池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日… 池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日 - 1989年(平成元年)6月16日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員(2期、自由民主党)。 千葉県君津郡竹岡村(現富津市)で、清酒「聖泉」醸造元・池田酒造の二男として生まれた。木更津中学校(現千葉県立木更津高等学校)を経て、1947年(昭和22年)日本大学法文学部卒。 1948年(昭和23年)千葉県庁に入り、地方課長、総務課長、農林部長などを歴任し、1975年(昭和50年)出納長に就任。その後、国民保険会千葉県連合会副会長を務めた。 水田三喜男の後継者として1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に無所属で千葉県第3区から立候補し当選する。
飯田 毅(いいだ たけし、1918年<大正7年>11月2日 … 飯田 毅(いいだ たけし、1918年<大正7年>11月2日 - 1989年<平成元年>12月6日)は、昭和時代の政治家。千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷町第2代町長、鎌ケ谷市初代市長。位階は従五位。 1918年11月2日、千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷村(現:鎌ケ谷市)中沢に飯田粲・いゐ夫妻の長男として生まれる。旧制東葛飾中学校卒業後、盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に進学し1939年(昭和14年)に卒業。1947年(昭和22年)4月、鎌ヶ谷村議会議員に就任し、以後鎌ヶ谷町議会議員・社会教育委員を務めた。 1967年(昭和42年)5月、鎌ヶ谷町長に初当選した。その後市制施行による初代市長就任を経て1983年(昭和58年)4月まで連続4期16年間にわたり首長を務めた。
飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1… 飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1970年8月9日)は、千葉県香取郡吉田村(現:匝瑳市吉田)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。
角田 和男(つのだ かずお、1918年(大正7年)10月11… 角田 和男(つのだ かずお、1918年(大正7年)10月11日 - 2013年(平成25年)2月14日)は、日本の海軍軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。太平洋戦争(大東亜戦争)における撃墜王。乙飛5期。最終階級は海軍中尉。 1918年(大正7年)10月11日、千葉県安房郡豊田村(現南房総市)で農家の次男として生まれた。 1924年(大正13年)、父が死亡。不況もあって家は貧しかった。1933年、高等小学校2年時に海軍予科練習生を受験して不合格となるが、国語の点数が足りないだけなので徴募官の大佐から来年の再受験を勧められ、卒業後、実家の農業を手伝いながら浪人生活を送り、翌年合格。 1934年(昭和9年)6月、晴れて予科練5期生(乙種飛行予科練習生)に入隊して横須賀空予科練習部にて訓練を受ける。
新村 勝雄(しんむら かつお、1918年(大正7年)5月1日… 新村 勝雄(しんむら かつお、1918年(大正7年)5月1日 – 2003年(平成15年)6月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(日本社会党)、野田市長。 千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)に、地主の長男として生まれる。東葛飾中学(現・千葉県立東葛飾高等学校)を卒業後、地元の産業組合職員、兵役を経て、教師を目指し東京高等師範学校に入学する。終戦後東京高師を中退して地元に戻り、「民主同志会」を立ち上げる。1946年社会党に入党。翌1947年福田村の村長に当選、3期務める。 その後野田市議(1957年より2期)を経て、1962年野田市長に当選する。市議会で多数派を占める保守系会派の抵抗に遭い、1970年まで8年間助役が置けなかった。
染谷 誠(そめや まこと、1918年3月3日 - 1992年… 染谷 誠(そめや まこと、1918年3月3日 - 1992年1月22日)は日本の政治家。元自由民主党衆議院議員(5期)。
