白井 柳治郎(しらい りゅうじろう、1882年〈明治15年〉… 白井 柳治郎(しらい りゅうじろう、1882年〈明治15年〉7月12日 - 1966年〈昭和41年〉3月22日)は、日本の教育者。北海道でアイヌへの差別意識が根強かった明治時代において、差別意識に真っ向から立ち向かい、数々の教育改革に取り組んだ。同様にアイヌのために尽力した教育者である吉田巖と共に「アイヌ教育の父」とも呼ばれる。茨城県真壁郡関本町(後の筑西市)出身。 染物業との兼業農家の二男として誕生。地元の農学校を卒業後、農業の教師を志し、1900年(明治33年)、当時の農業教員養成学校としては最高学府である東京帝国大学農科大学付属農業教員養成所に入所した。 同年5月、東京のキリスト教青年会館で、北海道旧土人教育会主催による演説会に参加し、ハワイでの伝道から帰ってきたアイヌ救済運動家・小谷部全一郎の、アイヌについての講演を聞いた。
野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月2… 野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 本名・野口英吉。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる。 4年制尋常小学校・4年制高等小学校を終了後に上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退し詩作を始める。このとき1901年(明治34年)、英吉は19歳であった。 1904年(明治37年)、父の事業失敗と死により故郷に帰り家督を継ぐ。
石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日… 石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日 - 1946年(昭和21年)9月15日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。弁護士。 茨城県行方郡要村(現:行方市小幡)出身。茨城県立水戸中学校、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。卒業後は貴族院事務局に勤務し、立教大学講師を務めた。1912年(明治45年)、水戸市に弁護士事務所を開業。その後、水戸市議会議員を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)、台北市に事務所を移し、台北弁護士会副会長、同会会長を歴任した。
時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 -… 時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 - 1942年12月21日)は、日本の歴史学者。ヨーロッパ政治外交史専攻。
上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 -… 上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 - 1935年6月12日)は、現在の茨城県筑西市下館地区出身で若藤部屋、伊勢ノ海部屋、友綱部屋に所属した力士。本名は渡辺 福次郎(わたなべ ふくじろう)。8代若藤。身長171cm、体重は79kg。最高位は西前頭3枚目。得意技は右四つ、上手投げ、掬い投げ。 1899年5月場所序ノ口。その後応召されて、日露戦争に従軍。復帰後、1907年5月場所に十両昇進。1909年1月場所に入幕を果たす。二枚鑑札となっていたが、1913年5月場所限り引退。年寄・若藤として巡業の先乗りに手腕を発揮し、理事も務めたが、弟子の沖ツ海福雄の急死に気落ちし、部屋を復活させようとした矢先の1935年6月12日、胃癌で死去。
荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城… 荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城県出身の海事実業家。中大型船の入港実績の無かった東京港に最初の汽船を入港させ、受け入れ態勢の整備に尽力した。位階は正六位。勲五等旭日章、瑞宝章受章。 旧水戸藩士・荒川信敬の長男。水戸市下市仲之町にて1881年(明治14年)7月29日に生まれる。地元の小学校を卒業後に数え年17歳で志を持って上京。同郷の西野元のもとに身を寄せ英数漢の学科を勉強した。1904年(明治37年)勃発した日露戦争では徴兵を受け近衛歩兵第1連隊所属の軍曹として満州へ渡り、その働きをもって金鵄勲章を授与される。復員翌年の1906年(明治39年)商船会社に入り海運業に携わった。
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治… 内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治13年)12月6日 - 1971年(昭和46年)1月7日)は日本の実業家、政治家。
石井 三郎(いしい さぶろう、1880年〈明治13年〉2月2… 石井 三郎(いしい さぶろう、1880年〈明治13年〉2月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月25日)は、大正から昭和前期の剣道家、政治家、雑誌編集者。衆議院議員。 茨城県久慈郡、のちの久米村(金砂郷村、金砂郷町を経て現常陸太田市)で生まれる。1911(明治44年)に分家した。 中央大学で学び、銀行業に従事。大蔵省嘱託となり、狩猟調査委員を務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に茨城県第4区から出馬して初当選。以後、第15回、第16回、第18回、第19回総選挙で再選され、衆議院議員に通算5期在任した。この間、齋藤内閣と岡田内閣の陸軍参与官などを務めた。1935年(昭和10年)には、昭和会の結党にも参加した。
