藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(… 藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(平成20年)7月7日)は日本の軍人。陸軍士官学校第54期卒業。最終階級は大尉。終戦直前、玉音放送を阻止するために陸軍将校たちが起こした「宮城事件」に参加した。 石川県金沢市出身。金沢第一中学校(46期)より東京陸軍幼年学校を経て予科士官学校を卒業(3期)し、近衛歩兵第1連隊隊附勤務。1940年(昭和15年)、陸士本科卒業と同時に南支に小隊長として派遣され、南寧にて右膊部貫通の銃創を負う。1941年(昭和16年)6月、内地に凱旋。以降初年兵教官、連隊旗手、大隊副官、中隊長を歴任。 1943年(昭和18年)12月に陸軍士官学校区隊長となり、58期生の教育を担当。
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森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年… 森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年11月19日)は、日本の政治家、陸軍軍人(中佐)。父は根上村長を務めた森喜平。長男は第85・86代内閣総理大臣の森喜朗。 石川県能美郡根上村(現能美市)出身。旧制小松中学、早稲田大学専門部法律科で学ぶ。大学時代はラグビー部の中心選手として活躍した。大学卒業後、京都市役所で勤務。その後石川県庁に移る。 日中戦争勃発により陸軍に召集され従軍(特別志願将校)。少尉時代に上海上陸から南京攻略戦、その後徐州作戦、武漢作戦と初期の激戦を一通り経験し、伝記にも載っている。週刊誌に取り上げられたこともある。 満州の牡丹江に駐留していた歩兵第7連隊第9中隊長時代、部下に丁来赫(チョン・ネヒョク)が居た。
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浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 -… 浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 - 2001年〈平成13年〉11月18日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、実業家である。航空自衛隊では第5代航空幕僚長を務めた。最終階級は陸軍中佐(大日本帝国陸軍)、航空幕僚長たる空将(航空自衛隊)。 石川県石川郡三馬村(現・金沢市内)出身。1927年(昭和2年)金沢第一中学校卒、1928年(昭和3年)陸軍士官学校に入学。 1932年(昭和7年)に陸軍士官学校第44期を全兵科315名中を28番(歩兵科では13番)の成績で卒業する。同年10月25日、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊第10中隊附(第10中隊長は竹内章雄大尉・27期)となり、のち第51代の聯隊旗手を務めている(歩兵第7聯隊編纂『聯隊歴史』)。
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辻 政信(つじ まさのぶ、1902年〈明治35年〉10月11… 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年〈明治35年〉10月11日 - 1961年〈昭和36年〉4月以降消息不明)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜(いわゆる軍刀組)。軍人としての最終階級は陸軍大佐。 ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と当時においては讃えられていた。 その一方で、指揮系統を逸脱した現場での行動、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。 敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。
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佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月… 佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。 1914年(大正3年)に金沢第一中学校(中学校同期には海軍少将中堂観恵(海兵44期)・海軍大佐橘正雄(海兵45期)が在籍した)を卒業し陸軍士官学校へ入学、1917年(大正6年)5月、官報によると第29期を257番/536名の成績で卒業。このクラスからは1番の河村参郎(中将、第224師団長)、3番の有末精三(中将、参謀本部第2部長)、6番の後藤光蔵(中将、第1総軍参謀副長)、11番の鎌田銓一(中将、第2野戦鉄道司令官)、27番の稲田正純(中将、第16方面軍参謀長兼西部軍管区参謀長)、46番の額田坦(中将、陸軍省人事局長)など昭和の陸軍を牽引した多くの人物を輩出している。
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岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13… 岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。栄典は正五位勲三等功四級。 石川県金沢市千日町出身。金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校。中第18回生、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣・広瀬豊作と同級生)を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(第42期)を63番/117名で卒業。 1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官し防護巡洋艦「須磨」乗組。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1921年(大正10年)12月、駆逐艦「桂」乗組となる。 1922年(大正11年)1月、臨時航空術講習部部員兼横須賀海軍航空隊付となり航空畑に転じた。
