一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)1… 一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)12月27日 - 1958年(昭和33年)6月16日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県杵島郡武雄町長。 佐賀県杵島郡、のちの武雄町(現武雄市)で、一ノ瀬傳三郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)長崎高等商業学校(現長崎大学)を卒業。1920年(大正9年)家督を相続し農業を営む。 政界では、武雄町長、佐賀県会議員を務めた。1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区から立憲政友会公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。 戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。
岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月… 岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月25日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、日本の社会運動家、思想家でもあり、人工言語ボアーボム(Babm)の発明者としても知られる。思想家としては、岡本普意識(おかもと ふいしき)と名乗っていた。 高知市に生まれる。東京郵便電信学校を卒業したのち、逓信省・三菱倉庫に勤務した。その後、1919年(大正8年)に企業立憲協会を組織した。翌1920年(大正9年)には東京亀戸に消費者組合亀戸協働社を開設、関東消費組合に発展させた。1928年(昭和3年)富士山麓愛鷹山中腹に農村青年共働学校を開設して、開墾や自給自足の農本自治を理念とした、農村中堅青年の育成をめざした。
入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885… 入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885年12月23日 - 1945年5月13日)は、日本の教育学者。鳥取県日野郡宮内村(現日南町)生まれ。1911年東京帝国大学哲学科卒業後、神宮皇学館教授を経て、1932年東京帝国大学教授に就任。大正新教育運動の旗手の一人。専門は欧米教育思想史。新学校あるいは体験学校と名付けた実践的研究を行った。また、新教育協会を設立した。 1929年、東京大学文学博士。論文の題は「汎愛派教育思想の研究」。 1945年5月13日、東京帝大小石川分院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月2… 林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月21日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の精神医学者、教育者。新制岡山大学の初代学長を務めた。名前は「どうりん」と音読みされることもある。 宮城県仙台市出身。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1910年12月東京帝国大学医学部卒業。帝大在学中は日本の精神病研究の先駆者である呉秀三の薫陶を受け、歌人の斎藤茂吉は同級生であった。1921年からドイツに3年間留学する。 帰国から間も無い1924年7月、岡山医科大学(現岡山大学医学部)精神科教授に就き、生涯にわたり岡山を活動拠点とする。しかし、就任早々林を待ち受けていたのが、日本脳炎の流行であった。
青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月… 青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月21日 - 1958年(昭和33年)7月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山形県酒田市長。 地主青塚岩治の二男として山形県飽海郡酒田本町に生まれる。生家は代々金物屋を営んだ。荘内中学校を経て第一高等学校に進み、俳句や漢詩を嗜んだ。1917年(大正6年)酒田町会議員に当選し、1920年(大正9年)消防組頭を経て、1926年(大正15年)酒田町助役に就任した。1931年(昭和6年)山形県会議員に当選し、酒田市会議員、同議長を経て、1945年(昭和20年)10月、酒田市長に就任したが、間もなく公職追放となった。 のち初代監査委員に就任した。
大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - … 大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - 1968年6月4日)は、日本の政治家、逓信官僚、俳人。岡田内閣の法制局長官、林内閣の内閣書記官長、社団法人日本放送協会第4代会長、日本電信電話公社第2代総裁。現在の富山県高岡市出身。 日本放送協会会長時、終戦時の玉音放送に携わった。戦後の通信事業近代化に貢献。おじは漢詩人の大橋十右衛門。 富山縣高岡中學校、石川縣尋常中學校を経て、1906年(明治39年)7月に第四高等學校を卒業。 1910年(明治43年)7月に東京帝国大学法科大学を卒業した後、逓信省に入省。同年11月、高等文官試験に合格する。1925年(大正14年)10月に郵務局長、1928年(昭和3年)7月に経理局長となる。
小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月1… 小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月18日 - 1975年(昭和50年)10月6日)は、日本出身のアメリカ合衆国の画家、版画家。アメリカの大自然を日本画の技法で描き、新しい美の世界を切り開いた。また、米国で日本人初の野球チームを共同設立した。戦争中、日系人収容所のトパーズ戦争移住センターに収容されたことでも知られる。 岡山県後月郡井原村(現・井原市)に8人兄弟の末子として生まれる。本名、佐藤蔵六。5歳で仙台に住む洋画家・美術教師の兄六一(伊達藩家老だった小圃家に婿入りしていた)の養子となる。7歳から日本画を学んだ。14歳のときに東京に出て、「大政奉還図」で有名な邨田丹陵に師事した。