一渡 明(いちわたり あきら、1918年1月11日 - 19… 一渡 明(いちわたり あきら、1918年1月11日 - 1974年12月9日)は、現在の千葉県我孫子市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は渡辺 明。164cm、102kg。最高位は東前頭18枚目。 1933年5月初土俵、1937年1月十両昇進。1939年1月新入幕したが、1943年5月に若くして廃業。その後は食堂を経営したが、交通事故が原因で店をたたみ旅館を経営していたが後遺症で死亡した。
比留間 豊(ひるま ゆたか、1918年1月6日 - 2002… 比留間 豊(ひるま ゆたか、1918年1月6日 - 2002年1月26日)は、日本の土木工学者。東京帝国大学(現在の東京大学)土木工学科卒。 技術開発、特に道路の機械化施工に取り組み、高速道路事業に大きな功績を残した。コンクリート製防護壁の発明者。土木学会名誉会員。建設省道路局道路公団監理官、株式会社間組常務取締役、東京道路エンジニア株式会社社長などを歴任。日韓トンネル研究会参与。1989年6月、勲三等瑞宝章受章。2002年1月26日、心不全のため死去、享年84。
浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1… 浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1985年5月26日)は、千葉県印旛郡成田町成田(現在の成田市本町)出身の野球選手、実業家、馬主。早稲田大学在籍時には「100万ドルの名外野手」と謳われた。 旧制成田中学校を経て1935年に早稲田大学に入学した。全国中等学校優勝野球大会での実績がないなか同大学の野球部に入部し、中堅手としてレギュラーに選出された。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業。1939年には現役の選手でありながら、唐津中学の監督に就任。これは、同校野球部の強化を望んでいた学校関係者が、同校卒業生で当時早大野球部に在籍していた下尾勝馬を通しての依頼であるという。当初は1週間ほどの予定であったが、指導に熱が入ったため、最終的には45日間にもわたる熱心な指導となった。
遠山 あき(とおやま あき、1917年10月24日 - 20… 遠山 あき(とおやま あき、1917年10月24日 - 2015年10月28日)は、日本の元作家。 千葉県大多喜町生まれ。千葉県女子師範学校(千葉大学の前身のひとつ)卒。小学校教員を務めるが、戦後は農業に専念した。1967年に農民文学会入会、1975年に『槇の会』を立ち上げて同人誌『槇』を発行。1978年「雪あかり」で千葉文学賞、1980年『鷺谷』で農民文学賞を受賞。1994年藍綬褒章受勲。 2015年10月28日午前4時40分、肺炎のため市原市の高齢者施設で死去。98歳没。2016年市原市特別市民栄誉賞を受賞。
風戸 健二(かざと けんじ、1917年7月 - 2012年6… 風戸 健二(かざと けんじ、1917年7月 - 2012年6月26日)は、日本の技術者、実業家。電子顕微鏡の開発と普及に努め、日本電子を設立した。 レーシングドライバーの風戸裕は次男。 千葉県長生郡茂原町(現・茂原市)に生まれる。1938年に海軍機関学校(46期)を卒業後、1944年11月からは海軍技術研究所電波研究部に勤め、奮龍の開発などに関わった。海軍在職時に、黒岩大助の著書『電子顕微鏡』を目にして電子顕微鏡への興味を抱いた。 太平洋戦争後に電子顕微鏡の開発研究に着手し、1949年に日本電子光学研究所(1961年に日本電子に改称)を設立して社長に就任した。1968年に日本電子顕微鏡学会会長を務める。
白鳥 三郎(しらとり さぶろう、1917年(大正6年)6月2… 白鳥 三郎(しらとり さぶろう、1917年(大正6年)6月26日 - 1988年(昭和63年)9月23日)は、昭和時代の政治家。埼玉県与野市長(第2代 - 第7代) 。さいたま市名誉市民。号・高丘独松。位階は正五位。 千葉県印旛郡久住村(現成田市)出身。1943年(昭和18年)日本ピストンリング技術学校卒業。1947年(昭和22年)日本社会党に入党し、与野町議会議員に当選し1期在任。1951年(昭和26年)埼玉県議会議員となり2期在任。1959年(昭和34年)以来、与野市長に6選した。在任中に下水道の普及を推進し、市域の下水道普及率はほぼ100%に達した。1983年(昭和58年)「後進に道を譲る」として収入役の井原勇を事実上の後継者に指名して市長を退任した。
長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 200… 長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 2003年4月28日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 参議院議長(第19代)、科学技術庁長官(第34代)、自由民主党参議院議員会長(第16代)、参議院予算委員長、参議院議員(4期)等を歴任した。元参議院議員の佐藤泰三は縁戚にあたる。 千葉県出身。東京府立第四中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。1939年、逓信省(後の郵政省、現総務省)に入省。企画課属。経理局担当審議官、経理局長、郵務局長などを経て、1966年7月1日より郵政事務次官。退官後、1968年の第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から出馬し、初当選した。
