上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1… 上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1954年7月28日)は、日本の俳優。本名は三田 貞(みた ただし)。号は半月。 坪内逍遥の文芸協会を経て、妻の山川浦路らと近代劇協会を設立して新劇俳優として活動。1919年(大正8年)に渡米してからは映画界に転向し、ラオール・ウォルシュ監督、ダグラス・フェアバンクス主演の活劇映画『バグダッドの盗賊』に出演。ハリウッドで活躍した日本人俳優の一人となった。帰国後の出演作に『赤西蠣太』『七人の侍』などがある。 1884年(明治17年)1月30日、現在の宮城県遠田郡涌谷町に父・上山五郎の次男として、五郎の愛人である角川浦路との間に生まれる。父は産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めた。
熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1… 熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1936年8月21日)は、日本の歌人(明治~昭和時代前期)。歌人の熊谷龍子は孫。 宮城県本吉郡新月村(現・気仙沼市)生まれ。少年時、及川義亮に歌を学ぶ。郷里・気仙沼で農林業に従事しながら前田夕暮に師事。 1911年(明治44年)「詩歌」創刊に参加し同時に短歌結社「白日社」同人となる。1912年(大正元年) 仙台の文芸誌「シャルル」同人となり、郷土の文学の高揚に尽力した。 1921年 新月村の村会議員に就任。 1924年(大正13年)「日光」に前田夕暮らとともに参加。「詩歌」同人らが自由律口語短歌に転向するなかで定型律文語短歌をまもり、山村生活をうたった。
広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治1… 広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不明)は、日本の農学者。東京帝国大学農学部教授。農林省農事試験場技師。旧姓・太田。 宮城県仙台市生まれ。太田可一の弟。1907年、東京帝国大学農学科卒業。1912年、広部銀行頭取・広部清兵衛の養子となる。農科大学講師兼農事試験場嘱託同技師農林技師歴職。また広部拓殖社員である。 『広部農具論』、『広部農用機具』などの著書がある。趣味は庭球、柔道、弓道、スケート、写真。住所は東京市渋谷区神山町。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日… 志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など。 志賀直哉は1883年(明治16年)2月20日、宮城県牡鹿郡石巻町に、父・志賀直温と母・銀の次男として生まれた。父・直温は当時第一銀行石巻支店に勤務していた。明治期の財界で重きをなした人物である。母・銀は、伊勢亀山藩の家臣・佐本源吾の娘であった。
小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4… 小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の言語学者。朝鮮語研究、日本語研究。日本語研究にも多くの業績があるが、特に朝鮮語研究においてその後の研究の礎を築いた。 1882年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉茗園。1903年、東京帝国大学に入学し言語学を専攻、卒業論文は「平安朝の音韻」。その後上田萬年の下で国語学研究室助手。1911年朝鮮総督府勤務。1924~1926年にはヨーロッパおよびアメリカに留学。1926年、京城帝国大学教授。1933~1943年、東京帝国大学言語学科主任教授。 主要な業績として1920年『朝鮮語学史』(刀江書院)がある。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。
岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30… 岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30日 - 1942年〈昭和17年〉7月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 宮城県仙台市生まれ。1907年(明治40年)東京高等商船学校(現東京海洋大学)卒。東洋汽船に入り、外国航路の船長になる。同時に海軍予備員となり、少佐となる。1920年(大正9年)にイタリアのジェノバで開かれた第2回ILO総会に出席。帰国後は海員組合の創立委員となり、顧問に就任。その後社会民衆党の結成に参加し、中央委員となる。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で当時の神奈川1区から社会大衆党公認で立候補して当選した。翌年の総選挙でも再選。いずれもトップで当選した。
