米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)1… 米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本の実業家、政治家。鳥取県多額納税者。鳥取県会議員、貴族院議員。鳥取市名誉市民。旧姓藤縄。 鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年に県会議員となったが1890年に病没、その後家運は衰退した。国英村の八上高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校で代用教員として短期間勤務した。 1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部政治経済科に入学。
新庄 祐治郎(しんじょう ゆうじろう、1883年(明治16年… 新庄 祐治郎(しんじょう ゆうじろう、1883年(明治16年)11月16日 - 1951年(昭和26年)2月2日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。政友会系官選県知事。 京都市上京区新烏丸通二条上ル出身。第五高等学校を卒業。1909年7月、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し京都府警部となる。 以後、山口県厚狭郡長、同県玖珂郡長、山口県理事官、鹿児島県理事官、静岡県理事官、朝鮮総督府事務官、同慶尚北道第三部長、同道警察部長、総督府警務局高等警察課長、福岡県警察部長、和歌山県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長、愛知県書記官・内務部長、福島県書記官・内務部長などを歴任。
林 忠一(はやし ただかず、1883年(明治16年)11月1… 林 忠一(はやし ただかず、1883年(明治16年)11月15日 - 1952年(昭和27年)12月23日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家、華族。貴族院男爵議員。 旧上総国請西藩主家当主・林忠弘の長男として生まれる。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。第10師団法官部理事を経て、1917年(大正6年)大阪地方裁判所所属弁護士となった。同年1月31日、前年の忠弘死去に伴い男爵を襲爵した。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
植村 嘉三郎(うえむら よしさぶろう、1883年〈明治16年… 植村 嘉三郎(うえむら よしさぶろう、1883年〈明治16年〉11月15日 - 1958年〈昭和33年〉3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県多紀郡、のちの福住村(多紀村、多紀町、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市)で、植村建次郎の二男として生まれた。幼くして東京に出て苦学した。やまと新聞、国民新聞、中央新聞の各記者となり、昼夜通信社専務取締役社長となる。 1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙において兵庫5区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。次の1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で落選した。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では非推薦で立候補したが最下位で落選した。
衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 19… 衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 1953年7月7日)は、日本の満州文化史研究者、図書館員。 熊本県上益城郡飯野村(現益城町)出身。五男は衛藤瀋吉。1908年第五高等学校文科退学、東京帝国大学文学部選科に入る、1912年選科修了(大塚保治に師事)。1915年東京帝大司書。1919年満鉄大連図書館司書、1920年奉天簡易図書館主事。1922年満鉄奉天図書館長、1932年大同学院顧問。1941年奉天図書館長を辞任、日本図書館協会理事。1946年同理事長。
小川 順之助(おがわ じゅんのすけ、1883年(明治16年)… 小川 順之助(おがわ じゅんのすけ、1883年(明治16年)11月13日 - 1961年(昭和36年)6月23日[要出典])は、関東庁官僚。大連市長。 東京府に郡会議員小川弥次郎の子として生まれる。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。長野県庁内務部勤務、岩手県東磐井郡長、同下閉伊郡長、大阪府理事官を務めた。1919年(大正8年)、関東都督府参事官・事務官に転じ、関東庁参事官・事務官、長官官房文書課長、大連民政署長事務取扱、内務局地方課長、同殖産課長などを歴任し、勅任官の待遇を受けた。 1930年(昭和5年)に退官し、翌年に大連市長に就任した。その後、関東州天津貿易斡旋所長、同北支貿易斡旋所長を経て、関東州薬工品株式会社社長を務めた。