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青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月1… 青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士25期首席・陸大32期優等。 石川県金沢市本多町出身。金沢城内に駐屯する歩兵第7聯隊・青木織之助歩兵中尉の長男として生れる。父は旧加賀藩士で、略歴に神奈川県平民、足柄下郡真鶴町出身とあるがこれは誤りである。織之助は日清戦争に従軍し、1895年1月11日陣中にて没した。享年28。妻は「いと」で、1947年7月5日没。 石川県師範学校附属小学校、金沢第二中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)741名中を首席で卒業。
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藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月1… 藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月16日 - 1977年(昭和52年)3月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第38期卒業。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に石川県石川郡野々市村本町で生まれた。村長・石川県議藤村理平の子。先祖は平氏か源氏か藤原氏かは定かでないが富樫氏に家老として仕えていた古い武士で、加賀一向一揆で滅びた後は帰農し、江戸時代には野々市郷の名主庄屋だったという。前田藩の参勤交代の際は小休所で、名字帯刀を許されていた。苗字は「小藤屋」であったが、明治維新を機に「藤村」と改めた。 生母の多美は生後間もなく亡くなり、圭に育てられる。
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草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉… 草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉9月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校24期。最終階級は海軍中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。 1892年(明治25年)9月25日、住友本社理事・草鹿丁卯次郎の長男として東京で生まれる。本籍は石川県。草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族である。 石川県師範学校附属小学校を経て、大阪天王寺中学校を卒業。 草鹿龍之介著「一海軍士官の半生記」によると石川師範学校附属小学校時代には、陸軍中将青木重誠(陸士25期首席)と同級であり成績は草鹿が1番で青木が2番だったと回想している。
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中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月1… 中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月15日 - 1939年(昭和14年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岳父は陸軍砲兵大佐 藤室松次郎(陸士旧8期)。功二級。 石川県出身。中村三雄の息子として生まれる。金沢第一中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる。1920年11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス大使館付武官補佐官、陸大教官、参謀本部部員、歩兵第18連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、イタリア大使館付武官、参謀本部部員兼軍令部部員、第12師団参謀長、参謀本部通信課長などを歴任し、1939年3月、陸軍少将に進級。
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田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 19… 田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 1949年7月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧加賀藩士・陸軍中佐、田辺盛親の長男として生まれる。松山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第49連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員、第16師団参謀、参謀本部員、陸大教官、フランス出張、歩兵第61連隊大隊長、参謀本部員、陸軍省整備局課員、陸軍歩兵学校教官、整備局動員課長、歩兵第34連隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍少将に進級し陸士幹事となる。
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草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月… 草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。 石川県にて誕生。父は弁護士草鹿甲子太郎。草鹿家は大聖寺藩(加賀前田家の分家)に仕えた一族であった。叔父である実業家草鹿丁卯次郎の長男が草鹿龍之介(海軍中将、海兵41期)、三男が草鹿浅之介(最高裁判所判事、弁護士)である。 金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に通学していた頃は、叔父宅(龍之介の家)に下宿をしていた。金沢一中(第13回)を経て、四高に進んだが退学し、海軍兵学校(37期)に入校。志望者3,7000名余りの中で3番で合格した。
