諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月… 諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月23日 - 1975年(昭和50年)1月26日)は、日本のキリスト教宣教家。
山形県:1,217人
諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月… 諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月23日 - 1975年(昭和50年)1月26日)は、日本のキリスト教宣教家。
山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19… 山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19日 - 1967年(昭和42年)1月22日)は、日本の詩人、英文学者。日本詩人クラブ発起人の一人。 山形県山形市出身。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)から、第一高等学校に進む。一高時代からアララギの歌会に参加した。 1914年在学中に中心となって第三次『新思潮』を創刊、ほかに豊島与志雄、山本有三、井出説太郎(土屋文明)、柳川隆之介(芥川龍之介)、草田杜太郎(菊池寛)、成瀬正一、久米正雄、佐野文夫、松岡譲がいた。 1915年東京帝国大学英文科卒。 1917年、川路柳虹らと詩話会を結成、1918年から評論集『詩文研究』を上梓する。
岡 邦雄(おか くにお、1890年1月15日 - 1971年… 岡 邦雄(おか くにお、1890年1月15日 - 1971年5月22日)は、日本の科学史家。 山形県米沢市生まれ。東京物理学校(現在の東京理科大学)卒。1924年旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)助教授。文化学院大学部設立に助力し、教師も務める。1932年に共産主義活動を理由に一高を解雇され、同年、戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加した。 1936年には糟糠の妻と6人の子を捨て、26歳のロシア語翻訳者桝本セツとの恋愛に走ったことで世間を騒がせ、新聞には、自らが唱えた新しきモラルの実践か、と揶揄された。 1938年に治安維持法違反の疑いにより逮捕。1945年10月9日、全政治犯の釈放に際し、宮城刑務所を出所した。
酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月1… 酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月10日 - 昭和31年(1956年)10月3日)は、出羽庄内藩11代藩主・酒井忠篤の3男。松ヶ岡開墾場2代総長。酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長。 庄内藩主11代酒井忠篤の3男として鶴岡市家中新町に生れ、酒井家内の学問所文会堂で学び、旧制中学の課程を家庭教師について終了した。明治44年(1911年)22歳のとき、松平親懐の後を受けて松ヶ岡開墾場2代総長となり、その後、酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長など数多くの役職を歴任した。
大内 有恒(おおうち ありつね、1890年〈明治23年〉 -… 大内 有恒(おおうち ありつね、1890年〈明治23年〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、昭和時代前期の政治家。弁護士。山形県山形市長(第11代)。 山形県東置賜郡小松町(現・川西町)生まれ。福島中学校から2年時に山形中学校へ移り、旧制第二高等学校、東京帝国大学を経て、山形市内に弁護士を開業する。1925年(大正14年)山形市会議員に当選以来市会の実権を握り、のちに蔭の市長と呼ばれた。市議会議員を5期務め、議長に就任した時期もある。 太平洋戦争末期と終戦後の混乱期の2年間市政を担当し、分散疎開や外地引揚者の受入に苦心した。その後、公職追放となった。
加藤 富之助(かとう とみのすけ、1889年〈明治22年〉1… 加藤 富之助(かとう とみのすけ、1889年〈明治22年〉12月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月15日)は、日本の政治家。山形県議会議員(7期)、山形県議会議長、米沢市会議員(4期) 山形県米沢市生まれ。米沢商業学校(現・山形県立米沢商業高等学校)卒業。米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)染色科で学んだ後に、上京して、時事新報に勤めた。その後、帰郷し機業に従事して、新聞社の経営を行った。 1933年(昭和8年)に米沢市会議員に当選して、4期務めた。 1939年(昭和14年)9月25日の県会議員選挙に米沢市選挙区から立憲民政党公認で立候補して、初当選を果たした。 1947年(昭和22年)4月30日の県議選では自由党公認で立候補して、再選を果たした。
大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月1… 大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1941年(昭和16年)8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市上花沢片町出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業し、同年12月、工兵少尉に任官。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部通信課に配属された。 1935年(昭和10年)3月、工兵大佐に昇進し、参謀本部通信課長に就任。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し、陸軍通信学校付となり、さらに同校幹事を務めた。1938年(昭和13年)10月、台湾軍参謀長となる。 1940年(昭和15年)3月、近衛師団司令部付となり、同年7月、鎮海湾要塞司令官に就任。
