嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日… 嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日 - 2023年〈令和5年〉12月14日は、日本の花火師。 戦時中途絶えていた長岡大花火大会の復興に尽力し、また海外活動を積極的に行った。第50回吉川英治文化賞受賞など。 現・新潟県長岡市に生まれる。父・嘉瀬誠喜、祖父・亀吉も花火製造に携わっており、煙火業として三代目にあたる(亀吉は農業との兼業)。 1943年 (昭和18年) 4月10日、新発田歩兵第158連隊に入隊。同連隊は第42師団に編入され 、翌1944年 (昭和19年) 3月3日に松輪島上陸、同島防衛の任に就く。 終戦後、シベリア抑留を経て1948年 (昭和23年) 復員。
富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 -… 富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 - 1994年5月31日)は、日本の洋画家。 新潟県高田市南本町出身。新潟県立高田商工学校卒業。黄変や亀裂、剥落などのない白い絵の具を自ら開発して作品を手がけ、「トミオカホワイト」と呼ばれた。著名な作品に「白の世界シリーズ」など。 現在[いつ?]、新潟県南魚沼市の八海山山麓には、1990年(平成2年)11月に開館した「トミオカホワイト美術館」があり、富岡惣一郎の作品が多数収蔵・展示されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
茅原 一也(ちはら かずや、1921年〈大正10年〉11月2… 茅原 一也(ちはら かずや、1921年〈大正10年〉11月28日 - 2006年〈平成18年〉8月29日)は、日本の地質学者、鉱物学者、岩石学者、ヒスイ研究者。理学博士。元キタック最高技術顧問。新潟大学名誉教授、日本地質学会名誉会員。 新潟県中蒲原郡横越村(現 新潟市江南区)出身。 1939年(昭和14年)3月に新潟中学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に新潟師範学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に東京高等師範学校を修了、1946年(昭和21年)9月に東京文理科大学地学科(地質鉱物学専攻)を卒業。 1946年(昭和21年)10月に新潟中学校教諭に就任、化学と地学と音楽を担当、1950年(昭和25年)3月に新潟大学理学部地質鉱物学教室助手に就任、1951年(昭和26年)4月に新潟大学理学部地質鉱物学教室講師に就任。
小島 瑞(こじま みず、1921年〈大正10年〉11月25日… 小島 瑞(こじま みず、1921年〈大正10年〉11月25日 - 1995年〈平成7年〉9月22日)は、日本の病理学者、医師。医学博士。福島県立医科大学名誉教授、日本血液学会名誉会員。 新潟県新潟市出生、新潟県佐渡郡金沢村大字泉(現 佐渡市泉)出身。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校文科乙類を卒業、1944年(昭和19年)9月に新潟医科大学を半年繰り上げ卒業。 1945年(昭和20年)1月に横浜市戸塚区原宿町の海軍軍医学校戸塚分校を卒業、海軍軍医中尉に任官、山口県光市光井の第一特別基地隊附、3月に山口県平生町佐賀の平生突撃隊附、8月に終戦、1946年(昭和21年)1月に復員。
伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 -… 伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 - 2012年(平成24年)7月4日)は、大日本帝国海軍軍人。第二次世界大戦における零式艦上戦闘機のエース・パイロットである。 1947年(昭和22年)の結婚により改姓し、加藤 清(かとう きよし)となった。 1921年(大正10年)新潟県村上市で、6人兄弟の3男として生まれた。高等小学校を出て織物工場で働くが、海軍機関兵だった従兄の影響を受けて、1939年(昭和14年)6月1日横須賀海兵団に入隊し、教程を終えた10月に水雷艇「鴻」に乗組みとなった。1940年(昭和15年)11月、海軍飛行予科練習生丙2期生として土浦海軍航空隊に入隊した。
坂井 光夫(さかい みつお、1921年〈大正10年〉9月7日… 坂井 光夫(さかい みつお、1921年〈大正10年〉9月7日 - 2015年〈平成27年〉12月28日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1957年)。第4代東京大学原子核研究所所長。東京大学名誉教授。専門は原子核物理学。 新潟県新潟市西堀通6番町(現 新潟市中央区西堀通6番町)の新潟高等女学校教諭・坂井仲太郎の次男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を4年で修了、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学理学部物理学科を半年繰り上げ卒業、10月に海軍技術見習尉官として中国の青島に向かった。 1945年(昭和20年)10月に復員、副手として東京帝国大学理学部の嵯峨根遼吉の研究室で研究、1951年(昭和26年)9月から1954年(昭和29年)12月までフランス、スウェーデン、アメリカに留学。
