安士 正夫(やすし まさお、1912年9月3日 - 1970… 安士 正夫(やすし まさお、1912年9月3日 - 1970年10月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。東京都立大学名誉教授。筆名に中田 精一。 北海道小樽市生まれ。1937年東京帝国大学仏文科卒、東京都立大学教授を務めた。 バルザックが専門だが、ルソー『新エロイーズ』を初めて完訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 … 田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 - 1953年〈昭和28年〉8月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 北海道函館区(現函館市)で生まれる。北海道庁立函館中学校(現北海道函館中部高等学校)を経て、1939年(昭和14年)東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業した。興亜院嘱託となり、同技手、在北京大使館技手、同技師を歴任した。 その後、日本興行取締役、函館ミツワ商会取締役会長、大洋貿易社長、函館ドック顧問などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で北海道第3区から民主自由党所属で出馬して初当選。第25回総選挙で自由党所属で出馬するも次点で落選。
亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日… 亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日 - 1994年〈平成6年〉3月14日)は、日本の弁護士、政治家。北海道旭川市生まれ。日本社会党の参議院議員、日本社会党大阪府連合書記長、全国革新懇代表世話人を務めた。 生まれてすぐ、家族が石川県に引っ越したため、少年時代を金沢市で過ごす。金沢の第四高等学校に進学。後に日本社会党委員長となる成田知巳と同じクラスで、成績は1、2位を競い合った。2人とも東京帝国大学法学部に合格。社会運動を行っていた賀川豊彦と出会い、キリスト教の洗礼を受けた。賀川牧師のもとで、当時、治安維持法違反で保釈中だった岩本りえと出会い、結婚する。戦時中は弁護士として小作争議などを担当した。
根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年… 根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年6月7日)は、北海道余市郡余市町出身の日本の競泳選手。立教大学卒業。1930年代に活躍し、1936年ベルリンオリンピックで入賞した。 余市町大川尋常小学校(現 余市町立大川小学校)時代に本格的に水泳を始め、旧制余市中学校(現・北海道余市紅志高等学校)時代から競泳選手となり、全国大会に出場するが、予選で敗退している。 1931年に立教大学に入学してから徐々に力をつけ、1934年の第10回日本選手権水泳競技大会では男子1500m自由形にて19分16秒2で優勝、そのレースの1000m途中計時で12分41秒8の世界新記録を樹立すると、同年の第十三回全國學生水上競技大會では400m及び800mの自由形で牧野正蔵(早稲田大学)と激しく鍔迫り合いを演じ、2種目とも牧野に及ばず2位となるも800mでは10分8秒4のタイムを出し、10分1秒2を出した牧野とともに世界新記録を更新した。
木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明… 木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明)は、日本の心理学者・教育者。稚内北星学園、北星学園女子短期大学の学長を務めた。専門は特殊児童心理学で、日本における障害児教育の先駆者の一人。 北海道夕張市出身。1935年、北海道札幌師範学校を卒業して深川尋常高等小学校の教員となる。しかしキリスト教徒のため天皇礼拝を拒んだ事などが原因で1937年に辞職し、同年に上京して東京市内の尋常小学校の代用教員などを務めながら1943年に法政大学法文学部を卒業した。 法政大学商業学校教員などを経て、1951年に北海道大学教育学部の助教授となる。1954年からは、北星学園が開設した一年制の幼児教育専修学校で教育心理学の講義を担当している。
佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2… 佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。 生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。出身地にある宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設、日本で最も多い約600点の彫刻作品を収蔵。その他、滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良記念館、札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵・展示されている。 女優の佐藤オリエは娘。作品のモデルを務めた彫刻家の笹戸千津子は弟子。