今村 武志(いまむら たけし、1880年(明治13年)11月… 今村 武志(いまむら たけし、1880年(明治13年)11月2日 - 1960年(昭和35年)8月21日)は、日本の官僚、政治家である。 戦前日本の統治における要職を歴任した後、戦時下および終戦直後の仙台市長を務めた。 1880年(明治13年)、宮城県宮城郡多賀城村(当時)に、農家の長男として生まれる。学歴は、宮城県中学校、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業。 1908年(明治41年)に大学卒業後は、高級官僚として朝鮮総督府に入り要職を歴任し、黄海道知事にも就任した。1931年(昭和6年)、内地に戻り、1932年の齋藤内閣発足とともに樺太庁長官となって、1938年まで務めた。退職後には、日本拓殖協会理事に就任した。
阿波 研造(あわ けんぞう、1880年4月4日 - 1939… 阿波 研造(あわ けんぞう、1880年4月4日 - 1939年3月1日)は、日本の弓術家。弓聖と称えられる。 宮城県桃生郡大川村(現在の石巻市)に、麹屋を営む佐藤家の長男として生まれる。小学校卒業後、18歳で漢学の私塾を開き、20歳で石巻の麹屋・阿波家の入り婿となり、家督を継ぐ。21歳で石巻の旧藩士で堂射系の日置流雪荷派の木村辰五郎時隆に師事して弓術を始める。2年ほどで木村に免許皆伝を受け、23歳で自宅近くに自身の道場を開設、30歳のとき、仙台に出て道場を開く。1910年、木村時隆に代わり、第二高等学校の弓道師範を勤める。このころは的中を重視した弓を指導していた。 1913年、東大弓術部師範の本多利實に師事し、日置流尾州竹林派弓術を伝授される(竹林派の流祖は僧侶であったことから、この派の教えには仏教の影響が色濃い)。
小山 東助(おやま とうすけ、1879年(明治12年)11月… 小山 東助(おやま とうすけ、1879年(明治12年)11月24日 - 1919年(大正8年)8月25日)は、衆議院議員(公友倶楽部→憲政会)、ジャーナリスト、教育者。号は鼎浦。 宮城県本吉郡気仙沼本郷(気仙沼町を経て現気仙沼市)出身。宮城県立尋常中学校、第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学した。尋常中学校では吉野作造と回覧雑誌を発行し、高等学校でも吉野・内ヶ崎作三郎らと雑誌を編集した。大学でキリスト教と政治に傾倒し、海老名弾正の本郷教会に関係したほか、島田三郎に私淑した。 1903年(明治36年)に大学を卒業すると、島田が経営する東京毎日新聞社に入社した。その後、東京日日新聞に移り、また早稲田大学講師として倫理学・新聞学を担当した。
後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉1… 後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉11月14日 - 1924年〈大正13年〉7月31日)は、宮城県栗原郡姫松村(現・栗原市)出身の政治家。 八甲田雪中行軍遭難事件での生存者の一人で、帰郷後に村会議員を務めた。 後藤房之助は小作の五男(三男とも言われる)として生まれた。 1899年(明治32年)12月に陸軍に徴集される。1902年(明治35年)1月、歩兵第5連隊の伍長として八甲田山の雪中行軍に加わる。1月23日に雪中行軍隊が出発したが、遭難した結果数日のうちに大半の兵士が凍死するという惨事となった。 ほとんどの兵士は倒れるか道を誤り、総指揮官の神成文吉歩兵大尉と2人だけの行軍となった。
青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 19… 青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 1935年4月19日)は、日本の国文学者、唱歌作詞家、小説家、教育者。童謡『どんぐりころころ』の作詞者として知られる。 宮城県宮城郡松島町幡谷新田出身。宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)、東京帝国大学文科大学卒業(1906年)。1917年に東京音楽学校教授就任。その後は文部省図書編集部長(1924年)、旧制新潟高等学校校長(1934年)などを歴任。文部省在職中に『どんぐりころころ』などを始め、文部省唱歌を数多く作りあげた。また青木苫汀(せんてい)の名で『我や人妻』などの小説も書いている。 180cmの長身で温和な性格だったと伝わる。
内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日… 内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日 - 1963年(昭和38年)7月11日)は、日本の台湾総督府・内務官僚、実業家。官選秋田県知事。旧姓・長田。 福島県出身。長田庄衛の二男として生まれた。福島県立安積中学校、宮城県立仙台第二中学校を経て、第二高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。東洋拓殖を経て、1911年、朝鮮総督府に入り農商工部属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内田家に夫婦養子となり改姓した。 以後、青島守備軍民政部事務官、台湾総督府事務官、同殖産局長などを歴任。 秋田県出身の川村竹治台湾総督に仕えたことがきっかけで、1931年12月、犬養内閣により秋田県知事に任じられた。
