向田 佳元(むかいだ よしもと、1956年4月11日 - )… 向田 佳元(むかいだ よしもと、1956年4月11日 - )は、群馬県桐生市出身の元アマチュア野球選手(投手)である。 前橋工業高校では1973年夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で福井商に完封負け。この試合はリリーフで甲子園初登板を果たす。翌1974年夏の甲子園にエースとして連続出場。準々決勝では静岡商の高橋三千丈と投げ合い1-0で完封勝ち。準決勝に進むが、銚子商の土屋正勝に完封負けを喫する。 早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは1年生から起用される。1976年の明治神宮野球大会では、決勝で法大の江川卓と投げ合うが完封負けを喫する。北口勝久(松下電器)との二本柱で1978年秋季リーグ優勝に貢献。
石田 芳雄(いしだ よしお、1955年2月23日 - )は、… 石田 芳雄(いしだ よしお、1955年2月23日 - )は、日本の元プロ野球選手である。群馬県利根郡川場村出身。 上武大一高(現在は廃校)ではエースとして活躍。1年夏の県大会ベスト4、1971年の2年夏は県大会準決勝に勝って北関東大会も決勝へ進むが同県の高崎商に敗れた。秋季県大会は準決勝に進むが、高崎商に惜敗。翌1972年夏の県大会は準々決勝で河原井正雄を擁する桐生高に敗退、北関東大会には進めなかった。 甲子園出場はならなかったが、アンダースローからのその小気味良いいピッチングがスカウトの目にとまり、1972年のドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受け入団。1974年にはチームが前期優勝を決めた後の6月25日、南海ホークス戦で高卒同期入団の石田真が先発した後を受けて3回1失点で石田真にプロ入り初勝利を捧げるとともに自身も初セーブを記録。
河原井 正雄(かわらい まさお、1954年(昭和29年)7月… 河原井 正雄(かわらい まさお、1954年(昭和29年)7月26日 - )は、群馬県桐生市出身の元アマチュア野球選手、野球指導者。青山学院大学硬式野球部監督・大学野球日本代表監督等を歴任。 桐生市本町に生まれる。子どものころから稲川東一郎率いる群馬県立桐生高等学校硬式野球部に憧れ同校へ入学、1年生から中心選手として活躍する。投手として1972年夏の甲子園県大会を勝ち抜き、北関東大会準決勝に進出。足利工の石田真と投げ合うが9回サヨナラ負け、甲子園には出場できなかった。 1973年に卒業後、青山学院大学に進学し同大学硬式野球部に所属。東都大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、同1973年春季リーグでは1年上のエース金沢真哉を擁し、深沢進(のち東芝)らとともに打線の中心となり活躍。
井野修(いの おさむ、1954年4月24日 - )は、群馬県… 井野修(いの おさむ、1954年4月24日 - )は、群馬県伊勢崎市出身のプロ野球審判員。いせさき教育アンバサダー。 セ・パの審判部が完全統合された2011年(平成23年)より、審判長を務め、2014年(平成26年)1月から日本野球機構(NPB)参与・審判技術委員長兼野球規則委員となる。現役時代の審判員袖番号は1。 伊勢崎市立宮郷小学校、宮郷中学校、群馬県立前橋高等学校から神奈川大学在籍中の1976年(昭和51年)にセントラル・リーグ審判部へ入局し、大学在籍中の1年間は学生と審判員の“二刀流”であった。1978年(昭和53年)4月2日神宮球場でのヤクルトスワローズ‐広島東洋カープ戦、レフト側外審で1軍初出場。
蒲谷 良充(かばや よしみつ、1952年8月26日 - )は… 蒲谷 良充(かばや よしみつ、1952年8月26日 - )は、高校野球指導者。群馬県出身。群馬県立富岡高等学校、立教大学法学部卒。 高校、大学と野球選手として活躍。特に、立教大学時代は四番打者として江川卓投手と対戦するなど東京六大学リーグで活躍する。卒業後は、社会人野球の大丸(京都市)に所属し小林繁投手らとともに活躍した。 その後、地元群馬県内の高校野球指導者として、高崎北高校、藤岡高校、富岡高校の監督をつとめる。富岡高校監督在任中には、21世紀枠の群馬県候補校に選出された。また、大学野球で活躍する多くの選手を育成した。打者出身であるが、横浜DeNAの小林太志投手などの好投手も育てている。 高崎市立高崎経済大学附属高等学校野球部監督をつとめたのち、2013年3月定年退職。