竹內 薰兵(たけうち くんぺい、1883年〈明治16年〉11… 竹內 薰兵(たけうち くんぺい、1883年〈明治16年〉11月12日 - 1973年〈昭和48年〉3月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)、歌人。勲等は勲四等。学位は医学博士(京都帝国大学・1923年)。日本児童学会名誉会長、社団法人日本小児科学会名誉会員。旧姓は鈴木(すずき)。号は青夏(せいか)。姓の「內」は「内」の旧字体でありJIS X 0213:2004に収録されておらず、名の「薰」は「薫」の旧字体でありJIS X 0208に収録されていないことから、新字体で竹内 薰兵(たけうち くんぺい)、竹內 薫兵(たけうち くんぺい)、竹内 薫兵(たけうち くんぺい)とも表記される。 京都帝国大学での勤務を経て、竹内病院院長、東洋大学教授などを歴任した。
山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月… 山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月7日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦においては日本初の航空作戦に携わった。最終階級は海軍少将。 愛知県に生まれる。海南中学校を経て明治38年(1905年)11月海軍兵学校(33期)を卒業、明治39年(1906年)12月20日海軍少尉任官。海軍大学校乙種学生を経て大尉任官後の1912年(明治45年)6月26日に海軍航空術研究委員に任ぜられた。7月に渡米して飛行免状を取得し、帰国後は同委員会練習将校の指導に当たった。 1913年(大正2年)6月24日に水上機による世界高度記録(2,500m)を達成したとされる。
高山 勝司(たかやま かつじ、1883年〈明治16年〉11月… 高山 勝司(たかやま かつじ、1883年〈明治16年〉11月10日 - 1961年〈昭和36年〉9月30日)は、大正から昭和時代の関東庁官僚。千葉県長生郡豊岡村長。旅順市長。 千葉県長生郡弓渡村(豊岡村、本納町を経て、現茂原市)出身。高山粂蔵の次男として生まれる。1907年(明治40年)明治大学専門部法律科卒業後、関東都督府(1919年(大正8年)関東庁に改組)警察部に出仕する。警部補、警部、警視と進み、旅順、大連、安東、新京各警察署長を歴任し、1935年(昭和10年)3月退官。翌月、旅順市助役を経て、1936年(昭和11年)1月25日、旅順市長に就任した。ほか、旅順市会議長を務めた。 戦後は、豊岡村長を歴任した。
玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう、1883年(明治16年… 玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう、1883年(明治16年)11月10日 - 1928年(昭和3年)9月19日)は、富山県中新川郡下条郷上砂子坂村(現・富山市)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は森野 健次郎。小兵でありながら多彩な技としぶとい相撲で関脇まで上り詰め、「名人」「怪力士」などと呼ばれた。現役時代の体格は159cm、90kg。 父と兄が草相撲の強者だったことから、これに影響を受けて力士を志すようになる。1895年(明治28年)ごろ、知人を通して梅ノ谷に紹介してもらい、その師匠である雷部屋に入門。1897年(明治30年)1月場所初土俵。この時の四股名は湊山。1900年(明治33年)の一場所のみ玉ヶ関と改名するが、これは兄弟同様にしていた玉ヶ関という力士が死去したため、弔いの意味で付けたものであった。
伊勢ノ濱 慶太郎(いせのはま けいたろう、1883年11月9… 伊勢ノ濱 慶太郎(いせのはま けいたろう、1883年11月9日 - 1928年5月17日)は、東京府本所区(現在の東京都墨田区)出身で友綱部屋(入門時は根岸部屋)に所属した大相撲力士。本名は中立 慶太郎(なかだち けいたろう)。最高位は大関。現役時代の体格は、身長168cm、体重105kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。 父は明治中期(1880年代)に活躍した幕内力士の伊勢ノ濱荻右エ門で、祖父は行司9代木村庄太郎、従兄には年寄根岸治右エ門がいるという相撲一家の生まれ。日本橋の酒店に奉公していたが父親譲りの力自慢で、18歳の時に根岸に入門した。1902年1月場所初土俵。しかし根岸の部屋には土俵がなかったため名門友綱部屋に通い、太刀山、國見山らの胸を借りて成長した(のちに友綱部屋へ移籍)。
安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11… 安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11月8日 - 1946年〈昭和21年〉4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、新潟市会議員(6期)、第14・15代新潟市会議長。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)の名家・安倍家の11世当主・安倍周平の長男として出生。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業、4月に東京専門学校高等予科(現 早稲田大学高等学院)に入学、新潟中学校の2年先輩の会津八一とともに東京府東京市牛込区牛込原町(現 東京都新宿区原町)の玉川温徳方に下宿。 1903年(明治36年)7月に早稲田大学高等予科を修了、9月に早稲田大学大学部政治経済学科に入学、1906年(明治39年)7月に卒業、ウラジオストクと樺太を視察、鍵三銀行支配人、新潟保育院理事などに就任。
