5月までに会長を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年11月17日老衰のために死去。93歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日… 矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。サイパンで戦死、特進により最終階級は海軍中将。 香川県三野郡桑山村(現 三豊市豊中町)出身。矢野英寛の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校(第8回)を経て、1912年(大正元年)9月9日海軍兵学校第43期に成績順位100名中第58位で入校。秋山門造(最終階級中将)は三豊中学、海軍兵学校ともに矢野の一学年先輩であった。 1915年(大正4年)12月16日96名中第12位の成績で卒業。少尉候補生として1等巡洋艦「磐手」乗組、練習艦隊近海航海に出発した。1916年(大正5年)4月3日帰着。
根岸 寛一(ねぎし かんいち、明治27年(1894年)11月… 根岸 寛一(ねぎし かんいち、明治27年(1894年)11月1日 - 昭和37年(1962年)4月28日)は、戦前日本の映画プロデューサー。昭和10年(1935年)から日本映画の黄金時代である日活多摩川撮影所時代をマキノ満男らとつくりあげる。その後、満州映画協会理事を経て敗戦後はニュース映画を製作する日本映画社(日映)の社長として原爆記録映画を製作。日映を辞したのちは東急資本による東横映画、さらに東京映画配給(のちの東映)の「第四系統」(東宝、松竹、大映の後発組の邦画配給系統の意)に参画するが、公職追放により辞任。追放解除の頃には肺結核が悪化、斯界から引退した。 戦前から戦後まで古野伊之助、甘粕正彦、五島慶太という大物の影響力を利用しながら、迫害された映画人を徹底して庇護した根岸に対して、現在まで「左翼」との評価が根強く残っている。
黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日… 黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日 - 1948年5月1日)は日本の電気工学者、早稲田大学教授、工学博士。音響学の功績も大きく、大隈講堂の音響設計を担当したことでも知られる。黒川兼行は長男。
守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月2… 守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月29日 - 昭和52年(1977年))は、日本の外交官。元駐アフガニスタン公使。 元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。 宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市古川)出身。守屋徳郎の三男。旧制古川中学(現宮城県古川高等学校)卒業。旧制二高を経て、大正6年(1917年)東京帝大法科を卒業し逓信省に勤務の後関東庁参事官に転じ次いで外務省事務官となる。 英国在勤大使館二等書記官同一等書記官。中華民国在勤公使館一等書記官福州総領事大使館一等書記官大使館参事官満州国在勤を歴任し昭和13年(1938年)特命全権公使に任じアフガニスタン国駐箚被仰付昭和15年(1940年)退官す。
外山 ハツ(とやま ハツ、1893年〈明治26年〉11月29… 外山 ハツ(とやま ハツ、1893年〈明治26年〉11月29日 - 1983年〈昭和58年〉4月23日)は、日本の教育者。北海道函館市の函館大妻高等学校の前身となる函館大妻技芸学校の設立者。函館の女子教育の先覚者とされる。 函館区蓬来町で誕生した。幼少時より、父の「これからの女は、何か一つ手に職を持っていなければならない」との教えのもとに、遊びよりも働くことを教えられて育った。1910年(明治43年)に函館裁縫女学校に入学、その手先の器用さを発揮した。 海産業の男性と結婚して二児をもうけたが、1917年(大正6年)に離婚した。生活のために同1917年(大正6年)、蓬来町に家塾を開設し、裁縫と手芸を教えた。
梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11… 梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11月29日 - 1952年(昭和27年)3月9日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 京都中京区油小路四条上ルで、染色図案を営む家の4人兄弟のうち長男として生まれる。本名は謹之助。弟も日本画家の梥本武雄。家は祖父の代から日本画家を出すことを志しており、父吉次郎も菊池芳文に入門し芳樹と号した。しかし、途中で諦め息子たちを日本画家になるよう教育した。1899年(明治32年)本能小学校入学、1905年高等小学校に進む。1910年(明治43年)京都市立美術工芸学校に進学。卒業した後、1912年(明治45年)京都市立絵画専門学校に進み、1915年(大正4年)に卒業する。
武藤 健(むとう たけし、1893年11月28日 - 197… 武藤 健(むとう たけし、1893年11月28日 - 1974年12月18日)は日本の大正時代・昭和時代の牧師。日本基督教団第4代議長、日本キリスト教文化協会理事長、キリスト新聞社社長。 青森県八戸市番長のクリスチャンの眼科医武藤一明の三男に生まれる。八戸中学時代より神学者を目指し、八戸中学を首席で卒業し、青山学院で学ぶ。1918年(大正7年)に日本メソヂスト教会の教職になり、メソジスト城西教会の牧師、銀座教会の福音英語学校校長になる。1919年(大正8年)に結婚し、東京帝国大学文学部、アメリカ合衆国ノースウェスタン大学大学院、ベルリン大学で神学の勉強を続ける。 1924年(大正13年)に帰国して青山学院教授に就任する。