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菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月… 菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月8日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍静岡県。熊本区(現熊本市)で陸軍砲兵中佐・菰田安節の長男として生まれる。金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を7番/418名の成績で卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を卒業。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を優等で卒業した。 1919年(大正8年)4月、砲兵大尉に昇進し参謀本部付勤務となり、参謀本部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)などを経て、1924年(大正13年)4月、砲兵少佐に進級。
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三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月2… 三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月27日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県生まれ。1905年(明治38年)3月、金沢第一中学校(12回)を経て、同級生の役山久義らとともに陸軍士官学校(陸士)へ合格。同級生83名から陸海軍の軍人を選んだものが、20名に及ぶ。 1907年(明治40年)5月、陸士(19期)歩兵科を卒業。19期は、日露戦争における下級将校の不足を補うため、一般中学から大量採用された珍しいクラスである。このクラスから後に5人の大将(塚田攻、今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一)が誕生する。三浦の卒業成績は62番/1,068名。
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蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 195… 蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。
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角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915… 角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915年3月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。1915年3月1日極秘任務遂行中に千葉県沖で汽艇の沈没事故により死亡。 石川県出身。1881年9月金沢市 金石味噌屋町の医師角田元伯の長男として生まれる。石川県尋常中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を188人中13番の成績で卒業。翌年9月、海軍少尉任官を待って金田ケン子と結婚。妻は(一般女性を対象とした日本初のミス・コンテストと言われる)時事新報社の令嬢美人コンクールで全国2位の経歴を持つ。 日露戦争では軍艦「鎮遠」乗組み殊勲を挙げ、1905年には中尉となる。
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阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24… 阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24日 - 1953年〈昭和28年〉9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期(恩賜)、陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。 予備役編入後、内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第59代)、翼賛政治会総裁(初代)、貴族院議員、朝鮮総督(第9代)を歴任した。 石川県金沢生まれ。父は旧金沢藩士・阿部信満。東京府尋常中学校を経て、第四高等学校に進むも中退し、陸軍士官学校に進んで陸軍砲兵将校となる。陸軍少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長の要職を務め、陸軍中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して陸軍大将に親任された。
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市川 堅太郎(いちかわ けんたろう、1870年9月10日(明… 市川 堅太郎(いちかわ けんたろう、1870年9月10日(明治3年8月15日) - 1925年(大正14年)2月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県金沢市で知行100石の旧加賀藩士の家に生まれる。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業。翌年3月、歩兵少尉任官。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。参謀本部勤務となる。 日露戦争に第4軍参謀として出征した。1908年(明治41年)12月、第2師団参謀長に就任し、1909年(明治42年)1月、歩兵大佐に昇進した。1912年(大正元年)11月、歩兵第9連隊長となる。1914年(大正3年)11月、陸軍少将に昇進し歩兵第7旅団長に着任。
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三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(18… 三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 1949年11月30日)は、石川県出身の日本の陸軍軍人・政治家(貴族院議員)である。階級位階勲等功級は陸軍主計中将従三位勲一等功四級。宇垣一成陸相の下で宇垣軍縮を断行した陸軍省経理局長である。 能登国鹿島郡笠師村(現石川県七尾市中島町地区)に生まれる。兄には石川県会副議長となった三井亥三郎などがいる。 陸軍士官学校本科を卒業(士官候補生第6期)し、明治28年(1895年)に陸軍歩兵少尉に任じられる。その後、陸軍歩兵大尉となり、近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる。明治35年(1902年)には、歩兵科から経理部に転科し、陸軍一等副監督(大尉相当官)に転ずる。