林 茂司(はやし しげじ、1912年3月29日 - 1984… 林 茂司(はやし しげじ、1912年3月29日 - 1984年2月8日)は、日本の経済学者。専門は労働経済学。元札幌商科大学学長。 1912年、北海道勇払郡早来町(現・安平町)生まれ。1929年北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)を卒業。1932年第二高等学校文科甲類卒業。1936年に東京帝国大学経済学部卒業し、満州国財政部に勤務する。その後終戦前に、北海道に戻り、産業復興会議北海道幹事となった。 戦後は北海道札樽工業地帯調査会事務局長などを経て、1952年北海道立総合経済研究所(北海道庁研究機関)に入所。1962年より北海道立総合経済研究所研究第2部長。1967年には北海道立総合経済研究所副所長。
一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - … 一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - 没年不明)は、北海道函館市出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は海老田 松夫。最高位は十両8枚目。 井筒部屋に入門し、1927年1月初土俵を踏む。1934年5月十両に昇進。翌1935年1月、東十両8枚目まで上がったが、4勝7敗と負け越し、この場所限りで24歳の若さで廃業した。 一ノ浪 枩夫→谷岩 枩夫(1933年1月場所-)→一ノ濵 枩雄(1934年5月場所-)
小山 初代(おやま はつよ 1912年(明治45年)3月10… 小山 初代(おやま はつよ 1912年(明治45年)3月10日 - 1944年(昭和19年)7月23日)は、小説家太宰治の内縁の妻。芸者としての名は紅子。太宰からはハツコと呼ばれていた。 「HUMAN LOST」(1937年)や「姥捨」(1938年)や「東京八景」(1941年)など多数の太宰作品に登場する一連の女性のモデルとなった。 父・小山藤一郎と母・キミ(旧姓:吉沢)の長女として北海道室蘭市に生まれる。1922年(大正11年)、父が失踪したため、母子家庭となり、一家で青森に移住。母は置屋「野沢屋」で裁縫師として働いた。 1925年(大正14年)3月、南津軽郡大鰐町の大鰐尋常小学校を卒業し、母の勧めで料亭「玉屋」(野沢屋の後身)に仕込妓(芸妓の使い走り)として住み込みで働く。
時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 19… 時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 1994年11月2日)は、日本の教育者。学校経営者。元学校法人北星学園理事長。 北海道札幌市生まれ。1935年北海道帝国大学農学部卒業。同年、札幌光星商業学校教諭。1946年北星高等女学校教諭。1948年北星学園高等部部長(学校長)。1951年北星学園理事。北星学園女子短期大学副学長。1956年北星学園幼稚園園長。北星学園女子短期大学学長。1969年北星学園第2代理事長に就く。1987年学校法人稚内北星学園初代理事長。1991年高齢のため同理事長退任。北星学園名誉理事長に就く。
生田 勉(いくた つとむ、1912年2月20日 - 1980… 生田 勉(いくた つとむ、1912年2月20日 - 1980年8月4日)は、日本の建築家・建築学者。東京大学名誉教授。木造の温かみを生かした住宅・山荘作品に独自の境地を開いた。また、アメリカの文明批評家であるルイス・マンフォードの著作の紹介者としても知られる。 北海道小樽市生まれ。旧制第一高等学校から、1939年東京帝国大学工学部建築学科卒。一高同期に立原道造、大学の一期上に丹下健三・浜口隆一がいる。特に立原とは深く交わった。また、ル・コルビュジエの作品・思想に強い影響を受けた。 その後逓信省営繕課勤務を経て、1944年旧制一高教授。その後東大教養学部助教授となり、1961年教授、1972年定年退官。
阿部 功(あべ いさお、1912年2月18日 - 1980年… 阿部 功(あべ いさお、1912年2月18日 - 1980年2月15日)は、日本の投擲競技選手。 1936年ベルリンオリンピックにハンマー投で出場。 北海道札幌郡円山町(現在の札幌市中央区)生まれ。札幌師範学校附属小学校、北海中学校(現在の北海高等学校)に進む。北海中学校在学中には、砲丸投で北海道選手権を獲得。 中央大学に進学、在学中に1933年・1934年と日本陸上競技選手権大会ハンマー投種目で優勝。1934年9月9日には日本記録となる48.98mを投擲し、同年10月10日には49.10mに日本記録を更新した。 中央大学を卒業し、1936年ベルリンオリンピック出場時には鉄道省所属。 第二次世界大戦後、1947年の日本陸上競技選手権大会で3度目の優勝を果たす。
丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年… 丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年1月13日)は洋画家である。
畔柳 二美(くろやなぎ ふみ、1912年(明治45年)1月1… 畔柳 二美(くろやなぎ ふみ、1912年(明治45年)1月14日 - 1965年(昭和40年)1月13日)は、日本の小説家。北海道千歳市生まれ、1928年に北海高等女学校卒業。 旧姓遠藤。北海道千歳郡千歳村(現・千歳市字水明郷)の王子製紙株式会社千歳第一発電所の社宅に、発電所技師であった父遠藤彌次郎、母サキの次女として生まれている。姉八重、弟彌弘、満、實の五人姉弟であった。 1918年(大正7年)発電所内の私立小学校に入学したが、1年程で発電所の勤務が北海道虻田郡狩太村(現在のニセコ町)に移って、狩太尋常小学校に転校し1924年(大正13年)3月卒業、同年4月に札幌市の北海高等女学校に入学している。
木田 三千雄(きだ みちお、1912年〈明治45年〉1月11… 木田 三千雄(きだ みちお、1912年〈明治45年〉1月11日 - 1994年〈平成6年〉7月29日)は、日本の俳優。本名は同じ。 青森県黒石市出生、北海道出身。エヌ・エー・シーに所属していた。 札幌レビュー団を皮切りに早川雪洲一座、水谷八重子芸術座、森川信一座など数々の劇団を渡り歩いた。 テレビ進出後は温かみのあるキャラクターでお茶の間の人気を得た。 1992年に芸団協から芸能功労者表彰を受ける。 1994年に、東京都杉並区、荻窪病院で、肝臓ガンのため死去。82歳没。 特技は乗馬、東北弁。
吉村 克二(よしむら かつじ、1912年(明治35年) - … 吉村 克二(よしむら かつじ、1912年(明治35年) - 1982年(昭和57年))は、日本の農学者・水産学者。専門は水産学・水産食品学。北海道大学及び函館短期大学名誉教授。元函館短期大学学長。北海道砂川市出身 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
山下 正(やました ただし、1912年 - 2011年)は、… 山下 正(やました ただし、1912年 - 2011年)は、日本の料理人。美術品コレクターでもある。 第一洋食店(北海道苫小牧市)の2代目店主であり、明治時代に日本へと伝わってきたフランス料理を父・山下十治郎から引き継いでいる料理人として周囲からは一目置かれていた。 同時に趣味人でもあり、2代目店主に惹かれて日本の文化人たちが日夜、店に集うようになり、第一洋食店は苫小牧の文化サロンとなっていった。川上澄生や芹沢銈介といった民藝運動ゆかりの芸術家たちとの交流を通じ、美術品や工芸品を多数収集している。 第二次世界大戦中、北海道白老町に疎開していた川上澄生は山下と交友をもち、川上の版画の第一洋食店にも展示してあるほか、「山下正コレクション」には数十点が集められている。
貝澤 正(かいざわ ただし、1912年 - 1992年2月3… 貝澤 正(かいざわ ただし、1912年 - 1992年2月3日)は、元平取町議会議員、元北海道ウタリ協会副理事長。北海道平取町出身。 1912年に生まれる。祖父はウエサナシ(Uesanash)、父は与治郎。父親はアイヌ人であったが、日本人に同化することを目指していた。母親は和人であったが、アイヌ文化を子どもたちに教えていた。平取尋常高等小学校高等科卒業。 1941年、開拓団員として満州に渡る。当地での中国人や朝鮮人に対する日本人の仕打ちに辟易する。差別言動を注意して銃を突きつけられることもあった。開拓団から離れ、満州の土地で農業を始めたが、体を悪くして帰国する。 平取町に戻り、零細農家から始める。
本間 文子(ほんま のりこ、1911年11月29日 - 没年… 本間 文子(ほんま のりこ、1911年11月29日 - 没年不詳)は、日本の女優。本名は武田 サダ(たけだ - )。旧芸名は本間 敦子など。息子は、元俳優の園田哲也。
鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年11月17日 - … 鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年11月17日 - 1990年10月28日)は、日本の実業家。フジサンケイグループ会議議長。 津軽藩の御蔵番だった祖父が、御維新で北海道樺太監獄の典獄長(刑務所長)に左遷され、北海道に渡る。 北海道の夕張郡の当時は人口6,000人程度の村だった由仁町に父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた。母・モヨは写真館を経営していた。父・徹は撮影技師だったが由仁町に来てからは歯科医になった。 1924年、岩見沢中学に進むと弁論部に入って主将を務めていたが、鹿内は「小生意気な子供であった」という。通学用の革靴が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら穿いていた。