高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 … 高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 - 1978年3月19日)は、日本の実業家、政治家、参議院議員(2期、自由民主党)。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)出身。1915年早稲田大学商学部卒。卒業後は七十七銀行に入り、支店長となる。その後、家業の醸造業を継ぎ、のち栗原鉄道(株)を創立、社長に就任する。 若柳町長(1935.11.28-1943.8.15)を務めたが、戦時中に地元の大政翼賛会の役員をしていたため、戦後、公職追放となる。 宮城県議を5期務め、議長を2期務める。1965年、高橋進太郎の宮城県知事選出馬による参議院補欠選挙で当選。同年春の叙勲で勲四等瑞宝章受章。1968年の第8回参議院議員通常選挙で再選した。
上原 茂次(うえはら しげじ、1893年(明治26年)11月… 上原 茂次(うえはら しげじ、1893年(明治26年)11月28日 - 1971年(昭和46年)5月28日)は、日本の政治家。大津市長を3期12年間務めるなど、地方自治に活躍した。 1893年(明治26年)11月28日、滋賀県高島郡大溝町(現・高島市)に生まれた。1911年(明治44年)に京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業後、東京にて岩波書店に務め、3年余り東京にいた後、京都に戻り印刷業立ち上げを計画したが頓挫し、故郷に戻った。 1927年(昭和2年)、滋賀県会議員選挙に立候補するが落選、同年は長男を病で失い失意の年であったが、1929年(昭和4年)に大溝町議会議員に選ばれ、1930年(昭和5年)3月28日、前町長の辞任を受けて大溝町長に就任した。
宇佐美 珍彦(うさみ うずひこ、1893年〈明治26年〉11… 宇佐美 珍彦(うさみ うずひこ、1893年〈明治26年〉11月27日 - 1969年〈昭和44年〉12月21日)は、日本の外交官。駐エジプト公使。 長野県出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等試験行政科に合格した。農商務省に入省し、同年文官高等試験に合格。 外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として外務省に入省し、1920年(大正9年)に外務事務官・臨時平和事務局勤務に転じ、1921年(大正10年)に外交官補・国際連盟帝国事務局勤務。フランス大使館三等書記官、同二等書記官、外務事務官・条約局第一課勤務、同亜細亜局第一課勤務を経て、1929年(昭和4年)安東領事。
野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉… 野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1918年〈大正7年〉10月31日)は、愛媛県温泉郡素鵞村(現・松山市小坂町)出身の俳人である。本名は守隣(もりちか)。前号に柏葉、朱燐洞など。 父は温泉郡役所の官吏で、母は機織りなどで家計を支えた。13歳の時に母を亡くし、その後父と同じ温泉郡役所で書記を務めながら松山夜学校に通った。短歌を趣味とする上司の影響で「柏葉」と号して作句を始めた。 松山に帰った河東碧梧桐の新俳句に傾倒し、森田雷死久に師事。18歳の時に愛媛新報の俳壇に入選した。東京で自由律俳句の創始者荻原井泉水と出会い俳句雑誌「層雲」に参加。柏葉から朱燐洞と改号し、俳句結社「十六夜吟社」を結成、主宰となる。
大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年… 大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年)11月26日 - 1952年(昭和27年)4月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 奈良県十津川村湯之原に大前憲保の三男として生まれる。湯之原尋常小学校を卒業し、1912年(明治45年)十津川中学文武館(現奈良県立十津川高等学校)に学び、卒業後伏見の工兵第十六大隊に士官候補生として入隊。1915年(大正4年)5月25日に陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第十六大隊付となる。1916年(大正5年)11月27日に陸軍砲工学校(24期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1919年(大正8年)4月15日に工兵中尉に昇進、1922年(大正11年)3月31日には東京帝国大学理学部物理学科を卒業した。
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1962年〈昭和37年〉9月10日)は、日本の農業土木学者、農林技官、政治家。参議院議員(1期)、農学博士。 長野県、現在の上田市で溝口多門司の長男として生まれる。1920年(大正9年)東京帝国大学農学部農学科を卒業した。新潟県産業技師となり、青森県耕地課長を経て、1928年 (昭和3年)農林省農務局に転じた。1938年(昭和13年)青森県三本木原開墾国営事務所長兼秋田県田沢疎水開墾国営事務所長に就任した。1941年(昭和16年)農林省耕地課長に転じ、農地開発法の制定や、戦時下の食糧増産政策の推進を担った。 戦後、1945年(昭和20年)農林省開拓局第二部長に就任し、復員者などの生活支援と、切迫した食糧不足に対応するため開拓事業を進めた。
江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月… 江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月25日 - 1984年(昭和59年)4月17日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 江藤作吉の長男として福岡県遠賀郡遠賀村島津(現:遠賀町大字島津)に生まれる。1914年(大正3年)福岡県小倉師範学校を卒業し、久留米荘島小学校訓導となる。のち広島高等師範学校に入学。1919年(大正8年)3月、同校を卒業し、京都師範学校訓導兼教諭を拝命する。さらに1922年(大正11年)京都帝国大学法学部法律学科に入学し、在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。1925年(大正14年)卒業と同時に渡台し、台湾総督府に出仕する。 台北州内務部地方課勤務を振り出しに、1927年(昭和2年)地方理事官に進み、台中州勧業課長、台北州勧業課長、台湾総督府事務官営林所兼水産課勤務、文教局学務課勤務、学務課長、社会課長兼図書館長、財務局税務課長、高雄州内務部長、米穀局総務課長、興亜院廈門連絡部書記官を経て、大使館一等書記官に就任。