木村 正路(きむら まさみち、1883年11月8日 - 19… 木村 正路(きむら まさみち、1883年11月8日 - 1962年10月13日)は、日本の物理学者。京都帝国大学理学部名誉教授。日本物理学会名誉会員。帝国学士院元会員。学術研究会議元会員・海軍航空廠嘱。日本学術振興会元委員。元理化学研究所主任研究員。長岡半太郎・高嶺俊夫と共に、初期の分光学の権威の一人。位階は従三位、勲等は勲二等。 専門は、物理光学・分光学、輻射学・放射学・スペクトル。 1883年兵庫県神戸生まれ。1907年京都帝国大学理工科大学物理学科を卒業。同大学講師となり、1909年助教授。1915年米ジョンズ・ホプキンズ大学(JHU)留学(ロバート・ウィリアム・ウッドに師事)し、物理光学・分光学の研究に従事、1917年帰国し、京都帝国大学理科大学教授となり、1918年理学博士(京都帝国大学)。
林 平馬(はやし へいま、1883年11月6日 - 1972… 林 平馬(はやし へいま、1883年11月6日 - 1972年3月19日)は、日本の政治家、著作家。位階は従三位。 福島県耶麻郡塩川町(現・喜多方市)で生まれる。1907年日本体育会体操学校(現・日本体育大学)を卒業し小学校の訓導となる。その後日本大学法律科を卒業する。早くから政治家を志し、1928年の第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧福島2区から出馬し初当選。その後通算7回当選。1932年の第18回衆議院議員総選挙のみ旧福島1区から立候補し当選している。平沼内閣で鉄道参与官を務め、政党解消後は翼賛政治に反対し興亜議員同盟に所属。1942年の翼賛選挙には非推薦候補として立候補したが落選した。
富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961… 富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961年1月15日)は、日本の神学者、牧師(日本基督教団芝教会)。教会合同、エキュメニカル運動の指導者。日本基督教会(現日本キリスト教会)大会議長、日本基督教団統理者として天皇に賜謁。神の国運動委員長、東京神学大学、明治学院大学理事長、金城女子専門学校理事長、日本基督教連盟議長、日本キリスト教協議会の幹部、など要職を歴任。 愛知県東春日井郡印場村(春日井市)の農家に三男として生まれる。5歳の頃から教会学校に通った。16歳の時南長老ミッションのR・E・マカルピン宣教師より洗礼を受ける。 1904年、明治学院神学部に入学。日露戦争に従軍。1907年、神戸神学校に転校し、1909年卒業。
村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11… 村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月10日)は、日本の英語学者、青山学院大学教授、青山学院専門部文学部長、青山学院高等部長。 1883年11月2日、静岡県引佐郡細江町に生まれる。静岡県立浜松中学校を経て、1903年4月、青山学院高等科に入学する。1906年3月に卒業し、同年5月から秋田県立本荘中学校の教諭となる。1910年9月に依願免職、同年10月からアメリカ合衆国インディアナ州のデポー大学に入学する。1913年6月に卒業し、B.A.の学位を受ける。同年9月、イリノイ州のシカゴ大学に入学し、1916年3月にM.A.の学位を受け、同年9月に卒業、B.D.の学位を受ける。
酒井 忠克(さかい ただたえ、1883年〈明治16年〉11月… 酒井 忠克(さかい ただたえ、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1939年〈昭和14年〉6月17日)は、日本の宮内官僚、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・酒井忠道の二男として生まれる。1906年(明治39年)学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学法科大学を修了。父・忠道の死去に伴い、1920年(大正9年)3月10日、家督を相続し伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)以降、主猟官、式部官兼主猟官、中央失業対策委員会委員などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して死去するまで在任した。
中野 猛雄(なかの たけお、1883年〈明治16年〉11月2… 中野 猛雄(なかの たけお、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1950年〈昭和25年〉8月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 熊本県天草郡碇石村(現・天草市)生まれ。1907年(明治40年)早稲田大学政治経済科卒。宮地岳村長を務めた。1923年(大正12年)、熊本県会議員選挙に天草郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1927年(昭和2年)に退任した。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で熊本2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来4回連続当選した。 他、肥州窯業、九州新聞(現:熊本日日新聞)の各社長、中西銀行、九州商船などの取締役も務めた。
綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ、1883年11月2日 - … 綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ、1883年11月2日 - 1933年2月16日)は、青森県南津軽郡(現黒石市)出身で入間川部屋に所属した大相撲力士。本名は村上 要作(むらかみ ようさく)。最高位は関脇。 1883年11月2日に青森県南津軽郡(現黒石市)で生まれる。幼少期から宮相撲で活躍して力士を志し、旧制盛岡中学校を中退して高砂部屋へ入門、1905年1月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。1910年6月場所で十両に昇進し、1914年1月場所で新入幕を果たした。入幕後は負け越しがなく、鳳谷五郎を二度破るなど「鳳キラー」として活躍、1915年5月場所で小結へ、1916年5月場所で関脇へ昇進したが、腎結石のために初日の取り組みに出場(黒星)のみで残りを全休、それ以降も不振で番付が降下していった。
熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1… 熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1936年8月21日)は、日本の歌人(明治~昭和時代前期)。歌人の熊谷龍子は孫。 宮城県本吉郡新月村(現・気仙沼市)生まれ。少年時、及川義亮に歌を学ぶ。郷里・気仙沼で農林業に従事しながら前田夕暮に師事。 1911年(明治44年)「詩歌」創刊に参加し同時に短歌結社「白日社」同人となる。1912年(大正元年) 仙台の文芸誌「シャルル」同人となり、郷土の文学の高揚に尽力した。 1921年 新月村の村会議員に就任。 1924年(大正13年)「日光」に前田夕暮らとともに参加。「詩歌」同人らが自由律口語短歌に転向するなかで定型律文語短歌をまもり、山村生活をうたった。
小泉 源一(こいずみ げんいち、1883年11月1日 - 1… 小泉 源一(こいずみ げんいち、1883年11月1日 - 1953年12月21日)は、日本の植物学者。日本植物分類学会の創立者で、日本の植物分類学の基礎を築いた一人である。 植物学者の小泉秀雄は実弟。 1883年、山形県米沢市林泉寺町にて父清次、母たかの長男として生まれる。小泉家は米沢藩の猪苗代組(中士階級)の家柄であり、先祖は武田遺臣の小泉源五郎。札幌農学学校林学実科を経て、1905年、東京帝国大学(現:東京大学)に選科生として入学。松村任三に師事し植物分類学を学んだ。1908年に卒業、1916年にバラ科植物の研究で理学博士を取得。 マーシャル諸島ヤルート島における植物と自然地理の観察依頼を東京理科大学から受け、1914年(大正3年)12月19日に神奈川丸に乗船、翌年2月13日までミクロネシアとマーシャル各群島の現地調査(フィールドワーク)を行う。
椎野 信次(しいの しんじ、1883年〈明治16年〉11月 … 椎野 信次(しいの しんじ、1883年〈明治16年〉11月 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家、鉄道官僚。大阪府布施市長。 椎野法義の二男として、山形県米沢に生まれる。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し鉄道院に奉職する。書記を経て1924年(大正13年)3月、札幌鉄道局運輸課長となったのち官界を去り、同年9月、大阪市役所に入る。大阪市電気局庶務部経理課長、大阪市副収入役、同市収入役を経て、1938年(昭和13年)12月、布施市長に就任した。
村井 信平(むらい しんぺい、1883年11月 - 1969… 村井 信平(むらい しんぺい、1883年11月 - 1969年3月24日)は岩手県釜石出身の機械技術者。父は日本近代製鉄の原点とも言える釜石鉱山田中製鉄所をその立ち上げ時から支えた村井源兵衛であり、信平自らも明治・大正・昭和にかけて父と同じ釜石製鉄所に長く勤めた。第十四期・釜石町会議員。 村井信平は日本で3番目に鉄道が走った釜石の地で1883年(明治16年)11月に生まれた。父・源兵衛は1875年(明治8年)17歳の時に工部省鉱山局の釜石支局に採用され、1880年(明治13年)9月より同地で稼働した日本初の官営製鉄所でも働いたが、操業開始から実働わずか97日で現場は頓挫。1882年3月に再開するもやはり上手くいかず、政府は1883年(明治16年)に製鉄所廃止の判断を下した。
小牧 健夫(こまき たけお、1882年11月29日 - 19… 小牧 健夫(こまき たけお、1882年11月29日 - 1960年7月15日)は、日本の独文学者、詩人。別名・小牧暮潮、初号・小牧楚水。
藤井 浩佑(ふじい こうゆう、1882年〈明治15年〉11月… 藤井 浩佑(ふじい こうゆう、1882年〈明治15年〉11月29日 - 1958年〈昭和33年〉7月15日)は、彫刻家、日本芸術院会員。初名は浩祐。 唐木細工師藤井祐敬の長男として東京府東京市神田区錦町に生まれる。祖父は、旧摂関家公爵・九条家の執事であった藤井祐澄。 不同舎を経て1907年東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品、以後出品を続ける。1911年文展出品「鏡の前」から三等賞を四度受賞。1916年日本美術院同人、以後院展に出品、1936年文展審査員となり、院展を退き帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1950年日展運営会理事、1953年より浩佑と称する。墓所は青山霊園立山墓地1-ロ-4にある。
