遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3… 遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 埼玉県葛飾郡千塚村(北葛飾郡行幸村、幸手町を経て現幸手市)生まれ。遠藤幸五郎の二男。第二高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省に入る。朝鮮総督府に入り試補、同書記官、同秘書官を務めた。1920年、東京府産業部長、次いで千葉県内務部長、青森・三重県知事を歴任した。 1928年、埼玉3区から立憲政友会に属して衆議院議員となった。弁護士を開業し、武蔵野鉄道会社社長に就任。
岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月1… 岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月19日 - 1971年(昭和46年))は、日本の政治家、実業家。埼玉県蕨市長。 第5代埼玉県蕨町長、蕨町会議員、埼玉県町村議会議長会会長、全国町村議会議長会会長、自治大学校運営審議会委員、地方制度審議会委員、町村合併促進審議会委員、自治庁参与をつとめたのち第二代蕨市長に就任した。ほか実業界でも秩父セメント連合会関東支部長、セメント共版会社常務取締役社長、埼北自動車取締役社長など歴任した。
安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 192… 安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 1924年2月29日)は、日本の図書館員、郷土史家。 埼玉県川越市生まれ。1903年埼玉県立川越中学校卒業、1909年早稲田大学政治経済学科卒業。学生時代は外交官志望であった。中学時代から図書館設立に努め、学生団体の学生同志会を創設すると、1906年に川越市内に同志会図書館を設立した。1913年には川越尋常高等小学校の図書館と合併し、私立川越図書館となり、同図書館の理事に就任した。1918年に町立川越図書館となると司書として勤務し、郷土資料の収集に努め、近世の地誌類を翻刻する川越叢書の刊行にあたった。資料の収集は文献のみならず、考古資料の調査研究にもあたり、考古学会や東京人類学会の会員となったほか、1919年には梅原末治の紹介により史学研究会に入会した。
石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11… 石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11月26日 – 1969年(昭和44年)8月16日)は、日本の文芸評論家、政治家。衆議院議員、埼玉県議会議員(いずれも立憲政友会)。父の石坂金一郎も政治家で、郡会議員、県会議員を務めた。 埼玉県大里郡中奈良村(後の奈良村、現在の熊谷市)に大地主の家の長男として生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て1902年(明治35年)に第二高等学校に進学。1906年(明治39年)に東京帝国大学理学部に進学したが中退して、1910年(明治43年)に同文科大学哲学科に再入学した。帝大在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。
斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治1… 斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治18年〉9月18日 - 1964年〈昭和39年〉8月19日)は、日本の地方政治家、薬剤師、俳人。埼玉県熊谷町長・熊谷市長を務めた。位階は従六位。勲五等瑞宝章。 幼名は清治、俳号は「紫石」。 埼玉県大里郡熊谷町鎌倉町(現・熊谷市)で斎藤今助の長男として生まれた。実家は薬種商だった。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1902年卒業)を経て、旧制千葉医学専門学校薬学科(現・千葉大学薬学部薬学科)を卒業し家業を継いだ。 1912年(明治45年)青年組織壬子倶楽部を結成し政治活動を始めた。1913年(大正2年)から熊谷町会議員に2期在任。
斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日… 斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。
田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1… 田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1日/9日 - 1955年〈昭和30年〉12月15日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍軍医学校校長を務めた。医学博士。埼玉県坂戸市出身。 1885年(明治18年)5月1日、埼玉県入間郡大家村(現在の坂戸市)に生れる。旧制川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業後、1909年(明治42年)に千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)を卒業し、1910年(明治43年)海軍軍医学校を卒業する。その後、海軍軍医となり、1923年(大正12年)アメリカのシカゴ大学へ留学。帰国後、1926年(大正15年)東京帝国大学より医学博士号を授与される。
