楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、… 楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、日本の内務官僚。新庄町長(1期)、山形県新庄市出身。 戦後、公職追放となる。
山形県:1,217人
楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、… 楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、日本の内務官僚。新庄町長(1期)、山形県新庄市出身。 戦後、公職追放となる。
鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2… 鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2日 - 1956年(昭和31年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 山形県出身。山形中学を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付を経て、1916年(大正5年)11月、歩兵少佐に昇進し歩兵第1連隊大隊長に就任。1918年(大正7年)6月、陸大教官に転じ、関東軍司令部付に異動。1921年(大正10年)4月、歩兵中佐に進級。
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1… 寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授。学位は理学博士(1917年・東京帝国大学)。東北帝国大学教授、東京帝国大学教授、同総長事務取扱、同理学部長、同地震研究所所長、同航空研究所所長、逓信省高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任。著書『自然科学者のための数学概論』は応用数学の名著として名高い。 1882(明治15)年7月15日、米沢藩士寺澤兵吉の次男として、現在の山形県米沢市上矢来町に生まれる。 興譲尋常高等小学校から米沢中学興譲館入学。後に上京し、1902年、大成中学校卒業。
池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月… 池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月22日 - 1905年〈明治38年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。日本海海戦で戦死した海軍中尉である。大蔵大臣などを歴任した池田成彬は兄。従七位勲六等功四級。 海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。 池田は新造駆逐艦の配置を希望し、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。
下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉1… 下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉10月8日 - 1916年〈大正5年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で観戦武官として戦死した海軍中佐である。海大甲種10期首席。正六位勲四等功四級。 1881年(明治14年)10月8日、山形県米沢市に生まれた。下村正助海軍中将は実弟である。幼くして母と死別し、父と共に北海道根室に移住したが、中学進学のため帰郷し、米沢中学に進んだ。翌年父を失っている。1899年(明治32年)に海軍兵学校に入校し、1902年(明治35年)12月、187名中8番で卒業した(30期)。百武源吾、松山茂のほか、今村信次郎、松浦松見、池田宏平ら同郷の7名が同期生である。
折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1… 折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1966年12月23日)は、日本の造園家、都市計画家。官庁技師として活躍。また造園分野の教育者として後進の指導に当たった。日本における公園整備の第一人者として、世界的に知られる。 山形県新庄市出身。1881年(明治14年)新庄藩主戸沢子爵の東京麻布の邸内に、山形県士族折下済の長男として生まれた。麻布中学校、第一高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学農学科を卒業。卒業後、宮内省内苑寮園芸掛技手となって新宿御苑に奉職。福羽逸人の指導の下で御苑と代々木御料地の管理に関与。御苑にて、洋蘭の品種改良や菊、果樹疏莱、庭園芸などを研究した。
原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - … 原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 山形県米沢市出身。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業して、司法官試補となった。京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、1909年(明治42年)に朝鮮に渡り、京城区裁判所判事、京城地方裁判所判事、京城覆審法院判事、高等法院判事を歴任。1920年(大正9年)、朝鮮総督府法務局民事課長に転じ、1923年(大正12年)に欧米に出張した。帰国後、高等法院判事、京城地方法院長、高等法院部長を経て、1932年(昭和7年)に大邱覆審法院長となり、1939年(昭和14年)に高等法院長に就任した。