竜ヶ嵜 枩太郎(りゅうがさき まつたろう、1884年1月20… 竜ヶ嵜 枩太郎(りゅうがさき まつたろう、1884年1月20日 - 1947年2月19日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で阿武松部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は齋藤 松太郎。167cm、90kg。最高位は西小結。 紫雲竜吉之助に見出され入門した。1904年5月初土俵、1909年6月十両昇進。1910年1月入幕し、1913年5月小結に昇進した。ところがそれから不振に陥り、幕内中位から下位に沈み、1918年1月限り廃業。その後は満洲、朝鮮半島で料亭を経営。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4… 加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月5日)は、日本の政治家、教育者、日本大学常任理事、日本大学副会頭、日本大学第一学園初代理事長。千葉市長(第5、9、10代)、参議院議員(1期)。 1883年、千葉県下埴生郡小菅村(印旛郡遠山村を経て現成田市小菅)の農家 藤崎家の三男として誕生。1898年、成田英漢義塾(同年10月にに私立成田中学校として認可)に入学。1903年卒業。國學院大學高等師範部に入学するも、同年9月に日本大学高等師範部(現在の文理学部)へ転入学。1906年同校を卒業すると、日本大学専門部法律科入学。在学中の1908年11月30日、加納家の長女由香と結婚し、加納家の養子となる。
紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日… 紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日 - 1946年4月28日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋、阿武松部屋に所属した力士。本名は斎藤 吉次郎。9代出来山、7代阿武松。172cm、86kg。最高位は東前頭筆頭。大見嵜八之助の甥。 1898年1月初土俵、1904年1月十両昇進。1907年5月入幕し、1908年5月には7勝2預の優勝相当の成績を収めた。1917年1月に引退し、出来山を襲名、出羽一門に属した。伯父が没したのち、阿武松を襲名した。 改名歴なし(番付上の表記揺れを無視した場合) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年… 永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年) - 1951年(昭和26年))は、日本の画家。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医学部、現在の九州大学医学部)解剖教室標本描画嘱託。本名は永倉茂。初号は江村人。 1881年(明治14年1月14日)千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、1898(明治31)年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学、当時日本画助教授『横山大観』に師事、日本画を習う、学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。
塩田 武雄(しおた たけお、1881年 - 1943年12月… 塩田 武雄(しおた たけお、1881年 - 1943年12月3日)は、ブルックリン植物園内日本庭園、日本式ヒル・アンド・池庭(Japanese Hill & Pond Garden)の作庭で知られる日系アメリカ人造園家。おもにアメリカ東海岸各地で日本庭園を手がけた。ニューヨーク州の近郊に残る大多数の日本庭園は塩田によるもので、彼が生涯に手がけたと知られている庭のうち約半数は未だに残っているというが、その多くは手入れをされずに放置されている。 千葉県夷隅郡大多喜町の裕福な農家に生まれ、地元の大多喜中学校、現在の千葉県立大多喜高等学校を卒業後、造園業に就き造園技術を習得。1907年新天地を求め26歳で当時日本庭園を造ることが一種のブームであったアメリカに来る。
川口 為之助(かわぐち ためのすけ、川口爲之助、1881年 … 川口 為之助(かわぐち ためのすけ、川口爲之助、1881年 - 1962年2月23日)は、大正・昭和期の日本の政治家。千葉県印旛郡志津村(現在の佐倉市上志津)出身。日本国憲法制定後の初代民選千葉県知事(通算では36代目)。後に参議院議員。
蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月2… 蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月20日 - 1922年〈大正11年〉10月14日)は、日本の歌人・造林家。号は蕨真(けっしん)、礎山(そざん)。 上総国武射郡埴谷村(現在の千葉県山武市)出身。五代続く林業家で、県内有数の大山林地主であった。 東金の漢学者・吉井宗元の漢学塾「南総斯文学会」に学ぶ。1901年(明治34年)、同じ武射郡出身で友人であった伊藤左千夫の紹介により、正岡子規の門下生となる。子規没後の1903年(明治36年)、根岸短歌会の機関誌『馬酔木』の編集委員となる。真一郎は『馬酔木』創刊にあたっての有力な経済的支援者だった。1906年(明治42年)に埴岡短歌会を設立し、地元歌人の作品を『馬酔木』上で紹介するようになった。
兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1… 兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1876年)7月19日 - 昭和22年(1947年)4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。
赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 195… 赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 1954年12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 194… 津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。
松戸 覚之助(まつど かくのすけ、1875年5月24日 - … 松戸 覚之助(まつど かくのすけ、1875年5月24日 - 1934年6月21日)は、明治から昭和にかけての梨農家。千葉県葛飾郡大橋村(後に八柱村、現在の松戸市)の人。「二十世紀」の発見者。 11歳の時に父親が新たに梨の栽培を始めた事から梨に興味を持つ。高等小学校2年(13歳)の時、分家の石井佐平の家を訪れた際にゴミ捨て場に芽を出している梨の苗木があるのを発見した。覚之助は石井より苗木を譲り受けて自宅に植えた。試行錯誤の末、23歳となった1898年に結実した。 覚之助は人を招いて試食したところ、多汁で甘く、肉質も柔らかであるとの評価を受けた。話を聞いた大隈重信も試食に与かったところ、高い評価を与えた。
岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17… 岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17日 - 1956年(昭和31年)9月2日)は、日本の気象学者。第4代中央気象台長を多年に亘り務めた。「気象学の父」とも呼ばれる。 千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て、現在の我孫子市布佐)の海産物を扱う商家に生まれる。6歳で布佐初等小学校に入学、課外に和算を学ぶ。14歳で上京し、東京府立尋常中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学し、19歳で卒業し、第一高等中学校に入学。物理学を中村清二らに学ぶ。同級に桑木或雄(あやお)らがいる。このころ利根川の水害が多発したこともあり、防災科学や気象学に関心を寄せる。 1899年(明治32年)、26歳で東京帝国大学理科大学物理学科を卒業し、ただちに中央気象台(現在の気象庁)に勤務。
牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月… 牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月17日 - 1943年(昭和18年)12月7日)は、日本の実業家。不動貯金銀行(のちの協和銀行、りそな銀行)創業者・元頭取。定期積金を考案し業績を拡大させ「貯金王」などと呼ばれた。族籍は東京府士族。 千葉県君津郡久留里町(現君津市)出身。旧久留里藩士・牧野治の長男。父・牧野治は明治維新後は警察官吏となり、牧野が小学校に入学する頃には千葉県内の各地に赴任、警察署長も務めた。 1886年、印幡郡土室村の北総英漢義塾に入学。更に高等商業学校(のちの一橋大学)に進むも、過度の勉学への意志が牧野の精神を侵し病気となったことから中退。病も癒えた1894年に成田町に創立された成田銀行に勤めた。
香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954… 香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。 帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。 千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。
髙見山 酉之助(たかみやま とりのすけ、1873年10月25… 髙見山 酉之助(たかみやま とりのすけ、1873年10月25日 - 1924年1月11日)は、新治県海上郡(現在の千葉県銚子市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は吉岡 酉之助。最高位は関脇(1910年1月場所)。現役時代の体格は身長173cm、体重139kg。 高砂部屋に入門し1895年(明治28年)6月場所から番付に記載される。四股名は加増山(かぞうさん)であった。 1907年(明治40年)1月場所新入幕、この時33歳であった。1910年(明治43年)1月場所関脇。巨体を生かして左四つに組み止め、ジワジワ寄る典型的な四つ相撲の取り口だが「鈍州」と呼ばれるほど、勝ちみが遅いため速攻や技能派力士を苦手としていた。
石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日… 石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月29日)は、昭和期の日本の篆刻家・書家である。 幼名は石松、長じて碩と改名。雙石を号とした。千葉県山辺郡四天木村(現・大網白里市四天木)の生まれ。 四天木村の石井太郎兵衛の三男として誕生。石井家は九十九里浜の大網元・斉藤巻石(四郎右衛門)とは縁戚にあたり、石松少年は度々斎藤家を訪れ、収蔵された書画・美術品に触れることができた。この頃から細かいことが大好きで小刀を持ち歩いては様々な物に彫りつけたという。四天木学校に四年間通うと儒家島田順堂に素読を習い漢学の基礎を身につけた。14歳には父の務めている役場で書記見習いとして帳簿や土地台帳の整理を行っている。