高橋 国一郎(たかはし くにいちろう、1921年(大正10年… 高橋 国一郎(たかはし くにいちろう、1921年(大正10年)8月2日 - 2013年(平成25年)4月18日)は、昭和から平成時代の土木工学者。内務技師、建設技監。建設事務次官。日本道路公団総裁。 新潟県柏崎市出身。1944年(昭和19年)東京帝国大学工学部土木科を卒業後、内務省(土木局)に入る。 1945年(昭和20年)秋に復員し関東土木出張所に勤務。1950年(昭和25年)五十里ダム出張所長、1956年(昭和31年)関東地建4号国道、1958年(昭和33年)東京国道の両工事事務所長、1964年(昭和39年)高速道路課高速道路調査室長、1966年(昭和41年)地方道課長、国道第一課長、1970年(昭和45年)道路局長、1972年(昭和47年)建設技監、1974年(昭和49年)建設事務次官、1976年(昭和51年)日本道路公団副総裁、1978年(昭和53年)総裁を経て、1986年(昭和61年)辞任した。
宗田 一(そうだ はじめ、1921年3月1日 - 1996年… 宗田 一(そうだ はじめ、1921年3月1日 - 1996年7月7日)は、新潟県寺泊(現長岡市)出身の医史学者。 1941年(旧制)官立金沢医科大学薬学専門部(現在の金沢大学医薬保健学域薬学類)を卒業。薬学史、医史学の硏究。日本医史学会常任理事、野間科学医学研究資料館理事。 国際日本文化研究センター所蔵の宗田文庫は、宗田一が収集した、医学史・薬学史に関する書籍、図版資料などを中心とする日本医療文化史の資料コレクションで、目録が作成されており、国際日本文化研究センターサイトでも検索できる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中山 仁(なかやま じん、1921年〈大正10年〉1月18日… 中山 仁(なかやま じん、1921年〈大正10年〉1月18日 - 2004年〈平成16年〉4月26日)は、日本の体育学者。新潟大学名誉教授。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)の新潟鐵工所新潟工場技師・中山礼吉の三男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に東京高等師範学校体育科を卒業。 1942年(昭和17年)に埼玉県立熊谷中学校教諭に就任、1943年(昭和18年)4月に応召、南方各地を転戦し、1946年(昭和21年)6月に帰還、同年に新潟高等学校教授に就任、1949年(昭和24年)に新潟大学教育学部助教授に就任、1971年(昭和46年)に新潟大学教育学部教授に就任、1986年(昭和61年)に新潟大学を定年退官、新潟大学名誉教授の称号を受称、関東学園大学教授に就任、1994年(平成6年)に退職。
市橋 保雄(いちはし やすお、1920年〈大正9年〉12月3… 市橋 保雄(いちはし やすお、1920年〈大正9年〉12月3日 - 1984年〈昭和59年〉11月8日)は、日本の政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(3期)。 新潟県出身。新潟県立佐渡中学校(現・新潟県立佐渡高等学校)を経て、1941年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。翌年、陸軍に入隊し、中尉で終戦を迎える。その後は県立新潟高等女学校(現・新潟県立新潟中央高等学校)教諭となり、1962年、両津市議会議員に当選し、4期務め、議長も務めた。1974年、両津市長に当選、1978年、1982年と続けて再選した。3回目の当選の翌年の1983年に市長を辞職した。 1984年(昭和59年)11月、肝硬変に肝不全を併発し死去した。
保坂 調司(ほさか ちょうじ、1920年11月24日 - )… 保坂 調司(ほさか ちょうじ、1920年11月24日 - )は、日本の射撃競技(ピストル射撃)選手。警視庁所属の警察官。1956年メルボルンオリンピックに出場、男子フリー・ピストルで4位入賞。アジア競技大会2大会に出場し金メダル3つを獲得している。 新潟県東頸城郡松之山村(現在の十日町市)出身。日本レイヨン青年学校本科卒業。警視庁に勤務。 1954年アジア競技大会(マニラ)ではラピッド・ファイア・ピストルとフリー・ピストルの2種目に出場、金メダルを獲得。 1956年メルボルンオリンピックでは、男子ラピッド・ファイア・ピストルと男子フリー・ピストルの2種目に出場。男子フリー・ピストルで4位入賞を果たした。
金澤 武(かなざわ たけし、1920年〈大正9年〉9月11日… 金澤 武(かなざわ たけし、1920年〈大正9年〉9月11日 - 2003年〈平成15年〉5月26日)は、日本の船舶工学者、溶接工学者、構造力学者、材料力学者、破壊力学者、材料強度学者。工学博士。東京大学名誉教授、日本造船学会名誉員。 福井県福井市清川上町80番地(現 福井市松本1丁目)の福井中学校の博物教師・金澤祿郞の次男として出生。1923年(大正12年)9月の父の新潟中学校への異動に伴って新潟県新潟市学校町通3番町(現 新潟市中央区)に転居。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学第一工学部船舶工学科を半年繰り上げ卒業、東京帝国大学第一工学部大学院に入学。