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 19… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 1964年10月5日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県南置賜郡三沢村赤芝(現・米沢市)出身。佐藤丑松の三男として生れる。米沢尋常中学興譲館を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。陸軍戸山学校付などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸士教官、参謀本部員、支那公使館付武官補佐官、参謀本部員、兼陸大教官、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部課長、欧州出張、歩兵第46連隊長、第3師団司令部付(済南駐在)などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)… 今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。米沢中学校を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校(30期)を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。この時席次は百武源吾と入れ替わり首席となった。日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵32期の指導にあたり、日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。「須磨」乗組、「鹿島」回航委員、同分隊長などを経て、海軍砲術学校特修科を首席で修了。
羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 … 羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 - 1962年3月22日)は、日本の鉄道技術者。現在の山形県上山市出身。次男には国鉄浜松工場・大宮工場長、川崎電機製造常務取締役を務めた羽島進。 山形県南村山郡上山裏町(現・上山市裏町)にて羽島栄造・はなの長男として生まれ、明新学校・上山尋常高等小学校(現・上山市立上山小学校)、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)、帝国大学工科大学(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)機械工学科を経て1905年に川崎造船所に就職した。同年には松平信安の長女・賀満(かま)と結婚した。 1907年12月に帝国鉄道庁へ移り大宮工場で勤務、1910年に鉄道院技技師、1919年に盛岡工場長、1922年に札幌鉄道局工作課車両係長を経て、その後工作課長となる。
三矢 宮松(みつや みやまつ、1880年(明治13年)10月… 三矢 宮松(みつや みやまつ、1880年(明治13年)10月23日 - 1959年(昭和34年)1月10日)は、日本の内務官僚、宮内官僚。
松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月… 松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月14日 – 1955年(昭和30年)2月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、拓務政務次官。ジャーナリスト。 山形県北村山郡楯岡村(現在の村山市)出身。1899年(明治32年)に浄土宗大学を卒業した後、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ。日露戦争に従軍。都新聞社に入り、政治部記者、副社長、常任監査役、編集顧問を歴任した。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで7回当選を果たし、1940年(昭和15年)に発足した米内内閣では拓務政務次官を務めた。この間、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
伊藤 昌庸(いとう まさつね、1880年(明治13年)6月2… 伊藤 昌庸(いとう まさつね、1880年(明治13年)6月20日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚、教育者。官選香川県知事。 山形県南村山郡山形香澄町(現:山形市香澄町)で、旧山形藩士・伊藤喜惣の二男として生まれる。貧しさのため小学校入学は9歳で、1894年にはその小学校も退学して山形県庁の給仕として採用され床次竹二郎内務部長付となる。山形郵便局雇員に転じ、書記補試験に合格。 その後、山形県尋常中学校4年に編入し、1900年に卒業。中学同期生の鈴木美通(後に陸軍中将)と共に陸軍士官学校を受験したが、眼病のため不合格となる。1904年、東京高等師範学校英語専修科を卒業し、北海道師範学校教諭に就任。
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11… 佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学名誉教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会会長なども務めた。1950年日本学士院会員。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 山形県西置賜郡荒砥村(現:白鷹町)の旧家の四男、山口安平として生まれた。生家(山口家)は大地主であったが次第に没落し、また実父の山口三郎兵衛が早くに病死したため、米沢中学在籍時に天童織田家の藩士だった佐野誠一郎の養嗣子となった。