小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月… 小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月21日 - 1959年(昭和34年)2月11日)は、日本の船員、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県久慈郡馬場村(後の誉田村大字馬場、現在の常陸太田市馬場町)で、鋳物業・小泉長介、とみ夫妻の六男として生まれた。太田尋常小学校、太田町立太田高等小学校を経て、1893年4月、茨城県尋常中学校に入学。1896年3月、中学第3学年を修了後退学し、同年7月、官立商船学校(現在の東京海洋大学海洋工学部)航海科に入学。1902年1月、同校を卒業した。 大阪商船の貸費生であったので、卒業後直ちに同社に入社し監督課技士となる。1903年夏過ぎ、大阪商船を退職し、同年9月、三井物産船舶部に入社して阿蘇山丸に二等運転士として配属された。
河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月1… 河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月12日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、明治から昭和前期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員、大日本国民中学会創立者。 茨城県行方郡、のちの武田村(北浦村、北浦町を経て現行方市)で、農業・河野清次の二男として生れた。小学校卒業後、家庭の事情で進学できず独学で学んだが、当時は適当な講義録がなかったため相当な困難を覚えていた。 1900(明治33年)に上京して出版社に勤務。商用で長野県から東北地方に向かい、秋田県のある寒村で一夜を酒屋で過ごした際に、隣の部屋で高等小学校卒の少年たちが中学講義録で独習をしていたが「此の講義録は非常に六ケ敷くて到底自分等には解しかねる。
金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20… 金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20日 - 1951年(昭和26年)8月10日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・蛭田。 茨城県多賀郡、のちの南中郷村(現北茨城市中郷町)で農業・蛭田源三郎の二男として生まれる。上京して商業を学んだ。福島県石城郡錦村(錦町、勿来市を経て現いわき市錦町)の農業・金成竹太郎の養嗣子となる。再度上京して経済学などを学んだ。 1905年(明治38年)に帰郷して磐東銀行(現東邦銀行)の創立に尽力した。1911年(明治44年)福島県会議員に当選したのを皮切りに、同参事会員、錦村長を歴任する。ほか、鮫南中堅農民学校長、東部電力顧問、植田水力電気社長、磐東銀行、福島県農工銀行各取締役などを務める。
長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日… 長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日 - 1915年(大正4年)2月8日)は、日本の歌人、小説家。 茨城県結城郡に生まれた。病弱で中学を中退、療養生活の中で短歌に親しんだ。正岡子規の『歌よみに与ふる書』に深い感銘を受け、1900年に入門。ひたすら子規の写生の風を摂取、子規短歌の最も正当な継承者と言われた。 「馬酔木」「アララギ」の創刊に参画。晩年には、透徹した清澄な調べをめざす「冴え」の説を唱えた。 1879年(明治12年)4月3日、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生<こっしょう>)の豪農の家に生まれた。1893年(明治26年)4月、茨城中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)に首席で入学し、4年進級までしたが脳神経衰弱を発症して学業継続困難となる。
横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 … 横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1934年〈昭和9年〉2月14日)は、日本の詩人、歌人。本名は虎寿()[要出典]。別号に利根丸、宝湖、処寿()[要出典]。 茨城県真壁郡横根村(現・下妻市横根)の名家に生まれる。3歳の時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。1895年、『文庫』に「神も仏も」を発表し、河井酔茗らに認められる。1898年には民謡調の詩「お才」を発表し、この頃から「筑波嶺詩人」と呼ばれるようになる。1905年、詩集『花守』を刊行して詩人として有名になる一方で、この時期からくる病が悪化して歩行がほぼ困難となる。1907年には河井酔茗主宰の詩草社に参加し[要出典]、1908年から『女子文壇』の選者を務めた。
吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は… 吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は、日本の台湾総督府官僚。