星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12… 星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12月17日 - 1968年(昭和43年)7月25日)は、日本の実業家。元岡山県農工銀行頭取。岡山商工会議所設立者・初代会頭。 岡山県児島郡藤戸村生まれ。1905年岡山県立岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)卒業。1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1913年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部銀行科卒業。 星島銀行入行後、1925年岡山県農工銀行取締役。1928年岡山県農工銀行頭取。1934年初代岡山ロータリークラブ会長。1936年日本赤十字社評議員。 1943年岡山県商工経済会会頭。1944年日本勧業銀行顧問。1946年岡山商工会議所発起人総代・初代会頭。
山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)… 山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)12月15日 - 1966年(昭和41年)4月28日)は、日本の陸軍軍人、小説家、翻訳家。陸士19期・陸大退校(25期相当)、最終階級は陸軍歩兵中尉(依願免官)。 山中未成、大窪逸人、石上欣哉、三条信子などのペンネームも用いた。 大阪府で呉服商を営んでいた馬淵浅太郎(旧・彦根藩士)の次男として生まれる。幼少時に、陸軍一等軍医(大尉相当官)山中恒斎の婿養子となり、のちに恒斎の娘の「みゆき」を娶った。大阪偕行社附属小学校(現・追手門学院小学校)、天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て、1901年(明治33年)、大阪陸軍地方幼年学校(大幼)に入校。
伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月… 伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月15日 - 1951年(昭和26年)11月25日)は、日本の実業家。華族、貴族院男爵議員。 初代内閣総理大臣伊藤博文の実子。伊藤家に行儀見習いに来ていた多摩出身の女性との間にできた婚外子で、当初は、博文の後妻の兄である木田幾三郎の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。旧制山口県立豊浦中学校(第1期)、山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、農商務省の商工局に勤務、文官高等試験を経て翌年山林事務官兼農商務書記官となり、1910年(明治43年)休職し、渡英。農商務省参事官、同山林局書記官、外務書記官、内閣総理大臣秘書官、軍需省顧問、鮎川義介が創立した日本産業(日産)取締役、日本鉱業社長などを務めた。
近藤 元久(こんどう もとひさ、1885年12月15日 - … 近藤 元久(こんどう もとひさ、1885年12月15日 - 1912年10月6日)は日本の初期のパイロットで、ロサンゼルスの近郊で、事故死した。航空機の事故で死亡した最初の日本人である。 伊予松山藩士・近藤南洲の次男として大阪で生まれた。松山中学の漢学の教師をしていた叔父・近藤元弘の養子となり松山中学を卒業後、1903年に単身、渡米した。8年ほどアメリカ合衆国で暮らした後、飛行家となることをめざしてサンディエゴのカーチス飛行学校で学び、1912年(明治45年)4月27日、万国飛行免状を得た。カーチス飛行学校では武石浩玻とともに学び、同校初の日本人卒業生となった。カーチス飛行学校で日本海軍の山田忠治、河野三吉、中島知久平の三人のカーチス水上機の実習の手伝いなどをした。
斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)1… 斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)12月13日 - 昭和23年(1948年)5月18日)は、日本の医師、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍軍医中将。鳥取県米子市長。正四位勲一等瑞宝章。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。開業医斎藤勇夫の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正元年(1912年)九州帝国大学医学部卒業後、熊本歩兵第13連隊軍医に任官。昭和3年(1928年)、浜田陸軍病院長に就任。昭和5年(1930年)3月、一等軍医正(大佐相当官)に昇進し豊橋陸軍病院長となる。昭和6年(1931年)8月、名古屋陸軍病院長に異動。昭和7年(1932年)12月、第12師団軍医部長となり、第3師団軍医部長に転じた。
除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12… 除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12日 - 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚。官選滋賀県知事。 熊本県飽託郡健軍村(現在の熊本市東区)出身。除野正稔の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。 1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁理事官、茨城県理事官、鹿児島県警察部長、鳥取県書記官・内務部長、秋田県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長などを歴任。 1931年1月20日、滋賀県知事に就任。同年12月18日、知事を休職となる(政友会の犬養内閣成立に伴う更迭)。
岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9… 岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は岩手県花巻市出身の俳人、新聞編集者。岩手毎日新聞社(1933年廃刊。現在の毎日新聞とは無関係)の主筆(編集長)でもあった。生誕時の本名は伊藤儀七であったが、幼少時に養子に出たことで岡山儀七となった。 1885年(明治18年) のちの貴族院議員伊藤儀兵衛の四男として、花巻に生まれる。1889年(明治23年)、岡山直機の養子となる。 旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学し、石川啄木と出会う(学年は啄木が1年上)。1901年(明治34年)に啄木のほか野村長一(後の野村胡堂)や、後に医学博士となる小林茂雄や瀬川深(せがわふかし)、猪川浩らと短歌会「白羊会」を結成する。
高橋 勝四郎(たかはし かつしろう、1885年(明治18年)… 高橋 勝四郎(たかはし かつしろう、1885年(明治18年)12月9日 - 1972年(昭和47年))は、日本の獣医師。馬産家として名高い。岩手県胆沢郡南下幅村(現在の奥州市)出身。父の高橋音四郎は南都田村の村議会議員。 生家は農家で、馬の飼育も手掛けていた。そのことから勝四郎は幼少の頃から馬と身近に接しながら育った。当時の慣例により5歳の時に南下幅尋常小学校に入学。卒業後農業補習科に3年通い、水沢尋常高等小学校の高等科4年生に編入。卒業後は師範学校に進学するつもりであったが13歳だった勝四郎は入学年齢に達しておらず、入学年齢に達するまでの間、母校の南下幅尋常小学校に代用教員として勤務することになった。
佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉1… 佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の画家。岩手県江刺郡黒石村出身。 ロサンゼルス美術学校、ニューヨーク美術学院を卒業し、帰国。それ以降も渡欧などを経て、多くの展覧会出品や個展を開催する。 パステル画を中心とした作品が特徴である。 1885年12月8日、岩手県江刺郡黒石村長根(現:奥州市水沢黒石町字長根)の農家に7人兄弟の次男として生まれる。実家はかつて庄屋を務めるほど豪農である。1892年ごろ黒石村立博文尋常小学校(のちの奥州市立黒石小学校)に入学し、熊野神社神主より漢学を学んだ。卒業後、当時村内には高等小学校が無いため、胆沢郡前沢町の前沢尋常高等小学校へ進み、のちに七光社同人となる村上隆一と自炊生活を始めた。
富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)1… 富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)12月5日 - 1954年(昭和29年)11月3日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、衆議院議員。 愛知県出身。富田治郎右衛門の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1913年、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府警視、埼玉県理事官、同視学官、内務省警保局事務官兼内務書記官、社会局第一課長、同書記官、同労働部長、同社会部長、中央職業紹介事務局長などを歴任。 1935年1月、三重県知事に就任。1937年1月、広島県知事に転じた。
飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12… 飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12月4日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1885年(明治18年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第18期、陸軍砲工学校高等科第16期(優等)卒業。1914年(大正3年)に、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 イギリス駐在を経て、1928年(昭和3年)8月に陸軍通信学校研究部主事に就任し、1930年(昭和5年)3月6日に陸軍工兵大佐に進級、8月1日に電信第2連隊長に転じた。1932年(昭和7年)4月に近衛師団司令部附となり、日本大学に配属された。 1933年(昭和8年)8月に陸軍砲工学校教官に転じ、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に津軽要塞司令官に着任。
坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12… 坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12月2日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、日本の医師・内科医学者・政治家。東京帝国大学教授や貴族院勅選議員を務めた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、附属病院副手、伝染病研究所技手、東京帝国大学助手を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学講師となった。同年、医学博士号を受ける。1926年(大正15年)より欧米に留学し、1928年(昭和2年)に帰国したのち、東京帝国大学助教授、東京警察病院院長となった。その後、同大学教授、同医学部附属病院院長、同医学部長となり、1946年に定年退官した。1946年から1956年まで厚生技官となり、国立東京第一病院院長、国立東京第一病院附属高等看護学院長を務めた。