小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日… 小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日 - 1937年(昭和12年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。実弟である櫻井忠記陸軍大佐の親戚に山本五十六元帥や山下源太郎海軍大将がいる。 山形県米沢市代官町出身。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し、陸士に配属された。 1922年(大正11年)8月、歩兵大佐に昇進し、陸軍兵器本廠付となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第25連隊長に就任。1924年(大正13年)12月、第1師団参謀長に転じた。 1928年(昭和3年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第19旅団長に就任。
左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6… 左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月30日)は、日本の海軍軍人。政治家。最終階級は海軍中将。第3次近衛文麿内閣の商工大臣。鈴木貫太郎内閣の国務大臣。
石川 磐彦(1879年(明治12年)4月 - ?)は、日本の… 石川 磐彦(1879年(明治12年)4月 - ?)は、日本の発明家。 山形県鶴岡市出身。慶應義塾で学び、アメリカ合衆国に留学した。1912年(大正元年)に大阪市に石川商会を創立し、製造工業諸材料品の輸出入業を経営した。 昭和10年(1935年)の5月9日から5月29日までジャパン・ツーリスト・ビューロー主催の鮮満視察団に参加し、朝鮮及び満洲を視察し、『鮮満視察旅行』を著した。
瀬川 章友(せがわ のりとも、1879年(明治12年)3月6… 瀬川 章友(せがわ のりとも、1879年(明治12年)3月6日 - 1938年(昭和13年)2月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、旧新庄藩士の息子として山形県新庄市に生まれる。山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)を首席卒業。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期、恩賜組)を卒業。 スイス駐在武官等を経て、1922年4月、歩兵大佐に昇進。以後、歩兵第3旅団長、侍従武官、陸士校長などを歴任し、1931年12月、陸軍中将に進む。第6師団留守司令官を務め、1933年12月、予備役に編入された。
佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 196… 佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 1967年5月31日)は、明治・大正期の農学者、農業教育者。農学博士。専攻は農業経済学。東京農業大学第3代学長。位階および勲等は正三位・勲二等。 古海三次の三男として山形県米沢市に生まれる。兄は同市議会議長を務めた古海勘三郎。親戚に海軍主計少監となった古海長義がいる。 米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)入学の年、富農の佐藤文太郎に見込まれて養子となり、近代農業の可能性を感得して農学を志し、1904年、東京帝国大学農科大学を首席で卒業した。 帝国大学大学院で農業経済学研究のかたわら、全国農事会(帝国農会の前身)で加納久宜幹事長のもとに会誌『中央農事報』の編集に当たり、プラット『英国農業組織論』やピョートル『田園・工場・仕事場』などを紹介した。
羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 192… 羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 1929年8月31日)は、日本の性科学者。 山形県山形市出身。文学に憧れながら医師を志し、済生学舎卒業、1900年(明治33年)医術開業試験に合格、故郷で開業するがのち上京し文筆活動をしながら医学研究を行い、1912年(明治45年)から一年半ドイツに留学して医学博士の学位を得、生理学を学び、1914年(大正3年)、神田小川町に泌尿生殖器科医院を開業。1920年(大正9年)に『性慾と人生』を創刊(-1921年)、多くの通俗性科学書を著した。その後本郷にいづま医院内で活動。文芸、芸術にも造詣が深く、当時の西欧における性科学の発達に応じて、性欲を中心とし、恋愛、売春、避妊、自慰など、当時変態性欲とされていたものなどを啓蒙的に縦横に論じた。
千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日… 千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の作家、評論家、ジャーナリスト。 山形県酒田市に生まれ、5歳から母の実家がある宮城県美里町、13歳から仙台市で育つ。早稲田大学高等師範部中退。はじめ江東の号で小説を書いたが、以後国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞など新聞の社会部長や学芸部長を務め、その傍ら文芸評論も書いた。『サンデー毎日』編集長として「サンデー毎日新人賞」を開始するなど大衆文学にもかかわる。 大正末から昭和初年にかけての大きな文学潮流となった「新感覚派」の命名者として知られる。 死後、小説家の登竜門として「千葉亀雄賞」が創設され、井上靖、沙羅双樹、黒岩重吾らを輩出した。