高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10… 高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10年〉9月4日 - 1958年〈昭和33年〉11月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県行方郡、のちの麻生町(現行方市)出身。高崎新蔵の長男として生まれ、1894年(明治27年)7月に祖父三郎右衛門の後を受け家督を相続する。農業を営む。 麻生町会議員、行方郡会議員、同郡教育会副会長、麻生町労務委員、茨城県農工銀行監査役、佐原興業銀行取締役を歴任した。 1911年(明治44年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期務めた。
飛田 周山(ひだ しゅうざん / とびた しゅうざん、明治1… 飛田 周山(ひだ しゅうざん / とびた しゅうざん、明治10年(1877年)2月26日 - 昭和20年(1945年)11月22日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は飛田 正雄(とびた まさお)。別号に対月居。 文展・帝展審査員を務めたほか、岡倉天心を五浦に招いたことや、『小學国語読本』巻1の「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」の挿絵画家として知られる。 茨城県多賀郡大塚村(現在の北茨城市磯原町大塚)に、飛田正・きよ夫妻の長男として生まれる。父は農業を営み、村会議員や野口量平(野口雨情の父)が北中郷村の村長を勤めた4年間は、その助役に就いていた。明治26年(1893年)に上京し、叔父の海野美盛の書生となる。
高野 茂義(たかの しげよし、1877年〈明治10年〉1月2… 高野 茂義(たかの しげよし、1877年〈明治10年〉1月2日 - 1957年〈昭和32年〉3月31日)は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。旧姓は千種。 旧水戸藩の北辰一刀流指南役・千種甲午郎茂春の次男として茨城県水戸に生まれる。小学校の仲間に、内藤高治の甥で後に横綱力士となる常陸山谷右エ門がいた。茂義は力が強く、相撲部屋への入門を勧められたこともあったという。 14歳で父を亡くし、旧弘道館剣術方教授小澤寅吉の道場・東武館で剣術を学ぶ。1895年(明治28年)、高野佐三郎(中西派一刀流)の道場・浦和明信館に入門。1900年(明治33年)、高野佐三郎の養子となる。 1914年(大正3年)、南満州鉄道株式会社の招聘を受け、終戦まで同社の剣道師範を務める。
野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 -… 野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、弁護士。官選県知事、同志社高等商業学校長。
飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1… 飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1975年(昭和50年))は、日本の畜産学者。養豚と食肉加工の分野で、大きな業績を残した。 1876年(明治9年)12月、茨城県新治郡戸崎村(現在のかすみがうら市戸崎)に、庄屋を務めた豪農・飯田松三郎の長男として生まれた。子供の頃から成績優秀で、特に英語の成績が良かった吉英は、茨城第一中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業後の1896年(明治29年)、 一年志願兵として野戦砲兵第一連隊に入営。1年の勤務を終えると研究を志し、東京帝国大学農科大学に入学、農学を専門的に学んだ。同帝国大学農学実科を卒業後、神奈川県農会を経て、農商務省(現在の農林水産省)技師。
海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 19… 海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 1953年)は、明治期の大日本帝国陸軍軍人。茨城県龍ケ崎市出身。最終階級は歩兵特務曹長。日露戦争にて金鵄勲章を受章した。 明治期・皇室警護の近衛兵として、全国将兵の中から選抜(五代前まで調査があり、県知事・連隊長・郡市役所幹部・駐在の警察官の責任で推薦された)され、「近衛連隊」に入隊。当時、歴代の皇太子が在籍した近衛歩兵第一連隊は、帝国陸軍の最高峰だった。 日露戦争に出征し、奉天進軍。明治38年(1905年)3月10日、奉天付近では既に屍が累々としており、海老原半三郎の所属する近衛歩兵第一連隊においてもロシア軍の総反撃により、将兵はことごとく第一戦に展開し、肉弾相打つ激戦となる。
西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 … 西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 - 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。 茨城県出身。西野元聿の長男として生まれる。水戸中学校、第一高等学校を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に首席合格。同年12月、臨時秩禄処分調査局属兼大蔵属に任官。一時期、上京してきた同郷の荒川敬を寄寓させていた。
竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10… 竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10月7日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は幸太郎。 茨城県久慈郡、のちの太田町(現常陸太田市)出身。先代権兵衛の長男として生まれ、1913年(大正2年)家督を相続と共に幼名を改める。 1914年(大正3年)以降、茨城県農工銀行監査役、日本製鋼取締役、日本赤十字社茨城支部商会議員などを歴任した。ほか、水浜電車社長、茨城土木工業、鹿島軌道、日立電気各取締役を務めた。 1918年(大正7年)9月29日には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1921年(大正10年)5月17日に除名されるまで務めた。
