四宅 ヤエ(したく ヤエ、1904年〈明治37年〉4月10日… 四宅 ヤエ(したく ヤエ、1904年〈明治37年〉4月10日 - 1980年〈昭和55年〉8月11日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ語を母語に育った最後の世代の1人とされ、アイヌ語の白糠方言伝承者、ユカㇻ(叙事詩)の伝承者としても知られる。北海道白糠町や北海道東部でユカㇻ、舞踊、音楽などを伝承し、晩年は後進の指導や聞き取り調査などで、アイヌ文化の継承に貢献した。 北海道白糠で誕生した。旧姓は相戸(あいと)。両親を早くに亡くし、祖父と2人で、アイヌ語のみで生活した。祖父からアイヌの物語を聞かされ、祖父を訪ねてくる近所の人たちからも、アイヌ語、歌、舞踊、物語を教わった。 祖父と2人での生活は苦しかったが、後年、息子には「イコロ(宝物)は金銀や土地や屋敷ばかりでない」「私のイコロはアイヌの文化」と語っていた。
水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日… 水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日 - 2001年(平成13年)3月20日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。編集者でもあり、雑誌『新青年』編集長を累計18年務めた。本名は納谷 三千男。 北海道函館区(現在の函館市)船見町の生まれ。当時の函館は幕末に開かれて以来の国際的な港町であった。父はパン屋や外国人の執事をしており、外国人が三千男を「ジョン」と呼んでいたことから、のちに自らのペンネームを「準」とした。弥生小学校に在学中、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿して入選した。 旧制函館中学(現:北海道函館中部高等学校)中退後、上京して早稲田高等学院に入学。在学中の1922年に博文館の雑誌『新青年』の懸賞に応募した「好敵手」が一等に入選。
池田幸太郎(いけだ こうたろう、1904年3月4日 - 19… 池田幸太郎(いけだ こうたろう、1904年3月4日 - 1989年8月14日)は、日本の政治家・官僚・薬剤師。北海道旭川市出身。1925年東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)卒。北海道名寄市市長(1958年 - 1974年)。名寄市名誉市民。 1925年内務省東京衛生試験所に入所。1929年内務省退官。名寄町で家業である薬局を継ぐ。1951年北海道薬剤師会理事。1952年名寄町商工会議所副会頭に就任。同年、名寄町教育委員会委員にも就任(~1956年)。1955年名寄町議会議員に初当選。1958年名寄市が市制施行後、初となる市長選出馬し、名寄市長に初当選。連続3期を務め、1974年同市長を勇退。同年、名寄女子短期大学非常勤講師(薬局運営論)・旭川大学非常勤講師(地方自治論)。
大月 源二(おおつき げんじ、1904年2月19日 – 19… 大月 源二(おおつき げんじ、1904年2月19日 – 1971年3月18日)は、日本の画家。主にプロレタリア美術の画家として知られる。 東京美術学校を卒業した後、プロレタリア美術運動に参加。プロレタリア文学の代表的作家、小林多喜二は盟友であり、『一九二八年三月十五日』や『蟹工船』等の代表作の装幀を手がけている。後年は故郷北海道の自然を題材にした作品も多い。 1904年(明治37年)函館で生まれ、その後小樽へ移住。小樽区立稲穂小学校に入学する。小学校六年間の成績が、すべて「甲」である優秀な生徒だった。1916年(大正5年)庁立小樽中学校に入学すると、中学三年の頃から小樽洋画研究所に通い、本格的なデッサンや油絵等を学んだ。
今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 193… 今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 1935年6月19日)は、日本の詩人。 宮城県伊具郡丸森町生まれ。幼時に北海道旭川市に移る。小学校卒業後、新聞社給仕を経て、旭川郵便局に勤務。この頃から詩作を始め、1927年に小熊秀雄らと詩誌『円筒帽』を発刊。その後上京し、『婦人戦旗』などの編集にたずさわる。1931年日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成に参加し、『プロレタリア文学』などに反戦詩を発表。1932年3月、駒込署に検挙され、その時の拷問がもとで入院。人事不省に陥り、生死の境をさまよう。回復後の1933年、日本共産党に入党。病気に苦しみながら創作を続けるが、1935年結核で死去。
長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 -… 長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 - 1988年1月28日)は、日本の画家。猫の絵で有名。また、地味井 平造(じみい へいぞう)の筆名で探偵小説を執筆した小説家でもある。 1904年、父・長谷川清(後に淑夫に改名)、母・長谷川ユキの二男として函館に生まれる。長兄に、牧逸馬・林不忘・谷譲次の三つのペンネームを用いて活躍した作家の長谷川海太郎がおり、弟には、ロシア文学者で詩人の長谷川濬(三男)、作家の長谷川四郎(四男)がいる。 旧制函館中学(現・北海道函館中部高等学校)卒業。中学の同級生に、探偵小説家・編集者の水谷準がいた。その後、画家を志して1924年に上京し、松本泰が大家をつとめる下宿で、水谷と共同生活を送る。