神田 正雄(かんだ まさお、1879年(明治12年)3月18… 神田 正雄(かんだ まさお、1879年(明治12年)3月18日 - 1961年(昭和36年)8月2日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 栃木県那須郡芦野町(現在の那須町)出身。交代寄合旗本芦野家の家老の家に生まれる。父に芦野宿戸長・大田原宿戸長を歴任した神田貞、兄に経済学者の神田孝一がいる。 宮城農学校を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校政治経済科(現在の早稲田大学)を卒業。同年、清国四川省学堂に教育顧問兼教習として招聘され、地理教科書を著した。1905年(明治38年)、アメリカ合衆国のコロンビア大学に留学し、さらにイギリスのオックスフォード大学にも留学した。
真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(… 真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(明治11年)9月1日 - 1948年(昭和23年)3月25日)は、日本の劇作家・小説家。本名は、真山 彬(まやま あきら)。日本芸術院会員。 宮城県仙台市裏五番町三番地に生まれる。父・寛は旧伊達藩士の士族で小学校の校長だった。1895年宮城県尋常中学校を中退。1896年に上京し、1897年日本中学校を卒業。同年、第二高等学校医学部に入学するも、小説や詩の習作に熱中して落第。1904年、佐藤紅緑に師事し「青果」の号を与えられる。翌年には小栗風葉門下となる。1907年、仙台市に近い農村を舞台とした農民文学の『南小泉村』(「新潮」1907年5月号)で注目されるも、1908年原稿二重売り事件を起こす。
阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8… 阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8月7日 - 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の西洋史学者である。宮城県仙台市の(旧制)第二高等学校第9代校長を務めた。 1878年(明治11年)に宮城県名取郡下増田村(現:名取市)で生まれる。父は下増田村初代村長阿刀田義潮(あとうだ よしとも)。宮城県仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業して、1902年(明治35年)に(旧制)第二高等学校(現:東北大学)に入る。大学卒業後、さらに東京帝国大学・京都帝国大学法学部に進学した。在学中、西洋学に興味を持った。東京帝大に在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が東京府東京市本郷区で主宰していた求道学舎に寄宿した。
吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月2… 吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男である袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。 明治11年(1878年)、宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。当時の吉野屋には、祖母、両親、5歳と3歳になる二人の姉、そして父の姉夫婦が同居していた。
井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月… 井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月29日 - 1950年〈昭和25年〉7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 井上成美海軍大将の実兄。妻は荒城二郎海軍中将(海兵29期、米内光政海軍大将とクラスメートかつ親友)の妹。井上達三の家族関係については、井上成美#親族を参照。 本記事の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、17-19頁。 宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将と同級。 東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業。陸軍砲兵少尉に任官。
四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1… 四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1937年12月12日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。
佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月… 佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月4日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 水沢県栗原郡有馬村有壁(宮城県栗原郡萩野村、金成町を経て現栗原市金成有壁)で、旧有壁宿本陣の佐藤家に生まれた。札幌農学校を卒業し、さらに慶應義塾、養正塾、セントアンドリーチャーチ英語学校で学んだ。農業を営む。 1896年(明治29年)徴兵され陸軍騎兵少尉となり除隊。1903年(明治36年)9月、宮城県会議員に選出された。1904年(明治37年)6月に応召して県議を辞職し、満州軍に属して日露戦争に出征した。陸軍騎兵中尉に昇進して除隊。