大迫 辰雄(おおさこ たつお、1917年〈大正6年〉- 20… 大迫 辰雄(おおさこ たつお、1917年〈大正6年〉- 2003年〈平成15年〉)は、日本交通公社職員。千葉県千葉市出身。第2次世界大戦中の日本において、ユダヤ人を安全に亡命させるために尽力した人物の一人。 1939年(昭和14年)、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第2次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツが占領地にてホロコースト等のユダヤ人迫害政策を行う中、ヨーロッパのユダヤ人は西ヨーロッパへの逃げ道を失い、東欧、そしてソ連方面へと逃れた。在米ユダヤ人協会がアメリカ合衆国連邦政府の許可を受け、米ウォルター・プラウンド社(後に英トーマス・クック社に合併)を通して、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社、JTB)にユダヤ人輸送の斡旋協力を依頼する。
笠原 一男(かさはら かずお、1916年6月2日 - 200… 笠原 一男(かさはら かずお、1916年6月2日 - 2006年8月19日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。 長野県南佐久郡北牧村(現在の小海町)出身。笠原竜蔵・せきの長男。旧制千葉県立東葛飾中学校を経て、1938年に旧制新潟高等学校、1941年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業。 卒業後は東京帝国大学史料編纂所に勤務。翌年に応召。1947年に復員し、東京大学史料編纂所に復帰した。1960年に同助教授、1961年、東京大学教養学部助教授、1962年に「一向一揆の研究」により東京大学から文学博士の学位を取得。1966年に教授。 1977年に定年退官。発足間もない放送大学教授になり、1990年に退任して客員教授。
岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 -… 岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月19日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は佐々木 辰夫(ささき たつお)。愛称は「オカッパル」「オカッパレ」 千葉県木更津市に生まれる。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで、成績はいつも「丙」だったという。6年生の時に音楽の先生から人前で歌を歌うことを勧められ、歌うことに興味を持ったという。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その一年後には上野松坂屋に勤める。 1934年(昭和9年)に、上原げんとと出会い、その後に妻となる奥田清子とも出会う。
峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本… 峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本の女子陸上競技選手、高等女学校教師。1936年ベルリンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本選手権覇者。女子スポーツ黎明期に欧米の選手の好敵手として五輪で入賞した名選手として知られる。 資料によっては「峯島秀」、「峰島秀子」と表記するものもある。 千葉県千葉市出身で、千葉第一尋常高等小学校(現・千葉市立新宿小学校)を経て千葉県立千葉高等女学校(現・千葉県立千葉女子高等学校)に進学する。千葉高女2年生の頃よりテニスをはじめ、1931年には県下女子庭球選手権大会で、1932年には関東女子競技大会で優勝を果たした。また投擲(とうてき)種目もこの頃より始め、高女3年には学友会誌に「スポーツ界の現状を直視して」と題した論文を寄せるなど文才も発揮し、「人見二世」と呼ばれた。
