髙橋 秀聡(たかはし ひであき、1982年8月26日 - )… 髙橋 秀聡(たかはし ひであき、1982年8月26日 - )は、群馬県太田市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 家庭の事情で、小学校卒業時にインドネシアのジャカルタ日本人学校に在籍[要出典]。大阪府東大阪市に移住したのを機に、東大阪市立盾津東中学校へ入学した。 中学生時代は3番手投手。普段は外野を守っていたが、肩は強く、投手としても当時から直球が速かったという。大阪府立盾津高校への進学後は、2年春からエースになったが、春・夏ともに甲子園大会へ出場できなかった。 九州共立大学への進学後は、2年生まで福岡六大学野球のリーグ戦で勝ち星を挙げられなかったがものの、3年生の春から頭角を現した。大学選手権では2回戦で先発無失点で勝利し、先輩・馬原孝浩の活躍もあってベスト4。
髙橋 秀聡(たかはし ひであき、1982年8月26日 - )… 髙橋 秀聡(たかはし ひであき、1982年8月26日 - )は、群馬県太田市出身の元プロ野球選手(投手)。
大廣 翔治(おおひろ しょうじ、1982年7月29日 - )… 大廣 翔治(おおひろ しょうじ、1982年7月29日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 六郷小学校低学年から「六郷ジュニアファイターズ」で活躍。長野郷中学校時代はボーイズリーグで活躍。部活はバスケットボール部に所属していた。 桐生第一高等学校時代、正田樹や一場靖弘らと共に1999年の第81回全国高等学校野球選手権大会で優勝。2年生ながら4番に座り、決勝戦では本塁打も放ち群馬代表初となる夏の大会制覇に花を添えた。高校通算44本塁打。 卒業後は東洋大学に進学。1年次から4番を任される。4年次は主将を務め、春と秋にベストナインを獲得。2004年の第33回日米大学野球の日本代表に選出。
一場 靖弘(いちば やすひろ、1982年7月5日 - )は、… 一場 靖弘(いちば やすひろ、1982年7月5日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。元妻は元タレントの安田芽衣子。 桐生第一高等学校では2年の時に第81回全国高等学校野球選手権大会に2番手投手として出場。正田樹をエースとして群馬勢初の優勝に貢献した。甲子園のマウンドでは球速145 km/hを計測した。3年の時には背番号1を着け、再び第82回全国高等学校野球選手権大会への出場を果たしたが初戦敗退。 その後は明治大学に進学し、4年時の2004年春に六大学リーグ歴代2位(戦後最多)となるシーズン107奪三振を達成。また、同シーズンには六大学史上最速球速となる154 km/h(当時)を計測し、8勝3敗の成績で、1993年春以来11年ぶり22季ぶりとなる勝ち点5の完全優勝に貢献、ベストナインに選ばれた。
菊地 和正(きくち かずまさ、1982年6月27日 - )は… 菊地 和正(きくち かずまさ、1982年6月27日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。株式会社S.G.R企画代表取締役。 中学時代はオール前橋ボーイズで大廣翔治とチームメイト。樹徳高校時代は控え。地元の上武大学に進学し、エースとして活躍。3、4年と大学選手権、4年秋は明治神宮大会出場。 140km台後半のストレートと切れのある変化球のコンビネーションがスカウトの目に留まり、2004年のプロ野球ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから6巡目で指名を受け入団。上武大学出身者として初のプロ野球選手となった。 2005年9月25日のオリックス戦でプロ入り初登板。3年目の2007年シーズンまでは二軍で過ごすことが多く、一軍では登板する機会が殆どなく、2008年は11試合の登板で防御率9.90に終わった。
中山 慎也(なかやま しんや、1982年2月22日 - )は… 中山 慎也(なかやま しんや、1982年2月22日 - )は、群馬県太田市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
正田 樹(しょうだ いつき、1981年11月3日 - )は、… 正田 樹(しょうだ いつき、1981年11月3日 - )は、群馬県太田市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。左投左打。 太田市立北中学校では軟式野球部の投手兼一塁手を務めていた。桐生第一高校に進み、3年時には第81回全国高等学校野球選手権大会に出場。エースとして3完封の活躍を果たし、群馬代表として初となる全国選手権優勝に貢献。高校では1学年上のエースに小林正人、1学年下に一場靖弘と大廣翔治がおり、小林と一場がエースだった年も夏の甲子園に出場しているが、ともに初戦で敗れている。 1999年のドラフト会議で日本ハムファイターズから1位指名を受けて入団。 2000年は監督の大島康徳に一軍で起用され、同年のフレッシュオールスターゲームでは、1歳上の同僚實松一成と共にイースタン・リーグ選抜の先発バッテリーを務め、ウエスタン・リーグ選抜の先発投手で同じ1位指名の高卒新人左腕河内貴哉と投げ合った。