五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 -… 五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 - 1944年(昭和19年)8月1日)は、日本の政治学者、文学者、読売新聞主筆、明治大学教授、早稲田大学教授、皇化連盟代表。茨城県出身。五来素川(ごらい そせん)や斬馬剣禅(ざんば けんぜん)の筆名での作品を残す。青年時代に植村正久の教えをうけた敬虔なクリスチャンであった。
斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明… 斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月6日 - 1961年(昭和36年)4月7日)は、千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)出身の史学者・文学博士。 明治期より昭和期にかけ風俗史、郷土史、美術史等の執筆を行っていた文学博士で、日本美術院の再興や発展、運営にも深く関わった。 1875年(明治8年)に千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)に出生。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)、長兄に元衆議院議員の斉藤斐がいる。茨城県尋常中学校、旧制二高を経て東京帝国大学国史科卒業。大学在学中に郷里守谷の歴史をまとめた「守谷志」を刊行、1902年(明治35年)に大学卒業以後は、半世紀以上に渡り、美術史や国内の世相史を中心に執筆を行った。
斉藤 隆三(さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月… 斉藤 隆三(さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月6日 - 1961年(昭和36年)4月7日)は、千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)出身の史学者・文学博士。
深作 安文(ふかさく やすふみ、1874年9月13日 - 1… 深作 安文(ふかさく やすふみ、1874年9月13日 - 1962年12月9日)は、倫理学者。
浅野 和三郎(あさの わさぶろう、1874年(明治7年)8月… 浅野 和三郎(あさの わさぶろう、1874年(明治7年)8月13日 - 1937年(昭和12年)2月3日)は、日本の心霊主義運動の父。筆名は浅野 馮虚(あさの ひょうきょ)、憑虚 とも。兄は海軍軍人の浅野正恭。 茨城県稲敷郡源清田村(現:稲敷郡河内町源清田)に代々医師を生業とする、浅野家の父・元斎(げんさい)(婿入り)と、母・かんの三男として生まれた。 1896年(明治29年)、東京帝国大学に入学。同時期に小泉八雲が英文学担当教師として赴任し、教えを受ける。在学中に機関誌『帝国文学』に処女作「吹雪」を発表。浅野馮虚の筆名で、その後短編小説等を続々発表し文才を発揮。さらに、英文学科に在籍しながら、英米文学の翻訳にも手を広げ、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』、エドワーズの『奇々怪々』を出版した。
常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19… 常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19日 - 1922年6月19日)は、茨城県東茨城郡(のちの水戸市)出身の大相撲力士。第19代横綱。本名は市毛 谷右衛門(いちげ たにえもん)。 大相撲を「国技」に押し上げ、その品格力量から角聖と呼ばれた。出羽ノ海部屋師匠として3横綱4大関など多くの力士を育て、出羽海一門を角界の保守本流として確立したほか、ちゃんこ鍋や後援会などの風習を始めたとされる。 1874年(明治7年)、旧水戸藩士だった市毛高成の長男として水戸の宝鏡院の門前に生まれる。市毛高成は明治維新後に河川運送業と倉庫業を営んだが、荷主から預かった商品を騙し取られ、責任を一身に負って弁償してからは経営が悪化して両方とも倒産してしまった。
竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈… 竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈明治5年11月9日〉- 没年不詳)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。旧姓・大橋。 茨城県、後の古河町(現古河市)出身。大橋力蔵の二男として生まれ、竹上寅吉の養子となり家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(14期)に入学し、1900年(明治33年)12月に卒業して士官学校に配属された。日露戦争では第7師団参謀として出征した。 以後、第17師団参謀などを経て、1914年(大正3年)8月、歩兵大佐に進み陸軍省人事局補任課長に就任。