比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし… 比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし〉、1904年1月4日 - 1981年12月17日)は、日本の元脚本家である。マキノ正博のもっとも苦しんだ若い時期に惜しみなく協力した盟友であり、「七つの顔を持つ男」で知られる片岡千恵蔵の当たり役「多羅尾伴内」の生みの親である。 現在の北海道滝川市に生まれる。 マキノ・プロダクションに入社、同社で初めて採用されたのはオリジナルストーリーであった。中川信夫が脚本化し、マキノ正博が監督したこの『浪人太平記』は、1931年(昭和6年)3月19日に公開された。同年のマキノ解散後は、高村正次が興した「正映マキノキネマ」で1932年(昭和7年)、マキノ正博が「青山正雄」名義で監督した『喧嘩道中記』、おなじくマキノが監督した『二番手赤穂浪士』の2作にオリジナル脚本を書いた。
金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - … 金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - 1984年(昭和59年))は、日本の経済学者・経営学者・教育者。専門は社会思想史・簿記論。元・札幌商業高等学校校長。北海道生まれ。 この他、1949年(昭和24年)北海学院兼任教授や、1949年(昭和24年)~1956年(昭和31年)まで学校法人北海学園理事。また、1948年(昭和23年)~1984年(昭和59年)まで学校法人北海学園評議員。
横田 瑞穂(よこた みずほ、男性、1904年 - 1986年… 横田 瑞穂(よこた みずほ、男性、1904年 - 1986年2月19日)は、ロシア文学者。元早稲田大学名誉教授。 北海道函館市出身。早稲田大学露文科卒。井伏鱒二に師事した。戦時中は情報局嘱託。1949年から母校の教員となり、教授として五木寛之や後藤明生を教えた。1974年定年退職。 ミハイル・ショーロホフ『静かなドン』の翻訳で知られる。他にゴーリキー、ゴーゴリなどの翻訳がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日… 今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日 - 1984年(昭和59年)7月30日)は、日本の小説家、文芸評論家、舞台演出家。 初代文化庁長官を務めた。 北海道函館市に生まれた。3人兄弟の末子で、長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光である。 日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年(明治44年)に神戸市の小学校へ入り、1917年(大正6年)神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京の暁星中学へ移った。1922年(大正11年)、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄・三好達治・中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰・武田麟太郎らがいた。
藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)1… 藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)10月5日 - 1988年(昭和63年)2月4日)は、日本の鉄道技術者。第7代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1973年 - 1976年)。太っ腹の親分肌といわれ、トンネルや橋梁の技術に精通していたことから“トンネル松”と呼ばれていた。 北海道雨竜郡一已(いちゃん)村(現在の深川市)の農家藤井豊吉・チエの長男として生まれる。農家の次男であった父豊吉と母チエは1900年5月に香川県大川郡福栄村から、当時開拓が始まったばかりの一已村に親戚を頼って娘2人を連れて移住している。移住してしばらくは極貧の生活であったが、1914年から始まった第一次世界大戦による豆需要により生活が安定。
村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3… 村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3日 - 1937年8月19日)は、日本の陸軍軍人で皇道派、国家社会主義者。