今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 19… 今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 1935年7月29日)は、日本の造兵技術者。海軍造兵少将。 福岡県出身。1905年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1912年7月東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。東大在学中の1911年2月、海軍造兵学生試験に合格。 1912年海軍造兵技士として呉海軍工廠に入り、呉海軍工廠砲熕部部員、舞鶴海軍工廠造兵部部員を務めた後、1918年造兵監督官として米国に出張。帰国後、佐世保海軍工廠造兵部部員、呉海軍工廠砲熕部部員などを務め、1929年11月海軍造兵大佐に累進し、横須賀海軍工廠造兵部部員となる。1932年10月呉海軍工廠砲熕部部員を経て、1934年11月佐世保海軍工廠造兵部長に就任する。
大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1… 大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1966年)は、日本の国文学者。号は紫牛。 福岡県出身。1905年福岡県立尋常中学修猷館、1909年第五高等学校英語文科を経て、1912年東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。 1920年第四高等学校教授に就任し、国語を講じる。1935年旧制広島高等学校教授に転じて、国語を講じる。
平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958… 平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958年5月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月… 池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月1日 - 1940年〈昭和15年〉4月12日)は、日本の大蔵・台湾総督府官僚。台湾総督府専売局長、同財務局長。 東京府東京市出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、高等文官試験に合格した。専売局書記、参事補、副参事、参事を務め、三田尻専売局長、徳島専売局長、岡山専売局長、専売局煙草課長を歴任した。その後、台湾総督府専売局参事に転じ、1929年(昭和4年)には専売局長となった。翌年には財務局長に就任した。 退官後は東洋葉煙草株式会社社長を務めた。
園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日… 園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日 - 昭和19年(1944年)1月)は、保育事業家。 大正3年(1914年)に、京都市最初の保育園を開設した。 明治18(1885)年12月1日、宮崎県高鍋で士族の家庭に生まれる。旧姓は、藤田。 明治33(1900)年に、同志社女学校(現在の同志社女子大学)入学し、明治38(1905)年、に卒業する。同年、京都看病婦学校1年に編入し、同年5月には渡米、フィラデルフィアの一致協会附属看護学校(Presbyteriam Hospital of Nursing)に留学する。 明治42(1909)年4月、卒業。その後、社会施設事業等を見学視察し、同年11月に帰国。
有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉… 有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉12月 - 1960年以降没)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。大同電力取締役兼営業部長・工務部長などを務めた。福井県出身。 有村慎之助は、1885年(明治18年)12月、福井県人・有村静江の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1909年(明治42年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学在学中の実習で、富士水電という静岡県東部の電力会社が行っていた発電所建設工事に関わったことから、富士水電に懇望されて卒業後はそのまま同社に技師として入社した。
藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12… 藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12月 - 1930年(昭和5年)2月12日)は、佐賀県出身の日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。板垣退助伯爵彰徳会(日光板垣会)初代名誉会長。 佐賀県出身。大地主・藤山ミスの三男として生まれた。第五高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 1911年4月、富山県試補となる。以後、同事務官補、同教育課長、同警視・警察部警務課長、和歌山県理事官・学務課長、同視学官などを経て、1918年1月、福島県警察部長に就任。1919年6月に休職。
岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12… 岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12月31日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。兵庫県伊丹町(現在の伊丹市)町長。 兵庫県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。群馬県属、同佐波郡長、同商工課長、香川県商工課長、同水産課長、同学務課長、広島県学務課長、同農務課長、新潟県学務部長、樺太庁警察部長、北海道庁学務部長を歴任した。 その後、共盛無尽取締役、尼崎市助役を経て、伊丹町長に就任した。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12… 東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の40代内閣総理大臣、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後、A級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 陸軍次官(第25代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)、関東軍参謀長(第10代)を歴任した。 父は岩手県(盛岡市)出身である東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。