有村 直吉(ありむら なおきち、1871年3月15日(明治4… 有村 直吉(ありむら なおきち、1871年3月15日(明治4年1月25日) - 1911年(明治44年)5月7日)は、現在の茨城県桜川市出身で入間川部屋に所属した力士。本名は小池 直吉(こいけ なおきち)。11代入間川。165cm、109kg。得意手は押し。最高位は東前頭3枚目。 1894年5月場所に初土俵。1903年1月場所に十両昇進、有村直吉に改名。幕末の藩士有村次左衛門に因んだとされるが関係は不明である。1905年5月場所に新入幕。1909年12月に師匠の入間川清藏が廃業した為、以降は二枚鑑札。1910年6月場所に引退。脳病と心臓病に罹っていたので酒を断っていたが、再婚の宴席上で嬉しさの余り酒を飲んでしまい、1911年5月7日に急逝した。
塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治… 塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治3年10月20日) - 1945年(昭和20年)7月7日)は、茨城県水戸出身の経済学者、法学博士、早稲田大学第4代学長、第2代総長。 早稲田大学時代にボート競技に取り組んだことが縁で、晩年、日本漕艇協会会長に就任した。1940年(昭和15年)戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションでは、会長として70歳台艇に乗り込み舵手を務めた。
菊池 幽芳(きくち ゆうほう、明治3年10月27日(グレゴリ… 菊池 幽芳(きくち ゆうほう、明治3年10月27日(グレゴリオ暦 1870年12月18日) - 1947年7月21日)は、日本の小説家。本名は菊池 清(きくち きよし)。大阪毎日新聞社取締役を歴任した。 常陸国水戸長者町(現在の茨城県水戸市)に生まれる。弟に英文学者の戸沢正保がいる。 1888年、茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業、同県北相馬郡取手(現在の同県取手市)の取手高等小学校(現在の取手市立取手小学校)の教師となる。 21歳を迎える1891年に小学校を退職、大阪毎日新聞社に入社する。同年、宇田川文海、丸岡九華らと大阪文藝会を興し、文芸雑誌『大阪文藝』を創刊する。翌1892年、『大阪文藝』誌上に、小説『鴬宿梅』を発表してデビューする。
小山田 信蔵(おやまだ しんぞう、1870年10月25日(明… 小山田 信蔵(おやまだ しんぞう、1870年10月25日(明治3年10月1日) - 1924年(大正13年)9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 常陸国茨城郡水戸(現茨城県水戸市)で、水戸藩士・小山田勝貞の長男として生まれた。太田鉄道、豆相鉄道、隅田川倉庫各(株)社長、水戸商業銀行頭取、北海道炭礦鉄道(株)監査役となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において水戸市選挙区から立候補して当選する。1908年の第10回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して再選し、1912年の第11回衆議院議員総選挙でも三選した。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙で復帰。
平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3… 平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3年4月26日)- 1959年(昭和34年)7月11日)は、明治から昭和期の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国茨城郡、のちの茨城県水戸市赤沼町で平山貞吉の三男として生まれた。1891年(明治24年)6月に家督を相続した。青弘塾で漢籍を修め、経済学者塩澤昌貞と同門で共に将来を嘱望された。1886年(明治19年)に上京して苦学しながら普通学を修めた。 逓信省に入省し、通信事務官補、通信事務官、大阪郵便為替貯金管理支所長、郵便貯金局事務官、大阪貯金支局長などを歴任。この間、記帳の様式にルーズリーフ式を採用するなど貯金事務の改善に貢献した。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4… 横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4年/明治元年〈1868年〉9月18日 - 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)、幼名は秀蔵、のちに秀松。 常陸国水戸本町(現:茨城県水戸市本町)出身。東京美術学校第1期生として岡倉天心に師事し、日本美術院設立に参加した。日本画の新たな表現を模索し、菱田春草とともに「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を生み出した。天心・春草の死後は下村観山とともに日本美術院を再興。彩色画においては朦朧体からさらに琳派の影響を受けた装飾表現へと飛躍を遂げ、水墨画においても独自の表現を確立した。
磯部 保次(磯辺、いそべ やすじ、1868年9月12日(明治… 磯部 保次(磯辺、いそべ やすじ、1868年9月12日(明治元年7月26日) - 1928年(昭和3年)12月4日)は、常陸国出身の政治家で実業家。星亨の配下。 常陸国茨城郡、のちの茨城県西茨城郡笠間町(現在の笠間市)に生まれる。1891年12月に慶應義塾正科を卒業し、1895年(明治28年)東京馬車鉄道に入る。1908年(明治41年)立憲政友会から衆議院議員に当選し、大正3年に再選された。1909年(明治42年)東京鉄道取締役に就任。1910年(明治43年)東京瓦斯の前身である千代田瓦斯を設立。のち東京瓦斯常務。 ほか、旭工事株式会社社長、吾妻川電力、第二吾妻川電力、草津電気鉄道、ボルネオ殖産、日本曹達、隆文館、平和火災海上保険、須川電力、三協印刷、小倉鉄道、京王電気軌道、三ツ引商事の各会社取締役。