平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1… 平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1994年11月14日)は、日本の歴史学者。防衛大学校名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。
八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月2… 八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月21日 - 1999年(平成11年)11月9日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。位階は従四位。 北海道胆振国室蘭郡室蘭町大字札幌通4丁目(現在の室蘭市中央町1丁目)に、父・田中好治、母・八木セイの次男(庶子)として生まれる。父の好治は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の出身で、東京帝国大学医科大学を卒業し、義徳が出生した時点では町立室蘭病院(現在の市立室蘭総合病院)に務めていた。名医と評判であり、その後独立して室蘭市内に田中病院を開業している。一方、母のセイは青森県東津軽郡油川村(現在の青森市大字油川字大浜)出身で、小樽市の海産物商の養女となるが養家が没落し、室蘭で芸妓となり田中好治と知り合った。
本名 武(ほんな たけし、1911年10月10日 - 199… 本名 武(ほんな たけし、1911年10月10日 - 1994年4月12日)は、日本の政治家。位階は従三位。 沖縄開発庁長官(第2代)、総理府総務長官(第19代)。衆議院議員(通算当選10回)。三木武夫直系の政治家として知られている。 北海道現帯広市出身。旧制帯広中学校(現・北海道帯広柏葉高等学校)を経て1932年に武蔵高等工科学校(のちの新制武蔵工業大学、現東京都市大学)を卒業。本名木材社長を経て1942年帯広市議会議員に当選。1946年第22回衆議院議員総選挙に北海道政治同盟公認で立候補し初当選(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。
水野 洽(みずの ひろし、1911年9月1日 - 1997年… 水野 洽(みずの ひろし、1911年9月1日 - 1997年11月4日)は、日本の映画監督である[4][5]。別名片岡 均(かたおか きん)[4]。
山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 199… 山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 1991年11月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京市品川の二本榎に生まれた。父が寺の住職をしていた関係で小学校と中学校時代は北海道の函館で過ごし、函館中学校(後の函館中部高校)を経て早大一高に進学、この頃から柔道で頭角を現し始めた。同時期、小内落を考えだし研究し完成させた。膝を柔らかく保って両足の指先は左右に開かず真っ直ぐ平行に構え、小柄な体格と他人には真似のできないその独特の足運びから小さな大選手として名を馳せた。1933年10月の第7回明治神宮大会柔道競技では準決勝戦で東京高等師範学校の加藤幸蔵5段を小内落で降し、同門対決となった決勝戦では早大専門部の山口利雄5段の払釣込足に辛酸を舐めたものの準優勝という成績を残した。
笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1… 笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1989年4月17日)は、日本の元ラグビー選手、俳優。本名同じ。東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ、北海道育ち。 ラグビー選手として現役時代の主なポジションはフルバック(FB)及びファイブエイス(FE)。 北海中等学校(現 北海高等学校)を経て、明治大学(以下、明大)に進学。明大ではラグビー部で活動し、1930年度シーズンから1935年度シーズンまで、6年連続で明早戦に出場した他、同部在籍時代は全ての公式戦(全45試合)に出場した経験を持つ。トライゲッターであるとともに、キッカーとしても明大の得点源選手として活躍した。 また、1932年のカナダ代表来日試合を手始めに、ラグビー日本代表(以下、代表)としてキャップ6を獲得。