青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 201… 青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 2010年5月30日)は、日本のスポーツ指導者、日本陸上競技連盟第5代会長。日本体育協会第11代会長。また国際陸上競技連盟とアジア陸上競技連盟でも役員を歴任し、副会長を務めた。後に終身名誉副会長。 千葉県長生郡太東村(現いすみ市)出身。旧制銚子商業学校(現在の千葉県立銚子商業高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に早稲田大学商学部を卒業。 日立製作所に入社し、同年日本陸上競技選手権大会の砲丸投競技で優勝。その後は三徳工業、昭和電工を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)青木金属興業株式会社を設立。 会社経営の傍ら、母校の早稲田大学競走部監督を務めた。
奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23… 奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23日 - 2006年(平成8年)3月6日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。本名:久本 智重子(ひさもと ちえこ)。 千葉県千葉市出身。1937年(昭和12年)東京音楽学校本科卒業。1939年(昭和14年)同校研究科修了。世代柄『此の決意』(テイチク1943年2月新譜、東海林太郎・奥田智重子)等の軍歌の録音もある。 1949年(昭和24年)東京でリサイタル・デビュー。1953年(昭和28年)渡独、フライブルク音楽大学で学ぶ。1955年(昭和30年)同大学卒業。1955年(昭和30年) - 1958年(昭和33年)同大学マイスターコース修了。
和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月1… 和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月13日 - 1977年(昭和52年)4月7日)は日本の歴史学者、民俗学者。東京教育大学名誉教授。専門は日本の民衆史・修験道史。
坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐… 坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐ 1996年〈平成8年〉7月5日)は、日本の実業家。三井不動産の社長や会長を22年間務め、ツーバイフォー工法の導入や東京ディズニーランド開園事業に携わったほか、三井ホーム社長、世界不動産連盟会長、不動産協会理事長、不動産流通経営協会理事長等の公職も務めた。 千葉県市川市生まれ。旧制東京府立第三中學校(のちの都立両国高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業。のちに三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成した。
市原 松平(いちはら まつへい、1915年3月30日 - 2… 市原 松平(いちはら まつへい、1915年3月30日 - 2001年4月11日)は、日本の土木工学者。京都帝国大学工学部卒業。名古屋大学名誉教授。土木学会名誉会員。地盤工学会名誉会員。土圧・間隙水圧の計測方法に関する研究を行い多面土圧計などの計測機器を開発。特に土圧研究の分野で多くの業績を上げた。勲二等瑞宝章受章。 1915年(大正4年)、現在の千葉県佐倉市に生まれる。旧制千葉県立佐倉中学校(現:千葉県立佐倉高等学校)、旧制大阪高等学校(現:大阪大学一般教養部)を卒業。 1941年(昭和16年)12月、京都帝国大学工学部土木工学科卒業。内務省国土局に採用される。 1942年(昭和17年)2月、近衛工兵連隊に現役兵として入隊。
北見 禮子(きたみ れいこ、1915年2月13日 - 200… 北見 禮子(きたみ れいこ、1915年2月13日 - 2007年)は、日本の女優である。新漢字表記北見 礼子、出生名・旧芸名稲村 美津子(いなむら みつこ)、結婚後本名林 美津(はやし みつ)。夫は林敏夫、長男は林与一である。 1915年(大正4年)2月13日、千葉県東葛飾郡野田町(現在の同県野田市)に生まれる。 1932年(昭和7年)3月、野田町立野田高等女学校(現在の千葉県立野田高等学校)を卒業し、同年4月、東京・巣鴨の河合映画製作社に入社、同年6月10日に公開された吉村操監督の『大磯心中 天国に結ぶ恋』に出演して、映画界にデビューした。同年10月20日に公開された根岸東一郎監督の『下宿屋の娘』で、初めて主役に抜擢される。
千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - … 千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - 没年不詳)は、千葉県野田市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は長妻 高治。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1929年1月「野田ノ里」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「千葉昇」に改めた。十両は連続6場所務めた。幕下に落ちた1942年1月に廃業した。