竹田 音治郎(たけだ おとじろう、1882年11月28日 -… 竹田 音治郎(たけだ おとじろう、1882年11月28日 - 没年不詳)は、日本の判事(裁判官)、教育者。大審院判事、東京控訴院判事、立教大学教授。 奈良県添上郡櫟本町(現・天理市)出身。1910年東京帝国大学法科大学独法科卒業。千葉区裁判所判事、東京地方裁判所判事、静岡地方裁判所判事、東京控訴院判事、大審院判事を歴任。1945年3月、大審院部長となり、同年に退官した。 大正期から昭和初期には立教大学経済学部教授を兼務し、民法を講じた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。
越智 太兵衛(太兵衞、おち たへえ、1882年(明治15年)… 越智 太兵衛(太兵衞、おち たへえ、1882年(明治15年)11月26日 - 1961年(昭和36年)10月20日)は、明治末から昭和前期の産業組合運動家、政治家。衆議院議員。 奈良県添上郡発志院村(治道村、生駒郡郡山町を経て現大和郡山市発志院町)で、越智太郎の長男として生まれた。1902年(明治35年)奈良県立郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業した。農業に従事。 1911年(明治44年)2月、発志院信用組合を設立し組合長に就任。以後、同組合の規模を拡大し、産業組合の普及と実践に尽力した。1917年(大正6年)奈良県信用組合連合会が設立され監事に就任し、理事、常務理事を歴任。1930年(昭和5年)奈良県購買販売組合連合会が設立されると理事に就任し、1931年(昭和6年)県信用組合連合会、県購買販売組合連合会の各会長となり、1935年(昭和10年)両組合が合併して奈良県信用購買連合会が設立すると同会長に就任。
有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年〈… 有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年〈明治15年〉11月26日 - 1974年〈昭和49年〉9月15日)は、日本の画家・小説家。号は雨東生、十月亭。 神奈川県横浜市月岡町(現在の横浜市西区老松町)出身。志賀直哉や児島喜久雄とは少年時代からの友人で、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠の如く』を書いた。長くヨーロッパに留学したが、その際、有島の恋人(女中)を志賀らに託し、帰国後、彼女と結婚の意志がないことを示したため、志賀との間に疎隔が生まれ、敗戦後、志賀は『蝕まれた友情』(1947年(昭和22年))を書いて絶交。 有島武郎の弟、里見弴の兄。妻の信子は原田熊雄の妹でドイツとのクォーター。
細川 玖琅(ほそかわ くろう、1882年〈明治15年〉11月… 細川 玖琅(ほそかわ くろう、1882年〈明治15年〉11月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。朝鮮企業社長。富士見銀行頭取。若宮八幡宮司。長野県諏訪郡富士見村長。族籍は長野県士族。 長野県士族・細川直行の長男。1901年、東京高等師範学校附属中学校を卒業。1908年、第二高等学校第二部農科を卒業。1911年、家督を相続し、同年東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業する。 銀行会社の重役で、推されて長野県会議員である。長野県参事会員に挙げられる。神職、富士見村長、富士見村農会長である。住所は長野県諏訪郡富士見村字若宮(現・富士見町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
竹内 友三郎(たけうち ともさぶろう、1882年〈明治15年… 竹内 友三郎(たけうち ともさぶろう、1882年〈明治15年〉11月25日 - 没年不明)は、日本の商人(精肉商、牛肉商)、政治家、実業家。合名会社竹内商店代表社員。旧姓・山本。 大阪府人・山本義光の三男、あるいは四男。山本與次右衛門の弟。愛知県知多郡八幡町生まれ。竹内慶太郎の養子となり、1923年に家督を相続する。神戸中学卒業。 合名会社竹内商店神戸支店に入る。横浜市会議員、横浜屠場、東神冷蔵製氷各取締役などをつとめる。 宗教は禅宗。趣味は囲碁。住所は神奈川県横浜市中区真砂町1丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
豊田 収(とよだ おさむ、1882年(明治15年)11月25… 豊田 収(とよだ おさむ、1882年(明治15年)11月25日 - 1969年(昭和44年)7月24日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員を6期務めた。青山学院大学講師、中央大学講師も務めた。 父は教育者の豊田太蔵。国土交通官僚の竹歳誠(国土交通事務次官や内閣官房副長官など歴任)は豊田の妹の孫にあたる。 鳥取県八橋郡由良村(現東伯郡北栄町)出身。 1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学独法科卒業。オックスフォード大学に留学。 帰国後鉄道書記官、鉄道監察官を歴任する。 1928年(昭和3年)に立憲政友会公認で第16回衆議院議員総選挙に立候補して初当選、以降総選挙に連続6回当選。岡田内閣大蔵参与官、鉄道会議議員、土木会議議員、鈴木内閣大東亜政務次官となる。