都賀 淸司(つが せいじ、1885年3月25日 - 1946… 都賀 淸司(つが せいじ、1885年3月25日 - 1946年6月17日)は、日本の俳優、元子役である。新漢字表記都賀 清司。津賀 清司、都賀 静司と表記に揺れがある。本名須永 淸三郎(すなが せいざぶろう)。 1885年(明治18年)3月25日、埼玉県大里郡西島村(のちの同郡深谷町大字西島、現在の深谷市西島町)に生まれる。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』には本名も芸名に同じとあるが、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』では改まっている。 幼少時から子役として舞台に上がっていた。時期は不明であるが結婚し、東京府東京市本郷区駒込坂下町(現在の東京都文京区千駄木2丁目あるいは3丁目)に在住した満27歳のとき、1912年(明治45年)5月18日に長女・都賀静子が生まれ、その後、生年月日は不明であるが長男・都賀一司が生まれている。
島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 19… 島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 1952年4月22日)は、日本の英文学者、翻訳家、小説家、辞書編集者、教育者。号は苳三(とうぞう)。『岩波英和辞典』を刊行した。 1884年(明治17年)、埼玉県南埼玉郡百間中村(現:宮代町字中)村長の島村繁と、越谷の能楽師の家系の出身である津ねの夫妻の長男として生まれる。弟が2人、妹が4人いたという。 生家は江戸時代初期から百問中村の名主を務めた武士の家であった。盛助の曽祖父の貴英は1817年(天保8年)に俳諧結社多少庵の第4代庵主となり(号は鬼吉)、祖父の梅年、父の繁もその庵主を引き継いだ。父の繁は直心影流の免許皆伝を得て剣術道場を開いた剣術家でもあり、1906年(明治36年)には百間村の村長となった。
櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1… 櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1949年7月7日)は、日本の実業家。日東製粉(現・日東富士製粉)元社長。 埼玉県児玉郡東児玉村で生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、中央大学卒業。その後、北海タイムス記者となり活躍する。1908年、埼玉公論を主宰し埼玉公論社長となる。 1912年、松本米穀製粉会社に入社し支配人を経て、取締役となる。満州北支の治安回復とともに事業の大陸進出を進める中心人物となり日東製粉を、三大製粉会社といわれるまで成長させる。1948年、日東製粉社長となる。青柳製作所専務取締役。 郷里の埼玉県新井村に、農民武徳殿や農場を寄付し、熊谷市の小学校跡に児童公園をつくるなど篤行の紳士としても知られる。
山田 醇(やまだ じゅん、1884年 - 1969年)は、日… 山田 醇(やまだ じゅん、1884年 - 1969年)は、日本の建築家。独立後は住宅作家としての道を歩み、和洋折衷住宅を発展させる。子息の病をきっかけに、健康住宅を研究し提唱した。設計した住宅は現在でも各地に現存している。埼玉県秩父市金崎生まれ。 実家は信用組合を経営。旧制熊谷中学校、学習院を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学造船学科入学。1年後に転科。1912年(明治45年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同窓の竹腰健造、西村好時、山下寿郎、吉田享二、渡辺仁らで、苺会を結成。辰野葛西事務所に入り、第一相互館(1921年)の設計に加わる。直営実費積算法を開発、これにより川崎芳太郎の知遇を得、1917年(大正6年)11月に神戸で独立。
加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8… 加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月20日)は、日本の教育家、政治家。衆議院議員(通算2期、1期目は立憲民政党・2期目は日本自由党)。埼玉県会議員。大宮市長(第3代)。大宮用達社長。大宮市(現・さいたま市)名誉市民。 埼玉県北足立郡加納村坂田(現・桶川市)の農家に生まれる。加藤晴一の三男。埼玉県師範学校卒業。小学校訓導を命ぜられ、桶川、草加、上尾各尋常高等小学校に奉職する。また青川尋常小学校訓導兼校長を命ぜられる。 教員を見切ると一時保険会社に入ったが間もなく浪人、満洲にまで放浪する。1918年、大宮町に定住する。料理並旅館業を営む。
宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1… 宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1967年9月14日)は、日本の工学者、政治家。 東北帝國大学教授、宮城県知事、東北工業大学学長などを歴任した。 1883年(明治16年)埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1908年(明治41年)東京帝國大学卒業。 仙台高等工業学校(現・東北大学工学部)教授となった後、1917年(大正6年)から翌年にかけてアメリカ合衆国に留学した。帰国後は東北帝國大学の工学部長などを務めて1945年(昭和20年)に退官、1946年から1950年までは宮城県仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)の校長を務めた。1952年(昭和27年)から1956年(昭和31年)まで宮城県知事を一期務めた。
永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、… 永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家。 浦和中学(現:埼玉県立浦和高等学校)を卒業後東京美術学校に入学し、黒田清輝や岡田三郎助に学ぶ。卒業後フランスへの留学を希望していたが、家督を相続するため断念するも細々と絵を描いていた。晩年は田園風景を描き続け、徳富蘇峰と荒川堤防を散策するなどしていた。
栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
河野 省三(こうの せいぞう、1882年8月10日 - 19… 河野 省三(こうの せいぞう、1882年8月10日 - 1963年1月8日)は、日本の神道学者。國學院大學学長。埼玉県出身。号は紫雲。
森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9… 森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 - 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正から昭和にかけての洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。 埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。熊谷中学校中退。 小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。 1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。
清水 藤左衛門(しみず とうざえもん、1880年 - 195… 清水 藤左衛門(しみず とうざえもん、1880年 - 1952年)は、日本の実業家、政治家。埼玉無尽株式会社(現・三井住友銀行)創業者。 中山道熊谷宿の宿屋「清水屋」(現・大盛商店)で生まれる。第15代当主。1900年、旧制埼玉県第二中学卒業。1907年、熊谷駅前に客待ちの茶店を出し、駅売り弁当や熊谷五家宝の駅売りを初めて行った。1915年、熊谷町選出で、大里郡会議員となる。1933年、熊谷市市政施行後議員に当選し2期務め、初代市会議長に就任する。1936年、熊谷市第一土地区画整理組合が設立されると、同組合長に就任。東京諸新聞販売、埼玉無尽株式会社(現・三井住友銀行)を創業する。
高武藏 源太郎(たかむさし げんたろう、1879年(明治12… 高武藏 源太郎(たかむさし げんたろう、1879年(明治12年)8月4日 - 1948年(昭和23年)4月30日)は、明治から大正期にかけての大相撲力士。本名は高橋源次郎、のち野地に改姓。 現在の埼玉県所沢市出身。元々行司として入門したらしく、1893年1月から1895年1月まで番付行司欄に見える木村源二郎と思われる[要出典]。その後力士となり、1896年5月に高武蔵源太郎で序ノ口、1897年5月序二段に上がる。1898年5月に一度三段目に昇進し、一旦序二段陥落の後1900年5月に三段目に再昇進してからは定着した。1903年5月には幕下に昇進し、1908年1月幕下9枚目まで昇進するが幕下が長く、1917年1月三段目に陥落するまで13年幕下にいた。
長島 隆二(ながしま りゅうじ、1878年(明治11年)11… 長島 隆二(ながしま りゅうじ、1878年(明治11年)11月29日 - 1940年(昭和15年)10月8日)は、日本の大蔵官僚、衆議院議員(立憲同志会→革新倶楽部→立憲政友会)。桂太郎の娘婿。
林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年〈明治11年〉9… 林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年〈明治11年〉9月6日 - 1958年〈昭和33年〉5月7日)は、日本の刑法学者。検事総長・大審院院長・司法大臣を歴任した。旧姓・三輪。現在の埼玉県行田市出身。 三輪礼三の四男として生まれた。父は忍藩の御典医だったが、製粉業に失敗し、貧しい生活を強いられた。忍高等小学校在学中、父が病気となり、途中、北埼玉郡役所給仕となる。家計を助ける傍ら、出勤前早朝に恩師の自宅で英語を学ぶ努力家であり、16歳のときにその人物を見込まれ、政治家で北埼玉郡長林有章の養子となる。同年、林郡長の友人である高橋捨六弁護士の書生をしながら、東京法学院(中央大学の前身)に進学した。
宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉… 宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉9月5日 - 1942年〈昭和17年〉6月25日)は、明治から昭和にかけての裁判官、検察官、政治家。司法大臣、貴族院議員。旧少年法および矯正院法(少年院法の前身)の成立に尽力した人物として名高い。 埼玉県出身。農業・宮城藤次郎の二男として生まれる。郁文館中学、第一高等学校を経て、1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり千葉地方裁判所詰となる。 1908年(明治41年)4月、判事に任官し東京地方裁判所に着任。以後、八王子区裁判所予審判事、東京地裁判事を歴任。1913年(大正2年)5月、東京区裁判所検事に異動し、同年9月、司法省参事官となり法務局に勤務。
松本 真平(眞平、まつもと しんぺい、1878年(明治11年… 松本 真平(眞平、まつもと しんぺい、1878年(明治11年)5月12日 - 1971年(昭和46年)5月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、熊谷市名誉市民。 埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で、米穀商・4代目松本平蔵の長男として生まれる。高等小学校卒業後、1891年に開京英語学校に入学したが病のため帰郷し、埼玉英和学校(現:埼玉県立不動岡高等学校)で学び、1900年、東京高等商業学校を卒業。 大倉商業学校教諭となり、1901年、尾張屋銀行に入行し、明治義会中学校の英語教師を兼務。1903年、実業界に進むことを決意して帰郷した。 1914年、松本米穀会社を設立して、父が社長に真平が専務に就任。
双木 利一(なみき りいち、1878年3月2日 - 1939… 双木 利一(なみき りいち、1878年3月2日 - 1939年8月8日)は、日本の政治家。 双木八郎の長男として埼玉県飯能町(現在の飯能市)にて生まれる。1899年、埼玉師範学校卒業。飯能第一小学校長、川越貯蓄銀行飯能支店長、飯能町(現・飯能市)議会議員を経て、1926年、飯能町長に就任した。上水道の建設を行い、工事完成直前の1932年2月、町長を任期退職した。1928年から町長と兼任して埼玉県会議員を務めていた。 「飯能人物誌」1970年、p67-68
根岸 太助(ねぎし たすけ、1878年〈明治11年〉 - 没… 根岸 太助(ねぎし たすけ、1878年〈明治11年〉 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商、升屋)、実業家、政治家、名望家。多摩銀行、中武馬車鉄道各監査役。東京府西多摩郡青梅町長。東京府会議員。族籍は東京府平民。 川越に生まれ、根岸家に入る。呉服太物販売業を営む。青梅町長、同町会議員、郡会議員、東京府会議員などをつとめる。 6歳の時に青梅町仲町「升屋呉服店」の養子となる。 政友会に於ける地方の重鎮である。 信仰は仏教。趣味は書画、骨董。愛読書は伝記、自治書。住所は東京府西多摩郡青梅町(現・青梅市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉… 鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉8月22日 - 1943年〈昭和18年〉8月16日)は、日本の株式相場師、政治家。衆議院議員(群馬県高崎市選出、当選1回)。通称「鈴久」。族籍は東京府平民。 埼玉県北葛飾郡八丁目村(現在の埼玉県春日部市八丁目)に生まれる。鈴木庄五郎の二男。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 実兄の7代目兵右衛門が1897年(明治30年)、埼玉県南埼玉郡越ヶ谷町(現在の埼玉県越谷市)に鈴木銀行を設立し、1903年(明治36年)同銀行草加支店長となった。 海外の経済状態の視察中、香港から急遽帰国して株の買占めに着手し、日露戦争中に株売買で大儲けをし成金鈴木と話題を呼ぶ。
渋沢 元治(澁澤 元治、しぶさわ もとじ、1876年(明治9… 渋沢 元治(澁澤 元治、しぶさわ もとじ、1876年(明治9年)10月25日 - 1975年(昭和50年)2月22日)は、日本の電気工学者。工学博士。東京大学教授、同大学名誉教授。名古屋帝国大学初代総長(1939年 - 1946年)。子爵・渋沢栄一の甥で孫婿にあたる。義父は男爵・穂積陳重。義兄に穂積重遠。 埼玉県榛沢郡血洗島村(のち大里郡八基村血洗島、現深谷市血洗島)の農家(旧名主の家系)に生まれた。渋沢市郎の長男で、母貞子の実兄が渋沢栄一である。高等小学校卒業後、進学を親に反対されるも進学を決意する。ただ、尋常中学は当時の埼玉にはなかったために上京、栄一の娘婿である大蔵省の阪谷芳郎邸で書生をしながら、一旦成立学舎に入学、12月に東京府尋常中学合格が決まり、同校2年次に編入学した。
小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日… 小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日 - 1937年(昭和12年)1月20日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡大砂土村長。 埼玉県足立郡土呂村(のち北足立郡大砂土村大字土呂、現:さいたま市北区)で、大地主・小島宅十郎の息子として生まれる。1902年(明治35年)大日本実業会農学科を卒業。 明治法律学校で学んだが、郷里の茶業の衰退を憂いて退学し、帰郷して製茶職人の修業を行う。さらに特産地の宇治、静岡に遊歴して技術を磨き、帰郷して私立製茶伝習所を設立して茶業の振興を図った。その他、養鶏改良、米麦改良、甘藷栽培改良などにも尽力して、その普及を図り、埼玉県農会・群馬県農会・栃木県河内郡農会の嘱託講師、地方森林会議員、埼玉県茶業組合連合会議長などを務めた。