田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月… 田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月26日 - 1945年(昭和20年)9月)は、台湾総督府官僚。名古屋市長。 山口県出身。1904年(明治37年)、早稲田大学邦語法律科(現・法学部)を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計となる。台湾総督府事務官、殖産局商工課長・庶務課長、勅任参事官、台北州内務部長を歴任した。 退官後、名古屋市助役を経て、1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで名古屋市長を務めた。 その後、東北電気株式会社取締役、東邦瓦斯証券株式会社顧問、東邦電力株式会社顧問となった。 戦時中は新潟県内に疎開し、1945年(昭和20年)9月に亡くなった。
宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12… 宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の警察官。東京市赤坂区長、芝区長。 宮沢今朝吉の長男として長野県に生まれる。中央大学を卒業後、警視庁に奉職し、丸の内、築地、神田錦町、両国、象潟各警察署勤務、上野、芝、愛宕各警察署長を歴任した。 1936年(昭和11年)9月、赤坂区長に就任し、1938年(昭和13年)10月、芝区長に転じた。1943年(昭和18年)1月、退官し、日本医療団参事となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月… 太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月24日 - 1969年(昭和44年)5月1日)は、愛知県出身の洋画家・挿絵画家。挿絵画家としては君島柳三の名を用いた。日本画の号は本名をもじった沙夢楼である。光風会所属。 1884年(明治17年)12月24日、愛知県西春日井郡下小田井村(現・清須市西枇杷島町)に生まれた。父の太田仙草は青物問屋を営む傍らで、日本画の土佐派を学んだ文人でもあった。 17歳の時に上京し、まずは日本画を、その後洋画を学んでいる。日本画は寺崎広業に師事した。洋画は黒田清輝に学び、さらに白馬会洋画研究所にも通っている。 1913年(大正2年)の第7回文展で「カッフェの女」が受賞した。
尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月… 尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月23日 - 没年不明)は、日本の商人(醤油商)、醤油醸造家、広島県醤油同業組合長、広島県多額納税者、実業家。備南銀行取締役。 広島県広島市出身。先代忠蔵の長男。神田吉松の兄。広島県立広島商業学校を卒業。安政3年創業の醤油醸造業を承継し、傍ら銀行の重役であり県下の多額納税者に列した。 1926年、広島県醤油同業組合長に就任し、同年に先代退隠により家督を相続した。1927年以来、町総代。1930年、備南銀行取締役に当選。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は魚釣、書画、骨董。宗教は真言宗。処世の信条は、穏健着実主義。住所は広島市胡町。
松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月… 松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月23日 - 1972年(昭和47年)7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 和歌山県名草郡、のちの海草郡貴志村(現和歌山市)で生まれた。関西法律学校を経て、1906年京都法政大学(現在の立命館大学)法律科卒。卒業後は古河鉱業から大阪市役所に勤務する。津市共融合資会社の法律顧問となり津市に来住。 その後、津市議、同副議長、三重県議などを経て、1930年の第17回衆議院議員総選挙では三重1区(当時)から立憲民政党非公認で立候補して最下位で初当選し、同選挙区で民政党4人目の当選者となった。以来連続7回当選。米内内閣大蔵参与官、第1次吉田内閣運輸政務次官などを歴任した。
土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月2… 土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月22日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選徳島県知事、室蘭市長。 堺県堺区(現・大阪府堺市堺区)で土居栄十郎の長男として生まれる。その後、北海道に移り、北海道庁立札幌中学校を卒業。第二高等学校文科を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科 (独法)(現・東京大学法学部)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験に合格。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県柴田郡長、同遠田郡長、同牡鹿郡長、茨城県理事官、高知県警察部長、熊本県警察部長、佐賀県警察部長、島根県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長、福井県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長などを歴任。
眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 19… 眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 1966年10月15日)は、日本海軍の軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。
山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1… 山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1970年9月24日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1907年に兵庫県立工業専門学校を卒業。1927年に東邦ガス取締役に就任し、1934年2月に西部ガス社長に就任し、1960年2月には会長に就任。RKB毎日放送取締役、九州電力取締役、福岡商工会議所会頭なども歴任。 1961年11月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章。 1970年9月24日福岡市の病院で死去。85歳没。
黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月2… 黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月21日 - 昭和19年(1944年)9月30日)は、日本の華族。貴族院議員・帝都復興院参与・司法省委員を務める。位階・勲等・爵位は正三位・勲三等・伯爵。 第1軍司令官を務めた黒木為楨陸軍大将伯爵と、妻ヒヤク(黒田清隆の養女)の長男として東京に生まれる。一高で内村鑑三の元で学び、明治45年(1912年)東京帝国大学法科大学を卒業。大正7年(1918年)から欧米に留学し、帰国後は母校の東京帝国大学法科大学で副手を務める。大正12年(1923年)2月3日の父の薨去を受けて襲爵し、伯爵となる。三次は同年9月1日に発生した関東大震災の復興を目的とした帝都復興院参与に就任し、大正15年(1926年)5月1日には補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出された。
石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - … 石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - 1945年6月21日)は、日本の文部・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。広島中学、第三高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年5月、文部省維新史料編纂事務局書記となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年6月、文部属となり普通学務局に配属。その後、兼内務属・地方局勤務、秋田県理事官、群馬県視学官などを歴任。 1919年8月、朝鮮総督府に転じ江原道第三部長に就任。さらに平安北道第三部長、同警察部長、朝鮮総督府内務局地方課長などを歴任した。
曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12… 曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12月20日 - 1966年(昭和41年)8月11日)は、日本の法学者。専門は民法。実業家。学位は、法学博士。元京都帝国大学教授。 明治17年(1884年)、石川県能美郡川北町で、静泉寺住職・曄道大圓の長男として生まれる。第四高等学校を経て、明治42年(1909年)、京都帝国大学法学部を首席で卒業。曄道の卒業と同年に東京帝国大学を卒業した鳩山秀夫が、曄道が高等文官試験を受けると聞き付け、首席を取られることを恐れて、自身の高等文官試験受験を取り止めたとの逸話がある。 後に、京都帝国大学助教授、次いで教授を務め、京大民法学の基礎を固めたが、大正9年(1920年)、京大教授を退官、実業界に入った。
富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月… 富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月20日 - 1930年(昭和5年)10月24日)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 福島県出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省理財局銀行課勤務、司税官、亀戸税務署長、広島税務監督局事務官、大蔵事務官、専売局副参事を務めた。1921年(大正10年)、台湾総督府に転じて財務局主計課長となり、1926年(大正15年)に財務局長に就任した。
浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 194… 浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 1945年1月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1884年(明治17年)12月、高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)に浜田勇次郎の子として生まれた。海南中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1917年(大正6年)、歩兵大尉になり歩兵第44連隊中隊長に就任。1919年(大正8年)、シベリア出兵に従軍。1929年(昭和4年)、歩兵中佐に進級。1931年(昭和6年)、予備役に編入された。1937年(昭和12年)、日中戦争(日華事変)で召集。1943年(昭和18年)、陸軍大佐に進んだ。