内山 尚三(うちやま しょうぞう、1920年7月5日 - 2… 内山 尚三(うちやま しょうぞう、1920年7月5日 - 2002年12月14日)は、日本の法学者。専門は、民法・労働法。法学博士(1960年)。法政大学名誉教授、札幌大学名誉教授。建設業の労働関係、請負契約などに関する国の各種審議会の役員を歴任。栄典は、正五位勲三等瑞宝章。 妻・章子は政治家・鶴見祐輔の次女。政治家の後藤新平は義祖父(章子の祖父)、社会学者の鶴見和子は義姉(章子の姉)、哲学者の鶴見俊輔は義兄(章子の兄)。新潟県柏崎市出身。
川上 喜八郎(かわかみ きはちろう、1920年(大正9年)5… 川上 喜八郎(かわかみ きはちろう、1920年(大正9年)5月22日 - 1983年(昭和58年)1月20日)は、日本の政治家。1975年から1982年まで新潟県新潟市長を務めた。 新潟市出身。1938年(昭和13年)新潟県立新潟中学校(現・県立新潟高等学校)卒業後、県局長、県職労委員長をへて、1975年(昭和50年)の新潟市長選に日本社会党、日本共産党の推薦を得て立候補。「人間都市新潟」をスローガンに初当選を果たし、新潟市では初、新潟県内では6番目の革新市政となる。1982年(昭和57年)12月14日、体調不良により2期目の任期を約4ヶ月残し辞任する。 1983年1月20日、食道癌により新潟市の新潟市民病院で死去。
横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月… 横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月25日 - 1973年(昭和48年)4月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身の日本画家。多摩美術大学教授。昭和を代表する日本画家である。[要出典] 横山の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。
錦織 登美夫(にしきおり とみお、1919年〈大正8年〉11… 錦織 登美夫(にしきおり とみお、1919年〈大正8年〉11月3日 - 2008年〈平成20年〉1月22日)は、日本の出版人、実業家。東洋館出版社創業者・初代社長。 新潟県中蒲原郡新津町大字新津字三之町(現 新潟市秋葉区新津本町3丁目)の東洋館書店・東洋館印刷所の錦織豊松の長男として出生。 1937年(昭和12年)3月に新潟中学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に慶應義塾大学予科経済学部を修了、1942年(昭和17年)9月に慶應義塾大学経済学部を半年繰り上げ卒業。 第二次世界大戦で兵役に服し、1948年(昭和23年)にシベリア抑留から帰還、同年6月に東洋館出版社を設立して社長に就任、のちに会長に就任。
越後山 重正(えちごやま しげまさ、1919年9月12日 -… 越後山 重正(えちごやま しげまさ、1919年9月12日 - 1993年1月4日)は、高砂部屋に所属した元大相撲力士。本名は加藤 重正(旧姓柳)。現在の新潟県十日町市出身。182cm、98kg。最高位は東十両4枚目。 1938年5月初土俵、1945年11月十両昇進。勝ち越すも翌場所の1946年11月限り廃業した。
川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2… 川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2日 - 2006年〈平成18年〉6月9日)は、日本の免疫学者、医師。医学博士(東京大学・1957年)。東京大学名誉教授。 新潟県新潟市学校町通2番町(現 新潟市中央区学校町通2番町)の新潟医学専門学校病理学教室教授・川村麟也の三男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)3月に新潟高等学校を卒業、1945年(昭和20年)9月に千葉医科大学を卒業。 1945年(昭和20年)10月に東京帝国大学伝染病研究所第二研究部(部長:田宮猛雄教授)に嘱託として入所、1948年(昭和23年)に東京大学伝染病研究所第五研究部(部長:田宮猛雄教授)副手に就任、1949年(昭和24年)に助手に就任、1959年(昭和34年)7月に東京大学伝染病研究所第二細菌研究部(部長:山本郁夫教授)助教授に就任、1971年(昭和46年)4月に東京大学医科学研究所免疫学研究部長・教授に就任、1980年(昭和55年)4月に東京大学を定年退官、5月に東京大学名誉教授の称号を受称。
吉井 四郎(よしい しろう、1919年3月20日 - 199… 吉井 四郎(よしい しろう、1919年3月20日 - 1992年10月20日)は日本のバスケットボール指導者である。埼玉大学教授。日本バスケットボール協会理事。勲三等瑞宝章。