神谷 弥平(彌平、かみや やへい、1875年(明治8年)11… 神谷 弥平(彌平、かみや やへい、1875年(明治8年)11月15日 - 1944年(昭和19年)6月17日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡谷口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市谷口)で、神谷長吉の長男として生まれる。農業を営む。 彦成村会議員、同村長、北葛飾郡会議員、同議長、埼玉県会議員などを務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から憲政会所属で出馬して当選。第15回総選挙で再選され、衆議院議員を連続二期務めた。 その他、彦成信用組合長、埼玉県産業組合連合会理事、北葛飾郡農会副会長などを務め、宮内省主猟局から鳥類保護事務を嘱託された。
田中 徳兵衛(四代目 德兵衞、たなか とくべえ、1875年(… 田中 徳兵衛(四代目 德兵衞、たなか とくべえ、1875年(明治8年)5月15日 - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県北足立郡南平柳村長。幼名・徳蔵。勲四等旭日章。味噌醸造業。 埼玉県足立郡十二月田村(のち北足立郡南平柳村、現・川口市)で、味噌醸造業、素封家・三代目田中徳兵衛の長男として生まれる。1894年(明治27年)家督を相続し四代目徳兵衛を襲名した。 埼玉味噌醸造組合長、帝国実業協会幹事、東京共立銀行監査役、東京紡績監査役などを務めた。 南平柳村会議員を務めた後、1922年(大正11年)から1929年(昭和4年)まで同村長を務めた。
野呂 丈太郎(のろ じょうたろう、1874年(明治7年)1月… 野呂 丈太郎(のろ じょうたろう、1874年(明治7年)1月29日 - 1927年(昭和2年)10月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県足立郡安行領根岸村(のち北足立郡神根村、現:川口市安行領根岸)で、染織業・野呂栄次郎の長男として生まれる。東京で警察官を務めながら法律学を学ぶ。その他、榊原鍵吉から剣術を学び、さらに柔道を修めた。父の病により帰郷し家業を継いだ。埼玉製織会社を設立して社長となり、茨城県で鉱山事業も営んだ。 政界では、神根村会議員、北足立郡会議員、埼玉県会議員などを務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から憲政会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年… 出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年6月20日)- 1960年(昭和35年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(6期)、立憲政友会総務、羽生市初代市長等を歴任。 武蔵国埼玉郡下羽生村(のち埼玉県北埼玉郡須影村、現:羽生市)で、地主・出井熊吉の三男として生まれる。慶應義塾大学を2年で中退し、農業を営む。のち埼玉新聞社を経営。 北埼玉郡会議員、須影村会議員、須影村村長を経て、埼玉県会議員、同副議長、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月20日の第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会の推薦を受けて当選。以後、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙まで連続6回の当選を果し政友会総務を歴任。
星野 仙蔵(ほしの せんぞう、1870年2月15日〈明治3年… 星野 仙蔵(ほしの せんぞう、1870年2月15日〈明治3年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉8月26日)は、日本の実業家、政治家、剣道家。 星野家の当主は代々星野仙蔵を名乗っており、10代目に当たる。別名は星野安大郎。家業は回漕問屋「福田屋」。埼玉県会議員、衆議院議員を務め、東上鉄道(現、東武東上線)建設に尽力した。また、大日本武徳会の剣道家としても有名で、中等学校への剣道採用請願運動を推進し、大日本帝国剣道形制定委員も務めた。 武蔵国入間郡福岡村(現埼玉県ふじみ野市)生まれ。新河岸川の舟運で栄える福岡河岸で回漕問屋「福田屋」を営み、米穀取引所監査や川越商業銀行頭取、黒須銀行を経て、1899年(明治32年)に埼玉県会議員になる。
青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 19… 青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 1964年3月10日)は日本の牧師、教育者である。 1870年(明治3年)に武蔵国岩槻(現・埼玉県さいたま市岩槻区)に生まれる。明治学院と同志社神学校で学び、渡米してプリンストン神学校、ノースウェスタン大学に留学する。 1902年(明治35年)同志社神学校旧約聖書担当教授になり、同志社女学校教頭を兼任する。当時、同志社神学校での日本人教授は青木と日野真澄の2人であった。1904年(明治37年)に神戸日本基督教会の牧師になり、直接伝道を始めた。 1919年(大正8年)には神戸教会は独立教会になり、神戸イエス・キリスト教会になり、青木は按手礼を返上して一信徒になり、文書伝道など独自の伝道を始めた。