新井 亮司(あらい りょうじ、1981年5月20日 - )は… 新井 亮司(あらい りょうじ、1981年5月20日 - )は、群馬県藤岡市出身の元プロ野球選手(内野手)。 埼玉県立児玉高等学校時代は通算44本塁打を放ち、「上州のタブチ君」と呼ばれた。3年夏の県大会では開会式後の開幕戦で本塁打を放つが、雨天ノーゲームとなる。群馬県の鬼石町(当時)出身で県境であったため、高校までは1時間半をかけて自転車通学していた。1999年のドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受けて入団。 入団時は、捕手だったが打撃を活かして内野手にコンバートされた。 パンチの効いたバッティングが注目され、「和製大砲」「田淵二世」として期待されたが、2004年に戦力外通告を受け現役引退。
山崎 敏(やまざき さとし、1981年4月8日 - )は、群… 山崎 敏(やまざき さとし、1981年4月8日 - )は、群馬県勢多郡富士見村(現:前橋市)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。現在は埼玉西武ライオンズの打撃投手を務めている。 1999年の県大会準々決勝(対群馬県立桐生高等学校戦)で17奪三振・完投の活躍を見せ、チームを19年ぶりのベスト4に導いた。この年に優勝したのは正田樹が率いる桐生第一高等学校で、甲子園でも群馬県勢で初の優勝を果たし、正田は1999年のドラフトで日本ハムに1巡目で指名されて入団した。 平成国際大学に入学後は1年秋に新人賞を獲得し、4年春の対常磐大学戦では、7回参考記録ながらノーヒットノーランを達成して注目された。
小林 正人(こばやし まさと、1980年8月21日 - )は… 小林 正人(こばやし まさと、1980年8月21日 - )は、群馬県吾妻郡嬬恋村出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。左投左打。 小学3年の時に野球を始める。桐生第一高等学校では、3年時に第80回全国高等学校野球選手権大会に群馬代表で出場。一回戦で高知の明徳義塾に5―6でサヨナラ負けした。1年下に翌夏全国制覇を遂げる同じ左腕の正田樹がいた。その後、東海大学に進学する。首都大学リーグ通算11試合登板し4勝1敗。久保裕也(読売ジャイアンツ)の控えで4年春までは1試合しか登板できなかったが、大学4年の秋季リーグで4勝を挙げた。社会人野球入りを目指していたが入社が決まらず2002年のドラフト会議で中日ドラゴンズから6巡目指名を受けて入団した。
佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は… 佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は、元社会人野球選手である(投手、右投右打)。鷺宮製作所に所属していた。
斎藤 義典(さいとう よしのり、1978年7月10日 - )… 斎藤 義典(さいとう よしのり、1978年7月10日 - )は、群馬県館林市出身の元社会人野球選手(投手)。左投左打。 斉藤 義典と表記される場合もある。 館林市立第四中学校を経て前橋工業高校に進学。前橋工業高校では1年生の秋からエースになり、2年生だった1995年にはセンバツでベスト8に進出した。3年生だった1996年の夏の甲子園ではベスト4に進出。同大会は左投手に好投手が多かったが、斎藤は甲子園大会のベストナインを『スポーツニッポン』の記者が選ぶ「スポニチベストナイン」で同大会の投手部門第1位に選出された。全日本高校野球選抜にも選出され、ロサンゼルスで開催された4か国親善大会に日本代表のエースとして出場し、最高球速147 km/hを記録するなどして活躍。
伊藤 良恵(いとう かずえ、1977年12月22日 - )は… 伊藤 良恵(いとう かずえ、1977年12月22日 - )は、群馬県館林市出身の女子ソフトボール選手(内野手)。左投左打。元日立&ルネサス高崎所属。 館林市立第十小学校・館林市立第三中学校を経て白鷗大学足利高等学校卒業。 全日本の不動の3番・一塁手として1990年代後半からの日本ソフトボール界を引っ張った。シドニーオリンピックに出場し、日本の銀メダル獲得に大きく貢献。
岡野 勝俊(おかの かつとし、1976年10月12日 - )… 岡野 勝俊(おかの かつとし、1976年10月12日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の元アマチュア野球選手・指導者である。ポジションは捕手、内野手、外野手。 東京農大二高では3年夏に甲子園に出場し、1995年青山学院大学に入学する。大学では高校からの2年先輩である清水将海の卒業後に正捕手となり4年時は主将。3年春と4年秋にベストナイン受賞。2年上に井口忠仁、1年上に高須洋介、1年下に荒金久雄がいた。 大学卒業後は社会人野球のHondaのチームに入団する。主に捕手としてプレーしたが、2006年には三塁手部門で社会人ベストナインに選出された。2009年の都市対抗では、主将としてチームの優勝に貢献した。