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岩倉 久米雄(いわくら くめお、1865年(慶応元年) - … 岩倉 久米雄(いわくら くめお、1865年(慶応元年) - 1923年(大正12年))は明治時代の日本の陸軍軍人。父は加賀藩士の岩倉頼信(与力、200石)。母は同藩士松川清之丞の娘寿々。 「九、はだし詣り或日の夕方、東京から電報が着くと父と母とは真青になって驚いたが翌日の夕方から父は毎夕うら寒い晩秋の土を踏んで洗足で何処へか出掛けた。私はその理由が分らず、屡々母にたづねたが、一向教えてはくれなかった。後で聞けば士官学校入校中の兄が急性肺炎で衛戍病院に入院中の所到底快復の見込みがないとの通知があったので、父が七日間、兄の氏神である神様に願掛けに出たのであった。兄の氏神というのは金沢の東北端浅野川の小橋付近に在る俗に「タイの天神」という社神である。
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川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(… 川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(元治元年9月14日) - 1947年(昭和22年)11月22日)は、日本海軍の軍人。海軍中将正三位勲一等功三級。宮中顧問官。
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石橋 甫(いしばし はじめ、文久2年7月2日(1862年7月… 石橋 甫(いしばし はじめ、文久2年7月2日(1862年7月28日) - 昭和17年(1942年)1月11日)は、日本の海軍軍人。日清戦争では初代連合艦隊旗艦「松島」航海長、日露戦争開戦時は防護巡洋艦「高砂」の艦長、高砂の触雷・沈没後は仮装巡洋艦「亜米利加丸」の艦長。最終階級は海軍中将。従三位勲二等功四級。石川県金沢市瓢箪町出身。海軍随一の航海長であった。 ※日付は明治5年まで旧暦
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井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年… 井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年8月12日) - 1924年(大正13年)3月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。予備役後は衆議院議員を2期務めた。 安政4年8月12日、加賀藩士の切米3俵の中間井上栄信の次男として現在の金沢市で生まれる。1872年、海軍兵学寮に入学する。1874年の台湾出兵では高尾丸に、1877年の西南戦争では筑波に学生の身分で乗船した。1878年7月、海兵を卒業する(5期)。1881年、海軍少尉に任ぜられる。 各艦で海上勤務のほか、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)には海軍兵学校航海術教官となる。日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。
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林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政… 林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政3年10月15日) - 1914年(大正3年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 能登国鹿島郡中挟村(石川県鹿島郡徳田村を経て現七尾市)で、林太郎平の三男として生まれる。1876年(明治9年)石川県師範学校を卒業し、鹿島郡内の小学校で教員として務めた。1877年(明治10年)4月、陸軍教導団に入団し、1878年(明治11年)10月、歩兵科を卒業し軍曹に任官して大阪鎮台に配属された。1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業し 歩兵少尉に任官。1882年(明治15年)1月、歩兵第8連隊付となる。1886年(明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を卒業。
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大石 正幸(おおいし まさゆき)は、日本陸軍の軍人(陸軍士官… 大石 正幸(おおいし まさゆき)は、日本陸軍の軍人(陸軍士官学校第30期)。最終階級は憲兵大佐。1941年(昭和16年)に第2野戦憲兵隊長としてマレー作戦に参加、1942年(昭和17年)2月、シンガポール占領後のシンガポール華僑粛清事件で市内の粛清を指揮したことで知られる。1947年(昭和22年)4月、同事件のBC級戦犯裁判で死刑判決を受け、同年6月にチャンギ刑務所で刑死。 1947年(昭和22年)4月2日、シンガポール華僑粛清事件で死刑判決を受け、同年6月26日、チャンギ刑務所で刑死。 辞世の句「心には かげやどすべき ものゝなし おのずからなる さだめと思へぱ」 事件当時、第2野戦憲兵隊の分隊長だった大西覚の回顧録によると、河村参郎中将(陸士29期首席)・大石憲兵大佐はむしろ粛清に反対したが、命令の当事者であった辻政信参謀(陸士36期首席)が逃亡中だったために、責任をとらされて処刑されたとしている。
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ハインリヒ・ヴィルヘルム・ヘルベルト・ヴォールファールト(H… ハインリヒ・ヴィルヘルム・ヘルベルト・ヴォールファールト(Heinrich Wilhelm Herbert Wohlfarth)は、ドイツ海軍の軍人。第二次世界大戦で活躍したUボートの指揮官のひとり。 1915年6月、日本の石川県金沢市に生まれる。父は金沢の第四高等学校(現・金沢大学)でドイツ語を教授していたエルンスト・ヴォールファールト(Ernst Wohlfarth, 1873年 - 1956年)。父のエルンストは1902年から1921年まで約20年間にわたって四高に勤務し、小田切良太郎とともに和独辞典『新訳註解和独辞典』(1912年刊)を編纂している。この辞書は日本初の本格的な和独辞典と評され、好評とともに広く普及した辞典であった。
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