相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12… 相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12日 - 1955年(昭和30年)3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。旧姓は星、本名は良(りょう)。 旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれた。星家の婿養子だった父は仕事のため別居していた。8歳のときに一家の柱であった漢学者の祖父が死去、十代前半には姉の発狂、父親の癌発病、弟の病気による右足切断が立て続けて一家を襲い、笑わない子となる。少女期より横浜バンド出身である押川方義の教会「仙台日本基督教会」へ通い、14歳で洗礼を受けた。 小学校初等科卒業後、裁縫学校に進むが、進学を強く希望し、1891年に、学費の安かったミッションスクール宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学が叶った。
中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 … 中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 - 昭和40年(1965年)11月26日)は、日本の実業家。元小松製作所代表取締役社長。俳優の中村伸郎は養子。 宮城県遠田郡涌谷町出身。1902年東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、日本郵船に入社。日本郵船ロンドン支店長、猪苗代水力電気調度課長、東京電燈役員などを経て、戦後恐慌下で経営再建にあたるため、小松製作所專務取締役に招聘され、1934年から小松製作所社長。1946年から小松製作所会長。 俳優の中村伸郎は養子。
小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年… 小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。
平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月… 平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月13日 - 1943年(昭和18年)4月8日)は、日本の天文学者。 宮城県仙台市出身。寺尾寿の弟子で、天体力学及び古暦の研究で有名。小惑星の「族」を発見した功績により月の裏側のクレーターに「ヒラヤマ」と名づけられた。ヒラヤマは清次と同姓の天文学者・平山信(太陽の理論的な研究、小惑星の観測や発見及び軌道決定、日食観測、天体物理学・恒星天文学及び測地学に多大な業績を残した)の2人の名前に由来しているが、清次と信の間には血縁・姻戚関係はない。墓所は仙台市泰心院。 平山清次の門下生には萩原雄祐、鏑木政岐、広瀬秀雄らがいる。
中目 覚(なかのめ あきら、1874年5月23日 - 195… 中目 覚(なかのめ あきら、1874年5月23日 - 1959年3月27日)は、宮城県仙台市出身の地理学者、言語学者、教育行政官、エスペランティスト。 1874年、仙台藩一家 十七家の一つ中目氏の一族として宮城県仙台市に生まれる。9歳で宮城師範学校付属小学校に入学し、14歳で退学、宮城県尋常中学校に入学する。翌年同校を退学し、第二高等中学校に入学する。23歳で同校を卒業し、帝国大学文科大学独逸文学科に入学する。 1899年(明治32年)、東京帝国大学を首席卒業。恩賜の銀時計を授与。第四高等学校(後の金沢大学)でドイツ語教授をしていたが、1903年(明治36年)、30歳の時に創立された広島高等師範学校(後の広島大学)でドイツ語と地理学を三ヶ月ほど教えたのち、3年間オーストリア・ハンガリーへの留学を文部省から命じられる。
山口 龍之助(やまぐち りゅうのすけ、1874年(明治7年)… 山口 龍之助(やまぐち りゅうのすけ、1874年(明治7年)2月 - 1939年(昭和14年)5月7日)は、昭和時代初期に、第8代・仙台市長を務めた人物である。 宮城県石巻市出身であり、宮城県土木課長を経て、仙台市長となった。 1927年(昭和2年)8月13日の仙台市会(市議会)投票において、15票を獲得、13票だった前市長・鹿又武三郎を下して当選した。しかし、この選挙戦では山口派と鹿又派が多数派工作のために激しく対立、市会において過半数の支持を獲得できなかった山口は、市長当選後にも困難な市政運営を強いられた。また、山口の擁立・選出は、もっぱら当時の田中義一内閣と宮城県知事・牛塚虎太郎による政友会拡張政策によるものであり、市民とは無縁のままに決定されたものであるとの批判もあった。