大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1… 大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1970年1月30日)は、日本の経営者。東横百貨店(現在の東急百貨店)社長を務めた。 三重県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1939年に取締役に就任し、1941年に常務を経て、戦後の三井銀行改め帝国銀行常務在任時の1946年、公職追放の発表に先立って帝銀万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)、戦前三井財閥のリーダー池田成彬らと共に、池田の子飼とみなされ、かつ万代の後継リーダーと目されていた大矢知も退任した。1948年5月に東横百貨店社長に就任し、1963年9月に相談役に退いた。 1970年1月30日脳血栓のために死去。
山岸 徳平(やまぎし とくへい、明治26年(1893年)11… 山岸 徳平(やまぎし とくへい、明治26年(1893年)11月25日 - 昭和62年(1987年)5月22日)は、日本の国文学者。中古文学専攻。東京教育大学教授、実践女子大学教授、中央大学教授などを務めた。 1893年、新潟県西蒲原郡(現新潟市西蒲区・旧西川町)で生まれた。新潟師範学校で学び、1914年(大正3年)に卒業した後に、東京高等師範学校本科に進んだ。東京高師時代は徒歩部(今の筑波大学陸上競技部)に所属していた。先輩に金栗四三がおり、一緒にマラソン選手として数々の大会に出場。1918年に同校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に入学。1924年卒業後は、同大学大学院に進んだ。 1925年より学習院教授。
阿部 千一(あべ せんいち、1893年(明治26年)11月2… 阿部 千一(あべ せんいち、1893年(明治26年)11月23日 - 1972年(昭和47年)9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1952-1953)、岩手県知事(1955年-1963年)などを務めた。 1893年(明治26年)11月23日、岩手県稗貫郡湯口村大字中根子(現在の花巻市中根子)に、小学校教員(後に湯口村村長)の父・晁(ちょう)と母・テルの長男として生まれた。仮死状態で生まれ、家族は一時あきらめたが、祖母が千に一つの望みに、と医師を呼んで手当をしてもらって奇跡的に助かったことから、その医師・三又与次郎の発案で千一と名付けられた。1912年に盛岡中学校、1916年に第一高等学校を卒業。
柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26… 柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26年〉11月23日 - 1983年〈昭和58年〉1月16日)は、日本の哲学者。西田哲学から戦後唯物論に転じ、平和運動や労働者教育にも尽くした。 神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市)生まれ。家は一町数反(約1.5ヘクタール)を耕す農家で、謙十郎は、村会議員を経て収入役・助役になった柳田勘作の長男であった。1908年神奈川師範学校に入学。1913年、愛甲郡高峰小学校訓導に任ぜられた。のち、神奈川師範学校附属小学校訓導、津久井郡協心小学校訓導兼校長、岡山師範学校教諭、岩手師範学校教諭などを務める。 1922年4月、京都帝国大学文学部哲学科選科に入学。
鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月… 鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月22日 - 1960年(昭和35年)9月21日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争開戦前の出師準備にあたった兵備局課長で開戦時の軍令部先任副官、北方部隊の幹部、大湊警備府参謀長を歴任し、終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長を務めた海軍少将で、後に米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊の初代隊長に就任。 1870年(明治3年)に浦賀に移住した会津藩士 鹿目常吉(幸之助)の孫として、1893年(明治26年)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。横須賀中学校を経て、1916年(大正5年)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常磐」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11… 谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11月22日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁。旧名は同訓異字の“正治”。兵庫県八部郡烏原村東所(現:兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。 著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』は通算1,900万部を超える。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(聖典)がある。他にも、彼が受けたとした33の神示(総称:『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』等がある。
樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)… 樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)11月22日 - 1971年(昭和46年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月2… 尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月20日 – 1958年(昭和33年)10月13日)は、高知県出身の歴史家・記者。号は吸江(ぎゅうこう)。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した人物。陽明社の創始者・尾崎旦は兄。 1893年(明治26年)11月20日、尾崎旦爾(手島熊吉)の四男として高知県安芸郡北川村野川番地に生まれる。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 旧制高知商業学校を経て明治大学へ進む。卒業後、土陽新聞の速記部長、のち徳島日日新聞の東京支局長などを務める。 文壇「博浪沙」に参加、大町桂月、田中貢太郎らと交わる。土佐人の典型のような、豪放磊落で気骨のある性格で、あるとき貢太郎を伴って北川村の実家に帰ったが、議論伯仲し、両人とも酒豪であったため、二人で一斗樽を飲み空かしたと言われる。
山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年… 山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年)11月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、検察官。台湾総督府食糧局長。 山本芳太郎の二男として大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に生まれる。1919年(大正8年)7月に東京帝国大学法科(英法)を卒業し、山下汽船鉱業(商船三井の前身企業のひとつ)に入社する。のち法曹界に転じ、1922年(大正11年)5月、宇都宮地方司法官試補、大阪区裁判所検事を経て、1928年(昭和3年)7月に渡台し、台北地方法院検察官となる。 ついで台湾総督府官房法務課、法務課長事務取扱、法務課長、府審議室兼務、府総動員関係軍機文書取扱主任、府人事課長を経て、1939年(昭和14年)12月に台湾総督府食糧局長に就任。
永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1… 永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1990年2月27日)は、日本の劇作家、民俗芸能研究家。 和歌山県新宮出身。1917年早稲田大学英文科卒、東京帝国大学で美学美術史を学ぶ(卒業未確認)。21年から戯曲を発表、27年柳田國男、折口信夫らの民俗芸術の会の結成に参加、28年「信州義民伝」が6代目尾上菊五郎によって上演、「源義朝」が沢田正二郎によって上演される。30年菊五郎の日本俳優学校の設立に参加し講師となる。
田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 19… 田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 1975年3月29日)は、日本の英語学者、英和辞典編纂者である。 北海道小樽市生まれ。父の事業の失敗が元で、貧窮に耐えて暮らした。旭川市の高等小学校に通学したのち、旭川駅所属の列車ボーイとなる。文学青年だった車掌から小説を借りては、乱読していたという。 列車ボーイを辞め、18歳のときに上川郡鷹栖村近文第一高等尋常小学校の代用教員に採用され、翌年、検定試験に合格し正教員となった。このころ英文学研究を志し、独学に没頭するかたわら、遠距離に住んでいたアメリカ人教師に学ぶ。田中の学習法は「睡眠時間節約のために、一切室に火をおかず、床をとらず、端然として机に向って、いよいよ眠くなってたまらなくなると、そのまま外套をかぶってゴロリと畳の上にねる」「やや眠りが浅くなってだんだんと寒くなって目をさますと、すぐまた机に向うという極端な手段」といったような壮絶なものであった。
野田 高梧(のだ こうご、1893年(明治26年)11月19… 野田 高梧(のだ こうご、1893年(明治26年)11月19日 - 1968年(昭和43年)9月23日)は、日本の脚本家。シナリオ・ライター協会初代会長。 次兄は日本画家の野田九甫、娘は脚本家の立原りゅう、その夫は同じく脚本家の山内久。また、幕末の漢学者・野田笛浦は祖父にあたる。 税官吏・野田鷹雄の子として北海道函館市に生まれ、長崎県・名古屋市で育つ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)、早稲田大学英文科を卒業後、映画雑誌記者・東京市職員を経て、1924年に松竹蒲田撮影所に入所。以後、蒲田および移転した大船撮影所で、現代劇の中心的脚本家として活躍し、小市民の生活を味わい深く描いたいわゆる「大船調」の代表的存在となる。
岩崎 貢(いわさき みつぐ、1893年11月19日 - 19… 岩崎 貢(いわさき みつぐ、1893年11月19日 - 1975年5月25日)は、日本の政治家。大分県議会議長・自由民主党大分県支部連合会長などを歴任した。 1893年11月19日、大分県北海部郡青江村にて、岩崎宝十郎の次男として誕生する。臼杵中学校に通うも、病気のため中退する。その後、20歳で憲政会の青年会津久見分会長となる。大正期には箕浦勝人を支持し、普通選挙運動に加わった。1924年5月には、衆院選における羽田彦四郎の選挙結果を巡って乱闘事件を起こし、検挙される。しかし、この「大分三区事件」により、対立候補であり、羽田を制して当選した木下謙次郎の得票に無効票があることがわかり、選挙結果は覆った。