山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月… 山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月27日 - 1934年(昭和9年)2月1日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。海軍随一の空爆の名手であったが、神兵隊事件で内乱予備陰謀罪に問われ検挙された。最終階級は海軍中佐。
新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1… 新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1979年4月27日)は、ドイツ文学者、演劇研究者。1943年恩賜賞受賞。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。文学博士。学習院教授、埼玉大学学長。河北町名誉町民。息子の新関欽哉は外交官、オーストリア、ソ連大使などを務めた。 山形県西村山郡谷地村横町(現・河北町谷地)生まれ。旧姓・平泉。谷地尋常高等小学校から西村山郡立西村山中学校(現・山形県立寒河江高等学校)に入学後、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転じる。東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。1912年、山形市の伯母新関せいの養子となる。第一高等学校文科を経て、1915年東京帝国大学文科大学独文科卒。
大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 194… 大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、日本の陸軍軍人、作曲家、指揮者。最終階級は陸軍軍楽少佐。山形県米沢市出身。 1889年、小学校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、軍楽兵を目指し1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「恩賜の銀時計組」)。1912年に陸軍戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子軍楽隊長の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。
北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5… 北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5月28日 - 1970年(昭和45年)10月25日)昭和期の実業家。住友本社常務理事、大丸社長を務めた。位階は従三位。 山形県米沢市元籠町に於いて、旧米沢藩士で海軍省経理局などの官吏を務めた北沢虎蔵の次男として生まれる。米沢尋常中学興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)、一高を経て、1914年に東京帝国大学法科大学を卒業後、住友総本店に入社。アメリカ・プリンストン大学への留学を経て、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命保険専務を歴任。1931年に住友本社常務理事となる。しかし、敗戦後の1946年に財閥解体で理事を辞任。翌1947年には公職追放の憂き目に遭った。
釋迦ヶ嶽 庄太郎(しゃかがたけ しょうたろう、1889年5月… 釋迦ヶ嶽 庄太郎(しゃかがたけ しょうたろう、1889年5月15日 - 1966年7月18日)は、山形県山形市釈迦堂出身で山科部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は川鰭 庄太郎(旧姓富塚)。8代山響。174cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 1906年1月初土俵。当初は最上山を名乗ったが、出身地の釈迦堂から釋迦ヶ嶽と改名した。目立つ力士ではなかったが力が強かった。1913年1月十両昇進。1914年5月入幕し、平幕を上下した。1917年1月場所千秋楽に鳳から小手投げで金星を獲得。現役時代に元十両・嶽ノ越の山響の未亡人と結婚。1922年1月十両に陥落し、ここで負け越したのを最後に引退し、山響を襲名。
阿部 弘毅(あべ ひろあき、1889年(明治22年)3月15… 阿部 弘毅(あべ ひろあき、1889年(明治22年)3月15日 - 1949年(昭和24年)2月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 海軍兵学校(39期)、海軍大学校(23期)卒業。海軍兵学校同期に伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、山県正郷、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 山形県米沢市出身。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を148人中26位で卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉任官。 1938年(昭和13年)11月海軍少将、海軍兵学校教頭兼監事長。1941年(昭和16年)8月、重巡洋艦「利根」、「筑摩」からなる第8戦隊司令官。第8戦隊は真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に参加した。
朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 -… 朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 - 1947年12月3日)は、現在の山形県鶴岡市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は石田 富五郎(旧姓伊藤)。173cm、86kg。最高位は東前頭13枚目。大起男右エ門の岳父。 1907年5月初土俵、1912年5月十両昇進。1916年1月新入幕したが、連続負け越しで十両陥落。1919年1月廃業した。その後は相撲茶屋の伊勢福の養子になった。 番付上の表記揺れを無視すれば改名歴なし。 ただし、番付上の表記揺れとして、1908年1月場所は「浅ミとり 冨五郎」、1908年5月場所 - 1911年5月場所は「浅緑 冨五郎」と記されている。
酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月2… 酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月22日 - 1962年〈昭和37年〉2月12日)は、日本の華族、詩人、歌人、書家。位階爵位は正三位伯爵。財団法人致道博物館の創設者。 庄内藩11代藩主だった華族の酒井忠篤伯爵の次男で、最後の藩主酒井忠宝(忠篤の弟)の養子にあたる。幼名は小五郎。1915年(大正4年)の忠篤の死去に伴い、酒井佐衛門尉家20代当主となるとともに、2代伯爵位を襲爵した。富裕な華族で、山形県の多額納税者だった。1947年(昭和22年)8月15日、昭和天皇が戦後巡幸した際には、鶴岡市内の邸宅が御泊所となった。 1950年(昭和25年)、地域振興のため所有する庄内藩主御隠殿及び藩校致道館資料を財団法人以文会(現:致道博物館)を設立の上で寄付。
酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21… 酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21年〉8月15日 - 1958年〈昭和33年〉8月13日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(1期)、元山形県議会議員、元宮生村村長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 山形県宮生村金生(現上山市)出身。1903年に上山尋常高等小学校高等科卒業、1909年に東京神田森田簿記専修学校の商業銀行社会一般全科卒業。 1923年に宮生村消防組頭に就任、1929年宮生村村会議員に選出、1931年宮生村助役就任。 1932年に宮生村村長となった。 1934年に上山タクシー社長に就任。 1939年9月25日に山形県会議員に初当選。同年10月に参事会員。 戦後、公職追放となり、1946年12月1日に県会議員を辞職。
達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 … 達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 - 1945年11月10日)は、現在の山形県長井市出身で千賀ノ浦部屋・芝田山部屋・出羽海部屋に所属した力士。本名は梅津 源之助。5代君ヶ濱。176cm、94kg。最高位は東前頭2枚目。 1904年5月、元大関大達の千賀ノ浦部屋から梅川の四股名で初土俵。間もなく師匠が亡くなって芝田山部屋(当時の師匠は3代芝田山(最高位幕下の松ヶ枝))に移籍。入幕を目前にしてこれまた師匠が亡くなったため出羽海部屋に移籍。1915年1月新入幕。立ち合いからの突っ張り一本の相撲で幕内を通算13場所務めたが、この間、1917年5月に達ノ矢と改名している。1921年5月引退し、その後は自身との稽古中の負傷が元で死亡した元小結大ノ川の年寄名跡である君ヶ濱を5代目として襲名し、その遺族の扶養を引き受けた。
山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 19… 山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 1983年2月2日)は、日本の建築家。昭和時代にかけて活躍。山形県米沢市出身。昭和の初めに事務所を設立して以米、幾多の建物設計のなかで霞ヶ関ビルやNHK放送センター等が代表的な作品である。その一方で建築施工に関する研究も続け、28年にわたり東京大学の講師として後進の指導にあたった。 幼少期は教育者であった父、新力から、米沢士族の子弟として、誇高く厳格な家庭教育を受けて成人した。叔父に当る山下源太郎海軍大将に深く私淑し、一生人生の師範として敬った[要出典]。上京の後、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に学び、1912年に卒業。
大場 鑑次郎(おおば かんじろう、1888年(明治21年)2… 大場 鑑次郎(おおば かんじろう、1888年(明治21年)2月12日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の内務・警察官僚。官選愛媛県知事、関東州庁長官。旧姓・金子。 山形県南村山郡椹沢村(現在の山形市)出身。農業・金子慶治の三男として生まれ、大場徳太郎の養子となる。山形県立山形中学校、第二高等学校を卒業。 1911年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し愛媛県試補となる。 1913年7月、愛媛県警視に就任。以後、北海道庁理事官・視学官、高知県理事官、関東庁事務官・警務局保安課長、同局高等警察課長兼保安課長、同局保安課長、東京府内務部長、福岡県書記官・内務部長などを経て、1931年5月、台湾総督府文教局長に就任し1932年3月まで在任。
池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 19… 池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 1978年(昭和53年)3月)は、日本の医師、社会福祉家、動物愛護者、羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。 開業医を務める傍ら、羽黒町の社会福祉と動物愛護のために多額の私費を投じて奉仕活動を行った。