飯島 一彦(いいじま かずひこ、1976年8月15日 - )… 飯島 一彦(いいじま かずひこ、1976年8月15日 - )は、群馬県藤岡市出身の元プロ野球選手(投手)。 現在は、福岡ソフトバンクホークスのドーム運営部興行運営課。 群馬県の藤岡高では2年秋に県大会ベスト4。神奈川大学野球連盟の神奈川工科大学に進学し、4年秋にベストプレーヤー(敢闘)賞。 大学卒業後は、社会人野球の強豪・新日本製鐵君津に入社。1年目から補強選手を含めて3年連続で都市対抗野球大会に出場する活躍を見せ、2001年のプロ野球ドラフト会議で福岡ダイエーホークスから6位指名を受け入団。 藤岡高は野球は強くなかったが、その環境から這い上がりプロで活躍する姿は高く評価され、2002年には地元・群馬の日刊紙『上毛新聞』1面コラム「三山春秋」でも採り上げられた。
高見澤 考史(たかみざわ こうじ、1975年4月30日 - … 高見澤 考史(たかみざわ こうじ、1975年4月30日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(外野手)。アーデルバッティングドーム代表取締役社長。 長男は横浜DeNAベイスターズ育成選手の高見澤郁魅。 前橋工では2年の夏から一塁手のレギュラーを獲得し、3年次には主将を務めて春の群馬県大会で優勝したが関東大会では横浜高の白坂勝史、矢野英司の前に敗退、夏の県大会は準々決勝で桐生第一高等学校に敗れた。 卒業後は東京ガスに入社。同じ外野手には大友進がいた。1999年には日本代表として4ヵ国国際大会に出場、同年は都市対抗野球で3番を打ったほか同大会にはそれまで補強選手で2回出場。2000年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから6位指名を受けて入団。
清水 将海(しみず まさうみ、1975年1月9日 - )は、… 清水 将海(しみず まさうみ、1975年1月9日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、コーチ。 小学生の時に正観寺町子供会のソフトボールを始め、小学5年から2年連続で投手として関東大会に出場。中学から野球部に所属した。 東農大二高2年から捕手となり、3年時、第64回選抜高等学校野球大会に出場したが、初戦で佐賀商の前に敗退した。 大学は東都大学リーグに所属する青山学院大学に進学 。1部リーグ通算77試合に出場、269打数65安打、5本塁打、30打点。ベストナイン受賞2回。 1996年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けて入団。当時の背番号は8(当初、大学時代と同じ背番号22となる予定であったが、定詰雅彦の阪神タイガースへの移籍で空き番となった8へ変更された)。
戸部 浩(とべ ひろし、1974年7月15日 - )は、群馬… 戸部 浩(とべ ひろし、1974年7月15日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 樹徳高校2年夏に背番号11で第73回全国高等学校野球選手権大会に同校初出場に導き、2回戦の大阪桐蔭に敗戦。続いて3年夏に第74回全国高等学校野球選手権大会に出場して初戦の近江高に完投勝利するが、2回戦で天理高にサヨナラ負けを喫した。 日本大学へ進学。4年時は2部リーグとなった。東都大学1部リーグ通算25試合登板、6勝12敗、防御率3.33、85奪三振。 東芝府中ではチーム最終年となった都市対抗野球で初戦先発勝利、その後は統合された東芝から1999年のドラフトで千葉ロッテマリーンズから3位指名され、入団。
富岡 久貴(とみおか ひさき、1973年5月8日 - )は、… 富岡 久貴(とみおか ひさき、1973年5月8日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。2000年から2001年までの登録名は富岡 大記(とみおか ひろき)。 高崎工高では1年の秋から投手となり、3年春の群馬大会でノーヒットノーランを達成。続く夏の群馬大会の1回戦でも、5回参考記録ながら12奪三振で再びノーヒットノーランを記録している。同大会では無失点のままベスト8に進んだが、マメをつぶした事もあり戸部浩がエースの樹徳高校に敗れた。 卒業後は東京ガスに進むと1994年に東芝府中の補強選手で都市対抗野球へ出場、2回戦で先発すると同じく補強の斉藤貢へのリレーで勝利してベスト8。この時、一緒に補強選手となった大友進は1年後輩で西武でも同僚。
阿部 次男(あべ つぎお、1972年12月11日 - )は、… 阿部 次男(あべ つぎお、1972年12月11日 - )は、群馬県出身の元社会人野球選手(投手)。引退後はSUBARU硬式野球部の監督を務めた。 利根商業高卒業後、1991年に富士重工業に入社、同社硬式野球部に所属。 長らくタイトルとは無縁だったが、2006年の日本選手権ではチームを優勝に導き、MVPを獲得している。また、2008年の都市対抗野球1回戦(対TDK千曲川戦)では、先発して7回途中までながら16三振を奪い、大会記録まであと1つに迫る好投を見せ、小野賞を獲得した。 2010年、第16回アジア競技大会の日本代表に選出され、社会人野球20年目にして初の日本代表入りを果たした。翌2011年には都市対抗野球本大会10年連続出場を達成したものの公式戦登板はなく、そのまま現役を引退。