小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2… 小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉12月17日)は、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本画家、俳人。幼名は不動太郎、本名は茂吉、号は牛里。 小川家は代々牛久藩士で、大坂の陣で討死した木村重成の末裔だという。父は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現:茨城県牛久市城中町)に移り農家となった。当初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け、朝野新聞社に一時雇われ画工として入社。そこでは挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと「珊瑚会」を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。 生涯のほとんどを牛久沼の畔で農業を営みながら暮らした。
石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3… 石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3年12月25日〉 - 1950年〈昭和25年〉12月20日)は、日本の華族(旧常陸下館藩、子爵)。位階は正三位。幼名・重之助。 石川家の祖主殿頭忠総の二男播磨守総長2万石を分与され、後常州に移り、9世を経て総管に至る。重之は総管の長男である。学習院出身である。 1880年、家督を相続する。1884年、子爵を授けられる。1887年に都合により爵位を返上したが、1899年さらに華族に列し子爵を授けられる。 1899年、叙従五位。1917年、叙正四位。 1946年1月15日、数え80歳を迎えたことにより鈴木貫太郎・小笠原長生と共に御紋付木盃と酒肴料を下賜された。
菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応… 菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年… 岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年7月26日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月11日)は、日本の書家。日下部鳴鶴の弟子である。本名は要輔。号は群鵞居士、刀寧漁夫。 下総国相馬郡高野村(現・茨城県守谷市高野)出身。茨城師範学校を卒業後、茨城県・神奈川県の小学校、神奈川師範学校、埼玉師範学校で教師を務める。1921年に書道雑誌『郡鵞』を発刊。日本美術協会評議員、泰東書道院総務審査員、大日本書道院総務審査員を務めたほか、1936年には日本書道学校を創設するなど書道界の発展に尽力した。 1927年当時の住所は東京市牛込区矢来町2番地26号。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元… 尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1932年(昭和7年)1月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 常陸国真壁郡吉間村(茨城県真壁郡村田村、明野町を経て現筑西市)出身。尾見家は代々吉間外15郷の割元名主を務め、農業を営む。村田村会議員、同村長、真壁郡会議員、同郡農会長となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から無所属で立候補して当選した。1908年(明治41年)第10回総選挙と1912年(明治45年)第11回総選挙は不出馬。1915年(大正4年)第12回総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選。1917年(大正6年)第13回総選挙で再選。
小久保 喜七(こくぼ きしち、1865年4月17日(慶応元年… 小久保 喜七(こくぼ きしち、1865年4月17日(慶応元年3月22日) - 1939年(昭和14年)12月14日)は、日本の政治家、自由民権家。従四位勲二等。中田文武館館長。号は城南。族籍は茨城県平民。 下総国猿島郡(のちの茨城県猿島郡新郷村中田、現在の茨城県古河市)出身。小久保藤吉の長男。幼い頃に母を失い、祖母に養われた。栃木県佐野町で先生に就いて漢学を学んだ。 1879年(明治12年)、郷里に帰り民権自由の説を唱え、自由民権運動に投じる。1883年(明治16年)春に有終会を組織し、又五州志士舟遊会を起し推されて幹事となる。さらに自由党結成大会に出席した。中田文武館を設立し自ら館長となり大に壮士を養う。
稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日… 稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日(元治元年8月17日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、現在の茨城県笠間市出身で入間川部屋に所属した力士。本名は小幡 栄次郎。169cm、98kg。最高位は西前頭筆頭。 1889年幕下格で初土俵、四股名は師匠の入間川清藏が一時名乗っていたものに因む。1897年5月十両昇進。1902年1月新入幕、1910年6月廃業した。1907年6月から1910年6月までは最年長力士。廃業後は男爵古河虎之助の家に召し抱えられ、身辺の世話や相撲の指導を行った。大正14年1月22日東京滝野川区西ヶ原の自宅で腎臓病の為60歳で没する。東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺に埋葬されている。