安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872… 安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和28年(1953年)9月7日)は、日本の実業家、政治家。千葉県会議長。日本養鮑(名)社長。東京瓦斯会長を務めた安西浩は長男。昭和電工社長を務めた安西正夫は次男。孫に東京瓦斯相談役を務めた安西邦夫や実業家の安西孝之などがいる。 千葉県夷隅郡清海村(のち興津町、現勝浦市)出身。父・八郎兵衛は漁師だった。後に次男安西正夫と森矗昶長女の満江が結婚して安西家と森家は親族同士となるが、正夫・満江それぞれの祖父である八郎兵衛・森為吉両人とも、勝浦の有力な網元だった(安西浩#安西家も参照)。 二松學舍修業。日露役に従軍する。郡会議長、県参事会員同議長町長。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月… 加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月27日) - 1948年(昭和23年)3月5日)は日本の教育者である。 安房国八幡(現・千葉県館山市)に生まれる。父は長尾藩士。渡辺裁縫塾で学び1890年に卒業する。1893年に小学校裁縫専科正教員の免許を取得する。1894年東洋英和女学校(現・学校法人東洋英和女学院)の裁縫教師になる。 1896年東洋英和女学校の寄宿舎監に就任する。J・K・マンローらの指導により、1897年に洗礼を受ける。1936年に引退するまで、42年間教師と舎監を務め、学校の主婦役、母親役であった。
小倉 武之助(おぐら たけのすけ、明治3年8月12日(187… 小倉 武之助(おぐら たけのすけ、明治3年8月12日(1870年9月7日) - 1964年(昭和39年)12月26日)は、明治時代から昭和時代にかけて朝鮮で活動した実業家、美術品収集家。 千葉県成田市出身。父親の小倉良則は北総英漢義塾を創立後、1892年から衆議院議員を3期務め、成田鉄道、成田銀行を設立した実業家。東京帝国大学卒業後、日本郵船に入社。のち京釜鉄道に入社し、1904年朝鮮に渡った。給料を元手に土地を買い、地価上昇で巨利を得て、大邱の資産家として電気事業に進出する準備を始めた。1905年2月京釜鉄道を退社。 1909年、地元資産家と共同で電気事業を出願し、朝鮮総督府より許可を得て大邱市電気会社を設立、株式の過半を出資していたため社長に就任した。
血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3… 血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 1947年(昭和22年)2月24日)は、日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。また、野口英世のパトロンとして知られる。
五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日… 五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日(明治3年1月29日) - 1925年4月3日)は、千葉県夷隅郡江場土村(現在のいすみ市)出身で宮城野部屋、勝ノ浦部屋に所属した力士。6代宮城野。世話人。本名は佐久間 菊太郎。最高位は東前頭8枚目。 京都相撲に在籍経験がある。1896年1月初土俵、1906年1月十両昇進。1907年1月には高見山酉之助らとともに入幕を果たした。この時37歳。しかし、在位はわずかに4場所で、現役晩年は番付が次第に下がり、最終的には三段目にまで陥落してしまい、1913年5月に引退して親方業に専念(すでに二枚鑑札だった)。1916年1月には廃業し、世話人に転じた。
大久保 忠均(おおくぼ ただひら、1868年10月24日(明… 大久保 忠均(おおくぼ ただひら、1868年10月24日(明治元年9月9日) - 1909年(明治42年)10月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 下総国相馬郡高柳村(のち千葉県南相馬郡風早村→東葛飾郡風早村→東葛飾郡沼南村→沼南町、現在の柏市)に生まれる。儒学者蒲生重章に漢学を学ぶ。風早村書記、同村会議員、東葛飾郡会議員、千葉県会議員、同参事会員、地方衛生会員、所得税調査委員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において千葉県から立憲政友会公認で立候補して初当選する。1903年の第8回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。その後は東葛飾郡農会幹事長、同副会長となり、1907年風早村長に就任した。
伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867… 伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867年11月21日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶… 鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶應3年9月10日〉 - 1925年〈大正14年〉12月8日)は、現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)で浦風部屋及び高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は今関 鉄五郎。身長体重は不明。最高位は東前頭13枚目。色黒で無愛想な容貌から「鬼」と言われた。 1886年1月初土俵(序ノ口)。1893年5月十両昇進。1894年6月新入幕。しかし、翌1895年1月場所前に大日本帝国陸軍に入営し、近衛師団の軍夫になった。台湾に出征するも、マラリアに罹ってあえなく帰国。1895年5月場所で東十両張出筆頭で復帰するも2勝8敗と負け越し、以後再入幕は叶わなかった。
鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(… 鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(慶応2年9月3日) - 1907年(明治40年)5月4日)は、下総国千葉郡久々田村(現在の千葉県習志野市津田沼)出身で宮城野部屋(一時錦戸部屋に移籍)に所属した大相撲力士。本名は三代川 寅之助(後に宮城野姓)。最高位は大関。5代目年寄・宮城野を襲名。身長179cm、体重117kg。 1886年5月場所初土俵。1891年1月場所鳳に改名、1892年1月場所鳳凰に改名、1892年6月新十両、1893年1月入幕。1894年1月「鳳凰 馬五郎」に改名。1895年6月場所6日目、横綱・初代西ノ海嘉治郎との対戦で、西ノ海の寄りを土俵際で回り込み、逆に寄り切って軍配を受けたが西ノ海の師匠で当時権勢を揮っていた高砂が物言いをつけ預かりとなる。
大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日… 大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日(慶応2年8月15日) - 1939年10月9日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は原 夘三郎(旧姓斎藤)。6代阿武松。174cm、83kg。最高位は東前頭2枚目。紫雲竜吉之助の伯父。 1887年1月序ノ口、1893年1月十両昇進。十両を1場所で通過し、1894年1月入幕を果たした。この時の四股名は玉竜。以来1903年1月の引退まで三役には昇進できなかったが幕内上位をキープした。1899年5月新進の関脇梅ノ谷、1901年5月にも大関梅ノ谷に勝利。引退後は阿武松を襲名し独立。甥の紫雲竜などを育成。勝負検査役を長年務め、1939年年寄として73歳で没。
鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応… 鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応2年7月26日)- 1931年(昭和6年)11月29日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 上総国望陀郡岩出村(千葉県望陀郡小櫃村、君津郡小櫃村、君津町を経て現君津市岩出)で、農業・醤油醸造業・製糸業、鈴木市太郎の長男として生まれた。小学校卒業後、平島亮胤から漢学を学び、南総英語学校を卒業。1887年(明治20年)専修学校(現専修大学)で英語、経済学を学んだ。 帰郷して家業に従事。文房具、ペン先製造業を開始し、南総銀行取締役、久留里銀行取締役も務めた。その後、東京に拠点を移し、日本緬羊社長、日本衛生肥料取締役、日本炭礦社長、日東炭坑取締役、光行電線取締役、南部製鉄取締役、三重セメント取締役、富士鉱業監査役、満鮮塩業監査役などを務めた。
石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1… 石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1866年4月24日)- 1945年(昭和20年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。第2次大隈内閣で外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。
松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応… 松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応元年12月16日) - 1919年(大正8年)11月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。
木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1… 木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1866年1月26日) - 大正14年(1925年)1月9日)は、戦前日本の官僚・政治家。
畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866… 畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866年1月22日) - 明治24年(1891年)5月20日)は、1891年の大津事件で日露関係が緊張した際、被害者のロシア皇太子ニコライに謝罪の遺書を残して自殺した女性である。 1865年、安房国長狭郡横渚(よこすか)村(のち鴨川町の一部。現・千葉県鴨川市横渚)に畠山治兵衛の長女として生まれる。畠山家は横渚の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。5歳で父を失い、17歳で朝夷郡安馬谷村(のち千歳村。現・南房総市)の商家の若松吉蔵というものに嫁いだが、勇子は勝気で商業には不向きな性格であり、また『南総里見八犬伝』や『釈迦八相倭文庫』、政治小説や新聞『日本』などを読むことを好んでいたため、周囲との折り合いが悪かったようで、不縁になり1887年(明治20年)23歳で離婚した。
秋 乕太郎(あき とらたろう、1865年12月31日(慶応元… 秋 乕太郎(あき とらたろう、1865年12月31日(慶応元年11月14日) – 1922年(大正11年)12月15日)は、衆議院議員(憲政会)。秋虎太郎とも書く。 下総国葛飾郡関宿町(千葉県東葛飾郡関宿町を経て現野田市)で関宿藩士秋汲平の子として生まれる。明倫学舎と紫溟学舎で学んだ。小学校教員や新聞記者を経て、1890年(明治23年)、本郷区会議員に当選。以後、連続当選を重ね、議長にも就任した。1891年(明治24年)には東京府会議員に当選し、1896年(明治29年)には東京市会議員に、当選した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その他、禅徒生命保険株式会社取締役、東京医学講習所(現在の東京医科大学)主幹などを務めた。
吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27… 吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1943年(昭和18年)3月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。子は歌人・衆議院議員の吉植庄亮。義弟に弘前高等学校校長を務めた鈴木信太郎がいる。 下総国印旛郡、のちの千葉県印旛郡埜原村(本埜村を経て現印西市)出身。北海道に渡り開墾に従事したが、北海道時事新聞社を興し、社長に就任した。やがて他の新聞との合併で北海タイムス新聞社が成立すると、理事を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は9回を数えた。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明・木村政次郎・関和知・津田毅一・鵜沢宇八・柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸・土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し、同月に実施された再選挙で当選した。
松本 新吉(まつもと しんきち、1865年 - 1941年5… 松本 新吉(まつもと しんきち、1865年 - 1941年5月3日)は、日本のピアノ調律師で楽器製造者である。 1865年(慶応元年)上総国周淮郡常代村(現・千葉県君津市常代)で生まれる。1887年(明治20年)に横浜へ移住すると、叔父西川虎吉に弟子入りして、西川風琴製造所に勤務するが、数年で解雇される。この解雇は叔父が1894年(明治27年)1月発刊の音楽専門誌『音楽雑誌』の裏表紙広告に逸話として使った。 2年後の1895年(明治28年)には起業して東京新湊町でオルガン製造を始めると、翌1896年(明治29年)に「ピアノ調律師 松本新吉『風琴製造と販売』」の広告を出す。 1900年(明治33年)に単身で渡米すると、半年ほどニューヨークのブラッドベリー・ピアノ工場で研修生を務める。
伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年… 伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。明治期に活躍した。 明治法律学校(現・明治大学)で学ぶが、眼病のため中退し帰郷。再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めた。 短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となった。子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作った。1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞された。 晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えた。
布施 甚七(ふせ じんしち、1863年11月27日(文久3年… 布施 甚七(ふせ じんしち、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1919年(大正8年)2月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 上総国山辺郡辺田方村(のち千葉県山武郡東金町、現・東金市)出身。生家は地主で、普通学を学ぶ。農業を営み、東金町会議員、連合町村会議員、郡所得税調査委員、東金町長、山武郡会議員、千葉県会議員となる。また、(株)東金銀行頭取、横芝銀行取締役等を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉5区から自由党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