加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28… 加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等功二級。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高等学校)、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校(専科)卒。 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦時、戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊を率い、一式戦闘機「隼」をもって活躍した、帝国陸軍(陸軍航空部隊)のみならず日本軍を代表するエース・パイロットの一人。 1903年(明治36年)9月28日、北海道上川郡にて屯田兵として京都綴喜郡から北海道に入植した父・鉄蔵、母・キミとの間に加藤家の末子(兄・農夫也、姉・貞)として誕生する。
島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 194… 島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、日本の小説家。本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。 農民運動に加わり、投獄され転向。この体験を元にした『癩』(1934年)を発表して注目された。『生活の探求』(1937年)は、当時の若者たちに多大な影響を与えた。遺作に『黒猫』(1945年)、『赤蛙』(1946年)などがある。 現在の北海道札幌市中央区生まれ。2歳で父と死別、母に育てられる。家計を助けるために高等小学校を中退、銀行の給仕・玄関番などをしながら苦学した。 旧制北海中学校(現・北海高等学校)卒業。
楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1… 楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1966年9月23日)は、日本の推理作家、時代小説家。 1903年8月23日、北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)に生まれる。本名は小松保爾(こまつ やすじ)。 高等小学校卒業後、中学校の代用教員や札幌郵便局の電信係を経て、1924年に樺太の恵須取町(現・ウグレゴルスク)に渡り、パルプ工場に勤務。1927年、北海道に戻る。1934年に上京し、さまざまな職業を転々とする。職も30件以上変えた経験があるという。 1938年に結婚し、能率研究所につとめ、明治大学などの講師をつとめる。1943年、千葉県市川市に転居(1941年頃から市川市真間に住んだとする文献もある)。
久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年… 久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年6月29日)は、日本の男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。北海道出身。明治大学政治経済学部卒。 第1回全日本選手権(1929年度)の優勝者である。 札幌商工会議所会頭を務めた久保兵太郎の三男として北海道に生まれる。札幌商業学校時代の1923年、日本スケート会(日本スケート連盟の前身の一つ)主催のフィギュアスケート選手権に出場。明治大学に入学し、1926年から1930年(1927年は中止)まで日本学生氷上競技選手権(インカレ)で4大会連続2位となる。同大会の1928年から1930年までの優勝者は、金子諭吉(慶大)であった。 1929年のフィギュアスケート選手権(日本スケート会主催)では、金子を抑えて優勝する。
芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明… 芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明)は、日本の俳優である。本名川上 勇之進(かわかみ ゆうのしん)。 1903年(明治36年)6月16日、北海道函館市に生まれる。 上京して早稲田大学文科卒業後、大阪市に移る。大阪松竹劇団を経て新声劇の幹部俳優となり、大阪の角座、浪花座などに出演。1933年(昭和8年)には日活太秦撮影所に入社して映画俳優もこなした。映画界入りの最初の年には主演作『峠三里』と『月光人斬橋』を残しているが、以後は脇役に専念。1934年(昭和9年)に第一映画、1936年(昭和10年)には新興キネマへの移籍を経て、のちにフリーとなる。第二次世界大戦中から終戦後にかけてはフリーとして、東宝劇団、東宝撮影所、榎本健一一座、古川緑波一座などで活躍した。
奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1… 奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1993年1月27日)は、日本のテノール歌手。 1903年(明治36年)6月12日に北海道札幌区(現・札幌市)で生まれる。後に陸上選手となる南部忠平は幼稚園からの幼なじみ。北海道庁立札幌第一中学校3年修了時に上京。同郷の先輩である梁田貞の世話により、成城中学校と東京音楽学校分教場夜間部に入り、また村井満寿から個人レッスンを受ける。1922年(大正11年)に東京音楽学校に入学するが、翌1923年の関東大震災により国内での勉学を断念し、同校を中退。その後渡欧して、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、ベルリン音楽大学で声楽を学ぶ。帰国後、1934年(昭和9年)ポリドールレコードから映画『狂乱のモンテカルロ(ドイツ語版)』主題歌「モンテ・カルロの一夜」「これぞマドロスの恋」や、映画『会議は踊る』主題歌「命かけて只一度」を吹き込む。
江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 198… 江守 栄作(えもり えいさく、1903年5月7日 - 1987年4月2日)は、北海道札幌市生まれの実業家、スケート選手。 明治36年(1903年)札幌生まれで豊水小学校卒。大正7年(1918年)にスケートを始め、大正13年(1924年)ロシアのフィギュアスケートの極東大会で優勝。その後アイスホッケーを始める。 1928年ウラジオストックロシア語学校高等科を卒業した後、貿易会社の清水貿易に就職、ウラジオストック支社長を務めた。 昭和14年(1939年)にトレーニング中のアクシデントから敗血症にかかり左足切断。その後は後進の育成に力を注ぎ、昭和58年(1983年)東京都アイスホッケー連盟会長に就任。
三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4… 三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、日本の洋画家。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。妻は同じく洋画家の三岸節子(旧姓:吉田)、異父兄は作家の子母澤寛(本名:梅谷松太郎)。 祖父の梅谷十次郎は元御家人で、石狩国の漁村厚田村(現:石狩市厚田区厚田)の網元だった(子母澤寛を参照)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父の巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1… 飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1967年6月21日)は、北海道古平郡古平町出身の高校野球指導者。 北海中学校・北海高等学校の野球部部長・監督を長く務め、「北海道高校野球の父」と呼ばれた。 北海中学時代の1920年、第6回全国中等学校優勝野球大会に外野手として出場。卒業後早稲田大学に進み、法律家を目指す傍ら母校北海中学のコーチを務めた。卒業後は大蔵省志望だったが、北海中学側の強い懇請により、1929年母校の教員となり、同時に野球部の部長に就任。 以来、緻密な野球をスローガンに、戦前・戦後を通じ38年間部長の地位にあり(断続的に監督も兼任)、春は8回、夏は18回甲子園に出場。
大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 … 大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 - 1981年2月23日)は、日本の漢文学者。 北海道苫前郡苫前町生まれ。1926年北海道函館師範学校卒、同付属小学校訓導、1932年早稲田大学高等師範部国漢科卒、聖学院中学校教諭。1940年早稲田高等学院講師、1945年教授。1949年早大教育学部助教授、1952年教授、1970年「陶淵明研究」で早大文学博士。1973年早大を定年、名誉教授、女子聖学院短期大学教授。1977年定年、勲四等瑞宝章受勲。
数納 清(かずのう きよし、1903年 <明治36年> 3月… 数納 清(かずのう きよし、1903年 <明治36年> 3月7日 - 1991年 <平成3年> 12月1日)は、日本の実業家。朝日生命保険社長をつとめた。位階は正四位。 北海道札幌市出身。1926年に東京帝国大学経済学部を卒業し、帝国生命保険(現・朝日生命保険)に入社。台北支店長などを経て、1947年朝日生命保険取締役、1965年に社長に就任。1975年会長、1979年相談役。 この間古河三水会理事長をつとめるなど、財界人としても活躍した。 1969年藍綬褒章、1975年勲二等旭日重光章。1991年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年)
山口 正城(やまぐち まさき、1903年1月22日 - 19… 山口 正城(やまぐち まさき、1903年1月22日 - 1959年12月5日)とは、日本の画家、グラフィックデザイナー、デザイン・図案に関する教育者。 千葉大学工学部工業意匠学科教授を務めた。フォトグラムを含め、抽象的な作品が多い。