大嵜 爲之助(おおさき ためのすけ、1874年 - 1929… 大嵜 爲之助(おおさき ためのすけ、1874年 - 1929年6月23日)は、現在の宮城県大崎市出身で尾車部屋、朝日山部屋、再度尾車部屋に所属した力士。世話人。本名は佐々木 爲之助。164cm、75kg。最高位は東前頭5枚目。 1893年5月初土俵、1900年5月十両昇進。その後大坂相撲に属したが、復帰し1905年1月入幕を果たす。大砲万右エ門の太刀持ち、露払いを務め、1910年1月に廃業したが、他に適職がなく1911年2月に角界に復帰。1915年1月に引退し世話人に転じた。 荒川 爲之介→大嵜 爲之助(1898年1月場所-)
佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月… 佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1948年(昭和23年)9月7日)は、日本の教育者。 宮城県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科教育学部を卒業し、北海道師範学校教諭・附属小学校主事となった。1906年(明治39年)、東京高等師範学校研究科を修了し、長野県師範学校教諭・主事に転じた。 1911年(明治44年)、広島高等師範学校教授・附属小学校主事に就任。1922年(大正11年)、教育学研究のためドイツ・イギリス・フランスに留学した。1936年(昭和11年)、退官。
佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(… 佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(1872年12月15日) – 大正13年(1924年)11月20日)は、日本の教育学者。 宮城県大崎市出身。宮城県師範学校を経て、1899年(明治32年)に東京高等師範学校を卒業。東京高等師範学校附属小学校訓導、東京高等師範学校助教授、同教授を歴任した。1907年(明治40年)から1909年(明治42年)までドイツに留学。帰国後、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事を務めた。 その後、東京市視学、同学務課長に就任した。
中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(18… 中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(1872年7月21日) - 昭和20年(1945年)1月11日)は、日本の電気工学者。 宮城県仙台市出身。第二高等学校を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、大学院に進んだ。1899年(明治32年)、東京工業学校教授となり、翌年から欧米諸国に留学した。1902年(明治35年)に帰国後は、東京高等工業学校教授に特許局審査官、東京高等工業学校附設工業教員養成所主事、特許局技師などを兼ねた。1919年(大正8年)、工学博士の学位を得た。1926年(大正15年)、東京高等工業学校校長に就任し、翌年には財団法人協調会東京工業専修学校校長も兼ねた。
戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2… 戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2月21日) - 1959年12月30日)は、日本の政治家、教育者。学校法人北海学園元理事長であり、札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)の創設者。 1872年、伊達藩士の長男として仙台に生まれた。北海英語学校を経て、1890年に札幌農学校に進学。 卒業後は、札幌尋常中学校に教諭として勤務。1901年、浅羽靖に望まれて北海英語学校中等部教頭に就いた。1915年、北海中学校校長に就任。また同1915年からは財団法人北海中学校理事(1923年まで)。 1920年、札幌商業学校(戦時中、札幌豊陵工業学校と改名)が創設となると、初代校長に就任。
西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871… 西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871年12月15日) - 昭和16年(1941年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、天童町長。 山形県西村山郡大谷村(現在の朝日町)出身。1890年(明治23年)、宮城農学校(現在の宮城県農業高等学校)を卒業。翌年、専修学校(現在の専修大学)理財科に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。 1900年(明治33年)より郡農会議員・県農会議員を務め、1903年(明治36年)には県会議員・東村山郡会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4期務めた(第10回、第14回、第15回、第17回)。
佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(… 佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(明治4年10月8日) - 1936年(昭和11年)7月15日)は、日本の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、宮城県農工銀行頭取、宮城県販売購買組合理事長。 仙台県名取郡柳生村(宮城県名取郡中田村を経て現仙台市太白区柳生)で、素封家・佐藤惣十郎の長男として生まれる。1889年(明治22年)宮城農学校、1896年(明治29年)和仏法律学校(現法政大学)を卒業。1903年(明治36年)に家督を相続し、同年、宮城県会議員(-1927年(昭和2年))に当選する。その他、中田村会議員、宮城県農会長、同県産米改良協会会頭、帝国農会議員、仙台商業会議所常議員などを務めた。
志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月1… 志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者。赤痢菌の発見者として知られる。朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長・京城帝国大学総長などを歴任。 赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。赤痢菌の学名(属名)は志賀に因む Shigella であるが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となった。数々の名誉を得ながらも清貧を貫き、質素な暮らしに徹した。 1871年(明治3年)、仙台藩領・陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)で、佐藤信の三男として生まれた。
園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3… 園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3月18日) - 1963年(昭和38年)9月29日)は、女性武道家。直心影流薙刀術第15代宗家。大日本武徳会薙刀術範士。 93歳で死去するまでの生涯で敗北した試合は2回のみといわれる。近代薙刀術史上最高の名人として評価が高い。 仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として現在の宮城県大崎市に誕生する。幼名は「たりた」。これは跡継ぎの誕生を望んでいた父親が、「もう女は足りた」という嘆きから名づけたという。幼い頃から父親の馬を勝手に乗り回すほど活発な少女であったという。 1886年(明治19年)、直心影流剣術の榊原鍵吉門人であった佐竹鑑柳斎(観柳齋)がたりたの住む町で撃剣興行を行う。
吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2… 吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2月26日) - 1954年12月24日)は、日本の音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。1894年に東京音楽学校本科師範部卒業。横浜在住時にルドルフ・ディットリヒに師事。 東京音楽学校分教場、広島高等師範学校(1902年 - 1913年)、神奈川県立第一中学校、神奈川県立第三中学校、神奈川県立高等女学校、東京女子高等師範学校などで教鞭を執る。後に、神奈川県視学。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日… 大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日(明治2年11月28日) - 1918年(大正7年)5月27日)は、岩代国刈田郡三沢村(現:宮城県白石市大鷹沢三沢)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。第18代横綱。本名は角張 萬次(かくばり まんじ)。 明治維新直後の1869年に農家の二男として生まれる。子供の時から身体が大きく怪力で、13歳で四斗俵を左右に軽々と提げて歩いた。この恵まれた体格を持つ少年の噂を聞いた伊勢ノ海部屋の元力士の夫人に見出され、1884年の春に上京して尾車部屋へ入門した。同年5月場所、故郷に因んだ「三沢滝(みさわたき)」の四股名で初土俵を踏んだ。入門当初は「コンニャク」と揶揄されるほど足腰が弱く、初土俵から4場所連続で前相撲から抜けられなかったが、1886年6月場所、師匠の初代尾車が勧進元になった際に、ようやくお情け(いわゆる"お蔭出世")で序ノ口昇進を認めてもらい、1887年1月場所に序ノ口に上がった。
岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年… 岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年11月20日) - 昭和12年(1937年)5月18日)は日本の気象観測技術者。石垣島において気象観測を通じ台風の研究を行った一方、沖縄県八重山地方の生物や民俗、歴史に関する研究も行い、著書などを通じて、それまであまり世に知られていなかった同地を広く世に知らしめた。南方熊楠同様、当時としては珍しい地方に根を下ろした多面的文化人といえる。 号は糸数原主人、袋風荘(たいふうそう)主人、蝶仙、蝶翁。 明治2年10月17日(1869年11月20日)、仙台藩士の子として宮城県仙台市に生まれる。第二高等中学校(現 東北大学)へ入学するも在学中に気象技師を志し中退。
戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5… 戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5月30日) - 昭和4年(1929年)1月14日)は、日本の教育者。戸板学園の創立者。 1869年(明治2年)、仙台藩士で漢学者の戸板善内の一人娘として仙台北5番町で生まれた。生まれた年に父を亡くし、母の手で育てられた。 仙台の松操女学校で学び、18歳で小学校教員となった。自らの知識を磨くために上京し、横浜のフェリス女学校に入学する一方、フェリス女学校、東洋英和女学校、東京女学館で裁縫教師を務めた。1893年、鳥居坂教会の武田芳三郎牧師と結婚し家庭に入るが、教育への情熱から夫と離れて戸板姓に戻った。後に芳三郎と和解し、芳三郎が戸板家に入ることとなった。
佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(18… 佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(1869年1月25日) - 昭和23年(1948年)7月25日)は、日本の医師。福島市長。 宮城県亘理郡亘理町出身。1891年(明治24年)、第二高等中学校医学部卒業。1896年(明治29年)、福島市に病院を開設し、1927年(昭和2年)に東京に移転した。1901年(明治34年)、福島町会議員となり、福島市会議員、同副議長、同議長を歴任した。 1929年(昭和4年)に福島市長に選出され、1945年(昭和20年)まで16年間務めた。その後、公職追放となり、追放中の1948年(昭和23年)死去。
十文字 大元(じゅうもんじ だいげん、1868年11月28日… 十文字 大元(じゅうもんじ だいげん、1868年11月28日(明治元年10月15日) - 1924年12月21日)は、日本の実業家、活動写真弁士、自彊術家である。金門製作所創立者、日本初の活動写真弁士のひとりであり、自彊術の命名者である。 1868年(明治元年)、陸奥国遠田郡涌谷(現在の宮城県遠田郡涌谷町)に生まれる。父親は陸前仙台藩の支藩である涌谷藩の師範家・十文字秀雄、兄に政治家・実業家の十文字信介がいる。 1890年(明治23年)にアメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア州サンフランシスコで過ごす。帰国して、1894年(明治27年)、東京・神田須田町に兄信介ともに十文字商会を開業する。のちに独立して開業する金門商会は、同地のゴールデンゲートブリッジ(金門橋)にちなんだものである。
玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(18… 玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(1868年4月28日) - 昭和17年(1942年))は、日本の教育者。 宮城県仙台市出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、東京高等師範学校附属中学校英語歴史科講師となる。1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校教諭となり、1898年(明治31年)に宮城県尋常中学校教諭に転じた。1901年(明治34年)、第二高等学校教授となり、1928年(昭和3年)に校長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、名誉教授の称号を受けた。
フランク安田または安田恭輔(Frank Yasuda、186… フランク安田または安田恭輔(Frank Yasuda、1868年 - 1958年1月12日)は、アメリカ合衆国アラスカ州で村人を導いて新しい村をつくった日系アメリカ人一世。その活躍から「ジャパニーズモーゼ」あるいは「アラスカのサンタクロース」などとも呼ばれている。 家族には、妻でイヌイットのネビロ安田。娘は、ハナ安田。孫は、ヒュー・デブリン。 1868年宮城県石巻市に生まれた。五人兄弟の三番目で、他に兄二人と妹、弟がいる。両親は医師で15歳の時に亡くなっている。生計を立てる為、三菱社の船積みで働き、太平洋を横断もし、22歳の時にアメリカのカリフォルニア州に渡った。1891年アメリカ沿岸警備船「ベアー号」の乗り組み員となる為、フランク・ハーレイ船長に頼み、ベアー号の雑用係になった。
村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3… 村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3年2月5日) - 1937年(昭和12年)10月18日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。村松亀一郎の従兄弟。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。1888年(明治21年)よりアメリカ合衆国に留学し、ミシガン州立大学法学部を卒業した。帰国後、第二高等学校の講師となったが、辞して1894年(明治27年)から仙台市に弁護士事務所を開いた。1901年(明治34年)にはシャムとイギリスの弁護士資格を取得し、バンコクに事務所を開いた。