片貝 義明(かたがい よしあき、1951年9月27日 - )… 片貝 義明(かたがい よしあき、1951年9月27日 - )は、群馬県吾妻郡中之条町出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。息子はスタイリストの片貝俊。 前橋工業では2年次の1968年にチームが夏の甲子園に出場するが、片貝の出番は無かった。3年次の1969年夏は正捕手として北関東大会準決勝に進出するが、宇都宮学園に敗れ、甲子園出場はならなかった。高校同期に佐野仙好、柚木秀夫がいた。卒業後は1970年に日本石油へ入社し、2年目の1971年から都市対抗に2年連続出場。 1972年のドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け、1973年シーズン後に入団。しかし当時の中日捕手陣は木俣達彦、新宅洋志と実力者が揃っており、一軍での出番はほとんどなかったため、小松辰雄や牛島和彦が入団して来たころには若手投手の「教育係」的存在となった。
佐野 仙好(さの のりよし、1951年8月27日 - )は、… 佐野 仙好(さの のりよし、1951年8月27日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、野球解説者。 日本プロ野球(NPB)では一貫して阪神タイガースに在籍。1997年のコーチ退任を機に現場を離れてからも、球団本部のアマスカウト部門に籍を置きながら、関東地区の担当や顧問を務めた。 愛称は名前を音読みした「センコー」。 前橋工業高校では1968年、2年の時に三塁手として夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で智辯学園のエース上田容三に完封を喫する。3年の夏は北関東大会準決勝に進出するが、宇都宮学園に敗れる。高校同期に柚木秀夫、片貝義明がいた。 卒業後は中央大学へ進学、東都大学野球リーグでは3度優勝。
星野 秀孝(ほしの ひでたか、1949年11月26日 - )… 星野 秀孝(ほしの ひでたか、1949年11月26日 - )は、群馬県利根郡利根村出身のプロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。 沼田高校武尊分校には硬式野球部がなかったため、星野は軟式野球部で活動した。「プロの入団テストがあったら教えて欲しい」と周囲に言っていると、星野の存在が、東京大学出身者であった「学校の事務員の先輩か何か」を通じて、東大OBで当時中日ドラゴンズに在籍していた井手峻を経由し、ちょうど関東の各学校を巡回する予定だったスカウト・田村和夫の知るところとなり、視察のチャンスを得た。星野は学校の昼休み、田村を捕手として投球テストを受けることになったが、緊張でボールが高めにしか行かなかった。
樫出 三郎(かしで さぶろう、1947年4月10日 - )は… 樫出 三郎(かしで さぶろう、1947年4月10日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。 東農大二高では、小林邦彦(東農大三高監督)、金子和夫(日本通運)と投の三本柱を組み活躍。1964年秋季関東大会決勝ではエース堀内恒夫を擁する甲府商を小林との継投で零封、翌1965年春の選抜への出場を決める。選抜では1回戦で小林が岐阜短大付の淵上澄雄と投げ合い完封勝利。2回戦では先発し、3人の継投で大谷高に9回逆転サヨナラ勝ち。準々決勝に進むが市和歌山商の岡本喜平(住友金属)に完封を喫する。市和歌山商には後にプロで同僚となる藤田平がいた。同年夏は北関東大会決勝で鹿沼農商の斎藤芳明に抑えられ敗退、甲子園出場を逸する。
深代 芳史(ふかしろ よしふみ、1946年5月13日 - )… 深代 芳史(ふかしろ よしふみ、1946年5月13日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。 群馬県立沼田高等学校時代、早くから関東高校球界屈指の右腕として注目され、読売ジャイアンツ、大洋ホエールズ、国鉄スワローズ、東映フライヤーズなど複数の球団から誘いを受けていた。3年夏は県大会準優勝。1965年に阪急ブレーブスに入団。2年目の1966年にウエスタン・リーグで同リーグ史上4人目のノーヒットノーランを記録するなど活躍し同年10月4日の対近鉄バファローズ26回戦でプロ初登板・初先発。しかし速球を狙い打たれ土井正博に2ランを浴びるなど5回被安打6の3失点で敗戦投手に。これがプロ唯一の登板(出場)になった。