白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12… 白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月24日)は、日本の内務及び警察官僚。官選県知事。旧姓は林。陸軍大臣や首相を務めた林銑十郎は実兄。 石川県出身。父、石川県士族・林孜々郎が富山県礪波郡首席書記の時に、同郡出町(現砺波市)で三男として生まれる。その後、父の上司(郡長)で後に山口県警部長となった白上俊一の養子となる。第四高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部・第一部警務課勤務となる。 1910年12月、警視総監官房文書課審査係長兼高等課外事係長に就任。
有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月… 有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は、日本の政治家。農政研究者。農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。プロ野球オーナー。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。伯爵。
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12… 北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。 昭和を代表する彫刻家の一人。代表作に長崎平和公園設置の巨大像「長崎平和祈念像」、国会議事堂内設置の「板垣退助翁」などがある。文化勲章・紺綬褒章受章者、文化功労者。日本彫刻会では西望の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に贈られる賞の名称を「北村西望賞」(西望賞)としている。 また、個人寄付により小中学生の教育美術振興を目的とした「北村西望賞基金」を設け、これは2016年12月 (2016-12)現在[update]、「北村西望賞教育美術展」として公募展の形で継続している。
小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月… 小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月14日 - 1966年〈昭和41年〉2月3日)は、明治 - 昭和期の日本の作曲家・教育家・評論家。秋田県由利郡舘合村(後の玉米村→東由利村→東由利町舘合、現在の由利本荘市東由利舘合)出身。東京音楽学校卒業。号は玉巌(ぎょくがん)。 1901年に上京して東京音楽学校選科に入学。1903年に同校本科に進み、ヴァイオリンを幸田延、ピアノと作曲をヘルマン・ハイドリヒ、和声法をノエル・ペリーに師事。1906年に東京キリスト教青年会会館で歌劇「羽衣」を初演。同年、同校を卒業し、研究科でアウグスト・ユンケルに声楽を師事。学習院講師。1920年に渡仏。
東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1… 東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1966年12月19日)は、日本の国語学者。旧制静岡高等学校・広島高等師範学校・学習院・東洋大学の教授。東京大学講師。日本全国を回り、日本の方言研究の土台を築いた。
中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1… 中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1960年11月28日)は、昭和期の日本の政治家で、非公選最後及び公選初代の佐世保市長である。 佐世保市出身。早稲田大学政経科(現在の政治経済学部)を卒業し、帰郷して地元の佐世保軍港新聞の記者になったが体調を崩し2年ほどで退職して実家で農業を営む。1916年7月の長崎県議会議員補欠選挙に擁立され初当選、以後佐世保市議会議員(5期、1918年~1936年)、同議長(1930年6月~1932年3月)、さらに衆議院議員(1期、1932年~1936年)を務めた後、戦後間もない1946年8月に第12代佐世保市長に就任。翌年の初の市長選で引き続き当選、非公選1期、公選2期の計9年間に及び市長を務めた。
須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)1… 須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)12月13日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は明治から大正期の作曲家。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)谷王子出身。和歌山中学卒業の後、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)甲種師範科入学。途中2年間休学して、東京市茅場小学校で代用教員を務めたのち、復学し、明治44年に卒業した。翌年、竹久夢二作詞の『宵待草』のモデルとなった長谷川カタ(賢)と結婚し、東京市十思小学校で訓導をつとめた。 音楽教諭として、鹿児島師範学校、旧制鹿児島一中、京都師範学校、同女子師範、桃山高女、滋賀女子師範、大津高女 彦根高等女学校に赴任。戦中は一時、中島飛行機半田製作所に勤務し、戦後、半田高等女学校(のち半田高校)で音楽を教えた。
武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - … 西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - 1972年10月18日)はアメリカで農場経営者となった人物。 1884年(明治17年)12月12日、高知県高知市新田淵(現在の桜井町)で元同志社社長で衆議院議員の西原清東の長男として生まれた。1902年(明治35年)東京築地立教中学卒業、第七高等学校に合格したが父親に呼ばれ渡米。父と一緒に米作りをする。戦前は東南テキサス日本人会長をしていたため開戦時拘束されたが、「米は武器、その専門家を捕まえて米を腐らせるのか」との名言を残し釈放される。1957年(昭和32年)母方のはとこの婚姻に合わせ一時帰国、日本からの移民に対する後援の功により勲五等瑞宝章を受ける。