帰国後は東京や仙台で弁護士の業務に従事した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866… 沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866年1月31日) - 大正11年(1922年)3月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲政友会)。 宮城県栗原郡沢辺村(現在の宮城県栗原市)出身。自由民権運動に加わり、1881年(明治14年)に公愛会という政社を結成した。1894年(明治27年)、県下の自由党員を糾合して血誠義団を組織し、その会長となった。さらに雑誌「新東北」や仙台新聞を発刊して自由党の勢力拡大に貢献したが、1897年(明治30年)に河野広中が自由党を離党すると、それに従い、東北同盟会を組織した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
斎藤 仁太郎(齋藤、さいとう じんたろう / にたろう、18… 斎藤 仁太郎(齋藤、さいとう じんたろう / にたろう、1865年4月12日(慶応元年3月17日)- 1933年(昭和8年)4月22日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮城県桃生郡赤井村長。 陸奥国桃生郡赤井村(宮城県桃生郡深谷村、赤井村、矢本町を経て現東松島市赤井)で、農業・斎藤恒治の長男として生まれた。漢籍を修めた。農業を営む。1881年(明治14年)赤井小学校教員となる。 1884年(明治17年)広淵村外4ヵ村戸長役場筆生に就任。深谷村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた。日清戦争、日露戦争に従軍。1907年(明治40年)赤井村収入役となり、助役を経て、1908年(明治41年)同村長に就任。
矢本 平之助(やもと へいのすけ、元治2年3月11日(186… 矢本 平之助(やもと へいのすけ、元治2年3月11日(1865年4月6日) - 昭和13年(1938年)9月15日)は、日本の政治家。衆議院議員。宮城県桃生郡大塩村(現在の東松島市の一部)村長、宮城県会議員、桃生郡会議員。江合川・鳴瀬川・吉田川の合流や北上川改修などの治水事業を推進し、「治水王(治水翁)」の名で知られた。 元治2年(1865年)3月11日、陸奥国桃生郡深谷大窪村(現在の宮城県東松島市大塩)に矢本平太夫の長男として生まれる(誕生日は戸籍では「3月11日」とあるが、墓誌では「3月21日」とある)。生家の矢本家は戦国時代の矢本館主であった矢本筑前景重の末裔と言われ、代々村役人を勤める豪農で、地方屈指の名家であった。
相原 祐弥(あいはら すけや、元治元年11月4日(1864年… 相原 祐弥(あいはら すけや、元治元年11月4日(1864年12月2日) - 没年不詳)は、日本の裁判官。 宮城県仙台市出身。小野祐治の二男として生まれ、相原安治の養子となった。1891年(明治24年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。秋田地方裁判所判事、前橋地方裁判所判事、東京地方裁判所、東京控訴院判事、東京控訴院部長、名古屋控訴院部長を歴任した。 大審院判事を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院長に就任した。
石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1… 石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1864年1月24日) - 昭和7年(1932年)2月5日)は、正教会の神学者。陸奥国仙台(現宮城県仙台市)出身。聖名はペートル(ペトル)。 生涯で活発に著述活動を行った。 1892年、日本ハリストス正教会の機関誌『正教新報』の編集人となる。亜使徒聖ニコライ大主教からセルギイ・チホミーロフ主教(肩書当時、のち府主教)に日本正教会の長が代わった際に『正教新報』は『正教時報』となるが、その編集人・発行人であり主筆であった。 1917年のロシア革命により母教会からの日本正教会への財政的援助が途絶え教会財政が逼迫する中、1923年の関東大震災により編集場所もなくなり、『正教時報』も縮小を余儀なくされ主筆の石川以外の人員が全て解雇され、石川の仮住居がそのまま正教時報社となるといった多大な困難にあって、石川は編集、発送、会計など全ての事務を担い続け『正教時報』発行継続に全力を尽くした。
一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(18… 一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(1863年11月6日) - 昭和4年(1929年)11月5日)は、日本の実業家。河北新報社創業者(社主)。旧姓鈴木。宮城県平民。 河北新報元社長の一力次郎の父。元河北新報社社主の一力一夫の祖父。河北新報社社長の一力雅彦の曾祖父。囲碁棋士の一力遼の高祖父。 太町の唐物商の鈴木作兵衛の四男として生まれた。後に隣家の茶商である一力松治郎の養子となる。東華学校、第二高等中学校を卒業後、上京。国民英学会にて学ぶ。また、第二高等中学在学中には、くまじ夫人との間にすでに、一男一女をもうけていた。 仙台での書店経営で実業界入りし、植林会社(宮城植林株式会社)を興し創業。