永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年… 永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年7月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉3月9日)は、日本の資産家、農民、埼玉県多額納税者、埼玉県の大地主。前名は平次郎。族籍は埼玉県平民。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人で、先代・永田勘六の長男。1895年、家督相続と共に襲名して前名・平次郎を改めた。農業を営み、県下の大地主であった。多額納税者として知られた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮本 嘉楽(嘉樂、みやもと からく、1868年12月23日〈… 宮本 嘉楽(嘉樂、みやもと からく、1868年12月23日〈明治元年11月10日〉 - 1956年〈昭和31年〉10月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡長井村長。 武蔵国幡羅郡西野村(のち埼玉県大里郡長井村、現:熊谷市)で、大地主・宮本楽只の長男として生まれる。漢籍を修めた。 長井村収入役、同村長、大里郡会議員、埼玉県会議員、所得税調査委員などを務めた。 1904年3月、第9回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めて政界を引退した。 実業界では、埼玉実業銀行頭取、深谷商業銀行取締役などを務めた。 甲源一刀流の師範免状を授けられ、高野佐三郎に師事して小野派一刀流(一刀流中西派)の研鑽を積んだ。
飯野 喜四郎(いいのきしろう、慶応4年6月28日(1868年… 飯野 喜四郎(いいのきしろう、慶応4年6月28日(1868年8月16日) - 昭和15年(1940年)3月21日)は、埼玉県出身の政治家・実業家。埼玉県会議員・埼玉県会議長。 武蔵国埼玉郡蓮田村(現・埼玉県蓮田市)生まれ。粕壁中学校(現埼玉県立春日部高等学校)卒業。1887年に飯野運送店を開業し、東北本線でサツマイモを東北地方に販売した。1894年から埼玉県会議員を通算11期務めた。この間、1918年から1919年までと、1921年と1922年までの2度に渡って埼玉県会議長を務めた。また、教育の普及にも尽力し、粕壁中学校や旧制浦和高校(現埼玉大学)の設置に力を注いだ。元荒川、中川、古利根川などの河川改修や耕地整理にも尽力した。
黒須 竜太郎(くろす りゅうたろう、慶応4年6月28日(18… 黒須 竜太郎(くろす りゅうたろう、慶応4年6月28日(1868年8月16日) – 昭和26年(1951年)8月10日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)、弁護士。 武蔵国足立郡瓦葺村(現在の埼玉県上尾市)出身。1886年(明治19年)、埼玉県師範学校を卒業し、小学校の校長となった。小学校を辞して東京に出て、1888年(明治21年)から英吉利法律学校(現在の中央大学)と東京英語学校に学んだが、在学中の1891年(明治24年)に弁護士試験に合格し、東京で開業した。1902年(明治35年)、東京弁護士会副会長に選任。 1903年(明治36年)、芝区会議員に選出され、後に区会議長となった。
荻野 六郎(おぎの ろくろう、1867年4月1日(慶応3年2… 荻野 六郎(おぎの ろくろう、1867年4月1日(慶応3年2月27日)- 1923年(大正12年)2月6日)は、明治時代の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国榛沢郡横瀬村(のち埼玉県大里郡豊里村、現深谷市)で、名主・荻野竹五郎の長男として生まれる。1887年、埼玉県師範学校を卒業した。 1896年、大里郡会議員補欠選挙で当選し、同参事会員も務めた。1897年、進歩党所属で埼玉県会議員に当選した。1894年9月、第4回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から選出された原善三郎が、1897年 9月29日、貴族院多額納税者議員に就任したため、その補欠選挙に出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 その他、下谷商業銀行頭取、深谷銀行専務取締役、吾妻馬車鉄道株式会社社長、赤坂湖泉株式会社取締役、深川電灯株式会社社長、大日本生命保険株式会社取締役、中央商業銀行監査役、日本商業興信所評議員などを務めた。