蓑輪 努(みのわ つとむ、1946年 - )は、群馬県出身の… 蓑輪 努(みのわ つとむ、1946年 - )は、群馬県出身のアマチュア野球選手(内野手)。 群馬県立桐生高等学校では二塁手として甲子園に2回出場。1963年夏の選手権はエース高橋恒夫が好投。準々決勝に進むが、下関商の池永正明に抑えられ1-2で惜敗。その後、高校日本代表として池永、和田徹らとともにハワイに遠征した。1964年春の選抜では、2回戦で植木一智、衣笠祥雄のバッテリーを擁する平安高に敗退。 早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中3回の優勝を経験。1967年秋季リーグでは三塁手としてベストナインに選出される。1968年秋季リーグでは田淵幸一らのいた法大に競り勝ち優勝に貢献した。大学同期に小川邦和、長倉春生がいる。
里見 進(さとみ すすむ、1943年8月21日 - )は、群… 里見 進(さとみ すすむ、1943年8月21日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。現姓は夏目。 群馬県立富岡高等学校から1962年に毎日大映オリオンズへ入団。戦力としては「4番手捕手」と扱われていたが、実際には当時の主力投手(小山正明、木樽正明、成田文男)の投球をブルペンで受けることが多く、練習では強打で鳴らした主力打者(江藤慎一、山崎裕之、有藤通世、ジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなど)を相手に打撃投手も務めていた。 NPBが1970年のシーズン終了後に(「加盟全12球団の戦力の均等化」を目的にドラフト会議と同じ要領で)プロ野球選抜会議(トレード会議)を始めるに際して、1球団が保有する支配下登録選手の20%に当たる指名対象選手リストへ掲載されたところ、第1回選抜会議の3巡目で南海ホークスから指名された。
黒崎 武(くろさき たけし、1940年7月17日 - )は、… 黒崎 武(くろさき たけし、1940年7月17日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 桐生高校では投手として活躍。エースとして1957年秋季関東大会県予選決勝に進出するが前橋高に惜敗。翌1958年夏の甲子園県予選決勝に進み富岡高を降すが、肩を故障する。夏の甲子園には背番号10ではあるが左翼手として出場。3回戦に進むが魚津高の村椿輝雄に完封を喫する。 1959年に東映フライヤーズへ入団。1962年に一軍に定着し、阪神との日本シリーズでは第3戦に代走として出場。翌1963年には毒島章一の故障欠場もあり、7月から主に右翼手として17試合に先発出場を果たす。しかしレギュラーには届かず1967年限りで退団。
宮田 征典(みやた ゆきのり、1939年11月4日 - 20… 宮田 征典(みやた ゆきのり、1939年11月4日 - 2006年7月13日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 日本球界におけるリリーフ専門投手の草分け的存在で「8時半の男」と呼ばれた。 種部儀康(読売ジャイアンツ同期入団)は義兄。孫の宮田孝将は四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスでプレーした元プロ野球選手で、2020年は同球団のアカデミーコーチを務めた。2021年からは同球団の野球スクールコーチを務めている。 大姪は、シンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ。 子供の頃は利根川でよく泳ぎ、小学校5年生から中学生までは水泳好きで水泳部に所属していたが、中学校でいとこに誘われたことをきっかけに野球を始める。
内山 和巳(うちやま かずみ、1939年〈昭和14年〉6月2… 内山 和巳(うちやま かずみ、1939年〈昭和14年〉6月27日 - )は、群馬県伊勢崎市出身の日本の元プロ野球選手(投手、外野手)。 伊勢崎高を経て1958年から1960年にかけて中日ドラゴンズに在籍し、1958年は投手、59-60年は外野手。1960年のシーズン限りで引退した。一軍出場はならなかったが、後に息子の内山憲一がヤクルト入りし、史上初の親子投手として話題となった。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