近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不… 近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不明)は、日本の俳優。北海道岩見沢市出身。本名は柿崎 敏一、旧芸名は近江敏明。趣味は音楽鑑賞。 早稲田大学経済学部卒業。 1934年、松竹蒲田撮影所に入り、同年の『会社員閣下』で主演する。誠実な青年役で注目を集めた。また、松竹の看板スターだったが、1935年に松竹を退社した藤井貢が主演していた『若旦那』シリーズに藤井の跡を継いで主演した。1930年代半ばから清水宏監督などのメロドラマで主役を演じたが、次第に脇役に回っていった。本人も「脇役のほうに持ち味があると自他ともに認めた」と語っている。1937年頃に上原謙、夏川大二郎、徳大寺伸と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会「8クラブ」を結成し、毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていた。
柄沢 とし子(からさわ としこ、本名:松島 登志子(と志子と… 柄沢 とし子(からさわ としこ、本名:松島 登志子(と志子とも)、1911年5月7日 - 2013年12月2日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を2期務めた。夫は日本共産党名誉幹部会委員の松島治重(1994年死去)。日本で最初に女性参政権が認められた、1946年総選挙で当選した日本最初の女性国会議員(39人)の一人。共産党女性国会議員第1号としても知られる。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、道庁などでタイピストをしながら日本労働組合全国協議会に参加。三菱美唄炭鉱などでストライキに関わるが、非合法活動により1929年以来数度検挙される。
川村 清一(かわむら せいいち、1911年3月23日 - 2… 川村 清一(かわむら せいいち、1911年3月23日 - 2004年7月16日)は、日本の政治家。参議院議員(3期・日本社会党)、北海道議会議員。 北海道小樽市生まれ。函館師範学校(現在の北海道教育大学函館校)卒。1946年北海道教職員組合情報宣伝部長、1948年浦河町立浦河第一中学校校長を経て、1955年日本社会党から北海道議会議員に初当選。1963年日本社会党北海道本部委員長。1965年の同党公認で第7回参議院議員通常選挙にて初当選。以後連続3期。参議院農林水産委員会理事を長く務め、1979年に再び同党北海道本部委員長に就任。横路孝弘の知事選の裏方役に徹し、横路道政誕生に尽力した。1983年横路知事の誕生と共に引退。
斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月… 斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月15日 - 1968年(昭和43年)8月30日)は、昭和時代の労働運動家、労働評論家。 北海道長万部町生まれ。1930年山形県立新庄中学校(現山形県立新庄北高等学校)卒業。 1931年秋田で農民運動に参加。1932年全農全国会議秋田地方委員会を組織、日本共産党に入党。同年11月に治安維持法違反で検挙されて懲役5年の判決を受け、1939年に出獄。 敗戦後の1945年、共産党に再入党。1946年の結成時から産別会議の書記となり、党フラクションの責任者として労働運動を指導。1947年の二・一スト挫折の渦中に立つ。 1949年に労働組合政策をめぐって党中央と対立し、産別会議を離れ、共産党東京都委員に就任。
栗谷川 健一(くりやがわ けんいち、1911年2月28日 -… 栗谷川 健一(くりやがわ けんいち、1911年2月28日 - 1999年8月12日)は、北海道岩見沢市出身の画家・グラフィックデザイナー。 観光ポスターを中心に北海道の自然・酪農・アイヌ文化をモチーフとしたイラストを数多く描き、さっぽろ雪まつりや札幌オリンピックなどのイベントにも携わり「北海道デザイン界の父」とも評される。生涯を通じ北海道を拠点に活動、独自の趣きを持ったポスター類は北海道観光の起爆剤の一翼を担い、企業のカレンダーやパッケージ、デザイン学校の経営にも携わり幅広く活躍した。 1911年に岩見沢の開拓農家、林忠太郎・たまき夫妻の第7子3男として生まれたが、生後数日で母の妹きくよと製材所職員の栗谷川衛の夫妻の養子となる。
左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日… 左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日 - 1936年〈昭和11年〉1月7日)は、昭和時代初期の日本の詩人。本名は川崎 愛。名の「愛」は「ちか」と読むが、「あい」とも呼ばれていた。「現代詩の起点となる詩人」とも賞される。 北海道余市郡余市町大字黒川村に生まれる。4歳までは歩行も困難なほど虚弱であった。戸籍上の父は不明、異父兄の昇が終生の支えとなる。1923年3月に余市町立大川尋常小学校を卒業。親族の反対を押し切るかたちで庁立小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)に入学し、1928年同校補習科師範部を卒業。同年8月、先に上京していた兄・昇の自宅に同居を始め、兄の友人として小樽時代から知っていた伊藤整や百田宗治などの作家・詩人たちとの交流が広がる。