長谷川 録太郎(はせがわ ろくたろう、1914年〈大正3年〉… 長谷川 録太郎(はせがわ ろくたろう、1914年〈大正3年〉11月24日 – 2001年〈平成13年〉11月25日)は、千葉県の政治家・実業家。6-11代目成田市長、長谷川呉服店社長。成田市名誉市民。 江戸時代から続く成田山新勝寺門前町の呉服屋に生まれる。 私立成田中(現・成田高等学校)卒業後、浅草の「大丸呉服店」で丁稚奉公する。召集され、中国大陸を転戦。 1949年に新勝寺檀家総代に選出され、成田市商工会長を務めるなど、復員後は成田の政財界で活動するようになる。 病気で辞任した藤倉武男の後任として1971年(昭和46年)から6期24年にわたり成田市長を務め、成田空港問題を始めとする困難な市政の中、都市基盤整備に尽力し国際都市を目指すとともに、福祉施設の整備、空港の騒音対策等の住民福祉の増進に貢献した。
小林 友一(こばやし ゆういち、1914年(大正3年)10月… 小林 友一(こばやし ゆういち、1914年(大正3年)10月12日 - 1984年(昭和59年)3月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は少佐。 1914年(大正3年)10月に千葉県君津郡周南村に大古範蔵の末子(5男1女)として生まれる。 1927年(昭和2年)4月に東京府立第六中学校入校(同級生に千葉県知事を務めた友納武人がいる)、同年5月に小林信一(14期)の養子となる。養父・信一は、1919年(大正8年)当時に歩兵第57聯隊副官(歩兵大尉)として、聯隊長林銑十郎歩兵大佐(8期)に仕えた。のちに林銑十郎の三男・礪三(終戦時は第316師団参謀、少佐、46期)は近衛歩兵第1聯隊附として、小林と同聯隊で勤務している。
藤代 七郎(ふじしろ しちろう、1914年(大正3年)9月2… 藤代 七郎(ふじしろ しちろう、1914年(大正3年)9月27日 - 1999年(平成11年)5月25日)は、日本の政治家。自民党所属。千葉県船橋市長(第12 - 13代)。位階は従五位。 千葉県千葉郡豊富村(現在の船橋市古和釜町)出身。父・藤代清七は、旧豊富村長を務めた。前船橋市長の藤代孝七は実子。強固な後援会『南風会』を組織し、渡辺三郎市長を破って初当選。船橋市長在任中、千葉県市長会会長を務めた。1999年死去。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
横銭 重吉(よこぜに じゅうきち、1914年〈大正3年〉3月… 横銭 重吉(よこぜに じゅうきち、1914年〈大正3年〉3月4日 - 1978年〈昭和53年〉6月22日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)出身。福田高等小学校卒業後野田醤油に入り、その傍ら野田商業補習学校に通い、卒業した。戦後、野田醤油に労働組合が結成され、これに加入し、書記長、副委員長、執行委員長になる。千葉県議、千葉県労働金庫理事長も務めた。1955年の第27回衆議院議員総選挙において千葉1区から日本社会党左派公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1958年の第28回衆議院議員総選挙で落選した。1978年死去。没後、従五位勲四等旭日小綬章が贈られた。
稲葉 襄(いなば のぼる、1914年2月15日 - 2006… 稲葉 襄(いなば のぼる、1914年2月15日 - 2006年1月8日)は、日本の経営学者。神戸大学名誉教授、広島経済大学名誉教授。経営学博士。専門は中小工業経営・家庭経済学・仏教的企業経営学。 神戸女子大学、武庫川女子大学、神戸女子薬科大学でも非常勤講師を務めた。 1914年、千葉県市原市舞鶴に生まれる。1931年、千葉県立大多喜中学校卒業。1934年、和歌山高等商業学校(現、和歌山大学経済学部)卒業。1937年、神戸商業大学 (旧制)(現神戸大学)卒業、同大学研究科に進学し、1939年修了。同年、和歌山高等商業学校講師に就任。1940年同校教授。 1944年軍需省軍需監理官、1946年商工省近畿地方商工局事務官を経て、同年、神戸経済大学附属経営学専門部講師・教授。
大和久 彪(おおわく たけし、1914年1月23日 - 19… 大和久 彪(おおわく たけし、1914年1月23日 - 1956年8月25日)は、将棋棋士。贈八段。石井秀吉七段門下。千葉県千葉市出身。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