戸田 虎雄(とだ とらお、1878年8月20日 - 1946… 戸田 虎雄(とだ とらお、1878年8月20日 - 1946年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山形県出身。1896年、山形県立興譲館中学校、1898年、山形県工業学校別科卒。米沢市議、同議長となる。米沢商栄銀行取締役頭取、山形電気(株)、両羽銀行、東北送電各(株)取締役、米沢織物信用組合長、山形県信用組合連合会会長、米沢信用組合理事長、産業組合中央金庫評議員を歴任する。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において山形1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉… 西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉5月26日 - 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、日本の医学者、内科医。学位は医学博士(1914年・文部大臣)。日本学士院会員、慶應義塾大学名誉教授。内閣恩給局顧問医。 1878年山形県南置賜郡南原村(現・米沢市)に生まれる。山形県立米沢中学校興譲館を経て、第四高等学校から東京帝国大学医科大学に入学。1903年に卒業し、翌年同大学理学科教室助手になる。1909年から山形市立病院済生館に勤務し内科部長から館長になる。1913年山口県立病院長に就任、次いで日本赤十字山口支部病院長になる。1920年慶應義塾大学教授になる。1944年同大学医学部長兼病院長に就任、1946年同大学名誉教授になる。
妻沼岩彦 (Iwahiko Tsumanuma、Thomas… 妻沼岩彦 (Iwahiko Tsumanuma、Thomas S.Rockrise 1878年~1936年)は、日系アメリカ人建築家。妻沼は、トーマス・S.・ロックライスの名の下に、おもにアメリカ合衆国で活躍した。長男・George T. Rockriseも建築家。塩田武雄と組み、ニューヨークでYamanaka & Companyのギャラリーのデザインなどを手掛けた。 出身は山形市。若くして家業に従事するが失敗し、21歳で国を離れ、アジアとヨーロッパを経由してアメリカに着く。アメリカの高等学校入学卒業を経て、1912年、シラキュース大学建築科に進学し、卒業後、ニューヨークに。TアンドL、バレル・ホフマン建築事務所などを経て、1918年、独立した。
三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月1… 三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月12日 - 1947年〈昭和22年〉8月14日)は、日本の経済学者、実業家、政治家。専門は経済史。1942年(昭和17年)帝国学士院会員。研究者、財界人、政治家として活躍した。 山形県山形市旅籠町三浦新兵衛の四男として生まれる。のちに、一族の宗家である四日町の豪商三浦権四郎の養嗣子となった。 旧制山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現:一橋大学)卒。1903年(明治36年)からイギリス・ドイツに留学し、ライプツィヒ大学でランプレヒトに師事し、歴史学を研究する。 帰国後の1911年(明治44年)、母校である東京高等商業学校の教授となり経済史、文明史を教えた。
山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日… 山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日 - 1951年〈昭和26年〉11月6日)は、日本の内務官僚。名古屋市助役。 山形県東置賜郡高畠町出身。米沢藩士の山宮咸一の長男として生まれる。山形中学校出身。1905年(明治38年)、早稲田大学法律科を卒業し、文部属となり普通学務局に配属された。1907年(明治40年)11月、文官高等試験に合格。東京府属、三重県事務官、長崎県事務官、鳥取県警察部長、北海道庁警察部長、栃木県内務部長を経て、1920年(大正9年)に神奈川県産業部長に就任した。その後、内務監察官を経て、1924年(大正13年)に退官した。 その後、名古屋市助役を1927年(昭和2年)まで務めた。
佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5… 佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5月28日 - 1940年〈昭和15年〉3月16日)は、日本の法学者・政治学者。専門は憲法学、政治学。山形県出身。佐藤功の父、さとうまきこの祖父。 山形県鶴岡市生まれ。荘内中学を経て、1899年(明治32年)に第二高等学校 (旧制)を、1902年(明治35年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、京都帝大の副手、助手を経て、1906年(明治39年)に助教授(政治学・政治史担当)。1908年(明治41年)にドイツ、フランス、イギリスに留学。1911(明治43年)、京都帝国大学法科大学教授。1914年(大正3年)、澤柳事件で京都帝国大学法科大学を辞職し、中京法律学校(現:中京法律専門学校)講師に転じる。
結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5… 結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5月24日 - 1951年(昭和26年)8月1日)は、日本の銀行家、大蔵大臣・日本銀行総裁、第5代日本商工会議所会頭を歴任。
奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月3… 奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月30日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 山形県北村山郡出身。1896年(明治29年)に旧制山形中学卒業。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験合格した。シンガポール領事官補、オーストリア公使館三等書記官、外務省参事官、ロシア大使館一等書記官、外務省人事課長、同文書課長、国際連盟事務局次長、駐ギリシャ公使を務めた。 退官後は国際連盟協会主事を務めた後、満州国駐日大使館最高顧問となった。