知里 幸恵(ちり ゆきえ、旧字体: 知里 幸惠、1903年〈… 知里 幸恵(ちり ゆきえ、旧字体: 知里 幸惠、1903年〈明治36年〉1月15日〈戸籍上:6月8日〉 - 1922年〈大正11年〉9月18日)は、北海道幌別郡登別村(現:登別市登別本町2丁目)出身のアイヌ女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。 生誕100年を迎える2003年頃から、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まり、また幸恵への感謝から「知里幸恵」記念館の建設運動が活発化した。2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に『アイヌ神謡集』が入った。
西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 19… 西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 1933年2月11日)は、日本の戦前の社会運動家・平和運動家。 北海道新十津川村出身。出生は岩見沢市で4歳から新十津川で幼児期をすごす。札幌第一中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科に入学。東大時代はボート部に所属し、社会科学、社会主義を学ぶ。小樽高等商業学校での軍事演習に対する抗議行動に端を発した軍事教育批判が全国の大学に広がる中、治安維持法改悪により私有財産制の否定や平和運動が処罰の対象となった1925年秋、新人会に参加し、石堂清倫らと活動を始める。1926年5月より大衆教育同盟本部書記などを務め、社会科学研究会でも活動。
岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1… 岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1999年7月12日)は、日本画家、文化勲章受章者、日本芸術院会員。位階は従三位。 北海道空知郡江部乙村(現在の空知管内滝川市江部乙町)に、熊本県出身の屯田兵岩橋浅次と妻きくの長男として生まれる。本名・英遠(ひでとお)。 同村立北辰尋常高等小学校を卒業後、農業を手伝いながら独学で絵を描く。21歳で上京、山内多門の画塾に入る。師の死後は安田靫彦門下となる。院展同人として活躍し、日本画新時代の一翼を担う。洋画の手法も取り入れつつ、独自の自然観照による写実的でありながら幻想的でもある印象のある絵画世界を創造し続け、享年まで日本画壇の重鎮として活躍した。
相澤 次郎(あいざわ じろう、1903年 - 1996年)は… 相澤 次郎(あいざわ じろう、1903年 - 1996年)は、日本の技術者。北海道夕張市出身。 1914年、小学5年生の際に1860年のロンドンの博覧会に出展された人造人間「マシンボックス」の写真に感銘を受けロボットへの志向を高める。 1931年、日本初のロボット工作指南書「図解 人造人間の作り方」を著し、1933年には「ロボット管弦楽団」を展覧会に出品し1934年には「ロボット」「ROBOT」の登録商標を取得したが「ロボットはみな兄弟」の信念のもとに、その商標権を行使せずにロボットの普及に務める。 戦後は東京都立工芸高等学校の講師や安立電気の技師の傍らで子供向けの制作活動を再開、上野動物園のおサル電車や象型ロボット「多摩吉君」などを制作、また当時海外輸出で人気を博したブリキ製のロボット玩具についてのアドバイスも行った。
岩本 政一(いわもと まさいち、1903年 - 1979年1… 岩本 政一(いわもと まさいち、1903年 - 1979年1月12日)は、日本の政治家、実業家。元参議院議員(自由民主党・1期)。 北海道札幌郡豊平町石山(現札幌市南区石山)出身。札幌市立石山小学校卒。1929年に貨物自動車運送業を開業。豊平自動車運輸専務、北海道自動車運輸専務を経て、1956年社団法人北海道トラック協会初代会長(~1975年)や、北海道議会議員(札幌市選出)を6期務め、自民党道連幹事長、同党道連副会長、全国都道府県議会議長会副会長、北海道議会議長(1963年5月から1977年7月)、北海道開発審議会委員などを歴任。1971年の第9回参議院議員通常選挙に北海道選挙区から立候補し当選。
一木 万寿三(いちき ますみ、戸籍上では「萬壽三」、1903… 一木 万寿三(いちき ますみ、戸籍上では「萬壽三」、1903年 - 1981年5月3日)は、洋画家。 北海道空知郡滝川村(現・北海道滝川市)で生まれ、少年時代に一家で江部乙村(現・滝川市江部乙町)に転居する。家業のりんご園を手伝いながら絵画の研究に励む。同じく江部乙村の近所に住んでいた岩橋英遠とも親しくなり、1926年(大正15年)(22歳)で上京し、本郷絵画研究所にて学ぶ。そこで岡田三郎助に師事し、安井會太郎らの影響を受けることになる。1929年(昭和4年)に帝展に初入選する。晩年は一水会の作家として自己の画風を誠実に貫く絵画活動を続けた。 1944年(昭和19年)には戦争により郷里の江部乙に疎開するが、江部乙の名産であるリンゴ園やそこに働く人々を明るく伸びやかな作風の作品を書き続けた。