小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)1… 小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)10月15日 - 1943年(昭和17年)3月3日)は、山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は後藤 鶴松(ごとう つるまつ)。最高位は小結。 1887年10月15日に山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)で生まれる。上京して二十山部屋へ入門後、1901年5月場所で初土俵を踏んだ。四股名は出身地に因んで「山泉」と名乗った。当初は苦戦して出世まで時間が掛かったが、両國國技館(初代)のこけら落としとなった1909年6月場所で新入幕を果たし、この場所で7勝2敗1預の好成績を収めると、1910年1月場所では梅ヶ谷藤太郎(2代)を破って金星を獲得するなど、上位に通用するまでに力を付けた。
土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8… 土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8月 - 1957年〈昭和32年〉11月28日)は、 日本のアイヌ民族研究者。北海道大学教授。 1887年8月、山形県米沢市に生まれる。 米沢中学校を経て、1909年4月に早稲田大学理工科予科入学。1911年9月に家事都合で中退後、1912年6月から同大理工科建築学研究室の佐藤功一の助手となり工芸美術を専攻。1915年1月から建築学会の書記となり、『建築雑誌』の編輯にあたる。 1922年4月から北海道大学予科の講師となり、図画を担当する。1940年9月から教授となり、高等官六等に叙される。1943年に従六位に叙される。1949年5月に同大教授を退官。
値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25… 値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・前田。 山形県、現在の山形市で、前田保の二男として生まれ値賀勇雄の養子となる。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となった。1926年(大正15年)8月、航空兵中佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員に就任。
名和 仁一(なわ にいち、1887年(明治20年)6月28日… 名和 仁一(なわ にいち、1887年(明治20年)6月28日 - 1934年(昭和9年)2月10日)は、台湾総督府官僚。台中市尹。 山形県北村山郡東郷村(現在の東根市)出身。山形県師範学校を経て、1911年(明治44年)に広島高等師範学校本科地理歴史科を卒業した。山形県立高等女学校教諭、宮内省臨時編修局書記、臨時帝室編修官を務めた。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。台湾総督府に入り、編修官、高雄州教育課長、高雄高等女学校校長事務取扱、台北州地方課長、同勧業課長を経て、1930年(昭和5年)、台中市尹に就任した。その後、総督官房会計課長に転じた。
丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 196… 丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 1967年4月11日)は、日本の聾唖教育者、社会事業家、ソーシャルワークの実践者。丸山ちよと表記されることがある。 山形県米沢市で、丸山孝一郎の四女として生まれる。姉と妹が聾唖者であったことから聾唖教育を志し、山形県立米沢女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)を経て日本女子大学校に進学した。1909年3月に同校を卒業した後は、教職に就くも病気のため郷里に戻った。その後、父親の死を契機に上京する。日本女子大学校の同窓会組織である桜楓会が運営を模索していた託児所経営に、1913年から主任保母として参加し、貧しい婦人の労働機会を確保するとともにその子弟が教育を受ける機会を広げた。
土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10… 土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10日 - 1958年(昭和33年)11月5日)は、日本の漢詩人。本名・久泰。字は子健。大東文化大学学長(初代)などを歴任。山形県鶴岡市出身。 1914年、東京帝国大学法学部卒。1928年、芸文社を興し『東華』を創刊、1931年、大東文化学院講師、のち教授、東京文政大学・文政大学・大東文化大学学長(初代)を務める。国分青崖のあと漢詩壇の第一人者となり、1949年、日本芸術院会員。余香吟社などの詩社を指導した。『日本百人一詩』(砂子屋書房、1943)の著作がある。
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月… 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。 米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月… 高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月28日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は、日本の哲学者。男性。元東北大学総長。文化功労者。 1886年、山形県東置賜郡上郷村(現米沢市)で生まれた。13歳の時に父を失い、米沢にあった母の実家本間家で育った。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学文科大学に入学。哲学科で学び、1910年(明治43年)に卒業。同大学大学院へ進み、修了した。大学院在学時の26歳の時に処女論文「意識現象の事実と其意味」(1912年5・6月号『哲学雑誌』)を発表して西田幾多郎『善の研究』を批判し、西田と論争を展開して注目された。