石原 繁三(いしはら しげぞう、1914年1月17日 - 1… 石原 繁三(いしはら しげぞう、1914年1月17日 - 1946年4月)は、千葉県出身のプロ野球選手(投手)。戦後東映フライヤーズで内野手として活躍した石原照夫は弟に当たる。 1930年に埼玉県の川越中学校から岩手県の遠野中学校へ転校。1932年に遠野中のエースとして東北大会を優勝し、第18回全国中等学校優勝野球大会へ出場した。卒業後に鉄道省へ入る。 1936年に東京セネタースへ入団。岩手県の学校卒業者として初のプロ野球選手となった。この年の春季リーグで9試合に登板し4勝を記録。翌年に召集されるが、1940年に復帰。1941年は大洋軍へ移籍し、同年すぐに黒鷲軍へ移籍。1942年に20勝を記録した。
石井 秋雄(いしい あきお、1914年 - 没年不明)は、千… 石井 秋雄(いしい あきお、1914年 - 没年不明)は、千葉県出身のプロ野球選手。
高橋 誉冨(高橋 譽冨、たかはし たかよし、1913年9月2… 高橋 誉冨(高橋 譽冨、たかはし たかよし、1913年9月29日 - 2003年5月13日)は、日本の政治家。参議院議員(1期、自由民主党)。 千葉県出身。1937年千葉県師範学校(現千葉大学教育学部)卒。卒業後は千葉県内の小学校で教鞭を執り、その後は、習志野市立津田沼小学校校長や船橋市立二宮中学校校長を務めた。[要出典]1963年千葉県議会議員(八千代市)を経て、1974年の第10回参議院議員通常選挙(千葉地方区)で初当選、当選1回。福田赳夫内閣で北海道開発政務次官を務めた。1980年に引退。1984年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。 2003年5月13日午前2時39分、肺炎のため千葉県八千代市の病院で死去、89歳。
大野 茂男(おおの しげお、1913年8月30日 ‐ 200… 大野 茂男(おおの しげお、1913年8月30日 ‐ 2004年1月6日)は、日本の国文学者。江戸文学から明治大正期の文学まで、幅広く研究した。 千葉県千葉市生まれ。旧制千葉県立千葉中学校(現県立千葉高校)、静岡高等学校を経て、1938年、東京帝国大学文学部国文科卒業。県立千葉高等女学校教諭、文部省内日本語教育振興会研究員を経て、1943年、清水高等商船学校教授。同校在籍のまま、歩兵第二補充隊に応召され、後に第三十一飛行場中隊に転属。1946年復員。1947年千葉師範学校教授、1950年千葉大学文理学部助教授、1966年同教授、1968年千葉大学教養部教授(人文学部兼担)。1979年、停年退職して名誉教授、東洋大学文学部教授。
清川 虹子(きよかわ にじこ、1912年11月24日 - 2… 清川 虹子(きよかわ にじこ、1912年11月24日 - 2002年5月24日)は、日本の女優。本名:関口 はな。千葉県東葛飾郡松戸町(現:松戸市)出身。淡路尋常小學校卒業、神田高等女學校中退。 1924年、東京府東京市神田区の尋常小學校を卒業。神田高等女學校を中退。1928年、川上貞奴主宰の児童劇団へ入団し、貞奴最後の弟子となる。1929年、市民座へ入り、座員の中条金之助と結婚(1男を儲けるが、のちに離婚)。同年、山村聡主宰の新劇へ移籍。1933年、笑の王国に参加。1934年、東宝製作の『只野凡児・人生勉強』でスクリーンデビュー。1942年、東宝社長の大沢善夫の弟である大沢清治と結婚して芸能界を引退したが、1947年に夫と死別。
平野 峯郎(ひらの みねろう、1912年9月19日 - 20… 平野 峯郎(ひらの みねろう、1912年9月19日 - 2002年12月22日)は、日本の歌人。千葉県君津郡貞元村生まれ。北原白秋が主宰する多磨短歌会の会員などを経て、1952年より山本康夫に師事。君津市の鹿野山には峯郎の短歌を刻んだ歌碑が建てられている。 1912年、千葉県君津郡貞元村(現・君津市貞元)生まれ。貞元小学校および農業補習学校卒。農村地帯に生まれ、自らも農業を生業としたが、一方で1928年ごろから作歌活動を開始し、雑誌『千葉県青年処女』(千葉県連合青年団)の歌壇(伊藤公平選)や、千葉県農会機関誌『愛土』の歌壇(鈴木康文選)に短歌を投稿する。その後、1940年に北原白秋が主宰する多磨短歌会(1935年結成)の会員となる。
蕗沢 忠枝(ふきざわ ただえ、女性、1912年9月4日 - … 蕗沢 忠枝(ふきざわ ただえ、女性、1912年9月4日 - 2001年)は、日本の翻訳家。 千葉県夷隅郡大多喜町出身で、旧姓は川崎 忠枝。1935年東京女子大学英文科卒業。武蔵野音楽学校講師を経て内務省勤務。推理小説、児童文学など英語文学を翻訳した。日本翻訳家協会理事(1965年、1966年時点)。「マガーク少年探偵団シリーズ」 で日本翻訳出版文化賞を受賞している。 夫の蕗沢紀志夫()(旧名:蕗沢喜芳())は、東京高等工業学校附設工業教員養成所(応用化学科)出身で、のちに英文学翻訳家、日本大学芸術学部講師となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月… 馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月28日 - 1993年〈平成5年〉1月6日)は、日本の医学博士、昆虫学者。