千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 -… 千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 - 1962年2月21日)は、日本の実業家、政治家。近代岡崎の商工業者の第一人者として知られる。岡崎商工会議所の会頭を3期(通算約12年)、衆議院議員を1期務めた。長女の夫は一宮市の実業家・四代目豊島半七。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)の呉服商の老舗大島屋に生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業後、名古屋市の簿記学校に進む。1903年(明治36年)、父の死去により年若くして家業を継いだ。 家業の呉服商に木綿部を増設して千賀合名会社を設立し、三河木綿の生産に着手した。当時特産品として知られた三河木綿は零細な家内工業によるものであったため、生産量はごくわずかであった。
小泉 丹(こいずみ まこと、1882年(明治15年)11月2… 小泉 丹(こいずみ まこと、1882年(明治15年)11月23日 - 1952年(昭和27年)10月21日)は、日本の動物学者。 京都府出身。東京帝国大学理学部動物学科卒。伝染病研究所で宮島幹之助に師事。台湾で熱帯病を研究。1924年新設の慶應義塾大学医学部教授、寄生虫学を担当。マラリアやデング熱の研究、『蛔虫の研究』、進化論の解説などの業績がある。名前は「たん」と通称される。墓所は多磨霊園。 弟の小泉鉄(鐵、まがね、1886-1954)は作家、翻訳家で、第二次『新思潮』に谷崎潤一郎らと参加、のち『白樺』に参加した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年… 関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年〉11月21日 - 没年不詳)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省の技官を経て実業界入りし、大阪電灯技師長や大同電力常務取締役、日本揮発油(現・日揮ホールディングス)初代専務取締役などを務めた。 関口寿は1882年(明治15年)11月21日、東京府関口慶吉の長男として生まれた。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第二部工科を卒業、次いで1904年(明治37年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。卒業後は逓信省に入り通信技手となる。翌年時点の職員録には逓信省通信局所属の通信技手とある。
山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )1… 山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )11月17日 - 1954年(昭和29年 )3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1… 平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1953年4月18日)は日本の新聞記者、作家。
後藤 多喜蔵(ごとう たきぞう、1882年(明治15年)11… 後藤 多喜蔵(ごとう たきぞう、1882年(明治15年)11月15日 - 没年不詳)は、日本の検察官、裁判官、内務・警察官僚、政治家。官選県知事、門司市長、久留米市長。 福岡県出身。後藤増蔵の四男として生まれる。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年8月2日、司法省に入省。司法官試補となり東京地方裁判所及同検事局並東京区裁判所及同検事局で事務修習を命じられた。 1912年12月10日、検事に任官し、予備検事・東京地方裁判所検事局兼東京区裁判所検事局詰となる。以後、東京地方裁判所兼東京区裁判所検事、大阪地方裁判所兼大阪区裁判所検事を務めた。1916年1月11日、判事となり、横浜区裁判所判事に就任。
郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13… 郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13日 - 1961年(昭和36年)4月28日)は、日本の実業家。三菱重工業社長、太平洋戦争時の東條内閣顧問。戦後はA級戦犯として逮捕され、公職追放された。 地域の教育者であった郷古玉三郎、ゆうの長男として岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)不断町にて生まれた。先祖は仙台藩伊達氏の一門である留守家に仕えた藩医。盛岡中学校(及川古志郎、野村胡堂らと同級)、第一高等学校(東京大学教養学部)、東京帝国大学法科大学法律科を経て、1908年8月、三菱合資会社に入社。入社後すぐに九州の炭鉱へ転勤を命じられた。後には三菱造船、神戸造船、三菱重工、日本航空会社と三菱財閥の各社で勤務。
上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月… 上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月11日 - 1973年〈昭和48年〉4月11日)は、日本の美学者。日本学士院会員、東京藝術大学名誉教授。 出典:(日本美術年鑑)・(百年史) 1882年(明治15年)、上野昭道の長男として神戸市に生まれた。慶應義塾幼稚舎、東京正則中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業。 1911年(明治44年)から1921年(大正10年)まで、美学者である大塚保治教授の主宰する東京帝大文科大学美学研究室の副手をつとめた。その在任中の1916年(大正5年)に東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得て、絵巻物の調査研究に当たった。