大蛇潟 大五郎(おろちがた だいごろう、1863年1月(文久… 大蛇潟 大五郎(おろちがた だいごろう、1863年1月(文久2年12月) - 1916年1月9日)は、現在の千葉県市川市鬼越出身で宮城野部屋、錦戸部屋、錦島部屋に所属した力士。本名は錦嶋 七太郎(旧姓岡田)。7代錦島。身長178cm、体重101kg。最高位は西前頭筆頭。 1885年5月に二枚目格付出で初土俵。1889年5月十両昇進した。1892年6月に新入幕、以後1907年1月に44歳で引退するまで連続で幕内に在位。また錦島部屋では二枚鑑札。引退後は親方業に専念したが、1916年に没した。享年55。 上の名前は番付上の表記揺れを考えなければ改名歴なし。下の名前は1890年5月場所まで「七五郎」、1891年1月場所から「大五郎」。
大纒 千代吉(おおまとい ちよきち、1863年(文久3年) … 大纒 千代吉(おおまとい ちよきち、1863年(文久3年) - 1934年(昭和9年)10月14日)は、現在の千葉県船橋市馬込町出身で出来山部屋に所属した大相撲力士。本名は鈴木 千代吉→松枝 忠三。最高位は前頭筆頭。8代出来山。 先代大纒の出来山部屋に入門し、1885年5月場所で序ノ口に就く。四股名は初めは「當り島」を名乗り、後に師匠の四股名の「大纒」を名乗った。1889年1月に十両に上がり、1891年5月に新入幕を果たした。1894年1月、西前頭4枚目で大関小錦(のち横綱)に勝ち、6勝2敗1分の成績を収めた。攻めや守りに技を使いこなす取り口を見せた。最高位の前頭筆頭まで進んだ1899年1月に「出来山」と改名した。
多田 房之輔(ただ ふさのすけ、文久2年6月9日(1862年… 多田 房之輔(ただ ふさのすけ、文久2年6月9日(1862年7月5日) - 1940年(昭和15年)11月18日)は、日本の教育者。池袋幼稚園主。号は総南。 安房国望陀郡神納村(現在の千葉県袖ケ浦市)出身。1881年(明治14年)、千葉県師範学校を卒業。千葉県・栃木県・東京府の小学校長を歴任し、さらに千葉県師範学校・栃木県師範学校を務めた。1901年(明治34年)、東京高等師範学校研究科を修了。国民教育社を創設して、雑誌「日本之小学教師」を発行した。 また1888年(明治21年)、神田区に一橋幼稚園を創設し、1915年(大正4年)に池袋に移転した。 その他、神田区会議員、麹町区学務委員、千葉県教育会副会長、千葉師範学校校友会副会長、西巣鴨教育会副会長、帝国教育会主事、帝都教育会理事、東京保育協会監事長、全国聯合教育会常設委員を務めた。
三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月… 三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月5日) - 1933年(昭和8年)2月6日)は、明治・大正期の新聞記者、ジャーナリスト。本名、三木貞一。 1861年(文久元年)、上総国大網町(現在の千葉県大網白里市)生まれ。田中従吾軒の門下で「朝野新聞」「東京公論」記者などを経て、1893年(明治26年)に萬朝報に入社、1923年(大正12年)まで活動した。相撲通として知られ相撲雑誌に記事を執筆するなど相撲記者の先駆けでもあった。 将棋通でもあり、初めて新聞に「将棋欄」を設けたことでも知られる。「萬朝報」1898年(明治31年)1月1日付に指し将棋の棋譜を初めて新聞に掲載した。また三木の発案により、おなじく「萬朝報」において棋戦が初めて企画され、1908年(明治41年)9月11日付から「高段名手勝継将棊」が掲載された。
東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月2… 東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月22日(万延元年10月10日)- 1911年(明治44年)5月8日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 上総国市原郡山木村(千葉県市原郡八幡町山木、市原町を経て現市原市山木)で、代々医を業とした東条家で東条養仙の長男として生まれる。父は高野長英門下。嶺田士徳(楓湖)から英漢の学を学んだ。1874年(明治7年)に上京し、華岡真節に医学を学び、1877年(明治10年)8月、医術開業試験に合格し、医術内外科開業免状が交付され医師を開業した。千葉市原郡医会会頭、千葉医学会副会頭なども務めた。 1887年(明治20年)4月、八幡町会議員に選出され1889年(明治22年)7月まで在任。
5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次… 5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次郎、1860年3月31日〈万延元年3月10日〉 - 1939年〈昭和14年〉11月27日)は、日本の商人(油屋、肥料商)、栃木県多額納税者、資産家、実業家、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は栃木県平民。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)生まれ。鵜月庄蔵の二男。鵜月庄三郎の弟。1883年、栃木県宇都宮の上野家の4代目松次郎の長女タミと結婚し、養子となり、1889年、上野家の家督を相続した。 五代目松次郎として家業の肥料商を営み、また肥料問屋として業界で重きをなした。また銀行会社の重役だった。宇都宮商工会議所初代会頭、宇都宮銀行、下野中央銀行各頭取、下野製紙、宇都宮瓦斯、上野松次郎商店各代表取締役などをつとめた。