田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日… 田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日〈慶応2年12月16日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月14日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。族籍は埼玉県士族。 武蔵国埼玉郡小針村(のち埼玉県北埼玉郡太田村大字小針、現:行田市)で、豪農・田島新之助、いよ夫妻の長男として生まれる。1879年6月、祖父・新六から家督を相続した。農業を営む。 農事改良に熱心に取組み、小針沼の浚渫事業を実施して良田に変え、1910年、耕作組合を組織して農民の意識と技術の向上に努めた。また、教育の充実を図り、設備整備、貧困家庭への教育援助を実施した。その他、青年文庫の設立、青年会の組織を行い風紀の改善に努め、家庭会を組織して会長に就任し、講習会を実施するなど太田村民の意識の向上に寄与した。
小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応… 小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応2年11月5日)- 1929年(昭和4年))は、埼玉県出身の医師である。 武蔵国秩父郡高篠村定峰出身。貧しい百姓の家に生まれ苦労したが、辛酸奮励の中で医学を修め医者となる。1887年(明治20年)医学開業試験に合格した後、軍医として、日清戦争や日露戦争に参戦する。 明治34年(1901年)より3年間ドイツ・プロイセン国ゲッティンゲン大学医学部へ留学し、「脳の腫瘍に関する症候」についての論文を記して医学博士号(ドクトル・メディチーネ)を取得して帰国する。ゲッティンゲン大学では、当時医学部長であったヴィルヘルム・エップシュタイン教授や特任講師であったビッケル講師、ルートゥビッヒ・アショフ教授(1903年からマールブルク大学教授となり、心臓のペースメーカーの生みの親といわれる田原淳博士と共に過ごした時期もあった)に師事。
粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8… 粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8月15日〉- 1930年〈昭和5年〉5月4日)は、明治から昭和期の政治家。号は竹堂。旧姓・橋本。 武蔵国入間郡上藤沢村(現在の埼玉県入間市)の地主・橋本要作の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して漢学と洋学を修め、一時川越にあった郡役所の書記となるが、1886年(明治19年)にアメリカに留学、サンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学、1890年(明治23年)に法学士を得て帰国して、自由新聞の主筆となる。翌年2月、同じ入間郡豊岡町の粕谷圭助の養子となり、翌月兄佳太郞の跡を相続。 1892年(明治25年)に埼玉県会議員に当選して県会副議長を務め、1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙に埼玉県第2区から自由党候補として出馬して初当選、以後憲政党・立憲政友会に移りながら通算10回当選を果たした。
竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(18… 竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日)は、日本の明治から戦前昭和にかけての歴史家・思想史家・殖民学者・政治家。衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、同編修官長などを歴任し、戦後に公職追放指定を受け、一切の職を辞任。位階は正三位、勲等は勲一等。号は三叉(さんさ)。 明治・大正・戦前昭和の3つの時代に渡り言論界をリード。日刊雑誌『世界之日本』主筆を皮切りに、「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」 を以て自由帝国主義に根差した独自の文明史観で多くの著述を行った。またイギリスのホイッグ史観の代表的歴史家のトーマス・マコーリーに影響を受け「新日本史」と「二千五百年史」を著述した竹越は「日本のマコウレー」と言われた。
金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23… 金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23日〈慶応元年9月4日〉- 1938年〈昭和13年〉4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 武蔵国埼玉郡荻島村(現埼玉県羽生市北荻島)で金久保浅右衛門の2男として生まれ、1898年(明治31年)7月に家督を相続した。 1888年(明治21年)7月、陸軍士官学校旧10期を卒業し、陸軍歩兵少尉任官。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(12期)に入学。日清戦争勃発のため1894年(明治27年)7月、陸大を退校し第2軍に属して出征。1896年(明治29年)2月、陸大に復学し1897年(明治30年)12月に卒業して陸軍戸山学校に配属された。