高桑 栄松(高桑 榮松、たかくわ えいまつ、旧姓:桜井、19… 高桑 栄松(高桑 榮松、たかくわ えいまつ、旧姓:桜井、1919年2月8日 - 2016年5月4日)は、日本の政治家、医学者。北海道大学名誉教授、参議院議員(2期)。医学博士。位階は従三位、勲等は勲一等。 長兄は熊本県知事、参議院議員の桜井三郎。 新潟県西蒲原郡地蔵堂町(現燕市)に10人兄弟の8番目として生まれる。新潟県立巻中学校を経て北海道帝国大学医学部卒業。同大学院博士課程修了。1945年札幌在住の親戚である高桑家の養子となる。1956年より北海道大学へ赴任。医学部長・大学院環境科学研究科長を経て、1980年より公害研究所(現国立環境研究所)所長として筑波研究学園都市で過ごす。同年、紺綬褒章受章。
小林 正三郎(こばやし しょうざぶろう、1919年 - 19… 小林 正三郎(こばやし しょうざぶろう、1919年 - 1945年2月) は、日本の元アマチュア野球選手。新潟県出身。 柏崎中学(現・新潟県立柏崎高等学校)を経て、1939年早稲田大学に入学。東京六大学リーグ戦で捕手として出場した。しかし学徒出陣により応召され、1945年2月、フィリピン北部・ルソン島にて戦死した。享年25。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名前が刻まれている。
長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 199… 長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 1990年10月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。位階は従三位。勲等は勲一等。 新潟県長岡市で生まれ育つ。旧制新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業後、旧制第一早稲田高等学院(現在の早稲田大学の教養課程)入学している。その後は、父の死去に伴い旧制早稲田高等学院を中退し、17歳で長谷川酒造社長に就任する。 その後、戦時中は1942年5月、南西方面艦隊海軍民政府に志願し、インドネシアのセレベス島マカッサルに勤務したとされている。1944年12月、帰国した。 終戦後、青年団活動を経て、上組村議、宮内町議、長岡市議を2期、新潟県議会議員を4期を務めあげた。
村山 登(むらやま のぼる、1918年〈大正7年〉12月1日… 村山 登(むらやま のぼる、1918年〈大正7年〉12月1日 - 2015年〈平成27年〉1月22日)は、日本の農林技官、植物栄養・肥料学者。農学博士。元農林省農業技術研究所化学部作物栄養科長、元東京農工大学農学部長。東京農工大学名誉教授。 新潟県新潟市出身。1935年(昭和10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。 1941年(昭和16年)4月に農林省農事試験場助手に就任、1943年(昭和18年)7月に応召、1945年(昭和20年)9月に復員、農事試験場に勤務、1950年(昭和25年)4月に農林省農業技術研究所化学部作物栄養科作物栄養第2研究室長に就任、1961年(昭和36年)3月に東京大学から農学博士の学位を取得、1964年(昭和39年)5月に農林省農業技術研究所化学部作物栄養科長に就任。
細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 199… 細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 1996年12月26日)は、労働運動家。 新潟県糸魚川市出身。陸軍士官学校卒業。陸軍では後に内閣総理大臣を務める田中角栄の上官だった。共に新潟出身で1918年(大正7年)年生まれという共通点があり堅い友情に結ばれていた。終戦時は関東軍第5軍司令部付陸軍中尉であった。 シベリア抑留を経験した。日本に引き揚げた後に日本国有鉄道(国鉄)に入り、国鉄労働組合(国労)へ加入した。1952(昭和27)年国労本部中央委員に就任。岩井章と共に国労内の日本共産党系勢力を指導した。1957(昭和29)年の新潟闘争で国鉄を解雇された。その後は総評反主流派の中核的な論客となったり、現場協議制度を国鉄で行ったり、国労新綱領の策定を指導したりした。
鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004… 鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004年10月7日)は、日本の英文学者、英米演劇研究家、翻訳家。本名は鳴海 弘。 テネシー・ウィリアムズ、エドワード・オールビー、ニール・サイモンの戯曲やアガサ・クリスティなどの小説を翻訳した。文学座座友。 1919年新潟県長岡市に、1922年に東京市に移り関東大震災に遭う。東京府立第五中学校、東京商科大学予科を経て、1940年に東京商科大学(現・一橋大学)卒業。会社員となるがアマチュア演劇団体に所属。 1944年弘前市歩兵連隊に応召。敗戦後、田舎にこもる。1949年帰京。1951年慶應義塾高校教諭、コロンビア大学に留学。1952年帰国、文学座の文芸演出部員となる。