茂木 忠之(もてぎ ただゆき、1938年11月17日 - 2… 茂木 忠之(もてぎ ただゆき、1938年11月17日 - 2002年4月16日)は、群馬県出身のプロ野球選手(投手)。
木村 久(きむら ひさし、1938年11月4日 - )は、群… 木村 久(きむら ひさし、1938年11月4日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 高崎高校から日本大学を経て1961年に阪急ブレーブスへ入団。1963年に引退。
吉田 英司(よしだ えいじ、1938年9月20日 - )は、… 吉田 英司(よしだ えいじ、1938年9月20日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、外野手。 高崎商業高校から、投手として1957年に中日ドラゴンズへ入団するが、一軍での登板はなく1958年限りで退団。その後は社会人野球の東京鉄道管理局に入社し捕手に転向。1960年の都市対抗に熊谷組の補強選手として出場、優勝を経験する。 1961年に大毎オリオンズに入団しプロ復帰。1962年には一軍に上がり、谷本稔の控えながら3試合に先発マスクを被る。翌1963年は外野手も兼ね10試合に先発出場。翌年以降は捕手に専念するが、出場機会が漸減し1966年限りで引退。
荒井 穣吉(あらい じょうきち、1938年5月21日 - )… 荒井 穣吉(あらい じょうきち、1938年5月21日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 前橋工業高校から1958年に大毎オリオンズへ入団。同年退団。
今泉 喜一郎(いまいずみ きいちろう、1937年6月24日 … 今泉 喜一郎(いまいずみ きいちろう、1937年6月24日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手。右投げアンダースロー。 群馬県立桐生高等学校ではエースとして活躍。1953年秋季関東大会に進むが、1回戦で水戸農に敗退。1955年には同期の田辺義三とバッテリーを組み、春夏の甲子園に出場。春の選抜は準々決勝で明星高を相手にノーヒットノーランを達成。決勝まで勝ち上がり浪華商と対戦した。浪華商の四番打者坂崎一彦に対し、桐生高監督の稲川東一郎は徹底敬遠を指示する。しかし全打席敬遠はノーヒッターとしてのプライドが許さず、第3打席に勝負を決意するも2点本塁打を喫し逆転を許す。9回に同点に追いつくが、延長11回裏にスクイズを決められ3-4でサヨナラ負け、準優勝にとどまった。
田辺 義三(たなべ よしぞう、1937年4月12日 - 20… 田辺 義三(たなべ よしぞう、1937年4月12日 - 2018年9月12日)は、群馬県出身の元プロ野球選手(捕手、外野手、内野手)。 桐生高校では3年次の1955年、捕手として春の選抜に出場。今泉喜一郎とのバッテリーで決勝に進出するが、坂崎一彦・山本八郎・広島尚保らがいた浪華商に延長11回3-4でサヨナラ負け、準優勝に終わる。同年は夏の選手権にも出場したが、2回戦で日大三高のエース並木輝男に抑えられ、4-10で敗れた。同年8月には1年下の外野手間所宏全(阪急)らと共に全日本高校選抜チームの一員として初のハワイ遠征を果たし、4番を打った。 身長174cmは当時としては大型で、高校屈指の強打の捕手として中日、大映、東映、大洋などが獲得合戦を繰り広げたが、卒業後の1956年に西鉄ライオンズへ入団。
浦田 直治(うらた なおじ、1936年9月8日 - )は、群… 浦田 直治(うらた なおじ、1936年9月8日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 桐生市立境野中学校では主将を務め、2年次の1950年には東京六大学秋季リーグ戦試合開始前の神宮に行き、法政大でプレーする根本陸夫を訪ねた。 監督が日大出身で根本の2年先輩であり、主将の浦田に「後輩に根本っていう選手がいた。今は法政大学でキャッチャーをしている。俺が頼むから、みんなを連れて六大学を見に行き、野球の勉強をしてきなさい」と言ったのが、根本と会ったきっかけである。浦田は根本宛に手紙を書くよう命じられ、野球部全員で行くことや試合観戦の希望を記して投函していたが、根本という選手について先生は何も教えてくれなかった。