新潟県で黒川病院、村上精神病院を設立し医療に貢献、また昆虫の研究に多大な業績を残した。 1912年(明治45年)、千葉県安房郡富浦町(現南房総市)に生まれる。旧姓は酒井。小学生の頃に、医院をひらいていた馬場家の養子として、新潟県北蒲原郡黒川村に移る。1930年(昭和5年)に新発田中学を卒業、1935年(昭和10年)に新潟高等学校を卒業する。1939年(昭和14年)に新潟医科大学を卒業後、同大学の解剖学教室の助手に任ぜられるが、10月に召集を受ける。軍医として中国に駐在していたが1946年(昭和21年)6月に復員し、1947年(昭和22年)5月に『南支広東「デルタ」に於ける「アノフェレス」蚊の「マラリア」流行病学的研究』で医学博士の学位を取得する。
寺島 隆太郎(てらしま りゅうたろう、1912年3月 - 1… 寺島 隆太郎(てらしま りゅうたろう、1912年3月 - 1964年7月31日)は、衆議院議員(8期)。正四位勲二等。
佐藤 碧子(さとう みどりこ、1912年2月15日 - 20… 佐藤 碧子(さとう みどりこ、1912年2月15日 - 2008年7月5日)は、日本の作家。小磯なつ子の筆名を持つ。また佐藤みどりと表記し、「碧子」で「みどり」と読ませたりする。菊池寛の愛人でもあり秘書、代作を行った。 本名・石井光枝。東京市下谷区龍泉寺生まれ。精華高等女学校卒。文藝春秋社に入社、菊池寛の秘書を務める。小説も書き、またその代作を行い『新道』などは佐藤の作である。川端康成にもかわいがられた。六興出版社長となる石井英之助と結婚。戦後1950年小磯なつ子の筆名で「雪化粧」により直木賞候補。1961年『人間・菊池寛』を刊行。 猪瀬直樹が菊池伝『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』を『文學界』2002年4月号から2003年12月号まで連載中、佐藤の甥(姉の息子)である矢崎泰久に『人間・菊池寛』からの「剽窃であり、盗作とも言える」と言われたこともあって、連載途中で猪瀬は佐藤との対談を行って協力を得ていたことを明らかにした。
薗部 儀三郎(そのべ ぎさぶろう、1911年〈明治44年〉1… 薗部 儀三郎(そのべ ぎさぶろう、1911年〈明治44年〉11月6日 - 2024年〈令和6年〉3月31日)は、日本の教育者、司書、スーパーセンテナリアン。2022年11月15日以降から死去するまで日本国内の男性最高齢者であった。千葉県の人物が日本最高齢になったのは、史上初と見られる。 南房総市立三芳中学校や千葉県立安房水産高等学校(現在の千葉県立館山総合高等学校)に長年国語科と社会科の教員として勤めていた。定年後は司書として図書館に再就職し、80歳で退職した。教員だった1960年には御湯殿上日記等の文学類の書籍を執筆していた。 100歳の誕生日には、かつての教え子たちが同窓会を開いて祝福した。
小川 瓦木(おがわ がぼく、1911年〈明治44年〉9月20… 小川 瓦木(おがわ がぼく、1911年〈明治44年〉9月20日 - 2000年〈平成12年〉9月12日)は、日本の書家。 千葉県白井村今井(現在の白井市)出身。。 1935年 (昭和10年)、前衛的書家、上田桑鳩に師事。 。 2000年9月12日、心不全のため死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
斎藤 信夫(さいとう のぶお、1911年3月3日 - 198… 斎藤 信夫(さいとう のぶお、1911年3月3日 - 1987年9月20日)は、日本の童謡作詞家。「里の秋」などの作詞で知られる。 小学校の教諭をしながら童謡の創作を続けた童謡作詞家である。終戦を境に神州不滅の皇国史観教育をしてきた自分を反省し、教職を辞めてしまうという気骨を持った人物であったが、童謡を通じて子供や動物を見る目は暖かかった。終戦直後に発表した童謡「里の秋」を作詞したことで知られ、生涯の詩作は1万余篇に及ぶ。勲五等双光旭日章を受勲。 1911年3月3日、千葉県山武郡南郷村(現:山武市五木田)に生まれる。南郷尋常小学校(現:山武市立南郷小学校)卒業。1930年、千葉師範学校(現:千葉大学教育学部)第二部に入学し、1931年に卒業し小学校に奉職する。
佐山 亮(さやま りょう、1911年2月16日 - 1945… 佐山 亮(さやま りょう、1911年2月16日 - 1945年)は、日本の俳優である。本名は板倉 與志雄(いたくら よしお)。戦前・戦中にかけて東宝映画東京撮影所、東宝映画の名脇役として活躍していたが、満34歳で戦病死している。 1911年(明治44年)2月16日、千葉県山武郡に生まれる。 千葉県立長生中学校(現在の千葉県立長生高等学校)を卒業後、東京美術学校(1952年廃止)を経て、太平洋美術学校(現在の太平洋美術会)に進学。1928年(昭和3年)4月、三ヶ年修了後は太平洋洋画会などの洋画研究所を転々とする傍ら、学生同士で新劇の劇団を組織して各座に出演していた。 1934年(昭和9年)11月、映画俳優を志し、松竹大船撮影所の開所に伴う俳優募集に応募したところ、佐山は第一候補者に挙げられ、1936年(昭和11年)に開校されて間もない松竹大船俳優学校に入学し、修業に励む。