織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11… 織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は明治期から昭和期の芸術家、版画家。 洋画を川村清雄、石版画をオットマン・スモリック、金子政次郎に学ぶ。「自画石版の織田一磨」として知られる。主な作品は東京国立近代美術館などに収められている。 1882年(明治15年)11月11日、織田信徳の四男として東京府芝区にて誕生した。1894年(明治27年)頃、父信徳らと大阪に転居する。その後、広島石版印刷所や大阪市役所図案調製所に勤務する。1898年(明治31年)、16歳の時、兄の織田東禹の元で更に石版画の技術を学んだ。1907年(明治40年)に石井柏亭らによって刊行された美術雑誌『方寸』に参加し、創作版画の道に進んだ。
浅利 三朗(淺利 三朗、あさり さぶろう、1882年(明治1… 浅利 三朗(淺利 三朗、あさり さぶろう、1882年(明治15年)11月10日 – 1966年(昭和41年)11月3日)は、日本の内務及び朝鮮総督府官僚、政治家。栃木県知事(官選第25代)、香川県知事(官選第19代)、衆議院議員(3期)。 岩手県西磐井郡平泉町出身。浅利杏坪の三男として生まれ、兄・浅利寛の養子となる。一関中学、第二高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し三重県属となり、内務部勧業課に配属された。 1910年5月、三重県内務部地方課に配属。以後、山形県事務官、同視学官、大阪府視学官、茨城県警察部長、高知県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁警察部長、富山県内務部長などを歴任。
村上 武次郎(むらかみ たけじろう、1882年11月10日 … 村上 武次郎(むらかみ たけじろう、1882年11月10日 - 1969年7月29日)は、日本の冶金学者。 京都府南桑田郡(現:亀岡市)に生まれる。京都府師範学校を経て東京高等師範学校を卒業し、京都府立第一高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校)の教師職に就くが、再び学問を志し29歳で京都帝国大学理学部純正化学科へ入学。卒業後も大学に残り講師を務める。近重眞澄の推挙で、1916年新たに設立される東北帝国大学に臨時理化学研究所(所長本多光太郎、現:東北大学金属材料研究所)に赴任する。以後KS鋼・新KS鋼の研究に携わり、ステンレス鋼や高速度工具鋼など新素材の領域で優れた業績を上げた。 娘婿に今井勇之進がいる。
白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月… 白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月10日 - 1934年(昭和9年)4月15日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡勇崎村西浦(柏崎村、玉島町、玉島市を経て現倉敷市玉島勇崎)で、肥料問屋「北国屋」白神亀五郎、貞の二男として生れ、白神カチの養子となり1897年(明治30年)家督を相続した。玉島尋常高等小学校を卒業。その後の経歴は不明確で、ロシア帝国沿海州などを視察し、帰郷して岡山市で海産物商、米穀仲買人などを営む。 その後大阪に移り、堂島などで相場、株式の知識を習得し、1918年(大正7年)米相場、株式を掲載した『大阪毎夕新聞』を創刊し1921年(大正10年)社長に就任した。
菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)… 菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)11月9日 - 1939年(昭和14年)3月6日)は、日本の教育者。旧姓は早川。 長野県小県郡当郷(現青木村)生まれ。長野県尋常中学校上田支校(1899年(明治32年)には長野中学校上田支校に、翌1900年(明治33年)に上田中学校として独立、現・長野県上田高等学校)、同松本本校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、旧制浦和高等学校、東京帝国大学哲学科卒業。尋常中学校の同級生に五島慶太がいた。千葉県夷隅郡中川村の菰田家の養子となる。 東京府立第二中学、旧制山口高等学校で教壇に立った後、1928年(昭和3年)文部省学務局事務官となり、翌年学生課長、調査課長を務めた。