田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954… 田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954年10月30日)は、日本の教育社会学者。 山形県置賜郡添川村(現・飯豊町添川)生まれ。山形県立米沢中学校卒、1907年早稲田大学文学部文学科卒。新潟県立高田中学校教諭、1913年に退職して上京、大日本文明協会で翻訳の仕事をする。1915年大日本文明協会編集部員。1946年早大文学部講師。のち教育学部講師を兼ねる。
本間 久雄(ほんま ひさお、明治19年(1886年)10月1… 本間 久雄(ほんま ひさお、明治19年(1886年)10月11日 - 昭和56年(1981年)6月11日)は、日本の英文学者・国文学者。文学博士。早稲田大学名誉教授、実践女子大学名誉教授。弟に日本画家の本間国生がいる。米沢市出身。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)… 南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)9月19日 - 1963年(昭和38年)11月18日(22日とも))は、日本および満州国の陸軍軍人。陸士19期卒(歩兵)。日本陸軍では長く教育畑におり、満洲国軍でも陸軍軍官学校長を務めた。最終階級は陸軍少将、満州国軍中将。 1886年(明治19年)に山形県南置賜郡笹野村(現在の米沢市笹野)で南雲親吉の次男として生まれた。 米沢尋常中学興譲館を経て、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校第19期卒業。歩兵第32連隊より会津の歩兵第65連隊に転じたのち少尉任官。陸軍戸山学校、陸軍歩兵学校、陸士区隊長(27期担当)を経て1921年(大正10年)7月、久邇宮邦久王の訓育中隊長兼教育主任を担当。
中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、188… 中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、1886年9月10日 - 1949年7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は、陸軍中将。栄典は、従三位[要出典]勲一等功三級。 山形県米沢市木場町出身。1905年11月、陸軍士官学校(18期)を卒業、翌年3月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となる。1918年11月、陸軍大学校(30期、同じ山形県出身の石原莞爾と同期)を卒業した。 戦術研究に才覚を現し、1919年陸軍歩兵学校教官、1921年フランス駐在武官、1926年12月陸軍大学校兵学教官を歴任。1930年8月陸軍歩兵大佐に陞進、参謀本部戦史課長。1931年8月歩兵第77連隊長。1933年3月陸軍歩兵学校教導隊長、同年8月侍従武官。
酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月2… 酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月25日 - 1964年(昭和39年)7月5日)は、昭和時代前期の銀行家、軍人、陸軍中尉・従七位、考古学研究家。荘内銀行初代頭取。庄内民俗学会会長、山形県文化財保護協会理事。幼名は徳太郎、号は松堂。 最後の藩主である酒井忠宝の長男として鶴岡郊外大宝寺村(現:鶴岡市)で生まれる。若い頃から考古学に興味を持ち、庄内各地を踏査し、史料収集につとめ、長年にわたり遺跡・遺物の調査と保存につとめた。その一方で、金融界でも活躍し、1939年(昭和14年)9月に菅實のあとを受け、六十七銀行頭取に就任し、41年4月には合併後の荘内銀行頭取に推され、44年10月まで在任し、48年10月までは会長を務めた。
亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 197… 亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 1977年10月4日)は、日本の西洋史学者。
榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月… 榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月7日 - 1935年〈昭和10年〉4月19日)は、日本の婦人運動家。大正デモクラシーの時期の京都で、市民的な女性運動が盛んになった際に、その中心となって諸運動の連携に尽力した人物である。山形県鶴岡出身、明治女学校専攻科卒業。従兄弟に聖書学者の黒崎幸吉がいる。 1886年(明治19年)に誕生した。東京の明治女学校卒業を経て、熊本女学校や東京女子商業学校など、日本各地の女学校に教員として勤めた。兄の仕事の関係で、満州でも教鞭をとった。 1919年(大正8年)7月、当時の京都大学教授の厨川白村の勧めで、厨川の妻や中外日報記者ら女性たちと共に、知的階級女性による文化団体「京都PL会」を結成した。