青栁 博文(あおやぎ ひろふみ、1972年〈昭和47年〉6月… 青栁 博文(あおやぎ ひろふみ、1972年〈昭和47年〉6月1日 - )は、群馬県吾妻郡東吾妻町出身の高校野球指導者、社会科・福祉科教諭。 高崎健康福祉大学高崎高等学校社会科、福祉科教諭。 群馬県立前橋商業高等学校3年春には選抜大会に出場。 東北福祉大学に進学。大学では和田一浩と同期だった。 大学卒業後は一般就職し、日産系部品会社の軟式野球部で4年間プレー。その後は建設会社の総務職として働き、硬式野球クラブでプレー。 高校時代の恩師から群馬女子短期大学附属高等学校が校名変更と共学化し、野球部を創設する話を聞き、通信教育を利用し、教員免許を取得。2002年4月から前年に共学化された高崎健康福祉大学高崎高等学校に赴任し、創設された硬式野球部の監督に就任。
高橋 信夫(たかはし のぶお、1972年3月22日 - )は… 高橋 信夫(たかはし のぶお、1972年3月22日 - )は、群馬県利根郡昭和村出身の元プロ野球選手(捕手)、野球指導者。 2021年の登録名は髙橋 信夫(読み同じ)。 利根商業高では2年夏に県大会準優勝、流通経済大学でも2年時に明治神宮大会準優勝、4年秋にも同大会でベスト4。1994年に本田技研入社。1996年は入来祐作らの活躍でチームが都市対抗野球で優勝するが控えであった、翌・1997年の都市対抗野球では川鉄千葉の補強選手としてベスト4。 同年ドラフトで5位指名されオリックス・ブルーウェーブに入団。1年目から一軍出場を果たしたが出場機会に恵まれず、2001年に現役引退。アマ球界一のキャッチングといわれたが、結局プロで大成することはできなかった。
西澤 洋介(にしざわ ようすけ、1971年11月5日 - )… 西澤 洋介(にしざわ ようすけ、1971年11月5日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 前橋育英高では野手、千葉工業大学へ進み投手へ転向すると4年時に大学選手権出場、1993年のプロ野球ドラフト会議で横浜ベイスターズから5位指名を受け入団。 1995年に一軍初登板を果たしたが、1死もとれずに降板。1998年まで在籍したが、再び一軍で登板する機会のないまま自由契約となり現役を引退。 引退後は西武ライオンズで打撃投手を務めた後、柔道整復師となり現在は地元・高崎市で「にしざわ接骨院」院長を勤める。
髙山 健一(たかやま けんいち、1971年8月4日 - )は… 髙山 健一(たかやま けんいち、1971年8月4日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。現広島東洋カープスカウト。 前橋市立南橘中学から東農大二高に進学。3年夏の群馬大会で3番・二塁手として打率.611を記録し、チームの第71回全国高等学校野球選手権大会出場に貢献した。群馬大会決勝で捕手と激突した際に左足の筋が切れており、しばらくはスパイクも履けなかったが、本大会での日向高校との初戦では先制点に繋がる長打を放つなどチームを牽引した。 高校卒業後は青山学院大学に進学し、小久保裕紀や清原幸治と同級生となった。3年春の東都大学野球リーグではリーグ6位の打率.318で初のベストナインに三塁手として選ばれた。
高山 健一(たかやま けんいち、1971年8月4日 - )は… 高山 健一(たかやま けんいち、1971年8月4日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は、広島東洋カープのスカウト。
高橋 憲幸(たかはし のりゆき、1971年2月25日 - )… 高橋 憲幸(たかはし のりゆき、1971年2月25日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。 拓大紅陵高では和田孝志と投の二本柱を組み活躍。和田の故障もあって1988年夏の甲子園にはエースとして出場。2回戦(初戦)で松山商を降すが、3回戦で浜松商に惜敗。 卒業後は日本石油に入社。1991年の日本選手権では2試合に先発して優勝に貢献し、優秀選手。1995年の都市対抗では春田政勝とともに投の主軸として勝ち進む。NKKとの決勝では勝利投手となり優勝に大きく貢献、同大会の橋戸賞を受賞した。1996年のドラフト5位で日本ハムファイターズに入団。 1年目の1997年から変則フォームから繰り出すスクリューボールを武器に中継ぎ投手として活躍し、47試合に登板(この年4月22日にプロ初勝利を挙げたがこの試合から三連続でチームはサヨナラ勝ちをし高橋もその間に2勝挙げた)。