岸沢 惟安(きしざわ いあん、1865年9月12日(慶応元年… 岸沢 惟安(きしざわ いあん、1865年9月12日(慶応元年7月23日) - 1955年(昭和30年)3月26日)は、曹洞宗の僧、仏教学者。 武蔵国埼玉郡上池守(現・埼玉県行田市)の木元要吉の四男として生まれる。幼名は計之助。埼玉県師範学校卒業。開新小学校(現・熊谷市立成田星宮小学校)の訓導・校長を務めたあと、1897年西有穆山に就いて得度。丘宗潭にも師事、生涯を『正法眼蔵』の解明に尽くした。埼玉県の清法寺、兵庫県の永源寺、京都府の安泰寺、青森県の法光寺を歴住し、静岡県志太郡豊田村(現焼津市)に旭伝院を開創した。号に眠芳など。
武田 熊蔵(たけだ くまぞう、1865年8月27日〈慶応元年… 武田 熊蔵(たけだ くまぞう、1865年8月27日〈慶応元年7月7日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月8日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。埼玉県川越市長。 武田鉚助の長男として忍町(現行田市)に生まれる。1882年(明治15年)埼玉県巡査を振り出しに1899年(明治32年)深谷警察署長、ついで越谷、川越、浦和など県内の主要な警察署長を歴任。1910年(明治43年)北葛飾郡長に就任したのち、秩父、大里、北足立郡各郡長を経て、1923年(大正12年)川越市長に就任した。 市長在任中は、産婆看護婦学校(現川越看護専門学校)や市立商業学校・実科高等女学校を開設し、1927年(昭和2年)下水道1期工事を完成させるなど草創期の市政発展に尽力した。
斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶… 斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶応元年6月1日)- 1931年(昭和6年)1月28日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。旧名・慶之助。 武蔵国榛沢郡中瀬村(のち埼玉県大里郡中瀬村、現:深谷市)で、素封家・斎藤雄之助の長男として生まれる。1879年(明治12年)、家督を相続し安雄と改名。1885年(明治18年)、埼玉県師範学校を卒業。1891年(明治24年)まで小学校訓導を務めた。 1893年(明治26年)、自由党埼玉県支部が結成され同党に加盟。1894年(明治27年)、埼玉県会議員となる。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から自由党所属で出馬して当選。
八木 寅次郎(やぎ とらじろう、1865年4月5日〈元治2年… 八木 寅次郎(やぎ とらじろう、1865年4月5日〈元治2年3月10日〉 - 1946年〈昭和21年〉2月7日)は、日本の柔術家。 天神真楊流免許皆伝、大日本武徳会柔道範士、日本柔道整復師会三代目会長。 1865年4月5日(元治2年3月10日)に武蔵国秩父郡寺尾村(現・埼玉県秩父市寺尾)に八木柳太郎の三男として生まれた。八木家の先祖は北条氏の家臣であった。 幼いころから体格が人より勝り武術を好み軍人を志望していた。郷里の秩父で甲源一刀流を教えていた辺見多四郎、逸見愛作に就いて剣術を修業した。 1882年(明治15年)17歳の春に東京へ修行に行くため一人で正丸峠を越えて上京した。東京へ向かう途中で柔術の手合わせをしばしば行ったが「むこうに敵なし」と評判になったという。
練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈… 練木 市左衛門(ねりき いちざえもん、1864年12月7日〈元治元年11月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(米穀商、伊勢屋)、実業家。練木合資会社社長。合資会社練木不動産商会の有限責任社員。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人。豪農で米問屋練木庄八の長子。年少にして経世の志を抱き、自由民権の説に心を傾け、板垣退助の自由党に身を投じ、進んで郷里に自助館を創設し推されてその館主となる。 実業界に入り、同志と共に粕壁銀行を創設し取締役兼支配人となり、郷党の財界に貢献する。1898年に居を東京に移して、実業のために尽瘁努力し、練木合資会社を創設し自ら社長となり企画経営の衡に当る。また同志会監査役、生秀館監査役・同取締役などをつとめる。
発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元… 発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元年10月5日〉- 1936年〈昭和11年〉2月28日)は、日本の教育者、実業家、社会事業家。埼玉・笠幡村の大地主・発智家の27代目当主で埼玉県多額納税者。黒須銀行頭取、霞ヶ関村村長、埼玉育児院院長のほか、武州銀行(黒須銀行後身)、武州貯蓄銀行、日米生糸の役員などを務め、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設者でもある。 埼玉の黒須村(現入間市)で代々名主役を務めた豪農商・繁田家の12代繁田武平(満義)の長男・亀太郎として生まれ、親戚の発智家の養嗣子となり、埼玉県師範学校高等師範科卒業後、黒須高等小学校を設立し校長となる。 日本弘道会の西村茂樹の講演に触発されて、弟の13代繁田武平(翠軒)と同会の支部と黒須信用組合を1894年に設立、1898年には霞が関村支部も設立して西村の唱える「道徳と経済」の調和と活性化を図り、弘道会の全国集会では「農民の道徳」と題した演説も行なった。