秋山 源兵衛(あきやま げんべえ、1860年(万延元年5月)… 秋山 源兵衛(あきやま げんべえ、1860年(万延元年5月) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 安房国安房郡北条村(のち千葉県安房郡北条町→館山北条町、現・館山市)出身。和漢学を修め、酒屋を営み、村会議員、北条町会議員、学務委員、安房郡会議員、所得税調査委員などを歴任する。また、安房銀行監査役となり、日本赤十字社の終身社員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉8区から進歩党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選する。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年に死去した。
小原 金治(おはら きんじ、1859年8月21日(安政6年7… 小原 金治(おはら きんじ、1859年8月21日(安政6年7月23日)- 1939年(昭和14年)7月5日)は、明治から昭和前期の実業家、農業経営者、政治家。衆議院議員。 安房国安房郡南条村(千葉県安房郡南条村、豊房村南条を経て現館山市南条)で、農業・小原桂助、かよ の長男として生まれた。泰西法律学校で学んだ。農業を営む。 安房4郡勧業委員、安房郡相続税審査委員、同町村連合会議員を務めた。1890年(明治23年)3月、千葉県会議員に選出され、立憲改進党に所属し1894年(明治27年)9月まで在任した。1893年(明治26年)11月の立憲改進党全国大会に出席し、その他の出席者有志と同党千葉県支部設置を決議した。
安井 理民(やすい はるたみ、安政6年3月3日(1859年4… 安井 理民(やすい はるたみ、安政6年3月3日(1859年4月5日) - 明治27年(1894年)2月16日)は、上総国(現在の千葉県)の成東下町(現・山武市)の人物。総武本線の前身である総武鉄道設立に尽力したことで知られる。 結城藩の休泊所(中宿)を営む安井家に生まれ、半蔵(はんぞう)と名付けられる。 1878年(明治11年)に20歳にして戸長となり、自らの屋敷を役場として政務を行う。 1886年(明治19年)に27歳にして鉄道計画に着手、150有余名の株主を募って総州鉄道を設立した。このとき名を理民に改める。 東京神田に総州鉄道創立事務所を設けて鉄道創設に尽力したものの、利根運河を優先する当時の千葉県知事 船越衛の反対にあった。
小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月… 小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正13年(1924年)5月9日)は日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部(土木科)卒。土木学会会員。
東条 喜惣治(東條、とうじょう きそうじ、1859年(安政5… 東条 喜惣治(東條、とうじょう きそうじ、1859年(安政5年12月) - 1932年(昭和7年)4月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国市原郡(現・千葉県市原市)生まれ。和学と漢学を学ぶ。養老村(のち三和町、現・市原市)書記、同村長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉1区から進歩党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1932年に死去した。
高橋 与市(與市、たかはし よいち、1859年(安政5年12… 高橋 与市(與市、たかはし よいち、1859年(安政5年12月) - 1931年(昭和6年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 上総国望陀郡(のち千葉県君津郡、現・木更津市)に生まれる。馬来田村(のち富来田町、現・木更津市)長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において千葉7区から弥生倶楽部所属で立候補して初当選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して復帰した。衆議院議員を2期務め、1896年に当選無効により衆議院議員を退職した。1931年死去。
9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月… 9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月7日(安政5年5月27日)- 1910年(明治43年)1月16日)は、明治期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。通称・三左衛門桃渓。 下総国葛飾郡流山村(千葉県東葛飾郡流山町流山、江戸川町、流山町を経て現流山市流山)で、味醂(みりん)醸造業・8代秋元三左衛門の息子として生まれる。伊藤長有などから和漢学を学び、小学校普通小学科を卒業。1875年(明治8年)7月に上京し、亀田保、島田重礼などに漢学を学んで、1880年(明治13年)3月に帰郷した。家業の「天晴味醂」(あっぱれみりん)として知られた味醂醸造業を継承した。その他、八十四銀行頭取、宝酒造監査役などを務めた。