忰田 幸也(かせだ ゆきなり、1970年2月20日 - )は… 忰田 幸也(かせだ ゆきなり、1970年2月20日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(投手)、指導者。 東農大二高では2年生の時に秋の群馬大会で優勝。翌年夏の群馬大会はベスト8で延長17回の末に敗れ甲子園出場はならなかった。 1987年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから2位指名され入団。高校時代は、後にもチームメイトとなる新井潔と同期であった。 1989年はマイナーリーグA級のサリナス・スパーズ(英語版)に野球留学した(現地での登録名はYuki Kaseda)。同年には一軍で初登板含む5試合に登板する。 1992年限りで現役を引退。 引退後は実家の米店を継ぎながら、高校の先輩である高仁秀治が監督を務めるヤクルトJrチームのコーチ等で指導者として活動する。
佐々木 昌信(ささき まさのぶ、1969年8月6日 - )は… 佐々木 昌信(ささき まさのぶ、1969年8月6日 - )は、日本の元プロ野球審判員。NPB審判員袖番号は38。東都大学野球連盟審判員。浄土真宗の僧。 群馬県館林市出身。館林市立第一小学校、館林市立第一中学校、群馬県立館林高等学校、大谷大学卒業。 小学校時代は剣道をやっていたが、高校に入ってから本格的に野球を始めたという。実家は浄土真宗の寺で佐々木自身は長男でもあり、実質的には寺の後継者であったため、仏教を学ぶべく大谷大学文学部真宗学科へ入学。父親からは「大学卒業して実家へ帰るまでは好きなことをやって良い」と言われたので、大谷大学でも硬式野球部に入部した。大谷大学時代は一塁手・外野手でプレー、京滋大学野球リーグ公式戦に出場し、大学2年の時にはリーグ優勝も経験し、3年秋のリーグでは外野手でベストナインも受賞している。
新井 潔(あらい きよし、1969年4月11日 - )は、群… 新井 潔(あらい きよし、1969年4月11日 - )は、群馬県富岡市出身の元プロ野球選手(内野手)。 富岡市小野中出身。東農大二高では投手から遊撃手へ転向。エース・忰田幸也を擁して2年秋の群馬県大会で優勝。卒業後は本田技研に入社。5番サードに座った。2年目の都市対抗野球では4番指名打者、翌年は補強選手で出場。1990年度のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから4位指名を受け、入団。社会人では田村勤、西俊児と同僚であった。 1992年はマイナーリーグA級のサリナス・スパーズ(英語版)に野球留学した。 遊撃手には池山隆寛がいて、主として二塁、三塁を守ったが、内外野ともに守れるユーティリティープレーヤーであった。
亀井 猛斗(かめい たけと、1968年12月28日 - )は… 亀井 猛斗(かめい たけと、1968年12月28日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。 群馬・中央高では、1年夏はエースで県準優勝、2年からは甲子園の完全試合投手・松本稔が初監督に就任して指導を受けて夏県大会はベスト4、1986年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け入団。 プロ1年目のには、MLBの1Aのサンノゼ・ビーズへ野球留学する。バネを利かしたフォームから回転のいい直球、カーブが威力を発し、カリフォルニア・リーグで27試合に登板。200イニングで奪三振180、防御率2.37。10勝を挙げ、リーグ最優秀投手に選ばれた。 プロ2年目の1988年、二軍で9勝し、一軍にも初昇格し2試合に登板する。
五十嵐 章人(いがらし あきひと、1968年4月12日 - … 五十嵐 章人(いがらし あきひと、1968年4月12日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロ野球選手・監督・野球解説者。 全ポジションでの出場(高橋博士以来、日本プロ野球史上2人目)、全打順本塁打(同6人目)の記録を達成した選手として知られる。この両方を達成しているNPB史上で唯一の選手。また、全打順での先発出場及びその上での本塁打も記録している。 木田優夫とは従弟にあたる(木田の父と五十嵐の父が兄弟)。 父親は競輪選手だったが、当人が物心ついた時には既に引退して大工に転職していたという。二人の兄の影響で小学1年生から野球を始める。前橋市立第三中学校時代は投手兼内野手だったが、高校では野手に専念。
内山 憲一(うちやま けんいち、1967年7月23日 - )… 内山 憲一(うちやま けんいち、1967年7月23日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の元プロ野球選手(投手)。
小林 和公(こばやし かずひろ、1967年1月14日 - )… 小林 和公(こばやし かずひろ、1967年1月14日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。現在は、日本野球機構審判部所属のプロ野球審判員、審判員番号「14」。 前橋商業高から淑徳大学に進学し千葉県大学野球リーグで4年秋に2部で優勝してMVP、ベストナイン。1988年オフにドラフト外でヤクルトスワローズ入団。担当は安田猛スカウト。 一軍公式戦への出場がないまま、1991年限りで現役を引退。 1993年から、セントラル・リーグ審判員となる。審判番号は入局から2003年まで40だったが、2004年から14。 珍しい左利きの審判である。アウトをジャッジする際は右手で行うがクロスプレー時のパンチアウトはマスクを持ち替え左手で行う審判員の中では小林と木内九二生、青木昴、川上拓斗審判員のみである。