中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 … 中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 - 2023年〈令和5年〉10月10日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 登録名を頻繁に変えており、入団時は「利夫」、その後は1964年に「三夫」、1965年に「暁生」、監督時代は「利夫」。コーチ時代は「登志雄」もしくは「利夫」。解説者としては本名の「利夫」を使用。 前橋高校では1年生時の1952年秋からエース、中軸打者として活躍、主将も務めた。1953年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、桐生工に敗退。同年の秋季関東大会県予選も準決勝で桐生高に敗れる。3年次の1954年には春季関東大会県予選決勝で桐生工を降し優勝、関東大会に進むが準々決勝(初戦)で水戸農に惜敗した。
毒島 章一(ぶすじま しょういち、1936年〈昭和11年〉1… 毒島 章一(ぶすじま しょういち、1936年〈昭和11年〉1月14日 - 2023年〈令和5年〉5月14日)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。戸籍上の登録は「毒嶌」。 「ミスターフライヤーズ」と称された。 桐生高校では1951年夏の甲子園に控え投手として出場するが、1回戦で西山和良のいた県和歌山商に敗退。2年上のチームメートに一塁手の中静唯八(西鉄)がいた。 1953年夏の甲子園予選では北関東大会1回戦に進むが、宇都宮商に日没コールド負け。高校ではノーヒットノーランを達成したこともあるが、肘を痛めてしまう。また左打者になったのも高校時代である。 1954年に東映フライヤーズへ入団。
新井 茂(あらい しげる、1935年9月29日 - )は、群… 新井 茂(あらい しげる、1935年9月29日 - )は、群馬県藤岡市出身の元プロ野球選手(外野手)。 藤岡高校から高崎鉄道管理局を経て、1955年に大映スターズへ入団。同年は右翼手として7試合に先発出場、その後も準レギュラーとして活躍する。1957年は6月から四番打者として起用され、66試合に先発出場を果たす。 同年オフにチームが大毎オリオンズに合併されたため大毎へ移籍。ここではあまり活躍の場はなく、1959年限りで現役を引退。
高野 价司(たかの かいし、1935年1月1日 - )は、群… 高野 价司(たかの かいし、1935年1月1日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(外野手)。 桐生工業高校では1952年、3年生の時に背番号10の控えながら、エース島津四郎を擁し、春の選抜に出場。2回戦(初戦)で豊橋時習館高を降し準々決勝に進むが、鳴尾高の中田昌宏に延長12回サヨナラ完封負けを喫する。同年夏の甲子園予選でも北関東大会準決勝に進出するが、豊田泰光、加倉井実のいた水戸商に惜敗。 卒業後は立教大学へ進学するが中退し、1955年に大映スターズへ入団。1年目の開幕直後から左翼手として起用され、チャンスメーカーとして活躍。同年は81試合に先発出場を果たす。翌1956年も準レギュラーとして起用されるが、その後は出場機会が減り、1958年限りで引退した。
島津 四郎(しまづ しろう、1934年 - )は、群馬県出身… 島津 四郎(しまづ しろう、1934年 - )は、群馬県出身のアマチュア野球選手。ポジションは投手。 桐生工業高等学校では、エースとして1952年の春の選抜に出場。2回戦(初戦)で豊橋時習館高を完封するが、準々決勝では鳴尾高の中田昌宏と互いに無失点で投げ合い、延長12回の末に0-1でサヨナラ負けを喫する。同年夏の甲子園予選でも北関東大会準決勝に進出するが、豊田泰光、加倉井実のいた水戸商に惜敗。高校同期に高野价司がいた。 日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中に5回優勝。1955年春季リーグで優勝に貢献し、同季の最優秀投手賞を獲得。直後の大学野球選手権は決勝に進み、明大の秋山登とのアンダースロー対決が話題となるが、0-1で完封され準優勝に終わる。
小林 勝巳(こばやし かつみ、1933年8月2日 - )は、… 小林 勝巳(こばやし かつみ、1933年8月2日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 前橋高校から大生相互銀行を経て1955年に国鉄スワローズへ入団。1956年に退団。