市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治… 市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治元年8月9日) - 1947年(昭和22年)2月23日)は、日本の歴史学者。文学博士。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長。専門は東洋史、中国史。字は圭卿。号は器堂・筑波山人・月波散人。日本の東洋史学の開拓者。 元治元年(1864年)、常陸国筑波郡北条町(現茨城県つくば市北条)出身。1878年に上京し、明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科を卒業。 翌1888年に学習院傭教師に就いた。1890年に同助教授、1892年に同教授昇格。学習院傭教師時代の1889年には、森鷗外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影』(雑誌『国民之友』夏期付録)を刊行した。
二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈… 二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 昭和18年〈1943年〉1月9日)は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した洋画家。 下総国猿島郡沓掛村(現茨城県坂東市)で、神祇官白川殿免許の大工倉持正重の六男として生まれる。本名は子之吉、通称は芳雄。幼少から画を好み、5,6歳の頃、麦の穂を一日中その場を動かず丹念に写生し、家の人が覗いてみると、色・形から粒の並びまで実物そっくりだったという。1878年(明治11年)2月上京、五姓田義松の画塾に入る。同年、工部美術学校教師アントニオ・フォンタネージに通い、指導を受ける[要出典]。義松の日記では「明治十三年四月二日に倉持子之吉弟子となる」とあり、正式に弟子となったのはこの時だと考えられる。
五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元… 五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元年4月10日)- 1912年(明治45年)1月1日)は、明治期の酒造家・政治家。衆議院議員。 常陸国行方郡次木村(新治県行方郡次木村、茨城県行方郡次木村、武田村次木、北浦村次木、北浦町を経て現行方市次木)で酒造家の家に生まれた。漢学を修めた。幼くして父を失い家業を継承した。 武田村会議員に就任。1892年(明治25年)自由党に所属して茨城県会議員に選出され、1895年(明治28年)まで在任した。 1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(茨城県第1区、憲政党)で当選し、衆議院議員に1期在任。1904年(明治37年)3月、第9回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)では落選した
五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3… 五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3年6月27日 ) - 1906年(明治39年)6月6日)は、明治時代の日本の洋画家。本名は熊吉。 1863年8月11日(文久3年6月27日)常陸国水戸藩(現:茨城県水戸市)に生まれる。1878年(明治11年)から翌年まで母校である水戸上市小学校の教壇に立つ。1884年(明治17年)農商務省山林局雇となり、高橋由一の門に入る。1887年(明治20年)東京府工芸品共進会に出品。1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会に出品、褒状を受ける。その後、農商務省を依願退職し、肖像画や風景画を描きながら新潟地方や、茨城、栃木など、各地を遊歴。1892年(明治25年)本名を熊吉から文哉に改める。
高倉 虎(たかくら とら、1862年12月21日(文久2年1… 高倉 虎(たかくら とら、1862年12月21日(文久2年11月1日) - 1924年(大正13年)1月27日)は、明治から大正時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国多賀郡(現茨城県高萩市)出身。所得税調査委員などを歴任した。 1921年(大正10年)茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され同年8月30日に就任したが、在任中に水戸市赤十字病院で胃癌のため死去した。
高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元… 高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1937年(昭和12年)12月12日)は、日本の実業家。茶人・高橋 箒庵(そうあん)としても知られる。 水戸藩士の高橋常彦の四男として生まれる。明治維新により生活困窮に陥り、13歳で植田村の呉服店「近藤」に丁稚奉公に出される。3年奉公したが耐え難く実家に戻り、以降各所に居候しながら学ぶ。1878年(明治11年)ごろは水戸の漢学塾・自彊舎に通った。茨城中学卒業後地元で就職するつもりだったが、福沢諭吉が新聞事業のため文章のうまい学生を探しているという話を聞き、上京。1881年(明治14年)慶應義塾に入学して約一年間学んだ後、1882年(明治15年)5月に、友人の石河幹明、井坂直幹らとともに、福澤率いる時事新報の記者になった。