高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日… 高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日 - 1990年6月7日)は、日本の農業経済学者・歴史学者。北海道大学名誉教授。農業経済学・北海道史・アイヌ文化史で業績がある。 1902年、北海道帯広市で実業家・高倉安次郎の子として生まれた。札幌中学校(現北海道札幌南高等学校)で学び、1920年に北海道帝国大学入学した。農学部教授であった高岡熊雄に師事し、農政学植民学を学んだ。1926年、北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 卒業後は同年より、北海道帝国大学農学部副手に就き、1927年に助手、1936年に植民学講座の助教授に就任した。1945年、北海道帝国大学に学位論文『アイヌ政策史』を提出して農学博士号を取得。
西田 信一(にしだ しんいち、1902年10月15日 – 2… 西田 信一(にしだ しんいち、1902年10月15日 – 2003年4月10日)は、昭和期の政治家、参議院議員(3期)。北海道開発庁長官(第22代)、科学技術庁長官(第31代)。 北海道空知郡岩見沢町(現・岩見沢市)に、鉄道員・西田栄次郎の長男として生まれる。両親はいずれも富山県出身。 高等小学校卒業後、郵便局員、鉄道員を経て、札幌工業学校(現・札幌工業高校)に入学する。 1924年札工を卒業後、苫小牧工業学校(現苫小牧工業高校)助教諭を経て、1928年苫小牧町役場に入庁する。仕事の傍ら王子製紙アイスホッケー部のコーチも務め、1932年には全日本選手権大会で初出場・初優勝の快挙を成し遂げた。土木課長、助役を経て、1946年4代目苫小牧町長に就任する。
久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - … 久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - 1971年11月5日)は、アイヌ文化およびアイヌ語の研究者。金田一京助の薫陶を受け、知里真志保、山田秀三と交友関係を持ち、ユーカラなどの口承文芸や宗教儀礼(儀式参照)の記録に多大な貢献を残した。墓所は多磨霊園。
高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 199… 高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 1992年7月4日)は、北海道出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制北海中学校 → 早稲田大学 早大在学中、1925年の第3回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人4kmとリレーで優勝。翌年の同大会でも、クロスカントリースキー個人25kmとリレーの2冠を達成した。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックの代表に選出され、クロスカントリースキー個人長距離(18km)で36位、個人耐久(50km)で25位だった。 引退後は全日本スキー連盟の理事をつとめた。
渡辺 温(わたなべ おん、1902年8月26日 - 1930… 渡辺 温(わたなべ おん、1902年8月26日 - 1930年2月10日)は、日本の推理作家・幻想小説家。本名は温(ゆたか)。 渡辺伊太郎・渡辺ツネの三男、推理作家・渡辺啓助の実弟。北海道上磯郡谷好村(現在の北斗市)生まれ。 1905年2月東京市深川に転居、スラム街の社宅で幼少期を過ごす。1912年8月茨城県多賀郡高鈴村(現在の日立市)に転居。1920年、旧制水戸中学校を卒業し、慶應義塾大学予科文科に入学するが、翌1921年4月中退。1922年4月、慶應義塾高等部に入学。このころ、啓助と福田耕太郎とともに共同生活を営む。 1924年、プラトン社の雑誌『女性』と『苦楽』が行った映画原案の懸賞公募に「影」を投稿し、一等入選を果たす。
加藤 進(かとう すすむ、1902年8月10日 - 1993… 加藤 進(かとう すすむ、1902年8月10日 - 1993年11月10日)は、日本の昭和期の官僚。正三位勲一等瑞宝章。北海道札幌市出身。 札幌二中、一高を経て、1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、会計検査院に入る。1933年宮内省に移り、内匠寮主計課長・人事課長・総務局長などを歴任した後、1946年宮内次官、翌年宮内府次長。 1946年神奈川県を皮切りに始まった全国巡幸では、宮内大臣の松平慶民・侍従長の大金益次郎とともに企画・立案・実施の中心人物として活躍した。また、1945年12月に梨本宮守正王がA級戦犯に指名されたことから、GHQの対皇室政策に対して危機感を抱き、皇室・直宮家保全の立場から1947年の皇籍離脱を積極的に推し進めた。
織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月2… 織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1993年〈平成5年〉4月30日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ口頭文芸、アイヌ口承文学の第一人者とされ、特にユカㇻの伝承者として知られる。晩年のアイヌ語、アイヌの神事、口承文芸、生活文化などでの後進の指導、研究者への協力などでも知られている。ユカㇻを始めとするアイヌの生活文化全体について伝承者の少なくなった近世においては、最も信頼のおける人物の1人とされており、北海道静内地方のアイヌ文化は研究成果も資料も少ない中、アイヌ文化全般の知識を有する貴重な存在ともされている。「ステノ」の名は晩年に自称したアイヌとしての名であり、戸籍名は織田 ステ。