金山 勝巳(かなやま かつみ、1933年5月22日 - )は… 金山 勝巳(かなやま かつみ、1933年5月22日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。1953年から1959年までの登録名は布施 勝巳。
坂本 登(さかもと のぼる、1932年9月20日 - 198… 坂本 登(さかもと のぼる、1932年9月20日 - 1989年1月27日)は、群馬県出身のプロ野球選手。 桐生工業高校から日本大学を経て1955年に阪急ブレーブスへ入団。
常見 忠(つねみ ただし、1930年11月11日 - 201… 常見 忠(つねみ ただし、1930年11月11日 - 2011年11月30日)は、日本の元プロ野球選手、釣り師。群馬県桐生市出身。
木村 一夫(きむら かずお、1930年10月4日 - )は、… 木村 一夫(きむら かずお、1930年10月4日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 桐生工業時代は1946年の夏の甲子園と1948年の選抜甲子園に出場。 日本大学、熊谷組を経て1955年に大阪タイガースへ入団。1年で退団し、地元の社会人野球チーム富士重工業の選手としてプレーを続けた。 1963年に富士重工業監督に就任。同年の都市対抗野球大会にも出場した。 1966年に監督を退任するが1974年から再び監督に就任し、1979年まで監督を務めた。 1989年に樹徳高校の監督に就任。1991年に夏の群馬大会を制し夏の甲子園初出場。翌1992年の夏の甲子園にも連続で出場した。
笹原 恵通郎(ささはら えつろう、1930年4月2日 - )… 笹原 恵通郎(ささはら えつろう、1930年4月2日 - )は、群馬県出身のプロ野球選手。 高崎高校、伊藤商店、桐生織物、大生相互銀行を経て1954年に東映フライヤーズへ入団。同年に退団した。
斎藤 宏(さいとう ひろし、1928年11月27日 - 20… 斎藤 宏(さいとう ひろし、1928年11月27日 - 2011年12月17日[要出典])は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは三塁手。 桐生中学三年秋終了後に予科練に志願し、学校を中退。戦後、桐生中学出身者が中心として結成された全桐生を経て、1950年に東急フライヤーズに入団。1年目から三塁手のレギュラーを獲得し、118試合に出場した。1952年には108試合に出場し、打率.301とチームの中でトップとなる打率を記録し、リーグでも7位の記録だった。翌年も100試合以上の試合に出場するが打撃成績は振るわず、1955年は12試合しか出場できずこの年に引退した。 引退後はジャニーズ事務所に社員として在籍したが、プロ野球選手経験を買われ、フジテレビジョンの手を離れた後も引き続き同社傘下で活動を継続した女子野球クラブチーム『ニューヤンキース』の3代目監督を務めていた。
新井 龍郎(あらい たつろう、1928年5月3日 - )は、… 新井 龍郎(あらい たつろう、1928年5月3日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(外野手)。 県立前橋高校では1948年夏の甲子園に4番ライトで出場した。日本大学では2年秋と4年秋に東都大学MVP。1953年に大映スターズへ入団。 1955年に大洋ホエールズへ移籍。左翼手のレギュラーとして116試合に出場し、規定打席にも到達するが肩を壊したため、この年に引退した。 1957年に養命酒、1962年から電電信越の監督を歴任した。
常見 昇(つねみ のぼる、1928年3月30日 - 2005… 常見 昇(つねみ のぼる、1928年3月30日 - 2005年11月16日)は、群馬県桐生市稲荷町出身の元プロ野球選手。1954年の登録名は常見泰生。「常見三兄弟」の次男であり、兄の常見茂、弟の常見忠も桐生中、東急フライヤーズに在籍している。 桐生中学では1940年の選抜、1941年夏の甲子園(戦局の悪化により中止)に出場。4学年上には兄・茂や中村栄、深沢督、3学年上に木暮力三、2学年上に池田力、1学年上に木暮英路、1学年下には斎藤宏が在籍していた。 桐生中学卒業後は野球部OBである皆川定之との関係で、タイガース入りが内定していたが、軍事徴用されたために契約破棄をせざるを得なくなった。徴用先の小学校代用教諭として1年勤務した後、終戦を迎える。