石山 キツエ(いしやま キツエ、1911年〈明治44年〉2月… 石山 キツエ(いしやま キツエ、1911年〈明治44年〉2月1日 - 1986年〈昭和61年〉4月21日)は、日本のアイヌ文化伝承者。 北海道雨竜郡雨竜町伏古で誕生した。家はアイヌ歌謡やユカㇻ(英雄叙事詩)の伝承者の家系であり、同じくアイヌ文化伝承者である杉村キナラブック、砂沢クラの姪にあたる。 父方、母方の祖母からそれぞれ、ユカㇻ、アイヌの歌謡を習い覚えた。ヤイサマ(喜びや悲しみの気持ちを即興で歌う歌)を得意としており、ヤイサマの第一人者ともされている。 1928年(昭和3年)に結婚し、旭川市へ移住した。1983年(昭和58年)には夫の石山長次郎や、旭川の他のアイヌ夫妻と共に、アイヌ文化の学習会「ウネウサラ・コトムカ」の講師を務めた。
大島 良雄(おおしま よしお、1911年1月29日 - 20… 大島 良雄(おおしま よしお、1911年1月29日 - 2005年1月11日)は、日本の医学者。日本アレルギー学会名誉会員、東京大学名誉教授、埼玉医科大学名誉病院長。 1911年(明治44年)、北海道札幌市に生まれる。父は農学者の大島金太郎であった。1926年(昭和2年)官立東京高等学校理科2類に入学し、1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科に入学した。1934年(昭和9年)、大学付属病院物療内科に入局した。1940年(昭和15年)、論文「酸性泉の人体に及ぼす影響について」により、医学博士の学位を授与される。1944年(昭和19年)に岡山大学教授となり、終戦直前の1945年(昭和20年)陸軍軍医少尉となる。
小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年… 小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年8月29日)は日本の画家。北海道虻田郡倶知安町出身。 旧制中学(現・北海道倶知安高等学校)で油彩を始める。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。在学中に「納屋」(1933年)が帝展に入選。卒業後、福沢一郎らと出会い前衛的な美術団体「エコール・ド・東京」「創紀美術協会」「美術文化協会」などの結成に参加。シュルレアリスム絵画への道を歩んだが、軍の規制が厳しくなり断念。その後、軍の命令により戦争記録画を制作。戦後は郷里・倶知安に戻り、岩船修三、木田金次郎らと「全道美術協会(全道展)」の創立に参加。1958年、野本醇、因藤壽、穂井田日出麿らと「麓彩会」を創立。
宮島 初子(みやじま はつこ、1911年1月12日‐1981… 宮島 初子(みやじま はつこ、1911年1月12日‐1981年12月27日)は、昭和時代の教育者。北海道出身。学校法人宮島学園創立者。ファッションドレスメーカー専門学校創立者。北海道調理師専門学校創立者。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)を卒業し、結婚。結婚後から洋裁を始め、上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学んだ。卒業後札幌に戻り、1937年、ファッション洋裁塾を設立。これが、現在のファッションドレスメーカー専門学校であり、最古の専門学校のひとつである。1975年には、北海道調理師専門学校を併設。また、1983年には、ファッションドレスメーカー専門学校で最優秀卒業生を表彰する「宮島初子賞」が制定された。
横路 節雄(よこみち せつお、1911年1月2日 - 196… 横路 節雄(よこみち せつお、1911年1月2日 - 1967年6月14日)は、日本の政治家。日本社会党所属の元衆議院議員(8期)、北海道議会議員(1期)。 北海道夕張市出身。札幌師範学校(北海道教育大学札幌校の前身)を卒業し、幌西小学校などで小学校教諭として勤務。北海道教職員組合委員長および日本教職員組合副委員長、北海道議会議員を経て、1949年第25回衆議院議員総選挙に北海道1区から日本社会党公認で立候補したが7位で落選。続く1952年10月第25回衆議院議員総選挙に立候補し初当選(通算8回当選。同じ北海道1区の社会党候補には道議会の後輩島本虎三もいた)。日本社会党の国対委員長や政審会長を歴任。
大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)1… 大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)12月20日 - 2005年(平成17年)12月28日)は、日本の政治家。北海道苫小牧市2代目市長(1963年5月~1983年4月)。苫小牧市名誉市民。 勇払郡苫小牧村(現・苫小牧市)に質屋の三男として生まれる。室蘭商業学校に進学して程無く旧制北海中学校に編入し(同級生として坊屋三郎がいる)、同校卒業後に苫小牧へ戻るが職が見つからず、当時の苫小牧町役場に臨時職員として入庁し徴税課員を経て常勤に。1947年(昭和22年)町長の田中正太郎に36歳で助役に抜擢され、1948年(昭和23年)の市制を迎える。 1963年(昭和38年)に引退する田中市長の後継を決める市長選で、北海道衛生部長を務めた稲垣是成らを破って初当選。