小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月… 小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月2日 - 1946年(昭和21年)12月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)に山形県米沢市で生まれた。興譲館中学校二年を経て、仙台陸軍幼年学校卒業。1905年(明治38年)に陸軍士官学校第18期を卒業し、1906年(明治39年)に歩兵少尉任官。1915年(大正5年)に陸軍大学校第27期卒業。1927年(昭和2年)に天津駐屯歩兵隊長に就任し、済南事件が発生した際には日本人居留民の保護に当たった。1928年(昭和3年)に東京警備司令部参謀を経て、1930年(昭和5年)に陸軍歩兵大佐に進級し、名古屋連隊区司令官に就任。
甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉… 甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉1月11日 - 1958年〈昭和33年〉3月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市門東町出身。米沢尋常中学興譲館より仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。中央幼年学校生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第32連隊中隊長、参謀本部員、歩兵第40連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第7師団参謀などを歴任。1930年8月、陸軍大佐に昇進し京城帝国大学の配属将校となる。留守第11師団参謀長を経て、歩兵第15連隊長となり、第一次上海事変により動員されるが満州に転用され、馬占山軍の攻撃に従事。
清水 鉱治(しみず こうじ、1886年 - 1925年2月2… 清水 鉱治(しみず こうじ、1886年 - 1925年2月25日)は、日本ホーリネス教会の牧師である。離島伝道に従事した。 山形県最上郡豊田村(現・鮭川村豊田)に沓澤家の次男として生まれる。新庄中学(現・山形県立新庄北高等学校)在学時代に、新庄ホーリネス教会清水俊蔵によりキリスト教に入信する。 新庄中学校卒業後に献身し、聖書学院に入学する。また、清水俊蔵の婿養子となる。1912年に妻が死去してから、伊東同盟教会(日本同盟基督教団伊東教会)で伝道する。1914年5月には新島同盟教会(日本同盟基督教団新島教会)に赴任する。 1925年に肺結核のために杉並救世軍病院で死去する。 辞世の歌は「教のため身はすて小舟かへりみで、この荒磯に朽ちはてんとぞ思ふ。
小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 19… 小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 1945年1月18日)は、日本の植物学者・登山家。高山の植物、地衣類、蘚苔類の研究で知られる。 植物学者の小泉源一は実兄。 山形県米沢市にて、旧米沢藩士の家に生まれる。盛岡高等農林学校に学ぶが中退して中学教員となった。山形県内の中学校に勤務後、1911年、北海道庁立上川中学校の教員となった。この間大雪山に登り、地形・地質の調査と植物採集を行い、日本山岳会の機関紙『山岳』に記事を寄稿し、研究調査結果を、『大雪山 登山法及び登山案内』として1926年に刊行したことから、「大雪山の父」と呼ばれるようになった。その後高知県立第三中学校を経て、長野県立女子師範学校、松本高等学校の講師となり、長野県内、関東、近畿の山岳や名勝を調査した。
片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1… 片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1972年8月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山形県米沢市出身。片桐作吉の長男として生まれる。米沢中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科を卒業し、「摂津」分隊長、「厳島」分隊長、砲術学校教官などを経て、1918年11月、海軍大学校(甲種16期)を卒業。以後、第2水雷戦隊参謀、軍令部出仕兼参謀、「摂津」砲術長、「出雲」砲術長、海兵教官、海軍省教育局第1課局員などを歴任。 さらに、欧米出張、「大井」艦長、「青葉」艦長、教育局第1課長、「榛名」艦長などを経て、1933年11月、海軍少将に進級。
浅間 義雄(あさま よしお、1885年7月25日 - 194… 浅間 義雄(あさま よしお、1885年7月25日 - 1945年9月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍司政長官。 1885年7月、山形県米沢市北谷地小路に生まれる。米沢尋常中学興譲館を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1910年、歩兵中尉として陸軍戸山学校に分遣、成績優秀につき恩賜の時計を賜る。1912年、天津に駐屯。1914年、中隊長として青島に従軍(青島の戦い)。1921年、歩兵大尉、遼陽に駐屯。1923年、歩兵少佐、浜松師範学校配属将校。 1927年、歩兵第32連隊大隊長、後に陸軍歩兵学校分遣。1931年、歩兵中佐、第8師団高級副官、1933年まで満州事変(熱河作戦)に参加する。
村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月1… 村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月15日 - 昭和37年(1962年)12月1日)は、日本の植物学者。現在の山形県鶴岡市出身。 温海町(現・鶴岡市)が、マルバシャリンバイの北限である事と、飛島がムベの北限である事を証明した。