布引 國太郎(ぬのびき くにたろう、1910年3月5日 - … 布引 國太郎(ぬのびき くにたろう、1910年3月5日 - 没年不明 )は、千葉県富津市出身で粂川部屋、双葉山道場に所属した元大相撲力士。本名は伊藤 國太郎(いとう くにたろう)。最高位は東十両3枚目。得意技は突っ張り、押し、左四つ、投げ。 粂川部屋に入門し、1929年3月場所に初土俵を踏む。入門当初は「富錦」の四股名であった。「錦岩」の四股名で1934年5月場所に十両に昇進。十両は連続で3場所務めたが、1936年1月場所に幕下に陥落。翌5月場所に十両に復帰したが1勝10敗と大きく負け越し、またしても幕下に陥落した。1939年5月場所に再度十両に復帰、四股名を「布引」に改めた。十両は連続して6場所務めたが、1942年1月場所は3勝12敗と大きく負け越し、この場所限りで廃業した。
加瀬 完(かせ かん、1910年〈明治43年〉1月1日 - … 加瀬 完(かせ かん、1910年〈明治43年〉1月1日 - 1995年〈平成7年〉2月28日)は、日本の政治家。参議院議員・参議院副議長。我孫子市名誉市民。 1910年、現在の千葉県匝瑳市に生まれる。 1920年千葉師範学校(現・千葉大学教育学部)卒業。 小学校・中学校の教員となり、県視学であった鈴木迪彦による抜擢で1938年我孫子第二小学校長に28歳にて就任、以後、我孫子第一小学校長や我孫子第一中学校長を歴任した。千葉県教育委員会委員長も務める。 教育の民主化を目指して政界へ進出し、1947年から千葉県議会議員を務める。 1953年4月の参院選に無所属で出馬し初当選。当選後は左派社会党を経て日本社会党に所属。
富澤 誠造(とみざわ せいぞう、1910年(明治43年)- … 富澤 誠造(とみざわ せいぞう、1910年(明治43年)- 1978年(昭和53年))は、千葉県出身のゴルフ場設計者。 富澤誠造は、1910年(明治43年)、千葉県東葛飾郡に生まれ、1924年(大正14年)14歳で、「武蔵野カンツリー倶楽部・六実コース」(1930年(昭和5年)、「武蔵野カンツリー倶楽部・藤ヶ谷コース」開場、1944年(昭和19年)閉鎖)のグリーンキーパーとして働いた。 1950年(昭和25年)、ゴルフ場の工事を得意とする安達建設の設計部に入社、井上誠一の下で「川崎国際カントリー倶楽部」(現・川崎国際生田緑地ゴルフ場)の工事監督として働きながら、井上からゴルフ場の設計を学んだ。 1957年(昭和32年)、富澤のコース設計第1号である「千葉カントリークラブ・川間コース」が開場した。
大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - … 大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - 1979年1月1日)は、現在の千葉県銚子市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は若山 勝治。167cm、107kg。最高位は東前頭4枚目。 1927年1月初土俵、1932年1月十両昇進、1932年2月新入幕(春秋園事件の余波)したが、1933年5月に廃業した。もろ差しからの速攻を磨き、幕下時代には6戦全勝の優勝同点も記録した。春秋園事件の影響で幕内に上がったが、地力が伴わず4場所とも勝ち越せなかった。廃業後は千葉県内で鮮魚店を営み、巡業の勧進元を務めた。
石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日… 石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日 - 1943年〈昭和18年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家、千葉県多額納税者。計器製作業、合資会社石橋計器製作所代表社員。 千葉県香取郡本大須賀村久井崎(のち昭栄村、大栄町、現成田市)出身。石橋敬五郎の長男。石橋計器を創立、自動車関係メーターの製作に従事する。 本大須賀教育会長、村会議員、郡農副会長、県山林会評議員、郡産業組合共同処理所管理組合長、郡家禽購買販売利用組合長、東京市葛飾産業報国連合会理事、千葉木材工業社長、石橋計器製作所長、北総自動車合同、成鉄タクシー、常総合同運輸各取締役をつとめる。 その他、1935年〈昭和10年〉3月、千葉県立中央図書館落成記念として、父敬五郎蒐集の漢籍類1,041冊を寄贈したことでも知られる。
伊藤 源之助(いとう げんのすけ、1909年6月 - 198… 伊藤 源之助(いとう げんのすけ、1909年6月 - 1986年12月20日)は、歌人。