出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉1… 出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉11月9日 - 1964年〈昭和39年〉7月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。侍従武官としての宮仕えを経て、海軍兵学校校長、舞鶴要港部司令官を務めた。 福岡県宗像市出身。地主・出光勝兵衛の三男として生れる。旧制東筑中学校(現福岡県立東筑高等学校)を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、第1艦隊参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、水雷学校教官、イギリス駐在、軍令部第1班第2課参謀、兼参謀本部員、軍令部第2班第4課長、給炭艦「野島」艦長、「多摩」艦長、海軍省人事局第1課長、「八雲」艦長、「迅鯨」艦長、海軍通信学校教頭などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - … 中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - 1952年12月6日)は、日本の植物分類学者。東大教授、小石川植物園長、ボゴール植物園長、国立科学博物館長。小説家の中井英夫は息子。 チョウノスケソウ Dryas octopetala L. var. asiatica (Nakai) Nakai などを命名したほか、ノジギク Chrysanthemum japonense (Makino) Nakai、ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii (DC.) Nakai などの分類学的検討を行い、名を残した。また、セリ目 Apiales Nakai、インドカラムス属 Indocalamus Nakai、ムニンヤツデ属 Boninofatsia Nakai などの分類群を設立した。
河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11… 河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11月9日 - 1918年(大正7年)3月12日)は、西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)生まれの日本画家。明治から大正にかけての女性日本画家。上村松園と並び称されることもあたったが、若くして他界した。 名を菊といい、実父は医師である神山謙斎であるが、明治8年(1890)郷村に開校した石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となる。 小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)には京都に移り住み菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学ぶ。 明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納。
板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11… 板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11月8日 - 1967年〈昭和42年〉10月28日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。九州大学名誉教授。内分泌や黄体ホルモンの生理学的研究や、久留米大学附設中学校・高等学校を設立したことで知られる。 岩手県盛岡市出身。板垣征四郎の兄。旧制盛岡中学、旧制二高、京都帝国大学医学部を経て、1910年より京都帝国大学福岡医科大学助教授に就任。1913年陸軍2等軍医になる。1914年3月より3年間ヨーロッパに留学し、1918年九州帝国大学教授となる。その後1932年九州帝国大学医学部長、1933年温泉治療学研究所長を歴任。太平洋戦争中にはジャカルタ医科大学学長を務めた。
大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)… 大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)11月8日 - 1940年(昭和15年)11月21日)は、日本の内務官僚。府県知事。位階および勲等は正四位・勲二等。 滋賀県犬上郡彦根町出身。旧彦根藩士・大海原尚義(近江鉄道、大日本製糖重役)の長男として生まれる。三重県第一中学校、学習院高等科を経て、1908年、東京帝国大学法科大学を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年2月、内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官、熊本県事務官、埼玉県警察部長、千葉県警察部長、長崎県警察部長、内務省警保局事務官兼内務書記官、東京府内務部長などを歴任。 1922年10月、山梨県知事に就任。
児玉 実良(兒玉 實良、こだま さねよし、1882年(明治1… 児玉 実良(兒玉 實良、こだま さねよし、1882年(明治15年)11月5日 - 1956年(昭和31年)3月20日 )は、明治末から昭和期の裁判官、検察官、弁護士。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡樋脇郷麓(樋脇村、樋脇町を経て現薩摩川内市)で、児玉善輔の長男として生まれた。1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。司法官試補に任じられ、徳島地方裁判所判事、千葉地方裁判所判事、名古屋地方裁判所・名古屋区裁判所検事、七尾区裁判所検事、小倉区裁判所検事、高松地方裁判所・高松区裁判所検事、京都地方裁判所・京都区裁判所検事、鹿児島区裁判所検事などを歴任した。退官後は鹿児島市で弁護士を開業した。