菊川 多賀(きくかわ たか、1910年11月16日 - 19… 菊川 多賀(きくかわ たか、1910年11月16日 - 1991年1月15日)は、北海道出身の日本画家。本名は孝子。日本画家の菊川三織子は姪。日本美術院同人。日本美術院評議員。勲四等瑞宝章受章者。 1910年に北海道で生まれる。豊水小学校卒業後北海高等女学校に進むが、一家の東京転居に伴い麹町高等女学校に転校、病気のため中退。父の友人であった日本美術院同人の清原斎に師事して絵を学んだ。戦後は堅山南風に師事。女性群像や歌舞伎・文楽などを題材とした作品を残した。日本美術院同人として、院展で院賞、文部大臣賞、総理大臣賞の各賞を受賞した。
関口 勇(せきぐち いさむ、1910年10月28日 - 未詳… 関口 勇(せきぐち いさむ、1910年10月28日 - 未詳)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合、アルペンスキー選手。 旧制北海商業学校 → 札幌鉄道管理局 → 北海道帝国大学若労会 中学時代からジャンプの選手として知られ、卒業後はノルウェースキー連盟副会長のオラフ・ヘルセット中尉の指導を受けた。飛型の美しさには定評があり、日本で初めて本場北欧のジャンプを身につけた選手と言われる。1930年の第8回全日本スキー選手権大会ジャンプ競技で優勝。1932年レークプラシッドオリンピックの日本代表に選出されるが、大会直前に病気で途中帰国した。 その後ノルディック複合に転向し、1935年の全日本スキー選手権大会ノルディック複合で優勝、翌1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックの代表に選出される。
横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6… 横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6月12日)は、日本の経営学者・教育者・地方公務員だった人物。札幌大学名誉教授。北海道函館市出身 1928年北海道庁立小樽中学校卒業。1931年小樽高等商業学校卒業。北海道庁立小樽商業学校(現北海道小樽商業高等学校)教諭。1940年北海道函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)教諭。1953年函館短期大学商科助教授(経営管理論・教職担当)。1958年北海道教育委員会指導主事。1959年札幌短期大学商業科客員助教授(経営管理論担当、~1968年)。1963年北海道札幌東商業高等学校校長。1968年北海道旭川商業高等学校校長。1970年北海道立の高等学校の教員として定年退職。
山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 200… 山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 2001年10月)は、日本の政治家・元地方公務員。北海道江別市長(1971年 - 1983年)。北海道網走郡美幌町出身。明治大学専門部商科(後の明治大学商学部)卒業。 美幌町の造材屋に生まれるが、早くに父を亡くす。小学校は網走で終えた。 自治講習所で学んだあと、小清水村役場にて4年間勤務する。 それから、東京で新聞販売店を経営していた兄を頼って上京し、1938年(昭和13年)に明治大学商科専門部を卒業した。 芝浦マツダ製作所(後の東芝)の経理として就職し、神戸の子会社に出向するなどしたが、1945年(昭和20年)に故郷近くの湧別町に疎開。太平洋戦争終結後は、湧別定温倉庫の支配人を務めた。
黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 200… 黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 2006年8月16日)は、日本の随筆家である。タレントの黒柳徹子の母親。
中田 乙一(なかた おとかず、1910年(明治43年)8月2… 中田 乙一(なかた おとかず、1910年(明治43年)8月29日 - 1999年(平成11年)12月28日)は、日本の実業家。元三菱地所社長。位階は正四位。 北海道小樽市出身。庁立小樽商業学校を経て、1932年に小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業。 大蔵省勤務を経て、1939年三菱地所に転じる。総務部長・取締役・常務・副社長などを経て、1969年に社長に就任。在任中は、数多くのニュータウン事業を手がけた他、横浜市の「みなとみらい21」構想を策定するなど、宅地開発・都市再開発事業を積極に推し進め、それまで東京・丸の内の貸ビル事業が主体であった同社を、総合デベロッパーとして発展させる基を築いた。