木暮 英路(こぐれ えいじ、1927年1月30日 - )は、… 木暮 英路(こぐれ えいじ、1927年1月30日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手。巨人などでプレーした木暮力三は実兄。 桐生中学から1944年に阪急軍へ入団。投手兼内野手としてプレーする。 終戦後はアマチュアの全桐生でプレーし、1950年に西鉄クリッパースでプロ復帰。同年で退団し、その後は大生相互銀行でプレーした。
池田 力(いけだ つとむ、1925年6月10日 - 没年不明… 池田 力(いけだ つとむ、1925年6月10日 - 没年不明)は、群馬県出身の元プロ野球選手。 桐生中学校から全桐生、日本大学を経て、1949年に東急フライヤーズへ入団。1951年に退団し、その後は大生相互銀行でプレーした。
深沢 督(ふかざわ ただし、1923年12月22日 - 20… 深沢 督(ふかざわ ただし、1923年12月22日 - 2019年1月6日)は、群馬県出身の元プロ野球選手(捕手)。 主な出場ポジションは捕手。
中村 栄(なかむら さかえ、1923年4月24日 - 199… 中村 栄(なかむら さかえ、1923年4月24日 - 1998年10月29日)は、群馬県出身の元プロ野球選手(内野手)。 桐生中では1939年に第25回全国中等学校優勝野球大会へ出場した。 社会人野球の藤倉電線を経て、1942年に阪急軍へ入団。1944年に応召し、終戦後はアマチュア野球の三共繊維でプレー。1950年に新設球団の国鉄スワローズでプロへ復帰。発足当初の国鉄では唯一のプロ経験者で、三塁手、二塁手のレギュラーとして活躍。1956年に現役を引退した。 その後、社会人野球の富士重工業の監督に就任し、都市対抗出場に導いた。 1998年10月29日に死去。75歳没。
木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年… 木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年不詳)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。左投左打。西鉄などでプレーした木暮英路は実弟。 桐生中学(現群馬県立桐生高等学校)では、1939年の夏の甲子園に一塁手として出場。1942年に読売ジャイアンツに入団。強打者として期待され、1943年には応召した川上哲治に代わって一塁手のレギュラーとなり、巨人の第9代4番打者も務めた。 戦後の1946年に、かつて巨人監督だった藤本定義が監督に就任したパシフィックに入団。外野手のレギュラーとなり、打率.246を打ってリーグ33位に入った。しかし、同年限りでパシフィックを退団して、1947年は全桐生に参加し、都市対抗野球にも出場している。
常見 茂(つねみ しげる、1922年12月 - 1991年8… 常見 茂(つねみ しげる、1922年12月 - 1991年8月12日)は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 桐生中学時代に3度甲子園出場(第16回選抜中等学校野球大会、第25回全国中等学校優勝野球大会、第17回選抜中等学校野球大会)。 桐生中学を卒業後は法政大学野球部へと進んだ。法政大学卒業後は全桐生でプレーした。 1950年に東急フライヤーズに入団。同年5月11日の対大映スターズでは、チームメイトの塩瀬盛道がプロ初登板してホームランを放ち、その後降板。以後塩瀬は試合に出場しなかったため、塩瀬は通算打率10割・通算長打率40割・通算OPS5.000を記録することとなるが、この塩瀬の後を継いで登板したのが常見である。
三輪 裕章(みわ ひろあき、1921年11月21日 - 19… 三輪 裕章(みわ ひろあき、1921年11月21日 - 1990年4月12日)は、群馬県出身のプロ野球選手。 旧制桐生中学(現:群馬県立桐生高等学校)では、1939年から1941年の選抜中等学校野球大会に出場した。1942年に阪神軍に入団。1年目から58試合に出場した。 しかし、翌1943年に徴兵され退団。戦後は全桐生に所属していたが、プロ野球に復帰することはなかった。