笠原 栄一(かさはら えいいち、1966年6月11日 - )… 笠原 栄一(かさはら えいいち、1966年6月11日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の元プロ野球選手(投手)。 長男は元読売ジャイアンツ投手の笠原将生、次男は元福岡ソフトバンクホークス投手の笠原大芽。 佐波農業高から、1984年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから1位指名を受け入団。中央球界でも無名の選手のドラフト1位指名は当時話題となった。長身から投げ下ろされる140km/hを超える速球で、高校1年秋の西邑楽高校戦では1試合21奪三振を記録、3年夏の県大会では蚕糸高校戦で7回参考記録ながらノーヒットノーランを達成。その素質に球団は大いに期待を寄せ、往年の名投手でロッテの監督も務めた金田正一の背番号34が与えられた。
渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は… 渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は、群馬県勢多郡新里村(現:桐生市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、元プロ野球監督、野球解説者、野球評論家。 前橋工業高校から1983年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)に1位指名されて入団。最多勝利を3回獲得するなどパシフィック・リーグを代表する本格派右腕として活躍した。現役時代の通算成績は125勝110敗27セーブ。引退後は2005年から2007年まで西武二軍の監督、2008年から2013年まで一軍監督を務めた後、2019年から2024年まで同球団のゼネラルマネージャー (GM) を務めた。2024年5月27日から同シーズン終了までは、成績不振で休養した松井稼頭央監督に代わって監督代行を務めた。
松原 靖(まつばら やすし、1964年11月16日 - )は… 松原 靖(まつばら やすし、1964年11月16日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。 前橋育英高時代は、県大会で東農大二高の阿井英二郎と投げ合った。140km/hの速球が武器の本格左腕であった。 高校卒業後は、高崎信用金庫に就職。軟式野球チームでプレーしていたが、1985年9月に読売ジャイアンツの入団テストを受験し、400人以上の応募者の中からただ1人合格した。同年オフにドラフト外で、契約金1000万円、年俸300万円で入団した。なお、このときの入団テストの様子は一般紙で採り上げられ、コーチたちから「どこで投げていた」と質問を多く受け、松原自身が今の安定した職場を捨てられるかどうか迷っていることが記されている。
清水 信明(しみず のぶあき、1963年1月28日 - )は… 清水 信明(しみず のぶあき、1963年1月28日 - )は、群馬県富岡市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 東農大二高では高仁秀治とバッテリーを組む、1年秋の県大会は前橋工の小川博と対するも敗れて準優勝。2年春は関東大会1回戦で愛甲猛が先発した横浜高と延長12回の末に敗れた。夏は県大会ベスト4。2年秋は県大会準決勝で再度、前橋工を相手に延長17回の末に勝利して優勝すると関東大会も制して3年春に選抜高校野球出場。3年夏は県大会準決勝で前橋工の小川博に完封負け。1980年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから4位指名を受け入団。 1986年イースタン・リーグで9打席連続安打を記録した。
川端 俊介(かわばた しゅんすけ、1963年 - 2019年… 川端 俊介(かわばた しゅんすけ、1963年 - 2019年10月22日)は、日本のアマチュア野球選手(投手)。小学校教師。群馬県高崎市出身。 速球と落差のあるカーブを武器に活躍した。山際淳司のノンフィクション『スローカーブを、もう一球』の主人公。 高崎市立第一中学校で軟式野球部に入部し野球をはじめる。卒業後、群馬県立高崎高等学校に進学、硬式野球部に入部。高校2年の夏までは右サイドスローの控え投手であったが、OBの指導でオーバースローに変えたところ球威が増加し、エースとなった。1980年秋の群馬県高校野球選手権で快投を続け、2回戦群馬県立沼田高等学校に5-2で勝利・3回戦前橋育英高等学校で13-0のコールド勝ち・準々決勝群馬県立前橋商業高等学校に7-2で勝利・準決勝群馬県立高崎商業高等学校に3-0で快勝し、関東高校野球選手権への出場を決めた。