小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1… 小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1976年11月25日)は、日本の戦前期に活動した流行歌歌手・声楽家である。北海道小樽市出身。別名、金色仮面・小林伸江。 東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。卒業後、新宿ムウランルウジュで初舞台を踏む。 その後、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、水の江滝子やオリエ津阪の相手役を務め、1936年に退団するまで、「タンゴローザ」「ウィンナワルツ」「蝶々夫人の幻想」等、多くの歌劇に出演する。 松竹楽劇部入部と同時に日本ビクター蓄音器株式会社に入社し「金色仮面」(ゴールデン・マスク)という芸名で音盤界デビューを果たした。
黒木 しのぶ(くろき しのぶ、1910年5月15日-1964… 黒木 しのぶ(くろき しのぶ、1910年5月15日-1964年1月15日)は、日本の女優。本名︰石崎 錦。北海道樺戸郡月形町出身。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)卒業。北海タイムス(現・北海道新聞社)編集部勤務ののち上京し、銀座でホステスとして働く。1932年、スカウトされて日活太秦撮影所現代劇部に入社、同年『さらば東京』でデビュー。その後、『一九三二年の母』『霧の夜の客間』『モダン・マダム行状記』などに助演。『さらば東京』で共演した佐分利信と結婚し1934年に引退。1964年、肝臓癌で死去した。墓所は小平霊園。 『日本映画人名事典 女優編』キネマ旬報社
中村 佐喜子(なかむら さきこ、1910年5月7日 - 19… 中村 佐喜子(なかむら さきこ、1910年5月7日 - 1999年10月10日)は、日本の翻訳家・作家。本名は石川佐喜子 北海道札幌市出身。日本女子大学英文科卒業。1942年に発表した小説『雪のりんご畑』が改造社の文芸推薦を受け、その後数作を発表。戦後は翻訳家としての活動が中心となり、数多くの英米文学の翻訳を行う。中でも角川文庫版『赤毛のアンシリーズ』は、その格調高く、且つ温かみのある訳文によって親しまれ、村岡花子訳の新潮文庫版とともにロングセラーとなった。 その他の著書に評伝『ロレンスを愛した女たち』、エッセイ『トマス・ハーディの全小説を楽しむ』などがある。
中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 198… 中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 1986年1月8日)は、日本の劇作家、脚本家である。 1910年(明治43年)5月3日、北海道に中江吉雄として生まれる。弟に喜劇人の佐山俊二がいる。登別市の旧制・尋常小学校を卒業し、札幌郵便局(現在の札幌中央郵便局)に就職したが、その後上京した。 さまざまな職業を経て、1940年(昭和15年)東京・新宿のムーランルージュ新宿座文芸部に入る。おなじころにNHKでラジオドラマを手がけ、中江の『かし家』が1942年(昭和17年)に発行された『放送劇名作選』(日本放送協会編、日本放送出版協会)に収録された。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後、ムーランルージュで社会風俗劇『生活の河』、『にしん場』などを発表した。
大村 晴雄(おおむら はるお、1910年(明治43年)5月2… 大村 晴雄(おおむら はるお、1910年(明治43年)5月2日 - 2016年(平成28年)4月)は、日本の哲学研究者、東京都立大学名誉教授。近世哲学史専攻、ヘーゲル研究者。1970年以来、季刊誌「途上」を刊行。広く思想とキリスト教の諸問題の研究解明にたずさわった。 北海道札幌市生まれ、神奈川県出身。山形高等学校(旧制)卒、1935年東京帝国大学文学部哲学科卒。39年文部省教学局嘱託。41年府立学校教授、召集令状がきて、中国北部に送られたが、語学の才があり、暗号解読など情報の仕事を行った。1946年復員。1949年東京都立大学助教授、1968年教授、1973年定年退官、名誉教授、東洋大学教授、1981年退職。
葛野 辰次郎(くずの たつじろう、1910年(明治43年)4… 葛野 辰次郎(くずの たつじろう、1910年(明治43年)4月10日 - 2002年(平成14年)3月27日)は、アイヌ語・アイヌ文化の伝承者。 北海道日高管内・静内郡静内町字東別(現・日高郡新ひだか町)に生まれ育つ。祖父は和人(青森県むつ市田名部出身)、祖母はアイヌ。父・小天(民族名 Kocinpauk)と母・タク(民族名 ukaecure)の8人兄弟の末子として生まれる。つる夫人(1912-1989)は和人だが、幼児期より静内町東静内のアイヌに育てられ、アイヌ語もよくできた。アイヌ語で育ったが、小学校は和人と同じ学校であったため日本語を学んだ。和人との交流が深まるにつれ、日本語中心の生活になり、アイヌ語はあまり使わなくなった。