久生 十蘭(ひさお じゅうらん、1902年4月6日 - 19… 久生 十蘭(ひさお じゅうらん、1902年4月6日 - 1957年10月6日)は、日本の小説家、演出家。北海道函館市出身。本名:阿部 正雄。推理小説、ユーモア小説、歴史・時代小説、現代小説、ノンフィクションノベルなど多彩な作品を手掛け、博識と技巧的な文体で「多面体作家」「小説の魔術師」と呼ばれた。 北海道函館区に、父・小林善之助と母・鑑(戸籍上は「カン」) の長男として生まれる。母方は回漕業を営む家の次女 で草月流生花の師匠、父は番頭頭だった(後に離婚)。2歳の時に両親と離れて、回漕業を営む祖父阿部新之助に養育される。1916年春に函館区立寶小学校高等科を卒業して北海道庁立函館中学校(現:北海道函館中部高等学校)に進学するも中退。
八島 健三(やしま けんぞう、1902年(明治35年)4月6… 八島 健三(やしま けんぞう、1902年(明治35年)4月6日 - 1979年(昭和54年)10月17日)は、日本の長距離走選手。 北海道出身。稲穂小学校に学ぶ。小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)在学中に、1920年アントワープオリンピックにマラソンで出場。2時間57分20秒0で21位だった。北海道出身者としては初のオリンピック選手である。1921年には第5回極東選手権競技大会のマラソンに出場。 のち明治大学に進み、箱根駅伝に出場。1923年から1928年まで6年連続出場、5年連続(1928年を除く)で各区間賞を獲得した。1924年の第5回大会では、往路優勝の東京高師に明大が追い上げをかける展開となったが、10区を任された八島は鈴ヶ森で東京高師の選手を抜き、明大の3年ぶり2回目の優勝に貢献した。
梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月… 梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月30日 - 1986年(昭和61年)4月26日)は、北海道函館出身の画家・彫刻家。東京美術学校を首席で卒業、戦前から少年倶楽部をはじめとする児童雑誌や絵本などの挿絵画家として活躍。彫刻家としても、函館市の高田屋嘉兵衛像や長崎市グラバー園の三浦環(蝶々夫人)像などの作品を制作した。また、日本出版美術家連盟の設立にも加わった。 1902年、北海道函館区で梁川亀太郎、ヨコの長男として生まれ、生後すぐ亀太郎の兄・鶴松の養子となる。14歳のとき父親の転勤に伴い札幌へ移り、北海中学に入学する。北海中学では応援団に入ったほか、「団栗(どんぐり)会」という美術部で本郷新らと絵を描いていた。
川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(い… 川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(いけだ まさかず)、1902年3月29日 - 1980年8月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の運動にも関わった。また、紙芝居の制作にも携わり、第二次世界大戦後の民主主義教育の普及にも貢献した。 北海道札幌市生まれ、旭川市出身。幼少期は巖谷小波に関心をもち、図書館に通って巌谷の本を二百冊以上読んでいた。1919年に北海道庁立旭川中学校を卒業後に上京、巌谷小波のもとを訪ねて師事。早稲田第二高等学院を経て早稲田大学文学部英文学科卒業。在学中に大杉栄の全集を読んで影響を受け、早大童話会にも所属していた。また巌谷の翻訳業の下請けをして学費や生活費を稼いでいた。
虎尾ハルシア(とらお はるしあ、1902年〈明治35年〉3月… 虎尾ハルシア(とらお はるしあ、1902年〈明治35年〉3月20日 - 1991年〈平成3年〉3月4日)はアイヌの口承文芸ユカㇻとウエペケレの伝承者。出生名である虎尾ハルとしても知られる。 北海道静内郡静内町(現在の日高郡新ひだか町)農屋(旧ノヤサㇽコタン)のオプスケ川の近くで生まれ育つ。父・虎尾桃太郞(とうたろう、アイヌ名イコㇽパ)はハルシアが4歳の時に亡くなり、その後は母ムメ(アイヌ名シケヌカㇻ)に育てられた。父方の祖父は南部衆であり、母方の祖母である福島タノペトからウエペケㇾを伝えられている。9歳の時に学校へ通ったが、一年も行かなかったという。15~16歳の頃に畑作や道路工事の日雇いで働くようになり、川船で船を漕いだり、鱒漁の網を馬で引いたりできるようになった。