廣川 治(ひろかわ おさむ、1917年〈大正6年〉6月9日 … 廣川 治(ひろかわ おさむ、1917年〈大正6年〉6月9日 - 2011年〈平成23年〉1月5日)は、日本の通商産業技官、地質学者。元通商産業省工業技術院地質調査所地質部主任研究官、元JICA(国際協力機構)特別顧問。 新潟県中蒲原郡大江山村大字直り山(現 新潟市江南区直り山)出身。1935年(昭和10年)3月に新潟中学校を卒業、1939年(昭和14年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に東京帝国大学理学部地質学科を繰上卒業。 1942年(昭和17年)1月に商工省地質調査所に技手として入所、2月に太平洋戦争に応召、陸軍に入隊、1945年(昭和20年)8月に終戦、最終階級は陸軍中尉。
塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30… 塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30日 - 2005年〈平成17年〉9月15日)は、日本の運輸技官、気象学者。理学博士。元日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長、元日本大学生産工学部教授。日本風工学会名誉会員。 新潟県新潟市古町通12番町(現 新潟市中央区)出身。1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1937年(昭和12年)3月に新潟高等学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 逓信省中央航空研究所技手に就任、1944年(昭和19年)に応召、1945年(昭和20年)に復員、12月に運輸省鉄道技術研究所技師に就任、交通気象研究室に勤務、1949年(昭和24年)から日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室に勤務、1950年(昭和25年)5月に東北大学から理学博士の学位を取得、1954年(昭和29年)10月からアメリカのテキサス農工大学海洋学部で微気象について研究、1955年(昭和30年)11月からアメリカ各地の研究機関を視察、12月に帰国、1958年(昭和33年)5月に日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長に就任。
吉井 精三郎(よしい せいざぶろう、1917年3月9日 - … 吉井 精三郎(よしい せいざぶろう、1917年3月9日 - 1947年9月)は、日本の元バスケットボール選手である。 新潟県立新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)に学び、強豪の籠球部(バスケットボール部)に所属した。 全日本の一員として1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1964年東京オリンピックバスケットボール日本代表監督の吉井四郎は2歳下の弟。
村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 … 村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 - 1987年(昭和62年)1月23日)は、新潟県柏崎市出身の日本の日本画家。本名は勲。風景画、山岳を主題にした作品が多い。 1917年(大正6年)1月21日、新潟県柏崎市北条荒町に農家の長男として生まれる。 新潟市生まれの尾竹国観に師事。上京し京華中学に進むが、3年時にカリエスに罹患し帰郷。1935年(昭和10年)再上京し川端画学校の日本画科へ進み、のちに太平洋画学校へ。在学中に各種展覧会で入賞を繰り返した。 1943年(昭和18年)、26歳のとき第6回新文展に出品した「子等」が初入選。 戦時中は従軍画家として南方戦線に1945年敗戦まで応召。
田中 志津(たなか しづ、1917年〈大正6年〉1月20日 … 田中 志津(たなか しづ、1917年〈大正6年〉1月20日 - 2024年〈令和6年〉11月3日)は、日本の女性作家。日本文藝家協会会員。本名は田中 シヅ。 次男の田中佑季明も同じく作家である。 新潟県北魚沼郡小千谷町に生まれる。1966年(昭和41年)に随筆日記「雑草の息吹」が「今日の佳き日は」としてNHKで放送される。長女の佐知がFM放送で2001年(平成13年)に『佐渡金山を彩った人々』を全編朗読し、2003年(平成15年)には『冬吠え』を全編朗読した。 2005年(平成17年)、佐渡金山に「田中志津文学碑」(佐渡金山顕彰碑)が建立され、2010年(平成22年)には新潟県小千谷市船岡公園に「田中志津生誕之碑」が建立された。
中村 亦夫(なかむら またお、1917年〈大正6年〉1月16… 中村 亦夫(なかむら またお、1917年〈大正6年〉1月16日 - 1994年〈平成6年〉11月24日)は、日本の工業化学者、高分子化学者。工学博士(東京大学・1964年)。東京大学名誉教授。 新潟県新潟市(現 新潟市中央区)の新潟医学専門学校精神病学教室初代教授・中村隆治の三男として出生。 1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を卒業、1939年(昭和14年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。 1942年(昭和17年)1月に東京帝国大学工学部講師に就任、太平洋戦争で陸軍に入隊、最終階級は陸軍大尉、戦後、東京帝国大学第二工学部応用化学科主任教授・友田冝孝の指導下で研究。