田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(ator… 田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(atoru) Tetsu Tamura; 出生名: たむら さとる、「哲」の元の読み; 1876年〔明治9年〕10月18日 – 1909年〔明治42年〕8月19日) は、日米で活躍した明治時代日本の気象学者・海洋学者。2021年ノーベル物理学賞受賞者の眞鍋淑郎が在籍した米国気象庁に日本人として初めて専門官として勤務したのは後述のとおり田村であり、高等数学応用の気象学者であることも共通する。また斯学の教育者にして米国の高等教育事情を調査・紹介した教育学者。 1876年(明治9年)10月18日、山形県置賜郡米澤北寺町(現、米沢市中央3丁目)に没落した米沢藩士田村芳政の三男として出生。
長尾 景徳(ながお かげのり、1876年(明治9年)7月15… 長尾 景徳(ながお かげのり、1876年(明治9年)7月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。台湾総督府官僚。 山形県米沢市出身。1903年(明治36年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補を経て、1905年(明治38年)より台湾総督府法院の判官となった。高等法院勤務を経て、1918年(大正7年)に台湾総督府法務部長に就任した。1921年(大正10年)に退官した後は弁護士を開業。台北弁護士会会長や台湾瓦斯株式会社監査役を務めた。
平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 … 平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 廣義、1875年9月2日 - 1948年1月26日)は、日本の内務官僚。1府3県の知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員などをつとめた。正三位勲二等、山形県士族。父は新庄藩士の平塚榮次郎、弟は蚕糸学者で文化功労者の平塚英吉、長男は俳優・著述家の九重京司(本名・平塚広雄)である。
日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - … 日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - 1924年7月3日)は、日本の地球物理学者。理学博士(1906年)。東北帝国大学教授。岩石や地震波の研究者。『物理学汎論』などを表し、岩石の弾性の研究により第2回帝国学士院賞を受賞し、近代地震学の基礎を開いた。アインシュタインとも親交を持ち、彼を長岡半太郎らと共に東北帝国大学に招いた。 日下部定治の3男として山形県東村山郡金井村(現・山形市)に生まれる。幼い頃は社交性がない神経質な子供であり、村の寺に小僧として3年間預けられたこともあった。小学生の頃から数学などが非常に得意であった。旧制山形尋常中学、旧制二高へ進み、1900年、東京帝国大学物理学科を卒業。
叶内 長兵衛(かのうち ちょうべい、1875年(明治8年)1… 叶内 長兵衛(かのうち ちょうべい、1875年(明治8年)1月27日 - 1961年(昭和36年)2月2日)は、日本の銀行家。政治家。殖産相互銀行社長。 山形県山形市の商家である叶内源之助の長男として生まれる。幼名は源治。 第八十一国立銀行取締役支配人を務めていた父が病死したため、香澄小学校高等科を卒業すると母の実家である「吉野家」渡辺吉兵衛方に丁稚奉公として出された後、家業を継ぎ長兵衛を襲名した。 1901年(明治34年)には、27歳で山形市会議員に当選。以降1943年(昭和18年)まで長期に亘り市会議員を務めた。また、その間には1925年(大正14年)6月 - 1942年(昭和17年)6月まで市会議長を務め在任期間の記録を樹立した。
小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15… 小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15日- 1948年(昭和23年)7月21日)は、日本の教育学者。第9代京都帝国大学総長。 山形県米沢市出身。旧名は代吉。尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。
千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1… 千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1月) - 昭和15年(1940年)12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。 米沢藩士・千坂高雅の三男として生まれる。 明治29年(1896年)11月26日陸軍士官学校(第8期)卒業、明治30年(1897年)6月28日陸軍少尉任官。 明治31年(1898年)歩兵第5連隊付、明治32年(1899年)11月17日陸軍中尉任官。明治36年(1903年)歩兵第31連隊中隊長、明治 37年(1904年)戦時大本営陸軍部管理部 副官歩兵大尉、明治42年(1909年)5月20日陸軍少佐任官。明治 45(1912年)第二師団副官、大正3年(1914年)歩兵第3連隊大隊長 、大正4年(1915年)12月23日陸軍中佐任官、同日予備役編入。
田畑 染(たはた そめ、1875年 - 1952年)は、日本… 田畑 染(たはた そめ、1875年 - 1952年)は、日本の婦人運動家。旧姓:斎藤。 山形県八幡町(現在の酒田市)出身。1911年に草木尋常小学校の代用教員となり、1913年に夫の良吉とともに七滝尋常小学校に勤務した。1920年に良吉の転勤で秋田市に転居した。 1930年に婦選獲得同盟秋田支部を結成し、幹事を務めた(このときの幹部には和崎ハルなどがいた)。全日本婦選大会にも参加し、軍事予算反対などの発言を行った。 1952年、岩手県で死去した。