水野 重功(みずの しげかつ、1885年(明治18年)3月2… 水野 重功(みずの しげかつ、1885年(明治18年)3月20日 - 1960年(昭和35年)5月4日)は、日本の検事、弁護士。朝鮮総督府官僚。 山形県鶴岡市出身。水野重慎の息子として生まれる。荘内中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。統監府判事を経て、朝鮮総督府判事となった。平壌地方裁判所判事、京城地方法院判事、同検事、京城覆審法院検事、京城地方法院検事、大邱地方法院検事、京城覆審法院検事、高等法院検事、朝鮮総督府法務局刑事課長、同法務課長、高等法院検事を歴任し、1930年(昭和5年)に欧米諸国を視察した。帰国後、京城地方法院検事正、平壌覆審法院検事長、京城覆審法院検事長を経て、1943年(昭和18年)に高等法院検事長に就任した。
小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3… 小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月21日)は、日本の数学者・数学史家・随筆家。大阪医科大学(現・大阪大学医学部)教授を歴任。山形県酒田市生まれ。 生家は酒田の回漕問屋。荘内中学校を経て、1905年(明治38年)に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。 林鶴一のもとで数学を学び、1911年(明治44年)東北帝国大学の助手となる。1916年(大正5年)に微分幾何の研究で、理学博士の学位を取得。 1917年(大正6年)から大阪医科大学(現・大阪大学医学部)塩見理化学研究所研究員。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1… 下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。 日中関係が不穏な時期に下村は第10戦隊司令官に就任した。下村は日本海軍の通信系統、即ち、北京海軍駐在武官→旅順→東京→佐世保→高雄→第三艦隊旗艦出雲から、佐世保、高雄を省略することで、日華事変が勃発した当日に出雲艦上においていち早く事変発生の情報を入手した。第三艦隊司令長官長谷川清と会談中のことであった。
松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)1… 松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)10月22日 - 1962年(昭和37年)10月15日)は、日本の書家。以文会(現・致道博物館)理事、松平武右衛門家10代当主。黒崎研堂門下では吉田苞竹と双璧をなした。 1884年(明治17年)10月22日、塚原権平の子として、山形県東田川郡松ヶ岡(現・鶴岡市羽黒町)に生まれる。松平武右衛門家9代当主・松平久彰の養子となる。その後、黒崎研堂の門下生となり、書と詩を学ぶ。 1907年(明治40年)山形師範学校を卒業し、最上郡鮭川村小学校に勤務。1908年(明治41年)教員試験に合格し中等教員習字科の免許を取得する。1912年(明治45年)酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)教諭。
池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)… 池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)5月2日 - 1977年(昭和52年)4月2日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、石油化学工業協会会長を務めた。従三位勲一等瑞宝章。 山形県酒田市出身。荘内中学校、第三高等学校を経て、1909年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科卒業、三菱合資入社。三菱鉱業技師長や、三菱鉱業取締役を経て、1939年に山田三次郎が死去すると後任の日本化成工業社長に就任。1943年からは旭硝子社長も務め、1944年には旭硝子と日本化成工業の合併による三菱化成工業の設立にあたった。1944年旭化学工業奨励会理事長。第二次世界大戦後は公職追放対象者となるが、1950年10月に解除。
阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日… 阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日 - 1959年〈昭和34年〉10月20日)は、日本の哲学者・美学者・作家。東北帝国大学法文学部教授、同学部長、帝国学士院会員。仙台市名誉市民。『三太郎の日記』著者。 1883年、山形県飽海郡上郷町(後の松山町、現・酒田市)大字山寺に生まれる。教師であった父の阿部富太郎とゆき(旧姓・竹岡)夫妻の次男。富太郎は叔父の阿部七郎衛門とわかの夫妻の養子となるが、わかのはゆきの長姉で竹岡家の姉弟は全員がキリスト教徒でもあった。8人兄弟で、加藤ます(加藤儀藏夫人)、阿部一郎(農業指導者・実業家、山形県食糧営団理事長、山形糧穀加工社長、阿部襄の父)、阿部次郎(本人)、堀三也(軍人、陸軍大佐、昭和通商社長)、阿部余四男(動物学者、広島大学教授)、竹岡勝也(日本史学者、九州帝国大学教授)、柏木礼子(柏木俊一夫人)、阿部六郎(ドイツ文学者・文芸評論家、旧制成城高校・東京藝術大学教授)と、兄弟のうち、次郎を含む4人が大学の教師となる。
太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治1… 太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治16年)4月5日 - 1958年(昭和33年)9月30日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道上川郡名寄町長。 山形県東田川郡東栄村(現:鶴岡市)で太田豊治の長男として生まれる。1900年5月、父と共に北海道天塩国上川郡上名寄村字名寄太に入植し開墾に従事。 学務委員、上名寄村会議員、名寄町会議員、北海道会議員、名寄町長、名寄町農業会長、北海道農業会理事、名寄信用購買販売生産組合理事、名寄信託商事取締役、北海道澱粉統制組合理事長、日本澱粉統制 (株) 監事などを務めた。 1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で北海道第二区から出馬して当選。