井上 栄一(いのうえ えいいち、1917年〈大正6年〉1月1… 井上 栄一(いのうえ えいいち、1917年〈大正6年〉1月1日 - 1993年〈平成5年〉3月3日)は、日本の農林技官、気象学者、農業気象学者、微気象学者。理学博士。元農林省農業技術研究所物理統計部気象科長。日本農業気象学会名誉会員。 新潟県新潟市出身。新潟尋常小学校を経て、1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を卒業、1937年(昭和12年)3月に第一高等学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学工学部航空学科を卒業。 1941年(昭和16年)4月に陸軍航空技術学校に入校、軍曹に任官、6月に見習士官に任官、8月に陸軍技術中尉に任官、陸軍航空本部に配属。 航空技術将校として、太平洋戦争の戦地や大日本帝国軍の占領地に出向き、そこに残された戦闘機スーパーマリン スピットファイアや戦闘機P-40 キティホークなどの敵国の航空機や文書などを調査した。
本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2… 本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2001年10月10日)は、日本の美術評論家。 新潟県長岡市出身。旧制長岡中学、旧制二高、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。東京国立近代美術館次長を経て、1975年(昭和50年)大阪国立国際美術館長、1982年(昭和57年)埼玉県立近代美術館長。 サンパウロビエンナーレ、現代日本美術展など、国内外の主要美術展の審査員としても活躍した。専門の近代彫刻のほか、美術館運営や企画、国際展の審査などで活躍。ユニークな展覧会を企画する名物館長として知られた。美術評論家連盟会長。オーボエ奏者で古楽研究者であった本間正史(1947-2016)は子息。
佐藤 進一(さとう しんいち、1916年11月25日 - 2… 佐藤 進一(さとう しんいち、1916年11月25日 - 2017年11月9日)は、日本の歴史家。専門は、日本中世史・中世法制史・古文書学。学位は、文学博士(1961年)(学位論文(学位論文「鎌倉時代より南北朝時代に至る守護制度の研究」)。中央大学名誉教授。東京大学教授・名古屋大学教授を歴任。 新潟県中蒲原郡新津町(現・新潟市秋葉区)生まれ。旧制新潟県立三条中学校4年修了後、1936年3月に旧制新潟高等学校文科甲類を卒業。同年4月に東京帝国大学文学部入学。1939年3月に東京帝国大学文学部卒業。卒業論文は「鎌倉幕府訴訟制度の分化」であった。 同年4月に東京帝国大学史料編纂所第十編部に採用される。
宇佐美三郎(うさみ さぶろう、1916年〈大正5年〉11月3… 宇佐美三郎(うさみ さぶろう、1916年〈大正5年〉11月3日 - 2010年〈平成22年〉5月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)の元町長である。旧吉田町出身。 吉田町立吉田尋常高等小学校卒。吉田町商工会幹事、同専務理事、町経済クラブ幹事長を経て、旧吉田町で助役を務めた後、1966年から1986年まで町長を務める。 2010年5月1日、燕市にて死去。叙従五位、旭日小綬章追贈。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
横山 堅七(よこやま けんしち、1916年9月22日 - 生… 横山 堅七(よこやま けんしち、1916年9月22日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 新潟県立新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)に学び、強豪の籠球部(バスケットボール部)に所属した。早稲田大学に進み、バスケットボール部に所属。早稲田大学在学中、1936年ベルリンオリンピックに出場した。1938年には東洋選手権大会日本代表、1939年には来日したカナダのチーム(「ウェスターン軍」)と対戦した日本代表チームの一員となり、宗像卯一とともに年間最優秀選手に選ばれた。1940年には東亜競技大会の日本代表選手となる。 その後、日本鋼管に所属。
宮 栄二(みや えいじ、1916年8月26日 - 1986年… 宮 栄二(みや えいじ、1916年8月26日 - 1986年11月27日)は、新潟県の地方史研究者。 新潟県長岡市出身。1939年東京帝国大学文学部国史学科卒。内務省、北方文化博物館、新潟県教育長などをへて、新潟大学講師。県文化財保護審議委員、良寛会常任委員長。