高仁 秀治(たかに ひではる、1962年6月6日 - )は、… 高仁 秀治(たかに ひではる、1962年6月6日 - )は、群馬県藤岡市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、指導者。左投左打。 東農大二高では、2年夏に4番を打ち、県大会決勝では先発完投したが敗れた。秋はエースとして清水信明とのバッテリーで県大会準決勝では前橋工業高を相手に延長17回を投げ勝つなどの活躍で優勝。関東大会では依田栄二(甲府商)、中野佐資(国学院栃木高)らに投げ勝って優勝。1980年春の選抜に出場。1回戦で松江商業高に敗退。同年の夏の県大会でも準決勝に進出するが、前橋工業高の小川博に完封を喫し敗退した。 1980年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから4位指名を受け入団。
福田 治男(ふくだ はるお、1961年11月4日 - )は、… 福田 治男(ふくだ はるお、1961年11月4日 - )は、高校野球指導者。 群馬県桐生市出身。桐生市立昭和中学校、埼玉県立上尾高等学校、東洋大学経営学部卒業。 高校進学に際して、地元の名門・桐生高校ではなく上尾高校を選んだのには、野本喜一郎監督の熱心な誘いがあった。野本は「高校野球指導者になるにあたり、稲川さんに全て教えてもらった。だから桐生の子は大事にするよ」と福田に話していた。 第61回全国高等学校野球選手権大会に、1番遊撃手でエース・仁村徹らと共に甲子園出場。初戦で牛島和彦、香川伸行らを擁する浪商と対戦、延長戦の末に敗れている。 仁村とともに進学した東洋大学では内野手としてメンバー入り、1年学下に山口敏弘がいた。
小松崎 善久(こまつざき よしひさ、1961年6月23日 -… 小松崎 善久(こまつざき よしひさ、1961年6月23日 - )は、茨城県新治郡千代田町出身の元プロ野球選手(外野手)。 1961年6月23日に茨城県新治郡千代田町(現:かすみがうら市)に生まれる。土浦三高では捕手としてプレーし、1978年の秋季関東大会では1回戦で小川博を擁する前橋工にコールド負けを喫する。 1979年の春季関東大会では2回戦(初戦)で藤沢商に、同年夏の県大会でもそれぞれ敗れ、甲子園出場は果たせなかった。 1979年のプロ野球ドラフト会議で、中日ドラゴンズから2巡目で指名され、入団する。 1982年から外野手へ転向したが一塁手としても起用された。 1985年に一軍初出場を果たした。
高橋 一彦(たかはし かずひこ、1961年6月12日 - )… 高橋 一彦(たかはし かずひこ、1961年6月12日 - )は、栃木県塩谷郡藤原町出身の元プロ野球選手(投手)。愛称は「ぴんさん」。 前橋工業高では外野手として小川博、番場覚らの投手陣を擁し、1979年春夏の甲子園に出場。春の選抜では2回戦で川之江高に敗退。夏の選手権は3回戦に進むが、比叡山高に敗れる。 高校卒業後は、社会人野球の日本石油に進み投手に転向。1982年の都市対抗野球に出場し、1回戦で先発するが川崎重工に敗退。1984年の都市対抗野球では日産自動車の補強選手として出場。2回戦ではプリンスホテルを相手に好リリーフを見せ勝利投手となる。準々決勝では先発して新日本製鐵大分に勝利、決勝でも登板し日本鋼管を降し優勝を飾る。
岡島 厚(おかじま あつし、1961年5月27日 - )は、… 岡島 厚(おかじま あつし、1961年5月27日 - )は、群馬県太田市出身の元プロ野球選手(捕手)。 太田工業高から、神奈川大学に進学し1983年春はベストナインとなり大学選手権に出場した。 1983年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから4位指名を受け入団。 プロ3年目の1986年に一軍で1試合に出場するもあとは出場がなく1988年オフに自由契約となり、阪神タイガースにテスト入団する。1992年からはブルペン捕手を兼任し、1993年オフに現役を引退。 引退後は、1999年まで阪神のブルペン捕手を勤めた。現在は第一情報システムズ専務取締役である。
松本 稔(まつもと みのる、1960年8月18日 - )は、… 松本 稔(まつもと みのる、1960年8月18日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の元アマチュア野球選手、元高等学校教員・高校野球指導者・野球解説者。 前橋高校では2年生の時、エース兼四番打者として1977年の秋季関東大会決勝に進み、印旛高校の菊池総と投げ合うが完封を喫し準優勝にとどまる。しかし翌1978年に開催された第50回選抜高等学校野球大会に出場を決めた。 選抜では、前年の秋季大会ベスト8の実力を有する滋賀県の比叡山高校と1回戦で対戦。下馬評では比叡山高校有利と見られていたが、キレのあるスライダーと抜群の制球力、さらには一人もランナーを出せずに焦り始めた相手打線の淡白な攻めにも助けられ、投球数78、奪三振5、外野への打球に至っては僅かに3という完璧な内容で高校野球の全国大会史上初めて完全試合を達成した。