三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 19… 三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 1944年8月17日)は、群馬県群馬郡片岡村(現・高崎市)出身のプロ野球選手。左投左打。1942年・1943年は、同じ阪神軍に在籍していた三輪裕章と区別するため三輪八と書かれることもある。 高崎市片岡尋常小学校(現:高崎市立片岡小学校)、群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)卒業。甲子園出場経験は無いが、1936年の高崎中3年次には北関東大会決勝まで一人で投げ抜き、群馬県立桐生中学校(現:群馬県立桐生高等学校)に敗れた。 桐生中の野球部監督・稲川東一郎の推薦により、稲川の義弟で大阪タイガースの球団職員だった早川二郎を仲介して同球団に入団。
稲川 豪一(いながわ ごういち、1920年1月11日 - 没… 稲川 豪一(いながわ ごういち、1920年1月11日 - 没年不明)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。稲川東一郎は実兄。 桐生中学校から全桐生を経て、1950年に東急フライヤーズへ入団。同年で退団し、その後は大昭和でプレーした。
皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1… 皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1986年12月11日)は、群馬県桐生市東堤町出身の元プロ野球選手、コーチ、監督。 プロ野球選手の皆川康夫は子。 鉄道省職員だった父の三男として、桐生市に生まれる。 桐生西小卒業後、桐生中学に進学。当初、父は進学校である桐生工業に進んでほしいと思っていたが、兄が以前通っていたことや、野球部が強いことなどから父の反対を押し切り、同校に入学した。 桐生中学時代には、2年夏からベンチ入りを果たすと、1934年夏(2回戦敗退)、1935夏(2回戦敗退)、1936年春(準優勝)、1936年夏(ベスト4)の4回の甲子園に出場。同級生には大阪タイガースでも同僚になる青木正一(投手)、稲川豪一(三塁手)、後に近鉄のスカウトになる塚越源市(捕手)がいた。
綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 199… 綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 1997年1月28日)は、群馬県出身のプロ野球選手(外野手)。1966年に綱島新哉に改名。 高崎市立商業補習学校から立教大学、社会人野球の明電舎、増田化学工業、山藤商店を経て、1949年に大映スターズへ入団。 1950年に松竹ロビンスへ移籍。1953年は前年に球団が吸収合併されたため洋松ロビンス所属となり、同年限りで現役を引退。 1958年にPL学園高等学校の監督に就任。1961年に退任するが1963年に復帰し、同年再び退任。1966年に拓殖大学の監督を務めた。
相原 守(あいはら まもる、1919年1月5日 - 没年不明… 相原 守(あいはら まもる、1919年1月5日 - 没年不明)は、群馬県高崎市出身のプロ野球選手(外野手)。 高崎商業補習学校時代に甲子園出場はなし。中島飛行機製作所、全桐生を経て、1950年に国鉄スワローズに入団。26試合に出場するものの、目立った成績を残すことはできず、同年オフに退団。
大塚 鶴雄(おおつか つるお、1919年 - 没年不詳)は、… 大塚 鶴雄(おおつか つるお、1919年 - 没年不詳)は、群馬県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。 1939年から1942年までの登録名は柳 鶴震(やなぎ つるじ)。 桐生中学校から1939年に東京セネタースへ入団。同年3月26日の対巨人戦で1試合に2度の振り逃げを記録。1940年には104試合に出場するが、現在もプロ野球記録となる失策のシーズン記録となる75失策を記録している。 1941年に南海軍へ、1943年は大和軍に移籍した。戦後は社会人野球の全桐生でプレーした
柳沢 騰市(やなぎさわ とういち、1908年6月23日 - … 柳沢 騰市(やなぎさわ とういち、1908年6月23日 - 没年不明)は、群馬県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。