上原 喜八郎(うえはら きはちろう、1916年〈大正5年〉5… 上原 喜八郎(うえはら きはちろう、1916年〈大正5年〉5月29日 - 2009年〈平成21年〉3月25日)は、日本の生化学者、薬学者(生物系薬学)。理学博士。大阪大学名誉教授、日本薬学会有功会員。 新潟県新潟市新島町通4ノ町(現 新潟市中央区新島町通4ノ町)の実業家・上原有三の八男として出生、1922年(大正11年)3月に新潟県新潟市旭町通2番町(現 新潟市中央区旭町通2番町)に転居。 1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に第四高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に大阪帝国大学理学部化学科を卒業。 1942年(昭和17年)に大阪帝国大学理学部化学教室助手に就任、赤堀四郎のもとで研究、1943年(昭和18年)に大阪帝国大学理学部大学院に特別研究生として入学、1947年(昭和22年)に大阪帝国大学理学部化学教室講師に就任、1951年(昭和26年)2月に大阪大学理学部化学教室助教授に就任、1952年(昭和27年)7月に大阪大学から理学博士号を取得、大阪大学医学部薬学科生化学教室助教授に就任、1955年(昭和30年)に大阪大学薬学部生化学教室助教授に就任、1958年(昭和33年)11月に大阪大学薬学部生物薬品化学講座初代教授に就任、1977年(昭和52年)6月に大阪大学薬学部第12代学部長に就任、1980年(昭和55年)4月に大阪大学を定年退官、大阪大学名誉教授の称号を受称、同月に摂南大学教養科教授に就任、1981年(昭和56年)9月に退職。
石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2… 石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2013年1月27日)は、歌人、編集者、出版人。短歌新聞社元社長。 新潟県三条市生まれ、栃尾市育ち。本名は清作。1940年、同郷の詩人内藤鋠策と『抒情詩』を復刊する。1943年応召を受け、中国、仏領インドシナなどで従軍。戦後、郷里新潟県で「越後短歌」を創刊。 1953年東京で短歌新聞社を創立、月刊短歌情報誌『短歌新聞』を発刊。1977年に月刊短歌総合誌『短歌現代』を創刊した。以後、2011年12月の廃業まで一貫して社長を務めた。名歌集を安価で読める「短歌新聞社文庫」、新鋭歌人による「現代歌人叢書」「現代女流短歌全集」の創刊や、短歌現代新人賞の創設、『短歌現代』編集長に高瀬一誌を起用するなどの施策を打ち出し、戦後短歌に大きな影響を与えた。
倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日… 倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日 - 平成10年(1998年)11月19日)は、新潟県高田市(現上越市)に生まれた洋画家。 太平洋美術学校で学び、自由美術協会を経て昭和39年(1964年)、主体美術協会の創立会員となる。人物油彩画を中心に制作した。書籍や新聞雑誌の挿絵も多く手がけた。 昭和62年(1987年)、脳梗塞で倒れて右半身と言語機能を失うも左手で制作を続け「左手のデッサン帳」の出展を重ねた。平成10年(1998年)に82歳で死去。 上越市の樹下美術館に常設展示されている。 平成7年(1995年)9月から10月にかけて新潟市美術館で倉石隆展が開催された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日… 堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日 - 2022年〈令和4年〉3月20日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)。位階勲等は正四位勲二等。日本会議代表委員。アジアと日本の平和と安全を守る全国フォーラム初代会長。 新潟県糸魚川市出身。水産学校校長堀江英一の次男として生まれた。7歳から12歳まで樺太で過ごし、糸魚川中学、東京陸軍幼年学校(34期)、陸士予科を経て、陸軍士官学校を卒業(第50期、35番/426名)。旧軍時代は歩兵科士官で、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業し(57期)、第18軍参謀としてパプアニューギニアで終戦を迎えた。 終戦後、1946年(昭和21年)3月に復員し、妻の郷里宮崎県日南市で林業に従事した後、警察予備隊及び保安隊を経て陸上自衛隊で勤務。
大窪 愿二(おおくぼ げんじ、1915年(大正4年)5月9日… 大窪 愿二(おおくぼ げんじ、1915年(大正4年)5月9日 - 1986年(昭和61年)5月18日)は、日本の政治学者、翻訳家。専門は日本政治、国際政治。在日カナダ大使館顧問、聖徳学園岐阜教育大学教授を務めた。 1915年、秋田県生まれ。1926年、新潟市に転居。1933年に新潟県立新潟中学校を卒業し、青山学院文学部に入学。英語師範科で学び、1937年に卒業。1938年、太平洋問題調査会(通称IPR)就職する。以後、2度の従軍経験をはさんで1949年までIPRや世界経済調査会などのシンクタンクに勤務する。 1938年に、日本生まれのカナダの歴史家E・H・ノーマンとIPRのオフィスで出会い、交際が始まる。