東 隆(あずま たかし、1902年(明治35年)3月8日 -… 東 隆(あずま たかし、1902年(明治35年)3月8日 - 1964年(昭和39年)7月18日)は、日本の農協運動家、政治家。衆議院議員、参議院議員。 北海道上川郡東旭川村下兵村(現旭川市)で大分県から入植した屯田兵・東晋吾の三男として生まれる。旭川中学校を卒業し農業を継いだが、その後、勉学の道に進み北海道帝国大学予科に入学。1926年、同大学農学部農業経済学科を卒業。北海道庁技手に任官し、以後、農林主事、経済更生主任官、金融主任官、産業組合主任官、北海道農会幹事、同農業会専務理事、日本輸出農産物会社理事、同札幌支店長、肥料配給公団札幌支部長、北海道農業復興会議副議長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第一区から日本協同党所属で立候補して当選し衆議院議員を一期務め、国民協同党政策調査会副会長となった。
加藤 秀次郎(かとう ひでじろう、1902年3月7日 - 1… 加藤 秀次郎(かとう ひでじろう、1902年3月7日 - 1977年8月29日)は、日本の文学者。関西学院高等商業学部教授、同学院第8代院長(1956年から1958年まで)などを歴任した。専門は、アメリカ文学。 北海道函館市出身。1921年(大正10年)慶應義塾商工学校卒業。1929年(昭和4年)6月、米国オーバリン大学卒。1930年(昭和5年)4月、関西学院高等商業学部専任講師に就任し、1931年(昭和6年)4月に同学部教授に昇任。1938年(昭和13年)4月から同学院商経学部講師を兼任、1947年(昭和22年)5月から関西学院専門学校高等商業学部部長となり、1949年(昭和25年)4月同学院短大科長、1933年(昭和29年)に短大学長に就任。
森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1… 森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1976年8月3日)は、昭和時代の歌人。違星北斗やバチェラー八重子とともにアイヌ三大歌人に数えられる。筑堂と号する。 北海道白老郡白老のコタンに父エヘチカン、母オテエの長男として生まれる。父の急逝により家は窮乏におちいり、9歳から漁場で働くようになる。1915年に白老第二尋常小学校を卒業後、石狩・厚田・臼谷(小平町)・留萌の鰊漁場に出稼ぎに行く。白老郵便局長・満岡伸一の好意により1917年から郵便局に勤める。1919年に白老駅夫を拝命し、正職員となるため勉学に励む。1923年に札幌鉄道局雇員採用試験に合格。1927年に札幌鉄道局雇員を拝命し、以後は追分・佐瑠太(富川)・苫小牧・静内に貨物掛として転勤する。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)… 北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)は、日本の神官、歌人。 本名・鈴木重道。北海道出身。余市の神社の息子に生まれる。小樽中学校で二年後輩の伊藤整に、通学列車の中で島崎藤村詩集を教え、影響を与えた。伊藤の自伝的小説『若い詩人の肖像』に、本名が実名で登場する。 伊勢の神宮皇學館本科を卒業して、神宮文庫に勤務。根岸短歌会系の五更会に入り、同誌の編集発行を担当、岡麓に師事して短歌も詠んだ。埼玉県立久喜高等女学校教諭を6年勤めたのち、1934年に帰郷して神官となる。1937年より朝鮮神宮主典として京城に赴任して朝鮮総督府祭務官となるが、本州勤務を希望し福島県の伊佐須美神社宮司となり、そこで敗戦を迎える。
野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月2… 野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月23日 - 1976年(昭和51年)10月15日)は、日本の商学者・学校経営者・政治家だった人物。 学校法人野又学園初代理事長。数多くの学校長を務めた。北海道旭川市出身。子に野又肇がいる。
及川裸観(おいかわ らかん、1901年12月 - 1988年… 及川裸観(おいかわ らかん、1901年12月 - 1988年11月22日)は、「笑いは健康の泉」との信念で全国行脚し健康普及活動を行った日本の人物。本名は清 1901年(明治34年)、岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)出身、北海道網走市育ち。 健康普及会を組織して、東京都荒川区日暮里に「ニコニコ会館」を開設。ニコニコ裸運動を提唱した。「全身を顔にせよ」と、上半身は裸、半ズボン姿で「薄着は健康のもと」と書かれたのぼりを持ち、たすきがけをして「ワハハ、ワハハ」と笑いながら日本全国を行脚。健康体操の指導、健康相談に一生を捧げた。「羅漢さん」の愛称でも知られた。 1988年(昭和63年)11月22日、荒川区西日暮里の関川病院にて脳梗塞のため死去。
仁木 他喜雄(にき たきお、1901年(明治34年)11月1… 仁木 他喜雄(にき たきお、1901年(明治34年)11月14日 - 1958年(昭和33年)5月13日)は、昭和期の作曲家、編曲家。北海道出身。 北海道札幌郡篠路兵村(現在の札幌市北区屯田・篠路付近)に生まれ、1歳の時に滝川村幌倉(現在の滝川市東滝川町付近)に移住し1914年まで過ごす。その後札幌の劇場を経て、横浜のバンド屋(鼓笛隊養成所の意味)「睦崎」に入門してドラムを学び、ハタノ・オーケストラ、日本交響楽協会を経て、1926年(大正15年)の新交響楽団(のちのNHK交響楽団)創設時にティンパニ奏者として参加。1940年以降は、コロムビア専属として、レコーディングにおける多数の編曲と作曲で知られる。