阿久沢 毅(あくざわ つよし、1960年8月5日- )は、日… 阿久沢 毅(あくざわ つよし、1960年8月5日- )は、日本の実業家、元高等学校教諭兼高校野球指導者。群馬県立勢多農林高等学校教諭を経て、2020年7月より群馬クレインサンダーズ代表取締役社長。 群馬県勢多郡大胡町(現 前橋市)出身。群馬大学教育学部卒業。 大胡町立大胡中学校(現 前橋市立大胡中学校)時代エースピッチャーとして県大会で優勝。高校野球の名門である群馬県立桐生高等学校進学後はエースの座を木暮洋に譲るが、主力打者としてチームを牽引。第50回選抜高等学校野球大会では王貞治以来となる2試合連続本塁打を放つなどの活躍でベスト4まで進出し、一躍ドラフトの注目株となる。この大会ではチームメイトの木暮が26イニング連続無失点記録を樹立し、さらに同じ群馬県の前橋高校のエース松本稔(プロ入りせず。
神長 英一(かみなが ひでいち、1960年6月24日 - )… 神長 英一(かみなが ひでいち、1960年6月24日 - )は、群馬県桐生市出身の元社会人野球指導者、元大学野球指導者。 作新学院高時代、第49回選抜高等学校野球大会及び第60回全国高等学校野球選手権大会に出場。3年次には主将を務める。 1979年に高校卒業後、法政大学経済学部へ進学。東京六大学野球連盟に加盟する同校野球部では3度のリーグ優勝を経験。4年次の1982年春季リーグで完全優勝を果たし、神長も遊撃手としてベストナインに選出された。続く全日本大学野球選手権大会でも決勝で東洋大学を下し優勝を果たした。大学時代の同期に田中富生、木戸克彦、西田真二、手嶋浩、1年上に中葉伸二郎、川端順と池田親興両投手、1年下に小早川毅彦、銚子利夫、飯田孝雄、和田護・樽井徹両投手らがいる。
高橋 忠一(たかはし ちゅういち、1960年5月31日 - … 高橋 忠一(たかはし ちゅういち、1960年5月31日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。 前橋工業高では、1978年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、エース木暮洋を擁する桐生高に惜敗し甲子園出場を逸する。 高校卒業後は、社会人野球の東京ガスに入社。1980年の都市対抗野球からチームは同大会に3年連続出場し、1981年からメンバー入り。 1983年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受け入団。 プロ1年目の1984年は、新人ながら主に左翼手として25試合に先発出場、打率.280の好成績を記録した。しかし翌1985年春に肩を故障し、出場機会が減少。1989年に復活し、外野手の準レギュラーとして起用されるが、1990年限りで現役を引退。
広木 政人(ひろき まさと、1960年1月7日 - )は、群… 広木 政人(ひろき まさと、1960年1月7日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 群馬・富岡高では、エースとして1977年春季関東大会準々決勝に進出するが、駒崎幸一のいた川口工に敗れる。同年夏は県予選を勝ち抜き、北関東大会準決勝に進むが甲府商に敗退、甲子園には出場できなかった。 同年のドラフト3位でロッテに入団。本格派右腕と期待され、ルーキーながら1978年5月に初登板。同年6月には初先発も果たすが、結果を残せず、翌年以降は登板の機会がなかった。1984年限りで現役引退。カーブ、シュートを武器とした。引退後は建設会社の広木工業に入社。
飯田 正男(いいだ まさお、1959年9月20日 - )は、… 飯田 正男(いいだ まさお、1959年9月20日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 高崎商業高校では1977年、関上益弘(法大)と投の二本柱を組み、夏の甲子園に出場。1回戦で能代高を降すが、2回戦では広島商の住吉慶一(法大)に完封を喫する。この大会では第1号本塁打を放った。 同年のドラフトで阪神タイガースから5位指名され入団。一軍では代走としてのみ出場し、1981年に引退。 翌1982年からは球団の管理部スコアラーへ就任し、相手投手の癖を盗むのがうまく、ID野球を標榜していた当時阪神の監督だった野村克也からも絶大な信頼を寄せられていた。2017年シーズンからは、広島東洋カープ担当スコアラーを担当した。
谷 良治(たに りょうじ、1958年4月11日 - )は、群… 谷 良治(たに りょうじ、1958年4月11日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。現在は、関東学園大学硬式野球部の監督。 関東学園大附高では2年秋と3年春に県大会準優勝、社会人野球の富士重工業に進む。1981年から3年連続で都市対抗野球に出場し、1981年の日本選手権では優勝を経験。チームメートに橋本敬司、向田佳元両投手がいた。 1984年キャンプ前に、ドラフト外で阪急ブレーブスに入団。 落差の大きいカーブ、スライダー、フォーク、シュートを武器に、1年目から右の中継ぎとして活躍。同年のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも第3戦に登板。翌1985年は抑えに回り5セーブ。1986年には抑えをアニマルに譲り、チーム最多の43試合に登板、主に中継ぎで7勝1敗1セーブの好成績を記録した。