長田 正松(おさだ しょうまつ、1915年〈大正4年〉5月1… 長田 正松(おさだ しょうまつ、1915年〈大正4年〉5月1日 - 2003年〈平成15年〉12月25日)は、日本の実業家。有限会社つかれ酢本舗創業者。政治運動家。 以下は総て自費出版である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
亀倉 雄策(かめくら ゆうさく、1915年4月6日 - 19… 亀倉 雄策(かめくら ゆうさく、1915年4月6日 - 1997年5月11日)は、日本のグラフィックデザイナー。日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)初代会長。 代表作にフジテレビジョンの旧シンボルマーク(8マーク)や日本電信電話(NTT)のマーク(ダイナミックループ)、TDKおよびニコンFのロゴマーク、1964年東京オリンピックのポスター、サンケイアトムズ、ヤクルトスワローズのユニフォームがある。 没後、亀倉雄策の遺族の寄付により、亀倉の業績を讃えるとともにグラフィックデザインのさらなる発展をめざして亀倉雄策賞が設けられている。
八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 199… 八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 1994年)は、日本の教育者。父は元旧制新潟高等学校初代校長の八田三喜。兄は演出家の八田元夫。 東京出身。東京帝国大学大学院理学部動物学科卒業。
村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日… 村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日 - 2010年〈平成22年〉5月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(12期)、大蔵大臣(第82代・第91代・第92代)、厚生大臣(第60代)を歴任。税制通で知られ、消費税導入にもかかわった。 新潟県長岡市坂之上町生まれ。株屋をやっていた幸太郎の三男。 長岡市立表町尋常小学校から長岡中学校に進む。長岡中二年の時、母が死去、姉静子に身のまわりの面倒をみてもらうようになった。当時の旧制中学は五年制だったが、中学四年生から旧制高校を受験できた。担任教諭の勧めで一高を受験、合格した。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学法学部を卒業。
樫出 勇(かしいで いさむ、1915年〈大正4年〉2月 - … 樫出 勇(かしいで いさむ、1915年〈大正4年〉2月 - 2004年〈平成16年〉6月)は、陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍大尉。新潟県刈羽郡北条村(現・柏崎市)出身。 ノモンハン事件および太平洋戦争末期の本土防空戦において活躍し、B-29爆撃機に対する通算最多撃墜記録を有する。陸軍のエースパイロットである。 日本陸軍とソ連空軍の間に起こったノモンハン航空戦に樫出は参戦しており、5機以上を撃墜する戦果を挙げた。20機以上を撃墜したノモンハンエースは23名おり、その中で篠原弘道准尉、井上重俊大尉、西原吾郎軍曹、3名は九七式戦闘機を駆り戦った撃墜王として有名である。篠原弘道准尉は戦死したが、3ヶ月で58機を撃墜した。
曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30… 曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30日 - 1992年(平成4年))は、元体操選手。 新潟県中頸城郡高士村上曽根(現・上越市)に生まれる。高田中学校から日本体育会体操学校に進み、1935年(昭和10年)に卒業する。翌年の1936年ベルリンオリンピックに出場した。 その後は、本郷中学校教諭、東京警視庁工場課嘱託を経て、1941年(昭和16年)郷里に戻り、高士村役場に勤務した。
猪 初男(いの はつお、1914年〈大正3年〉10月9日 -… 猪 初男(いの はつお、1914年〈大正3年〉10月9日 - 1999年〈平成11年〉9月11日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医。医学博士。第8代新潟大学学長。新潟大学名誉教授。 新潟県東蒲原郡上条村大字両郷(現 阿賀町両郷)出身。 新潟師範学校附属小学校を経て、1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1939年(昭和14年)7月に海軍軍医中尉に任官、海軍軍医学校の教官として全国各地出身の軍医の養成に努め、海軍省に勤務していた時に太平洋戦争が終戦、最終階級は海軍軍医少佐、戦後、復員省に勤務。
上山 善紀(うえやま よしのり、1914年9月21日 - 2… 上山 善紀(うえやま よしのり、1914年9月21日 - 2009年8月25日)は実業家。近畿日本鉄道(近鉄)元社長(大阪電気軌道創業から10代目)・会長、近鉄グループの元代表者。