五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月2… 五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月22日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の国文学者。号は巴千。修辞学・国文学・国語学の領域で多くの業績を残した。 日本の近代修辞学史上、最も多くの修辞学関係書を著した人物である。 山形県米沢市生まれ。米沢中学校を経て、1894年7月、東京専門学校卒業。翌年『早稲田文学』記者に就任。近松同人研究会の一員として、坪内逍遙の指導を受ける。卒業後10年ほどは国文学から離れるが、逍遙の勧めで国文学研究に戻る。1901年、東京専門学校講師。1920年、新たに設置された早稲田大学文学部国文科主任教授に就任。後に文学部学部長を勤めた。1945年、自宅の甲鳥園が空襲によって焼失し、早稲田大学文学部内の五十嵐記念文庫も焼失した。
細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18… 細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18日 - 1951年(昭和26年)7月31日)は、明治から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山形県北村山郡楯岡町長。ブラジル移民としてサンパウロ州に渡り同地で没した。 山形県村山郡楯岡村(北村山郡楯岡村、楯岡町を経て現村山市楯岡)で、細梅勘六、タニの長男として生れた。1900年(明治33年)1月、家督を相続した。同年、宮城農学校(現宮城県農業高等学校)農科を卒業し、1903年(明治36年)7月、早稲田大学政治経済科を卒業した。農業を営む。 1903年、北村山郡会議員に選出され同議長も務めた。1905年(明治38年)楯岡町長に就任。1907年(明治40年)9月、山形県会議員に選出され、1911年(明治44年)9月まで1期在任した。
大石 五郎(おおいし ごろう、1874年(明治7年)4月15… 大石 五郎(おおいし ごろう、1874年(明治7年)4月15日 - 1945年(昭和20年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。 山形県山形市出身。山形県立山形中学校を経て、1896年(明治29年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)、『山形新聞』記者となった。1903年(明治36年)に主筆に進み、1906年(明治39年)からはアメリカ合衆国に留学した。1910年(明治43年)に帰国し、翌年から再び『山形新聞』主筆となった。また山形市会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1920年(大正9年)、山形新聞社を興し、『日刊山形』『日刊荘内』を発行した。
2代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1874… 2代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1874年〈明治7年〉4月10日 - 1914年〈大正3年〉12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、山形県東田川郡新堀村長。幼名・直之助。 山形県田川郡新堀村(のち東田川郡新堀村大字新堀、現酒田市)で、地主・先代阿部孫左衛門、野江夫妻の長男として生まれる。新堀村止善学校初等学科、酒田琢成学校を経て、1889年(明治22年)、酒田尋常高等小学校を卒業。1890年(明治23年)に東京に出て二松学舎、東京数学院などで学んだ。 1904年(明治37年)、父の死去に伴い家督を相続し、孫左衛門(2代)を襲名した。吉田堰水利組合会議員、東田川郡会議員、新堀村長などを務めた。
酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年… 酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1940年〈昭和15年〉7月6日)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。 酒井には勲五等が贈られている。 オカルト雑誌「ムー」創刊にも参画し、1980年代の「オカルトブーム」に大きな役割を果たした武田崇元は、酒井の著作に大きな影響を受け、彼の発行していた『神秘之日本』を復刻している。 オウム真理教の麻原彰晃も酒井勝軍の著作や竹内文書の影響を受けており、麻原は雑誌「ムー」1985年(昭和60年)11月号において、教徒石井久子を伴い、酒井縁の岩手県の五葉山にまで旅して、酒井の著作の中に登場している霊石「ヒヒイロカネ」を、生前の酒井と面識のあったという老人より譲り受けたと記述している。
河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 … 河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。 1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。 米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。
秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)… 秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)5月8日 - 昭和13年(1938年)3月6日)は、電気通信技術の専門家。勲五等(明治39年(1906年))。学資を稼ぎながら苦学して大成した後もつね子夫人とともに勤倹に努め、昭和11年(1936年)「郷里の教育基金に」と、米沢市に20万円を寄付した(当時の米沢市年間予算が39万円)。苦学力行の士として知られる。 置賜県米沢館山口町(現山形県米沢市)にて米沢藩御細工組(中士階級)秋山秀之助の長男として生まる。今村信次郎海軍中将は従弟、妻つねは岡田文次の義妹である。明治19年(1886年)米沢中学校入学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、山形尋常中学校(現山形県立山形東高等学校)、第二高等中学校を経て、明治32年(1899年)東京帝国大学工科大学卒業。
大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3… 大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、日本の造り酒屋経営者。政治家。寿虎屋酒造経営者(第8代)。千代寿虎屋酒造経営者(初代)。山形市長(第10代・3期)。山形県会議員(1期)。山形市会議員(4期)。山形市名誉市民(第1号)。山形商工会議所会頭(第6代)。山形県酒造組合連合会会長。山形市東南村山郡酒造組合組合長(初代)。 『いつも嘘は言わぬ』・『言った事には責任を持って実行する』が格言であった。
市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872… 市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872年11月25日) - 大正11年(1922年))は戦前日本の経済学者。ベルリン大学で9年間哲学・経済学を学ぶ傍ら、ベルリン東洋語学校(ドイツ語版)等で日本語を教え、帰国後は東亜経済調査局に勤務した。『方丈記』ドイツ語訳で知られる。 明治5年(1872年)10月25日山形県村山郡蔵増村に生まれた。後の住所は蔵増村蔵増甲1101番地。蔵増尋常小学校、天童高等小学校、山形県立山形中学校を経て、仙台の第二高等学校に入学した。1896年(明治29年)卒業後、上京して帝国大学文科に入学し、社会学を専攻し 、1899年(明治32年)7月東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。
川合 為吉(かわい ためきち、1872年6月10日〈明治5年… 川合 為吉(かわい ためきち、1872年6月10日〈明治5年5月5日〉 - 1933年〈昭和8年〉10月18日)は、明治の政治家。警察官。山形県山形市長(第8代)。 山形県南村山郡山元村(現上山市)出身。山形県警部、寒河江警察署長、米沢警察署長、山形警察署長などを歴任。1923年(大正12年)7月、山形市長に就任した。在任中は仙山線の実現、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の第一小学校の改築などに尽力した。1927年(昭和2年)7月、退任した。
須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年… 須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 昭和9年(1934年)1月7日)は、日本の医師、医学者、医学博士、旧制金沢医科大学(現:金沢大学医学部)学長、生化学者。幼名は健蔵、後に上京してから憲三と名乗る。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立し、1923年に栄養部長に大橋タカ子を登用している。日本の脚気史に於いては、臨時脚気病調査会委員を務めたことで知られる。 「栄養」の提唱者でもある。「森鷗外、尾崎行雄などの支持を得て「栄養」に改めた」との説もある。 羽前国置賜郡赤湯村(現山形県南陽市の赤湯温泉)の町人宿「あぶらや」の主人富右ヱ門(一真)と母いわの長男として生を受ける。
三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872… 三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872年1月9日) - 大正12年(1923年)7月18日)は、日本の国語学者・国文学者。学位は文学博士。國學院大學教授。 折口信夫の師。弟に三矢宮松がいる。いわゆる「三矢文法」を築き、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。 1872年(明治4年)1月9日、酒田県田川郡鶴岡大字二百人町(現・山形県鶴岡市)で生まれた。父・三矢維顕、母・町子の二男。実家は代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父の静は藩校の典学を勤めた人物であった。1877年(明治10年)、鶴岡朝暘学校に入学。朝暘学校卒業後、西田川郡中学校を経て山形県尋常中学校に転入。在学中、中台直矢、角田俊次について漢学を学び、庄内英学会に加わって英語を身につけた。
三條 栄三郎(さんじょう えいさぶろう、1872年 - 19… 三條 栄三郎(さんじょう えいさぶろう、1872年 - 1964年)は日本の建築家。明治・大正時代に福岡県で活躍した。 山形県山形市鍛治町出身。1898年蔵前高等工業学校附属教員養成所卒業。旧制仙台市立工業学校教諭、熊本県での教諭を経て、1901年旧制福岡県立工業学校教諭。1905年から1908年まで佐賀県土木部技師、1908年から1924年まで福岡県土木部技師を務めた。同年9月に退職するまでの16年間は、福岡県の多くの施設が洋風建築に建て替えられる時期で、俗に“三條時代”とよばれるように、県の建築業界を牽引した。 三條が設計を担当した建築物は、旧福岡県公会堂貴賓館(明治43年竣工、国の重要文化財)、旧福岡県庁舎(大正4年竣工)、福岡県立図書館(大正7年竣工)、宮地嶽神社、香椎神宮、筥崎宮拝殿・廻廊・楼門(大正3~6年竣工)、太宰府天満宮楼門(大正1年竣工)などで、その他福岡県立福岡高等学校本館も手がけている。